2007年9月1日土曜日

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」3

ありがとうは珠玉   Aさんのこと
七月の例会「私のありがとう」第三回が開かれた。地域交流センター「ギャラリーみち」に多くの善男善女が集まった。常連となられた方、初めての方、年齢も小学生から八十才の女性までと幅ひろい。
「あなたは今までの生涯でどなたに感謝したいですか?」で熱を帯びたやりとりがあり会場はいっぱいとなりました。
やはり人は生きているのは誰かの助けがありその想いをどこかで口に出さなければ生きている実感がないのです。すなわち誰かのお陰で生かされているわけです。「ありがとう」を言いたい、人生は長いようでいながら自然の中の まばたきほどであろうか、短い。感謝しなければならない方がおられたら、たったの今、しかないと考えよう。
参加者の石川県七尾市生まれのA子さんが「私は父親に命を助けられた、六十二年前の八戸空襲で米軍の爆撃を受けたが父親が自分の身を挺して被さってくれたので命が助かった、今、自分があるのはそのおかげ」と・・目頭を濡らしながら話して下さった。
名前や詳細な事情は本紙に出さないでくれとのことで省くが、場所は八戸市内のセメント工場。山口県から一家で転勤配属になった。優秀な技術者だったろうか、重要な人物であったか、兵士として前線には送られず此処八戸市に派遣されたようである。
住居は湊ホロキ長根、工場のすぐ傍にある小高                     い場所であった。確か終戦のたった一月前、一九四五(昭和一九年)年七月十四日であったろうか。(一五日にも爆撃あった)
セメントの生産は戦争のための直接兵器ではないが本土決戦を目論んだ我が国は敵アメリカを迎え撃つ要塞や砲台の建設に極めて重要とされていた。そのためのひとつ「八戸要塞」と呼ばれる南郷地区に建設にされたものがある。高学年の生徒達は大勢動員され昼夜を問わずセメントや砂を背負い、凍てつく季節にはそりを使い勤労奉仕をさせられた。私の兄や姉もそうだった。食料も枯渇していて空腹も極限の状態ではこの作業に携わったもの達は戦争の勝利は信じられないものではなかったかと思われる。
最初は高館の陸軍飛行場が艦載機のグラマンに襲われた。それから標的は工場、橋脚、鉄路、軍艦、小型の漁船までに移った。動くものは人間も猫一匹でも機銃掃射をあびせたものだ。岩城セメント八戸工場、日東化学八戸工場が大型爆弾を無数に投下された。もう力尽きた日本軍の反撃もほとんど無く、成すがまま。(海防艦 稲木はまだ配属になっていなかったか?八戸港を守っていた稲木は翌月十日の空襲で反撃奮戦するも撃沈された。八月六日はすでに広島市に原爆が投下されている)
八戸戦争の状況の一部始終をみて実録した 花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の記述の一こまを見てみよう。
稲 木 の 最 後
八月八日日暮時大湊軍港から出港した海防艦が一隻津軽から尻屋沖を南下して掃戎に当り八戸港の西防波堤南側よりに投錨。八月に入ると頻繁に八戸港に軍艦が入港していたが、これは敵が本土上陸の作戦をたてたとみた大湊海軍司令部は太平洋沿岸警備の任を強めて八戸防衛の陣を敷いた。
その朝六時八戸港の西防波堤に投錨したのは戦艦稲木だった。
そして我々市民が忘れることの出来ない日本海軍最後の海戦を捲き起こした。稲木の艦員達は朝食前、次ぎに来る米動部隊の来襲に備えて攻撃準備の点検をしていた。グラマンは八戸沖を見逃して三沢空軍基地を空爆した。グラマンは三沢空爆から反転して鮫港の上空に姿を見せていた。稲木は揚錨の作業をしながら内火艇の揚艇にかかっていた。そこへグラマンが機銃掃射をかけてきた。攻撃を受けながらの揚錨作業で艦上の兵士は右往左往している。防御の体制が出来ていないが艦砲が鳴り渡っていた。全くの不意打ち同様の攻撃をうけたので甲板の上は沢山の兵士が飛び跳ねているのが見える。鮫角高台の上空からロケット砲と機銃で二列三列になって撃ちまくってくる。稲木からの艦砲をかわして又戻ってくる。揚錨が出来ない稲木は戦闘能力はガタ落ち、文字通りの釘付け状態。グラマンは主に艦橋を狙ってのロケット弾を雨のように射かける。艦全体がロケット弾で吹き荒れている。その中で大砲を発射し機銃を撃ち、応戦をして敵機を近ずけまいと懸命に頑張っている。稲木も又死力をつくして反撃します。錨を引きずっての戦いですから左舷の三速機銃はつかえない。稲木の砲撃も敵機に標準を定める余裕がなく滅多やたらな弾幕をつくる撃ち方だったが狙いが定まってくると艦砲はグラマンの飛翼をかすめてうなりをあげ、右舷の二連装機銃の弾丸はグラマンの尾翼に被弾。左舷の機銃は使えず片肺攻撃だが機関銃、艦砲が能力全開。蕪島上空から低空で稲木に向いロケット弾は直線に延びて橋上をかすめ海に消える。稲木も前門後門の高角砲の砲口は赤味を帯びてパッパッと火焔を発し、砲弾を二連発してグラマン向っていきます。それが一瞬にしてグラマンの飛翼に当り破片が四方に散ります。右サイドの三連装機弾は列をなして飛び、蕪島低空から襲う敵機に命中して行きます。沖防の彼方にきりもみをしながらグラマンが火を吹いて落下。鮫港の空は火と煙に覆われて八戸沖を見えなくしていった。
鮫灯台から回りこんだグラマンの一発のロケット弾が稲木めがけて走っていきました。弾丸は一直線に目に見えてのびていきます。真昼でも白い閃光となって飛行し、行きついた先の艦尾で物凄い火焔が横なぐりに広がり、巨大な火の玉が艦上を揺さぶって宙天に跳ねあがった。轟音は耳をつん裂き、鼓膜を一時不能にした。爆煙は艦尾を覆って大小の火の玉が花火の様に煙の中から飛散します。もくもくと真っ黒い煙が艦橋をつつみ、更に艦首に流れて来ます。稲木は除々に艦尾を重くして艦体を傾け海中にかくしていった。
そしてこの海防艦稲木が最後を遂げた次ぎの日、十日、日本政府はスイスとスウェーデンを通じてポツダム宣言を受諾する事を認め、連合国側に通知をしていた。第三艦隊司令長官ハルゼー将軍は洋上でこの日本降伏の通知を受けていたのですが尚も日本を痛めつけようと太平洋岸全体の都市猛爆の命令を指令していたのです。
花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の原文抜粋
話しはまた戻る。A子さんの母親は身重で下の子ひとりをつれて山口の実家にお産に帰郷していたそうな。父娘で戦時下の留守をあずかっていた。工場は無数の直撃弾で壊滅。いくらも離れていない住居も爆風だけで破壊された。グラマンからの機銃掃射は12.7㍉機関砲、もし当ったら身体は原形をとどめなく砕け散る。
その時の詳細を尋ねたが、Aさんは首を横に振るばかり。
父の命を懸けた子への愛情をひしとうけとめ現在までこの珠玉(宝石としての玉)は胸のなかに大事に大事に仕舞いこんで来たものだろう。目頭の光るものがそれを物語る。
ひとには、それぞれの生きた歴史がある。現在のように混沌とした社会の風潮を真っ直ぐに進むのは至難である。暴風である。人生にも遭難、難破がある。結婚式では新しい船出として祝われるが、一生、安閑として過ごすものなど唯ひとりとしていないのだ。Aさんはこの珠玉、時をみては取りだし磨いてきた。そして今燦然と輝いているのではなかろうか。
「親は子を命懸けで育てること」これは人間が発生?した太古から当然のこととして行われてきたものであり、とりわけこの項で述べるまでではないが、しかし、この行為は簡単そうで容易なことではない。日常、自分だけを維持するだけでも精いっぱいなことである。だが、生き物はすべて自己犠牲があってこそ成り立っているのだ。
Aさん、このことは普段の会話では軽やかに口にはしないであろう。宝物は、とても勿体無くて、そう簡単に他人の眼にも耳にも晒せないし、晒したくない。そんな思いではないだろうか。詳細を拝聴出来なかったので推測の域をでないが、Aさんはこの親御さんの意志を受け継ぎ、子を立派に育て上げたのではないだろうか?「現代の親たちよ!子は命懸けで育てよ!」と教えられた思いである。子は親の背をみて育つ。古くからの格言である。しかし、現代、子殺し、親殺しが日常の茶飯ではなんとも嘆かわしいではないか。「しっかりしろ日本!」と声を大きくして叫びたい。蛇足であるが、同じ時、A子さんの所と対岸、私は小中野の防空壕にいた。五〇メーターほど離れた湊橋に直撃弾をうけた。250キロ爆弾破裂の地響きで身体が飛ばされ頭が天井にぶつかった。国民学校三年生、子供ながら「この先はどうなっていくのだろう」と不安感でいっぱいであった。空襲警報解除。橋の中央に人の落ちるぐらいの穴が空き、夏の川面がキラキラ光っていた。一年前には朋友と、ここで泳いだり、釣りをしたりして遊んでいたものだった。その日のうち親戚をたより、岩手との県境「梅の木」という家が三軒だけの村にお世話になった。翌日もグラマンの爆撃は続いていた。山の上の大木に登りセメント工場の爆撃をみていた。爆撃音は耳には入らなかったが私の登っている木の頭上を低空で飛行するグラマンには首が縮まったものだ。あの爆撃の下では何人の人が死んでいるのだ。子供心にもそのように思い暗い気持ちであった。記録では民間人だけで数十人と言われているがもっと多いのではなかったか?詳細はわからない。
 文責  風天弘坊

小中野小学校百年史から 最終

波打 その頃私は同窓会の会計をやったが、同窓会の会計はいまどうなっていますか?
中沢 今は卒業生から卒業の時、原則として百円もらっているが、あれこれと使っているので大したことはありません。同窓会はですね。この新校舎が出きてピアノが必要になったので、同窓会を復活したのです。だからそれまで中断して無かったのです。
浪打 それでは前のことはどうなったのでしょうか。
中沢 さあ、わかりませんが、三島さんが最後の母校への奉仕だと言って奮起して寄付金をもらって、そしたら蔵五郎先生が一番先にグランドピアノを寄贈してくれました。
  善行で大臣賞
波打 ここの学校で、菊地勘右エ門という文部大臣から表彰された阿部という人があった。友三郎さんという人だったがあれはどうなっているんでしょうか?
大久保 だれですか? 文さんというのは、阿部文三郎さん?文次郎さん?
波打 あの人に文部大臣の菊地(たいう)?という人から表彰状が来て、ちがう額にかけていたと思うが?
大久保 何で表彰がきたのですか?
波打 善行です。
小井田 それは何年頃のことですか?阿部何という人ですか。
浪打 阿部友次郎さん。浦町の、新地から浦町へ行くところの。
山浦 ああ、阿部そばやの人ですか。
浪打 そうそう、この人は偉かった。
山浦 阿部幹先生のおじさんですな。
大久保 表彰の話があったので何ですが、この記録をみると六ケ年精勤というのが、なかなか無く、月宇さんが六ケ年の皆勤か精勤かで賞状を受けているのが残っていますが。なかなか無かったんでしょう。皆勤が一名だけの時もあったようです。
  戌一つが芸者一人
稲葉 月宇さんが六年生の第一回卒業生、私は第二回、佐川さんは第三回で、三人主催になって尋常六年制二十五周年記念恩師謝恩会をやりました。一人から会費二円とり、二円のお膳で小松屋でやり六年卒業の時に丁が一つあったものは、丁子一本出し、戌があったものは芸者を出せというのでやったんです。そしたら大低戌があり、大さわぎをしたこともありました。
大久保その時の成績は何でわかったんですか?
稲葉 学校からエンマ帳を借りていき、みんな読みあげたんです。アハハハ……
大久保 それでおちついた訳ですね。
山浦 会費が余るだけだったんでしょう。
  スパルタの中に師弟のきづな
大久保 今と比べると、明治、大正の頃の先生の教え方は今のことばで言うとスパルタ式だったと思うが、その時の思い出話を聞かせてくれませんか。
夏堀 私からはじめますが、大矢先生に音楽の時間にいたずらをして、友達と耳をおさえられ頭をぶっつけ合わされ目から火ばなが出る程やられたが、当時の父兄は、それでも、文句を言わなかったんです。地図を掛ける竹で頭をぶたれて、怪我をし、親に聞かれたので「ころんで怪我した」と言ったが、姉が「いたずらをして先生にやられた」といってばれたこともあった。兎に角スパルタ式でした。
月宇 立たせる場合でも、そのまま立たせるのでなく、頭の上に水を入れたバケツなどを持たせられたものでした。こわい先生がいたものでした。
夏堀 なぐられた大矢先生とも東京で親子のようなご交際をしていただいたし、こわい先生ほどなつかしく、今思い出しても一番親しみがあります。
稲葉 私は柏崎徳蔵先生になぐられたんだが私達もきかなかったんですね。
大久保 その頃の先生方は非常に厳格であったが所謂師弟の間が心で結ばれていたというわけですね。私達もよく罰を受けたものですが、そういう先生程印象に残っていますね。
波打 唯なぐるのでなく、愛の鞭だったんですね。それ位のきびしい先生でなければ、生徒はついていきませんでした。今の先生などは…
  柳川先生の思い出
佐々木直 長者山の別当さんが、私らが高等科になってから来ました。
大久保 ああ、柳川さん、柳川先生が::
佐々木直 「ハア、歩兵少尉だずよ、おっかねずよ。」と。ほんとにタイプからして、態度からして、ぶんなぐられそうだった。だが、たたかなかった。ただし「ぶんなぐってやる。」という言葉でぴんとしたものでした。「おっかないぞ、ぼやぼやしていられないぞ、柳川先生だとぶんなぐられるぞ」と思ったものでした。身体は大きく髭もたてていたので、
大久保 若い時から髭をたてていたんですか
月宇 はあ、陸軍中尉だったんですよ。戦争にいってちょっと怪我をした為、金鵄勲章をもらわれないというので、生徒を集めては残念がっていたものでした。
佐々木直 案外たたかなかったんですね。態度がおそろしかった。
月宇 女生徒といっしょで、石筆などを女生徒にぶつけたりすると、柳川先生はその時の級長達を二人たたせて、お前たちが悪いからだ。」といって立たせて「お前達が女生徒にぶっつけたから、お前達にためしてみる」といって、石筆の小さいのをぶっつけた。すると、この二人は顔にあたってもびくともしなかったから、先生は「感心だね、勇敢だね。」と大へんほめてくれたことが記憶にありますよ。
稲葉 それから、柳川先生のことでは、日韓合併の時、伊藤博文といっしょに季王殿下が尻内を通過したことがあるんです。その時に尻内へわれわれが両国の国旗を持って並んだものでしたが、校庭でその予習をした時、その時われわれが並んでいる前を柳川先生が髭をたてて自転車に乗って、汽車のかわりに通ると「気をつけ、礼」とやったものでした。
大久保 その頃の自転車といったら珍らしいものだったんでしょうね。
夏堀 今の自動車位の値打がありましたね。
三河 八戸では、北村益さんと柳川先生とがはじめて自転車に乗りました。北村さんは東京から持って来たんです。
夏堀 自転車の草分けですね。
月宇 電気のついたのは大正何年頃でしたっけ
稲葉 明治四十四年です。
大久保 電燈がついたあたりのお話は?
波打 その頃私は電気会社に務めていました。あなた方は電燈がついたのをみているんでしょうが、私に感謝しなければなりませんよ。会社の浮沈にかかわることに私はたずさわったものですからね:。ハハハ。
  活発だった各種発表会
佐々木哲 その頃の学芸会のプログラムがあります。(プリントしたものを見ながら)これは大正三年十一月六日のものです。その種目に、男は朗読、暗誦、唱歌、対話、図画もあり、図画も描いたんです。音喜多富寿さんは、四年の時富士の山の図画、伏谷さんの奥さんは富士の山の暗誦、中村寿夫さんは黒板画をかきました。大久保正夫、今の大弥さんは談話「自分のものと人のもの」私のもありますが、高等一年の時、先生が書いた程度の高いものを暗記させられました。松木秀生のもあります。談話「あやまちをかくして」竹内きよさんというと新丁の音喜多きよさんで談話「お月さま」となっている。道合もとさんといって産婆さん、談話「応急治療の二・三」。岩見正男先生のは談話こうもり、尋常三年岩見正男となっています。中野ふみさん小学校三年生「正直なでっち。」というお話、算術「掛算九九」というのもありました。
大久保 何ですかそれは?
佐々木哲 掛算九九も舞台でやったもので、普段習ったものを学芸会で発表したものでした。
稲葉 私は高等一年の時、戊辰詔書を暗誦したことがありました。文句は忘れましたが私が暗誦している間みんな起立して聞いていたものでした。その時、ジキョウヲヤマザルベシと読む所を、ジキュウヲヤマザルベシと読んだものだから、みんなわっと笑ったものでした。
月宇 その頃、土曜日はお話の日だった。毎週土曜日に生徒にお話をさせた。しゃべる人達はよかったが、しゃべれない人達は土曜日がこなければよいなあと思いました。というのは壇上で立往生するわけです。ですから日曜日が来るのは楽しかったが、その前の土曜日はいやでいやで仕方がありませんでした。
波打 私達の時は、弁論会とか討論会というのがありました。
大久保 学校でですか。
波打 そうそう、卒業式に代表者が男一人女一人でやらされた。
山浦 その頃処女会なんかも大分活躍したような記億がありますが。大正三年ですか、あの八戸の大火があったこと、又、十三年の五月にアメリカの世界一週の飛行機が来ていますし、七月にはイギリスの飛行機が来ていますが私達はアメリカの国旗と日本の国旗をもって歓迎にかり出され又、処女会もそれに大分かり出されて活躍していましたね。はじめて八戸の白銀の海岸に着水したこともあるんですが
大久保 あれは不時着したのですか、又前もって予定したのですか。
夏掘 さあてそれはどうだったか? 小西浅次郎が通訳した。
佐川 白銀に着水した時の八戸の警察署長が困った。私もつとめていましたが、何しろ英語がわからない。誰に頼んだらということになり、女鹿さんに頼んで鮫の石田家で何とか格好をつけたものでした。
夏掘 その女鹿先生があやしげなる英語を使ったわけですね。ローマ字読みしたという傑作もあった。女鹿先生はその当時の八戸の新知識で、慶応大学の英文学を出たといううわさでした。
小井田 それは何年ごろですか?
山浦 大正十三年の五月二十二日、アメリカ機。七月十三日に英国機が来たと記録されていますからこの時でしょう。
稲葉 山浦さんのお父さんがいた頃ですか?
山浦 まだ生きていた筈です。
中沢 大正四年の写真をみると山浦さんが鬚をはやして中央にすわっています。
小井田 山浦さんは大正二年に村長になっていますね。
山浦 村長になった時のことを聞いたことがあるんですが、何でも大学を出て京都にいた時のこと、おばあさんからせんべいが送られて来たその包紙が八戸の新聞で、それに村長に当選した事がついていたというんです。「いやうるさいことになったな」と思い、二ケ月程たって、大概もうよかろうと帰ってきたら、まだ待っていたそうで、そこで当時の郡長に相談にいったら「やってみたら」と言われ止むなくやったということです。とんだきっかけで政治に足を入れたとの事でした。
  旧校舎の建築と校舎移転
稲葉 そうそうこの校舎(旧校舎)をたてる時、山浦さんが村長でした。
浪打 そのころこの小中野はどうだったんですか。この辺は麦畑か、芋畑でしたなあ。
波打 麦畑もなんだけど、きつねやたぬきがおったと言われているが?
小井田 ほんとにきつねやたぬきがいたのですか?
波打 ほんとの所、新地の角に助次郎屋といって、そこの小屋があった。そこに盆踊りがあって毎晩さわいだものだ。小屋の中を調べたら大きなたらいの中にたぬきが二匹はいっていた。それに針をさして殺したという話です。又私の家が新地にあったんですが天ぷらをあげれば必ず来たものです。
大久保 旧い校舎を現在の場所に移転したのは大正十年、私は小学校一年のころですが、古い校舎を持ってくるのにコロか何かでもって来たものでしょう。そうすると家が全くなかったわけですね。
稲葉 そうです。家が全然なかったのです。真中頃にホイド宿(木賃宿)があって、そこまで来れば安心したものです。
佐々木直 その頃は雪も沢山降って、左比代のあたりで雪の落し穴に入って上れなかった小さい人があり、その人を引っぱり上げて助けたことを今でも覚えている。それ程雪も降ったわけですよ。
稲葉 この場所は、首切場のあった場所で校舎を建てるためここを堀ったら、骨などが沢山出たわけですよ。そのたたりでとか、首切り場のために小中野小学校で、運動会や遠足などがあると、雨が降るといわれているというわけで高田先生の時代に父兄会の幹部とか先生方ではらってもらったことがありました。
大久保 それでも尚も降るわけだ。やはり確かにこのあたりは首切り揚があったわけですね。
一同 そうだということです。
大久保 小学校は義務教育で授業料などは、全然なかったわけですか?
稲葉 授業料は高等科ではありました。
佐々木哲 私の頃の高等科の授業料は十六銭でした。
岩見 昭和の四・五年で五十銭ですね。
三河 先生方の給料は、師範卒で十七円、校長二十四円でしたよ。 
大久保 どうもありがとうございます。

売市小が改名され根城小学校となり、その百年史から 最終

昭和五十一年六月六日 根城公民館
司会 お忙しい中、多数御出席くださりありがとうございます。御存じのように来たる九月四日は、百周年記念式典を行なう予定になっております。従って、その場合における記念誌を発行する予  定です。そして、この座談会も載せたいという主旨からお集りをいただいた訳でございます。最も印象深かった事を一つか二つお話ししていただきたいと思います。
校長 昨年度より連合PTA、同窓会、連合町内会と三者一体となって本校の百周年のために御配慮いただき、各部門に分かれて進行させていただいております。こんな意義ある百周年に、私共   職員がお世話になっておりまして非常に責任を感じております。今年は、ちょうど一世紀にあた     っております。資料も欠けておりますが、今後二世紀に向かって羽ばたいて行く大事な記録と   なりますよう期待しております。よろしくお願いします。
PTA会長 皆様方の暖かい御指導と御協力をたまわりまして、百周年の任を全う致したいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。  百年の間に御努力くださいました諸先生方、並びに地域住民の皆さん方が築いて来られました立派な歴史と伝統を現役のPTAわたしたちが受けつぎまして、その名に恥じない様にみんなで  力を合わせて明日の根城小学校のため、児童のために頑張って参る考えでございます。
山田国太郎(大正二年卒)
学校にはいった時、古い校舎一つだけでした。一、二年経ってから教員住宅ができ、その後二年位してから上手に倉庫のような物ができました。当時、尋常四年制で生徒の数も少なく二学級で間にあっていました。あと一、二年で卒業という時に六年制に変わったので卒業がのびました。当時、印象に残っているのは、稲葉よし先生の受持ちでしたが、とてもいい先生で、三十分位勉強するとあとは昔話を聞かせてもらい、とても楽しかったという事をおぼえています。
金田一サメ(大正二年卒)
当時、蒔田校長先生で先生は三人生徒は十二、三人でした。みんななくなって今わたしひとり生き残っています。
沢口岩蔵(大正三年卒)
当時は学校で勉強するよりも家の手伝いをする子どもも多く、小さい妹や弟を連れて子守をしながら勉強をしたものです。又出席をとってすぐ家へ帰ったりもしたもので、そのためにあまり勉強することができませんでした。それでも学校は楽しいものだと思っていました。今の子どもたちは、しあわせだなあと思います。
下斗米平蔵(大正五年卒)
校舎は売市の今の下久根のお宮の前にあり、校舎は二つありました。一つは古くて天井もなく、今考えると物置ともつかない程の粗末な物でした。ここには一年から四年生まではいっていました。  担任は南部こう先生(八十才)、校長蒔田茂穂先生でした。当時の学校は話にもならないような学校で、冬でも火鉢一つでした。今考えると、凍傷にもよくかからないで過ごしたものだと思  います。今の校舎を見ると感無量です。
大久保栄三郎(大正十一年卒)
思い出として特に楽しかった点はなかったでず。むしろ、さみしかったということだけ残っています。担任は小幡先生でした。夏の遠足の時に裏通りを徒歩で鮫まで行き、着る物はく物からしてさみしい思いをしました。祝祭日には安い鶴子まんじゅうをもらったものです。卒業式の答辞を泣いて読めず、先生に励まされたことを覚えています。
きかなかったので、よくけんかもしましたが、皆元気で卒業しました。なんともいえない友情は他に勝るものでした。当時は、校旗も校歌もありませんでした。とにかく、さみしい思い出が多く   残っていますが、学校に対しては感謝しています。
松橋鉄蔵(大正十三年卒)
一年生の時、歌を歌って旗行列をした事を覚えています。校舎は、一枚ざくりで暖房は何一つなく火鉢一つでした。運動会や修学旅行は毎年ありました。旅行は売市、田面木、明治と三校一緒で行きました。場所は、一戸、福岡、盛岡などです。大正十年のわたしたちの卒業生は、女三人を入れて三十八人でした。今、元気でいるのは三人だけです。担任は中里達男先生で、校長先生は工藤光男先生でした。共に故人となってしまわれました。
川口兼丞(昭和四年卒)
当時は、わらぞうりをはいて、学生服をひとりかふたりは着ていましたが、あとは皆着物を着ていました。かばんも待っている人は少なく、ふろしきに包んで持ったり、しよったりしました。  農繁期の忙しい時期には、妹や弟を学校におぶっていきました。子どもが泣くと廊下でよく遊ばせたものです。昭和十七年、わたしが兵隊から帰ってきて、男の先生が足りなかったので、青年指導員としてつとめました。田中先生、三浦先生、古川先生の四人で交代で日直をしたこともありました。
中村福次郎(昭和四年卒)
当時は先生四人でした。校長先生は星野先生です。学校として建てたと思われる校舎が下の方に一棟で、上の方にあるのは泉山醤油屋の精米所を持  ってきて建てたらしい話でした。わたしはいたって腕白で、けんかをしても負けたことがなく、先生にもよく注意されたものでした。(笑)
六年の時、桜の木を植えて三年目でしたが、よく水をかけて手入れをしたものです。今、その木は四十七、八年になっているのです。二、三本は校庭に残っていると思います。土手には河内屋  さんが寄贈した五葉松を植えていました。
北村なほ(旧姓野沢・昭和五年卒)
新校舎が出来て入れてやるというので大変楽しみにして草取りなどいろいろと奉仕をしました。しかし、完成せず古い校舎で最後の卒業式をやりました。校舎が狭いので、運動会は八幡でやり、行きも帰りも歩いたものです。
川口助四郎(昭和八年卒)
根城には高等科がないので、わたしたちの前迄は吹上の高等科に行っていたのに、わたし達の時になって入学を許可されなくなり、早急に根城にも高等科ができました。高等科第一回目の卒業生で、昭和十年でした。その頃小学校には校旗がなかったので、卒業記念に校旗を贈ることになりまし  た。高等科卒業間ぎわになってから、卒業生だけで図案を研究しました。南部公の大いちょうの葉をもって葉を翼にし、向鶴に図案化して作ったものです。卒業して一年後に五円ずつ持ちよって、百円位で出来上がったと記憶しています。盛岡に注文して一年後にできてきました。
野沢剛(昭和三年卒)
売市からこの地に移ったのが、昭和五年十月十五日で、落成式をやりました。新しい校舎に入学できたのが昭和七年です。さっきも桜の木の話が出ましたが、えぞ松、ポプラ、桜の木が校地に植えられていました。現在、一本中庭に残っています。校舎の中央入り口前にあった土山の松や、現在入口のわきに移植されているさつきやつつじも当時のものです。競馬場が近くにあり、よく二階から授業中や休み時間眺めたことを覚えてい  ます。草組合の上の二本杉のあたりによく写生にいったものです。当時、八幡様と根城々跡に全校揃って参拝に行きました。
西沢由見(昭和十五年卒)
国道の脇に校舎がありましたが、今のようにほこりに悩まされることもなく、環境がよかったです。 当時は、農繁休業が一週間位ありましたが、あまり手伝いもせず、川へ遊びに行ったものです。今も体育館脇に馬鈴薯を植えていますが、当時はもっと広く、たくさん植えていました。そして、その馬鈴薯をリヤカーで売りに行かされましたが、恥ずかしくて売れないで叱られ、近くの旅館へ行って売った事を思い出します。遊びは兵隊ごっこでした。夏には、ジャックナイフを持ち歩き、さまざまな物を作って遊んだものです。
岡沼鉄男(昭和十七年卒)
大東亜戦争の頃です。五、六年の担任の先生が、戦死したので六年の時弔辞を読みました。当時は教室に火鉢一つの冬でした。祝祭日になると、校長先生が奉安殿から教育勅語を出され、冬でもおごそかに並んで迎えた事を覚えています。和服姿が随分重々しい感じを与えていました。楽しかった事としてプロレスの様な遊びがありました。
 先生にいくらたたかれても、先生の家へ遊びにいって甘えて遊んだものです。
中里万里子(昭和二十六年卒)
根城国民学校六十七名として卒業しました。現在の二クラス位ですね。終戦で教科書はなく、担任の先生が一冊持っていたので、それを紙に書き写して勉強しました。昼は、ほとんどの子が家へ帰って御飯を食べたものです。粉ミルクが配給になり、今の給食の始まりです。一年生の時の通知票は、国民科、理数科、体練科、芸術科とあり、六年生は現在と同じように、算数、国語、社会………などとなっていました。クラブは、今のように特別なく、上級生になってから、好きな人たちは隣の校舎の中学校と一緒にバレーボール等をやったものです。後に、中学校のバレーボールが強くなっていますが、この頃から力を貯えたのだと思います。児童会は学校自治会、学級の会長などは級長と呼ばれていました。からだの方では、全国の}年生の平均身長は、一〇九センチメートルです。五年から予防接種があり、年間を通じてDDTの散布がありました。散布はいつもという訳ではなく、八戸を出る時は必ずやりました。衣服の事ですが、着る物はなく軍服を直して着たり、ズックがないので、ぞうりをはいていたものです。そのため足に古くぎをさすという怪我がよくありました。施設としては、すべり台が一木と半分   で、低鉄棒、高鉄棒が現在の銀行のあたりにありました。五年生の時、校売部が出来て二年間続きました。し尿の汲み取りは、上級生が全部やりました。遊びは、縄をなって縄とび、おはじきをやり、松のやにをとってつばで綿のように伸ばし、指に巻いて競って遊んだものです。男の子は、笹竹で紙鉄砲を作って遊ぶのが盛んでした。
大上ひさえ(昭和二十七年卒)
私が小学生のころ物資がなく、ハトロン紙のようなノートで絵をかいたものです。教科書は上級生からもらって使いました。二年の時、新設中学校が併設され、体育館に新しく中学校の教室が作られました。その為小学校は、二部授業をしたり、階段に座わって授業を受けたりしました。物資がないため、いろいろと配給制度があり、無欠席の者に優先権がありました。今は想像もできないと思いますが「しらみ」がたかっていて、授業中でも前の人の頭を自由に歩いているのが見えたものです。(笑)休み時間には、桜の木の下の芝生でしらみとりをしました。非常に家族的な光景でした。上級生になって図書もなく、岩藤先生に『巌                     窟王』を読んでいただいたのが楽しい思い出です。
クラス会など時々ありますが、今でも当時の根城の神髄を流れる家族的精神があるようで、故郷に帰ったようで懐しい思い出となっています。
司会 山田卓三
校長 田中正直
PTA会長 植木規好

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 7

西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
三十九、名門坊主出て行け
安政三年(一八五六)三十六歳
 月潭老人の膝下には多くの傑人が雲集したが、その一人に後の大本山総持寺独往第二世の貫首となった。畔上楳仙(あぜがみばいせん)禅師が居ります。
 月潭老人は結制修行といって、規則で定めた正規の修行期間中は、寸分の隙も人情も差しはさまぬ、厳格そのものでありましたが、解間(げあい)といって自由研究修行中は、大変寛大であって鳴らし物もさせなかった。ところが楳仙禅師は謹厳そのものといった型の、真面目な人柄であったから、関左(かんさ・東京神奈川など六県をさす)禅林として有名な禅林に於て、たとえ解間中でも鳴らし物をせぬと怠けているようで風聞が悪い。いわんや解間中でも宿泊して参禅する者や、昼食を取り聞法(もんぽう・仏教を聞くこと)してゆく修行者が、始終出入しているから、この修行人達が「海蔵寺は鳴らし物もせぬだらしのない修行寺だ」などと吹聴したら困ると思って、楳仙和尚解間中でも自分で梵鐘(ぼんしょう・鐘)を鳴らしたのである。すると、月潭「鐘を打ったのは誰だ」と大声でおこり出した。楳仙和尚が老人の前に出て、私でございます。拝宿(はいしゅく・宿泊)や点心(てんしん・食事)している修行僧への手前もありますので鳴らしました。」
 月潭、「この名聞(みょうもん・名誉をてらうこと。みえをはること)坊主め、出て行け」と怒髪天を衡く(どはつてんをつく・頭髪の逆立った、ものすごい怒りの形相)勢で下山(破門退去)を命ぜられた、月潭老人はいい出したら容易に引込まぬ性質であることを知っている修行僧達は、誰も出てゆきません。穆山和尚同僚親友の一大事と思い、「老師様、楳仙さんは馬鹿真面目な事を御存知でございましょう。馬鹿を相手にしたら老師様の徳を損じます。私にまかせて下さい。」月潭 「そうか、仕様がないな、鐘はへらぬから勝手にしろ」でけりがつきました。楳仙師は謹厳そのもののような性格であることは、月潭老人もよく知っておられたから、そこを衡いて老人の心の転換を計ったのであります。又穆山和尚が月潭老人の大の気に入りでありましたから「そうかそうか」ということで落着しました。
 かくて、こと無きを得た二人は月潭老人の信用を高め、片や穆山和尚は典座(てんぞ・料理番)といって一山の料理部長となり、片今夜仙和尚は侍者といって、月潭老人の秘書役を勤めていた。
 典座寮と侍者寮は向合っており、典座寮の隣りが飯頭寮(料理係長)であった。その料理係長が寒中に門前から、「すま」(小麦からうどん粉を取ったのこりかす)をもらって来て、それをねって中に味噌をつめて焼き、天井ぶち(御粥がうすくって、天井に米粒がおよいでいるのが写るから名づけた)のすき腹を満足させようとたのしみながら、まどろみもせず料理部長さんが就寝するのを待っていた。穆山和尚それとも知らず、夜遅く迄読書して、いざ休もうとした時、隣りの室でぶすぶす音を立てて異な臭いがするので入ってみると、炉の中がくすぶるので火箸でかき回してみると、すか焼餅が出るわ出るわ十四五個も出て来た。穆山和尚ほくそ笑んでそれを懐に入れて廊下に出ると、楳仙和尚も読書をやめて手洗に行くのに出合った。コイと手まねきをすると、楳仙和尚も心得えたもの、小声で「あるか」といいながら寄りそってきて、二人で餅を平げてしまった。
 物がありすぎて「消費は美徳なり」などといっておる現代の人々には、夢にも想像にも浮かばぬ至上の美味であります。これほど貧乏で粗食で、普通人の寄りつかぬ月潭老人の膝下によく忍び、求道に命をかけた人々のエピソードはいみじくも尊いものであります。
                        四十、錫杖が鳴る 
安政四年(一八五七)三十七歳 
穆山和尚が坐禅の奕堂(えきどう)、公案の梅苗(みょうばい)や、興聖寺回天の三善知識(ぜんちしき・仏教の指導者)の何れも捨てて、真の大善知識であると判断した月潭老人を、小田原早川の海蔵寺に、尾張の千丈和尚と、越後の泰道和尚の三人で訪問して、門下生として下さいと願った時、月潭「わしのところは食べ物がない。置くことはできぬ」と冷たくことわられた。穆山「食べ物はわたし達が心配します。置いて頂きさえすれば結構です」月潭「じゃ、勝手にしろ」というわけで安居(あんご・宿舎に泊まり修行する)修学を許されたのであった。
 私(吉田隆悦)は昭和四十六年に海蔵寺を訪問した所、住職は学校の教職を兼業して生活費の一部を補充するという状態でありました。格式は大本山の次位の格地(かくち・立派な寺)であるが、経済力は弱くその収入で五十人もの修行僧の食事を支弁する事は不可能でありました。従って修行僧達は自ら生活費を得なければなりません、僧侶の自活の最短にして最善の方法は托鉢(たくはつ)であります。
 穆山和尚達は毎日小田原の城下町に出て托鉢したのであります。侍者の楳仙師が先出に立って案内役を勤め、典座という寺の重役である穆山和尚は導師(指導者)を勤めて、堂々と長い列で雁行(雁が並んで飛ぶように歩行すること)して托鉢したのであります。雁行してきた僧侶の列に両側の住民が、「おひねり」或は「現なま」で僧侶のささげている応量器(おうりょうき・托鉢につかう器)に入れて施す作法が本当の托鉢であります。門付して物を乞うのは真実の托鉢作法ではありません。後年穆山和尚が横浜市の西有寺の住職に勧請されて、修行僧と共に八十の老翁自ら陣頭に立って、雁行托鉢をした貴い姿を見た京浜間の、大政治家、大富豪達が感激して、穆山和尚に帰依(きえ)したのであります。
 さて話しを海蔵寺の穆山和尚にもどします。学友楳仙和尚も共に、天井ぶちの御粥の粗食で栄養失調にならない為に、適当に御酒を飲んだのであります。
 この御酒のことについて二俊傑の間に面白いお話しがあります。前述したように海蔵寺時代は穆山和尚が典座という重役であり、楳仙師は侍者という準重役でありますから、穆山和尚の方が上位であります。
 小田原市を雁行托鉢して帰り道には、先頭の侍者楳仙和尚が応量器(酒なら一升近く入る)に酒をもらい、町はづれに出ると穆山和尚が受け取って、一気に六分位飲みほして、のこりを楳仙和尚にわたすのが通例となっていました。役は下であるが無二の親友同志、楳仙和尚一計を案じ小路をみつけ、列をはなれて一気に七八分飲みほし、のこりを穆山和尚にわたして一矢を報いてやった。これを知った穆山和尚以後の托鉢において、先頭に居る楳仙和尚が列を離れるや否や、最後列に居る穆山和尚が導師の指揮杖である錫杖をガチャガチャはげしく鳴らし、
 「列を乱すな」と怒鳴ったが、先頭と最後と離れているから、楳仙和尚聞こえぬふりをして相変らず七八分飲んで、のこりを穆山和尚に渡したのであった。
 楳仙和尚はこのように穆山和尚と知慧くらべをして、海蔵寺の枯淡(こたん・あっさりしている中に深いおもむきのある)巌励の修学を三年間堪え忍んだのである。辛抱強さでは、原担山和尚の十二倍の強さであった。
                        四十一、千手観音菩薩との奇遇
安政五年(一八五八)三十八歳
 京都九条の地蔵堂に招待されて、修行僧の為に円覚経の講義を二ケ月続行していた。そこに神奈川湯河原町の英潮院から、住職になってほしいという請待の使者が来ました。穆山和尚は三度まで辞退したが、月潭老人が特に親書を送って「英潮院は海蔵寺の末寺であるからまげて、住職してほしい」と懇切に慫慂(しょうよう・傍らから誘いすすめること)して来ました。それでも穆山和尚は心を決めずに、直接老人に会って辞退の諒解を得ようとして旅立ち、途中英潮院に立ち寄って見たところ、金華山という山号額がかかっており、これを見た穆山和尚は自分の原名は金英であり、号は穆山である、又英潮院の英も金英の英であるから不思議な因縁だと思って仏殿に人って見ると、本尊様は観世音菩薩であった。穆山和尚は観音様が自分を招待したのだと感じて遂に決意して住職となることを承諾した。
 この英潮院たるや壁落ち、床壊れ、荒廃その極に達していた。穆山和尚早速掃除を始めたのでありますが清掃中、積み重ねた古紙の中から千手観音菩薩尊像の小軸を発見しました。これは明の有名な画家沈西蘋が画いたもので英潮院の寺宝でありました。穆山和尚はこの尊像を守り本尊として常に身につけて離さず、礼拝供養したのであります。
 穆山和尚は幼少時に父母より観音信仰を教えられ終生観音信仰を続けたのでありますが、この観音様に助けられ幾多の災難をまぬがれております。
 穆山和尚は英潮院を修築して益々観音信仰を強め日夜本尊観音菩薩に、奉勅すると共に、夏安居冬安居の制中は月潭老人に随行して、教化を補佐すると共に参師聞法に一層の磨きをかけたのであります。解間中には英潮院において集まって来た修行僧、十五六人に参同契、宝鏡三昧、坐禅儀、碧厳録、従容録、典座教訓等の祖録を講義提唱してやったのである。又英潮院から二粁ほど離れた寺の所有地に、自ら陣頭指揮して杉苗を植林し、午前午後の休み時間にはお茶を飲み、沢庵をかじりながら、雲水僧の為に道元禅師の大清規を講義して光陰を空しくしなかった。
                          四十二、雪団熱湯裏に豁然(かつぜん)として大悟す
安政六年(一八五九)三十九歳
 月潭老人はこの辺で坐禅専門の道場に行ってみたらどうだろうと勧めて、前橋市の竜海院に諸嶽奕堂師(後の大本山総持寺独往一世)の門をたたかせた。奕堂門下には百人以上の修業憎が雲集していた。奕堂師は穆山を一見し、凡人に非ざるを看破し、ただちに副寺(財政部長)に抜擢し、毎月の一日、十五日の小参(修学憎が問答すること)には払子(ほっす・導師をつとめる道具)を穆山和尚に渡し、「小参は副寺和尚に一任す」といって自分は方丈の間へ帰られた。その直後本堂では火の出るような命をかけた法戦問答が闘かわされたのであります。穆山和尚の行解(坐禅と学問)両全の人格の力量が、修行憎の質問に対して烈火の如く爆発し、激流の如く流出したのであります。既に穆山和尚は一家の大宗将であったのであります。
 当時早くもその道誉が大本山永平寺にも聞こえて、穆山和尚は不老閣(永平寺貫首の室)に登って霊堂禅師に相見して来ました。
 万延元年(一八六〇)四十歳の時、穆山和尚奕堂師の専使(代理)として、沼田市迦葉山竜華院に趣き、雪中に身体をこおらして帰り、オー寒いといいながら行者(あんじゃ・寺院にあって諸種の用務に従事する給仕)の出したたらいの熱湯に足を入れてしまった。「あ、あつい」と叫んで足をひぎあげる刹那、行者がすばやく庭にとび出し、かかえて来た雪のかたまりを湯の中にたたきこんだ。雪はしゅっと音をたててとけてしまった。
 穆山和尚これを見て豁然として大悟した。少にして人間個々人に於ても、大にして宇宙天地 全体に於ても原形そのままで停止したり、人間の欲望のままになるものはない。春夏秋冬の変化は自然の法則、春来れば百花爛漫、秋来れば万山紅葉、
 「春は花夏ほととぎす 秋は月、冬雪さえて冷しかりけり」の宗祖道元禅師の親訓がここにも露現したのであります。
 それを我々人間は冷たいといって若情をいい、熱いと叫んで力んでみたり、雪のかたまりを投げ 込んで洗足たらいをひっくりかえして、大騒ぎしたり大笑いしたりしていることを、自分も演じたものであるわい。
 とうたって、方丈の間に上り、奕堂師に一部始終を報告申し上げてから更に静かに、
 等閑(なおざり)に口を開いて心肝を吐く
慙愧す従来習気の残すを
地の身を容(い)るる無しをいかんが歩を転ぜん、この時、知んぬる棒頭を免ること難きを
そしてその光景否真実の相を
雪団を把って熱湯に投ずれば
乾坤撲落して妙高僵る
知らず今日何の時節ぞ
銀槃を?倒して大笑い(原漢詩)
これで穆山和尚は印可(いんか・師僧が弟子の悟りを証明すること)証明を奕堂師から得た。

八戸自動車史 完結

八戸市がバス事業買い取りで岩淵氏から訴えられた事件を奥南新報から掲載
バスにからむ岩淵氏の訴訟
工藤前保安課長も調べらる
八戸市を相手に岩淵栄助氏が提起していた市営バスに絡んだ訴訟の路線権利確認訴訟第二回口頭弁論は二十二日午前十一時から猪瀬裁判長、熊谷、中園両判事陪席、原告側気仙、被告側大野両弁護士担当のもとに開廷、原告側申請の上杉修氏、藤波市庶務課員、被告側申請の工藤前保安課長、現警務課長、藤田市議、吉田前八戸自動車営業組合長等の証人調べに入った。
上杉氏 市に路線権利譲渡するに三万二千五百円で譲渡したが配当額は路線によってなされるため従って岩淵氏のも八戸鮫間の配当であって八戸湊間は加わっていない
藤波氏 八戸鮫間のみで八戸湊間は必要ないというので契約書に記入しなかっただけである
といずれも岩淵氏に有利な答弁をなし工藤、蒔田、吉田の三氏もそれぞれ調べ同四十分証人調べを終了、原告側では次回証人として宮崎、蒔田、吉田の三氏を申請、被告側は神田市長と小笠原八十美氏を申請したが合議の結果証人申請は却下され結審となった。
昭和九年七月二十八日付け、奥南新報
バス問題和解
三千円で自動車買い
宮城控訴院の第二審で係争中であった市営バスに絡む市内八日町岩淵栄助対被告八戸市の路線確認訴訟の調停に小笠原県議が乗り出して二十三日の晩鮫の石田屋に三者が膝を交えて折衝を重ねた結果、市が岩淵氏所有の自動車一台を三千円で購入する事、岩淵は市内における自動車営業権を全部放棄する事、訴訟費用は各自負担する事で急転直下和解の成立をみた。
県議の小笠原はバス事業で乗合馬車を糾合し、敵対する先鋒、本多を抱きこみ十和田の新聞社主に抜擢し骨抜きにする。小笠原は策士だった。
第二次世界大戦による日本経済界、産業界の疲弊は交通の面にも著しくあらわれていた。元来は戦時体制の政策によって行なわれた企業統合だったはずの陸運界も戦後しばらくの間は容易に立ち直れなかった。 やがて三年を経、四年を遇ぎる頃には、最も素早く立ち上ったのは自動車業界であったのは言をまたない。八戸市の自動車事業も再び勢いをもりかえし、みるみる戦前にまさる隆盛を示すに至る。
○統合解体はじまる
 かつての統合体は昭和二十四年から昭和二十五年にかけて陸続と解体する。先駈をなしたのはトラック業者で、まず、昭和二十二年六月、南部貨物自動車株式会社は、第一次統合当時の復元を帰して六ブロックにわけ、それぞれ営業所として発足させ、独立採算の原則をとることとなった。
 次いで昭和二十四年二月、戦時企業解体特別処置法の施行によって、六ブロックの営業所をそれぞれ一、三戸トラック株式会社二、八戸トラック株式会社三、三八五貨物自動車株式会社四、中央トラック株式会社五、漁港トラック株式社六、五戸トラック株式会社として申請したが、結局、一、二、三の三社に営業免許がおり、四、五、六の三社は従前通り南部貨物自動車株式会社として存続するに至った。
 一方、タクシー事業は昭和二十五年に至って、八戸自動車株式会社から藤金タクシーがまず分離独立し、藤金タクシー所属分を除いてそのまま存続することになった。このころ、都タクシー、大洋タクシーも発足している。なお市営バスは、昭和二十四年、営業を返還されるや、旧に復する態勢となる。
○新規業者の台頭
 戦争終了直後の混乱期を乗り切った日本の産業経済は驚くべき復興の足跡をしめした。人間と貨物の輸送は鉄道の独り舞台ではなくなり、自動車交通が大きくクローズアップされるや、道路の整備と相まって自動車事業はまたたくまに発展した。市営バスの路線は拡大され、本数もいちじるしく増加し、さらに南部鉄道バスの乗り入れをもってしても、なお利用者の増加に及ばぬ始末であった。昭和二十七年には県南バスも発足、翌々二十九年には三八五交通株式会社と発展、また十和田電鉄バスも乗り入れ、現在は、八戸市交通部、    南部鉄道株式会社、三八五交通株式会社、十和田電鉄株式会社の四社を数えている。
 タクシー業者は、ことに業者の数が増し、都タクシーが三八五タクシーに発展、前記の大洋、藤金に加えてポスト、光、文化と、昭和二十七、八年の二年間に新規業者が営業を開始し、やや乱立気味であった。基本料金を八○円に下げるなど一時的な苦境もあったが、漸時利用者の増加に伴って比較的順調な営業をなしえるようになっている。なお前述の八戸自動車株式会社は、昭和三十年に八戸タクシーと改称している。
 トラック業者は、年次ややおくればせながらも、八戸の新工業都市の青写真とともに北斗、丸元、相互、八戸港運輸、島谷部乳業、湊合同、八戸運送、八戸相互運送等、とくに昭和三十年以降、急激な増加を示している。
あとがき 上杉修
 「八戸市自動車研究会」は今度「八戸地方の自動車史」を編纂した事は非常に喜ばしい事であります。数年前から、よりより話は出て居ったが、御互に多忙の身の方々ばかりである関係と、自動車創業時代の方で不幸にも亡くなられた方も多いので、当時の話及び資料にも乏しく、編纂の主軸となった、泉山信一氏の苦労も並大抵の苦労ではなかった事と思われます。然しなんと言っても大綱が出来上った事は喜ばしい、正しいとか、完全だとは云われないが、一本の柱が出来れば、それによって附記も出来れば脱漏も補う事が出来るから八戸の自動車界のため良い事業をやって下さって非常に有難い事だと思って居ります。「ああよい事をして呉れた」と肩の荷がおりたような感じをしたのは筆者の上杉であります。「私が警視庁の甲種免許証を取って八戸に帰り、世話する人があって盛岡の夕顔瀬多賀で使用して居った、フオード自動車リムジン型(箱型)中古車を買い、自動車運輸営業願を青森県庁に出願して許可になり営業したのが八戸タクシー界の始まりで「青五号」であった。小中野浦町、藤金様の店頭を借り電話「二六番」を使用させて戴いた。一ケ年後には新車一台買う位貯った。何にせ所得税もなく自動車は一ケ年一台につき幾らと云う「営業税」を納めるだけの時代だから割に成績がよかった。自動車に来る客は一時間位は待っても呉れたし、又持たせられもした時代だから楽なものであった。其の後急に貸切自動車を出願する人が出来て、藤金様を始めとして続々許可になった、木炭や野菜を積むトラックが乗り入れて来て八戸でも許可を取る人がおり、其の後に乗り合い自動車組合が組織されて八戸鮫間が運転されたのです。順序が不同になりますが、八戸に自動車が来る前の事を考えて見ますと、何にせ、八戸と云う所は海を利用し汽船で沢山の荷物が陸上げされたが、船では日数がかかるので困った様でした。日本鉄道株式会社が鉄道を八戸へ乗り入れに地元の人が協力しなかったため明治二十四年八戸を通らずに尻内から青森へと敷かれてしまった。東京からの物資は尻内駅止りで、大八車、駄馬や二輪馬車で八戸へ運ばれ、後で四輪馬車で持込まれたが、その不便さを感じ文化に後れると云う事を、まざまざと見せつけられたのです。それで八戸町や小中野村の有志が運動して明治二十六年に尻内訳より分岐して八戸支線が湊駅(今の貨物駅)迄で延びた事になります。駅からの荷上げのため荷車や、荷馬車がたくさん入り又車大工を業とする人も出来たものです。あの店には荷車が参台もあると云うたものです。又人を乗せる人力車が沢山買われ、汽車の到着ごとに駅前に沢山並んだものでした。当時は金輪のため、ガラガラと音をたて、ゴム輪になり、空気入のタイヤーに変わり各町内の辻々に車宿があったものです。
客馬車(ガタ馬車)が長横町から左比代の馬車屋(停留場)迄で相当台数走っておった。御者がラツパを吹きながら馬の手綱を持ち、馬丁が馬の先にたって走った時代もあった。高等馬車が入って来たのは相当後の事になります。私が自動車を始めた頃は馬車馬が驚いて困った。又、馬車が二台並んで道路を塞ぎノロノロ走るものだから其の後について八戸町から小中野村迄行った事もある。今は其の人力車もガタ馬車も高等馬車も姿を消してしまった。私のハイヤー営業も古いと云うだけで良い種も蒔かず、何等意義ある事も出来ず功績も残って居りません。やはり馬車同様消えて無くなる運命の様です。私の自動車業に御手伝下さった方々は沢山あるが、現在地元に居る方では、自動車界の大先輩で浮木喜四郎氏、八戸マツダ社長二本柳栄吉氏等で、大洋タクシー社長須藤清氏は子飼の弟子であると云う位の所です。
ハイヤーの外に市内の乗合もやって居ったが、神田市長時代、細長い八戸市を縮めたい、との話で昭和七年乗合自動車の権利を八戸市に譲渡し、同時にハイヤーも廃業し昭和八年に番町に公衆浴場を開業して自動車界から足を洗った事になるが、然し種々の縁故でいまもって青森マツダ自動車株式会社監査役、藤金自動車株式会社専務取締役と云う名誉職が残って居るから未だ生きて居る事になるかもしれない。雲助(駕罷かき・運転手)が三助(湯屋)に早変りしたが今は八戸浴場組合長、亀の湯主人で業界からは達ざかってしまった。自動車史を作って戴いて、有難くて有難くて、八戸の自動車界を振り返って見る積りであったが、自分の事のみ述べて手前味噌を書いてしまった。此れで筆をおきます。

おいらんが常現寺に来た。高山和尚は小中野を隆盛にしたいと努力の人

江戸の昔、新開地だったところに人々が大勢入りこんだ。新都市の新構築だけに職人が必要となった。江戸の地は家康を大阪から遠ざけようと、秀吉が江戸は防備に最適とそそのかした。家康も猿から去った方が何かにつけよいと江戸を開拓した。
江戸は太田道潅が興した地、築城・兵馬の法に長じ、学問・文事を好んだ。雨宿りに百姓家に入り込み、雨具であるところの蓑(みの)を貸してくれるようにと頼むと百姓家の女房が山吹の花を盆に載せて出す。いぶかしむ道潅に、これは古歌の「七重八重、花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」で実と蓑をかけて、ありませんと断っていると家臣が教える。道潅は歌道に暗かったと、それ以後精進し、歌人と呼ばれるほどになった。当時の江戸は武蔵野の一隅でひなびたところ。ここを開拓し、駿河台をひき崩して江戸湾を埋めた。駿河は家康の領地の名だ。大名屋敷が九割、町人は残る一割に住む、住宅事情も悪く、町人は長屋住まい。男が入りこむが、女日照り。それを解消しようと女郎が出る。それも方々に居てはまずいと日本橋の近くの吉原に限った。火事で吉原が新吉原となり浅草の先に移転。地域を限ったことから廓と呼ばれる。
女は方々から寄せ集め、おらか、おらは市原の出だよう、じゃ興ざめになると、ありんす言葉を教え込む。だからここ吉原をありんす国と呼ぶ不思議な土地となる。何、早い話が男のディズニーランドだよ。
そこで女を銭出して買うんだが、女が部屋に来ない。これを振られたといって、気にもしないように、その振られたことで怒るは野暮だと、ありんす国の経営者が巷に吹聴するな。
だから、銭払って女買いに来て無様な態でも文句が言えない。「お客さん、おいらんがこなくて残念無念、でも怒っちゃ野暮ですぜ」なんてギュウ太郎っていう女郎屋のあにいに言われるてえと、仕方なしに納得する。
これは女郎屋の経営者が頭がいい。どうしたって女の数がすくない。まわしって、女を部屋から部屋に回す、女郎にも格があって、最上級がおいらん、次が格子、下級は端の方に座るから端(はした)、その端しか買えない男に、まさか端の色黒女とも言えないからおいらんが来ない、今に参りますって、おいらんおいらんと持ち上げる。
銭出す方だって、大名がおしのびでおいらんと寝に来る、そのおいらんと同じように端女を呼んでくれるんだから、気分の悪いはずもないが、女郎だってあっちの部屋、こっちの部屋じゃ体が幾つあっても足らなくなるから、どこかの部屋で寝込むナ。
それを銭も大して持たない間抜けが、いつ来るかいつ来るかと気を揉むわけだ。
ここらが落語に出てくる訳、落語家は世相のアラで飯を食いと講釈師が言うと落語家も、講釈師、見てきたような嘘を言いと切り返す。
吉原は大層隆盛だった。上図のように東京ドームより大きい。そこに女がひしめいていたんだから面白いディズニーランド。そこの仲の町をおいらんが道中をしてみせる。なんのことはないパレード。下級女郎よりたまにはこんなピカピカもいると見せびらかすだけのはなし。それが東京浅草で観光として今も見せられている。そのおいらん役が八戸出身の女性。それを常現寺の和尚が、江戸の文化を八戸市民に見せようと企む。入場料の一部を小中野の遊郭だった新むつ旅館の維持費にあてようと考えた。そして大成功、多くの客があつまった。東京からおいらん道中の役者が勢ぞろい。新むつ旅館への寄付も五十万円を超えた。高山和尚は人生の軽みを尊ぶ。僧侶が偉そうなことを言えばどうしても坊主臭さが抜けないと、あえて飄逸を尊ぶ。自身の小遣いを毎年気持ちよいぐらいに小中野発展の為に撒く。もうどうしようもなく荒廃した町を隆盛の五十年前にしたいと。秋空の高さを見て涙し、こんなに空は高かったかと、小中野の五十年前、それほど遠くになりました。

東奥日報に見る明治二十三年の八戸及び八戸人

三戸郡下長苗代大字高館西山チヨ方より去る一日出火十戸焼失
星亨の行く先
○ 妖星の三戸着 妖星亨の一行は八時七分浦町の列車にて当地を去り正午十二時過ぎ三戸停車場に着せり獣党は往年来僅か該地によりて命を県下に繋ぎおれる所今回妖星の来遊と共にかねて現ナマの下付ありたれば一味の徒党は妖星の忠義のしどころは是れ此処なんめりと旗を押し立て出迎えあり警部巡査に護衛せられて八日町なる旅店田子宮太方に投宿せり同店に於いて昼飯をなしたる後午後二時より同心町なる長栄寺において演説会を開き宣伝の帝国の地位、臣雲平増租の理由、鈴木儀左衛門の日本目下の政党、妖星の我が党の本党皆例の怪弁をふるいたる後懇親会に移りしか会費は三十銭という名ばかりにて皆妖星のご馳走になれば愚昧の輩に至るまで来会するもの頗る多く二百五六十名と聞こえし午後七時三十分土地柄だけに無事平穏のうちに散会したるは獣党の万歳というべし妖星曰くああ今日は初めて少し息をついたと憐れ
○ 警戒中島保安課長石黒八戸警察所長は巡査八名を引率して妖星に随行し石黒署長は巡査と共に昨日一番下り列車にて八戸に帰署せり
○ 妖星の五戸行き 星一行は昨日未明三戸発の汽車にて尻内に出てそれより腕車にて五戸に向かえり依って三戸分署は巡査十名を派出して星を五戸へ送り更に八戸にても巡査五名を出して五戸に届けることになれり
○ 五戸村の政界 五戸村は由来憲政本党の根拠と目され正義の気澎湃として表れ盛んなるの地かつて源晟か村谷有秀と相携えて鹿を第一区に争うや晟等同地に至りて大に辱められほうほうの体にて逃走したることあるにても知るべし況んや政界の賊正気の敵なる星が足をこの地に入れるや謹直なる同地の士民も是れを見かねけん大に憤慨しおるといえば星等の赤恥も思いやるべきのみ為に其の筋にては警戒怠りなく三本木よりも巡査を招集することになれりと
○ 妖星の八戸行き 星は五戸を切り上げて今二日午後八戸に向かう予定にてそれより引き返して五所川原に向かい弘前に出る計画なりと星の恥さらし是れより続々と紙上に現れん
南部地方と星
五戸における星一行
星亨一行を五戸に呼び寄せたるは五戸の和田陸夫、中島太七並びに八戸の福田祐英など壮士の運動によりしものなればこれに加わりしもの大抵弥次喜多なることは言わずして知るに足るべし星一行は去る三十一日三戸町まで出迎えたる倉石村の古川伊代八、藤村耕一という二名の先導にて尻内に着するや五戸より差し向けたる腕車十三両に乗りて五戸に向かい午後一時過ぎ前記の和田中島その他五六名も知れぬ連中により「歓迎星亨君」「正義所向無敵」など書したる二本の旗を押し立てて町端まで出迎え中島保安課長間山警察分署長二十余名の巡査に護衛せられて新町なる浪岡旅店に投ぜり直ちに午餐をすませたる後二時より高雲寺において演説会を開きしに来会者四百十三名演説はいずこも同じ星以下菅伝鈴木雲平四名にして例の如くシャベルものなり右終わりて懇親会を開きしが来会者百四十名にしてこの演説及び及び懇親会には五戸の有力者は近寄りもせずただ主だった臨席者といえば戸来村の長嶺精治、戸来精治、三滝元衡位のものにして豊崎村長対馬精夫他助役村会議員主立ち十余名並び荒木田信一氏も臨席したれども氏等は五戸に来る以前に一同集会を催し決して星派と進退を共にせざるを誓いたるものにして只行ってみようじゃないかというので来たりしなりと臨席の一人なる某氏は五戸村役場において社員に語りて曰く星のご面相を拝んでおくにすぎないのだ誰があんなものに加担するかと
○ 星の来遊と八戸
八戸地方は五戸地方と同じく今は殆ど挙げて進歩派に属するというも過言にあらざるの地なるが今回星一行の来遊に付準星と渾名せらるる源晟を初め子分の無頼漢などが現ナマの為に歓迎などと騒ぎ回るより方法なく悪税の張本人なりとて党派の如何に拘わらず人皆これを嫌悪しおることなれば一層これを指弾して心ある者は少しも意にせえかけるものなかりし八戸の出迎え者は藤井、竹内伊助、川口小太郎
黒石の騒ぎ 星一行黒石に到着するや両側屋根より石雨の如く飛び星以下負傷、立川雲平は護身用ピストルを三発発射、巡査抜剣、大混雑を極め双方とも負傷者あり
八戸町大祭 二十五日は御輿通輿の初日にて各町附祭及び諸種の催し等にて市中賑わい申し分なく近県よりも観客群集し各宿屋は客室のなきに困却せる程なりき午後二時より郷社オガミ神社より繰り出し行列整然として屋台手踊り万般の催しにて停車場通りより三日町へ出て大通り新荒町より上組町裏通り十六日町より右折して鍛冶町より長者山に趣き新羅神社境内にて全く当日の式を終わりたるは午後五時なり夜景は降雨にも拘わらず芸子踊り屋台の通行及び種々の手踊りにて市中賑々しく毎戸軒提灯及び角灯等にて一層景気を添えり第二日目(二十六日)は中日と称し休息日なるがこの日晴天公園なる長者山にては打球の催しあり市中は虎舞大神楽芸子手踊り等にて賑わしくかりし、夜中は初日にいやまして賑わしく第三日目(二十七日)は御帰輿と称し初日の如く長者山より繰り出し裏通り六日町へ出て柏崎新町より下組町へ出て大通り八日町より番町通りオガミ神社へ帰社せり夜中は殊更人通り群集して賑わい申し分なかりき
三戸郡の政況 
○ 両派の候補者 由来進歩派独占独占のところ只一部腐敗漢の現ナマに眩惑して自由党に降りし一味あるのみにて未だ政界の勢力をなすに至らず進歩派は去る十日を以って予選会を開き八戸方面より関春茂、川勝隆邑、遠山景三、石橋万治の四氏五戸方面より江渡種助氏を推し三戸方面また目下協議中なりと言う之に反して自由党は大芦梧楼、進歩派の前議員諏訪内源司二氏の外新たに加賀利尭となん言えるを合して三名の候補を推したるも自由党の同地方に入れられざるは何処も同じこととて形成日に非なるは言うまでもなく勿論進歩派の勝利なるは疑うべくもあらぬことなり
○ 源と大芦との不和 人は彼等の名を耳にするだに不快の感を起すは彼らの平生を知るものの禁ずることを得ずところ合同の議あり進歩党支部を組織する時二名とも其の発会式にあずかり談笑の間に将来の提携を約したるに不拘今や現ナマに魔せられて自由党の奴隷となりしこそ是非なき次第なれ而して今回の選挙には如何にもして自由党の勢力を扶植せんと身の程も知らずおこがましくも我は候補者なりと名乗りいで先ごろ本部より一味の運動費として八百円の下渡を頂き自れ懐中してそしらぬ顔して独りホクホク喜びおりし甲斐もなくこの道にかけては兄たり難く弟たり難き源晟の為看破せられ其の分配を受けざるを憤り両者の間に不和を生じ大芦に負けずと江戸へ罷り出て現ナマを頂戴せんと意気込みたるも流石に人目を恥てか表面は自己所有の黒澤尻なる石膏山の用件と号して去る八日出京の途につきたるが彼が本部より受け取るべき現ナマは大芦同様八百円なりと言えば二人の価格は八百円宛てと知られさても安き人間一匹よな
郡会議員選挙の結果
八戸 石橋万治 浅水礼次郎 小中野 白井毅一 大館 和田議宣 島守 高畑幾太郎 上長苗代 馬渡又兵衛 下長苗代 高橋種吉 長者 岩館善次郎
県会議員 八戸方面
候補者四名、関春茂、遠山景三、石橋万治、川勝隆邑の四氏を推す自由派の微力到底進歩派と堂々争うの元気なければ漸く大芦梧楼氏一名を以って之と争うことなれども是とても当選おぼつかなき模様なりと無勢力も甚だしと言うべし
源義経の借用書
藤倉俊親氏なる人前年源義経の銅像を函館公園に建てんと計画し一万二千円の見積金を以って秩父、鞍馬、福山、衣川、水戸等縁故ある地の石を以って二層の台を築きその上に義経が甲冑に身をかためたる銅像を安置せんとの設計概略決まりしが二十七、八年の戦役にて計画を実行する運びに至らず次で藤倉氏病没してその志継ぐものなくその秘蔵せる源義経の遺墨も二百円の抵当として函館弁天町に質入となりと言うその遺墨は

一干海鼠 五石
一干魚色々 二十刺
右借用致し候後日遂本意候節返済可致すもの也
文治五年九月五日 花押
クレシゲ殿
義経が衣川に死せざりし一証ともなるべく二十五年五月臨時全国宝物取り調べ委員の検閲を経たり
県会当選者
江渡種助四百六点 関春茂二百九十六点 石橋万治二百五点 川勝隆邑二百四点 諏訪内源司二百四十七点 尾形及四郎二百四十点
落選 遠山景三、大芦梧楼、加賀利尭