2008年4月1日火曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 終

総持寺は創立当初より開祖瑩山禅師の学徳によって、時の政府の多大な援助を受け、又その門弟に五哲乃至二十五哲等の大人物が輩出した為に曹洞宗宗団の成立と、その多大な発展をとげしめている。この事実は何人も認めざるを得ない。
 又永平寺は道元禅師の御意志により、山奥に不染汚の行を旨とした関係上、総持寺より三百三十年遅れて、慶安四年(一六五一)に初めて出世道場と定められて居り、その後順調に大本山として成長し、日本第一の修行の大本山、有難い大本山として発展し、今日に至ったのであります。環境静寂、風光絶佳にして道元禅師の只管打坐の仏法を行ずるに最適の道場であります。此の渓声是れ広長説、山色清浄身の道場をして、願わくは観光の寺、宿坊の寺、形式の寺としないよう熱望するものである。
 仏教の開祖釈尊は、カピラ国の皇位継承権を始め一切の世間的野心を捨て、最愛の妻子と別れて、専ら自己完成の為に難行苦行六ケ年間精進努力せられた。この自己完成の道を上求菩提といいます。この期間中は一切を捨て、一切から離れて専心修行しなければならない。専心修行し、自己完成したならばどうするか、己れ独り善しとして、出世間的世捨人の生活をするか、
それは釈尊の許さないところである。自己完成の後は、再び世に出て、衆生済度に献身的活動をせねばなりません。これを下化衆生といいます。この上求菩提を完成し、下化衆生の資格を得た事を証明する道場が出世道場であります。日本仏教、特に曹洞宗は、時の支配者皇室と信仰的に直結して、この証明を天皇の御綸旨によって裏づけしたものであります。出世道場で修行し、自己完成して世の師表となった僧宝は、大本山に勅請住職となり参内して御綸旨を戴いて国宝的人物となって全国的に派遣され、仏法弘通と国家安全と宝祚無窮(ほうさむきゅう・天皇の位。おおみくらい。皇位が極まりないこと)を祈ることに不惜身命に活動したものであります。これが出世道場の権威であり価値であります。前述せる如くこの制度が、今日曹洞宗に於ては、瑞世という制度となって、一ケ寺の住職になる資格を得る為には必ず両大本山の一夜住職をして来なければならぬ、但し、徳川時代までの勅請住職と明治以後の瑞世一夜住職との相異点があります。徳川時代までは一ケ寺の住職で有徳の者が勅請住職を勤めて御綸旨を戴き、京都に上って参内し、竜顔を拝したものでありますが、現在の端世一夜住職は未住職の者が住職資格を得るための一つの経歴となっております。勿論明治以後は参内は廃止となり、待遇も悪くなったが、宗教々師の素質も低下したと思われます。
 さて、大本山永平寺に於て、今日最も永平寺にふさわしい行事は何であるかを吟味すれば、それは眼蔵開催であると思います。正法眼蔵は道元禅師の暖皮肉であり生命であることは前述しました、この生命を生かす道場が永平寺本山であります。故に宗祖道元禅師は、尽未来際この寺を離れず一箇半箇の真竜打出に只管打坐せられたのである。一応基礎の出来た宇治の興聖寺道場を捨てて奥山の越前の国志比谷村に引越されたのは、世俗の紅塵を離れ、政治の干渉をさけて、ひたすらに、真実の仏法を自ら行じ、門弟に行ぜしめんが為であります。この目的と行を忘れたならば永平寺の存在価値が無くなります。永平寺に仏飯を食み、宗祖に奉勤しているものは夢々忘却してはならないことであります。
 この観点より判断して、穆山禅師が、水平寺西堂となり、雲水接化に力を入れ、眼蔵会を創立せしめるに至ったことは宗祖の慈恩に対して最適最善最上の報恩方法を示したものであります。最近の眼蔵会は人気も権威も大分落ちたように感じます。残念なことです。願わくば宗門人悉く奮起して、道心を起し、宗祖の御膝下で、現職総洗脳の懺悔修行をすべきであります。ここに声を大にして提言することは、宗門行政担当の宗務庁役職員は一致和合して、両大本山当局と歩調を合せ、永平寺に於ては、創立当時の眼蔵会の如く権威あり魅力あるものに改組せしめ、宗門有能の道心家を入所せしめ、少なくとも二年間の連続接心眼蔵会を修行せしめて師家の養成に尺力すべきであります。眼蔵家や師家の種切れせぬうちに緊急実施してもらいたい。又、総持寺に於ては最近、定期的に伝光会を開催していますが、これも単に眼蔵会に対抗する意味のものでなく、太祖様が、永光寺に如浄禅師、道元禅師の霊峰を設けて、宗門護持と発展を祈願せるを範として運営すべきものと思います。
 現時点に於ける宗門に於て、一番大事なことは、ソートービルを宗門第三の本山にしてはならぬこと、宗政家はグランドホテル経営に浮き身をやつして、宗政の正道を忘れてはならぬこと。そして、宗務当局と両本山当局が、よく水乳の和合合意の上、派閥感情の小心を捨てて両祖の心に帰り、現代の第二の五哲、二十五哲はおろか、新時代の五百羅漢を、宗門経営の大学教育機関と両大本山出世道場を通じて打出するよう配慮してもらいたい。
 故渡辺総持寺貫首猊下が発願して発足した師家養成所も今では影をひそめてしまった。これも永平寺眼蔵会、総持寺伝光会と調合して復活すべきである。駒沢大学の禅堂やソートービルの一室は地方寺院の参禅道場と何等変りないもので地域的階層的役割しか果せないものである。宗門の総合的最高の人材養成機関は、宗教の厳粛性を持ち、貴く不可侵の伝統を有する出世道場の両大本山僧堂に於て、両祖の御膝下で真剣に経営さるべきである。西有穆山禅師が、総持寺貫首となられてからも、大本山総持寺に於て、御開山が(道元禅師のこと)御開山がと大声で提唱されたのであるが、永平寺の貫首様が、永平寺に於て、太祖様が太祖様が、と大声で伝光録を提唱するような大人物が出て、そうしたことを文句をいわずに有難く拝聴するような両本山当局と雲水にならなければ、真の道元禅師の法孫とはいえない。宗祖は、禅宗とか、曹洞宗とか宗名を称うることまでいけないと訓誡せられ、宗我、法我を徹底的に排除せられた。その児孫たる我々が末法政党者流のまねをして、派閥感情に支配され、両祖の祖訓にそむき、両大本山の尊厳を損傷する如き行為は厳に慎しむべきである。
 私は、西有穆山禅師が、栄誉ある永平寺西堂職を勤めながら、敢えて、弟分の畔上禅師の後任として総持寺独住三世となられた心事を察して、穆山禅師は流石に偉いと今更の如く心服して居ります。又、当時の石川素堂監院が、烏有に帰した総持寺を復興する大事業を思って、道元禅師一辺倒の穆山老師を、英断を以て紫雲台にお迎えした愛宗の態度は偉大であって模範とすべきだと思います。
 明治三十八年二月十五日、大本山総持寺移転先も内定したので、これからの本格的移転再建の大事業は監院石川素童師の敏腕を思う存分発揮させるべきであると照鑑し、法鼓を打って、古巣の西有寺に隠退しました。
 禅師は、西有寺を安住の地とし、且つ最後の力を人材養成に尽されたのであります。
 筆者は、西有寺専門僧堂勤務時代に晩年の禅師様を乗せて、横浜市内を散歩したという人力車夫さんに、晩年の禅師様の生活模様を色々御聞きしましたが、車夫さんのいうには、禅師様は、毎日のように、西有寺の境内を一周して点検して廻ったそうであります。又岸沢老師から御聞したお話ですが、禅師は境内を雲水が掃いている掃き方を見て、ドレ、箒をかしてごらん、といって箒を取り、サッサッと軽く箒をうごかして、塵だけを掃き寄せ、こういう風に掃くものだよ、境内の地面は仏様の肌であるから傷をつけないように掃かねばなりませんよ。と親しく教えたそうであります。禅師様は、終焉の地である西有寺の境内をこよなく愛されたようであります。
 明治四十一年四月十二日、東京芝青松寺に於て米寿の祝寿会の開催が持たれました。発起人は、可睡斎往職日置黙仙師、大隈重信、釈宗演、大内青鸞、徳川義礼等政界、財界、宗教界の最高者壱百余人で、未曾有の盛況であったのであります。禅師八十八年の哀績と高徳を称讃して、代理人でなく、本人が参集したことによって、禅師の感化力の偉大さを証しております。
 明治四十三年十二月四日、禅師は、西有寺に於て、弟子達に見守られ、南無観世音菩薩を称え、弟子に起き上がることが出来なくなり、起してくれと頼み、合図があったら袈裟をかけさせろと言いつけてあった。弟子の「肩をハタとたたき」御袈裟をかけさせ、座臥し、眠るが如く遷化せられました。竜龕をとどむること三日間、あまねく法類門弟檀信徒に拝ませましたが、皆異口同音に、「禅師様は生きておられるようだ」といいました。
同年十二月八日に、西有寺に於て密葬し、同午后五時、大本山総持寺墳墓に埋骨されました。葬送の列は西有寺より大本山総持寺までつらなったといわれています。
   遺 掲
   老僧九十 言端語端
   末後の句無し 月冷やかに風塞し
禅師九十年の生涯は、真に言語端正にして、少しの邪悪無く、一言一句、一挙一動悉くが、宇宙の真理全現の聖句の連続であり、世間的の最後の一句を遺す必要もないことは、俳聖芭蕉の一句一作が遺言の句であったと同様であります。月は永遠に冷やかに、禅師の家風も永遠に厳冷で、世の明星となって現世に生きているのであります。