東北本線が第1区線から工事をおこして、次第に北に延びてはいくのであるが、すべてが順調に連んでいるというわけではないから、終端の青森県では、一日も早く県内に線路が敷かれるように持ちのぞんでいた。東北本線が山形の方に向かうかも知れないと岩手県では大騒ぎをしているころの19年1月11日、青森県令福島九成は、早く青森まで鉄道が敷設されるように県民の協力を望むという通達を出している。
「……鉄道会社資金ノ都合二依テハ今後幾年ノ遅延ヲ来ス哉モ計り難ク……其本県下二達スル期ヲシテ1日モ速カナラシムル様致シ度條比意ヲ体シ普ク示論致スベク比旨論達候事」
用地の買収、駅の設置、あるいは株金の応募などで協力をしようということであった。ところが、線路が塩釜までようやく開通したころに盛岡以北の第5区線が中止になるかも知れないような横槍が入ったのである。
軍部の反対で再び日本海側に第5区線八戸、野辺地、青森附近に建設することは国防上許されない問題であるという議論が軍部の間に持ちあがった。その理由は戦争があれば敵の軍艦から砲撃を受けやすいし、敵が上陸して逆に鉄道を利用することにでもなると東京は簡単に攻め落されるというものである。飛行機のない時代であるから、軍としては艦船に対する備えという問題で、海岸の鉄道に大いにこだわったのである。
もともと軍部は、新橋・横浜間の鉄道を建設するとき、強く反対したものである。品川の高輪附近の海軍用地に線路を通してはならないというので、海岸を埋め立てて用地を作った。「日本はたいした国だ。海の中に鉄道を敷かせる」とエドモンド・モレルを嘆かせたほどであった。それが、西南戦争の経験や外国の事例を研究するに及んで、鉄道は軍隊と切り離せない重要なものであることを認識しはじめた。こんどは鉄道建設に対して軍部が注文をつけるばかりか、軍の内部で鉄道の問題が論ぜられるようになったのである。
第5区線に対するような軍部の干渉は突然おきたものではない。東海道本線の建設に当り、最初計画したとおり中仙道沿いに線路を敷くことを軍部は強硬に主張した。いわゆる中仙道鉄道であるが、碓井峠と木曽渓谷が最大の難関であった。たとえ完成したとしても、ただ軍部が満足するだけで、利用者の少ない、産業経済にも益することのない価値の低い鉄道にしかならない。井上勝は改めて東海道沿いに建設することを主張した。軍部の巨頭山県有朋が納得するまで熱心に説き、更に総理大臣伊藤博文の了解を得て、廟議で決定していた中仙道をくつがえし、東海道線を実現したいきさつがあった。
このことから1年もたっていないのに、今度は東北本線に軍部の干渉があったわけである。軍部の鉄道に対する関心はますます強くなり、21年ごろはその頂点にあったといってもよく、鉄道に対しいろいろ軍事上の要求を主張していた。21年4月に参謀本部陸軍部は「鉄道論」という本を出し、最近の鉄道は軍事目的を忘れて利潤追求だけのものとなっていると述べているのが注目される。
井上鉄道局長官は軍部の意向を具体的に知るため、20年12月10日、一の関・青森間の線路について陸軍大臣に協議の書面を提出した。陸軍大臣大山厳は12月18日にこれに対する回答をよこした。
それによると三戸(青森県南部町)百石(ももいし、(八戸に隣接する太平洋岸の町)野辺地を経て青森に至る部分は海浜に面しているから戦時には敵軍に破壊されたり利用されたりするおそれがある。線路は海岸から遠く離すべきだ。例えば盛岡から田頭(でんどう)大館、弘前から青森に通ずる線路とすべきであるというものである。この路線は現在の花輪線経由奥羽線といった形に似ている。
鉄道局では両線の得失その他いろいろの理由をあげて説明したが、陸軍省では承知しなかった。すでに第3区線は完成して、第4区線、第5区線の測量も開始しており、工事開始は間もなくという情勢にあった。
21年春雪が消えても、工事開始の命令はなかった。第4区線に引き続き盛岡以北を担当することになっていた長谷川謹庶介技師などは、軍部なにするものぞといった勢でどんどん準備を進めていた。現場では工事が遅れており。ぼんやりまっているわけにはいかなかったから、軍部の圧力などどこ吹く風といったありさまだった。
こうなってしまうと、鉄道局長官井上勝にとって頼りとなるのは総理大臣伊藤博文だけということになった。21年4月18日総理大臣に対し「軍のいう路線は最初に調査し、今回も改めて調査したが、工事は甚だ困難で、ぼう大な金と年月を要し、そのあげく列車の速度は極めておそくなるし、営業費も増大する。
海岸に近いところはなるべく迂回するようにして着工しようとしたが、軍部は了解しない。鉄道というものは決して国防上からばかり考えてはならないもので、工事の容易なところ、収支價うようなところを選ぶということも考えなければならない。日本鉄道会社創業のときから、このような路線をとることになっており、資金や完成期日にも制約があるから、陸軍省の意向とは関係なく予定通り工事を始めたいと直接上申したのである。
4月25日申し出の通りやってよろしいという回答があった。第5区線は第4区線の着工より1か月おくれて、21年5月1日工事を開始した。盛岡・小繋間は第4区線に統いて長谷川謹助が、小繋・青森間は小川資源がそれぞれ工事を担当した。
まず、資材を小湊から陸揚げすることとし、小湊港から浅所(あさどころ)まで64チェーン0.03キロの線路を敷設した。
盛岡以北は高原で起伏の烈しい所が多く最悪勾配は1.000分の20.4である。鳥越トンネルは難工事であった。工事に従事した人の話が残っている。
「50間も堀ると中は暗く、100間も掘ったら空気も入らないので苦しくて仕事ができない。空気を送る機械などないから、1尺四方の杉の箱を作って昼夜兼行で空気送りをやった。…賃金は1日20銭ぐらいで米1升5銭のときであった。人夫は1日5回食事をし、夜業があればまた1回食事をした。まかないの人は朝から夜まで炊事に追われどおしだった」
第5区線は鉄橋も多く、屈曲の多い馬淵川などは12か所も鉄橋を要した。三戸から野辺地の近くまでは国道とも離れており交通不便の所が多かった。冬は積雪の期聞が長く、工事を進めるのは容易なことではなかった。
22年洪水があって、工事中の鉄橋や築堤などにかなりの被害があった。好摩の近くの松川鉄橋の工事中であったが、長谷川謹介のもとに大久保業という英国から帰ったばかりの新進技師が荒木という技手とともに小舟に乗って鉄橋を点検中、舟が転覆して濁流に呑まれともに殉職した。
大久保業は、かつて勝海舟と並ぶ幕府の重臣で、東京府知事となった大久保一翁の子であった。
工事の請負は鹿島組、吉田組、早川組などである。
長谷川技師は日詰から小繋までを受け持ったわけであるが、いつも馬に乗って現場を走り廻り大声で指揮をした。人家もない山の中で毎日働いている土工の気風は殺伐で、楽しみは酒とバクチしかなく、博徒との刃傷沙汰も絶えないといった日常であったから、荒っぼい土工を荒っぽいやり方で威圧するため馬に乗って駆け廻ったのだという。彼のもとに上利藤肋という酒豪で変り者の現場監督がいる。長州出身の元陸軍の佐官であった。前に述べたように、土工を取締るために鉄道局も請飯業者も骨っぼい用心棒を雇っていた。
小川技師の担当である尻内北方で派手ななぐりこみがあったという話である。
事故もかなりあったようで、小島谷附近ではトロッコが谷底に落ちて数人の死者を出した。
余談であるが、東北本線建設という大工事にはかなりの犠牲者があったはずである。従って慰霊碑などもあるものと思われるがほとんどというより全く見当らないのはふしぎだ。
工事を急いでも、完成は25年8月になるだろうという見通しとなり会社は23年12月15日政府に対し再び期限延長の請願をし、24年3月9日許可された。しかし、工事を急いだ結果24年9月までに完成している。
青森駅問題 青森県ではいよいよ鉄道の建設工事が行なわれることとなり、小湊から建設資材が運び込まれ、南北から工事が進められたが、青森町ではまだ駅をどこに置くかも決まっていなかった。石井省一郎、大森直輔、大阪金助等日本鉄道会社の大株主が青森附近大阪町、杉畑などの土地を買い込んだ。会社としては最初大阪町に駅を置く予定であったが、土地が高くなり買うことができなかった。青森県知事佐和正は停車場をどこに置くかは青森町の重大問題であるとし、23年8月7日青森町役場を通じ各町協議員を県庁議事堂に集め協議させた。この結果柳町と浦町の中間にある杉畑の青森監獄のある場所と決定した。監獄が町の真中にあるのは風教上よくないというので、監獄を野木村に移転しその跡に駅をつくることとしたのである。その後に一部有志者から練兵町脇に移すべきであるという意見が出て、栄町や安方町の有志者が請願書を提出した。会社側が柳町と交渉したところ、前日まで1反歩100円でよいといっていたのが、栄町移転運動員の策略で1反歩600円でなければだめだということになった。こうして停車場問題は混とんとして解決のめどがつかなかった。
そうしているうち会社側幹部にも強硬な意見がでてきた。野内川の鉄橋工事に金もかかるし、駅の位置も地価の点で折り合わないなら青森に駅を作る必要はない。小湊を終端駅とすべきだというのである。小湊は現実に第5区線の中心であったから、青森町にはにわかに真実性を帯びた話として伝わった。青森町長柿崎忠兵衛は最終駅を青森とすることを会社に陳情し、用地問題の解決に尽力した。その結果青森町と古川村の中間にある安方町共有地という誰も考えてもみなかった場所に駅を設置することに決定した。小湊で線路を打ち切るという会社側の作戦が効を奏したというのである。(青森市史より)
第5区線は、軍部との問題もあり、予定された八戸を通らなかったといったことはあったが、ともかく青森まで、予定された25年8月よりも早く24年9月1日に完成した。
15年6月5日川口で工事を始めてから9年3か月目に上野・青森間454マイル66チェーン(645.1キロ)が全通した。その建設費は高崎線、山手線などを含めて1、981万円であった。
上野・青森間が完成したころ日光線、秋葉原線その他の支線もできて、社運は隆盛の一途を辿っていた。そればかりか国内に多くの鉄道会社ができて線路の延長を競い、いわゆる鉄道ブームをまきおこしていた。鉄道局も規模が拡充されて23年9月6日鉄道庁となり、内務大臣の所管するところとなっていた。
盛岡・青森間開業式 24年9月1日安方町の青森停車場内客車庫で開催された。前日の8月31日17時45分上野発の列車は東京方面の招待客を乗せて1日の17時10分に青森駅に到着した。直ちに式は開催された。主な参列者は鉄道庁か らは長官井上勝、松田周次、小川資源、長谷川謹介、子安雅、粟尾新三郎等、会社側からは社長奈良原繁、副社長小野義真、理事委員の林賢徳、大田黒惟信、柏山信、山本直哉、二橋元長、足立次郎、白杉政愛、小川彦左衛門等、元老院議官吉田清英、北海道炭坑会社の園田実徳、製糖会社浅田政、高島嘉右衛門、各新聞社、地元から佐和青森県知事、松沢書記官、増長警部長、木津、工藤両 代議士その他県会議員商工業を営む人たちで全部で300人を越えた。
井上鉄道局長官は祝辞の中で、会社が創立されて10年いまこそ鉄道局の援助から離れて一本立ちしなければならないことを強調した。
「……如何せん鉄道事業の我が国に輸入せし日尚浅きに依り、大体線路の計画、布設、車両その他の準備、運輸の事業等其の途に慣熟せしもの殆ど乏しかり、是れ独り当社の状況のみならず、国中全く如比有様なりし。目下機関車の数52、客貨車の数1、000に近し、未だ十分整備せりというを得ざれども営業にさしつかえなからん。運転科の事も亦当庁の監督する所となりし即ち拙官の責任中に数え以って今日に及びたり。以上の干渉は政府の本意に非ざるは弁をまたず。後略…」
この日は二百十日に当り、午前は晴であったが、午後からは烈しい雨となった。会場は「停車場前には一大緑門を造りて紅灯を吊らしめ、客車庫窓は悉く生杉葉にて之を包み五色の小旗を交叉し、車庫内の支柱には生杉葉にて玉を造り小菊花をはさみて見栄を増し、その他同会社の徽章旗及び日章旗を交叉して場内の定裁を繕ひ庫内の両側には食卓を据付けて発走の用に供し……」と同日付の東奥日報が報じている。
この日青森町各町内では趣向をこらして飾り付け、山車を出したり、芸妓の手踊りで町を練り歩いた。日本郵船の青森派出所では浜町桟橋通りにアーチを造り、花火を打ちあげるなど大変な賑わいであった。駅は木造平家建てで、北海道連絡の船が出る日本郵船の桟橋がある浜町とはかなり離れ、駅の周囲には葦が茂り、夜は狐が鳴くといった淋しい場所であったが、この日だけは全く晴れやかなたたずまいであった。