倉敷市という町
此処は岡山県にあるのは説明するまではないだろう。
太平洋戦争で我が国の隅々まで爆撃され、焼けつくし、果ては広島と長崎に原子爆弾を二つも落とされた。それまでの戦争の歴史でもっとも残忍な戦法で敗戦させられ、日本中、廃墟となり人間も数限りなく殺された。
だが、此処、倉敷市と京都市それに奈良にはただの一発の焼夷弾も落とすことはなかったのだ。
なぜか?あのB29爆撃機から雨の如く降らせたので爆弾が尽きたからか?
そんな筈はないだろう。敵は物量で勝負をかけるアメ公だった。皆殺しのバラード(小歌)は常套手段。いくらも離れていない岡山市は爆撃で数多くの死者が出て町は廃墟となった。
この理由を関係者はこう解釈した。世界的に貴重な美術品や文化遺産に、傷をつけ焼失してはならない。倉敷の大原美術館にはそれがある。敵の軍部でもそのような論議がなされたのだろうか。空爆は一切なかった不思議さは、明確なことは誰にも答えられないが、大原美術館が倉敷市を救ったのだった。
爆撃を予想し、貴重な作品はいち早く奥深い山中に運び出してはいた。すべては無傷であった。
戦争の歴史をみればわかるが戦勝国は戦利品として領土のほか、財宝も美術品も賠償金も手にすることができた。これらも勝利したら特定の人物によって山分けの相談などがあったものかどうか。あったろうな。
大原美術館は我が国で最初に創られた西洋美術館であることは多くが知るところだ。
修学旅行や一般の観光のルートにものせられ、数ある話題にも上る。今や世界で名だたる美術館のひとつになっている。
私は、しがない、銭がない、先がない、三拍子揃った?美術愛好者の一人として多くの美術品を観てきたが、由緒あるといわれるこの美術館は、写真や短い説明の刷り物でしか目にしたことがなかった。数々のいわれも内容も当然知らぬことだった。
初めての町に車を乗り入れる時にはラッシュ時間を避けての出入りを考慮する。目も手も足も頭も、老衰状態の爺が運転する車は真っ直ぐに走らないのだから危険このうえない。事故を引き起こしたら一巻の終り、命懸け!だ。
大都会は深夜でも煌煌とした灯火で不夜城のような佇まいが定番だが、此処は「なんでこんなにも暗い町なのか?」夜遅くに倉敷の町に入り、第一の印象であった。
美観地域という看板がある処に迷い込んだが「これも何を表しているのか?」不思議な場所であった。柳の並木のある小さな川沿いに小さな古めかしい建物がぎっしりと並び、さしずめ古い時代にタイムスリップか。映画の撮影セットのような感じでもある。かなり人工的な匂いも否めないが夜が明けて改めてこれらに接して見ると、驚きと感動に変るのだった。第一印象だけで物事を決定できないことを此処でも教えられたものだ。これについては、後に述べよう。
まずは大原美術館を語らずして此処、倉敷と言う町の説明はつかぬことであろう。
美術館はどのような経緯で創られ変遷を経てきたのか簡単に説明しておきたい。
現在、格子窓と白壁の町の中に忽然と建っているギリシャ神殿風の建物。これこそが倉敷の富豪、大原家の美術館だ。
六百ヘクタールに及ぶ広大な地主であった大原家は江戸時代から米穀、綿問屋を営み明治初期に大原孝四郎が起した紡績業で多大な利を興する。
明治十三年(1880)孝四郎の三男として誕生した孫三郎は大切に育てられ、(長男、次男は早世)やがて東京専門学校(現在の早稲田大学)に進むが若気の至りで放蕩の限りを尽くし、莫大な借金が焦げ付く。父親の命で連れ戻され “謹慎処分 ”の身となる。そんな事があったが、すっかり改心して家業の紡績会社に就職。父親の後を継ぐがこの若き二代目は次々と事業を展開発展させ中国地方、四国地方随一の実業化に成長する。倉敷紡績すなわち倉紡だ。
謹慎の時代に触れた二宮 尊徳の “報徳記 ”の影響とで力を注いだ社会事業のひとつ、大原奨学会の奨学生として東京美術学校(現東京芸術大学)に学び、後に生涯の友となる、画家・児島虎次郎を三度も渡欧をうながす。外地で制作に励むかたわら、虎次郎は絵画購入に奔走する。帝展審査員として活躍し、欧州でも高い評価を得ていた虎次郎は、非売品でも作者本人を拝み倒して巨匠たちの作品を次々に買い集めた数六十一点、いずれも名品である。現代、世界の名ある芸術家達は日本になぜこれほど貴重な作品があるのか?と驚嘆する。そして「奇跡だ」とまでいわれているのだ。
元気者だったが四十七歳、脳溢血で急逝する。親友の死に遭い、孫三郎の歎きは如何ばかりであったろうか。
昭和五年十一月五日(一九三〇)孫三郎は、前年に亡くなった友、児島虎次郎を想い、遠き国から海を渡り倉敷の地に運ばれた数々の美術品を公開した。いわば虎次郎の記念館そのものだった。
自宅の向かいに開館した日本初の私立西洋美術館、 大原美術館のスタートであった。
一般公開はこれより二十日後で入館料は三十銭。(当時としては上等な昼飯代ほどか)近在から押しかけた人達で行列ができ、町中が御祭り騒ぎのようであった。最初はなんでも物見遊山(見物して歩きまわること)だが、やがて見向きもしなくなるのが定石である。これほどの「宝の山」であっても、やがては来館者が一人もない日が続く憂き目にも遭うのだ。
先号でも述べたが「もの識らず、恥しらず」を自認する私だが此の美術館もいわゆる「あぶく銭」(現代風にはバブル景気で儲けた金か?)で儲けた金を用い、価値も解らずに、高価な作品を手当り次第に買い求めたものなのだろうか、と考えていたものだ。後日、幾つかの文献を目にして、恥ずかしいことに、これは大きく違っていた。
経済は生き物、魔物だ。昨日まで富んでいたものが今日は奈落の底、大原家も富んでいてばかりではなかった。特に繊維は生活に直接関するものだから浮き沈みが大きい。大原家存亡の危機に遭ったのは数え切れないという。昭和四年にも決算赤字は三七万円、社債借入金の累計は一八〇〇万円になった。現在の金で四〇〇億円にも達した。不況の波はここにも押し寄せた。こんなときに倉紡万寿工場女子従業員六二〇人が賃上げを要求してストライキに突入した。当時ガチャ萬と言われた時代には機織り機械が一回「ガチャリ」と動けば何萬円も儲かったこともあったが経済恐慌で逆のじり貧もあったのだ。それは現代であっても同じだ。揺るぎのないと言われる巨大な会社でも簡単に崩壊する報道は日常茶飯で耳にし目にする。こんなたいへんな時期に頼りにしていた児島虎次郎が亡くなる。
大原家が三代に渡る活躍の全部は紙面に限りあるので叶わぬが、要所だけでもとりあげてみよう。
どうして?倉敷という大きくもない都市に美術館、民芸館、考古館、天文台、病院、農業研究所、東洋一と折り紙をつけられた音楽堂の市民会館など立派な施設が集中しているのか?
放蕩者と呼ばれたこともあった美術好きの孫三郎が金にあかして道楽に建てたものではないのだ。
人間、変れればこうも変る。孫三郎は高い理想に燃える偉大な先駆者に生まれ変わっていた。彼が偉大なのは実業家としてより文化研究、社会事業の分野で今日も意味ある仕事を後世に残したことであろう。キリスト教に帰依 きえ (仏や神を信仰しその力にすがること)した石井十次と明治三二年(一八九九)に会見してから良き理解者となる。手始めのひとつ、明治三九年(一九〇六)東北地方の大凶作にあたって不孝にも孤児になった子供達一二〇〇人を収容するために岡山孤児院を各所に続々と創設した。従業員の為の病院も創った。この病院は後に一般市民にも開放されている。
志ある若者のために先代が創設した奨学金制度も枠を広げ、福祉事業も数え切れないほど展開したのである。
学者には研究の助成に莫大な金を投じる反面、自分の会社経営には一厘一毛(昔の金の単位で一厘は一円の千分の一)のムダも許さないが文化、社会事業には惜しみもなく湯水のごとく資金を投じたと言う。
現代社会でもそうだが人間の心は何時でも荒んでいるもので、そんな時に何か感動を与える優しさや可憐さに出遭うと平常心に戻れるのは説明をするまでもない。
「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。「経済的に恵まれない人々、高い位の教育を受けていないひと達の目にも触れさせたい」と心底思っていたのが覗われる。
若い頃からこの美術館を観たいものだと思い続けていた私はやっとの事でそれが叶って少し興奮気味だった。暗い町中を訳もわからず走ったら大きなレンガ造りの建物があり続いて広々とした吹曝しの駐車があった。アイビースクェア駐車場と表示してあるがなんのことか?無人の駐車場でせわしくないので此処で夜明かし、野宿だ。説明では午後五時から翌朝十時までで600円。
レンガ造りの建物はホテルとレストランそれに記念館を兼ねていた。アイビー学館と呼ぶ。IVY=アイビー=植物の蔦(ツタ)の意である。
この建物は明治から、昭和初期まで紡績工場として稼動していたものだ。機械の騒音を外部に洩らし住民に迷惑をかけてはいけないと、高価なレンガ造りにしたものだった。結果は現在でも充分に用いられ採算面でも満足のいくものになった。これに蔦が這い、壁面は緑に覆われ夏の暑さを和らげたことだろう。建物の中庭は広々としている。かつてここの紡績に携わった大勢の若い女工達がこの中庭でしばしの休憩時間に仲間との会話を楽しんであろう。そのような情景が目に浮かんでくるようだ。紡績女工の労働は過酷で現代の人達では想像もつくまい。
身体を壊し早世した女達も相当な数となったでろう。そんな理由でか、会社は病院も創立する。福祉、厚生施設をいち早く確立した。
当時、我が国の企業の状況は似たり寄ったりであったが此処だけは、そんな温かみのある職場で魅力があったであろうか。
国家は西欧の列強国に支配されないようにと頑張ったのだろう。労働を特に安く得るように考えたのである。現代、お隣の国Cのようにである。
おーとっと、また悪い癖が出て話が逸れた。
町に入った翌朝、九時開館の大原美術館に向かった。昨夜迷い込んだ町並みは倉敷川沿いに古めかしく瀟洒(しょうしゃ=オシャレ)な店がそれぞれに個性を売り物にしている。倉敷川は小さな川で屋形をかけた小舟で観光客を乗せ楽しませていた。(運河か?)
観光地と言う名の地では数多くのお土産店が付きもの、呼び込みなどでうるさくお客に声を掛けるものなのだが、此処ではそのような思いは全く無かった。
大原美術館の入り口に立ったのは開館時間九時の二十分前。もう、大勢のお客人が並んでいる、外人さんも多い。これを見ただけでも世界の大原美術館だと感心するばかり。
前にも述べたが旅に出るに時には下調べをして失敗のないようにと思うものだが、私の流儀ではその場の感動が減衰しないようにと予備知識は簡単にしていると言うよりほとんどしない。そんな訳(言い訳です)で入場料金も知らぬこと。一般一〇〇〇円、六五才以上八〇〇円、私は該当する。入り口で係の女性が「誠に申し訳ございませんが生年月日をおっしゃってくださいませ」と丁寧に聞いてくる。
美術館の目的はどんなことか?
何か?
前項の言葉が思い出される。「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。すぐれた美術品の鑑賞は心の情操に良い影響をあたえる。
すなわち来客に気持ちのよい環境を与えるのが一番の目的でなければならないのだ、と考える。
また、話しが逸れて申し訳ないのだが、まあ、聞いてくれ!
印象派でも印象が悪い、何処かの都市で税務署跡につくった ビン術館では「アンタ、シニア?」「貴方、死にーゃ」早く死んでくれ・・か?・・・・それとも、もっと金くれんか?とは大きな違いだ。服装が悪い?正装でネクタイを着用して来いと言いたいか?貧乏人はこんなところに来るんじゃない。アゴをしゃくって応対した受付の女性は悪印象派であった。
大原美術館の入り口のくぐり戸は小さい。身体の大きい外人さんは頭を打たないように屈んで入った。「だけど心理やなーこのほうが抵抗なく入りやすい」個人の住いを訪ねたときの雰囲気だ。
ギリシャ神殿風の建物に入った。ここは本館、あるわ、あるわ大きいの小さいの、名作が。本館はクロード・モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」のほか若かりし頃のピカソの作品もさわやかな風を感じる。
目玉はなんと言っても十七世紀初めの作と言われるエル・グレコ(1599_1603)の「受胎告知」だ。階段を上ってすぐの右にあった。なにか無造作に壁にかけていて、ちっとも高価な雰囲気はない。次号に続く
2008年1月1日火曜日
風の旅 弐
風天弘坊
おわら風の盆を愉しむ 再考
何回かの連載で私の旅を紹介します。
風の旅と題し、風はどこへ吹くのか、行くのか分からぬものだ。風のように行程日程も順 序も前後するがご容赦願いたい。
以前に本紙で紹介をしたが再度、私的な「越中おわら風の盆」の行状となる。
此処、富山県富山市八尾町(やつおまち)は近年市町村合併で富山市になったが以前は富山県婦負郡八尾町であった。人口は二万人ほどであり日頃はとても静かな町である。毎年の九月一日から三日に(越中八尾 おわら風の盆)開催されるが外来者が多くなりすぎ八月二十日から前夜祭と称してとり行われている。地元主催のひと達が楽しむためのその前夜祭も「最近では外来者が多く騒々しくなってしまった」と主催の人達はなげく。
案内では三百年の歴史をもち叙情豊かで気品高く、綿々としてつきぬ哀調のなかに優雅さを失わぬ詩的な唄と踊りとある。
その魅力を以前に本紙で詳細を紹介したが今回はその裏側のようなところをのべてみよう。これから風の盆のすばらしい体験をしてみたいと考えている方には水を差すような行為で、いささか気がひけるが真髄を知っているのと知らぬとは雲泥の違いである。例えてみると高級な料理の味を付け合わせの刺身のツマを食ってみて分かろうか?と言うものだ。
この祭、数多くクの著書が出版され、テレビ映画が創られた。そのおかげで全国に名が売れすぎて観光客がどっと増えた。何事に於いても度が過ぎると悪くなる。此処も例に漏れず悪くなった。私が行き始めた数年前にもすでに三〇万人の来訪者が小さな町に押しかけた。町の人口の十倍以上にも膨れ上がってしまっては何もかもが身動き出来ない。今年の来訪者は五〇万人にもなったであろうか、そんな混雑であった。
五年前、町へ観光バスの乗り入れの申し込みは五千台であったが町ではとても受け入れられず千五百台に限定した。今年はそんなものではなかったようだ。大型バスだけでも三千台以上も入ったか?この町に。
風の盆の雅(みやび)を楽しもうとしても簡単には叶わぬもの。雅の裏にはどうやら落とし穴がある。
私はまだ数回のリピーターでノウハウはあまり持ってないのだが、二五回というベテランもいた。私達の楽しみ方は前夜祭からだ。本祭の三日間は観光客が(我ーもそーだ)団子?状態になっているで客が引けてしまう深夜の見物となる。
先に前夜祭は八月二十日からと述べたがそれでは十三日間どの日でも観る事ができるか?と言うと、そうはいかない。
まず雨が降ったら中止する。なぜか?
お天気は自然まかせ。風の盆は二百十日の風鎮祭、荒れぬはずはない。一週間のうち三日は雨に見舞われて当然だ。今回も外に置いた履物が流れまわるほどの豪雨があった。「お天道さまには逆らえぬ」ことだ。
踊子の衣装は男女問わずに高価だ。濡らしたら補修にウン拾万円だそうな。またお囃子の地方(じかたと呼ぶ)が抱える三味線や胡弓もそして太鼓も雨に濡らしたらまともな音色が出なくなるばかりか傷んだら修理費が目玉の飛び出すほどになるのだ。
そんな訳で小雨であっても徹底して中止となる。また、八月三〇日本祭の前日は休養の日となり町中の商店も徹底して閉店だ。踊りも囃子もスピーカーから流すメロディもパタリと止んでしまう。もし、運悪くこの日に行ったとしたら一切を諦めた方が賢明だろう。
それでも観たいときはどうするか。事前にインターネットのHPで調べるか町の商工会や富山市の観光課に聞くと分かるが、観光会館のステージなどで観賞できる日程と時刻がある。入場料は千五百円。全国のローソン系のコンビニエンスストアで購入できる。
それでは、回を重ねて通い続けた、いわゆる「通」と言われる観賞の仕方を述べてみよう。
自家用車を転がして全国から熱狂的な気違い(フアンとも言う)が集まる。長い期間の滞在はこの町の宿は満杯、利用は不可能に近い。近隣の温泉地も同じ一年前の予約でいっぱいだ。金沢市や高山市、宇奈月温泉のホテルも満員と聞く。
祭のメインとなる石畳の風情ある旧町は高い場所にあるが、私共はその下に流れる井田川の河川敷に陣取る。流れは速く石に砕け散る。その川音が子守唄、川風はまた気持ちよく、熟睡ができるのだ。
また、頭ほどの大きさの川石を累々と積み上げた町を作る断崖は他では見られない風景であり壮観そのものだ。
私は自嘲的に自分を「カワラこじき」と呼ぶ。キャンパー同志に食材や酒、肴を差し上げたり頂いたりするからだ。それがまた愉しいのである。自炊も普段は手も出さないが「男の料理」だ。女達は町に見物に、男は酒に酔っ払いながら仕度する。飯は黒焦げ、野菜は生煮「なーに牛馬になったつもり食えばいい」ひッひ―んといな鳴きながらだ。
ここの旧町には大きな食品スーパーが一軒だけあったが商売にならず昨年廃業した。コンビニでさえないので食品の入手も難しい。贅沢はできない。「ゼイタクは敵ダ」は戦時中。現代は「ゼイタクはステキだ」になってしまった。古いか?(笑)
数年前は河原でキャンプの車は二千台もあったろうか。今年はそれを締め出した。ゴミを散らかす、深夜まで騒ぎ、付近の住人に迷惑をかけたなどの苦情が寄せられた。そんな理由でほとんどの河川敷や空き地が閉鎖になってしまった。
富山県や富山市が介入し事情が複雑になってしまったようだ。合併以前は八尾町の裁量(自分の意見により裁断処置すること)で大らかに受け入れられていた。そんな心情をまともに受けたキャンピングカーで全国から駆けつけたフアンは前夜祭も楽しめずに諦めて立ち去ってしまった。最終日まで河川敷には十数台のみ。私はキャンピングカーならぬ屋根のついた貨物自動車、カタカナではボックスカーと言うのだそうな。荷台にコンパネ(ベニヤ板)を貼って寝床にしている。
軽自動車で鹿児島から来ている年配のご夫婦もおられた。もちろん車中泊。
河川敷のニワカ駐車場を管理している九十二歳の元気なお爺さんが花畑にしている所に毎回駐車をお願いしているので安心だ。数年前に知人の森田保夫氏が開拓したところである。利用料金はとらない。それぞれにお土産を差し上げて、ワンじゃなかった「ウン」と言わせる。ワン公も人間もエサには弱い。
一般の観光客は本祭の九月一日から三日までが多い。旅行会社で募集したツアーでの見物は五千人以上入る広大な町民広場の舞台で演じ踊るのを観る。特にバスツアーでは時間の制限があり二、三時間ばかりの滞在となる。たったこれだけの時間では町中での流し踊りや輪踊りは、ほとんど観れない。
町民広場の人々をみて、観光旅行会社の宣伝に惑わされ、こんなに大勢が「引き回しの刑」?に遭っているのだ。「お気の毒に」と思わずにおれない。
広大な町民広場のステージで三十分毎にくりかえされる舞台が終わると年寄りの迷子が大勢発生する。●○さーんどこでーすかー?の呼び声があっちでもこっちでもだ。幼児であればワーワーと泣き叫べば誰かが迷子の案内係へ連れてってくれるが爺さん、婆さん、うば桜、では誰も知らん顔。
こんな事もあった。会場で四人連れのおばちゃんがいきなり私の顔面にケイタイを突き出した。「これに出て話して下さい」
不審であったが今にも泣き出しそうな面持。
「そこはどこですか?」ケイタイから男性の声「町民広場です」「私は今×△○駐車場にいるのですがそこまでどのようにして行けばいいのか教えて下さい」時間によって町の中に車の乗り入れを制限している。「ああそこから3キロほど距離がありますが徒歩しかないでしょう」
四十分ほどして観光会社の腕章をつけ旗を持った若い男性の添乗員が全身汗びっしょりでよろよろとたどり着いた「有難うございました。助かりました」聞くところでは青森市の旅行会社で市内のお客を募集して来たとのこと。「集合時間までにバスの駐車場にたどり着かなくちゃ」とあたふた。「我ーも八戸せー」「えーっ何時来たのか?」「一週間前から前夜祭観てる」「へー」「ところであの高い方には何があるんだが?」と四人のおばちゃん達は指をさした。「古い町並みがある。行かれなかったですか?そっちの方が祭のメインですよ、見てらっしゃい」と添乗員よろしく説明。
「ああーもう時間がない、十時にここを出てバスで宇奈月のホテルに戻らなければ」と心はすでに風の盆ならぬ風のよう。以前には無かったこの町民広場には何百ものテント張りの食堂とお土産や。これを買わされ、食わされ、ステージの踊りを遠くから眺め地方(じかた)の囃子と歌がスピーカーから鳴り響いているがなにか空々しくどうも嘘っぽい。
さて、話しは戻る
十一町内でそれぞれの踊りの振り付けと地方の囃子も異なる。これも食べ物と同じで好き嫌いがあるのでどこそこが一番いいなどと先入観念を植えつけてはいけないのでここでは述べるのを避けよう。
地方の囃子唄のひとつを紹介しよう。
歌
越中で立山 加賀では白山
駿河の富士山 三国一だよ
囃子
唄われよ わしゃ囃す
歌
おわら踊りの 笠きてござれ
忍ぶ夜道は オワラ月明り
囃子
キタサノサ ドッコイサノサ
この(じかた)地方の囃子と唄で踊る。
踊子は涼しげな揃いの浴衣に編み笠の間からすこし顔を覗かせたその姿は実に幻想的で優美だ。「こんな雅を味わうのも今回で卒業か」としっかりと目に焼き付ける。
数年前、この町の心優しく温かい「持て成し」は何処かに消し飛んでしまったのか?
町中でおみやげ店を経営する女主人に聞いてみた。「富山市に合併になってなにが良かったですか」「なーんにもない、唯、税金が高くなっただけや」としゃがれ声が返って来た。時代の変遷と言ってしまえばそれまでだが三百年の歴史ある、「風の盆」も衰退するのか?そんな寂しい思いに駆られる。
旅は続く
おわら風の盆を愉しむ 再考
何回かの連載で私の旅を紹介します。
風の旅と題し、風はどこへ吹くのか、行くのか分からぬものだ。風のように行程日程も順 序も前後するがご容赦願いたい。
以前に本紙で紹介をしたが再度、私的な「越中おわら風の盆」の行状となる。
此処、富山県富山市八尾町(やつおまち)は近年市町村合併で富山市になったが以前は富山県婦負郡八尾町であった。人口は二万人ほどであり日頃はとても静かな町である。毎年の九月一日から三日に(越中八尾 おわら風の盆)開催されるが外来者が多くなりすぎ八月二十日から前夜祭と称してとり行われている。地元主催のひと達が楽しむためのその前夜祭も「最近では外来者が多く騒々しくなってしまった」と主催の人達はなげく。
案内では三百年の歴史をもち叙情豊かで気品高く、綿々としてつきぬ哀調のなかに優雅さを失わぬ詩的な唄と踊りとある。
その魅力を以前に本紙で詳細を紹介したが今回はその裏側のようなところをのべてみよう。これから風の盆のすばらしい体験をしてみたいと考えている方には水を差すような行為で、いささか気がひけるが真髄を知っているのと知らぬとは雲泥の違いである。例えてみると高級な料理の味を付け合わせの刺身のツマを食ってみて分かろうか?と言うものだ。
この祭、数多くクの著書が出版され、テレビ映画が創られた。そのおかげで全国に名が売れすぎて観光客がどっと増えた。何事に於いても度が過ぎると悪くなる。此処も例に漏れず悪くなった。私が行き始めた数年前にもすでに三〇万人の来訪者が小さな町に押しかけた。町の人口の十倍以上にも膨れ上がってしまっては何もかもが身動き出来ない。今年の来訪者は五〇万人にもなったであろうか、そんな混雑であった。
五年前、町へ観光バスの乗り入れの申し込みは五千台であったが町ではとても受け入れられず千五百台に限定した。今年はそんなものではなかったようだ。大型バスだけでも三千台以上も入ったか?この町に。
風の盆の雅(みやび)を楽しもうとしても簡単には叶わぬもの。雅の裏にはどうやら落とし穴がある。
私はまだ数回のリピーターでノウハウはあまり持ってないのだが、二五回というベテランもいた。私達の楽しみ方は前夜祭からだ。本祭の三日間は観光客が(我ーもそーだ)団子?状態になっているで客が引けてしまう深夜の見物となる。
先に前夜祭は八月二十日からと述べたがそれでは十三日間どの日でも観る事ができるか?と言うと、そうはいかない。
まず雨が降ったら中止する。なぜか?
お天気は自然まかせ。風の盆は二百十日の風鎮祭、荒れぬはずはない。一週間のうち三日は雨に見舞われて当然だ。今回も外に置いた履物が流れまわるほどの豪雨があった。「お天道さまには逆らえぬ」ことだ。
踊子の衣装は男女問わずに高価だ。濡らしたら補修にウン拾万円だそうな。またお囃子の地方(じかたと呼ぶ)が抱える三味線や胡弓もそして太鼓も雨に濡らしたらまともな音色が出なくなるばかりか傷んだら修理費が目玉の飛び出すほどになるのだ。
そんな訳で小雨であっても徹底して中止となる。また、八月三〇日本祭の前日は休養の日となり町中の商店も徹底して閉店だ。踊りも囃子もスピーカーから流すメロディもパタリと止んでしまう。もし、運悪くこの日に行ったとしたら一切を諦めた方が賢明だろう。
それでも観たいときはどうするか。事前にインターネットのHPで調べるか町の商工会や富山市の観光課に聞くと分かるが、観光会館のステージなどで観賞できる日程と時刻がある。入場料は千五百円。全国のローソン系のコンビニエンスストアで購入できる。
それでは、回を重ねて通い続けた、いわゆる「通」と言われる観賞の仕方を述べてみよう。
自家用車を転がして全国から熱狂的な気違い(フアンとも言う)が集まる。長い期間の滞在はこの町の宿は満杯、利用は不可能に近い。近隣の温泉地も同じ一年前の予約でいっぱいだ。金沢市や高山市、宇奈月温泉のホテルも満員と聞く。
祭のメインとなる石畳の風情ある旧町は高い場所にあるが、私共はその下に流れる井田川の河川敷に陣取る。流れは速く石に砕け散る。その川音が子守唄、川風はまた気持ちよく、熟睡ができるのだ。
また、頭ほどの大きさの川石を累々と積み上げた町を作る断崖は他では見られない風景であり壮観そのものだ。
私は自嘲的に自分を「カワラこじき」と呼ぶ。キャンパー同志に食材や酒、肴を差し上げたり頂いたりするからだ。それがまた愉しいのである。自炊も普段は手も出さないが「男の料理」だ。女達は町に見物に、男は酒に酔っ払いながら仕度する。飯は黒焦げ、野菜は生煮「なーに牛馬になったつもり食えばいい」ひッひ―んといな鳴きながらだ。
ここの旧町には大きな食品スーパーが一軒だけあったが商売にならず昨年廃業した。コンビニでさえないので食品の入手も難しい。贅沢はできない。「ゼイタクは敵ダ」は戦時中。現代は「ゼイタクはステキだ」になってしまった。古いか?(笑)
数年前は河原でキャンプの車は二千台もあったろうか。今年はそれを締め出した。ゴミを散らかす、深夜まで騒ぎ、付近の住人に迷惑をかけたなどの苦情が寄せられた。そんな理由でほとんどの河川敷や空き地が閉鎖になってしまった。
富山県や富山市が介入し事情が複雑になってしまったようだ。合併以前は八尾町の裁量(自分の意見により裁断処置すること)で大らかに受け入れられていた。そんな心情をまともに受けたキャンピングカーで全国から駆けつけたフアンは前夜祭も楽しめずに諦めて立ち去ってしまった。最終日まで河川敷には十数台のみ。私はキャンピングカーならぬ屋根のついた貨物自動車、カタカナではボックスカーと言うのだそうな。荷台にコンパネ(ベニヤ板)を貼って寝床にしている。
軽自動車で鹿児島から来ている年配のご夫婦もおられた。もちろん車中泊。
河川敷のニワカ駐車場を管理している九十二歳の元気なお爺さんが花畑にしている所に毎回駐車をお願いしているので安心だ。数年前に知人の森田保夫氏が開拓したところである。利用料金はとらない。それぞれにお土産を差し上げて、ワンじゃなかった「ウン」と言わせる。ワン公も人間もエサには弱い。
一般の観光客は本祭の九月一日から三日までが多い。旅行会社で募集したツアーでの見物は五千人以上入る広大な町民広場の舞台で演じ踊るのを観る。特にバスツアーでは時間の制限があり二、三時間ばかりの滞在となる。たったこれだけの時間では町中での流し踊りや輪踊りは、ほとんど観れない。
町民広場の人々をみて、観光旅行会社の宣伝に惑わされ、こんなに大勢が「引き回しの刑」?に遭っているのだ。「お気の毒に」と思わずにおれない。
広大な町民広場のステージで三十分毎にくりかえされる舞台が終わると年寄りの迷子が大勢発生する。●○さーんどこでーすかー?の呼び声があっちでもこっちでもだ。幼児であればワーワーと泣き叫べば誰かが迷子の案内係へ連れてってくれるが爺さん、婆さん、うば桜、では誰も知らん顔。
こんな事もあった。会場で四人連れのおばちゃんがいきなり私の顔面にケイタイを突き出した。「これに出て話して下さい」
不審であったが今にも泣き出しそうな面持。
「そこはどこですか?」ケイタイから男性の声「町民広場です」「私は今×△○駐車場にいるのですがそこまでどのようにして行けばいいのか教えて下さい」時間によって町の中に車の乗り入れを制限している。「ああそこから3キロほど距離がありますが徒歩しかないでしょう」
四十分ほどして観光会社の腕章をつけ旗を持った若い男性の添乗員が全身汗びっしょりでよろよろとたどり着いた「有難うございました。助かりました」聞くところでは青森市の旅行会社で市内のお客を募集して来たとのこと。「集合時間までにバスの駐車場にたどり着かなくちゃ」とあたふた。「我ーも八戸せー」「えーっ何時来たのか?」「一週間前から前夜祭観てる」「へー」「ところであの高い方には何があるんだが?」と四人のおばちゃん達は指をさした。「古い町並みがある。行かれなかったですか?そっちの方が祭のメインですよ、見てらっしゃい」と添乗員よろしく説明。
「ああーもう時間がない、十時にここを出てバスで宇奈月のホテルに戻らなければ」と心はすでに風の盆ならぬ風のよう。以前には無かったこの町民広場には何百ものテント張りの食堂とお土産や。これを買わされ、食わされ、ステージの踊りを遠くから眺め地方(じかた)の囃子と歌がスピーカーから鳴り響いているがなにか空々しくどうも嘘っぽい。
さて、話しは戻る
十一町内でそれぞれの踊りの振り付けと地方の囃子も異なる。これも食べ物と同じで好き嫌いがあるのでどこそこが一番いいなどと先入観念を植えつけてはいけないのでここでは述べるのを避けよう。
地方の囃子唄のひとつを紹介しよう。
歌
越中で立山 加賀では白山
駿河の富士山 三国一だよ
囃子
唄われよ わしゃ囃す
歌
おわら踊りの 笠きてござれ
忍ぶ夜道は オワラ月明り
囃子
キタサノサ ドッコイサノサ
この(じかた)地方の囃子と唄で踊る。
踊子は涼しげな揃いの浴衣に編み笠の間からすこし顔を覗かせたその姿は実に幻想的で優美だ。「こんな雅を味わうのも今回で卒業か」としっかりと目に焼き付ける。
数年前、この町の心優しく温かい「持て成し」は何処かに消し飛んでしまったのか?
町中でおみやげ店を経営する女主人に聞いてみた。「富山市に合併になってなにが良かったですか」「なーんにもない、唯、税金が高くなっただけや」としゃがれ声が返って来た。時代の変遷と言ってしまえばそれまでだが三百年の歴史ある、「風の盆」も衰退するのか?そんな寂しい思いに駆られる。
旅は続く
2007年3月1日木曜日
悪ガキばんざい
新制中学校一年生特別教科
「修と弘、二人出てきなさーい!」モンペ先生の声はいつもより、大きく教室に響きわたる。牛乳ビンのような分厚い眼鏡の中からにらまれては、これぁ蛇と蛙の関係だ。教壇に上げられるのは叱られるか?褒められるかどちらかだが、どうも、褒められる雰囲気ではない。顔をお互いに見合せ「なにしたっけ?」だが、どちらも憶えはない。教壇にのせられ同級生に向かせられて、さらし者。
この名物の男先生は日頃モンペと作務衣そして日和下駄だった。春夏秋冬、大雨以外は頑固にこの姿で通した大尽であった。
これは戦後、児童の教育も六三三制になってから四年が過ぎたころの風景になる。経済も高度成長期とやらで、なんとか究極の空腹からは逃れるようになったが、満足するまでにはなっていない。
「このふたりーーっ!ゆうべ、湊座にストリップショーを観に行ってたーっ」えーっと級友たちの声と奇異な視線を感じて躰を小さくする二人、学校で毎日行われる朝礼の風景の一場面だ。弘は「まーさか?」修「あっしまった見られていたか?」
「だが?なぜ」あんなに苦労をしてやっと潜りこんだのに。「手ぬぐいで頬かむりして分からぬはずだ」言ってみれば子供の浅智恵だった。変装が完全とおもっていたがバレていたのか。
先生は追い討ちの言葉を続ける「コイツ等、口笛まで飛ばして喜んでいた」「しょっしがんねー」(はずかしくないのか)同級の女生徒達が囁いた。
「なに?そこまで言う先生も行ってたべな」修が弘に耳打ちした。ちょっと気が楽になったが・・・それでもドキドキしている。
終戦前には先生は聖職と言われていたが。「先生こそそんな処に行くのは考えられない」とおもっていたふしがあった。性職だべナ?
わんどぁ悪ガキのレッテルは充分に承知していたが、さらに安くなる評価のシールの重ね貼りは嫌だ。子供だってそれなりのプライドがある。仲間に爪弾きにされたり、いじめられる原因になるのはこの現代でもおなじだ。
悪いことをしたときの、この先生の「仕置き」は必殺業がある、方法はこうだ。大きな手で後ろから首を掴む。細い首には指の長さはまだ余る。素直に謝るか反省の態度を見せれば軽く済むのだが・・・・強烈だ。いつも頑固なわんどぁだって簡単に言うことを聞くわけがない。指をグッと締めれば息ができない。柔道も達人の先生は失神する直前までの頃合は知り尽くしている。この方法は下手をすれば窒息し死ぬこともある危険なものだが現代の教育の現場ではとても実行できないものだろう。喉を絞ったあげくに腕を持ち上げる、苦しくなりつま先で立つが間に合わない。目玉が白黒になるってこのことだ。
仕置きを覚悟した。首を締められ酸欠「星空の世界?」を見れて恍惚状態になってしまうが、それを期待しての変態の趣味はまだ?ない。
我が町は昔から漁業が盛んで、それに纏わるひとの出入りが多く繁栄を極めた。その業種は、商店ばかりではなく、娯楽の面でも数多くあって、遊興でも栄えた。そのなか芝居小屋は時代とともに映画舘になり時としてほかの興行を兼ねて営業したものだ。ストリップショーもそのひとつ。
漁業の街は繁栄を重ね遊興の場所は不夜城だった。今おもえば決して経済的に恵まれていたわけでもないが頑張れば、頑張っただけ楽しめた。
横丁の屯所の向かいに湊座はあった。
浜が時化(しけ)て漁に出れない日は漁師の一時の休養になる。魚の群れを追いかけ昼夜を問わず働く。チャンスを逃せば大きな銭を拾えない。そして板子一枚下は地獄の世界。何もかもが命懸け。明日の命を望むより、今生きている喜びをと、江戸っ子のセリフではないが「宵越しの銭は欲しくもない」とその気にさせてしまうのだ。
毎年、何隻かの遭難があり海神への人身御供(いけにえ)のように多くの漁師が死ぬ。明日はわが身と刹那的な感があった。
この頃、浦町、新地はまさしく生きていた。
漁があり、懐が温かい者はこちらへ繰り出すが、漁が外れの者もいる。外れは、街はずれの屋台の支那ソバ屋で酒を呑んでクダを巻くか3本立ての映画を観るかだが、この時代も銭の「分捕り合戦」だった。こんなシケた野郎からも財布の底まで掻きさらってしまおうとした興行師もいたものだ。
女の裸を見世物に高い入場料をとる。まあ、色街の座敷に揚ることからみれば代用食?までいかぬが馬鹿な男の欲情をかきたてるひとつの手段だ。
現代ではこんな岡場所もなくなり興奮できる場所はパチンコ屋にとって代わったようだ。進歩もなくみなINポか?(笑)
入場券はどうした?買ったのか?このガキ達。
現代では、ヌードショウーと呼ばれるが当時はストリップショーと呼ばれていた。 修の家では知り合いの興行師から度々映画や特別興行の入場券を貰うがそれを修は二枚掠めとってきた。
現代の価格にすれば映画舘の入場料の数倍にもなろうか?当然、子供料金はない。
でも、ふたりの悪ガキはどうしてそこへ入ることができたか? 十八歳未満入場お断り と大きく書いてある。まだ、五年早い。そのままの姿で入ろうとしたが子供こどもしていてバレた。「ダメ」と追い出されてしまったが好奇心の旺盛なふたりは、それで諦めるはずはない。
さあ、どうしようか?入場券のモギリのおばちゃんが交代するのを待った。「またの失敗を恐れて?」と考えた。
弘は中学生になったが成長が遅れて躰が小さい。クラスで並んだら前から2番目の背丈で口の悪い教師は「小学生が混じっている」と嘲笑する。未熟児でもなく、ましてや栄養不足でもないがこんなのもいるのが世の中だよ。ウドの大木と言う言葉も知らぬかこのセン公、ねずみだって噛むぞ。
一日四回の好演?がもう、最終回。諦めるのか、いやいや。
大人の恰好を作るのに大きなジャンパーに古新聞紙を丸めてアンコにする。躰を大きく見せる方法だが・・・・どうやら出来上がったのは貧弱な漁師風だが、まだ背丈は足りぬ、大きなゴム長ぐつの底に新聞紙の詰め物。なんと涙ぐましい努力だろう、ここに、小さな大人?ができあがった。
躰の大きな修は顔に炭を塗り手ぬぐいで頬かむりし軍手をはめて、ゴム合羽で完成?した。おお、どう見ても立派な大人の漁師だ。そりゃそうだ、小学生のころからイカ釣り船に乗っていたからなー、漁師は板についていた。
ここまで草した文字を眼にして「なんと貧困な」とおもうだろうが、此処の栄華な時代は現代の町並みや人を見ても、とても想像はつくまい。
新井田川を挟み商店の数々があり、そしてあらゆる業種があったものだ。
年を通じて何かにと漁がある。春は鰊船が北海道から生積みしてくる。他県船も数多く入港する。
季節の移り変わりにより揚る魚種も異なるが此処の沖には潮目と言う「宝の山」があった。イワシ、サバ、イカ、マグロ、タラ、キンキン、サガ、サメ、鰈などが大量に揚る。昔は鯨も獲れた。
北の魚の旨さに惹かれて九州あたりからの船団もくる。そのヤン衆(アイヌ語で倭人の悪の呼び名らしい)達から銭を奪いとるにはあの手この手、奥の手だ。
話しはまたどこかに曲っていった。戻そう。
まだ、十三歳のガキは成熟した女の裸を見ても興奮の種類はまた、別のものだろう。つい最近まで母親と風呂に一緒に入っていたのだから、それをちょっと思い出すほどではなかったろうか。
苦心?惨憺しやっと潜ったのがぎゅうぎゅう詰の野郎たちの世界、そのなかにガキが二人紛れ込んだ。薄暗いなかにキョトキョトと落ち着かず。目立たないわけがない。先生はそれを見てた。
現代のヌードショーとやらは初等性学科?を卒業して以来、学ぶ機会がなく知らぬが風の噂では品格もなにもなくなってしまった感がある。なにもかもモロ出しのようで人体解剖図?を想像してしまうようだ。あの時代はオケケは出てはダメとバタフライを貼りつけ、乳首さえそのままではダメと金銀の星型の切り抜きを貼っていた。「なーんだ、なんにも見るとこないんじゃん」と今の若者だったら言うだろう。「嗚呼なんと奥ゆかしい時代であったか」と口にしたら笑われるだろうか?
教壇に上げられた二人はすっかり仕置きを覚悟して戦国時代の武将の心境になった。首をさすりながら断首の覚悟。
先生、黙って黒板になにやら描き出した。白墨(いまではチョークと呼ぶが・)を色交えて鮮やかに、巧みだ。当然だ、美術が専門で絵画から版画、陶器製作、木工では八幡馬の製作まで学校教育にとりいれた。「このふたり、いい機会を作ってくれた」先生はニコニコとしている。
「?????なんで褒められるのか・・・?」
さっぱり分からん。
黒板の図をみてた級友「なんでぇ?コミヤってのは?」「すらねぇーでぁ」子供でもこれだけの数のなかには大人のような知識があるものもいる。
そんな奴は只ニヤニヤしているだけだ。「卵の巣て?なんのことでぇ?」「コーガンて●玉のこどが」教室は俄かにインスタントおとな?ができあがった。
戦後アメリカ式の性教育の執り入れを盛んに謳っていたが短期間で実現できなかったもののようである。図に→子宮とある。至急も特急も同じかとこんがらかっているのもいる。男の躰の構造、女の躰の仕組み、精神性、ホルモンから病気の果てまで・・・延々と二時間もかけ、いわゆる性教育が始まったものだ。
好奇心の一番旺盛な成長期に、しかもいきなりである。一種のカルチャーショックだったろう。
別世界が開けたものもいれば、もう知り尽くしていると自認しているマセたものもいた。
昔は知識が遅れてこれほどのものか?と言うなかれ、聞いた話しだが大先輩には豪傑がいた。尋常小学校の五、六年生だったが毎日の通学路は遊郭街の真中を抜ける。キッカケは知らぬが途中の遊女と抜き差し?のできる(できないはあるが)仲になってしまった。「サツマノカミ」ただのりだ。ほぼ毎日、学校教育以前の課外授業を受けていた訳だ。少し早い時差登校だ。「羨ましい」と言うなかれ、“花は早く咲けば早く散る”このモサは成人して間もなく人生も卒業したと。嘘のような本当もあるもんだ。いやー話しが逸れた。
現代のヌードショーはすっかり様代わり 解禁、解禁といってどこまで行くのか行ったのか?
知らぬことである。大人の男たちの興奮を誘う立て看板を目にしても中学一年生の時に女の裸を見る学校?を卒業した昔の悪ガキは立ち止まることもなく無表情で通りすぎる。古稀のすぎた老爺のささやかでちょっぴり苦味のある想い出のひとこまである。 完
「修と弘、二人出てきなさーい!」モンペ先生の声はいつもより、大きく教室に響きわたる。牛乳ビンのような分厚い眼鏡の中からにらまれては、これぁ蛇と蛙の関係だ。教壇に上げられるのは叱られるか?褒められるかどちらかだが、どうも、褒められる雰囲気ではない。顔をお互いに見合せ「なにしたっけ?」だが、どちらも憶えはない。教壇にのせられ同級生に向かせられて、さらし者。
この名物の男先生は日頃モンペと作務衣そして日和下駄だった。春夏秋冬、大雨以外は頑固にこの姿で通した大尽であった。
これは戦後、児童の教育も六三三制になってから四年が過ぎたころの風景になる。経済も高度成長期とやらで、なんとか究極の空腹からは逃れるようになったが、満足するまでにはなっていない。
「このふたりーーっ!ゆうべ、湊座にストリップショーを観に行ってたーっ」えーっと級友たちの声と奇異な視線を感じて躰を小さくする二人、学校で毎日行われる朝礼の風景の一場面だ。弘は「まーさか?」修「あっしまった見られていたか?」
「だが?なぜ」あんなに苦労をしてやっと潜りこんだのに。「手ぬぐいで頬かむりして分からぬはずだ」言ってみれば子供の浅智恵だった。変装が完全とおもっていたがバレていたのか。
先生は追い討ちの言葉を続ける「コイツ等、口笛まで飛ばして喜んでいた」「しょっしがんねー」(はずかしくないのか)同級の女生徒達が囁いた。
「なに?そこまで言う先生も行ってたべな」修が弘に耳打ちした。ちょっと気が楽になったが・・・それでもドキドキしている。
終戦前には先生は聖職と言われていたが。「先生こそそんな処に行くのは考えられない」とおもっていたふしがあった。性職だべナ?
わんどぁ悪ガキのレッテルは充分に承知していたが、さらに安くなる評価のシールの重ね貼りは嫌だ。子供だってそれなりのプライドがある。仲間に爪弾きにされたり、いじめられる原因になるのはこの現代でもおなじだ。
悪いことをしたときの、この先生の「仕置き」は必殺業がある、方法はこうだ。大きな手で後ろから首を掴む。細い首には指の長さはまだ余る。素直に謝るか反省の態度を見せれば軽く済むのだが・・・・強烈だ。いつも頑固なわんどぁだって簡単に言うことを聞くわけがない。指をグッと締めれば息ができない。柔道も達人の先生は失神する直前までの頃合は知り尽くしている。この方法は下手をすれば窒息し死ぬこともある危険なものだが現代の教育の現場ではとても実行できないものだろう。喉を絞ったあげくに腕を持ち上げる、苦しくなりつま先で立つが間に合わない。目玉が白黒になるってこのことだ。
仕置きを覚悟した。首を締められ酸欠「星空の世界?」を見れて恍惚状態になってしまうが、それを期待しての変態の趣味はまだ?ない。
我が町は昔から漁業が盛んで、それに纏わるひとの出入りが多く繁栄を極めた。その業種は、商店ばかりではなく、娯楽の面でも数多くあって、遊興でも栄えた。そのなか芝居小屋は時代とともに映画舘になり時としてほかの興行を兼ねて営業したものだ。ストリップショーもそのひとつ。
漁業の街は繁栄を重ね遊興の場所は不夜城だった。今おもえば決して経済的に恵まれていたわけでもないが頑張れば、頑張っただけ楽しめた。
横丁の屯所の向かいに湊座はあった。
浜が時化(しけ)て漁に出れない日は漁師の一時の休養になる。魚の群れを追いかけ昼夜を問わず働く。チャンスを逃せば大きな銭を拾えない。そして板子一枚下は地獄の世界。何もかもが命懸け。明日の命を望むより、今生きている喜びをと、江戸っ子のセリフではないが「宵越しの銭は欲しくもない」とその気にさせてしまうのだ。
毎年、何隻かの遭難があり海神への人身御供(いけにえ)のように多くの漁師が死ぬ。明日はわが身と刹那的な感があった。
この頃、浦町、新地はまさしく生きていた。
漁があり、懐が温かい者はこちらへ繰り出すが、漁が外れの者もいる。外れは、街はずれの屋台の支那ソバ屋で酒を呑んでクダを巻くか3本立ての映画を観るかだが、この時代も銭の「分捕り合戦」だった。こんなシケた野郎からも財布の底まで掻きさらってしまおうとした興行師もいたものだ。
女の裸を見世物に高い入場料をとる。まあ、色街の座敷に揚ることからみれば代用食?までいかぬが馬鹿な男の欲情をかきたてるひとつの手段だ。
現代ではこんな岡場所もなくなり興奮できる場所はパチンコ屋にとって代わったようだ。進歩もなくみなINポか?(笑)
入場券はどうした?買ったのか?このガキ達。
現代では、ヌードショウーと呼ばれるが当時はストリップショーと呼ばれていた。 修の家では知り合いの興行師から度々映画や特別興行の入場券を貰うがそれを修は二枚掠めとってきた。
現代の価格にすれば映画舘の入場料の数倍にもなろうか?当然、子供料金はない。
でも、ふたりの悪ガキはどうしてそこへ入ることができたか? 十八歳未満入場お断り と大きく書いてある。まだ、五年早い。そのままの姿で入ろうとしたが子供こどもしていてバレた。「ダメ」と追い出されてしまったが好奇心の旺盛なふたりは、それで諦めるはずはない。
さあ、どうしようか?入場券のモギリのおばちゃんが交代するのを待った。「またの失敗を恐れて?」と考えた。
弘は中学生になったが成長が遅れて躰が小さい。クラスで並んだら前から2番目の背丈で口の悪い教師は「小学生が混じっている」と嘲笑する。未熟児でもなく、ましてや栄養不足でもないがこんなのもいるのが世の中だよ。ウドの大木と言う言葉も知らぬかこのセン公、ねずみだって噛むぞ。
一日四回の好演?がもう、最終回。諦めるのか、いやいや。
大人の恰好を作るのに大きなジャンパーに古新聞紙を丸めてアンコにする。躰を大きく見せる方法だが・・・・どうやら出来上がったのは貧弱な漁師風だが、まだ背丈は足りぬ、大きなゴム長ぐつの底に新聞紙の詰め物。なんと涙ぐましい努力だろう、ここに、小さな大人?ができあがった。
躰の大きな修は顔に炭を塗り手ぬぐいで頬かむりし軍手をはめて、ゴム合羽で完成?した。おお、どう見ても立派な大人の漁師だ。そりゃそうだ、小学生のころからイカ釣り船に乗っていたからなー、漁師は板についていた。
ここまで草した文字を眼にして「なんと貧困な」とおもうだろうが、此処の栄華な時代は現代の町並みや人を見ても、とても想像はつくまい。
新井田川を挟み商店の数々があり、そしてあらゆる業種があったものだ。
年を通じて何かにと漁がある。春は鰊船が北海道から生積みしてくる。他県船も数多く入港する。
季節の移り変わりにより揚る魚種も異なるが此処の沖には潮目と言う「宝の山」があった。イワシ、サバ、イカ、マグロ、タラ、キンキン、サガ、サメ、鰈などが大量に揚る。昔は鯨も獲れた。
北の魚の旨さに惹かれて九州あたりからの船団もくる。そのヤン衆(アイヌ語で倭人の悪の呼び名らしい)達から銭を奪いとるにはあの手この手、奥の手だ。
話しはまたどこかに曲っていった。戻そう。
まだ、十三歳のガキは成熟した女の裸を見ても興奮の種類はまた、別のものだろう。つい最近まで母親と風呂に一緒に入っていたのだから、それをちょっと思い出すほどではなかったろうか。
苦心?惨憺しやっと潜ったのがぎゅうぎゅう詰の野郎たちの世界、そのなかにガキが二人紛れ込んだ。薄暗いなかにキョトキョトと落ち着かず。目立たないわけがない。先生はそれを見てた。
現代のヌードショーとやらは初等性学科?を卒業して以来、学ぶ機会がなく知らぬが風の噂では品格もなにもなくなってしまった感がある。なにもかもモロ出しのようで人体解剖図?を想像してしまうようだ。あの時代はオケケは出てはダメとバタフライを貼りつけ、乳首さえそのままではダメと金銀の星型の切り抜きを貼っていた。「なーんだ、なんにも見るとこないんじゃん」と今の若者だったら言うだろう。「嗚呼なんと奥ゆかしい時代であったか」と口にしたら笑われるだろうか?
教壇に上げられた二人はすっかり仕置きを覚悟して戦国時代の武将の心境になった。首をさすりながら断首の覚悟。
先生、黙って黒板になにやら描き出した。白墨(いまではチョークと呼ぶが・)を色交えて鮮やかに、巧みだ。当然だ、美術が専門で絵画から版画、陶器製作、木工では八幡馬の製作まで学校教育にとりいれた。「このふたり、いい機会を作ってくれた」先生はニコニコとしている。
「?????なんで褒められるのか・・・?」
さっぱり分からん。
黒板の図をみてた級友「なんでぇ?コミヤってのは?」「すらねぇーでぁ」子供でもこれだけの数のなかには大人のような知識があるものもいる。
そんな奴は只ニヤニヤしているだけだ。「卵の巣て?なんのことでぇ?」「コーガンて●玉のこどが」教室は俄かにインスタントおとな?ができあがった。
戦後アメリカ式の性教育の執り入れを盛んに謳っていたが短期間で実現できなかったもののようである。図に→子宮とある。至急も特急も同じかとこんがらかっているのもいる。男の躰の構造、女の躰の仕組み、精神性、ホルモンから病気の果てまで・・・延々と二時間もかけ、いわゆる性教育が始まったものだ。
好奇心の一番旺盛な成長期に、しかもいきなりである。一種のカルチャーショックだったろう。
別世界が開けたものもいれば、もう知り尽くしていると自認しているマセたものもいた。
昔は知識が遅れてこれほどのものか?と言うなかれ、聞いた話しだが大先輩には豪傑がいた。尋常小学校の五、六年生だったが毎日の通学路は遊郭街の真中を抜ける。キッカケは知らぬが途中の遊女と抜き差し?のできる(できないはあるが)仲になってしまった。「サツマノカミ」ただのりだ。ほぼ毎日、学校教育以前の課外授業を受けていた訳だ。少し早い時差登校だ。「羨ましい」と言うなかれ、“花は早く咲けば早く散る”このモサは成人して間もなく人生も卒業したと。嘘のような本当もあるもんだ。いやー話しが逸れた。
現代のヌードショーはすっかり様代わり 解禁、解禁といってどこまで行くのか行ったのか?
知らぬことである。大人の男たちの興奮を誘う立て看板を目にしても中学一年生の時に女の裸を見る学校?を卒業した昔の悪ガキは立ち止まることもなく無表情で通りすぎる。古稀のすぎた老爺のささやかでちょっぴり苦味のある想い出のひとこまである。 完
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