ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年2月11日水曜日

翁の八戸よもやま話 3 ルーツの果て 加藤萬次郎

  政治家岸信介は自民党総裁選で石橋湛山に敗れ、外相に就任。石橋湛山首相の病気退任後、岸内閣を組織した。
その岸首相の一言が、二人の自殺者を生むことになった。一人は私のルーツである両国柳橋の高級料亭とよばれている「柳光亭」の若き店主、古立太郎である。源流を井の頭公園に持つ神田川は、墨田川に合流していて、合流地点に長さ三〇メートルばかりの鉄骨の橋がかかっている。「柳橋」である。
粋な花街の風情はもう無いが、かつて、この一帯は東京の代表的な花柳界であった。柳橋のたもとに亀清楼、並んで柳光亭、柳橋を代表するにふさわしい高級料亭だった。柳光亭は、明治初期に開業し三百坪の敷地を持ち、百拾余年の歴史の上に君臨していた。柳光亭は政界、亀清楼は財界関係の顧客が多く、戦前、柳光亭に客があると、私服警官が取り巻いていたことは忘れられない。特に歴代総理が来ているときは、数台のパトカーが、いたるところに駐車していた。
岸首相が、柳光亭の女将(太郎の母)に、お座敷で声をかけた。当時、岸首相は日独協会の会長を務めていた。
 「ドイツには日本人が相当いる。あちらにも一つ、料亭が欲しい、おまえのところでやらないか」この一言が、古立太郎を自殺に追い込むことになる。他の一人は、古立太郎氏より後の、グラマン疑惑で命を断った島田三敬氏(日商岩井)で、釈然としない暗部はあるのだが、兎にも角にも、政治的に操られた結果であろう。
 ドイツに日本館が生まれた。正しくは「ジュセルドルフ日本館」設立は昭和三十八年、師走も押し追った十二月。資本金は三千五百万円。出資者は、岸首相の秘書川部美智雄、古立太郎、それぞれが三百万円。八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、三井物産、三菱商事、住友商事、伊藤忠商事、丸紅飯田、富士銀行、東京銀行などの一流企業各社が二百万円。ほかに岸信介、古立よし(太郎の母)らが四十二万五千円。役員の顔ぶれも豪華版であった。
岸信介を会長に、川部美智雄社長、永野重雄、水上達三、荘清彦、市川忍、越後正一ら、財界の大物が取締役。稲山嘉寛が監査役、古立太郎は代表権のある副社長に就任している。設立目的は、ホテル、食堂、ナイトクラブなどの飲食業、美術品、食品の輸出人品、観光事業などである。
その後、古立太郎は、一千五百万円の増資をしていくのだが……。そして、運命の日、昭和四十九年二月四日夜、新横浜駅で下り列車に飛び込んだ。享年四十三だった。岸信介の秘書でもある、杜長の川部美智雄を横浜へ訪問しての直後だった。訪問の内容は、詳らかではないが、想像するに資金関係の故ではなかったかと思われる。居留守という説もある。切羽詰まった彼は、小切手を控えも記さず乱発していたという。その額は想像を絶していたそうだ。太郎氏は、四十二年七月二十日付けで、日本館の代表取締役副社長を辞任しているが、四十七年十一月二十四日に取締役に返り咲いている。死んだときも役職はそのままであった。
政界がらみの、この事態をどのように解釈したらよいのだろう。私の知識の及ばないところは、これを取り上げた当時の週刊紙から拾ってみよう。評論家の吉原公一郎氏は、岸さんの一面をこういう。「僕は藤山愛一郎氏(当時、政、財界を風靡した大実業家)の使い捨て振りと、古立太郎氏の一件が、どうもオーバーラップしてしまうんです。古立氏が殺されたとは思わないが、もう要らない人間だったんじゃないですかね。それから日本館だが、僕は、あれは岸さんだけのものじゃなく、保守本流を維持していくための資金管理の場だと思うんです」
 「例えば藤山愛一郎氏だが、A級戦犯の岸さんが巣鴨プリズンから出てきて、ずいぶん世話になっている。そして岸さんの要請で政界入りした。ところが藤山氏が一派を持つとき、岸さんが分けてやった子分は、カネのかかる人達だけだったんだ。これも岸さんの一面じゃないかな。ともかく日本館は悪名たかいなぁ」
当時の楢崎弥之助代議士は、四十四年二月四日、衆院予算委員会でこの日本館のことを質問している。当時の外相は、半公信扱いだからといって、答弁し公開を拒否している。
(編集部註・衆議院委員会記録から・それで私は、一つだけお伺いをしておきます。外務省にお伺いしますが、西独のジュッセルドルフにレストラン日本館というものがあります。そのレストラン日本館の役員、それから資本金、出資者、これを明確にしてもらいたいと思います。○内田説明員 お答え申し上げます。 ただいま御質問の点、手元に持っておりませんので、取り調べまして後刻御報告申し上げます。○楢崎委員 あとで報告するそうであります。それでこのレストラン日本館の設立の問題について、料理屋のことは何で知るかというやじも飛びましたが、外務省は出先官庁も含めて、この設立に協力をしたかしないか。した事実があります。それは文書の上ではっきりなっている。そういう点も御存じでありましょう。○愛知国務大臣 全く突然の御質問でございましたので、私も全然知りませんから調べてみます。○楢崎委員 私はこれを明らかにしたいのは、政治の姿勢の問題と関連をしてであります。いたずらに私は暴露するような、そういうあれはありません。政治の姿勢の問題としてこれを取り上げておるのであります。実はあとで報告になれば明確になってくると思いますけれども、これは与党の有力者が関係をされております。そして、それの出資者はいろいろありますけれども、兵器産業の会社が出資者になっておる。場所はジュッセルドルフである。しかもこのジュッセルドルフのドレスデン銀行をめぐっていろんなことがいわれておるのです。私は一部資料を持っております。しかし、この委員会、この場所においては、私はいろいろ問題があろうと思います。) そのころの鍵を握る川部氏は、行方は分からないと川部東京事務所の弁だったそうである。いずれにせよ、日本館の関係者に死者のでていることは周知の事実である。

母よしは、太郎の死後二ケ月のち他界する。
ドイツの日本館へ出店間もないころ、よしさんから相談をうけたときがある。料亭のコーナーに、小粋なそばやの店を持ちたいが協力してくれないか、と云う話だった。
私がそれを保留し続けているうちに、日本館の資金繰りが忙しくなったのだろう、いつの間にか、その話しは立ち消えになってしまった。
太郎氏の結婚式、太郎氏、母よしさんの葬儀、それぞれに参席したが、なかでも印象的なのは、よしさん亡き後の親族会議であった。親族一同は、料亭の再興で意見の一致をみたが、太郎氏の嫁けい子さんだけは、頑なに土地共々の売却を翻さず、結果的に、けい子さんの権利が優先し、親族側は涙を呑んで、数回に及ぶ親族会議は終結した。私も意見をもとめられたが、沈黙をまもった。是非と云われ、宗祖親鸞のお言葉をのべた。当然、古立家も、浄土真宗である。
 「善き人の仰せをいただいて信ずるほかに子細なきなり。このお言葉をけい子さんに贈る」といって私は席をたった。
ここに柳橋花柳界に君臨していた柳光亭は姿を消すことになる。
少し柳光亭にふれてみたい。当時、大相撲は六十九連勝の記録を待つ、双葉山と青森県出身の鏡岩との対戦が、絶対的な好勝負であった。両国場所、いわゆる本場所は、場所中、柳光亭は枡席を通年買い取っていて、私もその席から鏡岩を声張り上げて、応援していたことが思い浮かぶ。柳光亭には横綱、大関、又は人気の幕内力士等が客に招かれて出入りしていた。
 「ゴッツアンデス」
中学一、二年頃だったと思うが、帰りぎわの太い声の力士と握手をして、手の大きさに驚いたことがある。横綱、大関は、殆ど無言で、ただ、笑顔を残して料亭をあとにした。
太郎氏の祖母の葬儀の写真がある。横綱、大関からの沢山の供物が仏前を飾っていた。
非業の最後を遂げた太郎氏には一人、姉がいた。藤山愛一郎の愛妾の娘が、古立千吉(太郎の父)に嫁ぎ、その子が姉にあたり、太郎は後妻の一子である。後妻は、柳橋きっての、美貌の中の美貌といわれた、売れっ子の芸者だった。姉は、父親似て千葉の旧家に嫁いでる。太郎も、どちらかと云えば父親顔だが、藤山愛一郎の血はひいていない。政治家とは無縁の血である。だからという訳ではないが、政界の風雲には耐えられる知力も、体力もなかったと思う。
太郎氏が亡くなって間もないころ、私は妻と、浅草にある古立家の墓を詣でたときがある。墓前で妻がなにかを語っていた。太郎氏の冥福を析る姿を横に見て、私は柳光亭に想いを馳せ、一つの和歌を口づさんでいた
  行く末の
    空はひとつにかすめども
        山もとしろく立つ煙りかな
時が流れた。当時、億の金を手にした、けい子さんは活路を札幌に求め、札幌三越デパート地下にある柳光亭支店で昼を務め、夜は麻雀荘を経営し、消えなんとする灯を守っていた。
数十年が流れた。
風説によれば、けい子さんは、親戚筋を頼り、金
融の哀願を続けたという。……私も歳をとった。妙に柳橋が懐かしい。柳橋の花柳界の芸者衆は、五百人を越える賑わいだった。それが今、砂上の楼閣の如く消え去り、八戸小中野の遊郭も消えた。私の母が、これからは八戸の町に出なければと私の背を押してくれて、今日まで蕎麦屋の暖簾を掲げられた。歳をとった私が、今度は倅たちの背を押さなければならないのだが、どうも、それが出来ているような出来ないような、心細さばかりが先に立つ……。

2008年11月8日土曜日

翁の八戸よもやま話2 加藤萬次郎

職場の友
お控えなすって、
お控えなすってありがとさんにござんす。
手前生国と発しまするは奥州にござんす。
流れ流れて西東。花のお江戸は花の町
ネオンサインは上から下へ、ヘチマコロンは柳橋、粋に酔っててすまねぇが紋は駒形、名はモンパリ、しゃれた一家に草鞋を脱いで、親分子分の盃固め、田原町からロックを走り、千束町に背を向けりゃ、そこは吉原仲の町。マ字で浮気の二ツ三ツ、おっと気がつきゃ渡世暮らしは色の中、申し遅れた手前の浮名、姓は柳、名は万次けちな野郎でござんすがお見知りおいていただけりゃ、ただ、ありがてえ有馬山 宜しうお頼み申しやす。
こう啖呵をきると鈴木さんは大喜び、宴会などでよく鈴木さんに頼まれて演じたものだった。
私の旧制中学時代はさまざまに社会を泳ぎ、いろいろな遊びを覚えた。東京浅草の柳橋は通称両国柳橋という。ここを縄張りとしたインテリの親分がいた。名をモンパリ。和歌、江戸狂歌、川柳、俳句を嗜む、いい男だった。歳は三十五、六。体に不都合があり兵役は免除されていた。同じ柳橋に住むよしみで私は子分となった。入れ墨を迫られたが、痛いと云う理由で辞退した。親分は笑って薦めなかった。
親分が私のために書いてくれたのが、このやくざの仁義。鈴木さんはまじめな役人、異なった世界の仁義にびっくりしたのだろう。
遡ること五十余年、三戸地方教育事務所(県教育委員会の出先機関)に動めたときが初対面だった。やや丸顔で笑い声に特徴のある美男子だった。視聴覚教育係、これが私の役職名である。アメリカの映写機「ナトコ」で三戸郡下の小中学校を教育フィルムを持って巡回するのが主な仕事だった。鈴木さんも巡回した一人である。
ある日、人事異動があり、若い女性が一人加わった。容姿端麗で知的美人だった。掃きだめに鶴ではないが、事務所ではとくに目立つ存在となった。外にも三、四名女性はいたが、いずれも地味な八戸っ娘だった。彼女の名は小関徳子、男子職員の目は彼女に向けられる時が多くなっていた。
若い男前の鈴木さんが一番乗りのアタックを試みた。土曜日の午後彼女を映画に誘った。ところが、彼女はそれを断わって逆に私を映画に誘った。その時点で私は鈴木さんのアタックは知る由もなかった。

コーヒーをのみながら彼女は呟いた。鈴木さんには、既に私と映画観賞を約束していたからとの理由で断ったと云うのである。
求愛でもそうだと思うが突然は女の方が戸惑う。鈴木さんの突然の誘いは彼女に同伴の空想をほしいままにする時間がなかったのだと思う。私は単に彼女の「間」を保ったに過ぎなかったのかもしれない。鈴木さんと私では、鈴木さんは私より背が高く、なかなかの男前だ。愛では勝てるかもしれないが恋では到底私は鈴木さんには歯がたたない。
ロシア語の通訳であり作家でもあった米原万里さんのエッセーに面白い話が述べられている。女にもてる男の三大要素として、背が高いこと、学識が高く資産のあることをあげている。因にロシアには別の三大要素があるという。頭は銀、ポケットには金、股間に鋼鉄。何れも私には何一つ満たしているものはない。
小関徳子が私を誘った理由は何か、魅力があるとしたらどこに……。

私の旧制中学時代に、中でも横山町の問屋街の旦那衆、蔵前商店街の社長さんたちから、今も残る江戸仕草は結構身につけさせてもらったつもりでいる。そのなかに、女性にはあくまでも優しく、女心が揺れ動く程の言葉遣いに徹しなさい。「弱い」は女の誇りです。だからレディファーストなんです、などなど書くと際限がないくらい教えられた。
小関徳子は私の学生時代身につけた江戸仕草らしいところに一寸ひかれたのではないかと考えたりした。まだ土曜日は半ドン時代。その土曜日は必ずといっていいほど私は誘われ、他の男性達への防波堤の役目のようなものになった。知的美人と前述したが、あくまでも知的であり日本画的美人とは些か異なる。
正確な標準語で話す彼女に、いやがうえにも男たちは印象づけられた。やがて彼女はこの事務所の大きな台風の目になっていく。
庶務課長、指導主事たちはあの手この手で彼女に接近し征服を夢みた。だが妻帯者の彼らはなんの感傷もなくロマンもない男に過ぎなかった。彼らは事務所を去り学校長となり定年をむかえ今はこの世にいない。小関徳子とどんな夢を見ようとしたのか。
かくいう私も数えで八十五、長老だが風格に欠けていてやるせない。数十年が流れて正邦家種康さんの出版記念会の折り、偶然、小関徳子女史と再会したときがあった。名刺をもらった。カフェを経営しているようだ。早口で「遊びにいらっしゃい」と云い姿を消した。

寂しい再会だった。あまりにも単刀直入の若かった鈴木さんの淡い恋心がふと蘇った。
平成二十年十月五目、日曜日、市内白山台にある東奥はちのヘホールで、日本を縦断する映像発表会を開催していた。第一部のトリは私の作品[お庭えんぶり]。その作品を放映していたその頃、鈴木敏夫さんが息をひきとった。後日葬儀に参列していた松倉定雄さんからその時間帯であることを聴かされた。この種の発表会には必ずといってよいほど来てくれた鈴木さんだった。享年八十だった。
鈴木敏夫さんが最も喜んでくれた啖呵をお経代りに切ってみた。
お控えなすって、
お控えなすってありがとさんにござんす。
手前生国と……涙が堰を切って流れて落ちて、後を継ぐことができなかった。それは啖呵を忘れたからじゃない、同時代を生きた懐かしい友に二度と遇えないという、生き残ったわびしさが一気に胸をつまらせた……。

2008年10月21日火曜日

翁の八戸よもやま話


四〇数年前の番町付近の地図を見た。私の店「おきな」が其処にあった。忘れ欠けていたことが、つむじ風のように脳裏を駆け巡った。 

母は半ば諦めるように云った。「小中野ではもう無理よ」母は旧市内進出を望み私に話しかけた。この言葉が馬場町に「おきな」の店を創ることになる。
母、加藤きち、昭和四十四年十一月二十二日死去、享年六十六。蕎麦屋の営業を続けるには二代にわたった小中野の地をあきらめなければならない時がきていた。母の読みは正しかった。縁があって番町で経営している写真館主の一部を借り八戸支店として蕎麦屋を開業した。その時はまだ小中野の店は料理店として活気を呈し芸者衆の出入りで賑わっていた。小中野の店は妹にゆだね、私は支店で妻と夢中で働いた。
蕎麦屋にとって番町の店は魅力的であった。前は市役所、同じ通りに、警察署、幼稚園、隣は料理屋、医院が二つ。左の四つ角には県税事務所、少し離れて税務署、昼客には困ることはなかった。そして夜は忙しい妹の店に駆けつける。その間、私は趣味の8ミリ映画作りと縁を切り、小中野の店と番町の店を自転車で行き来した。
店の後ろに遠山家があり、その二階の一室を借り、妻と住み込みの従業員(妻の友人)三人の住居とした。苛酷な営業は優先され禁欲の生活は続いた。遠山家は若い御夫婦と小学生のお子がいて、その子とキャッチボールで楽しんだりした。名は影久君。過日、劇的な再会をした。束奥日報社の八戸支社長として赴任してきたのだ。彼が入社して間もなく記者として私を訪れたことがある。当時私は県の麺類環境衛生組合の理事長だったため彼の取材に応じたときだった。蕎麦の価格を値上げした理由の取材だった。お子のときと今も小柄だが南部藩筆頭家老の血を受け継ぎ、今尚、確たる風格を保っている。
番町の店は殆ど昼のみ営業し、夜は本店となった小中野の店への応援を続けた。時は流れ小中野から灯が消え、まるで八戸の孤島のような存在となった。番町の店は連日昼席は満員、苦し紛れに夏は「ざるそば」だけを販売した。
数年が経ち大家が代わった。店子付きで買った新しい大家はわが店を除き、屋根を壊しシートで覆い、それを跨ぐように二階建ての食堂として新築し華々しく開店した。壊れた惨めな裸になったような店を八戸の週刊紙が写真入りで「これでも動かぬ店子」として報じた。著しくプライドが傷つけられた記憶は今でも心の隅に残っている。ところが、この大家の食堂は静かに衰退し、私の気付かぬまま蕎麦屋つきで土地と共に極秘裡に売りに出した。
8ミリ映画の趣味を忘れ欠けたとき、三八五貨物の社長泉山信一氏が訪ねてきた。用件は八戸東京間の貨物自動車を追って一本の映画を作って欲しいと云うことだった。その時の彼の言葉は不思議な程、記憶に残っている。
 「その代わりと云っては何だが、近くにバスセンターを建てる、其処に株主として、あんたを入れてあげる」
場所も魅力的だし、今の借家よりは、と考え好きな道でもあるし店を休んでもと思い、撮影を引き受けた。結果的には想像をこえた撮影行脚となった。貨物自動車を追うカメラマンの車はルノーという小型の外車、運転手はたしか荒木田と云う人。眠くなるとウイスキーーをなめるように呑んだ。これが私の居眠り運転防止策ですと彼は云う、社長には内密にと付け加えた
八戸東京間の道路は半分以上は未舗装だった。A車を追って仙台で一泊、B車を追って東京と記憶しているが東京まで四、五日かかったような気がする。なにしろ途中名所旧跡などを撮りながらなのだから……。
東京では、私は皇居と議事堂をバックに半ば強引に貨物自動車を走らせた。映画が完成し試写の際、そのカットが映し出されたとき、泉山社長の嗚咽の声が聴こえた。スクリーンから反射された明かりで社長の顔が見えた。涙で目が光っていた。