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2007年9月1日土曜日

八戸自動車史 完結

八戸市がバス事業買い取りで岩淵氏から訴えられた事件を奥南新報から掲載
バスにからむ岩淵氏の訴訟
工藤前保安課長も調べらる
八戸市を相手に岩淵栄助氏が提起していた市営バスに絡んだ訴訟の路線権利確認訴訟第二回口頭弁論は二十二日午前十一時から猪瀬裁判長、熊谷、中園両判事陪席、原告側気仙、被告側大野両弁護士担当のもとに開廷、原告側申請の上杉修氏、藤波市庶務課員、被告側申請の工藤前保安課長、現警務課長、藤田市議、吉田前八戸自動車営業組合長等の証人調べに入った。
上杉氏 市に路線権利譲渡するに三万二千五百円で譲渡したが配当額は路線によってなされるため従って岩淵氏のも八戸鮫間の配当であって八戸湊間は加わっていない
藤波氏 八戸鮫間のみで八戸湊間は必要ないというので契約書に記入しなかっただけである
といずれも岩淵氏に有利な答弁をなし工藤、蒔田、吉田の三氏もそれぞれ調べ同四十分証人調べを終了、原告側では次回証人として宮崎、蒔田、吉田の三氏を申請、被告側は神田市長と小笠原八十美氏を申請したが合議の結果証人申請は却下され結審となった。
昭和九年七月二十八日付け、奥南新報
バス問題和解
三千円で自動車買い
宮城控訴院の第二審で係争中であった市営バスに絡む市内八日町岩淵栄助対被告八戸市の路線確認訴訟の調停に小笠原県議が乗り出して二十三日の晩鮫の石田屋に三者が膝を交えて折衝を重ねた結果、市が岩淵氏所有の自動車一台を三千円で購入する事、岩淵は市内における自動車営業権を全部放棄する事、訴訟費用は各自負担する事で急転直下和解の成立をみた。
県議の小笠原はバス事業で乗合馬車を糾合し、敵対する先鋒、本多を抱きこみ十和田の新聞社主に抜擢し骨抜きにする。小笠原は策士だった。
第二次世界大戦による日本経済界、産業界の疲弊は交通の面にも著しくあらわれていた。元来は戦時体制の政策によって行なわれた企業統合だったはずの陸運界も戦後しばらくの間は容易に立ち直れなかった。 やがて三年を経、四年を遇ぎる頃には、最も素早く立ち上ったのは自動車業界であったのは言をまたない。八戸市の自動車事業も再び勢いをもりかえし、みるみる戦前にまさる隆盛を示すに至る。
○統合解体はじまる
 かつての統合体は昭和二十四年から昭和二十五年にかけて陸続と解体する。先駈をなしたのはトラック業者で、まず、昭和二十二年六月、南部貨物自動車株式会社は、第一次統合当時の復元を帰して六ブロックにわけ、それぞれ営業所として発足させ、独立採算の原則をとることとなった。
 次いで昭和二十四年二月、戦時企業解体特別処置法の施行によって、六ブロックの営業所をそれぞれ一、三戸トラック株式会社二、八戸トラック株式会社三、三八五貨物自動車株式会社四、中央トラック株式会社五、漁港トラック株式社六、五戸トラック株式会社として申請したが、結局、一、二、三の三社に営業免許がおり、四、五、六の三社は従前通り南部貨物自動車株式会社として存続するに至った。
 一方、タクシー事業は昭和二十五年に至って、八戸自動車株式会社から藤金タクシーがまず分離独立し、藤金タクシー所属分を除いてそのまま存続することになった。このころ、都タクシー、大洋タクシーも発足している。なお市営バスは、昭和二十四年、営業を返還されるや、旧に復する態勢となる。
○新規業者の台頭
 戦争終了直後の混乱期を乗り切った日本の産業経済は驚くべき復興の足跡をしめした。人間と貨物の輸送は鉄道の独り舞台ではなくなり、自動車交通が大きくクローズアップされるや、道路の整備と相まって自動車事業はまたたくまに発展した。市営バスの路線は拡大され、本数もいちじるしく増加し、さらに南部鉄道バスの乗り入れをもってしても、なお利用者の増加に及ばぬ始末であった。昭和二十七年には県南バスも発足、翌々二十九年には三八五交通株式会社と発展、また十和田電鉄バスも乗り入れ、現在は、八戸市交通部、    南部鉄道株式会社、三八五交通株式会社、十和田電鉄株式会社の四社を数えている。
 タクシー業者は、ことに業者の数が増し、都タクシーが三八五タクシーに発展、前記の大洋、藤金に加えてポスト、光、文化と、昭和二十七、八年の二年間に新規業者が営業を開始し、やや乱立気味であった。基本料金を八○円に下げるなど一時的な苦境もあったが、漸時利用者の増加に伴って比較的順調な営業をなしえるようになっている。なお前述の八戸自動車株式会社は、昭和三十年に八戸タクシーと改称している。
 トラック業者は、年次ややおくればせながらも、八戸の新工業都市の青写真とともに北斗、丸元、相互、八戸港運輸、島谷部乳業、湊合同、八戸運送、八戸相互運送等、とくに昭和三十年以降、急激な増加を示している。
あとがき 上杉修
 「八戸市自動車研究会」は今度「八戸地方の自動車史」を編纂した事は非常に喜ばしい事であります。数年前から、よりより話は出て居ったが、御互に多忙の身の方々ばかりである関係と、自動車創業時代の方で不幸にも亡くなられた方も多いので、当時の話及び資料にも乏しく、編纂の主軸となった、泉山信一氏の苦労も並大抵の苦労ではなかった事と思われます。然しなんと言っても大綱が出来上った事は喜ばしい、正しいとか、完全だとは云われないが、一本の柱が出来れば、それによって附記も出来れば脱漏も補う事が出来るから八戸の自動車界のため良い事業をやって下さって非常に有難い事だと思って居ります。「ああよい事をして呉れた」と肩の荷がおりたような感じをしたのは筆者の上杉であります。「私が警視庁の甲種免許証を取って八戸に帰り、世話する人があって盛岡の夕顔瀬多賀で使用して居った、フオード自動車リムジン型(箱型)中古車を買い、自動車運輸営業願を青森県庁に出願して許可になり営業したのが八戸タクシー界の始まりで「青五号」であった。小中野浦町、藤金様の店頭を借り電話「二六番」を使用させて戴いた。一ケ年後には新車一台買う位貯った。何にせ所得税もなく自動車は一ケ年一台につき幾らと云う「営業税」を納めるだけの時代だから割に成績がよかった。自動車に来る客は一時間位は待っても呉れたし、又持たせられもした時代だから楽なものであった。其の後急に貸切自動車を出願する人が出来て、藤金様を始めとして続々許可になった、木炭や野菜を積むトラックが乗り入れて来て八戸でも許可を取る人がおり、其の後に乗り合い自動車組合が組織されて八戸鮫間が運転されたのです。順序が不同になりますが、八戸に自動車が来る前の事を考えて見ますと、何にせ、八戸と云う所は海を利用し汽船で沢山の荷物が陸上げされたが、船では日数がかかるので困った様でした。日本鉄道株式会社が鉄道を八戸へ乗り入れに地元の人が協力しなかったため明治二十四年八戸を通らずに尻内から青森へと敷かれてしまった。東京からの物資は尻内駅止りで、大八車、駄馬や二輪馬車で八戸へ運ばれ、後で四輪馬車で持込まれたが、その不便さを感じ文化に後れると云う事を、まざまざと見せつけられたのです。それで八戸町や小中野村の有志が運動して明治二十六年に尻内訳より分岐して八戸支線が湊駅(今の貨物駅)迄で延びた事になります。駅からの荷上げのため荷車や、荷馬車がたくさん入り又車大工を業とする人も出来たものです。あの店には荷車が参台もあると云うたものです。又人を乗せる人力車が沢山買われ、汽車の到着ごとに駅前に沢山並んだものでした。当時は金輪のため、ガラガラと音をたて、ゴム輪になり、空気入のタイヤーに変わり各町内の辻々に車宿があったものです。
客馬車(ガタ馬車)が長横町から左比代の馬車屋(停留場)迄で相当台数走っておった。御者がラツパを吹きながら馬の手綱を持ち、馬丁が馬の先にたって走った時代もあった。高等馬車が入って来たのは相当後の事になります。私が自動車を始めた頃は馬車馬が驚いて困った。又、馬車が二台並んで道路を塞ぎノロノロ走るものだから其の後について八戸町から小中野村迄行った事もある。今は其の人力車もガタ馬車も高等馬車も姿を消してしまった。私のハイヤー営業も古いと云うだけで良い種も蒔かず、何等意義ある事も出来ず功績も残って居りません。やはり馬車同様消えて無くなる運命の様です。私の自動車業に御手伝下さった方々は沢山あるが、現在地元に居る方では、自動車界の大先輩で浮木喜四郎氏、八戸マツダ社長二本柳栄吉氏等で、大洋タクシー社長須藤清氏は子飼の弟子であると云う位の所です。
ハイヤーの外に市内の乗合もやって居ったが、神田市長時代、細長い八戸市を縮めたい、との話で昭和七年乗合自動車の権利を八戸市に譲渡し、同時にハイヤーも廃業し昭和八年に番町に公衆浴場を開業して自動車界から足を洗った事になるが、然し種々の縁故でいまもって青森マツダ自動車株式会社監査役、藤金自動車株式会社専務取締役と云う名誉職が残って居るから未だ生きて居る事になるかもしれない。雲助(駕罷かき・運転手)が三助(湯屋)に早変りしたが今は八戸浴場組合長、亀の湯主人で業界からは達ざかってしまった。自動車史を作って戴いて、有難くて有難くて、八戸の自動車界を振り返って見る積りであったが、自分の事のみ述べて手前味噌を書いてしまった。此れで筆をおきます。

2007年8月1日水曜日

八戸自動車史 3

○市営バスの発足
 八戸市内の乗合自動車業も隆昌に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗合の各業者への営業権譲渡方の話し会いが持込まれた。このころ乗合業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の路線をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権 を市営バスに譲渡した。
 市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
 市営バスの経営には、市側からは室岡氏があた  り、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備面担当者として迎えた。
 市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。
編集部注釈
前ページの広告は昭和七年奥南新報のもの
八戸~剣吉間に乗合自動車があった。
八戸市は乗合自動車業を開始すると、直ぐに営業利益を上げる。
上の記事がそれ。八戸市も優秀な頭脳を抱えていたものだ。市民の利便を考えると業者を一本化する必要がある。さらに、自身で営業しようと考えるあたりが鋭い。神田重雄恐るべし。
○トラック業、タクシー業急増
 市営バスの発足によって乗合自動車は一本化し、八戸市の公益事業となったが、トラックとタクシーの業者はその頃から急激に増加する傾向をみせた。
 乗合馬車は姿をかくし、荷馬車の数も急激に滅少し、今や自動車にとって代られようとしていた。
 トラック業では前記の目時、島谷部、栗本三氏の他に、宮沢氏、柳町氏、藤田氏、左館氏、川端氏、須藤氏、長岡氏、角金氏、北城氏、松坂氏、足立氏など、昭和十年代までに陸続として営業を始めている。
 タクシー業は、それにもまさる盛況であった。相馬屋、藤金、大江、角田、橋本、ふじゃ、中屋、安全、葵、キング、東洋、ダイケイ、日の出、平和、村井(長横町)、村井(大工町)など十指にあまる業者が車を走らせた。もちろん、平和、村井(長横町)村井(大工町)、橋本、東洋などのように、短期問の営業で終ったと思われるものも ある。
相馬屋、藤金は前にもふれたが、相馬屋は鮫を、藤金は小中野を本拠としており、藤金はトラック業も兼ねていたものである。
 中屋は前記清川氏(前姓庭田)が経営、六日町で営業、角田氏も鮫方面に車庫をもっていた。その他、ふじやは現在の八日町明治薬局の近隣で、葵は吉田屋から矢倉氏に経営が交替しているし、大江は現八戸タクシー社長大江氏の個人営業当時のもの、キングは三浦氏の営業、ダイケイは十六日町で営業、日の出も同じく十六日町で田名部稲蔵氏の営業したものである。東洋は世界公園の八戸引き上げの場所に阿部氏が営業していたが間もなく廃業している。また、八戸市最初の女性運転手阿部ちか枝さんは二八年型シボレーで営業していたという。この二八年型シボレーは従来の車輛から著しく改良された、現今の乗用車に大分近い構造の自動車であった。
 筆は前後するが、バスの車体が現在見られるような箱型(当時は電車型とも云った)になったのは、我が国では関東大震災後、壊滅した東京の交通網をたて直すため、東京市会で決議して、フオード会社へ特注した四十四両の十一人乗りの自動車が最初である。
このバスは、いわゆる「青バス」で有名なとおり外装を青く塗りたてたものであった。
 この同型は昭和初期、藤金、宮沢、橋本氏などによって八戸にも入れられたが、外装は赤く直してあったという。いうなれば八戸のバスは「赤バス」であったわけである。現在の交通法規からいって、恐らく、見ることのできぬバスの色だったわけである。
○持たざる国のなやみ
 前章にみるように、着々と自動車業者の数が増し、交通政策上大きな転換が要求されはじめ、昭和六年「自動車交通事業法」が布かれたり、国営バスの台頭と路線拡大、トラック、タクシー常の.需要増大の時流も、国際間の緊迫した状勢の前にいかんともしがたいものがあった。
 昭和十二年七月七日、あの日華戦争(当時は支那事変と呼んだ)の口火を切って芦溝橋事件が勃発するや、国をあげて戦時の体制を取りはじめた。この年「輸出入品等に対する臨時措置に関する法律」と「臨時資金調達法」の公布をみ、新規事業が制限され、さらに翌昭和十三年四月には「国家総動員法」が公布され、同年六月には物価統制が行われはじめた。ガソリンの自発的節約が指示され、自動車事業には早くも暗雲の片々をのぞかせた観がある。
 やがて戦力増強のもとに、軍需物資の輸送が優先され、遂には物資移動の統制令が出されるに至って、トラック業を除いては漸やく営業不振のきざしをみせ出した。外車の輸入が禁じられ、国産車は軍が優先して使用するところとなり、民間における実働車両は減少する一方となった。
 昭和十六年八月、かの画期的な液体然料の使用禁止をうたった「石油消費規正」が出され、ここに代用燃料車の登場となった。
 この年十二月八日には、太平洋戦争に突入した。だが戦争による輸送力の増強はさらに多くの車輛を必要とした。
 こうした国際関係と国内事情の逼迫が自動車事業の統合を促がす機運となり、当局の指令によって次々に事業の統合がなされてゆくことになった。
 一本化されてあった八戸市営バスは、昭和十七年、八戸市内に乗り入れた十和田鉄道株式会社に南部乗合自動車、八戸乗合自動車が譲渡し、一社に統一された。ただし八戸乗合自動車の久慈~大野間は岩手県北自動車会社へ譲渡している。また、八戸地方では五戸鉄道株式会社と十和田鉄道株式会社が併置された全国でも稀れな二社共存の地域であった。
 なお、この八戸乗合自動車株式会社は前記、市営バスを中心とした改組の名称ではないかと思われるが、この間の消息は未詳である。
 かくして、「持たざる国の悩み」は自動車営業者にとって、正に暗黒時代を現出せしめたのである。
○トラック、タクシーの統合
 時代の波は容赦なく隅々まで巻きこまずにはいない。先述のバスの統合にさきがけてまずトラック業者に対する「第一次自動車運送事業統合要綱」が発表されたのは昭和十五年九月のことであった。八戸でも、要綱に従って統合が行なわれた。
 八戸市内を三地域にわけた。ひとつは目時氏、島谷部氏、柳町氏、角金氏、北城氏、それに三浦氏、南部木材(工藤氏)で有限会社八戸トラックを設置、島谷部氏の管掌場所を本拠にした。またひとつは小中野方面の藤金自動車貨物部を本拠として、藤田氏、宮沢氏、左館氏、栗本氏、須藤氏、長岡氏、川端氏等が八戸中央トラック株式会社を設置、さらにひとつは鮫魚港関係の松坂氏、足立氏に魚市場の西野氏、熊谷氏によって八戸漁港トラック株式会社が設置されたのである。
 昭和十七年には「第二次統合」が指令され、八戸市内の前記三社に穂積トラックが編入され、五戸貨物自動車有限会社、三戸貨物自動車有限会社等を統合して、南部貨物自動車株式会社の新設をみたのである。社長に熊谷義雄氏が就任した。
 またタクシー業者も、昭和十五年九月には八戸市内十二の業者が統合し八戸自動車株式会社を設立した。業者名は、相島屋、安全、葵、大江、キング、ふじや、中屋、ダイケイ、藤金、橋本、日の出、シユウリン?(阿部ちか枝氏営業)の十二社である。車輛の総数は二七台。社長に大江石蔵氏が就任、十八日町で、同年十二月二十四日から営業を開始した。
 自動車の代燃化は、主として薪、木炭であり、他に天然ガス、石炭ガス、アセチレンガス、液化ガス(プロバン)、アルコール、メタノール、ポンゾール、あるいは石炭、コートライト等も用いられたが、八戸地方では木炭、薪の供給源に近いため、ほとんど木炭と薪を使用した。が逐年、この木炭、薪も手に入りにくくなり、自動車営業は、燃料の確保に追われる始末であった。その上に、戦争の状態悪化にともなって、民間に対する車両の割り当てが杜絶するようになると、現有車輛の傷み方もはなはだしくなり、実働車輛は目に見えて少なくなっていった。
 こうした民間の自動車営業者統合の段階から、さらに荷馬車をもひっくるめた半官半民の八戸通運株式会社が、昭和十八手四月に設立され、戦局もいよいよ急を告げるようになった。
 昭和二十年八月十五日、日本国民は未曽有の敗戦を喫し、新生日本を世界に誓って、連合軍の占領時代を迎える。しかし、戦争に打ちひしがれて国力の衰えた日本国民の経済力をもってしては、痛手の大きさをいかんともしがたく、終戦後の数年間は統制時代そのままの企業形態で存続させるより仕方がなかったのである。

2007年7月1日日曜日

八戸自動車史 2

O八戸から久慈まで自動車は行く
 営業路線の許可を得た岩淵氏は、早速、常盤商会を速してリパブリック箱型(または電車型とも呼び現在のバスと同様の型)を購入した。渡辺という運転手も付いてきた。
 そのころの一日、この渡辺運転手の助手台に乗せてもらって久慈まで行った上杉氏の談話をまとめてみる。
 この車は、なんとブレーキがきかず、スピードを落してゆるやかに止める程度であったが渡辺運転手はひどく慣れたものだった。この渡辺運転手のスタイルは、前に東京でどこかのおかかえ運転手だったといい、八字ヒゲを貯え、袴を着用し、麻裏草履をはいて出るといういでたちである。
 まず久慈行の客を扱う旅館に前夜、出立を告げ、客の有無をきいておく。
 翌朝、客のある旅館をひとまわりして、朝九時頃に八戸を出発、鍛治町、吹上を通ると通りすがりの旅館で、久慈行の客があれば赤い旗を軒先に立てていて、その客をも集めて一路中居林から十日市、田代へと向う。
 田代へ着くと小休止となり、ラジヱーターの水を抜き、冷水にかえる。旅客とともにそばを食べてから出かけることになる。この田代の出口から大道口と呼ばれる県境までが、最大の難関である。道路は深くえぐられ、とても自動車の通れるようなところではない。従って自動車には必らず、モッタ、スコップ、バケツ、ロープが用意されてあって、動けなくなると来客に降りてもらって、モッタ、スコップで路をつくり、路の両側の畑の高い所をロープを引いて歩いてもらうことになる。また大野の村の農家では自動車に会ってもこわがらない馬を用意して来ていて、この自動車を引っぱってくれたものである。太って力のある馬を自動車の通る頃にはいつでも用意しておいたという。この引っばり賃は、当時の馬車の駄賃の一週間分であったから大野の村の農家ではすすんで用意するようになっていた。こうした難行苦行の末、漸やく大野の村に入ると昼休みになり、乗客は思い思いにくつろぎ、運転手と助手はガソリンを給し、オイルを見てまわり、エンジンを冷す。
 午後の二時か三時になって、自動車は再び走り出す。熊の沢のダラダラ坂を下って、ニツ谷を経て久慈湊に着く。久慈湊で小休止して乗客は乱れた服装をつくろって、いよいよ久慈に入る。もう日暮れになっている。
 こうした悪落と長距離の事業では自動車の車体そのものの傷みのはなはだしかったのも無理はない。しかし、この事業は有志の努力と熱意によって自動車事業に光明をもたらし、草創期を脱したきっかけを与えたといってよい。
○上杉自動車部のこと
 岩淵氏の八戸・久慈間の乗合事業は遠距離区間の営業であったが、やがて一九一二年 (大正十一年)上杉修氏が小中野で自動車部を創設した。藤田金五郎氏宅に居住し、同宅の電話を借り、まだ若かった上杉氏の後見として会計は藤田金五郎氏があずかり、営業をはじめた。これが図に当り、一年経って、丁度自動車一台分の黒字になっていた。
これで自信満々とした上杉氏は、自動車を一年に一台ずつ増やすことにより、経費の欠損を防ぐとともに事業の存続に意をそそぐことにした。
 この計画がまた適切だったのであろう。一年一台ずつの増車は見事に果され、営業は順調に継続されていった。
 一年乗りまわした自動車は、すっかり痛んでしまうわけではなかったが、修理に多大の労力と出費を覚悟せねばならず、かえって営業の衰退に及ぶを恐れたからである。
 一年後、上杉氏は音喜多旅館に移転し、藤田金五郎氏の手からはなれ、完全な独立独歩の体制をとり、第一次発展期の最初の烽火(のろし)を打ちあげたのである。
○乗合業者の組合結成
 上杉自動車部の成功は多かれ少なかれ、自動車事業に関心を奇せていた人々を動かしはじめたようである。
 上杉自動車部創設の翌一九一三(大正十二年)藤田金五郎氏が吉田三郎兵衛氏名儀で自動車営業をはじめており、一方、自動車に対する人々の恐怖と危険感が薄らぐにつれて、この文明の利器を利用する人も増加しはじめていた。馬車の能力と比較にならぬ面が押し出されていて、やがて来る自動車時代を予知せしめるに十分だった。
 やがて、鮫の荷馬車業、相馬屋、角田一雄氏、庭田佐太郎氏も営業をはじめた。
 これら乗り合い営業権をもつ業者が「八戸乗り合い自動車営業組合」を結成した。
メンバーは吉田三郎兵衛、岩淵栄助、角田一雄、庭田佐太郎、小笠原八十美、相馬徳松、上杉修の七名であった。
 小笠原八十美氏の名前が見えるが、大正十四年二月一日現在で国鉄当局が国鉄各駅に起終点を有するバス事業の実態調査を行った資料をみると、小笠原八十美、阿部五兵衛の連名で八戸~久慈間を営業していたもようである。また、すでに大正末年であるか、昭和に入ってからであるか釈然としないが、氏が三本木で経営していた「世界公園」の支店のような形で、八戸にも同名「世界公園」の名称で貸切業をしていた。
 ともかくこのメンバーは八戸の大正末年における乗り合い業者の主要なものであっただろう。
 この組合の業者は八戸市内の路線及び駅構内営業権を順番に行使していたもようであるが、組合そのものは営業上の規制も格別に有するものでなく、大正十四年五月十六日の会合では、岩淵、相馬、上杉の三氏だけの加入になっている。のち小笠原氏が加入したのみである。
 他に大正十三年頃、田中タケシ氏が一持経営したらしいが詳かにしない。
 昭和に入ると業者はさらに増加する。
 市川氏、宮沢氏、梅本氏等があげられる。
 市川氏は八戸~尻内間を、梅本氏は八戸~新井田間を運行した。宮沢氏については不分明ではあるが市内路線であったらしい。
 勿論この頃は乗合、貸切の車別はなく、またトラックも兼業の業者もあり、いささか未分の態ではあったが、乗合、貸切ともに現在の乗用車を用いたもので停留所から停留所まで一定料金を徴収して走るのが乗り合い自動車であり、特定の注文によって走るのが貸切だったわけである。
○トラック業のさきがけ、目時千太郎氏 
乗合貸切自動車業の隆盛のさなかに、大正十五年十月二十九日付で、目時千太郎氏に貸切貸物自動車営業の許可がおりた。
 目時氏は当時を回想していう。そのころ、三戸方面(諏訪平)から毎朝野菜市場に人と野菜をどっさり運んでくるトラックがあった。丸の中に七の標識が威勢よく乗り込む姿を見てすごく便利なものもあるものだと、いつでも感心してながめていた。
目時家は代々、荷馬車業をやり三年ほど前には(大正十二年頃)逓送さえしたものであった。荷物は主として岩手県大野、久慈方面へ行く、塩、米、酒などと大野、久慈方面から来る木炭輸送で八戸~田代間を一日一往復するのみであった。この荷馬車の量と速度とトラックのそれを想像してみるとき、歴然とした差を感じないわけにはゆかない。青物市場に停車中のトラックの側へ行き、目時氏はしばしみつめたものだという。やがて、意を決した目時氏は、トラックも使用して営業することにし、購入した。かくして大正十五年十月二十九日、貸切貨物自動車運輸の許可がおり、営業のはこびとなったものである。
 某氏の記憶によれば、目時氏の貨物自動車は、藤金自動車部で貨物運送用として購入したけれども荷物の集積が思わしくなく間もなく廃した、その折に譲渡された、と伝えている。
 こうしてトラックを用意した目時氏の事業は、八戸~田代間の往復から、さらに岩手県大野村へ、そして岩手県乗入れの許可を得るや九戸郡一円に及んだ。当時の貨物運送の料金は一・五㌧につき一円五十銭であった。
 やがて目時氏に続いて、昭和二、三年頃から鳥谷部氏が六日町で、八戸~三本本間の管業を開始、前後して栗本氏も十一日町で、八戸~軽米間の営業を、また鮫方面では榎本氏が開業している。
○市営バスの発足
 八戸市内の乗り合い自動車業も隆盛に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗り合いの各業者への営業権譲渡方の話し合いが持込まれた。このころ乗り合い業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟(きし・はたとのぼり。はたじるし)と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の権利をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権を市営バスに譲渡した。
 市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
 市営バスの経営には、市側からは室岡氏があたり、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備担当者として迎えた。
 市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。

八戸自動車史と八戸市営バスを考える 1

本を漫然と読んでいると気づかないことも、えっ、どうしてだろうと思うと次々に調べたくなるもの。自動車史の2を入力していて、八戸市営バスにつながることを知らされた。
つまり、現今では大赤字に悩んでいる市営バスを、かくなる事態が生ずるとも思わずに、市民の利便性を考えて、八戸にバス事業が必要だと、昭和六年ごろから検討。神田市長の頃。
市制は昭和四年からで、ほとんど直ぐにバス事業を開始したことになる。市民の足の確保は重要事項だった。
八戸自動車史でもわかるように、乗客の区分として、乗り合いバスと貸切自動車、つまりタクシーとに分類される。八戸市営バスは勿論乗り合い。
この乗り合いの権利を上杉修氏等から買い上げる。その辺を調べようと「八戸市議会史」を開いてみた。
すると昭和五年第五回定例会(十一月二十五日)
失業救済商港埋立と自動車経営に次の一文あり。
世界的不況が地方の八戸銀行の休業等にまで波及した。そのため八戸港を商港として埋立の計画をすることでその事業によって失業者の救済に当てようとするものである」との提案理由をのべた。
これに対して、大久保弥三郎議員は「埋立工事は拡張によるものだというが、三五万円の公債を五年間すえ置一五年償還とすれば、利子支払いがかなりのものになる、現在以上の公債は市民を苦しめるものではないか」との反対意見をのべた。これに答えて神田市長は「埋立によって漁港商港として発展する見通しである」と答えた。
これは実に面白い。というのは戦後間もなく八戸市が倒産し、財政再建団体に陥るもとがこれ。大久保弥三郎も卓見、また、神田もこれが新産都市のもとになるため、これまた間違いがなかった。
採決の結果拡立者多数で原案通り可決確立した。
 これに続いて、第三六号の乗合自動車経営の件の審議に入り、神田市長は
「本案は、買収交渉と路線の認可を受ける都合上上提したので、具体的な予算等については、明年度予算会議のときに、市財政に計上しうるようであれば改めて決議を願いたい。また、それ以前に計上の目安がつけば、市是調査会等に諮るつもりである」
と提案理由を述べた。
 これに対して理由書と区間賃金表とが配布されたが収支予算表が添付されていなかったため、大久保弥三郎議員は「資本関係及び現在の経営者との関係を詳細にしないのは抽象的すぎる。また、実施するとしたらその収支はどういう予定になっているのか。乗合馬車、営業自動車が利用されている現在時期尚早ではないか」との意見を提出した。神田市長は「資金関係や詳細な数字は、明年度予算に計上出来た場合、その席で御決議願いたい」と答弁した。
 なお承認となった市営自動車業計画書の概要は、市内を四区として一区五銭の乗車賃とす。運転する車数は七台で購入金の二一○○○円は年賦式とする。基点を新荒町、八戸駅両所に置く。等であった。
次に出るのは昭和七年第四回定例会。
仮契約までに至った。なお本件は本契約締結ならびに準備のため急を要するとし、急施案件として、ここで遠山議長は、市長から追加提出された、急施第一二号の自動車買収に関する件の付議を宣告した。
まず神田市長は「本案については一昨年市会で協賛を得て以来、市内の乗合自動車営業者と買収の交渉を繰返してきたが、過般、このために定められた委員と協議の結果、県保安課長の斡旋によってここに提出した」と説明を述べ、市民交通の便宜を図りまた市の繁栄にも通ずることを力説した。これに対して大久保弥三郎議員は、本案は何等急施を要するものではないと反論さらに、予算を伴わない本案件は議案として不適当であるとして、撤回を要求した。神田市長は同議員に答えて「本来ならば議会招集の際に通告すべき処ながら、出張中のためそれが出来なかった。急施としたのは、仮契約から本契約に進む関係上からであり、予算の件は十月の営業開始以前に審議を願いたい」と述べた。しかし同議員は「本案については五年度の市会で、六年度には予算を計上すると言明しておきながら、六年度にも七年度にも計上されていない。二三、五〇〇円という大金をこの窮迫した市の財政からいかに捻出するかという点が不明である以上、賛成はできない」と、あくまでも予算提出を要求、さらに「乗合馬車業者の失業対策はどうなっているのか」等、とうとうと長広舌をふるって反対した。
次いで西村菊次郎議員が立ち「だいたい大久保(弥)議員と同意見である、乗合馬車から市営自動車に推移していくのは時代の流れで、むしろ当然である。しかし、この買収案を急施として提出した裏には、何んらかの事情があるのではないか。また本案について、なぜ、営業権、自動車価格等の金額をそれぞれ別個に明記していないのか。さらに、失業補償は馬車業者にこそ支払うべきであり、これを新たに追加することを提案したい」と意見を述べた。神田市長は答えて「買収については、かねてから選出されている委員が折衝した結果である。また、予算はたしかに付議すべきであったが、前述した事情の通りである買収という形ではなく、新たに権利を取るとの意見については、鉄道省の管理に属しその手続は困難であり、現在の乗合自動車業者を買収することが、県および鉄道省の一致した意向である」と述べたが、同議員はさらに、現在七人の業者が営業権を持っているが、うち一人分だけを買収して市営としてはどうかと意見を述べたが、市長は不可能であると答えた、この後、西村、大久保(弥)両議員が反対意見をなおも繰返したが、遠山議長は四日間休憩し七月四日に、再び本会議を開く旨を宣告、五時五分に散会となった。
市営自動車買収案決定
 自動車買収案を審議する市会の休会明け会議は、予定通り七月四日に開会された。
 議長ならび副議長欠席のため、最年長議員である近藤岩太郎議員が、金沢慶蔵議員を仮議長に指名し満場異議なくこれを認めて審議に入った。
 会議に先立ち金沢仮議長は議決第一八号の昭和七年度八戸市歳入歳出追加予算と同一九号の八戸市営乗合自動車乗車料条例認定の件が市長から追加提案となっている旨、また六月二九日に急施案件として提出された急施第四号の乗合自動車買収に開する件については、日数を経ているため普通案件とすること以上を報告、さらに「第四号実は論が尽きたと思われるので」と、ただちに採決に入る旨を宣告した。
 しかし大久保万吉議員は市長に対して、改めてこの場で言明頂きたいと、従来の運転手をそのまま市営自動車に採用する件について確認を求め、市長は「本人の希望があれば採用する」と答えた。
 また大久保弥三郎議員は「現在七台の自動車のうち二台は廃棄されているのに、七台を買収するということはどういう事情であるのか」と市長に詰め寄り、さらに失業補償を支出する理由、その支払期日の協定の可否等を訥々と問いただし、仮契約書の提案を要求した。神田市長はこれに対して「交渉当初は七台であったためそのまま話を進めた。ついては、権利は営業権と一緒であり車体と合せて二五、〇〇〇円、失業補償費二、〇〇〇円の支払期日は七・八月とし、以上は保安課長の仲介の許に協定したものである。なお仮契約書は調印が未済であるためまだ提出できない」と答弁した。同議員は「仮契約成立以前に市会に提案するのは納得できない」としつこく食い下がり、神田市長は、「学校建築の場合も決議後に契約している」と説明した。しかし「入札によって契約者を決定する学校建築と本件とは違う問題である」として、仮契約の承認を市会に求めるべきだとする同議員の自説をまげず食いさがったが、神田市長は「本案は仮契約書の承認ではなく買収の議案である」とこれをつっぱねた。
 ここで浪打石丸議員が立ち「本件はすでに市会で決議され、委員を設けて交渉した結果仮契約をなすまでに至っているのだから、本市会の議決を経て、取急ぎ準備しなければならない、すみやかに可決すべきである」と発言すると異議なしの声が統いた。
 しかし西村菊次郎議員は、客馬者営業者に対する具体的な救済方法について発言し、さらに「七台の自動車のうち二台は廃棄になっているのだから買収価格を二、〇〇〇乃至二、五〇〇円に減額修正すべきである」と主張。これについて神田市長は「客馬車営業者に対する件は後刻協議願いたい」とだけ答えた。
 次に再び大久保(弥)議員が立ち、仮契約書の提出を要求、さらに廃棄処分の自動車を含めて七台とすることは市会を欺くことだと決めつけた。しかし神田市長は「欺くつもりならば七台のうち二台廃棄とは書かない」と逆襲し、委員と仲介者立合の許に公明に協定された点を強調した。続いて、浪打、石橋要吉、高谷金五郎、以上三議員が採決を要求した。
議決第一九号の八戸市営自動車乗車料条例認定の件を付議、西村議員は「市長は客馬車は併立できると考えているようだが」と前置きして「市営自動車料が、八戸、小中野間一〇銭とすれば、当然客馬車業者が圧迫されることになる。この点の救護策を伺いたい」と、時代の変遷によって落伍していかざるをえない業者への救援を力説、神田市長は「市営自動車の実現は、すでに二年間にわたる懸案であり、客馬車業者もそれなりに考えていると思う。しかし実際に直面してみなければその対処も困難であり、後刻充分に協議したい」と述べた。また同議員は、鮫および湊の工業地帯に通う労働者の乗車料金の問題を取上げ「往復切符を発売するなど、市長の配慮を促し、神田市長は「この場合は第八条に定めた(臨時の場合)として取扱う考えで、諸事情はあるにしろ五割以内の割引を考えている」と答弁した。
 ここで時間延長が宣告されたのに続いて、木村芳美議員は「本案はすでに決定した買収案および予算に付帯するものであるから、原案に賛成する」とのべ、金沢仮議長は「本案第六条に対しての大久保(弥)議員の修正意見には賛成がなく、全議員賛成と認めて、原案通り決定する」と宣告、満場異議なくこれを認めて閉会となった。
この新聞記事を探した。
昭和五年奥南新報から
乗合自動車市営は現営業者を路頭に迷わせる
この経営は我々に一任して欲しいと
一昨日八日市役所に陳情
市の交通利便を得んがため過般の市会において乗合自動車経営を決議したことは既報の通りであるが右に関し現在経営している乗合自動車業者は斯く市営を以ってせらるるに於いては全く自分等の職業を奪われることとなりこれから路頭に迷うものであると業者間で寄り集まり協議中であったが、同業者吉田三郎兵衛、岩淵栄助、小笠原八十美、藤田金五郎、宮沢芳蔵、市川文丸の七氏は八日午後三時市役所に神田市長を訪問し該問題に関して陳情書を提出した。内容は市営をもってせらるると全く路頭に迷う。市が之を経営せんとする目的は営業者に於いても十分考慮し市民の利便を図り十分の満足を与えるべく努力し追々斯業者を一丸とした株式会社を組織する考えであるからこの際市が莫大な金額を之に投じるよりもこの経営は我々に一任して欲しい。
具体的用件として左の三項を上げた

2007年6月1日金曜日

八戸自動車史 1


小中野の野田さんから拝借した八戸自動車史を紹介
○自動車は来たか
 はじめて自動車の姿を目のあたりにした人々のことばを、今でも時おり耳にすることがある。
 南部さんのお座敷に小林某という奉公人がいた。一九一〇年(明治四十三年)のいつのころだったか、八戸の町に自動車というものが来るそうだという話が人の耳から耳へと伝わっていた。当日の町の表通りには人々が朝から集まり出し、時ならぬ態であった。小林某は朝早くから主人に、「今日は自動車が八戸の町を通るというが、一度拝見しておきたい。お前は時折表通りに出て見張っていて、自動車が来たら知らしてくれ」
と云いつかっていた。言いつけ通り、小林某は時折表通りに出て見たが件の自動車はなかなか姿を見せない。新奇を好む人々の姿は右往左往しているばかりであった。
 ようやく昼近く、表通りの客がざわついて来た。小林某は手にしていた仕事を投げ出し、表通りに面した二階のてすりから身をのり出して街路に目を落した。街路にはおびただしい土煙りが立ちこめ、自動車の後姿がチラリと見えただけであっだ。急いでとってかえしたが、自動車の姿はもちろん見えなくなってしまった。
 「自動車が来ました」
息使いも荒く、主人の部屋へ注進に及んだ小林に、主人は
「うん、来たか」
と重い腰をあげて
「して、今、どのあたりを走っておるか」
小林某、事の次第を詳しく申しあげた。主人は残念そうに
「ほう、そんなに早いものであったか」
と想像もつかぬげな表情を浮かべていたという。
 今から五十年余り前、八戸町にはじめて自動車が走った折のエピソードである。この自動車は、当時、ライジング石油会社が、青森市浜町にあった東北タンク商会を視察のため表日本から裏日本をまわって通る予定の途次、鮫村石田屋旅館で昼食をとるため、立ち寄ったものといわれる。運転は勿論外人であったという。
この折、青森市で撮影した写真を所持している方があると開くが未見である。
 また、一説には、スタンダード石油会社がタンカーからの積みおろしに便利な港を探がしていて、最初八戸港を候補地にして、その視察にやって来たともいう。視察の結果、石油タンクの設置条件ととのわず、のち野内に建設されたものであるとの由。
 いずれにしろ、一九一〇年(明治四十三年)のこの出来ごとが、青森県に自動車が走った最初の記録ではなかろうか。
 ちなみに、日本にはじめて自動車が入ったのは一九〇〇年(明治三十三年)当時皇太子殿下であらせられた、のちの大正天皇の御成婚を祝して、サンフランシスコの在留邦人から寄贈されたものである。この自動車の試運転がお堀端で行なわれたが、スピード感覚がなかったせいか、ハンドルを切りそこねて、松の根方に衝突、以来、自動車は早いことは早いがきわめて危険な乗り物として名高くなり、かの自動車は、そのまま皇居の一隅に放置されたままだったという。
 しかし、翌一九〇一年(明治三十四年)には、松井民次郎氏が東京銀座にモーター商会を設立し、自動車の販売に着手していたようであるし、一九〇二年(明治三十五年)には東京銀座の亀屋や三越で、荷物の配達用として自動車を使用していたらしい。
 が、日本で自動車の普及にあずかつて力のあったのは、一九〇三年(明治三十六年)一月から七ケ月間、大阪天王寺公園で催された、第五回内国勧業博覧会に外国商社が自動車を出品、またその自動車を動かして見せたことなどから、前後して自動車事業を目論む人々があらわれたもののようである。
○八戸自動車株式会社のこと
 明治時代の日本は西洋文物の搬入に力を入れ、江戸時代とはうって変わった生活様式が次々にとり入れられて行った。学校制度、洋服の着用、選挙、証券取引所、そして何よりも人々の生活範囲を拡大していったのは交通の便益であった。旧来のカゴは姿を消しはじめ乗合馬車、人力車、などの台頭は目ざましいものがあったが、なかでも一八七二年(明治五年)の新橋~横浜間の鉄道開通は画期的なものであった。この鉄道の建設工事は着実にその網を広げ、東北本線は一八九一年(明治二十四年)に上野~青森間が完成、尻内駅の設置をみ、続いて一八九四年(明治二十七年)には尻内を起点とした尻内~八戸間が開通した。なお尻内~久慈間の八戸線の完成は一九二四年(大正十三年)までかかつている。
 また自転車は一九〇二年(明治三十五年)ごろ北村益氏が八戸輪友会を作り、普及につとめており、このころから人々の足ともなったであろう。
 かくて明治末年ごろの八戸の交通事情は遠隔地は鉄道で、近接地は馬車や人力車、ある者は自転車でその便をはかつていたようである。
 一九一〇年(明治四十三年)速いことは速いが危険な乗物である自動車を目のあたりにして、驚異を底じた八戸町の人々の中から翌年には早くも自動車による事業が目論まれ出したのではなかろうか。
 この一九一一年(明治四十四年)八戸には自動より一足先に電灯がともつた。これは橋本八衛門氏、北村益氏、滝沢治平氏等によって八戸水力電気株式会社の設立をみ、やがて事業をはじめたのである。これらの人々は電灯につづいて自動車の事業にも着眼していた。
 やがて、翌一九一二年(明治四十五年)千葉県木更津の某乗り合い自動車会社が事業不振のため自動車を売却することになり、これを買収することにした。ただちに八戸自動車株式会社を八戸水力電気株式会社内に設立、近藤元太郎を代表に十月一日事業開始を目途に準備をすすめた。この年の夏、明治大帝崩御、あくる七月三十一日から大正の御代と代ったため、この事業は、遂に明治年代のものとはならなかったわけである。
 準備は順調にすすみ九月中には運転手付でT型フオード二台にヴイツク一台が到着数日間の試運転の後、いよいよ十月一日を期して営業開始となった。
T型フオード二台は乗り合い用とし、八戸水力電気会社前(現在の東北電力八戸支店前)を起点に旧湊橋間、そのうちの何回かを、さらに旧湊橋から鮫まで走らせた。のちには電力会社前から鮫までの通し運転に切り換えたという。料金は旧湊橋までが十銭、鮫までが二十銭だった。
ちなみに当時の乗り合馬車の料金は八日町から小中野までの料金が五銭だったというから、まさに金持でなくては乗れぬ代物だったといわざるを得ない。
 発車時刻は決っていなかった。適宜来客の頭数が揃うと頃合いをみて走り出すのであったが、客は比較的集ったという。自動車は便利だ、早いという事実が人々をとらえたのであろうか。しかし、危険なものという恐怖感と料金の高かったのも事実であった。
 幸いなことに、他の地方で騒然と物議をかもし出した馬車組合とのもつれもなく、全く好調なすべり出しだったといわれている。
 きわめて順調に見えたこの事業も、自動車の修理に追われはじめると急速に赤字が増えはじめ三年ほど経て、遂に解散のやむなきに至っている。
 ところで、この頃、青森県にはまだ自動車取締令ができていなかったのかも知れない。一九一二年(明治四五年・大正元年)に営業申請した乗合自動車会社の一覧にその会社名が見当らなかったことを付け加えておく。
 この自動車事業は、けだし青森県内において、はじめての壮挙であったし、また全国でも数えるほどしか業者は存在していなかったことを考え合せると、まさに括目(かつもく・目をこすってよく注意して見ること)に価する事柄ではなかったろうか。
○岩淵栄助氏、八戸~久慈間に乗り合い自動車の路線免許のこと
 明治の末年から大正初期にかけては乗り合い馬車の全盛期である。自動車の便利さと速さは衆目の認めるところとしても、故障、修理、それに危険の度合もさることながら、料金の倍に及ぶ高さが人々をして、やはり乗り合い馬車に親しませたものであろう。
 しかし、一九一三年(大正二年)からは全国的に自動車事業を企てるものの数が激増しはじめ、一九一八年(大正七年)からは、急激に増加している。世情はようやく乗り合い馬車にかわって自動車時代に入るきざしをみせたのである。
 この大正の初期、久慈町に砂鉄工場建設の計画を抱いて、十五銀行の融資を背景に、松方元老の五男である松方五郎氏が頻繁に久慈にあらわれるようになった。松方氏は常盤商会を経営、久慈ニツ谷居住の砂鉄鉱山主佐々木氏と取引きしていた関係もあり、久慈産の砂鉄の良質なのに注目して、その企業化を思いたったのであろう。
 当時、八戸・久慈間は馬車にゆられて大野で一泊、翌日でなければ到着せぬ遠隔地であった。松方氏は、この不便さを解消するために、佐々木氏に呼びかけ、自動車ならば八戸久慈間は一日で行ける旨を力説し、常盤商会の斡旋で、リパブリックの幌型乗用車一台を売り渡し、自ら久慈へ乗るたびに尻内まで迎えに出てもらって利用した。自動車の速度は大野泊を不要にし、八戸・久慈間を直接結びつけるようになった。
 やがて松方氏は、たまたまの所用で訪れるだけの自分一人の利用から、さらに八戸久慈間に所用ある人々の多いのに気づき、佐々木氏に乗合事業をすすめた。たまたま松方のすすめを受けた佐々木氏は事業権の申請を岩手県に提出した。が、この路線は岩手・青森両県にまたがるものであり、青森県側からの許可も必要であるため進捗しなかった。
 青森県では岩手県からの申し入れが届くや直ちに八戸署へ連絡、久慈行の旅客を扱う旅館を糾合し急遽、岩淵栄助氏を申請権利者に、また客馬車組合取締の吉田三郎兵衛氏を中心に組合をつくらせて申請させた。かくして青森、岩手両県から、同時に八戸・久慈間路線一日一台でもって許可することになった。
一九二〇年(大正九年)のことである。
 なお一九一九年(大正八年)内務省今によって全国統一の自動車取締規則が出され、地方長官の許可を受けるようにされ、統計及び申請者もきわめて判然としているのであるが、大正九年の項には、新規業者として、岩淵栄助氏の名前は見えるが、佐々木氏の方は記されていない。