2009年5月12日火曜日

司馬の東條英機3

日本軍が深刻な砲弾の欠乏になやんだ最後の大会戦である奉天会戦もそうだった。日本車はありったけの兵力を横一線にならべてロシア軍に対し、自分の大を見せた。その実用兵上必須ともいうべき予備隊(後方に控えさせる兵力)まで前線にくりだして横の線をながく大きくした。実際は絹糸のようで、どの部分にも厚味がなく、もしロシア車がその気になれば突きやぶれたのだが、ロシア軍はそのつど幻惑されて後退し、結局はアメリカ大統領による調停によって、戦いそのものを終えた。
 敗者のロシア陸軍はその後、このときの戦訓を研究し、やがてソ連軍に継承され、かれらは「縦深陣地」という新奇なものを考案した。それがソ連の野戦における型になり、ノモンハンの戦場にも、その祖形というべきものが登場し、攻勢主義の日本軍をそのつどくだいた。縦深陣地という野戦陣地は、かつての日露戦争のときのように横一線でなく、タテにふかい矩形なのである。
 タテ長の矩形の陣地内部は縦横濃密に火線が構成され、たとえば攻撃主義の日本軍の戦車がとびこんできても、まず前面のピアノ線でキャタピラーをからめとる。ついで対戦車砲でうちとってしまう。たとえ日本軍がわずかに内部に入ったところで、側防火器とよばれる火力でくだき、また攻撃主義の日本の歩兵部隊が肉弾突撃してきても自動小銃によってなぎたおすというものであった。
 この双方のちがいは、日本陸軍が日露戦争の肯定から出発したのに対し、ソ連陸軍は否定から出発したことによる。すでに日本の参謀本部も陸軍大学校も、日露戦争後、墨守しつづけてきたお家芸の対ソ戦法がなんの役にも立たなくなったことを知りはじめていた。しかしそれを反省するまもなく、二年後にかれらは日本国を太平洋戦争に突入させるのである。
 そういう無思慮集団のたばねとして東條がいた。
 アメリカにはゆらい戦術というものがありません。わが陸軍にはあります。という意味のことを、東條の子分のひとりである軍務局長・陸軍少将佐藤賢了が国会の答弁でいったことがある。
昭和十八年三月一日の衆議院決算委員会での質問に対し、佐藤が、アメリカ軍について詳細なる解剖を加え(「朝日新聞」)て、以下のように答弁した。
 一、米陸海軍は実戦的訓練にとぼしい。
 一、大兵団の運用がはなはだ拙劣である。
 一、米陸軍の戦術はナポレオン戦術にあって、多くの欠陥をもつ。
 一、政略と軍略の連繋が不十分きわまる。
 正常な人間のいうことではない。
 明治時代のある時期まで、陸軍大学校には教科書がないということが誇りとされた。が、その後、教科書ができることで、日露戦後の用兵思想は慣習として集積された。終戦のときの陸軍大臣で、終戦とともに自決した阿南惟幾は、大正七年(一九一八)、陸軍大学校を卒業した。かれは和平原に反対し、あくまでも抗戦を主張し、その理由の一つとして、「わが陸軍はまだ主力決戦をやっていない」といったといわれる。日本陸軍は現実には潰滅してしまっているのに、学校でならったこと(主力決戦)をまだやっていない、というのである。
 東條とは何者か、などということを語る必要もない。繰りかえしいうようだが、かれはたいていの事務所に一人はいる謹直な書記といった資質のひとだった。
 カミソリという異名をもったほどに事務やその運営についてこまごまと遺漏なくやる一方、他人の事務的ミスをめざとく見つけ、きびしく指摘したりした。
 が、独自の世界把握の思想があるわけでもなく、人生観についても借りものでない哲学をもっているわけでもなかった。陸海軍の実勢さえ知らないのに、格別な軍事思想をもっているはずもなかった。とくにあるとすれば、士官学校時代に学んだ。弱気になるな必ず勝つと思え。味方が苦しいときは敵も苦しいのだという素朴な戦争教訓だけだった。
 かれは、卵形の頭をもっていた。メガネと口ヒゲを描くだけで似顔ができ、一種の雄弁家で、鳴る薬曜といった感じでもあった。軍隊には、中隊長(ふつうは大尉)以上の団隊の長は精神訓話という演説をする習慣があり、かれもそのことに馴れていたのか、よく演説をした。
 『東條首相聾明録』(昭和十七年、誠文堂新光社刊)という本がある。
 開戦より六ヵ月前の昭和十六年六月十三日、かれは早稲田大学にまねかれて講演した。ときに五十八歳、陸軍中将で、第三次近衛内閣の陸軍大臣だった。
 このときの演題は、「学生諸君に要望す」というもので、まず世界情勢を説き、欧州においては「大部を席捲したる盟邦独伊は……疾風枯葉を捲くの電撃作戦に成功し」といい、一方において英国は「血みどろの大決戦を展開」し、米国については「授英態度は日一日と硬化しつつあるのでありまして」といったぐあいに平板につづいてゆく。
東條は自分自身について政治家とよぱれることをきらった。が、それなりに政治的能力を発揮した事歴があった。第三次近衛内閣のとき、中国からの撤兵問題が出た.東條は撤兵問題は陸軍の生命にかかわる、絶対に撤兵しない、と主張しつづけて、結果として近衛内閣をつぶした。
 あとたれが首相をやるか。陸軍さえおさえれば国がすくえるという良識をもった要人が多くいたが、ただかれらをおさえるだけの政治力をもった首相適任者はもはやいなかった。前首相の近衛文麿は、皇族しかないだろうと考えたりした。
 ところが、おもいもよらぬことに、東條そのひとに大命が降下してしまった。
 当時、内大臣(宮内大臣とはべつ)というふしぎな職があり、一八八五年以来、政府ではなく宮中に設けられてきた。この当時の内大臣は、木戸幸一だった。大正末以来、西園寺公望がその任を負ってきた。その西園寺が昭和十五年になくなると、内大臣の木戸幸一がその任を負うた。その木戸が、東條を推したのである。
のち、東條は、戦況が悪化するとともに、全国を兵営にしてしまうというふしぎな全体主義を進行させた。また世論を閉塞させるために、本来、陸軍のポリスであるはずの憲兵をかれは政治警察のようにつかい、恐怖政治を布いた。
 東條政権の後半は、不評判だった。しかしながら、首相としてのかれの生みの親だった木戸内府(内大臣のこと)だけはかれをかばい、支持しつづけ、さらには東條を批判する声や意見、あるいは戦況の実態については、いっさい奏上しなかった。
 まことに、木戸は明治憲法国家を滅亡させるための要の役をなした。かれが酋相としての東條を生み、その政権を維持させた。国家も民族もほろびようとしているなかでも東條がその座にいることができたのは、単にそれだけの事情だった。ついでながら、この場合、天皇は、なにをすることもできなかった。
 明治憲法にあっては、天皇は自分自身の発意による政治行動はせず、すべてその衝にある者(この場合、木戸や東條)の輔弼(明治憲法の用語)にまかせるということが、あるべき立憲的態度とされてきた。
 となると、当時の日本をうごかしていたのは、東條という木偶で、それをささえているのは木戸という黒衣だったことになる。こういう形態も仕組みも、明治以来かつてないものだった。戦後、明治をふくめた日本の体制について天皇制国家などと断定されたりもしたが、そういうことは、東條時代だけのことで、他の時代にはない。
 さかのぽったところでせいぜい十年程度で、そのもとはといえば、軍が、統帥権という憲法解釈上の慣習の項に入るべき大権をことごとしく擁し、本来の三権(立法・行政・司法)を超越するものとして魔法の杖のようにつかいはじめてからのことである。
 どのような超法的行為でも、統帥権をもちだすことによって一見合憲的になるなとは、明
治時代、憲法草案者の伊藤博文たちが生きていたころにはおもいもよらないことであった。
 東條は、日本国をヒトラーのドイツに似た全体主義にしたかったのだが、明治憲法が停止されているわけでもないために、臣道ということばをキーにして、国民の一人一人をステロタイプの小さな缶のなかにとじこめようとした。人間を成り立たせている精神的要素のほとんどをとりのぞいて臣道だけに縮小しようというもので、のちに、この時代のことを。天皇制ファシズム’などというのは、そのせいでもあったろう。臣道などというふしぎなことばは、東條以前、近衛内閣のころからつかわれはじめたが、戦時社会における唯一の国民精神の規範にしたのは東條であった。
もはや、東條の驀進を阻む機関も、その非を鳴らす機関もなくなった。
 独裁者はつねに自分の死を質草に入れて成立している。東條が国家と民族をほろぼす、とおもったひとびとにとって他の薬殺がなく、東條の死をつくりだすしかなかった。
 が、東條は他の国のどの独裁者よりも凛然としていた。
 かれは、官邱への通勤にはオープン・カーをつかい、殺すなら殺せというふうに自分を露出していた。
 かれは、一種のひま人だった。庶民の家のゴミ箱をつつくのが大好きで、それをすることで国民が無駄をしていないかどうかを(つまり戦時経済がどうなっているかを)しらべたりした。少尉か中尉がつとめる週番士官のようなことを宰相でありながらやっていた。そのような点検(軍隊用語)をするためにも、オープン・カーをつかった。

2009年5月11日月曜日

司馬の東條英機2

 のちに、戦争の末期、右のような銃さえ十分ではなくなり、東條英機によって民間人の竹槍による訓練が奨励されるようになった。東條は、右の陸軍准尉以上に陸軍准尉的だった。
 たとえば、軍事の専門家なら、東條がいくら陸軍軍人とはいえ、当然、対米戦争を決断するにあたって、日本海軍の成りたちとしての本質や実力も知っているべきだったろうが、ほとんど無知にちかかった。
 当時の日本海軍についてひとことでいえば、長期戦には耐えられなかった。日本海軍には固有の戦法があって、仮想敵国の主力艦隊が日本近海(日露戦争でいえば、ロシアのバルチック艦隊がウラジオストック港にむかうべく入ってきた対馬海峡)に接近したとき、総力をあげて(連合艦隊を組んで)これを迎えうち、撃滅するというものだった。くりかえすと、日本列島付近でまちぶせして主力決戦をするということである。
 ひろい太平洋で戦うようにはできておらず、従って、連合艦隊は一つきりのセットしかなく、一会戦で消耗すれば、それっきりのものであった。
 もともと、当時の日本としてはそれでよかった。大海軍というのは、国威などという国家的虚栄でもつべきものでなく、地球規模の植民地をもつ大帝国(十六世紀のスペインや十九、二十世紀初頭の英国)にとっての実用品というべきものだったのである。
 植民地大帝国は、世界じゅうの植民地を結ぶ商船隊の保護なくして成立しない。
 ただしアメリカ合衆国の場合は、本国じたいが長大な海岸線をもち、かつ大西洋と太平洋にわかれているために、大艦隊は最低二つのセットが必要だったし、それに二十世紀初頭、フィリピンを植民地にしたために、そのぶんだけ海軍力をふやさざるをえなかった。
 日本の場合、かつてのスペインや、盛時の英国のような地球規模の植民地があったわけではない。
十九世紀末、日露戦争の前段階、ロシア艦隊に対抗するために大海軍を建設せざるをえなかったのである。
 日露戦争でロシア艦隊を沈めることに成功したあと、日本としては二十世紀後半の英国のように海軍を縮小してもよかったのだが、軍の縮小は軍を構成する職業軍人の首切りを意味するため、抵抗が多く、とうてい不可能だった。幸いというわけでもないにせよ、日露戦争の前後からアメリカがフィリピンに対して本格的な統治をはじめたために、日本海軍は、仮想敵をアメリカにかえた。しかもその仮想敵は、日本海軍が思うようなコースをたどって日本列島にやってくることになっていた。
 つまりかつてバルチック艦隊が沖縄の列島沖をへて対馬海峡に入ってきたように、来たるべきアメリカ艦隊も、フィリピンを中継基地として北上してくると見、そうあらねばならぬとしていたのである。
 この机上の仮定は、海軍の存亡を賭けたほどに牢固としたもので、その仮定をマスタープランとして、二十世紀のはじめごろから、建艦をし、戦術をたてた。
 たとえば、潜水艦にしても、ドイツのUボートやアメリカの潜水艦のように通商破壊が主任務ではなく、日本の場合、フィリピンから北上するであろうアメリカ艦隊を、日本への途中、海面下でまちぶせしてすこしずつ艦艇を減らさせ、のちにおこなわれる艦隊決戦のときの敵兵力を軽くしておくというために存在した。
 このように、軍事という一面からみても、戦争というもののおろかしさがわかる。敵が都合よくフィリピンからやってくるなど、妄想のようなものであった。
 しかし妄想を公算の大きさというあいまいな言葉に置きかえられると、いかにも妥当性を帯びる。
 この妥当性の上に海軍の基本戦略がたてられ、予算のかたちで国民に税負担が強いられた。それが、基本としての日本海軍というものであった。
 この基本戦略は、太平洋戦争がはじめられる二年前の昭和十四年でもなお維持されていたことは、海軍大学校に入った知人からきいた。兵棋演習においてくりかえしシナリオが演じつづけられていたという。あたかも、日露戦争の再演だった。
 兵棋演習というのは、駒を進退させているうちにほぼ両者の実勢がわかる。敵味方が。主力決戦をして、日本の損害が四割ですむ場合もあったし、ときに六割の損害をうけて敗北することもあった。つまり勝っても負けても日本海軍そのものが半身不随になるわけで、連合艦隊がそれっきりしかないためにそのあとの戦争の遂行などはできなくなってしまう。
 要するに、日本海軍は、世界を敵にまわして戦うようにはできていなかった。
 ついでながら、兵棋演習を裁定し、評価する戦術教官のことを統裁官という。さきにふれた私の知人の海軍大学校学生が、内心、戦争はその後もつづくのに、この主力決戦で幕というのはどういうことだろうとおもい、あるとき統裁官にきいてみたという。
「これでおわりでしょうか」
「これでおわりだ」と、統裁官はいった、という。さらに知人が質問をかさねると、統裁官は一段と大声で「これでおわりだ」と言いかさねた。おそらく実態を察せよ、ということだったのだろう。
 東條は長年、軍で衣食してきた。たとえ陸軍といえども軍事の専門家である以上、海軍の基本的な形質を知るべきだったとおもえるが、とてもそういう知識をもたなかった。たとえ海軍がその実態を陸軍に教えなかったからといって、この程度の把握は自分の頭でまとめることができるのである。
 結局、かれらは、太平洋戦争をやった。
 日本にとって戦争をする国家としての資格を欠いていたのは石油を産出しない国であるということだった。二十世紀のある時期から、軍艦も陸軍の車輛も石油でうごきはじめるようになっており、このため戦争を継続する以上は産油地である南方のボルネオその他をおさえる必要があった。そのためにぼう大な陸軍兵力を南太平洋の島々に展開せざるをえなかった。
 この大作戦は、日本陸軍の伝統的用兵思想とも相反するものだった。伝統的用兵思想とは、明治三十年前後、陸軍参謀本部でつくられ、かつ日露戦争で成功したため、昭和になってもその用兵上の型が牢固たる習慣になった。
 日本陸軍の型というのは、まず攻勢主義であることだった。
 ついで、兵力を集中して短期決戦によって敵の野戦軍主力を撃滅するという思想だった。短期でなければ補給がつづかない。
 これらについては、日露戦におけるいくつかの大会戦が、その成功例になっていた。この慣習化した思想のためには、敵主力が都合よく一定の戦場に集中してくれないとこまるのである。むろん、海軍と同様、敵がこちらの慣習用兵の注文に応じてくれるわけではない。が、海軍と同じように、それを願望した。
 つまりは、陸軍の場合も、敵が注文に応じてくれるという願望の上に基本用法がなりたっていた。
 さらに、短期決戦であるためには、日露戦争における日本の首脳がアメリカ合衆国の大統領を仲裁役にひきこんだように、いつの場合でも中立的な友好国を用意しておく必要があった。
 中立的な友好国を得るには、世界の嫉妬心や猜疑心あるいは人道主義的世論を刺激することは極力避けねばならないが、軍の謀略による満洲帝国の樹立(昭和七・一九三二年)や、中国本土に兵を入れて四方を駆けまわらせ、中毒患者のようにその事変をやめることができなかったことなどから、日本は国際的に孤立した。
さらには、日独防共協定(昭和十一・一九三六年)を結ぶにいたって、わずかな友人を得て大量の敵をつくった。つねに仲我国を想定しておくという戦略思想は、軍人のほうから忘れた。満洲事変から日独伊三国同盟にいたるまで、すべて陸軍が主唱し、主導した。
 東條やその陸軍仲間が陸軍大学校で学んだ用法は、すでにその実をうしなっているはずだった。たとえば昭和十四年のノモンハン事変のソ連軍の新戦法によって、くじかれた。ソ連軍は、日露戦争の敗北についての戦訓をよく研究し、あたらしい野戦形式をとっていた。
 このことについてややくわしくいうと、日露戦争における満洲の平野での数次の大会戦では、日露ともに鷲がつばさをひろげたように横に展開し、たがいに対峙した。たとえば遼陽会戦では双方二万人以上の損害を出しながらも、ロシア軍が後退してくれたことによって日本軍が勝った。

2009年5月10日日曜日

司馬の東條英機

東條英機(一八八四~一九四八)という名には、滑稽感がともなう。
 むろん、昭和史という暗澹とした時代を、いっそユーモラスにみたいという後人の衝動から出た滑稽惑であって、歴史の惨禍はそれどころではない。
 まして東條その人に諧謔精神があったわけではない。このひとにそんな高度な批評能力をともなう感覚などはそなわっていなかったし、たとえば明治時代の小学校教員のようにまじめで、篤実な小農のように働き者というだけの人だった。
 そういうひとが明治憲法による日本国をほろぼしたことは、たれでも知っている。
 しかし同時に、たれもそうは思っていない。東條が日本をつぶすほどにえらかった、などとは、むかしもいまも、たれもおもっていないのである。
 ドイツの場合、ヒトラー一人に罪をかぶせることができるが、東條はヒトラーほどの思想ももたず、魅力ももたず、また世界を相手に戦争をしかけるにしては、べつだんの戦略能力ももっていなかった。
 その程度の人が、憲法上の(慣習もふくめた)あらゆる権能をにぎって、決断ごとに日本を滅亡にむかわせた、というのが、昭和史の悲惨さである。かれ自身、自分がやっていることが亡国につながるとは夢にもおもっていなかったのである。みじめこの上ない。
 机というものは単に木製か鋼板製の物質にすぎない。ただ、日本では、官僚組織における机が、権限とそれなりの思想をもっている。厚生省某局某課の課長の机がその人の行動をきめるのであって、その机を前にしている個人の思想はさほどに機能しない。
 日本史には、英雄がいませんね。
 といったアメリカの日本学者がいて、じつに的を射ているとおもったことがある。この場合の英雄とは、始皇帝とかアレグザンダー、シーザー、ナポレオンといったもので、強烈な世界意識と自己への崇拝心、旧来のすべてを破壊してあたらしいものをおこす者、さらにはカリスマ性と戦法の一新という要素などをもつ存在のことかとおもえる。
 ともかくも、東條は前述の意味での机にすぎなかった。ただ、かれはある時期以後、首相の机と陸軍大臣の机と参謀総長の机をかきあつめ、三つの机の複合者としての独裁権をえた。ヒトラーの場合、ワイマール憲法を事実上停止することによって国民革命を遂げ、その政権を成立させたが、東條は明治憲法下の一軍事官僚という机にすぎず、その机が明治憲法下での内閣を組織し、明治憲法の手続によって対米宣戦を布告し、戦争を遂行したのである。すべて天皇の名においてやった。
当時、無数の小東條がいた。陸軍はその巣窟だったし、それに迎合する議会人、官僚や言論人、あるいは無数の民間人がいた。
 その種の時代的気分が、寄ってたかって憲法における統帥権の悪用を可能にしたといっていい。
 陸軍に秀才信仰というのがあった。日露戦争の陸戦をなんとか切りしのげたのは、そのおかげだったということを、陸軍そのものが組織をあげて信じていた。当時、各軍の軍司令官や師団長というのは年寄りで正規の軍事教育をうけなかった者が多く、これらに対し、そのそばに陸軍大学校を卒業した参謀長や参謀をつけ、結果として、他の多くの因があったにせよ、勝利をえた。
 以後、陸軍は秀才主義をとり、津々浦々の少年を選抜して陸軍幼年学校に吸収し、さらに中学四年修了者をふくめて陸軍士官学校にかれらを入学させ、卒業のときの成績順をもって生涯の序列とした。カーストのようなものだった。
 さらに少尉任官後、一定年限をかぎって全員に陸軍大学校の受験資格をあたえ、ごく少数を選りぬいて、高級用兵に関する学術を習得させ、参謀と将軍を養成した。この場合の卒業席次も、その後の栄進に影響した。
 東條を成立させたのは試験によるそういう制度だけだったといえる。
 かれは、べつに国家を支配したり、大戦争をやってのけたりするうまれつきの器質をもっていたわけではなく、ただ履歴によってうまれただけの人物だった。大正四年(一九一五)、歩兵中尉のときに陸大を卒業し、以後、その基礎に立って官歴をへた。数度の部隊勤務があ
ったものの、ほぼ中央でのポストを経、昭和十二年(一九三七)関東軍参謀長、その翌年は陸軍次官、昭和十五年、第二次近衛内閣のときに陸軍大臣になり、いわゆる昭和軍閥の頂点にたった。
 かれはあるとき、言葉のやりとりのなかでのことながら、「ヒトラーは兵卒あがりである。しかし自分は陸軍大将である」といったことがある。
 軍人の社会は、一般社会からきりはなされたところで成り立っている。束條がこの官歴のなかで、人間世界の過去と未来、さらにはその交点にあって進行している現代というものを、ときに歴史規模で、ときに国家や人類に責任をもって見つめるという成熟した知性、良識、あるいは哲学などを養った様子はなかった。
 かれは、子供っぼかった。ヨーロッパでいえば、聖歌隊の優良少年のように、教会のすべてを信じるというぐあいで、日本国を一個の聖堂とみて、その神秘をあどけないほどに信じていた。その点、善良ということばをつかいたくなるほどである。
 しかし、軍事専門家としても宰相としても低能に近かった。
 いったい、東條の資料をみると、何を考えて生きていたのかと呆然とする。かれが日中戦争(一九三七~四五年)をはじめたのではないにせよ、陸軍の要衝にいたとき、中国大陸では戦争が泥沼におちいっていた。宣戦もしていないのに、戦争状態をつづけていたのである。
日本は事変とのみ名づけ、このためにぼう大な戦費と兵員を中国大陸に送りつづけており、終わるめども立っていなかった。
 帝国主義は本来、利益計算の上に立っている。
 あなたは、国家としてどんな利益を中国からひきだすつもりだったのですか。と、もしここに東條その人がいるならば、きいてみたいところである。中国からひきだせる利益などなにもないのに、陸軍は、頭脳のない戦争機械のようになって自他の人間を殺しつづけていた。
 その上、中国との戦争を一方でやりながら、その間、関東軍(旧満洲)が独走して、べつな場所でソ連軍とのあいだでノモンハン事変(一九三九年)をおこしてしまった。陸軍は、国力の消耗についての計算など、まったくやっていないようだった。
 ノモンハンでの相手は、ヒトラーとともに、二十世紀が生んだ悪魔ともいうべき、スターリンなのである。かれは西方のヨーロッパ問題にぞんぶんに鼻をつっこむために、東方での後顧の憂いをのぞいておこうという政略判断から、この辺境問題を重視し、当時のソ運でもっとも有能とされるジューコフ将軍を起用し、かれが要求するままにふんだんな兵力と火力と機械力をあたえた。
 ついでながら、ジューコフは兵卒あがりの将軍だった。名将というものはうまれつきのもので学校教育によって生産できるものではないということの典型のような存在であった。
 関東軍はソ連軍についての実態をほとんど察していなかった。当初、軽悔さえしていて、このため兵力の逐次投入という戦街上の禁忌をおこない、死傷七〇%を超えるという惨憺たる結果をまねいた。
 日本陸軍では、関東軍が最強とされてきて、世界一だという自負心まであった。この事変によって、日本陸軍は、自らの装備がおそろしく旧式だということを、敗北によって気づかされた。しかもなんの手もうたずに、さらなる対英米戦争に突入するのである。東條はじめ陸軍の首脳が、正常な軍事専門家だったとはとてもおもえない。
 私事になるが、ノモンハン事変の昭和十四年には、私は旧制中学生で、すでに新聞を読む年齢だったが、この事変についての敗北も実相も伝えられたことがなく、どの記事もなにやら勝ったらしいという印象だった。このことだけでなく、総じて煙のようなリアリズムの時代だった。
 さらに小さな個人的経験をいうと、大阪城にちかい府立清水谷女学校の前の坂をのぼっていたとき、電柱にノモンハンの敗戦を公表せよといったふうな駄菓子っぼい色彩ビラが貼られていて敗戦という文字が私をおどろかせた。日本軍はむかしから不敗であるという神話をきかされていただけに、中世のキリスト教徒が聖母マリアの醜聞でもきかされたように思えた。
 (敗けたのか)
 と、少年の頭にも、そのことがまんざらデマでないような気がした。このときから五年後に、私は当時ノモンハンで凄惨な敗北を喫せざるをえなかった安岡戦車団の後裔の連隊に属するということになり、ようやく日本の戦車団の敗因が、物理的なものであったことを知った。こちらの戦車の装甲が薄く、砲が平射砲でなく、貫徹力がにぶかったことによる。むろん戦車の数が比較にならないほどすくなかったし、さらには、その程度の戦軍団でさえ、戦いの途中で上部の命令によって戦場からひきあげてしまい、あとは裸の兵士たちが草原に残された。兵たちの多くがソ連のBT戦車と火カのえじきになった。軍がこの戦場から戦車をひきあげたのは、全滅してしまえば、せっかく育成されはじめた戦車連隊の種子が絶えてしまうことをおそれたためであった。
 ついでだから、中学生当時のちいさな記憶を述べておく。当時、学校教練というものがあって、現役の少佐一人が配属され、その補助者として、予備役の中、少尉や准尉が歩兵訓練を施していた。そのうちの古ぼけた准尉のひとりが、「よその国には自動小銃というものがあるが……」といった。小銃ではあっても、機関銃のように、引鉄をひきっぱなしで五、六十発も連続発射できるものを自動小銃という。これに対し、日本の小銃は、ボルト・アクションとよばれる構造のものだった。
 一弾ずつの操作で遊底(ボルト)をうごかして弾をこめ、一発うつと、また空薬莢をはね出さねばならない。この日本陸軍の携帯火器の主力をなす三八式歩兵銃といわれるものは明治三十八年(一九〇五)の日露戦争の末期に制定されたもので、ほかにノモンハンの年の昭和十四年(一九三九)に制式になった九九式が併用されていたが、両者は原理も構造も大差がなく、要するに自動小銃の出現によって一挙に古道具になってしまったものなのである。といって、日本はそれを廃棄していっせいに自動小銃にしてしまうような経済力はなかった。
 「そのほうがいいんだ」と准尉はいった。おそらく師団に講習でもうけに行ってきかされた内容にちがいない。
 その理由はだ、一発ずつ遊底操作をすることで心をしずめることができるからだ、とかれはいった。
 いいか、射撃の要は、風なき日の古池の水面のように心がおちつかねばならん、一発ずつの操作があってこそ、それが可能である。自動小銃だと、狙撃のいとまがなく、弾がばらついてしまって効果がない………
 要するに、日本の小銃のほうがいい、と准尉はいう。旧式であればこそ、あるいは弱点をもてぱこそ人間は精神的になりうる、という神学としか言いようのない昭和時代の日本陸軍の思想は、軍隊でない学校教練の場にもあらわれはじめていた。

2009年5月9日土曜日

司馬の土地所有観

さて、奈良時代の仏教のことをのべねばなりません。
 隋・唐は、国家仏教でした。なにしろ大乗仏教は小乗仏教とちがい、金がかかるのです。造寺造仏を伴います。結局は国家仏教になるわけで、これに帰依しますと、帝王といえども三宝の御奴として仏教の下に入るのです。僧は官僧として国家公務員であり、鎮護国家という国家的原理を背負っていますから、ときに俗官俗吏を圧倒します。
 その上、平城京に巨大官寺が集中し、弊害が多かったろうと推量させます。
 奈良朝国家がわずか七十年余で奈良をすてて、のち京都とよばれる平安京にうつった、その主要な理由は、おそらく鎮護国家という大それたものをふりかざす仏教から脱出したかったのでありましたろう。奈良仏教は、ソ連や中国における共産党のようなものでありました。
国家の上に立ち、それを鎮護する形態においてです。
 この機微については、あたらしい平安京(京都)にあっては、官寺を置かせなかったことで察しがつきます。さらには、新しい都では、最澄と空海に、国家よりも人間を救済する新教義をひらかせました。かれらの寺も、叡山と高野山といったように、都から遠ざけました。以上で、仏教についてのことは、とどめます。
 平安京にうつると、律令制がくずれてきます。律令制、つまり公地公民であるべきことをたてまえとしつつも、荘園という貴族や大寺などの私有農場がふえるのです。
 平安期は、荘園という私領の時代であります。そのくせ、官制だけは、名のみの律令なのです。
 明治維新までそうでした。日本史は、こういう体制の基本的矛盾を平然とかかえてきました。
 平安後期ごろから、おそらく鉄が安くなったせいか、農業器具がふえ、各地で力のあるものが浮浪人をあつめて荒蕪の地を水田化する開墾、墾田ということが流行しました。とくにその流行は、坂東(関東地方)に集中しました。
 それらの農場主を、武士とよぶようになりました。
開墾すれば、その水田は、貴族や社寺の荘園に組み込まれます。この天の下に私有地はな
いという律令のたてまえは依然生きていて、いかに自ら開墾したからといって私田はゆるさ
れないのです。このために貴族や社寺にさしあげて、その土地の荘司などにしてもらいます。
管理人であります。しかし所有権は不安定で、京都の荘園領主からあの土地は汝の叔父のものだ、といわれればそれまでです。
 この不安定さに耐えかねて起ちあがったのが、十二世紀末の坂東武士の反乱でした。かれらは源頼朝を擁して鎌倉幕府をつくるのです。
 武士の世になりました。全国の土地に守護・地頭を置き、日本国を支配しました。余談ですが、鎌倉彫刻におけるリアリズムは、時代の風でありました。武士たちにとって、自分、もしくは自分の父親が開墾した土地が、やっと自分のものになったのです。律令という絵空事の世は去って、じかに手触りのある世になったのです。
 鎌倉の世がいかにいきいきした時代であったかは、その後の日本仏教が独自のものになり、武士をふくめた民衆のものになったことでもわかります。法然、親鸞、日蓮、道元という独創的な思想家が簇出したことでも、この時代の元気が察せられます。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
革命というのは、一つの民族の歴史で、いちどやればこりごりするほどの惨禍をもたらすもののようですね。江戸時代の大商人のほとんどが、潰滅しました。たとえば、江戸時代、大坂の大商人は、諸大名に金融をしていたのですが、かれら金融資本家は革命のために一夜で路上にほうりだされ、乞食同然になりました。
 農民も、大きな損害をうけました。江戸時代、農民は現金で租税を支払わず、コメで支払っていました。
 それが、明治四年(一八七一)、西洋なみに現金で支払えということになったのです。金納制とよばれています。それまでの農民のくらしの原則は自給自足的で、現金をもたないということが倫理にまでなっていました。このため農民の一〇パーセントほどは現金をどう手にいれていいのかわからず、現金をもつ大農民または醸造業者などに頼んで、みずからの田地を無料で譲りわたし、いわば志願したようにして小作農になりました。むろんこれらの変化をきらって各地で農民一揆がおこったりしました。

2009年5月8日金曜日

小中野芸者総覧

80年前は小中野、鮫は八戸ではなかった。小中野は八戸に編入されずとも、十分ひとり立ちできた。
それは紅灯の巷(こうとうのちまた・花柳界)で稼ぎに稼いだ。一葉の美文体の小説の中にも、吉原に向かう人力車の音で夜も眠れぬほどとある。
金を生み出す仕組み、つまり制度を発明した奴らは、市に編入され、折角の財源を浪費され、自分の町を守る方策を無くすことをおそれた。
結句、市制80年は鮫、小中野を無人の巷とした。合併など美名に酔い、実を無くした、あるいは無くさせたのは無能な官吏と、自分さえよければの政治屋たちだ。
小中野には教員上がりの広田という政治家がいた。市民から住民票の請求を受けると、自転車で役場に走った。その時間を生業にあてて欲しいの念願がそうさせた。
こうした立派な政治家は滅びた。今の政治屋たちは自分たちが食うことだけを考えている。市議の報酬を十分の一にしろ。だれも選挙に立たない。したい人よりさせたい人にだ。
小中野は人力車が走り、料理屋の窓からは歌声や三味線の音が響いた。銭さえ払えば股ぐら立てて蔵たてた女たちがいた。
くだらねえ女におべっか使って金使い、一発やりたいで長横丁をウロウロする馬鹿野郎が多いが、そんなのは糞くらえだ。昔の方がよっぽど気が利いている。
銭さえ払えば欲望を満足させられるのと、銭だけふんだくられて泣きべそかくのとでは、どちらが風(ふう・ぶり、物事のしかた)がいい。これは時代が悪い。まして青森県が無策、無能だ。若い女を中心としてシャッター街をなくさせろ。それは女の股ぐら立てて蔵たてるんだ。股を開いてシャッターを開くのサ。
つまり、青森県の風俗を特殊浴場解禁すれば再び小中野は生き返る。馬鹿な80年。八戸市制80年は没落倒産の八十年。長い時間、ひたすら八戸を悪くした。市も県も市民をひたすら食い物にしただけで、援助、幇助の手を伸ばさない。馬鹿野郎が、県であり市だ。八戸も岩手県に編入されるがよかろう。さすれば、八戸は再度にぎわう。
八戸に繁栄をもたらした美人たち、芸者名を記載し往時の匂いでもかごう。
1浪二
2三吉
3才八
4幸吉
5五郎
6丸子
7小奴
8国八
9駒助
10力弥
11桃太郎
12さと子
13小夜子
14きな子
15ちよ子
16梅八
17笑子
18君勇
19駒龍
20粟子
21桃千代
22梅勇
23りせ子
24二葉
25みわ子
26葉子
27愛丸
28八重司
29吉代
30信子
31喜久龍
32牡丹
33蔦丸
34時栄
35梅奴
36万平
37梅幸
38千松
39糸司
40小高
41小梅
42ひろ子
昭和十二年版
芸者解説
割烹料亭は料理人の居る店
料理人がいないのは貸座敷・貸席
芸者には三方あり、立ち方は踊り手、
地方芸者(じかた・立たないで座るから地につくで)音曲・三味線・唄の担当、それもできないのが、寝方芸者・芸がないので女郎まがいで寝る。
男芸者が幇間、幇助罪などの助けるを使うが、間がもてないのをたすけることから
タイコモチは太閤秀吉を持ち上げたことから、たいこもちに転じた。曾呂利新左衛門を祖とする。豊臣秀吉の御伽衆と伝える人物。本名、杉本甚右衛門、また坂内宗拾ともいう。堺の人。鞘師を業としたが、その鞘が刀を差し入れるとき、そろりとよく合ったことからの異名という。頓知に富み、また和歌・茶事・香技にも通じたという。
秀吉のほうびに新左衛門は米を一粒ほしい。ただし、明日は二粒、3日めは四粒で一ヶ月間願うと言った。
10日で512粒。15日で16384粒。20日で524288粒。30日では米俵で450俵、石高で180石。(6万粒で1升)
秀吉が「奥山に紅葉ふみわけなく蛍」と詠み、下句をつけよと命じる。曽呂利はすかさず「しかとも見えずともし火のかげ」

2009年5月7日木曜日

司馬の熊本

肥後のめでたさは、一国が美田でできあがっていることである。
 ただし、難治の国といわれてきた。国人・地侍とよばれる室町期以来の土豪たちが田地と非自立農民をかかえて割拠し、大勢力によって統一されることをのぞまなかった。また自分たちの仲間から大勢力が出ることもきらい、このため無数の小勢力がたがいに揉みあい、凌ぎぎあいをくりかえしていた。ただし、末期のころは島津氏についたり、秀吉に味方したりした。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
 肥後の場合は、まことに厄介だった。秀吉は、当初、佐々成政にこの国をあたえたところ、はたして国人・地侍による一揆が暴発し、成政の独力では鎮圧できなかった。ついに成政は失敗の罪をとわれて所領没収の上、切腹させられた。
 このあと、秀吉は肥後を半々にわけ、子飼いの加藤清正と小西行長にそれぞれをあたえ、肥後史は新局面に入る。
 清正の生いたちはさだかでないが、尾張の無名人の子だったことはたしかである。寡婦になった母親が、少年の清正をつれて近江長浜領主時代の秀吉をたずね、子を託したという。およそ、幽斎や三斎のように結構な家柄ではなかった。
 清正は年少のころから秀吉に近侍し、戦場では秀吉の床几まわりで働いた。肥後半国の国主になる前は、わずか三千四百石ほどの給人の身にすぎず、統治経験はまったくなかった。
 それが、肥後においてみごとな統治をしたのは、天成の器量だったというほかない。
 肥後はふるくから、尚武の国として知られていた。
 この肥後人の気質が、武者ぶりのいい清正という入を好ませたのにちがいなく、さらにはかれの人情の深さにもひとびとは服した。たとえば、清正は地元の肥後人を多く召しかかえ、またかつての佐々成政の旧臣三百余人や、その後、関ケ原の敗者になった小西行長や立花宗茂の遺臣たちなどについても惜しみなく家臣団にくみ入れた。
 清正は、関ケ原のあと、肥後一国五十四万石にまで加増された。かれの肥後における治世は天正十六年(一五八八)閏五月の入部からその死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十の死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十三年にすぎなかったのだが、治績は大きかった。
 その最大のものは、農業土木による肥後農業の仕立てなおしだった。
 かれは各水系に堤をきずき、堰を設け、治水と灌漑に役だてた。こんにちなお、そのうちのいくつかが、熊本県に恩恵をあたえつづけている。
 それらによってできあがった新田は二万五千町歩という広大なもので、このおかげで農地にありつけた農村の次男・三男は推定何万人という数にのぼったろう。かれらが清正を神のようにあがめたのも当然だったといえる。
 そういう清正の最後の仕事が、熊本城の築城で、完工後、ほどなく死ぬのである。そのあと、子の忠広が繕いだが、結局、幕府によって加藤家はとりつぶされる。三代将軍家光の治世がはじまった寛永九年(一六三二)のことである。
 その肥後五十四万石を、幕府は、豊前小倉(中津をふくめる)三十九万九千石の細川氏にあたえた。
 肥後は、豊臣期から徳川期にかけて、天下を防衛する上での要地だった。
 その理由は、薩摩おさえということによる。
 なにぶん薩摩の島津氏は豊臣初期に七十七万石の小天地におさえこまれたとはいえ、いつ爆発するかもしれなかった。
 薩摩は、風土あるいは言語・習慣・気質からして特異なのである。さらには薩摩人は他地域に対して自負心がつよく、その上、島津氏を擁しての結束力がきわだってつよかった。島津氏がいつかは天下に勢いをひろげるだろうということを、秀吉も家康もおそれていた。
 秀吉が、九州攻めに成功しつつも当の島津氏をその故郷におしこめただけで分割支配をしなかったのは、その場合の反発をおそれたためだったし、また家康が、関ケ原の敗者の立場に島津氏を追いこみながら、その領国安堵という異例の処置をとったのも、おなじ理由による。

八戸の料亭・女郎屋一覧

昭和十二年料亭・女郎屋 経営者 創業年月
小中野浦町 喜月 尼崎市五郎    昭和9 3
小中野浦町 千代の家 森クケ    昭和5 12
小中野浦町 菊水  塩田花代    昭和4 5
小中野浦町 きらく  阿保鶴松   大正13 11
小中野港町 吉田家  吉田タカ   大正13 6
小中野港町 梅之家  音喜多アサ  昭和8 12
小中野浦町 旭楼   熊野スエ   昭和9 12
小中野浦町 島守楼  紬越ョシノ  昭和9 12
小中野浦町 住吉楼  左館きく   昭和9 12
小中野浦町 花月楼  山内あやめ  昭和9 12
小中野港町 千登勢  音喜多熊次郎 昭和9 3
小中野浦町 志賀十  福士とよ   昭和5 3
小中野新地 末広亭  長谷川スエ  大正6 8
小中野新地 小松家  音喜多もと  大正8 10
小中野新地 しのぶ  山下亀蔵   大正15 3
小中野新地 五明様  植木重蔵   昭和9 12
小中野新地 開扇楼  田中いし   昭和9 12
小中野新地 冨貴楼  藤谷キチ   昭和9 12
小中野新地 輪島楼  稲本ョシノ  昭和9 12
小中野新地 花泉楼 佐々木はな   昭和9 12
小中野新地 新菊楼 丸谷とみの   昭和9 12
小中野新地 曙楼  音喜多ウメ   昭和9 12
小中野中條 喜代志 音喜多キョ 4 昭和9 12
小中野中道 藤見楼  佐藤クマ   昭和9 12
鮫  青葉   駿河高子      昭和12 5
鮫  西欧   宮崎マサ      昭和4 4
十六日町 きらく  荒谷クマ    明治40 3
六日町 魚周  沼館周太郎     明治10 5
鳥屋部町 根城家  根城いし    大正12 1
鷹匠小路 君乃家  若松キミ    大正13 8
朔日町  八百万  若松ナオ    明治42 5
八日町  かねやま 千葉得寿    昭和9 5
八幡町  鯉寿   中村得次郎   昭和6 8
六日町 金山支店 千葉しめ     大正11 5
八幡町  川得長春閣 佐藤ナカ   昭和3 8
尻内駅前 吉田屋  吉田孫兵衛   明治24 9