平成熟年も秋山皐二郎さんを始めとして、色んな人が死んだ。死なない人間一人もない。一年をふりかえると、あんなことこんなことと様々あるもんだ。そんな中、半年をこのギャラリー道で「私のありがとう」を開催させていただき誠に面白い経験をさせていただいた。
大体、テレビを見て一日を暮らし、テレビに向かって吠えてる自分に嫌気がさす。子供を殺さなくてもよかろう、親を、亭主をと様々腹が立つ。でも、それもマスコミに踊らされている。この前、NHKが火事の家の三階から乳児を投げろと隣人が叫び、その子を抱きとめて助けたニュースを民放は流さない。
刺激的な話ばかりを集め、心楽しい話はボツにするでは世の中間違っとる。嫌な話より楽しい話ばかりを集めることこそ大事だ。大体、人殺しの話なんてのは聞いてて楽しい訳がない。知りたい話は心温まるものだ。そして、その話は何度聞いても嬉しくなるもんだ。
ちょっと前に一杯のかけそばってのが流行ったことがある。人々はそんな人情噺に飢えているもんだ。
人情紙風船とも言われる人の情は、人とどう触れ合うかにかかるのだ。人と言っても健常者ばかりじゃなく、体が弱い、心も弱い人だっている。そんな心弱い人に、あんたはネ、今、心が風邪をひいているんだヨ、薬飲んでじっとしていると少しずつ良くなるからネと諭すのが北村道子さん。精神障害者の自立支援施設を経営される。
この人は人情家で人の話をひたすら聞く、そしてともに涙する、その後、今の心の風邪の話をされる。滲みるな、心の奥底に…。そして病んだ心にやる気が出る、出口のない道に出口を示す光明を見出す。そんな努力を十年継続される。なかなかできないことだ。その人が、「私のありがとう」の場を提供された。人を集め、自分の経験した嬉しかったこと辛かったことを喋りあおうというものだ。宗教も勉強も関係ない、今、一緒に生きていることを喜び合おうという、ただそれだけのものなのだ。
その場に彩りを添える意味で踊りがある、唄があるといった、言わば寄席。十一月二十三日(金)が今年最後の「私のありがとう」だった。次回は二十年の四月二十五日(第四金曜日)午後七時から。何故二十年まで待つかというと、筆者が旅行にでかけて四月にならにと帰ってこないからで、自分勝手な理屈。
今回は人の情に弱い男に司会を任せた。その人物は晴山さん。実に軽妙な喋りの出来る人だが、どうも話の組み立てに雑なところがあり、話をもりあげるコツが今一つ?めない。喋りの技法を教えよう、だが、教わって出来るようにならないのが、話芸、実践以外に修錬の場がない。そこで筆者の代わりに前面に出させた。突然の指名におじけをふるうでは上達は望めない。いついかなる場でも平然と全体を眺めて、そつなくこなすことが出来るかが問われる。
気配り半分目配り半分が司会のコツ。うまくまとめることが出来た。絶えず時計と睨めっこの司会業は場を読み取ることが出来なければ務まらない。面白おかしくまとめるか、格調高く納めるかは司会が選ぶ言葉による。まして、この「私のありがとう」は参加者から話を引き出さなくてはならない。そこら辺は晴山さんは実に巧みだ。軽く言葉を投げて実に明るい言葉を引き出す。誘導されて普段思うことがつい口に出る。
いつもおばあさんと一緒に来る小学生がいる。小針さんの坊やだが、おばあさん、第四金曜日だから行こうと言ったそうだ。来るとファミコンゲームに熱中。いつも下ばかり見てゲームと会話。おばあちゃんに誘われて仕方なしに来てるのかなと思うと、おばあちゃんに第四金曜日を教えた。晴山さんに、あの坊やは何で来るのかね、いつも下ばかり見てゲームをしてて、面白くもないだろう年寄りの話は? すると人情家の晴山さんが、名答、おばあちゃんと居たいんですよ。
そうか、そうだったな、筆者も婆さんといた僅かな時間がいまだに宝物になっている。気が付かなかったなあ、孫は誰が教える訳でもないが、体の中の時計が、残り少ないおばあちゃんとの時間を伝えているのだろう。優しいなア、坊やも晴山さんも。今回の参加者は早川、木村、鈴木、加賀、富田、大久保、斉藤、清水、川村、中村、本宿、東野、坂本みちのぶさんと踊り子の八食センターで乾物販売店店主の安宗さん。
この人が「上海の花売り娘」を踊った。紅いランタン仄かにゆれる夢の上海、花売り娘、誰のかたみか可愛いい耳輪、上原げんと作曲、昭和十四年の岡晴夫の唄。この岡と上原は同じ部屋に下宿し、上野御徒町の万年筆屋で働きながら歌手を夢見た。そしてあこがれのハワイ航路で歌の星、あこがれのスターとなった。日本が海外侵攻はなやかなりし頃の異国情緒たっぷりな歌に乗せて、安宗さんが踊った。手品を加えた独特のもの、結構ファンもいて人気者、一芸に秀でた人は人生を二倍に楽しむことができるもの。
市会議員の坂本みちのぶさんが顔を出し、足の裏を揉むと体の調子を良くすることが出来ると教えた。この人は税理士で調理師で神主、おまけに治療士の資格もあるというマルチ人間。政治屋が多いなか、この人は政治家。世の中を良くしたいと、あらゆる分野に興味を持ち、どこから改善できるかと気配りをする。だから議会でも積極的に質問をする。時間を消化するための質問はしない。とことんまで食いつく。スッポンだね。教育長への質問もしつこい程。教員は生きているから、喫煙所を設けてやれ、と実に至当な問題を投げる。そして喰らい付く。だから役所には煙たい存在。本人はケロケロ、本当のことを言ってどこが悪い。真実を追究する者はこのぐらいの覚悟が必要。
このギャラリーみちの「私のありがとう」に出て、自分の仕事の宣伝も出来る。発言時間は決まっていない。喋りたいこと、伝えたいことを精一杯伝えればいい。工務店の若大将が自分の仕事に対する心構えを伝えた。好青年で好感が持てる。何事によらずひたむきな精神は好ましいものだ。商売はいい時もあれば悪いときもある。それを凌いでこその人生。なんでもかんでも上手くいけば人生の味わいを知らずにすごしてしまい、人情のなんたるかを知らずに終わる。人間は困難にぶち当たるたびに、人の情けを知るように出来ているのだ。スーパーユニバースで食品のマネキンをしている人が、お客様が試食品を食べてくれるだけでも嬉しい、どうしたら美味しくなるかを家で研究すると、人に喜んでもらう楽しみを知ると人間は一回りも二回りも大きくなるもの。
以前、「はちのへ今昔」に掲載した造船業の一族の方も参加され、実家の話が載っていたのでビックリされたと言われた。八戸は水産都市、漁業家も造船業も繁栄の道をたどられたが、今は最大漁獲量の四分の一と激減。それでも、八戸は水産と切っても切れない仲。この衰退をなんとか盛り返そうと小林市長が水揚げ岸壁を整備される。国も支援し水産都市の復活に賭ける。
国際的衛生基準の岸壁を建設し、畜産並の衛生環 境にして八戸サバの名を天下に知ろしめさんとの心意気。
人は事にあたるたび、池に小石を投げ込まれたように、広がり行くのがさざなみで、心の中にも広がります。そんなとき、どうしたらよいかと悩むもの。そんな解決できない大きな悩みも、お前だからこうした悩みを抱かせたよ、何故なら解けない悩みは与えられないもの。
悩みを抱いた人に出会ったら、話を最後まで聞いてやりなさい。そして、共に涙を流して泣いて、そして強くこう言っておやり。大丈夫だよ、かならずあんたなら出来るから、私も一緒に考える、困ったときはいつでもおいで、一緒に泣いて考えようね、と。
これが大慈大悲の心、西有穆山が崇拝した観音の力なのだ。皆が北村道子さんの慈悲の心をいただきました。有難う、そして皆様も同様に観音力が備わっています。でもそれに気づかないだけ。難しいことはさておき、又、おいでください。
2008年4月1日火曜日
2008年2月1日金曜日
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」5
秋も深まり、毎月第四金曜日の七時から開かれる「私のありがとう」も、辺りがすっかりと暗くなり、足元に注意が必要となった。
この場を貸してくださる売市の精神障害者支援施設、ギャラリーみちのオウナーの北村さんご夫婦に感謝しながら、にぎやかに始まった。
今回参加者は富田さん、大久保さん、早川さん、木村さんとお友達の○○さん、晴山さんと奥さんと娘さんの美智子さん、北山さんご夫婦、宮川さん、畑屋さん、川口さんと南郷の中村さんと中村節子さん。
この中村節子さんは現在「はちのへ今昔」に連載中の「我が人生に悔いなし」の著者。この人の筋運びには独特なものがあり、その場面が活き活きと描かれていて、読む者の心を捉える妙がある。その話の中に三沢高校の太田幸治さんの話が出 て、今号の甲子園特集となった。人の話の面白さを痛感させていただいた。
さて、今回の主役は北山さんのご主人。この人は年中忙しく活躍中。奥さんから鼻でハモニカを吹くと聞いていたが、出演依頼をしても、いつも出張中。お仕事はクレーンの技師だそうで、実に特殊な技能をお持ちだ。
たまたま雨降りで仕事が中止になったそうで、特別出演となったわけ。早速「荒城の月」を鼻で吹いていただいたが、鼻の片穴にティシュで栓をする。反対の鼻穴から息を出してメロディーを奏でるのだが、実に巧いもの。
それを聞いた川口さんが、普通に吹くハモニカよりも哀調があっていいとご機嫌。すると、北山さんが言ったナ。何、私はハモニカばかりじゃありません、楽器ならギターも弾く三味線もやる、ピアノだってお手の物、こないだも尺八吹いた、と尺八を吹く手真似、こうやって、吹いてきかせるんだけど、今日はハモニカしか持ってきていな い、だから、それを見せる訳にはいかないけど、こんな風にやるんです、何、私は楽器ばかりじゃない喋っても楽しませるんだから、ハイ、こうして尺八を吹いて、突然音を外す、アレ、どうして音が外れたのかな、尺八に何か詰まったのかな、と尺八を覗き込む、こうやって尺八を前の奥さんの所へ持って行って、「あれ、奥さん穿(は)いてないね」
うまいギャグだ。南州太郎って芸人がいる、出てくると黄色い声で「おじゃまします」、この人は海上自衛隊の呉音楽隊に入りキャバレーのバンドマンから浅草、松竹演芸場でデビュー。楽器を使った巧妙さがあるが、この北山さんも大した芸達者。売市には前回の斉藤さんの奥さんも凄い喋りを示した。この分だとまだまだ出そうだ。
川口さんも楽しいボケを見せるので、北山さんとコンビを組んで楽器漫才をやるとヒットするかも。
青森の晴山さんが十三日町の話をして、これが妙 にシンミリしてよかった。人情の機微は丁度、十月末の雨に似て、すこし寂しく、ちょっとシンミリしたものなのだ。
長いようで短い人生というものは母親のこと、貧乏だった幼い頃のこと、色々と思い出しては父母に感謝をするものなのだ。そして自身もいつの間にか親になり、必死に子育てし、やっとそれから開放される頃、頭はズリむけのハゲ。情けないけど真実だ。こうして今度は子供から、お父さんありがとうと言われるんだ。悲しいけれど、繰り返しが人生なのだもの。
中村節子さんに詩吟を披露していただいた。この人の技量はなかなかのもの。詩吟を初めて聞いた川口さんが感激。吟じたのは、頼山陽の「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩、「題不識庵撃機山図」の作者としても有名。吟ずる前に川中島と言わずに不識庵撃機山図と題した。昔は川中島と言ったと解説していただいた。中村節子さんに誰にありがとうと言いますかと問うと、即座に「主人です」と返ってきた。この「私のありがとう」の会では、多くのご婦人が、先祖とか父母との声をいただいたが、主人、亭主は聞かないもの。ところが、出ました、ご主人の言葉。男は損な立場にいる。何を置いても女房・子供と思う心が仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかなの親鸞聖人の得度の時のようなもの。やはり適当にして、好き勝手に生きるのが正しい。評価が低いから全人格が否定される訳じゃないけど、少々寂しい。ところが、亭主に感謝だ。
どうして?
「私の好きなようにさせて頂いた。詩吟をしたい、教場を持ちたいと言うと、お弟子さんを集めてくれました」
これはなかなか出来ない。習い事をさせる。これはよくあること。お茶もされたそうだが、これは教室を作るのに大変手間と金がかかるそうで、それはキッパリとあきらめ、詩吟の世界に飛び込んだ。商売になるほどではないが、趣味と実益をかねるそうで、多くのお弟子さんを指導される。
是川の晴山さんのご主人は白神に旅行にでかけ、偶然、狸とヘビを見て、これに感謝すると発言。それはたまたま見ただけ。それでも、見なければ楽しくなかったから感謝する。ハイハイ。その通りで…。
この娘さんがまた出来ている。時折夫婦喧嘩をする父母を見ていても、やはり私は父に感謝しますとキッパリ。それは悪い点もありますけど、私を育て看護学校にまで進学させてくれた父母の愛 情に感謝します。
そうだ、その通りだ。あたりまえと子供は思うが、親は人に言えない苦労を陰でしている。子供は幼いから、社会経験が少ないため、隣の子の方がいいと、無責任極まりない発言をして親を嘆かせる。それに気づくころは、かなり歳がいってからだ。でも、親御がこの言葉を聞けるのも稀。
さて、「はちのへ今昔」の編集長の月館さんのお店で働いたことのある大久保さんは、初めてお勤めしたのが小中野のツキウ、そこでお給金を貯め文化服装学院に入ったが、月謝と制作費に追われ、また務めに出た。それが三日町の石岡呉服店、呉服商の集まりがあり、石岡店をツキウの大将が訪れて、あれ、この子は大変気のつくいい子です、どうぞ指導をしてやってくださいと頼んだそうだ。月館宇衛門、明治生まれの傑物。三萬の跡地をジャスコが買った時、大反対の人々を尻目に、自己の利益より、町の発展の為には新しい人々に来てもらおうと叫んだ気骨の人。
この場を貸してくださる売市の精神障害者支援施設、ギャラリーみちのオウナーの北村さんご夫婦に感謝しながら、にぎやかに始まった。
今回参加者は富田さん、大久保さん、早川さん、木村さんとお友達の○○さん、晴山さんと奥さんと娘さんの美智子さん、北山さんご夫婦、宮川さん、畑屋さん、川口さんと南郷の中村さんと中村節子さん。
この中村節子さんは現在「はちのへ今昔」に連載中の「我が人生に悔いなし」の著者。この人の筋運びには独特なものがあり、その場面が活き活きと描かれていて、読む者の心を捉える妙がある。その話の中に三沢高校の太田幸治さんの話が出 て、今号の甲子園特集となった。人の話の面白さを痛感させていただいた。
さて、今回の主役は北山さんのご主人。この人は年中忙しく活躍中。奥さんから鼻でハモニカを吹くと聞いていたが、出演依頼をしても、いつも出張中。お仕事はクレーンの技師だそうで、実に特殊な技能をお持ちだ。
たまたま雨降りで仕事が中止になったそうで、特別出演となったわけ。早速「荒城の月」を鼻で吹いていただいたが、鼻の片穴にティシュで栓をする。反対の鼻穴から息を出してメロディーを奏でるのだが、実に巧いもの。
それを聞いた川口さんが、普通に吹くハモニカよりも哀調があっていいとご機嫌。すると、北山さんが言ったナ。何、私はハモニカばかりじゃありません、楽器ならギターも弾く三味線もやる、ピアノだってお手の物、こないだも尺八吹いた、と尺八を吹く手真似、こうやって、吹いてきかせるんだけど、今日はハモニカしか持ってきていな い、だから、それを見せる訳にはいかないけど、こんな風にやるんです、何、私は楽器ばかりじゃない喋っても楽しませるんだから、ハイ、こうして尺八を吹いて、突然音を外す、アレ、どうして音が外れたのかな、尺八に何か詰まったのかな、と尺八を覗き込む、こうやって尺八を前の奥さんの所へ持って行って、「あれ、奥さん穿(は)いてないね」
うまいギャグだ。南州太郎って芸人がいる、出てくると黄色い声で「おじゃまします」、この人は海上自衛隊の呉音楽隊に入りキャバレーのバンドマンから浅草、松竹演芸場でデビュー。楽器を使った巧妙さがあるが、この北山さんも大した芸達者。売市には前回の斉藤さんの奥さんも凄い喋りを示した。この分だとまだまだ出そうだ。
川口さんも楽しいボケを見せるので、北山さんとコンビを組んで楽器漫才をやるとヒットするかも。
青森の晴山さんが十三日町の話をして、これが妙 にシンミリしてよかった。人情の機微は丁度、十月末の雨に似て、すこし寂しく、ちょっとシンミリしたものなのだ。
長いようで短い人生というものは母親のこと、貧乏だった幼い頃のこと、色々と思い出しては父母に感謝をするものなのだ。そして自身もいつの間にか親になり、必死に子育てし、やっとそれから開放される頃、頭はズリむけのハゲ。情けないけど真実だ。こうして今度は子供から、お父さんありがとうと言われるんだ。悲しいけれど、繰り返しが人生なのだもの。
中村節子さんに詩吟を披露していただいた。この人の技量はなかなかのもの。詩吟を初めて聞いた川口さんが感激。吟じたのは、頼山陽の「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩、「題不識庵撃機山図」の作者としても有名。吟ずる前に川中島と言わずに不識庵撃機山図と題した。昔は川中島と言ったと解説していただいた。中村節子さんに誰にありがとうと言いますかと問うと、即座に「主人です」と返ってきた。この「私のありがとう」の会では、多くのご婦人が、先祖とか父母との声をいただいたが、主人、亭主は聞かないもの。ところが、出ました、ご主人の言葉。男は損な立場にいる。何を置いても女房・子供と思う心が仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかなの親鸞聖人の得度の時のようなもの。やはり適当にして、好き勝手に生きるのが正しい。評価が低いから全人格が否定される訳じゃないけど、少々寂しい。ところが、亭主に感謝だ。
どうして?
「私の好きなようにさせて頂いた。詩吟をしたい、教場を持ちたいと言うと、お弟子さんを集めてくれました」
これはなかなか出来ない。習い事をさせる。これはよくあること。お茶もされたそうだが、これは教室を作るのに大変手間と金がかかるそうで、それはキッパリとあきらめ、詩吟の世界に飛び込んだ。商売になるほどではないが、趣味と実益をかねるそうで、多くのお弟子さんを指導される。
是川の晴山さんのご主人は白神に旅行にでかけ、偶然、狸とヘビを見て、これに感謝すると発言。それはたまたま見ただけ。それでも、見なければ楽しくなかったから感謝する。ハイハイ。その通りで…。
この娘さんがまた出来ている。時折夫婦喧嘩をする父母を見ていても、やはり私は父に感謝しますとキッパリ。それは悪い点もありますけど、私を育て看護学校にまで進学させてくれた父母の愛 情に感謝します。
そうだ、その通りだ。あたりまえと子供は思うが、親は人に言えない苦労を陰でしている。子供は幼いから、社会経験が少ないため、隣の子の方がいいと、無責任極まりない発言をして親を嘆かせる。それに気づくころは、かなり歳がいってからだ。でも、親御がこの言葉を聞けるのも稀。
さて、「はちのへ今昔」の編集長の月館さんのお店で働いたことのある大久保さんは、初めてお勤めしたのが小中野のツキウ、そこでお給金を貯め文化服装学院に入ったが、月謝と制作費に追われ、また務めに出た。それが三日町の石岡呉服店、呉服商の集まりがあり、石岡店をツキウの大将が訪れて、あれ、この子は大変気のつくいい子です、どうぞ指導をしてやってくださいと頼んだそうだ。月館宇衛門、明治生まれの傑物。三萬の跡地をジャスコが買った時、大反対の人々を尻目に、自己の利益より、町の発展の為には新しい人々に来てもらおうと叫んだ気骨の人。
2007年11月1日木曜日
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」4
例会の私のありがとうは、売市、ギャラリーみちで九月二十一日に開催された。参加者は富田さん、大久保さん、晴山さんご夫婦、大橋さん、斗賀沢さん、吉成さん、斉藤さん、北山さん、それと杉森さんご夫婦。「はちのへ今昔」編集長、月館弘勝氏。
先ずは八戸の新名所になるべく、この場を提供して下さる精神障害者支援施設経営の北村さんご夫婦に感謝しながら、毎月一回、楽しい人々の交流の場とするべく、ハモニカの演奏から開始。次第に日舞、詩吟、手品などもご覧にいれる。
ハモニカの曲は嫋々として雰囲気がある。杉森さんのご主人がサンタルチアと裏町人生、この曲は昭和十二年、上原敏が歌い、作詞は島田磐也、作曲阿部武雄、暗い浮世のこの裏町を、覗く冷たいこぼれ日よ、なまじ 懸けるな薄情け、夢も侘しい夜の花、というもので一世風靡。演奏者の人生に対する思い入れがあるだけに、なかなか胸に沁みました。
継いで、編集長の風天旅行ばなし。この人は夫婦で一ヶ月も方々を旅行。風の盆から、広島、九州は鹿児島までウロウロ。その紀行を語った。
八戸から出ない人も多く、話に質問が続出。特攻隊の基地、知覧の話は涙なくては聞けない。ゼロ戦の話、パイロットの話、出撃の前に朝鮮人特攻隊員が、死んだら蛍になって皆さんの前に又現れると言って、亡くなった晩にホタルが出た話などなど、先人は苦労をされたもんだ。そんな、話のあれこれを、編集長が綴った。
風の旅 風天弘坊
長野県 上田市 別所温泉で
ごぉーーん!寺の鐘の音で目が醒めた。
私の生涯にわたって、はじめてのことである。
しらじらと夜が明けはじめた五時に夢のなかで七つ数えたがまた深い眠りに引きこまれた。湯が効いたようだ。夢のなかの出来事か?山中では日の出は遅く、日没は早い。
旅の途中、長野県上田市に属する山中の静寂極まる温泉場に来てしまった。旅の予定も終盤になったが我が古里を出てからかれこれ一月あまり、ホームレスの生活もカマボコのようにすっかり板に付いた?ようである。
此処に来た目的は温泉に入るためではなく「無言館」という美術館が平成九年に開館されていて、そこが目的であった。それより先に建てられた本館は「信濃デッサン館」である。
この歳になっても物識らずの半端な美術愛好家だがお先真っ暗のこの社会の悪行の数々を冥土のミヤゲにと考えた末の行動とも言えるのだ。(ヤケッパチとも言うらしい)
見てやろう。聞いてやろうの旅である。
昨夜のお宿は長野の奥深いところにある別所温泉。
「おお、高級な、お宿でなんと贅沢な」と思ってはならぬ。宿はお粗末そのもの駐車場の一角、すなわち車の中に寝たのである。
南の都市の猛暑をくぐり抜け(36.5℃の日もあったが体温からすれば平熱か)此処は別世界であった。虫よけの網を張った車の窓から山の爽やかな風が吹き抜け心地いい。
無料駐車場には夜の九時を過ぎたら車もいない、人の気配もない静けさだが不気味さもなく清涼感は充分といったところだった。そこは巨大な石を積んだ城のような寺の境内の下にあった。北向観音八二五年の名刹である。ここにゆかりの慈覚大師がおられ、お入りになったといわれる由緒ある湯だそうな。大師湯と言う名である。
境内に入ると愛染カツラの大木があり、縁結びのご利益があるそうだが私ラ爺婆にはトンと関係はござんせん。
消費税の五円をあげて「腐れ縁でもどうにかなりぁんすか?」と掌を合すとバカモン!と観音さまのお声が聞こえたような気が・・。
私は出来ることなら、やってみたかった草むらのなかでの野宿、朝露にぬれての目覚めも悪くはなかったろう。漂泊の旅をした山頭火のようにである。(考えてみると文明の利器とやらの自動車とはなんと無粋なものか)
夜、此処の温泉に浸ったが、やんわりとした湯の質は疲れはてた躰にじんわりとしみた。
湯船に浸かっていたのは私と湯の主人だけであった。ひなびた温泉もこんなにも人の気配が少なくては萎びてしまうのではないかと余計な心配をしたものだ。不況の波はここまで来ているのか。
共同浴場の大師の湯は掛流し、湯船は少々小ぶりだが一五〇円也では贅沢は言えない。入口は本格的な破風造り(お寺の造り)で歴史を感じさせる立派なものだ。
ほんのりと硫黄の香がして飲用もよし。二〇〇円で五〇円もお釣りが来るのは嬉しいではないか。なにか此処の心意気が感じられた思いであった。感謝、感謝である。無料の足湯もあり道端にある飲用の源泉も無料であった。太っ腹!
立派なお宿では入湯だけで一〇〇〇円以上と表示している。宿泊は一五〇〇〇円以上である。私は貧乏人、このような処には間違っても立ち入らぬことである。
湯上りの帰り道は石畳、それがまた素晴らしい感動であった。暗い夜道に人の気配もなくトボトボと湯から駐車場まで歩いた。(一人じゃなく相方とよたよたとだが)たった五、六分ほどの道のりだったが足元の石が燦然と輝き出した。あちらこちらにキラキラとである。それが先が見えないほどのながい距離が続いていた。「わあー天空だ!」思わず口に出た。薄暗い小さな街路灯の光を反射し夜空にきらめく満天の星!となる。歩を進めるとそれがチカチカと点滅して見えるのだ「これは一体なにものだ」地べたに天空を見るなどの幻想は生来初めての経験であった。まるで夢のなか、なんと言う名の石なのか確めようがないが素晴らしいものであった。もう、生きている残りの時間で、こんな想いに浸ることはないのではないか?とふっと頭のなかをかすめたことだ。ここの温泉の効用で熟睡をした。.夢に登場したのは亡くなった親族、亡くなった幼馴染や久しく逢っていない知人達であった。(これはお寺の効用か)
技術の粋を集めたナビゲーションシステムも、使う人間が古いとこんなものか?と
迷い迷ってやっとこの地に辿りついたものだが、わが人生も同じくそんなものだった。と自分に苦笑しあきれ果てもしたが、もう、取り返しのつかぬことではある。最大の迷惑をこうむったのは他でもない相方の労災ではなかった老妻であったろうな。「許せ!」
武将のつもりであったが不精ヒゲほどか。軽いのぉー。笑
旅の最終目的は東京の二科会の展覧会、予定の旅の行程を果たせずに、この地にある「無言館」と「信濃デッサン館」の観賞となる。前館は戦没画学生の作品を集めた美術館である。ここでも目頭を熱くしてしまった。両館長は窪島誠一郎氏。作家水上 勉の子息である。
志半ばで戦争に散った若い画学生の遺作遺品の数々。とてつもなく大きい日本画の作品を見てまた涙。生きていたら、この道で大家になられておられただろうなーと思いを馳せた。建物は十字の形をしているが別に宗教的な意味は含まないそうだ。
光を落した薄暗い館内から外に出ると夏の雲がもくもくと信濃の山々から涌き出ていた。濡らした瞼にまぶしく映る。そして山も野も緑一面鮮やかで美しい。そのなかに紅く点々と花が咲いている。百日紅とも呼ばれる「サルスベリの花だ」出発の日にも我が家のサルスベリの花も咲いていた。
ここではなぜか暑い外気も心地いい。
自然とは「生きていても、死んでいても」自然なのであるがそこにはとんでもない(大きな隔たりがあり違いがある)
私はその風景を目にして「死んで花実が咲くものか」のことばを呟いていた。
あの終戦の日にも確かに我が故郷の山にもサルスベリの花が咲いていた記憶がある。
暑い夏の日も間もなく終わる。 旅は続く
編集長の旅の話は次回の「私のありがとう」でも続きます。今回の参加者はご主人に有難うと言う人が多かった。大体において女性が長生きで、亭主の方が先に逝く。そのかみさんから亭主が誉められないのは情けないけど現実。わが身に振り返っても、当然と思うが、今回の出席者連は素晴らしかった。異口同音に亭主のお陰で我有りとおっしゃった。
なかでも岩手県から夫婦で八戸に移住してきた奥さんの喋りに驚嘆。八戸でこんな軽妙な喋りが出来る人がいたんだと絶句。
リズムがある、くすぐりもある、おまけにどんでん返しも含むと、実に話芸の真髄を?んでいる。
この話が秀逸だったので披露。
亭主が小皿を手の上にひっくり返して出した。
「おい。お前、稼ぎが悪いなどと、寝言を並べるな、こうなるぞ」
「お父さん、それはどういう意味ですか」
「それも知らないのか、これはな、お皿が手の上に載っていて、これを放せばバッと落ちるんだ、お皿がバッと落ちるからオサラバだよ、つまり、俺とお前もオサラバだ」
次回のこの人の話を聞きに来てくれ。十分に聞くだけの価値あり。
そのほかに貧乏な父だったが、理美容学校に入れてくれ、そのお陰で今も美容院を営業できる、だから、父にありがとうと言いたいとの言葉もあった。親は有難いものだ。親への感謝の言葉は時折聞く。が、自身が親になって果たして、してもらったことを我が子に返すことが出来たのだろうかと自問すると、してもらいたいばかりが先で、してやる、させてもらえる喜びを忘れてはいないだろうか。
又、してやったと恩着せがましく言っていないだろうか。前回の例会でも喋ったが、水沢の偉人、後藤新平(政治家、医師より官界に転じ逓相・内相・外相・東京市長などを歴任)が教えた、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように、そして報いを求めぬよう」を実践できる人は少ない。
月に一度の会ではあるが、こんなことを聞いて欲しい、見て欲しいの心根のある人は是非参加してください。参加は自由、入場料百円で弁当、飲み物つきは人のあたたかいふれあいを願う北村さんご夫婦の心。
先ずは八戸の新名所になるべく、この場を提供して下さる精神障害者支援施設経営の北村さんご夫婦に感謝しながら、毎月一回、楽しい人々の交流の場とするべく、ハモニカの演奏から開始。次第に日舞、詩吟、手品などもご覧にいれる。
ハモニカの曲は嫋々として雰囲気がある。杉森さんのご主人がサンタルチアと裏町人生、この曲は昭和十二年、上原敏が歌い、作詞は島田磐也、作曲阿部武雄、暗い浮世のこの裏町を、覗く冷たいこぼれ日よ、なまじ 懸けるな薄情け、夢も侘しい夜の花、というもので一世風靡。演奏者の人生に対する思い入れがあるだけに、なかなか胸に沁みました。
継いで、編集長の風天旅行ばなし。この人は夫婦で一ヶ月も方々を旅行。風の盆から、広島、九州は鹿児島までウロウロ。その紀行を語った。
八戸から出ない人も多く、話に質問が続出。特攻隊の基地、知覧の話は涙なくては聞けない。ゼロ戦の話、パイロットの話、出撃の前に朝鮮人特攻隊員が、死んだら蛍になって皆さんの前に又現れると言って、亡くなった晩にホタルが出た話などなど、先人は苦労をされたもんだ。そんな、話のあれこれを、編集長が綴った。
風の旅 風天弘坊
長野県 上田市 別所温泉で
ごぉーーん!寺の鐘の音で目が醒めた。
私の生涯にわたって、はじめてのことである。
しらじらと夜が明けはじめた五時に夢のなかで七つ数えたがまた深い眠りに引きこまれた。湯が効いたようだ。夢のなかの出来事か?山中では日の出は遅く、日没は早い。
旅の途中、長野県上田市に属する山中の静寂極まる温泉場に来てしまった。旅の予定も終盤になったが我が古里を出てからかれこれ一月あまり、ホームレスの生活もカマボコのようにすっかり板に付いた?ようである。
此処に来た目的は温泉に入るためではなく「無言館」という美術館が平成九年に開館されていて、そこが目的であった。それより先に建てられた本館は「信濃デッサン館」である。
この歳になっても物識らずの半端な美術愛好家だがお先真っ暗のこの社会の悪行の数々を冥土のミヤゲにと考えた末の行動とも言えるのだ。(ヤケッパチとも言うらしい)
見てやろう。聞いてやろうの旅である。
昨夜のお宿は長野の奥深いところにある別所温泉。
「おお、高級な、お宿でなんと贅沢な」と思ってはならぬ。宿はお粗末そのもの駐車場の一角、すなわち車の中に寝たのである。
南の都市の猛暑をくぐり抜け(36.5℃の日もあったが体温からすれば平熱か)此処は別世界であった。虫よけの網を張った車の窓から山の爽やかな風が吹き抜け心地いい。
無料駐車場には夜の九時を過ぎたら車もいない、人の気配もない静けさだが不気味さもなく清涼感は充分といったところだった。そこは巨大な石を積んだ城のような寺の境内の下にあった。北向観音八二五年の名刹である。ここにゆかりの慈覚大師がおられ、お入りになったといわれる由緒ある湯だそうな。大師湯と言う名である。
境内に入ると愛染カツラの大木があり、縁結びのご利益があるそうだが私ラ爺婆にはトンと関係はござんせん。
消費税の五円をあげて「腐れ縁でもどうにかなりぁんすか?」と掌を合すとバカモン!と観音さまのお声が聞こえたような気が・・。
私は出来ることなら、やってみたかった草むらのなかでの野宿、朝露にぬれての目覚めも悪くはなかったろう。漂泊の旅をした山頭火のようにである。(考えてみると文明の利器とやらの自動車とはなんと無粋なものか)
夜、此処の温泉に浸ったが、やんわりとした湯の質は疲れはてた躰にじんわりとしみた。
湯船に浸かっていたのは私と湯の主人だけであった。ひなびた温泉もこんなにも人の気配が少なくては萎びてしまうのではないかと余計な心配をしたものだ。不況の波はここまで来ているのか。
共同浴場の大師の湯は掛流し、湯船は少々小ぶりだが一五〇円也では贅沢は言えない。入口は本格的な破風造り(お寺の造り)で歴史を感じさせる立派なものだ。
ほんのりと硫黄の香がして飲用もよし。二〇〇円で五〇円もお釣りが来るのは嬉しいではないか。なにか此処の心意気が感じられた思いであった。感謝、感謝である。無料の足湯もあり道端にある飲用の源泉も無料であった。太っ腹!
立派なお宿では入湯だけで一〇〇〇円以上と表示している。宿泊は一五〇〇〇円以上である。私は貧乏人、このような処には間違っても立ち入らぬことである。
湯上りの帰り道は石畳、それがまた素晴らしい感動であった。暗い夜道に人の気配もなくトボトボと湯から駐車場まで歩いた。(一人じゃなく相方とよたよたとだが)たった五、六分ほどの道のりだったが足元の石が燦然と輝き出した。あちらこちらにキラキラとである。それが先が見えないほどのながい距離が続いていた。「わあー天空だ!」思わず口に出た。薄暗い小さな街路灯の光を反射し夜空にきらめく満天の星!となる。歩を進めるとそれがチカチカと点滅して見えるのだ「これは一体なにものだ」地べたに天空を見るなどの幻想は生来初めての経験であった。まるで夢のなか、なんと言う名の石なのか確めようがないが素晴らしいものであった。もう、生きている残りの時間で、こんな想いに浸ることはないのではないか?とふっと頭のなかをかすめたことだ。ここの温泉の効用で熟睡をした。.夢に登場したのは亡くなった親族、亡くなった幼馴染や久しく逢っていない知人達であった。(これはお寺の効用か)
技術の粋を集めたナビゲーションシステムも、使う人間が古いとこんなものか?と
迷い迷ってやっとこの地に辿りついたものだが、わが人生も同じくそんなものだった。と自分に苦笑しあきれ果てもしたが、もう、取り返しのつかぬことではある。最大の迷惑をこうむったのは他でもない相方の労災ではなかった老妻であったろうな。「許せ!」
武将のつもりであったが不精ヒゲほどか。軽いのぉー。笑
旅の最終目的は東京の二科会の展覧会、予定の旅の行程を果たせずに、この地にある「無言館」と「信濃デッサン館」の観賞となる。前館は戦没画学生の作品を集めた美術館である。ここでも目頭を熱くしてしまった。両館長は窪島誠一郎氏。作家水上 勉の子息である。
志半ばで戦争に散った若い画学生の遺作遺品の数々。とてつもなく大きい日本画の作品を見てまた涙。生きていたら、この道で大家になられておられただろうなーと思いを馳せた。建物は十字の形をしているが別に宗教的な意味は含まないそうだ。
光を落した薄暗い館内から外に出ると夏の雲がもくもくと信濃の山々から涌き出ていた。濡らした瞼にまぶしく映る。そして山も野も緑一面鮮やかで美しい。そのなかに紅く点々と花が咲いている。百日紅とも呼ばれる「サルスベリの花だ」出発の日にも我が家のサルスベリの花も咲いていた。
ここではなぜか暑い外気も心地いい。
自然とは「生きていても、死んでいても」自然なのであるがそこにはとんでもない(大きな隔たりがあり違いがある)
私はその風景を目にして「死んで花実が咲くものか」のことばを呟いていた。
あの終戦の日にも確かに我が故郷の山にもサルスベリの花が咲いていた記憶がある。
暑い夏の日も間もなく終わる。 旅は続く
編集長の旅の話は次回の「私のありがとう」でも続きます。今回の参加者はご主人に有難うと言う人が多かった。大体において女性が長生きで、亭主の方が先に逝く。そのかみさんから亭主が誉められないのは情けないけど現実。わが身に振り返っても、当然と思うが、今回の出席者連は素晴らしかった。異口同音に亭主のお陰で我有りとおっしゃった。
なかでも岩手県から夫婦で八戸に移住してきた奥さんの喋りに驚嘆。八戸でこんな軽妙な喋りが出来る人がいたんだと絶句。
リズムがある、くすぐりもある、おまけにどんでん返しも含むと、実に話芸の真髄を?んでいる。
この話が秀逸だったので披露。
亭主が小皿を手の上にひっくり返して出した。
「おい。お前、稼ぎが悪いなどと、寝言を並べるな、こうなるぞ」
「お父さん、それはどういう意味ですか」
「それも知らないのか、これはな、お皿が手の上に載っていて、これを放せばバッと落ちるんだ、お皿がバッと落ちるからオサラバだよ、つまり、俺とお前もオサラバだ」
次回のこの人の話を聞きに来てくれ。十分に聞くだけの価値あり。
そのほかに貧乏な父だったが、理美容学校に入れてくれ、そのお陰で今も美容院を営業できる、だから、父にありがとうと言いたいとの言葉もあった。親は有難いものだ。親への感謝の言葉は時折聞く。が、自身が親になって果たして、してもらったことを我が子に返すことが出来たのだろうかと自問すると、してもらいたいばかりが先で、してやる、させてもらえる喜びを忘れてはいないだろうか。
又、してやったと恩着せがましく言っていないだろうか。前回の例会でも喋ったが、水沢の偉人、後藤新平(政治家、医師より官界に転じ逓相・内相・外相・東京市長などを歴任)が教えた、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように、そして報いを求めぬよう」を実践できる人は少ない。
月に一度の会ではあるが、こんなことを聞いて欲しい、見て欲しいの心根のある人は是非参加してください。参加は自由、入場料百円で弁当、飲み物つきは人のあたたかいふれあいを願う北村さんご夫婦の心。
2007年10月1日月曜日
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」4
八月の例会出席者 売市・岩館さん、天内さん、市川さん、北山さん、竹岸さん、南郷・中村ご夫妻、新井田・畑屋さん、高舘・木村さん、下長・小針さんとお孫さん、根城・石鉢さん、田面木・吉成さん。
毎回いろいろな人の人生経験を聞くのは実に楽しいもの。今回は八戸から岩手県に転勤となり、水沢の娘さんを射止めて八戸に連れ帰った人がいた。結婚生活は円満で、子等にもめぐまれ順調に加齢。ところが突然、ご主人が脳梗塞に倒れ、奥さんは必死に介護。
その時、つくづく夫の有難みがわかったそうだ。誰しも健康で今の生活水準が永遠に続くものだと思いこんでいる。ところが六十になれば定年。昨日まで座っていた椅子から御破算(ごわさん・今までやって来た事を、最初の何もなかった状態にもどすこと)でねがいましてと抛りだされる。夫が元気でいればこそ、この生活があった、もしこのまま亡くなれば、私は一体どうしたらよいやら、とこう考えた。
なかなか、こうは考えられないもの。夫が死んだ? そりゃ寿命だから仕方がない。粗大ゴミだって年に何回かの集荷がある。それと同じでハイ、サヨウナラと言われるのが多くの夫の宿命だ。
亭主は元気で留守がいいってな言葉もあるが、いつまでも夫が元気で、月給の運び屋だと思うな。オット、そうはいかないゾ。この人の亭主のように病気にもなるもんだ。
それでも気のいい水沢生まれの女房は、リハビリに亭主と共に励み、見事回復したそうだ。世の中は一寸先は闇、誰にもこうした嘆きは襲うものだ。でも、その時、頭を抱えこんではダメ。生きている限りは死んではいない。生きる以上は努力をしろと教えられる。努力するしないは誰が決める?
皆、自分自身が決めることなんだ。自分がもうダメだと決めると総てがそこで停止する。
まだある、もう少しがんばろうとするからこそ、生きている証がある。
こういう言葉がある。立っているより座ったほうが楽だ。座っているより寝たほうが楽だ。寝ているより死んだほうが楽だで、死んでしまえば全てがなくなる。
生きてること自体が不思議なようなもので、死んでしまえば何もない。痛いも苦しいもない。金の苦労も人付き合いの心労もない。上司に怒鳴られることもないと、楽を求めれば行き着く先は死んでしまうだけ。生きてるからこそ、努力が出来る。その努力は他人が認めなくてもよい。自身が出来なかったことが出来るようになったことを喜びとすればそれでよい。
六十の手習いでもダンスでも何でも、自分がしてみたい、やってみたいことを具現できるのが、この世なんだ、死んでしまえば何もできない。旅行でもいい、観劇でもいい、何でもいいからすることだ。死んで金を地獄に持参した人は一人もいない。美味い物を食うでもいい、何でも生きている間にすることだ。そして、今日も無事に眼が開いたことを有難いと思えるようになることだ。こうなると、なんにでも有難うと言えるようになる。石につまずいて転んでも、ありがとう、そこまで行くには修行がいるが、転んだときに、怪我しなくてよかったと思え。そうすりゃ膝小僧をさすりながらも有難うと言えるようになる。
大体腹がたつというが、腹をたてないようにすると長生きできる。西有穆山が年中腹を立てている婆さんに教えた。
「婆さん長生きしたいか」
「ハイ」
「それでは腹をたてないようにすることだ」
「それでも禅師さま、家の嫁ときたら、だらしがなくて、どうもこうもなりません、だから私が言うんです」
「そうかそうか、誰しも腹が立つときがある、でもな、腹を立てるたびに三日づつ寿命が縮ぞ」
「それはいけません、禅師さま、すると嫁は私の寿命を縮める出刃包丁ですか」
「これこれ、そう思うことが寿命を縮めるもとだ、どうしてお前さんはそう嫁を悪く言う、嫁さんはもともとこの家の者ではない、他所の家から嫁に来た、来たと思うから間違いで、来てくれた、来てくださったと先ず思うことだ、お前さんだって昔は若くて美しかった」
「あらいやだ、禅師さま、あなたは私の昔をご存知で?」
「そうだろう、皺だらけで見る影もないお前さんだって昔は若くて綺麗だった、そのお前さんは昔から、この家の者だったか? 違うだろう、お前さんも昔は他所の娘だった、それが縁あってこの家に嫁に来た、すると姑がお前さんに辛く当たった、だから、その腹癒せに今の嫁に辛く当たってはいまいか、それでは因果応報、いつまで経ってもこの家の姑婆は嫁の仇でしかない、お前さんもいつかは死ぬ、死なぬ者は一人だっておらぬ。死ぬのは誰しも嫌なことだ、長生きしたければ腹を立てないことだ。それには有難い呪文を唱えると腹が立たなくなって長生きができるようになる。それを教えてやろう」
「是非教えてください、その有難い呪文を、でも長いと覚えられません」
「短いから心配するな、いいか、文句を言いたい、腹が立つと思う時に、こう唱えろ、おん、腹立てまいソワカ、これだけで腹が立つのが治まる」
婆さんはそれから、この呪文を唱えて長生きしたそうだ。こうしたように、何事にも腹を立てると寿命は縮む。それでなくとも、人間は四苦八苦のうちの一つ、病を得るようになっている。それも健康で気力、体力十分な人がそれに遭遇した。
五戸高校と言うと、直ぐサッカーと答が返るほど、実力のある高校、このサッカー部員で元気いっぱいでグランドを走り廻った練習熱心な生徒が、病に倒れた。それは練習中に水を飲むなという指示を守って腎臓を壊した。人間の体は六割が水。その水の調整を行なうのが腎臓。
急激な運動、水を摂取しないことで、体が調整機能を失い、透析をするようになった。腎臓が動か なくなると生きていけない。体の血を綺麗にするため透析をするのだが、病院に週三回、およそ四時間ベットに寝る。こうなると改善はなく、腎臓移植をする以外に生存はむずかしい。透析患者は全国に二十二万人もいる。
水を飲むと簡単に言うが、これほど体に大切なものはない。腎臓移植、誰が肝腎というように肝臓、腎臓をくれる者があろうか。
昨今はフィリピン人が腎臓を売るそうだが、手に入れた腎臓を体が受け付けない場合もある。拒否反応というもの。こうなると、折角手に入れた腎臓も役に立たない。
日本では毎年新しく透析を開始する人が三万人もいる。だが、一年間で腎臓移植をする人は七百人しかいない。0.02%と極めて低い。透析を開始すると七年がメド。三十年も透析をして生きている人もいるが稀なこと。
この人も死を覚悟。生きたい。また元気に仕事をしたいと思うが体がついていかない。当然悩んだ。
この人に弟が二人いた。この弟たちは兄が腎臓病で悩んでいるのを知っている。
さて、読者諸君、どうだ、あなたに二つある腎臓の一つを呉れと言われたらどうする。勿論、腎臓はひとつだけでも生きていける。あなたの配偶者なら否応なしに提供するだろう。
だが、兄であり姉であるとしたらどうだ。あなたに差し出すだけの勇気があり義侠心が備わっているだろうか。
上の弟は腎臓をくれないと言う。下の弟が兄さん、俺のを使ってくれと投げ出した。二つしかない腎臓、一つを取れば疲れやすい、今までどおりの生活が出来るの保障もない。でも、長兄のためなら、どうぞ、俺のを使ってくださいと己の体を投げ出した。
有難いじゃないか。尊いじゃないか。普段偉そうなことを言う人格者と称される人が、こうした嘆きの場に出会って、己の体を投げ出せる者が何人あろう。他人の痛いのは百年我慢が出来るという。そうした人間ばかりが多い世の中。
こうした弟さんもいるんだ。そして手術は成功。それでも、年に何回かは拒絶反応のようなものが出る。そのために入院するそうだが、透析のことを考えれば、天と地ほどの差があるそうだ。
健康と一言でいうが、健康は失ってこそ初めて、その有難みがわかるもんだ。
今、この人は保険の仕事を営んでおられる。失って初めて有難みがわかる、この自分こそ、財産を失う前に保全する術があると教えて歩く。
この人にとって保険は金を戻すための手段ではなく、失う前に手立てを考えよう、保険の組み立て方次第で、何の心配もなくなると、転ばぬ先の杖に仕組みを説いて歩く。
その根底にあるのは、自分は弟があればこそ、こうして生きていかれる。この有難みこそ、弟の恩顧、だが、保険は自分の意思で損害を回避できるのだ。恩愛は買えずとも保険は買える。だから、人のお役に立とうと今日も顧客を歩く。
毎回いろいろな人の人生経験を聞くのは実に楽しいもの。今回は八戸から岩手県に転勤となり、水沢の娘さんを射止めて八戸に連れ帰った人がいた。結婚生活は円満で、子等にもめぐまれ順調に加齢。ところが突然、ご主人が脳梗塞に倒れ、奥さんは必死に介護。
その時、つくづく夫の有難みがわかったそうだ。誰しも健康で今の生活水準が永遠に続くものだと思いこんでいる。ところが六十になれば定年。昨日まで座っていた椅子から御破算(ごわさん・今までやって来た事を、最初の何もなかった状態にもどすこと)でねがいましてと抛りだされる。夫が元気でいればこそ、この生活があった、もしこのまま亡くなれば、私は一体どうしたらよいやら、とこう考えた。
なかなか、こうは考えられないもの。夫が死んだ? そりゃ寿命だから仕方がない。粗大ゴミだって年に何回かの集荷がある。それと同じでハイ、サヨウナラと言われるのが多くの夫の宿命だ。
亭主は元気で留守がいいってな言葉もあるが、いつまでも夫が元気で、月給の運び屋だと思うな。オット、そうはいかないゾ。この人の亭主のように病気にもなるもんだ。
それでも気のいい水沢生まれの女房は、リハビリに亭主と共に励み、見事回復したそうだ。世の中は一寸先は闇、誰にもこうした嘆きは襲うものだ。でも、その時、頭を抱えこんではダメ。生きている限りは死んではいない。生きる以上は努力をしろと教えられる。努力するしないは誰が決める?
皆、自分自身が決めることなんだ。自分がもうダメだと決めると総てがそこで停止する。
まだある、もう少しがんばろうとするからこそ、生きている証がある。
こういう言葉がある。立っているより座ったほうが楽だ。座っているより寝たほうが楽だ。寝ているより死んだほうが楽だで、死んでしまえば全てがなくなる。
生きてること自体が不思議なようなもので、死んでしまえば何もない。痛いも苦しいもない。金の苦労も人付き合いの心労もない。上司に怒鳴られることもないと、楽を求めれば行き着く先は死んでしまうだけ。生きてるからこそ、努力が出来る。その努力は他人が認めなくてもよい。自身が出来なかったことが出来るようになったことを喜びとすればそれでよい。
六十の手習いでもダンスでも何でも、自分がしてみたい、やってみたいことを具現できるのが、この世なんだ、死んでしまえば何もできない。旅行でもいい、観劇でもいい、何でもいいからすることだ。死んで金を地獄に持参した人は一人もいない。美味い物を食うでもいい、何でも生きている間にすることだ。そして、今日も無事に眼が開いたことを有難いと思えるようになることだ。こうなると、なんにでも有難うと言えるようになる。石につまずいて転んでも、ありがとう、そこまで行くには修行がいるが、転んだときに、怪我しなくてよかったと思え。そうすりゃ膝小僧をさすりながらも有難うと言えるようになる。
大体腹がたつというが、腹をたてないようにすると長生きできる。西有穆山が年中腹を立てている婆さんに教えた。
「婆さん長生きしたいか」
「ハイ」
「それでは腹をたてないようにすることだ」
「それでも禅師さま、家の嫁ときたら、だらしがなくて、どうもこうもなりません、だから私が言うんです」
「そうかそうか、誰しも腹が立つときがある、でもな、腹を立てるたびに三日づつ寿命が縮ぞ」
「それはいけません、禅師さま、すると嫁は私の寿命を縮める出刃包丁ですか」
「これこれ、そう思うことが寿命を縮めるもとだ、どうしてお前さんはそう嫁を悪く言う、嫁さんはもともとこの家の者ではない、他所の家から嫁に来た、来たと思うから間違いで、来てくれた、来てくださったと先ず思うことだ、お前さんだって昔は若くて美しかった」
「あらいやだ、禅師さま、あなたは私の昔をご存知で?」
「そうだろう、皺だらけで見る影もないお前さんだって昔は若くて綺麗だった、そのお前さんは昔から、この家の者だったか? 違うだろう、お前さんも昔は他所の娘だった、それが縁あってこの家に嫁に来た、すると姑がお前さんに辛く当たった、だから、その腹癒せに今の嫁に辛く当たってはいまいか、それでは因果応報、いつまで経ってもこの家の姑婆は嫁の仇でしかない、お前さんもいつかは死ぬ、死なぬ者は一人だっておらぬ。死ぬのは誰しも嫌なことだ、長生きしたければ腹を立てないことだ。それには有難い呪文を唱えると腹が立たなくなって長生きができるようになる。それを教えてやろう」
「是非教えてください、その有難い呪文を、でも長いと覚えられません」
「短いから心配するな、いいか、文句を言いたい、腹が立つと思う時に、こう唱えろ、おん、腹立てまいソワカ、これだけで腹が立つのが治まる」
婆さんはそれから、この呪文を唱えて長生きしたそうだ。こうしたように、何事にも腹を立てると寿命は縮む。それでなくとも、人間は四苦八苦のうちの一つ、病を得るようになっている。それも健康で気力、体力十分な人がそれに遭遇した。
五戸高校と言うと、直ぐサッカーと答が返るほど、実力のある高校、このサッカー部員で元気いっぱいでグランドを走り廻った練習熱心な生徒が、病に倒れた。それは練習中に水を飲むなという指示を守って腎臓を壊した。人間の体は六割が水。その水の調整を行なうのが腎臓。
急激な運動、水を摂取しないことで、体が調整機能を失い、透析をするようになった。腎臓が動か なくなると生きていけない。体の血を綺麗にするため透析をするのだが、病院に週三回、およそ四時間ベットに寝る。こうなると改善はなく、腎臓移植をする以外に生存はむずかしい。透析患者は全国に二十二万人もいる。
水を飲むと簡単に言うが、これほど体に大切なものはない。腎臓移植、誰が肝腎というように肝臓、腎臓をくれる者があろうか。
昨今はフィリピン人が腎臓を売るそうだが、手に入れた腎臓を体が受け付けない場合もある。拒否反応というもの。こうなると、折角手に入れた腎臓も役に立たない。
日本では毎年新しく透析を開始する人が三万人もいる。だが、一年間で腎臓移植をする人は七百人しかいない。0.02%と極めて低い。透析を開始すると七年がメド。三十年も透析をして生きている人もいるが稀なこと。
この人も死を覚悟。生きたい。また元気に仕事をしたいと思うが体がついていかない。当然悩んだ。
この人に弟が二人いた。この弟たちは兄が腎臓病で悩んでいるのを知っている。
さて、読者諸君、どうだ、あなたに二つある腎臓の一つを呉れと言われたらどうする。勿論、腎臓はひとつだけでも生きていける。あなたの配偶者なら否応なしに提供するだろう。
だが、兄であり姉であるとしたらどうだ。あなたに差し出すだけの勇気があり義侠心が備わっているだろうか。
上の弟は腎臓をくれないと言う。下の弟が兄さん、俺のを使ってくれと投げ出した。二つしかない腎臓、一つを取れば疲れやすい、今までどおりの生活が出来るの保障もない。でも、長兄のためなら、どうぞ、俺のを使ってくださいと己の体を投げ出した。
有難いじゃないか。尊いじゃないか。普段偉そうなことを言う人格者と称される人が、こうした嘆きの場に出会って、己の体を投げ出せる者が何人あろう。他人の痛いのは百年我慢が出来るという。そうした人間ばかりが多い世の中。
こうした弟さんもいるんだ。そして手術は成功。それでも、年に何回かは拒絶反応のようなものが出る。そのために入院するそうだが、透析のことを考えれば、天と地ほどの差があるそうだ。
健康と一言でいうが、健康は失ってこそ初めて、その有難みがわかるもんだ。
今、この人は保険の仕事を営んでおられる。失って初めて有難みがわかる、この自分こそ、財産を失う前に保全する術があると教えて歩く。
この人にとって保険は金を戻すための手段ではなく、失う前に手立てを考えよう、保険の組み立て方次第で、何の心配もなくなると、転ばぬ先の杖に仕組みを説いて歩く。
その根底にあるのは、自分は弟があればこそ、こうして生きていかれる。この有難みこそ、弟の恩顧、だが、保険は自分の意思で損害を回避できるのだ。恩愛は買えずとも保険は買える。だから、人のお役に立とうと今日も顧客を歩く。
2007年9月1日土曜日
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」3
ありがとうは珠玉 Aさんのこと
七月の例会「私のありがとう」第三回が開かれた。地域交流センター「ギャラリーみち」に多くの善男善女が集まった。常連となられた方、初めての方、年齢も小学生から八十才の女性までと幅ひろい。
「あなたは今までの生涯でどなたに感謝したいですか?」で熱を帯びたやりとりがあり会場はいっぱいとなりました。
やはり人は生きているのは誰かの助けがありその想いをどこかで口に出さなければ生きている実感がないのです。すなわち誰かのお陰で生かされているわけです。「ありがとう」を言いたい、人生は長いようでいながら自然の中の まばたきほどであろうか、短い。感謝しなければならない方がおられたら、たったの今、しかないと考えよう。
参加者の石川県七尾市生まれのA子さんが「私は父親に命を助けられた、六十二年前の八戸空襲で米軍の爆撃を受けたが父親が自分の身を挺して被さってくれたので命が助かった、今、自分があるのはそのおかげ」と・・目頭を濡らしながら話して下さった。
名前や詳細な事情は本紙に出さないでくれとのことで省くが、場所は八戸市内のセメント工場。山口県から一家で転勤配属になった。優秀な技術者だったろうか、重要な人物であったか、兵士として前線には送られず此処八戸市に派遣されたようである。
住居は湊ホロキ長根、工場のすぐ傍にある小高 い場所であった。確か終戦のたった一月前、一九四五(昭和一九年)年七月十四日であったろうか。(一五日にも爆撃あった)
セメントの生産は戦争のための直接兵器ではないが本土決戦を目論んだ我が国は敵アメリカを迎え撃つ要塞や砲台の建設に極めて重要とされていた。そのためのひとつ「八戸要塞」と呼ばれる南郷地区に建設にされたものがある。高学年の生徒達は大勢動員され昼夜を問わずセメントや砂を背負い、凍てつく季節にはそりを使い勤労奉仕をさせられた。私の兄や姉もそうだった。食料も枯渇していて空腹も極限の状態ではこの作業に携わったもの達は戦争の勝利は信じられないものではなかったかと思われる。
最初は高館の陸軍飛行場が艦載機のグラマンに襲われた。それから標的は工場、橋脚、鉄路、軍艦、小型の漁船までに移った。動くものは人間も猫一匹でも機銃掃射をあびせたものだ。岩城セメント八戸工場、日東化学八戸工場が大型爆弾を無数に投下された。もう力尽きた日本軍の反撃もほとんど無く、成すがまま。(海防艦 稲木はまだ配属になっていなかったか?八戸港を守っていた稲木は翌月十日の空襲で反撃奮戦するも撃沈された。八月六日はすでに広島市に原爆が投下されている)
八戸戦争の状況の一部始終をみて実録した 花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の記述の一こまを見てみよう。
稲 木 の 最 後
八月八日日暮時大湊軍港から出港した海防艦が一隻津軽から尻屋沖を南下して掃戎に当り八戸港の西防波堤南側よりに投錨。八月に入ると頻繁に八戸港に軍艦が入港していたが、これは敵が本土上陸の作戦をたてたとみた大湊海軍司令部は太平洋沿岸警備の任を強めて八戸防衛の陣を敷いた。
その朝六時八戸港の西防波堤に投錨したのは戦艦稲木だった。
そして我々市民が忘れることの出来ない日本海軍最後の海戦を捲き起こした。稲木の艦員達は朝食前、次ぎに来る米動部隊の来襲に備えて攻撃準備の点検をしていた。グラマンは八戸沖を見逃して三沢空軍基地を空爆した。グラマンは三沢空爆から反転して鮫港の上空に姿を見せていた。稲木は揚錨の作業をしながら内火艇の揚艇にかかっていた。そこへグラマンが機銃掃射をかけてきた。攻撃を受けながらの揚錨作業で艦上の兵士は右往左往している。防御の体制が出来ていないが艦砲が鳴り渡っていた。全くの不意打ち同様の攻撃をうけたので甲板の上は沢山の兵士が飛び跳ねているのが見える。鮫角高台の上空からロケット砲と機銃で二列三列になって撃ちまくってくる。稲木からの艦砲をかわして又戻ってくる。揚錨が出来ない稲木は戦闘能力はガタ落ち、文字通りの釘付け状態。グラマンは主に艦橋を狙ってのロケット弾を雨のように射かける。艦全体がロケット弾で吹き荒れている。その中で大砲を発射し機銃を撃ち、応戦をして敵機を近ずけまいと懸命に頑張っている。稲木も又死力をつくして反撃します。錨を引きずっての戦いですから左舷の三速機銃はつかえない。稲木の砲撃も敵機に標準を定める余裕がなく滅多やたらな弾幕をつくる撃ち方だったが狙いが定まってくると艦砲はグラマンの飛翼をかすめてうなりをあげ、右舷の二連装機銃の弾丸はグラマンの尾翼に被弾。左舷の機銃は使えず片肺攻撃だが機関銃、艦砲が能力全開。蕪島上空から低空で稲木に向いロケット弾は直線に延びて橋上をかすめ海に消える。稲木も前門後門の高角砲の砲口は赤味を帯びてパッパッと火焔を発し、砲弾を二連発してグラマン向っていきます。それが一瞬にしてグラマンの飛翼に当り破片が四方に散ります。右サイドの三連装機弾は列をなして飛び、蕪島低空から襲う敵機に命中して行きます。沖防の彼方にきりもみをしながらグラマンが火を吹いて落下。鮫港の空は火と煙に覆われて八戸沖を見えなくしていった。
鮫灯台から回りこんだグラマンの一発のロケット弾が稲木めがけて走っていきました。弾丸は一直線に目に見えてのびていきます。真昼でも白い閃光となって飛行し、行きついた先の艦尾で物凄い火焔が横なぐりに広がり、巨大な火の玉が艦上を揺さぶって宙天に跳ねあがった。轟音は耳をつん裂き、鼓膜を一時不能にした。爆煙は艦尾を覆って大小の火の玉が花火の様に煙の中から飛散します。もくもくと真っ黒い煙が艦橋をつつみ、更に艦首に流れて来ます。稲木は除々に艦尾を重くして艦体を傾け海中にかくしていった。
そしてこの海防艦稲木が最後を遂げた次ぎの日、十日、日本政府はスイスとスウェーデンを通じてポツダム宣言を受諾する事を認め、連合国側に通知をしていた。第三艦隊司令長官ハルゼー将軍は洋上でこの日本降伏の通知を受けていたのですが尚も日本を痛めつけようと太平洋岸全体の都市猛爆の命令を指令していたのです。
花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の原文抜粋
話しはまた戻る。A子さんの母親は身重で下の子ひとりをつれて山口の実家にお産に帰郷していたそうな。父娘で戦時下の留守をあずかっていた。工場は無数の直撃弾で壊滅。いくらも離れていない住居も爆風だけで破壊された。グラマンからの機銃掃射は12.7㍉機関砲、もし当ったら身体は原形をとどめなく砕け散る。
その時の詳細を尋ねたが、Aさんは首を横に振るばかり。
父の命を懸けた子への愛情をひしとうけとめ現在までこの珠玉(宝石としての玉)は胸のなかに大事に大事に仕舞いこんで来たものだろう。目頭の光るものがそれを物語る。
ひとには、それぞれの生きた歴史がある。現在のように混沌とした社会の風潮を真っ直ぐに進むのは至難である。暴風である。人生にも遭難、難破がある。結婚式では新しい船出として祝われるが、一生、安閑として過ごすものなど唯ひとりとしていないのだ。Aさんはこの珠玉、時をみては取りだし磨いてきた。そして今燦然と輝いているのではなかろうか。
「親は子を命懸けで育てること」これは人間が発生?した太古から当然のこととして行われてきたものであり、とりわけこの項で述べるまでではないが、しかし、この行為は簡単そうで容易なことではない。日常、自分だけを維持するだけでも精いっぱいなことである。だが、生き物はすべて自己犠牲があってこそ成り立っているのだ。
Aさん、このことは普段の会話では軽やかに口にはしないであろう。宝物は、とても勿体無くて、そう簡単に他人の眼にも耳にも晒せないし、晒したくない。そんな思いではないだろうか。詳細を拝聴出来なかったので推測の域をでないが、Aさんはこの親御さんの意志を受け継ぎ、子を立派に育て上げたのではないだろうか?「現代の親たちよ!子は命懸けで育てよ!」と教えられた思いである。子は親の背をみて育つ。古くからの格言である。しかし、現代、子殺し、親殺しが日常の茶飯ではなんとも嘆かわしいではないか。「しっかりしろ日本!」と声を大きくして叫びたい。蛇足であるが、同じ時、A子さんの所と対岸、私は小中野の防空壕にいた。五〇メーターほど離れた湊橋に直撃弾をうけた。250キロ爆弾破裂の地響きで身体が飛ばされ頭が天井にぶつかった。国民学校三年生、子供ながら「この先はどうなっていくのだろう」と不安感でいっぱいであった。空襲警報解除。橋の中央に人の落ちるぐらいの穴が空き、夏の川面がキラキラ光っていた。一年前には朋友と、ここで泳いだり、釣りをしたりして遊んでいたものだった。その日のうち親戚をたより、岩手との県境「梅の木」という家が三軒だけの村にお世話になった。翌日もグラマンの爆撃は続いていた。山の上の大木に登りセメント工場の爆撃をみていた。爆撃音は耳には入らなかったが私の登っている木の頭上を低空で飛行するグラマンには首が縮まったものだ。あの爆撃の下では何人の人が死んでいるのだ。子供心にもそのように思い暗い気持ちであった。記録では民間人だけで数十人と言われているがもっと多いのではなかったか?詳細はわからない。
文責 風天弘坊
七月の例会「私のありがとう」第三回が開かれた。地域交流センター「ギャラリーみち」に多くの善男善女が集まった。常連となられた方、初めての方、年齢も小学生から八十才の女性までと幅ひろい。
「あなたは今までの生涯でどなたに感謝したいですか?」で熱を帯びたやりとりがあり会場はいっぱいとなりました。
やはり人は生きているのは誰かの助けがありその想いをどこかで口に出さなければ生きている実感がないのです。すなわち誰かのお陰で生かされているわけです。「ありがとう」を言いたい、人生は長いようでいながら自然の中の まばたきほどであろうか、短い。感謝しなければならない方がおられたら、たったの今、しかないと考えよう。
参加者の石川県七尾市生まれのA子さんが「私は父親に命を助けられた、六十二年前の八戸空襲で米軍の爆撃を受けたが父親が自分の身を挺して被さってくれたので命が助かった、今、自分があるのはそのおかげ」と・・目頭を濡らしながら話して下さった。
名前や詳細な事情は本紙に出さないでくれとのことで省くが、場所は八戸市内のセメント工場。山口県から一家で転勤配属になった。優秀な技術者だったろうか、重要な人物であったか、兵士として前線には送られず此処八戸市に派遣されたようである。
住居は湊ホロキ長根、工場のすぐ傍にある小高 い場所であった。確か終戦のたった一月前、一九四五(昭和一九年)年七月十四日であったろうか。(一五日にも爆撃あった)
セメントの生産は戦争のための直接兵器ではないが本土決戦を目論んだ我が国は敵アメリカを迎え撃つ要塞や砲台の建設に極めて重要とされていた。そのためのひとつ「八戸要塞」と呼ばれる南郷地区に建設にされたものがある。高学年の生徒達は大勢動員され昼夜を問わずセメントや砂を背負い、凍てつく季節にはそりを使い勤労奉仕をさせられた。私の兄や姉もそうだった。食料も枯渇していて空腹も極限の状態ではこの作業に携わったもの達は戦争の勝利は信じられないものではなかったかと思われる。
最初は高館の陸軍飛行場が艦載機のグラマンに襲われた。それから標的は工場、橋脚、鉄路、軍艦、小型の漁船までに移った。動くものは人間も猫一匹でも機銃掃射をあびせたものだ。岩城セメント八戸工場、日東化学八戸工場が大型爆弾を無数に投下された。もう力尽きた日本軍の反撃もほとんど無く、成すがまま。(海防艦 稲木はまだ配属になっていなかったか?八戸港を守っていた稲木は翌月十日の空襲で反撃奮戦するも撃沈された。八月六日はすでに広島市に原爆が投下されている)
八戸戦争の状況の一部始終をみて実録した 花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の記述の一こまを見てみよう。
稲 木 の 最 後
八月八日日暮時大湊軍港から出港した海防艦が一隻津軽から尻屋沖を南下して掃戎に当り八戸港の西防波堤南側よりに投錨。八月に入ると頻繁に八戸港に軍艦が入港していたが、これは敵が本土上陸の作戦をたてたとみた大湊海軍司令部は太平洋沿岸警備の任を強めて八戸防衛の陣を敷いた。
その朝六時八戸港の西防波堤に投錨したのは戦艦稲木だった。
そして我々市民が忘れることの出来ない日本海軍最後の海戦を捲き起こした。稲木の艦員達は朝食前、次ぎに来る米動部隊の来襲に備えて攻撃準備の点検をしていた。グラマンは八戸沖を見逃して三沢空軍基地を空爆した。グラマンは三沢空爆から反転して鮫港の上空に姿を見せていた。稲木は揚錨の作業をしながら内火艇の揚艇にかかっていた。そこへグラマンが機銃掃射をかけてきた。攻撃を受けながらの揚錨作業で艦上の兵士は右往左往している。防御の体制が出来ていないが艦砲が鳴り渡っていた。全くの不意打ち同様の攻撃をうけたので甲板の上は沢山の兵士が飛び跳ねているのが見える。鮫角高台の上空からロケット砲と機銃で二列三列になって撃ちまくってくる。稲木からの艦砲をかわして又戻ってくる。揚錨が出来ない稲木は戦闘能力はガタ落ち、文字通りの釘付け状態。グラマンは主に艦橋を狙ってのロケット弾を雨のように射かける。艦全体がロケット弾で吹き荒れている。その中で大砲を発射し機銃を撃ち、応戦をして敵機を近ずけまいと懸命に頑張っている。稲木も又死力をつくして反撃します。錨を引きずっての戦いですから左舷の三速機銃はつかえない。稲木の砲撃も敵機に標準を定める余裕がなく滅多やたらな弾幕をつくる撃ち方だったが狙いが定まってくると艦砲はグラマンの飛翼をかすめてうなりをあげ、右舷の二連装機銃の弾丸はグラマンの尾翼に被弾。左舷の機銃は使えず片肺攻撃だが機関銃、艦砲が能力全開。蕪島上空から低空で稲木に向いロケット弾は直線に延びて橋上をかすめ海に消える。稲木も前門後門の高角砲の砲口は赤味を帯びてパッパッと火焔を発し、砲弾を二連発してグラマン向っていきます。それが一瞬にしてグラマンの飛翼に当り破片が四方に散ります。右サイドの三連装機弾は列をなして飛び、蕪島低空から襲う敵機に命中して行きます。沖防の彼方にきりもみをしながらグラマンが火を吹いて落下。鮫港の空は火と煙に覆われて八戸沖を見えなくしていった。
鮫灯台から回りこんだグラマンの一発のロケット弾が稲木めがけて走っていきました。弾丸は一直線に目に見えてのびていきます。真昼でも白い閃光となって飛行し、行きついた先の艦尾で物凄い火焔が横なぐりに広がり、巨大な火の玉が艦上を揺さぶって宙天に跳ねあがった。轟音は耳をつん裂き、鼓膜を一時不能にした。爆煙は艦尾を覆って大小の火の玉が花火の様に煙の中から飛散します。もくもくと真っ黒い煙が艦橋をつつみ、更に艦首に流れて来ます。稲木は除々に艦尾を重くして艦体を傾け海中にかくしていった。
そしてこの海防艦稲木が最後を遂げた次ぎの日、十日、日本政府はスイスとスウェーデンを通じてポツダム宣言を受諾する事を認め、連合国側に通知をしていた。第三艦隊司令長官ハルゼー将軍は洋上でこの日本降伏の通知を受けていたのですが尚も日本を痛めつけようと太平洋岸全体の都市猛爆の命令を指令していたのです。
花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の原文抜粋
話しはまた戻る。A子さんの母親は身重で下の子ひとりをつれて山口の実家にお産に帰郷していたそうな。父娘で戦時下の留守をあずかっていた。工場は無数の直撃弾で壊滅。いくらも離れていない住居も爆風だけで破壊された。グラマンからの機銃掃射は12.7㍉機関砲、もし当ったら身体は原形をとどめなく砕け散る。
その時の詳細を尋ねたが、Aさんは首を横に振るばかり。
父の命を懸けた子への愛情をひしとうけとめ現在までこの珠玉(宝石としての玉)は胸のなかに大事に大事に仕舞いこんで来たものだろう。目頭の光るものがそれを物語る。
ひとには、それぞれの生きた歴史がある。現在のように混沌とした社会の風潮を真っ直ぐに進むのは至難である。暴風である。人生にも遭難、難破がある。結婚式では新しい船出として祝われるが、一生、安閑として過ごすものなど唯ひとりとしていないのだ。Aさんはこの珠玉、時をみては取りだし磨いてきた。そして今燦然と輝いているのではなかろうか。
「親は子を命懸けで育てること」これは人間が発生?した太古から当然のこととして行われてきたものであり、とりわけこの項で述べるまでではないが、しかし、この行為は簡単そうで容易なことではない。日常、自分だけを維持するだけでも精いっぱいなことである。だが、生き物はすべて自己犠牲があってこそ成り立っているのだ。
Aさん、このことは普段の会話では軽やかに口にはしないであろう。宝物は、とても勿体無くて、そう簡単に他人の眼にも耳にも晒せないし、晒したくない。そんな思いではないだろうか。詳細を拝聴出来なかったので推測の域をでないが、Aさんはこの親御さんの意志を受け継ぎ、子を立派に育て上げたのではないだろうか?「現代の親たちよ!子は命懸けで育てよ!」と教えられた思いである。子は親の背をみて育つ。古くからの格言である。しかし、現代、子殺し、親殺しが日常の茶飯ではなんとも嘆かわしいではないか。「しっかりしろ日本!」と声を大きくして叫びたい。蛇足であるが、同じ時、A子さんの所と対岸、私は小中野の防空壕にいた。五〇メーターほど離れた湊橋に直撃弾をうけた。250キロ爆弾破裂の地響きで身体が飛ばされ頭が天井にぶつかった。国民学校三年生、子供ながら「この先はどうなっていくのだろう」と不安感でいっぱいであった。空襲警報解除。橋の中央に人の落ちるぐらいの穴が空き、夏の川面がキラキラ光っていた。一年前には朋友と、ここで泳いだり、釣りをしたりして遊んでいたものだった。その日のうち親戚をたより、岩手との県境「梅の木」という家が三軒だけの村にお世話になった。翌日もグラマンの爆撃は続いていた。山の上の大木に登りセメント工場の爆撃をみていた。爆撃音は耳には入らなかったが私の登っている木の頭上を低空で飛行するグラマンには首が縮まったものだ。あの爆撃の下では何人の人が死んでいるのだ。子供心にもそのように思い暗い気持ちであった。記録では民間人だけで数十人と言われているがもっと多いのではなかったか?詳細はわからない。
文責 風天弘坊
2007年8月1日水曜日
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」 2
売市のギャラリーみちで第二回の「私のありがとう」が6月22日第四金曜日に開催された。
参加者は根城の黒川弥生さん、高舘の木村由記子さん、尻内の松倉由紀江さん、新井田の佐々木秀子さん、尻内の三浦和江さん、長苗代の田茂広子さん、梅村一江さん、櫛引の佐藤隆さん、売市の大西昭子さん、上野ナヨさん、北山栄子さん、南部町の菅谷美月さん、中村澄子さん、白銀の清水政夫さん、南郷区の三浦テルさん、真紀さんたち。
北山さんから味噌汁の差し入れもあり和やかに百円で弁当と飲み物が出た。
これはギャラリーみちの経営者北村道子さんの気持ち。この店は北村夫妻が精神障害者の施設を営み、その利用者が社会復帰する場として設けられた。損得抜きで地域の人々に精神障害者とのふれあいの場になればと考えておられる。この場に は健常者、障害者が製作した小物、あるいは収穫した野菜などが陳列され、販売することができる。三日町に「町のえき」があるが、ここはその売市番と言えるか。
まず、前回の続きで風天の寅さんのタンカの世界、やけのやんぱち日焼けのなすび、わたしや入れ歯で歯がたたないなどの、奇天烈なことばを並べるのが、日本の話芸、講談、落語、浪曲のほかにある第四の民衆芸能、そのテキヤ諸君が育てたタンカの世界にあるロクマ(易者)の喋りが十二支占い、これを筆者が演じた。前回の続きで午年からはじめた。
痛快無比の芸で子年から亥年まで通しでしゃべると二時間芸。これを適当に切って喋るわけだが、八戸在住の人はまず見たことがない。日本でこれが喋れる人も少ないが、昨今は素人がこれに気づいて東京都が発行する大道芸許可証を持ち奮闘中。
日本の話芸普及を目指す筆者が講談も披露。五分 で「本能寺の変」を演じた。ギャラリーみちはこうした何でもありの空間、あれがダメでこれがいいではなく、何でもいい、どれもいいと人間のよさを認める所。
さて、今回の「私のありがとう」は興味深かった。皆さんからいろいろな話を聞かせていただくと、NHKの人気アナ、高橋圭三が「私の秘密」という昭和三十年から昭和四十二年まで放映された番組の冒頭で、名セリフ「事実は小説より奇なりと申しまして…」と言ったが、このギャラリーみちの「私のありがとう」も同様、来場の皆さんの話は実に不思議なことが盛りだくさん。
その内容を解説する前に、TV草創期の番組、「私の秘密」を少々解説、この番組の出演者は渡辺伸一郎、藤原あき、藤浦洸のレギュラー解答者が、珍しい体験、秘密を持った登場人物を探り出す。これで高橋圭三が茶の間の人気者になったが、この高橋は岩手県花巻出身、高千穂商科大を卒業し昭和四十二年、NHKに入社、東北なまりを治すために、トイレで必死に標準アクセントを練習、「どうも、どうも、高橋圭三です」と現れる語り口。ニュースやスポーツ中心のNHKの堅いイメージをかえた。軽妙な語り口でテレビ草創期のスターとなった。
この後、どうもどうも、ハイ、どうもと言う言葉に替わった。中国人はこの日本語を聞くと笑う。理由は、どうもは中国語では毛がおおい、ハイは女性の陰部を表す、つまり女のあそこは毛が多いと言うんだから笑うわけ。
さて、「私のありがとう」で貴重な言葉を聞いた。それは、自分が何者であるかがわからない、結婚もした、まだ、わからないが、ある日あるとき、実家で母親と暮らすようになり、ああ、これが私の求めたものだったと気づいたという。だから母にありがとうと言いたい。これには唸った。というのは、日本に仏教が伝来したのは538年とも552年ともいうが、釈迦が唱えた教えにそれがあった。
釈迦はキリストより五百年も前に出現し、キリストのように多くの奇跡は示さないが、たとえを多く語られた。比喩の方が多くの人に理解されるからだ。
法華七諭の一つに衣裏繋珠(えりはんじゅ)の譬えがある。それは、ある貧乏人が、親友の家を訪れご馳走になり、酒によって眠った。親友に急用ができ旅に出なければならい。
寝ている友を起こすのも気の毒に思い、貧乏をしている人のため、はかり知れない値打ちの宝珠を着物の襟に縫い付けて出かけた。
目覚めた貧乏人は親友がいないので立ち去った。そして、相変わらず貧乏暮らしの放浪生活。衣食に大変な苦労、少しでも収入があれば満足という状態。
月日が経ち、また親友と出会う。親友は哀れな姿を見て「何ということだ、君が安楽に暮らせるようにと、君の着物の襟に高価な宝珠を縫い付けておいた。さあ、この宝珠を売りなんでも必要なも のを買いなさい。何不足のない生活ができる」と告げた。その人は、最も身近なところにある宝に気づけなかった自分に気づいたのであった。
どうだ、カールブッセの詩のもある。山の彼方の空遠く、幸い住むと人の言うで、探しても見当たらない、返って来て聞くと更に遠くだと答えるが、これは幸いは足元にこそあるの逆説。
こういう話もある。アメリカ開拓時代、伝道師が来た。このように川が二つある場所の合流点あたりにダイアモンドが採れる。それは高価なものだと教えられる。その言葉にとりつかれて、男はダイアモンド探しにでかけた。三年も経って、何一つみつからず、憔悴しきって自分の小屋に帰って開墾に精を出す。
するとまた、その伝道師が来た。そして、風でドアがバタバタするのを止める石を見て、「とうとう探しましたね、ダイアモンドを、これが、そのダイアモンドです」と指差した。その石は探しに出る三年前、小屋の前に落ちていた石だった。
どうだ、これも含蓄があるぞ。
また、九州生まれの女性が豊橋に就職し、喫茶店で八戸の男性と知り合い結婚、そして八戸に在住する。遠い九州から八戸に住むなど、誰がかんがえただろう。
高橋圭三ではないが、まさに事実は小説より奇なりだ。ご主人を亡くした人、自身も患いを抱える人、いろいろな人がギャラリーみちに集まり、自分のことをもっと語っていただきたい。
歳をとると昔のことがいろいろ思い出されるようになるもの、それを孫を捕まえて喋ると三回聞いたなどと抜かされる。
豊富な経験、貴重な体験を誰かに喋りたいもの。そうした場にギャラリーみちがなることを希望する。そのお手伝いをしているのが筆者。難しいことを言うより、日本の伝統話芸の面白さを味わっていただき、なごやかな雰囲気のなかで、皆様の経験を聞かせていただく、そして、その中から心に残るありがとうを記録したい。
参加者は根城の黒川弥生さん、高舘の木村由記子さん、尻内の松倉由紀江さん、新井田の佐々木秀子さん、尻内の三浦和江さん、長苗代の田茂広子さん、梅村一江さん、櫛引の佐藤隆さん、売市の大西昭子さん、上野ナヨさん、北山栄子さん、南部町の菅谷美月さん、中村澄子さん、白銀の清水政夫さん、南郷区の三浦テルさん、真紀さんたち。
北山さんから味噌汁の差し入れもあり和やかに百円で弁当と飲み物が出た。
これはギャラリーみちの経営者北村道子さんの気持ち。この店は北村夫妻が精神障害者の施設を営み、その利用者が社会復帰する場として設けられた。損得抜きで地域の人々に精神障害者とのふれあいの場になればと考えておられる。この場に は健常者、障害者が製作した小物、あるいは収穫した野菜などが陳列され、販売することができる。三日町に「町のえき」があるが、ここはその売市番と言えるか。
まず、前回の続きで風天の寅さんのタンカの世界、やけのやんぱち日焼けのなすび、わたしや入れ歯で歯がたたないなどの、奇天烈なことばを並べるのが、日本の話芸、講談、落語、浪曲のほかにある第四の民衆芸能、そのテキヤ諸君が育てたタンカの世界にあるロクマ(易者)の喋りが十二支占い、これを筆者が演じた。前回の続きで午年からはじめた。
痛快無比の芸で子年から亥年まで通しでしゃべると二時間芸。これを適当に切って喋るわけだが、八戸在住の人はまず見たことがない。日本でこれが喋れる人も少ないが、昨今は素人がこれに気づいて東京都が発行する大道芸許可証を持ち奮闘中。
日本の話芸普及を目指す筆者が講談も披露。五分 で「本能寺の変」を演じた。ギャラリーみちはこうした何でもありの空間、あれがダメでこれがいいではなく、何でもいい、どれもいいと人間のよさを認める所。
さて、今回の「私のありがとう」は興味深かった。皆さんからいろいろな話を聞かせていただくと、NHKの人気アナ、高橋圭三が「私の秘密」という昭和三十年から昭和四十二年まで放映された番組の冒頭で、名セリフ「事実は小説より奇なりと申しまして…」と言ったが、このギャラリーみちの「私のありがとう」も同様、来場の皆さんの話は実に不思議なことが盛りだくさん。
その内容を解説する前に、TV草創期の番組、「私の秘密」を少々解説、この番組の出演者は渡辺伸一郎、藤原あき、藤浦洸のレギュラー解答者が、珍しい体験、秘密を持った登場人物を探り出す。これで高橋圭三が茶の間の人気者になったが、この高橋は岩手県花巻出身、高千穂商科大を卒業し昭和四十二年、NHKに入社、東北なまりを治すために、トイレで必死に標準アクセントを練習、「どうも、どうも、高橋圭三です」と現れる語り口。ニュースやスポーツ中心のNHKの堅いイメージをかえた。軽妙な語り口でテレビ草創期のスターとなった。
この後、どうもどうも、ハイ、どうもと言う言葉に替わった。中国人はこの日本語を聞くと笑う。理由は、どうもは中国語では毛がおおい、ハイは女性の陰部を表す、つまり女のあそこは毛が多いと言うんだから笑うわけ。
さて、「私のありがとう」で貴重な言葉を聞いた。それは、自分が何者であるかがわからない、結婚もした、まだ、わからないが、ある日あるとき、実家で母親と暮らすようになり、ああ、これが私の求めたものだったと気づいたという。だから母にありがとうと言いたい。これには唸った。というのは、日本に仏教が伝来したのは538年とも552年ともいうが、釈迦が唱えた教えにそれがあった。
釈迦はキリストより五百年も前に出現し、キリストのように多くの奇跡は示さないが、たとえを多く語られた。比喩の方が多くの人に理解されるからだ。
法華七諭の一つに衣裏繋珠(えりはんじゅ)の譬えがある。それは、ある貧乏人が、親友の家を訪れご馳走になり、酒によって眠った。親友に急用ができ旅に出なければならい。
寝ている友を起こすのも気の毒に思い、貧乏をしている人のため、はかり知れない値打ちの宝珠を着物の襟に縫い付けて出かけた。
目覚めた貧乏人は親友がいないので立ち去った。そして、相変わらず貧乏暮らしの放浪生活。衣食に大変な苦労、少しでも収入があれば満足という状態。
月日が経ち、また親友と出会う。親友は哀れな姿を見て「何ということだ、君が安楽に暮らせるようにと、君の着物の襟に高価な宝珠を縫い付けておいた。さあ、この宝珠を売りなんでも必要なも のを買いなさい。何不足のない生活ができる」と告げた。その人は、最も身近なところにある宝に気づけなかった自分に気づいたのであった。
どうだ、カールブッセの詩のもある。山の彼方の空遠く、幸い住むと人の言うで、探しても見当たらない、返って来て聞くと更に遠くだと答えるが、これは幸いは足元にこそあるの逆説。
こういう話もある。アメリカ開拓時代、伝道師が来た。このように川が二つある場所の合流点あたりにダイアモンドが採れる。それは高価なものだと教えられる。その言葉にとりつかれて、男はダイアモンド探しにでかけた。三年も経って、何一つみつからず、憔悴しきって自分の小屋に帰って開墾に精を出す。
するとまた、その伝道師が来た。そして、風でドアがバタバタするのを止める石を見て、「とうとう探しましたね、ダイアモンドを、これが、そのダイアモンドです」と指差した。その石は探しに出る三年前、小屋の前に落ちていた石だった。
どうだ、これも含蓄があるぞ。
また、九州生まれの女性が豊橋に就職し、喫茶店で八戸の男性と知り合い結婚、そして八戸に在住する。遠い九州から八戸に住むなど、誰がかんがえただろう。
高橋圭三ではないが、まさに事実は小説より奇なりだ。ご主人を亡くした人、自身も患いを抱える人、いろいろな人がギャラリーみちに集まり、自分のことをもっと語っていただきたい。
歳をとると昔のことがいろいろ思い出されるようになるもの、それを孫を捕まえて喋ると三回聞いたなどと抜かされる。
豊富な経験、貴重な体験を誰かに喋りたいもの。そうした場にギャラリーみちがなることを希望する。そのお手伝いをしているのが筆者。難しいことを言うより、日本の伝統話芸の面白さを味わっていただき、なごやかな雰囲気のなかで、皆様の経験を聞かせていただく、そして、その中から心に残るありがとうを記録したい。
2007年7月1日日曜日
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう私のありがとう 1
第一回私のありがとう
売市のギャラリーみちで第一回私のありがとう聞き取り会を開催。
出席者は女性九名に男性四名
生きてることは苦労の連続、いいことの方が少ないもの、だから、たまに嬉しいことがあると食事をしてお祝いをする。いいことにはなかなか会えない、釈迦もいう人生は四苦八苦だと。四苦とは生・老・病・死のことだ。生きるのがまず苦労、おまんまにありつかないと生きていけないな。そのため人に使われて汗を流して渡世しようとするな。人に好かれないと仕事もこないから、いつもニコニコしてみせる。私はアナターの敵じゃあーりません。妙な表記をしているのは、ここはアメリカ人が言ってると思え。アメリカには様々な 人種がいるから、会った人間にニヤニヤして見せる、私はあなたに危害を加えませんと。
日本人は島国だから、やたらに男がニヤニヤするなと教える。媚びるのは女の特性だ。ついでに教えるが八苦は愛別離苦(あいべつりく・親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・怨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく・求めるものの得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・体で感ずるから悩み苦しむ、生きてるうちはこれから離れられない)を指す。これをあわせて四苦八苦というな。
筆者などもその煩悩の最中に居る居る。六十過ぎてもまだ、モタモタしておるぞ。若い人が悩むのも当然だ。
さて、今回のありがとうは、先ず出町さん。この人のご主人は五輪選手、おお、スピードスケートの出町選手かと記憶されている人も多いと思うが、この人は若くして亡くなった。奥さんと二人の子供を残して。子供は六歳と三歳。奥さんは八戸生まれではないため、どうしていいかが判らない。親戚も親も兄弟もいない一人ポッチ。また、この出町選手はいい男だったんだ。
競技者としても指導者としても将来を嘱望された人物。出町嘉明、でまちよしあき・昭和十八年八幡生まれ、光星高校から日大に進学。昭和三十七年、八戸で開催された全国高校選手権で五千メートルで優勝、気さくで磊落、大試合でも物怖じしない性格が開花したのは昭和四十三年のインスブルックでのユニバシアード、世界の強豪と戦い堂々三位、日章旗を掲げた。フランス、グルノーブルで開催された五輪にも出場するも、最も得意の一万メートルがふるわず引退。同時代に北海道出身、明治大学卒の五千メートル世界記録の鈴木恵一選手がいた。
出町選手は埼玉コカコーラに籍を置いていた。が八戸に戻り後進の指導、昭和五十一年の盛岡国体では監督、このとき青森県高校男子が団体スピードスケートで優勝。五十三年軽井沢で開催の国体にも監督として出場予定だったが、肝硬変で急死、そして奥さんの苦労が開始された。
亡くなった直後は何も手がつかない、子供たちがお腹がすいたと言っても、パン買って食べてとお金を渡しては泣いた。これでもう涙が涸れたと思うほど泣いても、翌日になるとまた涙がでる。
そんな中、親身になって相談にのってくれたのがスケート仲間、元気を出して、残された子供たちをしっかり育てなければダメ、それにはあなたが強い気持ちをもたなければいけないと、寄ると触るとで、皆が励ます。
そんな声に励まされたのか、泣くだけ泣いて心が落ち着いたのか薦めにしたがって八戸市役所に勤務。そんななか、NHKの連続ドラマ、マー姉ちゃん(まーねえちゃん)を見た。昭和五十四年四月から九月まで放送された、漫画家・長谷川町子の自伝「サザエさんうちあけ話」で、主人公マリ子は、長谷川町子の姉・鞠子である。サザエさん誕生までの歩みと、そのこぼれ話を中心に熊谷真実の主演で描いた。(妹のマチ子役の田中裕子より年下であった)配役・磯野マリ子:熊谷真実 、磯野マチ子を田中裕子、恩師の漫画家田河水泡を愛川欽也、母親役に藤田弓子と豪華キャスト。
そのドラマの中の言葉が生涯の支えとなる。
それは、「明日のことを思いわずらうことなかれ、今日一日に感謝しよう」というもの。ただぼんやりとテレビを見ていれば気づかない言葉が奥さんの胸をえぐった。
それから晴れ晴れとした気持ちを持つことが出来るようになり、役所勤めも苦にならなくなる。子供たちも次第に成長、結婚し孫も見ることができた。役所を無事勤め上げ、今は昔の役所仲間と楽しい趣味の世界に時間をついやす。
今が一番楽しいと話す奥さんの屈託のない笑顔に乾杯。毎日が楽しい人こそ人生の勝者なのだから。そして、弱くめげそうな自分を自分自身が励まし生き続けることができたから、自分自身にありがとうだと言われる。その通りだ、自分がなければ全てなし、いつでも今が勝負の人生さ。
さてつぎは室岡さん。ご主人はNTT勤務、ご自身は日舞をされる。日舞にも様々な流派があるが、室岡さんの所属するのは藤間流、この流派の祖師は、藤間勘兵衞、武州入間郡川越在藤間村の出生で、能の狂言師。宝永元年(1704)に江戸へ出て、日本橋二丁目に住み踊りの師匠となり、歌舞伎の振付師に取立てられた。尾上菊五郎、松本幸四郎などに伝わり現在は六世藤間勘兵衞、四代目の尾上松緑。日舞の中でも由緒正しい系統。
踊りは楽しい、体を動かすし、頭脳にも良い作用をする、ぜひ皆さんにもお勧めすると、なかなか爽やかな奥さん。保険の仕事についているそうで、話は上手だし笑顔が素敵、こうした奥さんをおもちのご主人はさぞ幸せだろうと思い、奥さんは「ご主人にありがとう」と言わないのと聞いたら、なんと、有難うというのは私の主人の方で、ご飯を作ってくれて有難う、おいしかったありがとうと日々感謝の言葉を得ているそうだ。
これを聞いて考えたな。あまり女房にありがとうというと、聞き慣れるのか、増長するな、誰が?女房だよ。どうも世の中は女の方が図々しいようにできているな。
亭主は元気で留守がいいだって? フン、定年になりゃ行くところもねえや。毎日家でごろごろしてやるのも薬だ。
少しは亭主のありがたみを知れだぞ。
さて、ギャラリーみちのある売市は根城小学校の学区、その百年史から売市の歴史を見てみよう。
明治九年に売市小学校として誕生、明治二十年に売市尋常小学校となり、沼館分校を有し、大正七年に笹子分教室を設けたとある。この笹子分教室の史料があるので掲載。
売市(荒谷)小学校のこと
今、五十才以上の方ならば記憶に残っていると思われます。
ひとまね、コマネ、荒谷の狐、カマスさはいって、ドンカラリン
子供等のいわゆる童謡というのでしょう。古くは、売市と呼ばないで荒谷と称んだようです。
今の新組の十字路から大橋方面に分岐してちょっと上り坂になっている辺りは深い沢で、大木が繁り昼でも淋しいところだったそうです。しもてが通称長恨堤とよぶ湿地なので、当時を偲んでも狐狸の住みそうな感になります。
現在の通称新組のことを、三軒家とも呼んで、三軒しか住家がなく此処に八戸藩が、徒士町の外に、上組町、新組町などに徒士、即ち藩士を置くために間口八間、奥行二十三間の屋敷を与えたので新組とも呼んだのでしょう。新組町は八戸市街地から三戸方面に至り、右手は大字売市、左手は大字沢里で公簿には、新組、新組町というのがありません。通称呼名の新組町十字路から左へ上り坂になっております。うしろの左角が、大字沢里字沢里下一番地で、此処から八戸市街地寄りへ、二番地、三番地となり、二番地が現在の八戸警察官の派出所のうしろ、三番地がつい昨年まで、桜木町と呼ばれ、今は根城一丁目と改められ一筆十八町歩でいわゆる新組堤と呼んだところです。沢里下には三番地で終わり以下の地番がありませんでした。
この沢里下二番地に明治五年学制発布されてから四年目の明治九年荒谷小学校が創立されたと伝承されております。創立されるまでは、長根の天満宮社地に隣接していた奥州南部糠部郡三十三観音第十一番、横枕観音堂に、寺小屋式で学業がはじめられたとのことなどが伝承され、このためかどうかはわからないが、現在は、横枕正観世音は、八戸市長者山西面の南宗寺に祀られている。この横枕観音堂舎のあった下手あたり一帯は観音下という字名があるだけであります。
荒谷小学校が明治二十八年十一月に売市の中央、天満様の社地の一角に移転というか、新築されて売市小学校と校名がつけられて、沼館と笹子の分教場を持つ本校となったのです。
新組堤と称ばれた(現在の桜木町住宅地帯)は八戸藩の三番堀で満々と水をたたえて長根堤とともに春から秋まで水田用水として城下、沼舘、小中野地区の一部まで、かんがい用水として重要な溜でした。冬期間になると、新組堤に天然の氷を凍らせ採氷して新荒町の上り坂になる下手に水音を建て貯蔵、八戸港からの水産物冷凍用に使用したのでした。冬期間の白山おろしの寒風に結氷した氷は、厚さが尺五寸位もあって、当時は北海道錬場に出稼する以外に生業のほかの収入がなかった時代、相当の経済を助けたのです。
これらの採氷権は、売市壮年団が主体で、野沢扇治氏(現、野沢県議厳父)が永年団長の職にありました。
このような地場生産天然氷も、時世の進展と衛生思想の向上とともに保氷が禁止された頃は売市小学校が、根城字塚に移転になる頃でした。
私立笹子教育所 大久保金太郎
大久保兼松家(私の実家)に笹子教育所が開設されたのが明治四十二年、私の入学が四十五年で卒業は大正七年でした。いろいろ事情があったのでしょう、卒業時教育所は、大久保与十郎氏宅(現与一氏宅)に移転していました。その年の六月一日に売市尋常小学校笹子分教場が、現在の笹子生活館のある所に創立されたのでした。
私たち一年から六年までを厳しく指導して下さいました。羽織はかまに威儀を正した先生、ポッポ(着物)にワラゾウリの私たち。粗末な勉強道具、赤ん坊を背負う者、妹を連れてくる者等いろいろでした。しかし、私たちはこの教育の火をたやすまいと必死でした。
現在の分校を、そして子供たちを見るにつけ、万感胸にこみあげてくるものを覚えるのは、けだし、私だけのことでしようか。
売市国民学校笹子分教場 大久保茂
私は、昭和二十年四月に売市国民学校笹子分教場に入学しましたが、昭和二十二年に校名改称があり、昭和二十五年の卒業の時には、根城小学校笹子分校となっていました。
学校は、部落の中心、通称「カド水」にありました。マサ屋根の古びた校舎で、教室が一つに職員室兼用の教員住宅がありました。現在の笹子生活館近くに分教場があったわけです。
先生は入学時は栃内純一郎先生お一人、卒業時は渡辺鎮先生お一人が指導して下さいました。児童は、常に二十名前後と記憶しています。終戦を間にはさんだ、恵まれない時代でしたので、粗末な服装、勉強道具、遊具等しかありませんでしたし、代用食には閉口したものです。授業時間中の空襲警報で防空壕に走りました。手製のバット、ボール等で、野球をしたこと等、いろいろありましたが、今はただ、楽しい思い出となっています。
売市のギャラリーみちで第一回私のありがとう聞き取り会を開催。
出席者は女性九名に男性四名
生きてることは苦労の連続、いいことの方が少ないもの、だから、たまに嬉しいことがあると食事をしてお祝いをする。いいことにはなかなか会えない、釈迦もいう人生は四苦八苦だと。四苦とは生・老・病・死のことだ。生きるのがまず苦労、おまんまにありつかないと生きていけないな。そのため人に使われて汗を流して渡世しようとするな。人に好かれないと仕事もこないから、いつもニコニコしてみせる。私はアナターの敵じゃあーりません。妙な表記をしているのは、ここはアメリカ人が言ってると思え。アメリカには様々な 人種がいるから、会った人間にニヤニヤして見せる、私はあなたに危害を加えませんと。
日本人は島国だから、やたらに男がニヤニヤするなと教える。媚びるのは女の特性だ。ついでに教えるが八苦は愛別離苦(あいべつりく・親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・怨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく・求めるものの得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・体で感ずるから悩み苦しむ、生きてるうちはこれから離れられない)を指す。これをあわせて四苦八苦というな。
筆者などもその煩悩の最中に居る居る。六十過ぎてもまだ、モタモタしておるぞ。若い人が悩むのも当然だ。
さて、今回のありがとうは、先ず出町さん。この人のご主人は五輪選手、おお、スピードスケートの出町選手かと記憶されている人も多いと思うが、この人は若くして亡くなった。奥さんと二人の子供を残して。子供は六歳と三歳。奥さんは八戸生まれではないため、どうしていいかが判らない。親戚も親も兄弟もいない一人ポッチ。また、この出町選手はいい男だったんだ。
競技者としても指導者としても将来を嘱望された人物。出町嘉明、でまちよしあき・昭和十八年八幡生まれ、光星高校から日大に進学。昭和三十七年、八戸で開催された全国高校選手権で五千メートルで優勝、気さくで磊落、大試合でも物怖じしない性格が開花したのは昭和四十三年のインスブルックでのユニバシアード、世界の強豪と戦い堂々三位、日章旗を掲げた。フランス、グルノーブルで開催された五輪にも出場するも、最も得意の一万メートルがふるわず引退。同時代に北海道出身、明治大学卒の五千メートル世界記録の鈴木恵一選手がいた。
出町選手は埼玉コカコーラに籍を置いていた。が八戸に戻り後進の指導、昭和五十一年の盛岡国体では監督、このとき青森県高校男子が団体スピードスケートで優勝。五十三年軽井沢で開催の国体にも監督として出場予定だったが、肝硬変で急死、そして奥さんの苦労が開始された。
亡くなった直後は何も手がつかない、子供たちがお腹がすいたと言っても、パン買って食べてとお金を渡しては泣いた。これでもう涙が涸れたと思うほど泣いても、翌日になるとまた涙がでる。
そんな中、親身になって相談にのってくれたのがスケート仲間、元気を出して、残された子供たちをしっかり育てなければダメ、それにはあなたが強い気持ちをもたなければいけないと、寄ると触るとで、皆が励ます。
そんな声に励まされたのか、泣くだけ泣いて心が落ち着いたのか薦めにしたがって八戸市役所に勤務。そんななか、NHKの連続ドラマ、マー姉ちゃん(まーねえちゃん)を見た。昭和五十四年四月から九月まで放送された、漫画家・長谷川町子の自伝「サザエさんうちあけ話」で、主人公マリ子は、長谷川町子の姉・鞠子である。サザエさん誕生までの歩みと、そのこぼれ話を中心に熊谷真実の主演で描いた。(妹のマチ子役の田中裕子より年下であった)配役・磯野マリ子:熊谷真実 、磯野マチ子を田中裕子、恩師の漫画家田河水泡を愛川欽也、母親役に藤田弓子と豪華キャスト。
そのドラマの中の言葉が生涯の支えとなる。
それは、「明日のことを思いわずらうことなかれ、今日一日に感謝しよう」というもの。ただぼんやりとテレビを見ていれば気づかない言葉が奥さんの胸をえぐった。
それから晴れ晴れとした気持ちを持つことが出来るようになり、役所勤めも苦にならなくなる。子供たちも次第に成長、結婚し孫も見ることができた。役所を無事勤め上げ、今は昔の役所仲間と楽しい趣味の世界に時間をついやす。
今が一番楽しいと話す奥さんの屈託のない笑顔に乾杯。毎日が楽しい人こそ人生の勝者なのだから。そして、弱くめげそうな自分を自分自身が励まし生き続けることができたから、自分自身にありがとうだと言われる。その通りだ、自分がなければ全てなし、いつでも今が勝負の人生さ。
さてつぎは室岡さん。ご主人はNTT勤務、ご自身は日舞をされる。日舞にも様々な流派があるが、室岡さんの所属するのは藤間流、この流派の祖師は、藤間勘兵衞、武州入間郡川越在藤間村の出生で、能の狂言師。宝永元年(1704)に江戸へ出て、日本橋二丁目に住み踊りの師匠となり、歌舞伎の振付師に取立てられた。尾上菊五郎、松本幸四郎などに伝わり現在は六世藤間勘兵衞、四代目の尾上松緑。日舞の中でも由緒正しい系統。
踊りは楽しい、体を動かすし、頭脳にも良い作用をする、ぜひ皆さんにもお勧めすると、なかなか爽やかな奥さん。保険の仕事についているそうで、話は上手だし笑顔が素敵、こうした奥さんをおもちのご主人はさぞ幸せだろうと思い、奥さんは「ご主人にありがとう」と言わないのと聞いたら、なんと、有難うというのは私の主人の方で、ご飯を作ってくれて有難う、おいしかったありがとうと日々感謝の言葉を得ているそうだ。
これを聞いて考えたな。あまり女房にありがとうというと、聞き慣れるのか、増長するな、誰が?女房だよ。どうも世の中は女の方が図々しいようにできているな。
亭主は元気で留守がいいだって? フン、定年になりゃ行くところもねえや。毎日家でごろごろしてやるのも薬だ。
少しは亭主のありがたみを知れだぞ。
さて、ギャラリーみちのある売市は根城小学校の学区、その百年史から売市の歴史を見てみよう。
明治九年に売市小学校として誕生、明治二十年に売市尋常小学校となり、沼館分校を有し、大正七年に笹子分教室を設けたとある。この笹子分教室の史料があるので掲載。
売市(荒谷)小学校のこと
今、五十才以上の方ならば記憶に残っていると思われます。
ひとまね、コマネ、荒谷の狐、カマスさはいって、ドンカラリン
子供等のいわゆる童謡というのでしょう。古くは、売市と呼ばないで荒谷と称んだようです。
今の新組の十字路から大橋方面に分岐してちょっと上り坂になっている辺りは深い沢で、大木が繁り昼でも淋しいところだったそうです。しもてが通称長恨堤とよぶ湿地なので、当時を偲んでも狐狸の住みそうな感になります。
現在の通称新組のことを、三軒家とも呼んで、三軒しか住家がなく此処に八戸藩が、徒士町の外に、上組町、新組町などに徒士、即ち藩士を置くために間口八間、奥行二十三間の屋敷を与えたので新組とも呼んだのでしょう。新組町は八戸市街地から三戸方面に至り、右手は大字売市、左手は大字沢里で公簿には、新組、新組町というのがありません。通称呼名の新組町十字路から左へ上り坂になっております。うしろの左角が、大字沢里字沢里下一番地で、此処から八戸市街地寄りへ、二番地、三番地となり、二番地が現在の八戸警察官の派出所のうしろ、三番地がつい昨年まで、桜木町と呼ばれ、今は根城一丁目と改められ一筆十八町歩でいわゆる新組堤と呼んだところです。沢里下には三番地で終わり以下の地番がありませんでした。
この沢里下二番地に明治五年学制発布されてから四年目の明治九年荒谷小学校が創立されたと伝承されております。創立されるまでは、長根の天満宮社地に隣接していた奥州南部糠部郡三十三観音第十一番、横枕観音堂に、寺小屋式で学業がはじめられたとのことなどが伝承され、このためかどうかはわからないが、現在は、横枕正観世音は、八戸市長者山西面の南宗寺に祀られている。この横枕観音堂舎のあった下手あたり一帯は観音下という字名があるだけであります。
荒谷小学校が明治二十八年十一月に売市の中央、天満様の社地の一角に移転というか、新築されて売市小学校と校名がつけられて、沼館と笹子の分教場を持つ本校となったのです。
新組堤と称ばれた(現在の桜木町住宅地帯)は八戸藩の三番堀で満々と水をたたえて長根堤とともに春から秋まで水田用水として城下、沼舘、小中野地区の一部まで、かんがい用水として重要な溜でした。冬期間になると、新組堤に天然の氷を凍らせ採氷して新荒町の上り坂になる下手に水音を建て貯蔵、八戸港からの水産物冷凍用に使用したのでした。冬期間の白山おろしの寒風に結氷した氷は、厚さが尺五寸位もあって、当時は北海道錬場に出稼する以外に生業のほかの収入がなかった時代、相当の経済を助けたのです。
これらの採氷権は、売市壮年団が主体で、野沢扇治氏(現、野沢県議厳父)が永年団長の職にありました。
このような地場生産天然氷も、時世の進展と衛生思想の向上とともに保氷が禁止された頃は売市小学校が、根城字塚に移転になる頃でした。
私立笹子教育所 大久保金太郎
大久保兼松家(私の実家)に笹子教育所が開設されたのが明治四十二年、私の入学が四十五年で卒業は大正七年でした。いろいろ事情があったのでしょう、卒業時教育所は、大久保与十郎氏宅(現与一氏宅)に移転していました。その年の六月一日に売市尋常小学校笹子分教場が、現在の笹子生活館のある所に創立されたのでした。
私たち一年から六年までを厳しく指導して下さいました。羽織はかまに威儀を正した先生、ポッポ(着物)にワラゾウリの私たち。粗末な勉強道具、赤ん坊を背負う者、妹を連れてくる者等いろいろでした。しかし、私たちはこの教育の火をたやすまいと必死でした。
現在の分校を、そして子供たちを見るにつけ、万感胸にこみあげてくるものを覚えるのは、けだし、私だけのことでしようか。
売市国民学校笹子分教場 大久保茂
私は、昭和二十年四月に売市国民学校笹子分教場に入学しましたが、昭和二十二年に校名改称があり、昭和二十五年の卒業の時には、根城小学校笹子分校となっていました。
学校は、部落の中心、通称「カド水」にありました。マサ屋根の古びた校舎で、教室が一つに職員室兼用の教員住宅がありました。現在の笹子生活館近くに分教場があったわけです。
先生は入学時は栃内純一郎先生お一人、卒業時は渡辺鎮先生お一人が指導して下さいました。児童は、常に二十名前後と記憶しています。終戦を間にはさんだ、恵まれない時代でしたので、粗末な服装、勉強道具、遊具等しかありませんでしたし、代用食には閉口したものです。授業時間中の空襲警報で防空壕に走りました。手製のバット、ボール等で、野球をしたこと等、いろいろありましたが、今はただ、楽しい思い出となっています。
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