2008年4月1日火曜日

手記 我が人生に悔いなし 七

中村節子
○ 吟詠寿司店
昭和四十八年、八日町の明治薬館は閉店となった。その理由については私は知らない。跡地には長崎屋のビルが建った。
 最上先生達は十八日町に仮住まいとなった。教場は八戸駅(現本八戸駅)通りの千秋寿司店と決まった。千秋寿司店は、翠風会会員の大橋さんと小形さん姉妹が経営している。
 店の二階は八畳二間続きの部屋があり、私達は店にお客が居ても大声で吟じた。下に響いた吟声がお客に受けが良いのだそうで、時々「詩吟を聞かせて下さい」と二階に上がって来るお客もいた。
 又、漢詩の詩文を半紙に四文字づつ書いたものを、カウンターの上の鴨居にのれんのようにずらりと貼りつけ、吟詠寿司屋と言われるようになった。宴会の予約があって部屋を使えない時は、駅前近くの田端さん宅とか、八戸グランドホテルの社長宅とか、会員さんのご自宅をお借りすることもあった。
 吟詠寿司屋は四~五年続いたが、大橋・小形姉妹は店を閉めて東京へ引越していった。現在店は取り壊されて跡形も無い。確か野々口整形外科医院の駐車場の近くだったと思う。その後教場は大工町の守屋さんのお宅に変わった。
○ ずうずうしい男
吟詠寿司店(千秋寿司店)に四十代男性の入門者があった。Bさんの紹介でNさんと言った。「会社が終わったあと暇なのでついつい酒を飲む、これではいけない、何かやらなければと思っている時、上徒士町で詩吟の看板を見た。行ってみようかと思っていた時に、Bさんに紹介されてこの教場に来ました。」
 上徒士町には故中山岳粋先生のお宅がある。中山先生は八戸吟道会の会長で平成三年頃に亡く  なり、同時に八戸吟道会も無くなった。
 当時は翠風会と八戸吟道会はライバルであった。「上徒士町へ行かず、よくぞこちらに来てくれました。」と最上先生は大歓迎した。
 稽古が始まった。「どうぞ一緒に声を出して下さい。」合吟のあと全員が独吟をして最後に「どうぞNさんも声を出してみて下さい。」「えっ?今日来たばかりなのに、一人でやるんですか?」思い切ってどうぞ」「とんでもない。できませんよ」「遠慮しないでどうぞ」「遠慮なんかしていません。いくらなんでもひどいですよ。初めて来たのに」「最上先生に一番近い所にすわっていた女の先輩が「どうぞ思い切ってやったほうがいいですよ」その隣の女が「そうです。せっかく来たのですから」さらに隣の若い女が「そうですよ。せっかくですから」「できません!」
 初めて来たのに何と横柄でずうずうしい人だと思った。詩吟の世界では「どうぞ声を出してみてください」と言うのが歓迎したことになり、仲間になったことを意味するのである。ところがNさんにしてみれば「初日にいきなりやってみろとはひどい。先輩達も一緒になってやれやれとは。せめて若い女が今日は初めてだから無理しなくてもと、かばってくれるかと思ったら一緒になってやれやれとは何となまいきな女だ。」と思ったのだそうだ。
 確かにもっともだと思った。次の週も、その次も教場に来たけれど、合吟だけで一人で声を出すことはなかった。
 ある日いよいよ独吟することになった。教場は「コの字」に座っていたので、皆の顔が見えると恥ずかしいと言って後ろ向きになり皆に背を向けて独吟した。ハンカチをクシャクシャにして汗をふきふき吟ずるのである。私はおかしくてたまらない。笑いをこらえるのに必死だった。
 年が明けて昭和四十九年一月。八戸グランドホテルで初吟会があった。必ず全員が独吟をするのである。発表の順番は新人からである。従ってNさんが一番であった。司会係の先輩が「Nさんが一番に独吟ですよ」と、会が始まる前にNさんに知らせた。「とんでもない。何で俺が一番にやらなければならないのですか。まん中辺にして下さいよ」「新人が先にやるんです」と言ってもイヤダとダダをこねた。ずうずうしい人だなあと思った。
 しかたがないので司会者は二番の人から始めた。私の番が終わった頃に後輩の文子さんが遅れて来た。「すみません、遅れまして。今何番の人がやってますか?次に私にやらせて下さい。」これを聞いたNさんは驚いた。すごい女がいるもんだと。すごいのではない。あたりまえのことなのである。Nさんはルールを知らなかったのである。吟を発表するときは、新人は先、先輩は後ということを誰も教えていなかったのだ。知らないときは先輩の言う通りにすればいいのに、そこがずうずうしい男なるがゆえであろう。
 このずうずうしい男が現在の夫であり、なまい  きな若い女と思われたのが私である。
 この初吟会を最後に、最上先生は後事を高弟の月舘雄岳氏に託し、鎌倉へ引越したのが四十九年の中頃であった。
翠風会から雄風会と会名が改められ、会長月舘雄岳先生の指導がスタートした。
○ 湖上結婚式
ずうずうしい男となまいきな女と、お互いに第一印象の悪かった二人が五年後に結婚することになった。
夫は十和田湖畔で生まれた。国立公園十和田湖をこよなく愛していた。今まで一つの夢を持っていたことも語った。それは、すばらしい十和田湖で湖上結婚式を企画演出してみたいということなのだ。夫には兄弟も多く甥も姪も沢山いる。湖上結婚式の企画を話すと「それはすばらしい」「それはよいことだ」「その時はオジちゃんよろしくたのみます」等々言っておきながら、いざ結婚が決まると皆に逃げられてしまった。「雨が降った  らどうするの?」というのが一番の理由であった。
絶対雨が降らないという保証はないが、かと言って雨が降ると決まったものでもない。
すばらしい企画なんだけどなあ。誰も同調してくれない。甥も姪も大方結婚してしまったしなあ…と夫になる前のずうずうしい男は嘆いた。
「自分の結婚式をやればいいじゃないの。雨が降ったって誰にも恨まれることも無いんだから」と私は言った。
「エッ?本当に本当か?許してくれるかなあ」と私の母のことを気づかった。
湖上結婚式は、遊覧船をチャーターして式はもちろんのこと披露宴も船上でという企画である。母は「映画スターでもあるまいに」と難色を示した。さらに披露宴も船上だから折り詰めのような形式になると聞いた途端、大反対と怒った。そこで式だけ船上で、披露宴は船から降りて普通にということで納得してもらった。
媒酌人は夫の叔父であるホテル十和田荘社長  にお願いして、披露宴も十和田荘と決まった。
期日は紅葉も終わり十和田湖の観光シーズンも終わる頃、いわゆる十和田湖の忙しい時期を避けて十月二十六日とした。詩吟の仲間に招待状を直接手渡したら、ウソォ、マサカと言われてしまった。
さて、いよいよ当日である。朝から晴天。八戸方面からの出席者は貸切バスで奥入瀬渓流を通った。この年は例年より紅葉が遅れ、この日は最高の美しさであったという。
私は前日から宇樽部の東湖館(夫の妹の経営)に泊まり仕度に備えた。チャーターした遊覧船は宇樽部の桟橋から出発。バスの人も地元の人も全員乗船した。十和田湖の遊覧船は双胴船だから揺れが少ない。
夫と交際のあるご寺院の和尚様が五人来て下さって、船の特別室で仏前結婚式を挙げた。美しい紅葉をながめながら船はゆっくりと進み、一時間ほどで休屋に着いた。船から降りた時、近くにいた観光客が「おめでとう」「おめでとう」と声をかけてくれた。この後、十和田荘にて披露宴となる。
昭和五十四年十月二十六日のことである。美しい紅葉とすばらしい秋晴れの十和田湖であったことを再度記す。
夫の友人で「文化通信」という雑誌を出版している人がいる。横田さんという。横田さんを結婚披露宴に招待しなかったのだが、誰かから聞いたらしく、次のような記事が文化通信に載った。
「美しい紅葉の十和田湖で湖上結婚式。こともあろうに新郎新婦共に五十過ぎの再婚同志」と。招待されなかった恨みか。夫は五十三歳再婚であるが、私は三十八歳初婚である。
○ のれん
夫の趣味は水墨画である。最も得意とするのは、十和田湖の風景と「だるま」である。その趣味を生かして「のれん」を作り結婚の記念品にしたいと考えたのである。十和田湖の画に、私の父の趣味の俳句で画賛した構図の「のれん」である。父がいつの頃から俳句を始めたのか定かではないが、三十九年間奉職した国鉄時代に、どこかの駅の俳句クラブに入ったのが始まりであったと聞いたことがある。
 そこで「のれん」のことは秘密にして「十和田湖を詠んだ句があったら貸してほしい」と頼んだ。その時は何か仕事をしていて忙しかったらしく「沢山あるけど今は出せない」と、あっさり断られてしまった。
 「私ので良かったら」と、そばに居た母が高齢者教室で詠んだ二枚の短冊を出した。その様なわけで「錦わけ白布を垂らし滝の秋」と詠んだ母の句で「のれん」ができ上がってしまった。
 結婚式披露宴の席上で「のれん」を披露したとき、「ヤッター」というような母の顔と「シマッター」というような父の顔、対照的な二人の顔を今でも思い出す。この時、「のれん」の俳句を私が朗詠したわけだが、私が父の前で詩吟をしたのは、あれが最初で最後であった。