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2009年3月11日水曜日

八戸及び八戸人8轟木小学校初代校長藤沢茂助後編



会津鶴ケ城落城時に藤沢茂助は三の丸不明口を守備(会津戊申戦争日誌より)、前号に掲載した鉄砲を城から政府軍に乱射した山本八重子は城を去るにあたり白壁に「明日よりは 何処かの誰か眺むらむ 馴れにし大城に 残る月影」と墨書、後に同志社を創立した新島譲の妻となった。
開城した会津藩士には過酷な運命、最後まで抵抗したことで懲罰が科され猪苗代湖のそばに移り三万石、本州最果て下北半島での三万石を取るかの決断を迫られた。猪苗代湖畔の三万石では食えないことは明白、山川大蔵(後・浩)、広沢安任、永岡久茂ら参事は下北での斗南藩の道を選択。明治3年4月18日斗南藩五戸旧代官所に藩庁を設置。この後、田名部に藩庁は移転。
会津藩士たちは薩摩兵に家を空け籠城した折り、空家から家財、書画骨董、金品を根こそぎ略奪された。薩摩兵はそれらを荷駄につけ福島方面で金にする。会津藩士の胸に薩摩の暴挙がしまいこまれた。
明治三年、春から十月にかけ会津藩士とその家族一万七千三百余人の移住を海路と陸路で決行。薩摩の兵に略奪され、まさに着の身着の儘(きのみきのまま・着ている着物のほか、何物も持っていないこと)。老幼をふくめての徒歩にての旅は難儀を極めた。藩士の中には鶴カ城のような城勤めが再び出来ると信じて移住したものもあろうが、五戸には代官所、田名部にはまったく何もない原野、武士を捨て百姓になる以外に生きる道は閉ざされた。士農工商、武士が搾取するために作った
身分制度、つまり差別が我が身を襲う屈辱は想像以上のものあり。
武士が刀を捨て鍬をもち、糞尿を撒くは死ぬより
山川浩屈辱、しかし、それをしなければ食えぬ、扶持が出るはずもない。現今なら会社倒産、残党はむつ市の原野で開墾しろ、給料は出ない、自分たちで自給自足せよと言われて、誰がその地にしがみつく者があろう。ところが、この困苦を克服し、地の塩として生き抜いた者たちがいた。それが藤沢茂助であり広沢安任であった。
明治四年、廃藩置県、新政府から食えないからと米を二度に渡り借りるが、それを金に換えるも、寒さと貧困で、移住者の多くは会津や全国に散った。大参事山川浩もその一人。早々と東京に去り、多くの会津藩士を困窮の淵に追い込みながら逃亡。そして明治政府に職を得る。明治六年陸軍省に勤務し陸軍中将にまでなるが、斗南藩士を窮乏に追い込んだ責任とらずして、何の栄達、明治七年の佐賀の乱(佐賀の不平士族が江藤新平・島義勇をかついで蜂起した事件、士族反乱の最初のもの。政府軍に敗れ江藤らは処刑された)鎮定に出て左手に負傷、明治十年西南戦争では激戦熊本城に入城し政府軍を援助、さらに進撃し仇敵薩摩を落城させる。十年の遺恨を晴らした。しかし山川は困窮の民を捨て我が身ばかり助かっても卑怯、臆病の誹り罵り(そしりののしり・大声で非難すること)は免れない。たとい西南戦争でどれほど勲功をとげたとしても。
次に、鳥羽伏見の戦いで鬼官兵衛と呼ばれた佐川官兵衛は斗南藩で百姓を続けながら、仇敵薩摩の報復の期を待つ。明治四年の廃藩置県で斗南藩は滅亡し、おのおのはたづき(手付き・生活の手段)
の道を探ることになった。懲罰の意味での明治新政府はやりすぎたの思いもあり斗南藩に救済米を出すが、もとより生活手段もなければ返済は夢の夢。これを斗南藩は踏み倒す。廃藩となれば取りようもなし。現在のむつ市から斗南藩士たちは、てんでに生きる道、食える道を探す流浪の民、明治六年、佐川は目処なく会津に戻る。が明治七年新設された東京警視庁は羅卒を巡査と改称、番人も巡査に格上げされたため、旧幕府奉行所の与力、同心等は番人は元は番太、番太郎と呼ばれ、長屋の木戸番、そんな細民風情と共にならぬと
佐川官兵衛退職者が続出。これを補うため警視庁は二千人の巡査を募集。これに佐川は斗南藩士を誘い三百名で応募。佐川は大警部(今の警部)として採用。機会到来、明治十年西南戦争では豊後口警視隊一番小隊長兼副指揮官として赴き、三月十八日、熊本県阿蘇郡二重峠付近で薩摩軍の砲撃にあい戦死、享年四十七。
さて、少参事永岡久茂は廃藩置県後、青森県庁田名部支庁に勤めるも明治五年に辞して東京浅草菊屋橋(現在のかっぱ橋商店街)に居住、湯島天神下で私塾を経営。赤貧洗うが如き生活。(せきひんあらうがごときせいかつ・極めて貧しく、洗い流したように所有物が何一つないさま)ここまで追い込まれると、人を呪うようになる。我が身のままならぬを、世間のせいにすりかえる、まして昔年の恨みのある新政府に、永岡の凄いところは、薩摩だ長州だではない、政府に対しての憤懣と化した所にある。
 今我らの窮するは奴らの会津に対する陰謀によるものと、竹林に伏す虎のごとく、浅草の市井(しせい・人家あつまる所)にありながら、じっと機会を窺っていた。
明治九年、十月、維新政府に不満を抱いた前原一誠が挙兵、県庁を襲い山陰道から中央に出ようとした萩の乱に呼応し、千葉県庁を襲い佐倉鎮台の兵を利用しようと計画。
警視庁史には以下の通り。新政府に対する反感は、佐賀、神風連等あいついで騒乱となってあらわれたが、その後もあとを絶たず、旧会津藩士永岡久茂等の一派もまた同様で、かねてから前原一誠と気脈を通じ、もし事をあげる場合は、東西相呼応して蹶起(けっき・おもいきって行動する)すべく、同志とともに本郷湯島天神下で手習い師匠を装い、機会を窺っていたところ、明治九年十月二十五日、萩の前原から「四五日ころ開店、錦の店開く」との電報に接し、いよいよ決行と千葉県庁を襲い公金を奪い、茨城、栃木で同志を集め新潟に至り前原と合流し反旗をひるがえすべく、十月二十九日夜、井口新次郎、竹村俊秀、中原成業等十数名の者を芝山内に集め、ここから日本橋小網町一丁目思案橋際の陸運会社出張所武田喜右衛門方に向かい、下総登戸行の舟を仕立てさせ、出船の用意中、挙動に不審を感じた船頭がひそかに交番に訴える、巡査はただちに本署へ連絡、寺本義久警部補、河合好直二等巡査、木村清三、黒野巳之助三等巡査を現場へ急行させるも、永岡一味に近づくやいなや、賊は洋傘に仕込んだ白刃を不意に抜き一刀のもとに寺本警部補は即死、河合、木村も斬られ倒れるも黒野巡査は難を逃れ本署に急を告げる。現場へ急行し岸を離れる瞬間舟に飛び乗り、六名を捕縛、他の者は逃走したため警察は数隻に分乗し追跡、午前三時ころ、深川区上佐賀町一丁目で五名の暴徒を乗せた舟を発見、仙台堀に逃げるを水陸から挟撃、賊は「寄らば斬るぞ」と大声で叫びつつ万年橋へと向かう。ところが観念してか脱刀し降伏、逮捕を免れ逃走の横山俊蔵、中原成業はその後東京で、松本正直、満木清繁は新潟県で逮捕、明治十年二月七日に処刑。永岡久茂は巡査と格闘中、闇夜のため仲間に腰を斬られ明治十年一月十二日獄死、享年三十八。
佐川、永岡は薩摩に、新政府に一矢報いん(いっしむくいん・相手から受けた攻撃・非難に対して、わずかであっても反撃し反駁・はんばくを加える)と機会を窺い、いずれも成功はせぬが、武士の面目躍如(めんぼくやくじょ・大いに面目をほどこすこと。いかにもその人らしい特徴が表れ、世間の評価が高まるさま)。山川のようにひたすら官に属することを嫌い、仇敵を逃さずあまさず必ず喉笛に食らいつき、必ずや息の根をとめるを志すのが武士道。
武士道とは死ぬことなりとみつけたり。もし図に外れて生きたれば腰抜けなり。佐川、永岡は不滅の侍魂なり。
地の塩になった人々
少参事広沢安任は多くの会津藩士を斗南の地にひきずりこみ、流浪の民としたことに責任をとることは、この地で成功することと、十和田の開拓に力を注ぐ。それが牧場経営、この人のことは八戸人はおおよそ知っておられるので省略。
明治五年、流浪の民は三本木に流れ着く。金崎に大宮蜂太郎ら四七戸、八戸通り、深瀬透ら三一戸、並木、渡部彦多ら四一戸、小稲、松田幾弥ら四九戸。
そして藤沢茂助の名をここに見つける。
藤坂村六日町山に長屋が五十二戸建設され、田名部斗南ケ丘、五戸、三戸から移住者男九七、女一一五が入居。
芦沢 勇 荒川テイ 猪狩織之助 猪狩景三
石井政庫 石川作冶 伊南源助 井上熊太郎
岩田勝冶 岩田栄吾 内田 保 大場小右衛門
小沢すえ 風間久蔵 柏谷始 川村たせ
木田虎次郎 熊谷源七郎 沢井源六 宗方善九郎 白岩吉四郎 須貝りつ 薄 倉吉
鈴木彦太郎 諏訪光久 千里富次郎
相馬繁 高木盛徳 竹村髭翁
田中豊冶 谷川八郎 保志勝平
戸枝逸作 中田豊次郎 中村至
長山冶八 服部四郎 林えん
樋口幸三 樋口孝麿 日向虎五郎
日向初次郎 平田力之進 藤沢茂助
本○政治 松村貞之助 村松八太郎
森 政治 山田栄太郎 山田貞助
吉川良蔵 渡辺松次郎
藤沢が田名部にいたかの確証がつかめない。しかしここに来た人々は五戸、三戸とあるので、逆に藤沢はこの三カ所の内にいたことは間違いない。
百石小学校のことの中に、明治二年の頃、三戸郡新田に移住せし旧会津藩士原田武平氏をまねき、当村西舘三平氏宅を借り、弟子十三名に手習い読書を教授せりという。当時弟子一人から月謝として米二升、年に炭一俵、薪一間、明治四年旧会津藩一ノ瀬浦勢(女子)を招き弟子十四人に読書、裁縫を教授、三戸郡鮫村に転ぜしより、明治六年十月、旧会津藩士丸山主水氏を五戸より招き、昆伝之進別宅で筆道と読書を教授、三浦儀助、川口要之助、昆伝之進らが師匠住宅、及び教室二棟を建造し生徒二十名を教授。明治九年十二月上明堂に仮校舎を築き百石小学校として開校。
明治五年学制施行前の寺子屋
五戸 内藤信節 田子 根橋伝吾 新郷 井関挌斎 百石 丸山主水 三戸 上島良蔵 猿部 大垣義五郎 野辺地 安積泰助・土屋勝之助・  佐瀬義之助・堀恒介 鰺ヶ沢 北原房夫 岩崎村 神指某 十和田 柴宮源右衛門
藤沢の場合は轟木の鈴木徳弥が五戸の寺子屋、霞道場に通い藤沢を知り、父、清麓に藤沢を招くように懇願。市川村字高丁場に十四坪の仮小屋を建て轟木の寺子屋として発足。明治九年五月五日、轟木小学校として児童男六十七名、教員一名で開校。同九年九月市川村字新田村風穴小四郎地内に校舎新築移転、同十四年新田村八番に新築移転、同二十年轟木尋常小学校と改称。
同二十四年十月藤沢茂助没。享年六十二。
轟木墓地に埋葬された。この折り、薫陶を受けた生徒が喜捨を集め建墓。
戒名、慈学院恵與積植徳本居士
喜捨を募った人々は、発起人・鈴木徳三郎・卯之吉・均・松之助、奥寺忠助、風穴卯之松、松橋末吉、浜栄助、川村徳松・榮太郎、谷地万治、小笠原清三、向谷地篤助、福太郎。
生徒・鈴木市太郎・吉三郎・友吉・直吉・徳次郎・卯之松・清八・吉蔵・留吉・福太郎・清吉・此吉・参佐男・兼太郎・岩松・三蔵・長太郎・宇吉・倉之助・福松・忠次郎・吉蔵・吉松・熊吉・松太郎・辰太郎・岩冶・吉助・大次郎・芳三、奥寺儀助、小野寺久五郎・秀冶、風穴正記・鉄之助・直吉・勘之助・亀松・石松、浜喜之助、留吉、元八、田島吉太郎・幾太郎、川村石松・石蔵・円之助・福松・兼次郎・初太郎・己之、向谷地善松・元松・福松、小笠原太郎。
総喜捨額、十三円四十七銭
教え子の中から奥寺忠助、浜栄助は村長、鈴木卯之吉は市川村の学務委員、今の教育長を務めた。この墓は昭和二十五年に百石町浄土宗法運寺に改墓され現在に至る。
藤沢は自分の子供には教育より働くことを勧めた。四郎は五戸の菓子屋に修行に出た。当時の五戸の菓子屋は尾形直、岡村、岡清、赤寿、中村、清川、福田、福村、奥寺とあるがどこかは不明。
明治五年に学制がしかれ藤沢の寺子屋は小学校へと変わった。百石小学校のことを見ても、寺子屋経営で十数名の子弟相手に教授しても食うがやっと、子を育て会津日新館、江戸昌平黌などの学問を身につけさせても、激動する世の中、何の役に立つことかと、我が身をふりかえり痛切に感じたのだろう。
人が人として生きるにはなまじな学問より経験がものをいうと悟った。六日町山での開墾の折りも、付近の農家の女を師として農業を学んだ。一年に一度の収穫、額に汗し原野を開き、畑にしても何を何時撒けばいいのか、それをどう育てるのか、武士が刀を捨て地に生きることの難さを我が身で覚えた。
しかし、その学問が藤沢茂助を救った。寺子屋教師として、それが時代の波で小学校になり、新政府から給料を得る。全国一律の教材、指導法を確率するため、教師の側も都度試験があり、それに合格すると報酬が上がった。その免状も四年間有効の期限付き。更に上級を目指さなければ昇給はない。現今の教師のように一枚の教員免許状で生涯食える保証はない。
時代の波に翻弄され、新政府と戦い、斗南藩と命運を共にし、青森県の地に足踏み込み、畑耕す鍬を捨て、轟木の地にて人を耕す。たずきの道を得、我が子等を育て、安息の日々を送る。不平も不満もなく教鞭をとり、轟木の地の塩と化す。古人も多く旅に死せるあり。茂助の旅はここで終えた。 娘が百石の寺、法運寺に嫁いでいた。この寺は毎年八月六日、七日の両日に死者の霊を口寄せするというイタコが集まる。下北の恐山、津軽金木の川倉地蔵とならび日本三大イタコ霊場の一つ。法運寺は浄土宗、百石の住民のほとんどがこの寺の檀家。
倅、四郎はその縁で百石に菓子屋を営む、その店の始めはこの法運寺の門前、そのため門前の菓子屋と呼ばれた。藩政時代、五戸には代官所があり繁栄の地、そこで菓子の修行、近在の人から支持を得て商店街へと店を並べる。弟、六郎も菓子業を営み共に、明治、大正、昭和、平成の現在も堂々看板を掲げる。その繁栄を見たのが写真の茂助の妻みね。
四郎の倅、茂十郎が家業を継ぐようになるが、この茂十郎が修行に出たのが八戸、老舗が揃った 町、嘉永三年創業は八日町の立熊、安政二年は湊の武尾万寿堂、二十三日町、柴幸、安政四年、鍛冶町の鹿島、安政五年、十六日町のたけや、慶応元年が十三日町の清馨堂村福。
二代目は一番古い立熊で修行した。
三代目は啓次氏だが、兄の真一さんは、十六日町のたけやに修行に出たが、満州で戦死。上写真はたけや主人家族と奉公人たち。
茂十郎さんの女房は十和田の人、名をヨネ、働き者で気が優しい、その息子三代目を継いだ啓次さんの所に八戸吹上から嫁に来たのが、またもヨネさん。二代に渡り嫁さんの名がヨネというのも珍しい。
このヨネさんが実に働き者、昭和二十五年に嫁にきてから一日も欠かさず五十五年間、店番から倉庫にしまう粉に小豆と懸命に働き通す。そして、今なお店頭に立って「いらっしゃいませ」と笑顔で応対。主人が生きていた時は主人を引き立てるように、主人が亡くなった今は、少しでも足手ま といにならぬように、そして代々続く藤沢菓子屋が少しでも繁栄する役に立とうと、家族でがんばってます、でも、年々重い物が持てなくなり、忙しい時は朝四時から起きて働きますが、目がかすんできたりして、いやいや歳はとりたくありませんと笑う。
上写真は子福者、茂十郎さん一家、手前右端が吹上から嫁に来たばかりのヨネさん。左端がご主人の啓次さん。この人とヨネさんの汗を流し藤沢を支えた話が幾つもある。昭和二十七年に開発されたのが軽のトラック、バンメーカーはダイハツその名もミゼット。これがあれば商売も盛んになると、車を買ってから免許を取りに通ったのがヨネさん。昭和三十二年に免許取得と、時代を先取り、そして店番から配達まで一人でこなす。昔の人は働き者。
現当主、茂登氏が四代に渡る藤沢製菓を牽引する。この人は東京の菓子作りを教える専門学校に入り、そのまま教官になるほどの腕前。製造方法 などに独自の技術を生かす。
右写真は働き者ヨネさんと店、車がダイハツミゼットのバン。共に居るのが四郎さんの弟、六郎さんの妻、フルヤキャラメルの文字も見えるところから、菓子総合を扱っていた。ドブふさぎの石、道路はまだ未舗装の模様。百石の時の流れを感じさせる。昔は割烹着(かっぽうぎ・料理や家事の際に着物の上に着るうわっぱり、エプロンの大きな物)をきていたもの。このヨネさんは五月号紹介の中山千里氏の姉。銘菓「百石栗」、大きな栗がごろっと入る青森県を代表する菓子の一つ。将棋界の十五世名人大山康晴を記念する焼き菓子王将はイチゴ味で有名。藤沢製菓に支店が小中野にある。ヨネさんの娘さんが経営。名を太郎庵、八戸人にも「百石栗」を味わっていただける。会津から流れ、地の塩になり市川の人々を薫陶した藤沢茂助、そして菓子業を渡世とし四代に渡り人々から愛され支持される藤沢製菓、一族の地域への貢献の不思議さを見た。(終)

2009年2月20日金曜日

八戸及び八戸人8 轟木小学校初代校長 藤沢茂助


月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
かって会津藩あり、今は滅びて跡形もなし、されど会津侍魂、絶えることなく今に伝う。
八戸市市川に轟木小学校、初代校長を藤沢茂助という、会津藩士、北遷、斗南藩に命運を賭し、北の大地に足を踏み込む。広沢安任、佐川官兵衛らと共に天保二年の生まれ。
時間軸少しく傾けば藤沢一族は八戸の地を踏むこともなし。苛酷、非情な時の流れ、芭蕉のみならず藤沢一族も人生の旅、果ては青森県で地の塩となる。
【地の塩】 (新約聖書マタイ伝第5章・ 塩がすぐれた特性をもつところから、転じて広く社会の腐敗を防ぐのに役立つ者をたとえていうが、筆者は栄達を望まず我を捨て、その地で人を育てる役割を担った優れし者の意味で使う)
生を授かり父母に育まれ友と共に過ごす日々の中で何かを感じ、己の行く道を捜し求める。ゴッホの友、ゴーギャンは我、いずこより来たりていずこへ行く者、と、生死を見据えた。人は考える葦の言葉もある。置かれた場所、そして時代の中での呻吟(しんぎん・うめくこと。苦しみうなること)は自分のみ、己のみに課されたもの。その重みを骨をきしませ、肉を裂きながらも必死に受容。その受け止め方にこそ、その者の特性が隠しても現れ出る。
藤沢一族の名は吾妻鏡に見てとれる。日本三御前は静、巴、板額、美形で弓の剛の者と賛たる板額(はんがく・越後の豪族、城太郎資国・じょう・たろうすけくにの娘、建仁元年(1201年)甥の城資盛・じょう・すけもりが鎌倉幕府軍と戦った際、強弓をもって百発百中と奮戦、遂に捕虜。落城後、鎌倉に送至、鎌倉幕府の将軍源頼家の面前に引きずり出さるも、臆する事なし。甲斐源氏浅利義遠の懇望に妻となり甲斐の国豊富村に移り後半生を過ごす)の四番手の捕らえ方と記されてある。藤沢一族、元は桜の名所信州高遠詰め、主家は保科、藤沢邑を代々所領とす。主家の会津配置換えで移転。
頃は幕末、天保十一年、茂助九才の折、アヘン戦争勃発(1840~42年、清朝の阿片禁輸措置からアヘン製造輸出国イギリスとの間に起った戦争。清国敗北し、列強との不平等条約締結、香港の割譲、広東(カントン)廈門(アモイ)福州・寧波(ニンポー)上海の開港、賠償金の支払いなどを約し、中国の半植民地化の起点となる)、をオランダ船が伝える。幕府は国防策を講じ、茂助は父とともに弘化四年(1847)安房富津竹ヶ岡に赴き海防、茂助十七歳、後、品川お台場に父子共に転ず。時は嘉永六年(1853)、米東インド艦隊司令長官ペリー浦賀に来航、茂助二十二歳。

品川金杉陣屋詰めとなり、お台場二番砲台警備。宿舎は芝新銭座中屋敷、芝柴井町浜御殿隣。芝と三田は目と鼻、柴井町、宇田川、神明、浜松町を抜け金杉橋を渡り金杉通りから本芝、隣が芝田町、そこに悪名高い薩摩藩蔵屋敷。 茂助は芝新銭座居住時に伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門の砲術塾に通い、大鳥圭介(おおとりけいすけ・播磨出身。蘭学・兵学を学び、幕府に用いられ、歩兵奉行。戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順)と机を並べる。江川は世襲の代官、品川お台場に設置する大砲を韮山に反射炉(金属の製錬・溶解炉。燃焼室と加熱室は別、炎は炉頂に沿って流れ、天井と側壁の放射熱で鉱石や金属を製錬または溶融。製錬の場合は大量生産に適し、溶融では成分を余り変えない)を設け製造。当時反射炉は最高機密、付近の警戒は厳重を極めた。
江川は砲術を反射炉を日本近代砲術の祖、高島秋帆(しゅうはん・幕末の兵学者。長崎の町年寄兼鉄砲方、蘭学・兵学を修め、オランダ人につき火技・砲術を研究)から学び、国家存亡の折り開塾し西洋式砲術の扱い方を伝授。
茂助が会津藩の最初の洋式砲術修得者。発射における火薬量、砲弾の飛距離計算等、和算ではできない計算式が必要、藩の蘭学専修行生に指名さる。
万延元年、父逝去、これを期に江川塾を辞去。茂助二十九歳、文久元年(1861)西洋大砲師範を拝命し、武州川口の鋳物職人に図面を提示、大砲とカノン砲(四十五度にし遠距離を狙う)を製造させ、発射確認、この功績で茂助は銀子一枚拝領。
元冶元年(1864)七月十九日、長州藩、蛤御門を守る会津藩兵と激戦。門内に押し入るも首謀者来島又兵衛は戦死。山崎方面より御所を目指す真木、久坂ら五百の手勢は福井、桑名藩兵と激戦、ここに蛤御門を鎮圧したる会津藩兵が援軍となり、茂助、山本覚馬、中沢帯刀の射撃の腕は冴えたちまちに長州藩兵を殲滅(せんめつ・皆殺しにして滅ぼすこと)、この勲功にて茂助大砲方頭取に抜擢。
慶応四年(1868)、一月三日、江戸、薩摩藩邸焼き討ちの報が大阪城の徳川慶喜のもとに届くや、京都襲撃を決意、指揮下の会津、桑名藩一万五千を率い、薩長土芸の五千の兵と鳥羽伏見で激突、幕府軍の作戦の乱れと政府軍の外国製最新兵器の前に敗退、慶喜はそのまま兵を見殺しにし、船で江戸へ逃げ去る。が、この時の会津藩士佐川官兵衛の戦い振りは世人をして鬼官兵衛と呼ばしめた。佐川は一刀流溝口派の剣客、弓馬刀槍の内二つ以上免許皆伝の者ばかりを集めた別選組の隊長、薩摩兵らの市街戦に遅れをとり、伏見街道にて獅子奮迅の戦い、銃撃に刀、槍で応戦するも右目を負傷、佐川会津に戻るは三月十二日。
過ぐる二月、江戸城無血開城、幕府残党は新撰組、彰義隊、大鳥圭介の伝習隊、福田八郎の撤兵隊が散発的抵抗、いずれも敗軍の兵、全てが会津に流れ込む。
会津藩、三月軍制を改め、年齢別に白虎(十六~七)、朱雀(十八~三十五)、青龍(三十六~四十九)、玄武(五十以上)の四隊に大別、身分により士中、寄合、足軽に小別。このほか砲兵隊、郷士の「正奇隊」、農、商人による「敢死隊」、大鳥圭介、古屋、市川らの手勢をいれて総勢五千三百。
日光口総督 大鳥圭介、後に山川大蔵
越後口総督 一ノ瀬要人 砲兵、青龍、朱雀隊よりなる
白河口総督 西郷頼母、後に内藤介右衛門 玄武、青龍、朱雀よりなる。
四月十九日、佐川は朱雀士中四番隊中隊頭として越後水原戦線に出陣。長岡藩を説得し奥羽列藩同盟にひきこむ。
五月一日政府軍白河城を攻略、
七月二十七日三春城降伏、二本松城攻略さる。

佐川官兵衛、長岡藩、桑名藩と共に長岡攻防戦に参加、軍事奉行頭取として指揮、会津藩主から急使、八月九日鶴ヵ城に戻る。
八月十九日、日光口守備の大鳥は保成峠から二本松奪回せんと石筳到着、二十一日保成峠は攻め滅ぼされ猪苗代城落ちる。
八月二十二日、白虎士中二番隊日向内記指揮下、戸ノ口原に応援出陣、この中に藤沢の親類藤沢啓次も。二十三日、払暁開戦するも追われ戸ノ口堰の洞門をくぐり飯盛山に逃がる。火の手の上がる城下、砲撃さる鶴ヶ城を見て二十名の少年は自刃、一人飯沼貞吉蘇生。政府軍滝沢峠に迫る。
二十五日、城外柳橋にて娘子(ろうし)軍の奮戦。
白河、日光口、越後方面、形勢我に利あらずと知り、中野平内、妻こう子(四十四)、長女竹子(二十二)、次女優子(十六)、依田まき子(三十五))、岡村さき子(三十)、水島菊子(十八)らは早鐘を聞き城下に敵の侵入と会津坂下(ばんげ)に落ちたと言う照姫を守護せんと走るも、姫君に会えず付近の軍事方に従軍を願うも婦女子を働かせば末代まで会津は嘲笑の的と言うを、既に黒髪を断ち、白鉢巻、義経袴に一刀を帯び薙刀を小脇に一歩も退かぬ覚悟、古屋作左衛門指揮下にて城下西端柳橋にて午前九時激戦、政府軍は女と見て「生け捕れ」と命ずるも、娘たち「生け捕られて恥辱を受けるな」と互いに呼応し斬りまくるが竹子、額に弾丸を受け倒る。妹優子、これを見て薙刀を水車のごとくに振り回すも、敵兵に遮られ近づくことあたわず。更なる気をみなぎらせ敵兵の真っ只中に飛び込み姉に近づき介錯、首級を引っ提げ囲みを破る獅子奮迅の乙女の働きに皆讃嘆。山本覚馬の妹、八重子は兄につき砲術体得せしより男子に混じり政府軍に砲火を見舞う。
鶴ヵ城東方千五百米に小田山、ここから政府軍は大砲連発、砲弾常に頭上に落下、爆声交錯し低空をゆるがし、爆煙四辺を閉ざす、藤沢家と共に信州高遠より従属せし家老職弱冠二十三歳、山川大蔵は慶応二年西欧視察、日光口、大鳥の副総督として手馴れた戦を展開。戦闘で城外にいた山川は敵兵厳しく鶴ヶ城に入るため一計、農民の踊り、彼岸獅子を先頭に立て、まんまと入城、山川の妻とせ子は宝蔵院流槍術の名手、照姫を守護するも城中に弾丸炸裂し死亡。
八月二十九日、佐川官兵衛決死隊を編成し藩主に願う、皆は盃を賜い佐川官兵衛は正宗の佩刀を、一番砲兵隊、別撰隊、衝鋒隊、順風隊、別楯隊、遊撃隊、およそ千名。長命寺裏の戦いは銃器乏しく戦況悪しく敗退。城へは戻らず各地で転戦。九月に入り、政府軍の攻撃すさまじく、一昼夜に二千七百の弾丸が城に打ち込まれる
九月十四日、政府軍総攻撃するも城は耐えるが、十五日、越後口総督・一瀬要人が戦死、日々死傷者相次ぎ、食料も逼迫。敗色は明らか、家老・梶原平馬、山川大蔵は、降参決断、手代木、秋月を派遣、止戦工作。土佐藩参謀・板垣退助、降参手続きを進めた。
九月二十二日、午前十時、昨夜より婦人らの手になる包帯の残りの白布を縫い合わせ三枚の白旗作成、長さ三尺幅二尺、一間半の竹竿に結び、一本は正門前石橋西端、一本は黒鉄御門藩主座所前、残りの一本は裏門に立て降参。正午、薩長軍軍監・中村半次郎、軍曹・山県小太郎、使番・唯九十九が式場到着、秋月、白旗を手に中村らを迎え、続き藩主松平容保、喜徳の二公礼服に小刀、大刀は袋に入れ侍臣に持たせ、降伏謝罪書を中村半次郎に。藩主この後、重臣、将校たちに決別の意を表し、城中の空井戸(死者をここに投げ込む)と二の丸墓地に花を捧げ礼拝、将兵たちは天を仰ぎ、地に伏し号泣。藩主、滝沢村妙国寺にて謹慎。降伏せし会津軍総員は四千九百五十余人、婦女子五百七十余人。
降参を知らぬ佐川官兵衛、飯田文次郎と共に越後口から政府軍の背後を狙う。大内を守る砲兵隊、大沼城之助から高橋某が率い佐川と連撃し進軍。武井寛平の一隊は二十四日大沼の政府軍を撃破。各地で散発的小競り合い。一ノ瀬数馬、星野胤国は藩主の帰順書を佐川に示し軍を収めさす。同日政府軍鶴ヵ城に入城、会津軍は天寧寺口から猪苗代に送致謹慎、佐川は塩川にて謹慎。 
下級武士次男、広沢安任は藩校日新館から江戸昌平黌(しょうへいこう・幕府の設立した学校)に進学し京都で六年間公用人を務め西南諸藩の志士、英国公使館アーネスト・サトウ一等書記官とも交友。戊辰戦争開始と同時に藩命にて江戸で和平工作、会津藩帰順後は捕縛され投獄。
長岡久茂、天保十一年(1840)生れ、経史に明るく日新館から広沢同様江戸昌平黌に学び、戊辰戦争の際は弁論に長じたため会津藩使者、仙台、長岡を巡り奥羽列藩同盟結成に尽力。仙台、秋田、盛岡、米沢、二本松、弘前、新庄、棚倉、相馬、三春、山形、上ノ山、平、一関、福島、松前、本庄、守山、泉、亀田、七戸、天童、湯長谷、下手渡、矢島、新発田、村上、村松、三根山、黒川が参加、長岡の構想はこれらの藩で奥州独立国家を作ろうという壮大なもの。開戦とともに山川と日光口で戦うが、政府軍が八月二十三日城下に突入を見て、仙台湾に入港した榎本武揚艦隊に援軍要請するも、榎本は手勢五十を貸すのみ。その兵も途中で逃げ去り、又も仙台に戻り仙台藩主伊達慶邦に頼み込むも、伊達はすでに降伏。永岡久茂三十歳、一人切歯扼腕(せっしやくわん・歯ぎしりをし、自分の腕をにぎりしめること。感情を抑えきれずに甚だしく憤り残念がること)、五尺の身を泣きふるわせた。 政府軍は会津藩士、商人などから金目の物を荷駄につけ略奪、泥棒が白昼横行、薩摩藩士が多く行い会津人は恨み骨髄。 最新式アームストロング砲(砲身に螺旋きられ飛距離増)で上野の彰義隊はわずか十一時間の戦闘で壊滅、この砲が会津に運ばれ小田山に据えられ標高差百三十米を利用されたのが敗因。鶴ヵ城は弾巣のごとき有様を呈するも一月も城に立て籠るはまさに会津魂。
会津藩石高二十三万石、実質六十七万石、戦死者三千、城下の三分の二が焦土。家臣らの工作で再興となるが三万石に削られ、場所は猪苗代または陸奥の北部のいずれかと決定。場所について藩論は割れ、東京在住の家臣は会津にこだわらず、狭隘(きょうあい・せまい)な猪苗代での生計は立たないと主張。(アームストロング砲で壊された鶴ヶ城)会津は降参後、人心は荒廃、各地で農民一揆続発、庄屋を襲い土地証文を焼き捨て、金品を略奪、人心荒廃、結果的に下北を選ぶが、これが困窮の始まり。政府の処置は列藩同盟諸藩に厳しいが会津藩には特別。この決定をなしたのが、山川、広沢、永岡たち。これに従う会津藩士一万七千人。不毛の地、下北の風土も知らず陸路、海路にて北を目指す。時は明治三年四月十八日、三戸において黒羽藩から斗南藩へと引継ぎ。斗南藩三万石領地、二戸郡金田一村以北、三戸郡は八戸南部藩の領地を除く全て。
ここから藤沢一族の苦難の歴史。(続く)