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2008年7月24日木曜日

陸奥湊駅前再開発は出来るの? 5

青森県が時間と金をつぎ込んだ成果品がこれだ。

この図は市営魚菜市場を中心核とし、本町を温存する形だが、これはすでに本町が勢いを失したので役に立たない。これが第二案で、第一案はより消極的な現吉田歯科に魚菜市場と同等な建物を建築する案。
第三案が抜本改善案で、駐車場を下に持つ大掛かりなもの。これら県の具体案が埋もれたのは実に惜しい。往時は地権者も金をふんだんに持ち、この案に耳を貸せば、現在のような衰微した状態を嘆くこともなかった。
 人は今しか物を考えることはできない。過去を思い起こし、あの時ああすれば、こうしたらとレバとタラは死んだ子の年を数えると同じで、今の役には少しも立たない。公家が過去の栄光で食える話は聞いたことがない。筆者の友人で三菱銀行の創始者の末裔がいる。この人の家系図は凄い。大伴家持まで行く。大学の友人で柳生一族の総本家もいたが、その比じゃない。この友人は文京区の染井に東京都が第一号で造った都営霊園に墓地を持つ。染井は植木屋の多い所で、染井の桜で有名。その墓地が立派で大理石の家。そこに乞食がいて、墓参りするたびに「申し訳ありません、墓参りをします」と断りを入れる。その墓の借り賃が広いだけに年間二十万とも三十万ともいう。先祖が立派だと子孫が苦労すると、成城学園の土地を半分売ったゾ。昔は公家でも今が食えないじゃどうもこうもなりません。
 陸奥湊も儲かっている時は勢いで、人の勧告も注意も耳鼻に入らぬが、困ると尋ねる友の家で、何かいい方法がありましたら教えて頂戴だが、こういう時はえてして、どうにも身動きがとれないもの。
 そこで頼りにするのが行政の力、再開発をすれば金が出ると思っているが、存外間違いではないが、聞き違いだ。全額は出ない。設計費の三分の二がでる程度。そうするとこれに手を伸ばすのが設計屋。お客をそそのかして「やろうやろう」と男の風呂のようなことを言う。え? 野郎、野郎で男が二人ダヨ。
 そこで市役所の都市政策課も土曜日に借り出されるわけだが、もとより、昔の事跡も知らぬ同士が騒いでいるから、ただ、時間の損。もっと先人の知恵を学べだ。
 役所にそれを伝えたら、課にはそれがなく、どもこもならん、困った存在の商工会議所に借りに行ったと。役所が二百人体勢の無知、恥知らずの商工会議所に借りに行くはこれまたどうもならん。
 こんな人材しか居ない八戸市役所はもっと、腰を入れた人事をしろ。今の文化スポーツ振興課長は、一年前は別の場所、二年前は同じ所だ。こんな知恵足らずの人事をする奴ばらの面が見たいもんだ。一年タダ飯を食わせただけ。民間会社じゃ倒産だよ、倒産。
 陸奥湊の地権者が寺地議員と相談し、桃川の土地が青銀の抵当流れで外資系に流れた。それを市長に買えと談判。これも妙な話だ。自分が困れば市に泣きつくじゃ、まともな成人の考えることじゃない。当然蹴られた。
 ほっとけ、ほっとけ、桃川の土地はその内、外資が買ってくれというだろう。そのときまで待つことだ。この陸奥湊の凋落では、誰も買い手はいない。買い手がなければ、空き地で放置。そうすれば囲いの鉄条網をブチ切て使えばいい。どうせ相手は外資だ。アメリカから来るうちに逃げればいい。
 第三案は大きな卸市場、左手に小さな小売市場と棲み分けが図られている。こんな大構想は今となれば夢のまた夢、設計会社はでかくないと実入りが少ないからでかくしよう、でかくしようと言い立てるが、おっと、乗るな口車とモッコ。乗れば借財も圧し掛かる。払えないで土地は取られる、赤字は残る、残る赤字が癪(しゃく・腹が立つ)の種。
 よせ、よせ、行政だって手柄にしたいから適当なことをいうが、責任なんてないから言える。そそのかされた方が悪い。夢はばら色、現実は真っ暗で、格差が大きい。できるところからやるべき。駐車場がなくて来ないは三日町も同じ。駐車場は空いてる店を持つ市場を取り壊せ。そこを駐車場にしろ。それだからと言って、スーパーに流れた客を呼べるだろうか。そんな時間帯に店をあける人がいるのか、地権者は小売店ではない。大家だ。おおやはおお嫌で、額に汗せず儲かることを夢見る人種。
 これはなかなかまとまりませんゾ。

2008年7月23日水曜日

陸奥湊駅前再開発は出来るの? 4


この昭和51年の青森県の勧告文書の存在を地元地権者、八戸市当局(都市政策課)も知らない。先人の知恵をなんだと考えるのか。
 これでは猿と等しかろう。我々は識字を武器とし、様々な知識を修得したのではないのか。その存在も知らないのはぞんざいに物事を扱ってきたとがめだ。金を集めるはいい。だが金に支配されるようでは本末転倒。これは地権者に言う言葉。
儲かっていた昭和51年、ちょっと前だが30年も前だ。
 30年を一(ひと)世代という。地権者は親父の代だ。では役所はこの県の勧告書を何故知らないのか。第一は人事移動、慣れた頃に違う課に配属となる。下水道を担当して、子ども家庭課に行くようなもの。まるで過去の経験が役に立たない。
第二は役所は文書を基本的に保存しようとしない。保存期間が決められ永年はまれ。第三は資料を整理しようとしない。作れば作りっぱなしで棚 に置いたまま。これが高じて人が去り金を投じた資料も埃をかぶり、ついには捨てられた。
 ところが図書館はカビの生えたような資料を大切に保管する。三万の増床問題のガリ版刷りの文書も保存されている。市役所に保存機能がなければ図書館に保存を願え。意地糞悪い姑婆ァも本領発揮するぞ。市役所職員は小姑で。これらが根性が汚い。「はちのへ今昔」の言うことをヘイヘイと上辺だけ追従(ついしょう・おべっかをつかうこと)だ。腹の底ではあかんべえ。
 前にこういうことがあった。資料を持参しろと命じて市長室に行った。出口でその資料を取りに行った職員が連れの女職員に、「まったくやんなちゃう、大体態度がでかいんだよ、あの爺」と言った所で筆者と眼があったナ。ばつが悪いはこのこと。途端に小さくなった。筆者が黙って情報開示の部屋に行くと、彼等も後ろに従った。
 持参した資料に眼を通しながら、「世の中はこうしたもんだ。壁に耳あり障子に眼ありとナ」
「へい」と答えて小さくなったナ。
 こんな職員しかいないのが八戸市役所。大同小異。ときに光った職員も見るが小数小数。
 さて、肝心の県の勧告書類だ。
勧告
〔勧告第一〕立地環境の変化を適確に把握すること。
 現況の本町・駅前・柳町の3街区を含めた湊地区商業街区の立地環境は、前回の昭和47年の診断においてもすでに若干指摘したところであるが、4年後の今日すでに大きな変化の渦中にあり、しかもそれは悪化の一路をたどっていると判断される。
 今回の診断に際し、最も警告したい事項はこの一点に集約される。以下各街区についてその概要を述べるが、この認識の上にたって街区集団としてこれに対応した対策を早急に実施する段階にきていることを確認する必要がある。
1.本町商店街の存立基盤は既に失なわれている。
 本町商店街の形成の歴史は、八戸漁港における新井田川河口の船溜りの上陸地点を背にして立地し形成してきた街区であり、そのため漁船員対象の男性向作業衣より発生し紳士用品としての紳士服・紳士洋品・靴履物・メガネ・時計・漁船納入の食料品、菓子・飲食店・パチンコ等の業種で構成され、従として館鼻・小中野方面の一般消費者を対象として婦人衣料、呉服が立地した街区である。従って原則として駅前方面の生鮮品の消費者・小売業者とはほとんど関係なく立地してきたものと思われる。
 この存立基盤は、船溜りの舘鼻漁港への移動という大変化によって致命的な打撃を受けることは明らかである。
2.卸売市場と小売市場は明確に分離されるべきである。
 公設市場を中心とする市場群の発生の機能は、おそらく二次卸的な小分け機能と業務納入機能が主体であったと思われるが、戦後の食料危機を経て、消費者の期待する卸業者の小売機能の必然的な増大によって、昭和20~40年代にかけて、二次卸業者の小分け細分による高鮮度・安価な特性によって八戸全市のみならず、その全商圏からの一般消費者の集中となって繁栄を極めたが、衛生上の問題と小分け細分の面倒さと人手不足、さらには卸売りによって充分な利益を得、休憩すべき時間における販売のために、消費者に対して不愛想的になるという欠点が表面化してきた。
 最近、この欠点に加えて、周辺地のスーパーの進出も手伝って急速に遠隔地の消費者が滅少してきており、このままでは卸売・小売共に機能低下による売上不振に拍車がかかってくることは明白である。
 これを改善するには、二次卸と業務納入のウェイトの高い業者はこれを専業として、品揃えの強化・サービスの徹底につとめ、小売りのウェイトの高い業者は消費者に顔を向けた専業者として、消費者のニーズにこたえた商品の細分パッケージ化と、より専門的であり、ワンストップショッピング的な品揃えと機能分担を実行することが先決と思われる。
 当たっている部分が多い。勿論外れもある。
 次回は県が作った図面の紹介。

2008年7月22日火曜日

陸奥湊駅前再開発は出来るの? 3


青森県と八戸市、そして商工会議所が昭和51年に「八戸市港地区商店街報告書」には幾つもの提案がある。
1.診断の目的
 湊地区商店街は、昭和47年度に実施された商店街診断において、その立地条件の厳しさが指摘された。以降さらに、中心商店街の商業集積が進むと同時に周辺地区の商店街区化か進展中であり、湊地区をとりまく環境は一層厳しさを増してきている現状である。このため、湊地区商店街においては、前回診断時に比較し地盤沈下の兆候が見られる。
 そこで、今回診断はいかにして湊地区商店街の地盤沈下を防ぎ、かつ長期的な繁栄を築くかの基本的プランを提示することを目的としてなされたものである。
診断をしたのは県、市と商工会議所は協力とある。診断長は県経営指導課長蝦名博之、八戸市経済部長正部家種康氏の名も見える。
 診断並びに基本計画の前提となる制約条件
1.生鮮卸売市場と小売市場の今後
 生鮮品の流通機構については、中央卸売市場法による農林省のレイアウトにより、青果物については農林大臣許可にて、東北地方では八戸のみ青果中央卸売市場として昭和52年に開設することとなっている(目下建設中)。従って、魚加工品の付属店舗が一部出店されることはあっても、これに鮮魚の卸機能が付加される心配はないと思われ、従来通り鮮魚卸売市場として小中野・舘鼻・鮫の3市場が産地市場として認められるわけである。
 小売市場については、引揚者の救済対策の一環として立地した湊の小売業者の中から市公設市場条例により、小売機能をもって営業させ、これを核として隣接して駅前に十数ケ所の私設市場が経営され今日の姿となっている。
 今後の問題点として、二次卸としての市場入居者と、これが小売を兼業しているための業者マージンの面でのメリットよりも、消費者に対するサービス、小分け包装販売の人手不足等の面でのデメリットの方が強く出てきており、周辺地域のスーパーマーケットの清潔さと、プリパッケージの消費者習慣の定着により、消費者の市場離れが促進される心配があることである。
 今後、これらの2つの機能の明確な分離による専業化が問題となろう。
2.国鉄駅は現状維持とする
 「地域近代化計画」のプランにおいては駅舎の南側への移転を前提とし、市場の南側への移転を打出しているが、本町商店街の現状を考慮して、国鉄駅は現状のままとすることを前提として基本計画を考えることとする。
(県の考えは駅移転の大構想・権力は偉大)
3.本町と駅通りと柳町の一体化を前提とする
 本町商店街は、旧湊船溜りの機能を利用して、上陸船員を主対象として発生した超地域型買回り性男性向中心商店街として形成された街区である。駅通りは、市営市場を中心とした市場群を対象としてその小売機能に対して集中した消費者を対象とした、地域型準買回り性主婦向中心商店街として形成されたものである。柳町は、駅前の機能を補完し、地区型最寄り性主婦向近隣商店街として、より特化した街区であり、それぞれ異質の街区である。
 この異質の3街区が、歩車道の区分はほとんどなく頻繁な車両通行量にさえぎられ、ばらばらに機能しており、その力と機能を充分発揮することなく極めて不利な立地粂件のもとで、増加する後背地の新興商店街に安心して買えるという魅力のために、漸次その商圏を侵蝕されつつあるのが現状である。
 この対策としては、これらの異質ではあるが、これを一ケ所に集積することができれば巨大な力と魅力を持つに違いない3街区を、一体として機能せしめることが前提となる。
4、基本計画の作成の方式
 今回の基本計画にあたっては、地元経営者のニーズを極力とり入れるため、話し合いによる地元の意向を吸収するにつとめる考えであるが、提案のあり方として、抜本的に思い切った案を作成するのみでなく、現状の市区構成はそのままとしてその中で改善可能な点を考えて最善と思われる案と、さらには現状の街区はそのままとするが街路を通路として考え、駐車場・モールをやや架空的に思い切って配置する案を作成し、計画のウェイトはあくまで抜本案とするという作成方式で提案することとする。

2008年7月21日月曜日

陸奥湊駅前再開発は出来るの? 2


八戸図書館に新聞切り抜きがある。東奥日報が16年前に掲載した、昔今未来というシリーズ。
それに八戸・陸奥湊がある。庶民の台所、ヤミ商い中心に、戦後急速な発展と題され以下の文。
JR八戸線陸奥湊駅前。港八戸を象徴するように魚市場がずらりと並一び、夜が明け始めるころから、背負いかごを担いだ商店の人の仕入れの姿や鮮魚を積んだ小型トラックでにぎわう。道の両側に広げられた露店でも売り買いの声が上がる。戦後からこれまで変わらぬ光景だが、近年、かつてのにぎわいに幾分陰りも見えてきた。これまでの歩みや今後の活性化の道を探る。
 「戦前の陸奥湊はボッサリしていた」と湊町上中道の畑中末吉さん(八八)は当時を思い出すように静かに語った。畑中さんは、陸奥湊地区を含む第一久保町の町内会長を昭和二十三年から五十五年三月まで務めた町内の長老の一人。昭和三十四年から、駅前に千軒文化市場を開いている。
  「戦前は旅の人(八戸以外の人)が多かった。スルメや煮干し、ワカメなどを商いしていた。にぎわうようになったのは戦後。鉄道の駅員たちがにぎわいのきっかけをつくった」。宮城、秋田、岩手、新潟などから農産物やあめなどを持ったヤミ行商人たちが、駅に降り立ち、スルメや煮干し、鮮魚、塩辛などと交換した。その人たちは、鉄道の運賃がかからない駅員やその家族が多かったという。「あれよあれよという間に、自然発生的に家の軒先を借りた商い人が増え、開けていった」と畑中さん。スルメはドラム缶に詰めて出荷、当時の金で一日二万円稼ぐのは簡単だったという。
 そのうち、陸奥湊は安いと評判が立ち、旧市内の奥さん方も買いにくるようになった。「陸奥湊はおっかないと言われたのは、このころだな。これは仕方がなかったんだ。とにかく忙しかったし、大量出荷が多く出荷向けにこん包していたから家庭用に分けて売ることはできなかった。店の人たちも大きな声で『だめだ、売られない』と叫んでしまった」
  「仕入れの缶を背負ったがんがら部隊や各店が違法に線を引っ張ってつけていた裸電球の電気代で電力会社と交渉したのも懐かしい思い出だ。今は買い出しの人も少なくなったかな」と語った。
 この畑中さんは昨日の記事の父君。まだ、力が16年前にはあった。図書館職員が昭和五十一年に青森県と八戸市、それに商工会議所が作った再開発の書類を発見。それには完成予想図まで書かれてある。今から三十年前、陸奥湊には力が充満していた。次回はこの図を中心に考察。

2008年7月19日土曜日

陸奥湊駅前再開発は出来るの? 1


10年前に陸奥湊駅前の特集を「はちのへ今昔」で掲載。その頃と今では天と地の差。八戸の快男児、畑中徳寿さんが私財を投じて、光星高校野球部を甲子園に出すべく支援した話は筆者に落涙させた。昨今、寄る年波で涙もろくはなったが、この人の無私の精神には感動した。こんな人が八戸にもおられたと思った瞬間、滂沱。
 その快男児が再開発の首謀者、高齢者の部類に属しても活躍。この人は市議の寺地氏を推される。この寺地さんも泣く、人前はばからずに、これらの人を中心として再開発が可能かを模索中。ところが、魚類を売る側が高齢化で一人減り、二人欠けで、十年前とは異なり勢いが減少。売り手は減る、買手だった市内・近郊の食料品店が車社会に便乗し、大駐車場を備えたスーパーにやられてその数激減。
 売り手が減り、買い手が減る中での再開発だが、投資して元が取れるの? 地主高齢化、地主も3代目になろうとする時期、孫にあたる世代は儲からないことに金をぶち込むなと冷めた見方。これが正しい。
戦後混乱期に自然発生的に露店が出て、魚介類の販売。それに市側が戦争未亡人対策で診療所を取り払い、市場を作った。これが原点。この市場の物資を求め、ここが大爆発。石油缶を改良し、背中にしょって郡部に販売した俗称カラス部隊、行商のおばちゃんたちが列車を使って方々へ毎日、スーパーユニバースの代わりを果たした。勿論、その頃はユニバースの社長も紅顔の美青年、まだ、海の物とも山の物ともつかない。つまり物資を支えたのが名もない庶民たちだった。
 それらの人々も戦争の傷も癒え、次第に数を減らす。つまり、それらにとって代わったのが食料品店の出現だ。この人々は朝早く買出しに出て、夜遅くまで店を開けた。つまり町のコンビニの役割を果たした。
 ところが、馬の代わりの鉄の馬の出現で、うまくない事態が出現。ユニバースらの台頭だ。暗く吊るし電球の店から蛍光灯に照らされるスーパーの出現時、これらスーパーは長持ちしないと酷評、スーと出てパーと消えると嗤(わらう・この語はあざわらうの意)われた。これが、鉄の馬の出現で勢いを得た。昨今は30分も走れば下田のイオンに行く。だから、江戸の昔から続く三日町十三日町も日曜日は閑古鳥。
 商売繁栄は必ずかつての繁華街から派生的に外に広がる。人口の増に伴い、吸収しきれなくなるからだ。それが八戸では本八戸駅の新設(当時は八戸駅・明治二十六年だか七年)で新しい商店街が出来る。そして南に伸びたのが長横町、そして新長横町。
 滅びるときはこの逆で、新規に伸びたところからダメになる。すると陸奥湊は戦後間もなくの興隆で滅びる要素も充分。権利金・敷金が安い所はそれなりの理由がある。滅亡に向う町を建て直すは至難な技。
 社会構造が違ってきて、陸奥湊は早朝から開業し、食料品店に供給する要素が欠けた。つまり、食料品店の減少、それに供給側の高齢化。売り上げ増で、サラリマンは馬鹿らしいと思えるなら、誰が好んで人間関係の複雑な役所に勤める者がいる。売れない苦労より精神衛生には良くないが勤めの方が楽だと跡を継がない。そんな体質の陸奥湊に、観光客を呼び込める要素が残っているのか。 明日に続く。