2008年4月1日火曜日

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 6

前号で昭和四十年代の武輪水産の置かれた位置を見たが、助子の赤字を出したあたりは、八戸の水産界は好景気の渦中にあった。
ところが、武輪水産は助子の着色の亜硝酸は体に悪いと使用を中止。問屋がこれに難色を示し、在庫の山となる。資金繰りが悪化し、金策に奔走中に労働組合が出来る騒ぎ。
踏んだり蹴ったりの様相。これは武輪氏が東北の旗頭となり、業界を健全な方向へと導こうとした結果が逆目となった。
無一物から東北一の水産加工業者となったことが、こうした業界を揚げての健康食品への舵取りをさせた。
ところが業界というのは頑迷で、簡単に東北一の加工屋の言うことに耳を傾けない。何を言っているんだぐらいのことしか考えていないのだ。
そもそも、亜硝酸塩は亜硝酸がヘム鉄に配位して鮮赤色を呈するので、ソーセージなどの食品添加物として利用された。鮮やかな色の赤に刺激されタラコはこうしたものだとの先入観が消費者にあれば、これを払拭するには多くの時間と宣伝が必要になる。
それを体に悪いから止めるでは、ナマの助子の色だけで本当に消費者は付いてくるのかの疑問が取引業者にはあったのだろう。
八戸の水産界の助子の取引量には変化がない。つまり武輪水産だけが先走った結果だった。商人は利益を挙げてこその企業。理念、理想は教育者・政治家の言うことで、商人、加工業者の目指すところではない。しかし、順風満帆であった武輪氏は健康こそ世の大命題と捉えたのだろう。
そして、この考え方は間違いなく、現今は無農薬の野菜・米を求める人々が増加。武輪氏は三十年も先を読んでいたのだ。しかし学者や預言者ならともかく、商人は時代を先読みすれば滅びる。滞貨の山となれば、血であるところの金が廻らなくなる。世の中は人・物・金の三つが廻らなくなると倒産する。
武輪氏は労働組合の人・滞貨の山の物・血の金の三つにつまずいた。しかし、武輪氏の言うことに間違いはない。時代が早すぎただけと金融関係も支援し、急場をしのぎ、赤字を三年で克服する強靭な面を見せる。しかし、払った授業料は大きかった。
 そして五十年代は難問の二百海里に直面
 武輪水産の五十年史を見ながら解説。
 昭和五十年度の営業概況にも原魚の価格は平均魚価に於て前年比いか五七%高、鯖六二%高、助宗一八%安で、いかに於ては塩辛を除き珍味製品は韓国物の安値に押されて内地物の市況は冴えず、鯖はフィレ、味淋干ともに人気なく原魚高の為採算を取る事が困難であり、代る商品として一夜干し味淋、〆鯖等の研究をなし順次軌道にのせつつあります。此様に今八戸の名産となりました〆鯖の生産を此時点で始めて居ります。助宗は魚価、数量ともに程々に推移し、生すり身、生子の販売は好調で、我社の伝統商品の一つである塩辛と共に最も高い収益をあげる事が出来ました。
 昭和五十三年度の営業概況によりますと、やや恢復の兆を見せた日本経済も円高によるデフレ効果が産業界に対し次第に圧迫の度を強め、不況から脱出を困難にして居り、消費経済全般の延びも見られない状況でありました。水産業界に於ても消費地市場の取扱高は金額、数量ともに微増に止まり、中には減額を呈したものも見られる等、近年になく沈滞ムードに支配された市況で、更に今年は二百海里漁業専管水城実施の影響が現実の姿となって現われ、北方水域に於ける底曳漁業の如きは潰滅的打撃を受け原料面に於いても非常に困難な状況に直面したのであります。当期の経過を概観致しますと、いかについては、するめいかはここ数年の傾向通りの最低の漁権高で価格は加工用として使用出来る眼界を越えて居り、これの代替品としての紫いかは十二万tと言う水揚げがあり、珍味原料やロールいかとして加工原料にクローズアップされてきました、鯖は秋口から好漁に恵まれ、鮮魚並びに、はまちの餌料として旺盛な需要があり、例年にない収益をあげました。助宗は北転船による水揚げは前年の二〇%と言う有様で一部得意先と自家練製品の原料向けに止まりました。今期決算は普通償却約五千万円、特別償却約二千万円を償却し経常利益約三千万円でした。
 (第三の谷間)
 昭和五十四年度は二百海里漁業専管水域の実施による影響は北海道、東北の漁業基地に於ては益々深刻な様相を呈して参りました。特に八戸に於きましては、北洋助宗の潰滅は業界に大きな打撃を与え我社に於てもスリ身、紅葉子、生子等の助宗関係の売上が激減し、ニュージーいかの水揚げがあったもののいか全休の水揚げが少なく、大漁のあった旋網鯖も大型の為鮮魚出荷を中心にし、加工ヘの切り換が遅れ、償却丈は満額計上したものの不本意な成績に終りました。此の為鯖対策として、第三冷蔵工場を農林漁業金融公庫と青森銀行の協調融資により着工、昭和五十五年度初めに完成、盛漁期に備え、凍結と原料の備蓄に活用すべく期待したのですが、昭和五十五年度並びに昭和五十六年度共、秋の盛漁期に於ける鯖漁は魚群の組成が大型主体であったため鮮魚出荷は大幅に延びたものの、加工用の小型、フィーレ型の水揚が少なく加工原料の確保に苦心致しました。然しフィーレ、〆鯖は二五%強の売上げ増を見、鯖関係の利益貢献度は少なからぬものがありました。
 昭和五十六年度に於けるいか関係については太平洋側に於ける近海するめいかの豊漁、ニュージーいかの過剰在庫、輸入いかの供給過多等のため魚価は暴落し、原料安によりサキイカは可成りの数量を拡売し往年の実績をいささか回復致しましたが、いか製品中の中核商品とも言う事の出来る塩辛が量、金額ともに若干減少した事は残念でした。以上の状態で昭和五十四年度より昭和五十七年度迄連続四期低調な採算に終りました事は誠に残念な事であります。此四年間の成績不良の一因として第二次エネルギー危機の影響もあります。即ち産地高の消費地安と言う市況の逆転現象、電気及び燃油等の大幅な値上げ、人件費、副資材、運賃等の高騰と言う悪条件が重なった結果とも言えます。
 昭和五十八年度は更にきびしく、漁業専管水域に対する沿岸諸国の締めつけ、海流異変による近海漁業の漁獲高の減少により魚価の高騰を招き水産加工業界の経営は困難の度を増しました。鯖につきましては鯖加工品中〆鯖は昭和五十七年度非常な好評を博し、六月には備蓄原料も底をつき得意先の需要に応ずる為、止むを得ず他社、他地方産の原料を使用して出荷を続けました。今期は前年の苦い経験に鑑み、充分な原料を確保すべく秋の盛漁期に原料魚の買付けに当たりました、処が今期の鯖は其組成が〆鯖、フィーレ等に適した型が非常に少なく、大型と小型(缶詰、はまちの餌料、魚粕原料向け)に二大分され、加うるに総水揚高が前年の三削減と言う貧漁となり魚価は高騰致しました。為に加工用原料を手当する事は困難となり、〆鯖は例年からすれば一廻りも二廻りも下のサイズを使用して加工致しましたが、販売は伸び悩み年間の販売額は前年比四割もダウンしました。鯖フィーレについても同様な事情であり、従って加工用原料として備蓄した原魚の大半はデッドストックとなり、小型鯖を使用する缶詰業界の輸出不振もあって、小型鯖を見切り販売すればKg当り四〇円から六〇円も逆鞘になると言う有様で、期末の七、八月には各月三、〇〇〇万円の赤字を出す結果となりました。(今から思いますと、五、六年魚と一年魚の混じりで中間の産卵が何等かの原因で少なかったのではないか、此時既に現在の様な乱穫の為、急速に資源の減少につながったのではないかと思われます)いかについても魚価は船凍するめいかをはじめとして、NZいか、紫いかも総じて高値に経過し、そのため主力製品たる塩辛の祖利益率も低下し、叉紫いかを原料とするいかロールは三陸筋のダンピングもあって市況は安値に支配され原価で販売しても尚赤字が出る状況でありました。
 以上のいか鯖の主力加工商品の不振が今期減益の主因となり、実に他の商品に於ても消費地市場の不況から原魚高の製品安と言う状況で、今期の加工品の平均租利益率は前期の一五%に対し、一〇%と下る結果となりました。此の為め今期は約一億三千万円の損金を出すに至りました。之が第三の谷間でした。
水産加工業者と漁業家は不即不離の関係にあり、魚がとれなくなれば加工屋も困る図式。
二百海里問題で日本は困った状況が出た。どうしてこの二百海里問題が発生したのか魚市場史から見てみる。
昭和四十年ごろから秋になると、八戸沖の日本領海近くにソ連の漁船団が出没し始めた。ソ連漁船団は昭和三十年ごろから北海道海域へ出漁していたといわれるが、次第に南下し始めていた。最初は一万㌧級の母船と二~三百㌧級の独航船二十隻程度で、サンマ棒受け網漁をしていた。鮫角から六海里辺りで操業し、陸地から肉眼でもはっきりと見ることができた。
 ところが昭和四十五年ごろになると、母船、巻き網船、トロール船、タンカーなど合わせて六十隻の大船団に膨れ上がり、八戸から三沢沖へかけてズラリと並ぶに至っては穏やかではない。しかも、日本では資源維持のためにトロール漁法を禁じている海域での操業とあっては、なおのこと漁民の気持ちが治まらない。だが操業位置が領海三海里の外であるので領海侵犯とはならない。こうした状況の中で日本漁船とのトラブルが発生し始めた。特に、八戸沖で四百隻前後のイカ釣り漁船の操業海域と重なっていることから「シー・アンカーを引っ掛けられ三十分も引きずられた」とか「イカ釣り針をもぎ取られた」という騒ぎ。中には転覆寸前まで追い詰められた船も出て「転覆事故が発生したらだれが責任を取るのか」と激高するありさま。その被害も数億円といわれ、漁業者が「緊急対策会議」を開き、ソ連大使館に厳重な抗議を申し入れた。ちょうど中国の国運参加、沖縄返還、陸上自衛隊八戸駐屯地のホーク部隊常駐問題など複雑な世界情勢の中、「漁船でカモフラージュした情報収集」といううわさも流れ、ソ連女性の水死体が発見されるとソ連側では該当者無しと突っぱねたりで、毎年秋になると漁民はソ連船団に悩まされ続けた。
 こうしたソ連漁船団と日本の沿岸漁民のトラブル防止のため、昭和五十年六月六日に「日ソ漁業操業協定」が調印され、損害賠償請求も出されたが、ほとんど実効はなかった。
 このソ連漁船団の出現は、実はソ連の厳しい食糧政策と関連があったのである。ソ連は農業生産や畜産が低迷し、その打開策として、漁業生産の強化を打ち出していた。昭和三十六年から漁業振興計画が立てられ、第二十二回共産党大会でのミハイロフ論文にはこう述べられている。「漁業に資本を投下することは農業に比べて資本を効果的に利用する方法であり、海洋を開発し、新しい漁業、魚種を求めることはわれわれの義務である」。ソ連はこうした論理で世界の海に進出して行った。多くの海域で大型船の操業によって海洋占有の実績をつくりつつ、一方では「海国ソ連」を誇示するのがその世界戦略でもあった。
 ソ連の漁船団は太平洋、大西洋、バルト海、北氷洋、インド洋と全世界にカマとツチの赤い旗をなびかせながら漁獲量を増やしていった。
 こうした動きは折から台頭しつつあった「二百海里経済専管水域」とも複雑に関連し、世界は一気に二百海里時代へと突入していくのである。八戸沖に毎年出没したソ連の漁船団は二百海里時代の到来を予告する「黒船」でもあったのだ。
二百カイリ問題の経緯
 昭和十三年、アメリカ・ルイジアナ州沖のメキシコ湾大陸棚で、海底油田の試掘が成功した。それがきっかけとなって、第二次大戦が連合国側の勝利に帰した昭和二十年、アメリカのトルーマン大統領が待ちかねていたように、水深二百㍍までの大陸棚を自国の領有とする「トルーマン宣言」を行った。これがきっかけで、海洋再編の動きが始まったのである。
 昭和二十七年、李承晩軍事ラインが引かれ、同じ年にペルー、チリ、エクアドルの三国による二百海里領有のサンチャゴ宣言がなされるなど、多くの国の複雑な動きが続いていたこうした状況を収拾し、共通のルールを作ろうというのが海洋法会議の開催であった。昭和三十三年には国連主催による第一次、次いで三十五年には第二次の海洋法会議が開催されたが、各国の利害が対立し、合意に達することはできなかった。この時点においては、議論の中心は三回海里説と十二海里説の対立であって、領海二百海里説は例外的な意見でしかなかった。
 ところが、昭和四十九年のカラカス、翌年のジュネーブでの海洋法会議までの二十余年の間に世界情勢は大きく変わっていた。かつては大国が国連を動かし、世界世論を左右していたが、アジア・アフリカ諸国が国際社会に大きな発言力を持つに至ったのである。これらの国々の多くは貧しく、近代国家として大きく立ち遅れていた。彼らは先進国の資源と富の独占を阻止するために強烈な主張を始めた。カラカスの準備会議があった昭和四十七年のアフリカ諸国ヤウンデ会議で二百海里経済専管水域が提案され、熱烈な拍手を浴びたのであった。経済専管水域(エコノミック・ゾーン、略してEZ)という耳慣れない言葉に問題の本質の変化をうかがうことができる。
 領海とは、言わば領土の延長であり、侵犯は許されない。しかし、経済専管水域では沿岸国は一定の水域内で天然資源の探査、保存、管理、開発について「主権」と「排他的管轄権」を有するというものである。したがって、海上の通常の航行までも規制するものではない。海底資源までを含めて管轄権を有するという、この二百海里(EZ)が多くの国に支持され、海洋法会議の主流を占めていったのもまた当然である。昭和五十一年のニューヨークの海洋法会議でも合意を得るには至らなかった。しかし、二百海里EZは完全に世界の大勢となっていた。海洋法会議での合意を待たずに、一方的に二百海里宣言を行う国が続出した。これは途上国だけではなかった。五十二年の年明けとともにEC、カナダ、ノルウエー、二百海里に反対していたソ連やアメリカも、二百海里EZであれば航行上の制約はなく、世界戦略上支障なしと三月になって同調した。むしろ、世界世論の反発を恐れたのである。こうして世界はなだれるようにして二百海里時代に突入した。
 世界一の水産国日本は最後まで世界世論を読み切れず、エクセプト・ワン(ただ一国のみ反対)といわれ、孤立していた。そして、事実上二百海里時代に入ってから、日本も同年四月、遅ればせながら二百海里宣言をしたのである。この時から日本漁業は苦悩と試練の中に立たされたのだった。
魚が獲れなくなる。漁業家と不足不離の水産加工業者もこの問題を避けては通れない。妙なのは難問が出ても、一度や二度はその後、巧く運ぶのが世の常。しかし、次第に事態は厳しさを増す。日本有数の加工場を持つ八戸は、この問題をどう解決するのか、人々は智慧を絞る。置かれた環境の中、解決策を求めて人々が動くが、相手は世界、簡単に結論は出ない。出口は次第に狭まり、魚は確実に減少の一途。さて、当時の人々はどうしたのか。武輪武一氏の打った手は? 次号に続く