十五柱の神々を祭る
うぶすなさま荒谷の天満宮
美事な桂の御神木
売市の天満宮は、長根の天満宮をすぎて香月園前の三叉路から、左側の小路を売市のバス通り(国道104号線)に向う道路添いにある。
この進を土地の人達は「てんまみち]と呼んでいた。昔は荒谷の学校とこのお宮は向いあっていた。境内はあまり広いとは言えない。間口3間半 (約12m)、奥行5間(約16.5m)の木造のお堂が、西向きに建っている。大分やつれている。
正面の欄間に掲げられている「天満宮」と書かれている額は、お堂とはつり合わず立派なものである。
朱塗りの鳥居のそばに、樹令2~3百年位と思われる桂の木が大小2本立っている。見事な御神木である。
お堂の前右側に、自然石の碑が二体並んでいる。ひとつは筆太に、「十和田山大権現」天保14年8月12日と、もう一基には、「金比羅大権現」慶応3年12月吉日の年号が刻まれている。
天満宮は、荒谷の産土神(うぶすながみ)として崇められているが、祭神は言うまでもなく菅原道真朝臣命である。そのほか態野大権現、豊受大神宮、月山、湯殿山、羽黒山、白山、子安様、稲荷神社(境内に別に小さな祠に祀られている)、農神様等々15柱が祀られているという。
このように沢山の神々が祀られたのは、明治維新の廃仏毀釈の時、お寺を追われた神々の難をかばい、お招きしたからであるということである。
天満宮のお祭り
天満宮のお祭りは、菅原道真の命日である2月25日に行なわれるところが多いが、ここではそれと異なり、旧の11月24日に行なわれている。それには次のようないわれがある。「昔各地に悪疫が流行した時、荒谷の周辺には全然病人がでなかった。産土神の御加護であると感謝の意をこめて、この日にお祭りを行うことになった」と伝えられている。
春を呼ぶ春祈祷
お正月も過ぎた1月中旬、笛や太鼓、手平鉦をお供に(歯がみ)の音も高々と春祈祷の権現様が荒谷の家々を訪れる。春の前ぶれと歓迎されている。この時いただくお札には、「天満宮熊野権現」と大書され、朱色の大きな印判がどっしりと押されている。荒谷のえんぶりの人達が熊野権現に奉仕しているのだということである。
天満宮は荒谷の産土神として祀られているので、神様のルーツをもうすこし尋ねてみたい。
天満宮の祭神菅県道真朝臣命は、学問の神様であることは有名であるが、同時に書の神様でもある。弘法大師、小野道風と共に「書の三聖」と言われるほどの腕の持主でもあった。又、梅をこよなく愛したが、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」の歌によって表現している。天満宮では、京都の北野天満宮、九州大宰府天満宮、東京の湯島天満宮、亀戸の天満宮等が有名である。
副神 熊野権現
熊野権現の本社は、和歌山県紀伊半島にある。
紀伊勝浦駅から山に向って車で20分程行くとうっそうとした原始林が見え、その中に高さ133 mの日本一の那智の滝が見える。熊野三山の一つの熊野那智大社がここにある。熊野信仰の根元は那智の滝にあり、この大瀑布を御神体として生れたものである。
熊野那智大社(那智勝浦町)
熊野速玉大社(新宮市)
熊野本宮大社(本宮町)
この三社を熊野三山、三所権現或は三熊野と言っている。
青森県の熊野信仰
青森県内の熊野信仰とのつながりは、十和田湖伝説の主、南祖坊をはじめ、岩木山の三所権現、八戸では常泉院(栄尊)、大泉院、熊野堂等修験者達は、当然熊野権現とは直接つながりがあったと思われる。
それについて川口前四郎氏は、別当とは親戚関係にあるのだがと言って、次の通り語ってくれた。「寛文5年八戸南部(三八城山)初代藩主となった直房公が、まだ盛岡に在住中昵懇にしていた士、高橋勘五郎を修験となして無量院と号せしめた。後、常泉院栄尊(本姓を野田と改める)と呼び、修験の頭領となして、神社、仏閣に於て祈祷をなさしめた。
当時、八戸地方に於ては、軽米村には修験松本院、八戸にては修験大泉院(大泉坊と称した)久慈村にては同南光院、南学院、南等院、名久井村本光院等は各地方に於ては大祈祷師であった。
常泉院は領内修験の総禄を命ぜられ、是等の修験を命令した。そして法霊、神明、長者山の三社、豊山寺、蕪島弁天、湊大祐の六ケ所は主なる祈祷所であり、そこでは常泉院の命によって、修験、神官、僧侶、別当等が祈祷をなした。
宝永6年暫らく雨が降らず干ばつの様相を呈したので6月22日領内の全修験を集め、池野堂に於て雨乞いの大祈祷をなさしめた所、同月25日に雨が降り、人民蘇生の思いをなしたことがある。
その大泉坊は熊野堂権現を兼ねていたが、上市川の池野堂より移ってきたと言われている。
大泉坊・城前坊 二洋平義雄調査
売市字長根に、大泉坊の屋敷跡という所がある。長根町内に住む、野田テルさん(80才)からの話をまとめてみると……。
大泉坊の祖先は、遠く藤原源氏の末えいで、藤原源氏が戦いに敗れて、市川村字池ノ堂部落に山伏となって隠れ住みついていた。幾百年かを経て、八戸藩の客分として招かれ、長根の天満宮の隣地に、千刈坪を配領して住むことになったとのこと。市川村から移住してきたところから、市川姓を名乗ったのだという。又大泉坊の分かれに、城前坊という者がいて、これが長根の根城家の祖先とのこと。
一説には、城前院坊の院号の前は、常就院とあり、その後常寺院と称したともある。城前院の後継者は苗字を根城氏を名乗ったところから現在は常寿院を語呂合せのように″じょうぜん″と称して根城氏の家号となっている。
よって常就院~常寿院~城常院~じょうぜんは一連の名称である。
大泉坊は学者肌で宮司職を業とし、城前坊は農業に従事する豪農だったが、元は共に山伏であり、大泉坊の墓地には市川家と根城家の墓がある。なお大泉坊市川家の家紋は、十六坊菊である。
大泉坊市川家とゆかりのあるのが長者山の常泉院であるが、長者山附近に常泉院が住んだところから、常泉下という字名が残っている。ところが大泉坊の住んだこの地域には、残念ながら大泉坊下という地名は残っていない。
大泉坊の住んだ地域は、右水門下、左水門下とよばれている。現在の長根総合グランドは、以前は、農業用貯水池、即ち長根の堤であった。堤の両側には、水門があり、現在もそのまま残されているが、左水門は余り使用されていない。今後水門の整理も考えられるので、両水門からの字名の起源が忘れられるかもしれないので、ここに改めて、両水門のあったことを記して置きたい。
産土神と鎮守様・氏神様
「うぶすながみ]或は「おぼすなさま」と言って、自分の生れた土地の神様、或は住んでいる土地の神様をそう呼んでいる。
又、同じ氏(同姓)の人達が一緒に祀る神様を氏神様(人の方を氏子)という。いろいろの違った氏の人達が、共同で祀る杜を鎮守様と呼んでいる。しかし今は、産土神も、鎮守様もあまり区別して考えていない。
長根天満宮・
はじめ、三戸永福寺の住僧が文明3年6月、 八戸天神の御神体と八幡の御神体を京都で作ったとき、長根天満宮の御神体も作り、東構あたりに祀ってあったものと思われる。寛永4年大守利直公が遠野へ移封されたとき、別当であった東善寺住僧栄尊も本宮の御神体を持ってお供したと言われている。
それからどのくらいの年月が経ったか明らか ではないが、① 長坂に禅源寺と隅の観音と並んで建てられた。② それがいつの頃か東構に移った。③ それから享保3年3月2日に火災にあって焼失し、そのまま放置されていたのを元八戸藩士津村邸跡に、弘化の頃移転した。
先に述べたように、御神体は遠野へ持っていかれたので、九州大宰府天満宮の梅の古木で御神体を作ったという。
弘化3年(1846)現在地に遷座された。
明治初年白山宮、鹿島神社、八幡宮、山神社、熊野神社の五社を合祀現在に至っている。八幡宮は根城本丸跡にあったものであるという。境内に筆塚の碑があり春秋例大祭を行っている。旧藩時代は大神宮と言った。現在は天満宮と呼んでいる。
祭日は9月25日、社総代根滅入右工門外6名。
(川口前四郎)
お祭り参加35年の花道
報いられて最優秀賞
平成4年の三社大祭に、売市の山車は栄えある最優秀賞に輝いた。前年に優秀賞を受賞していたので、2年続きの栄誉である。しかも、お祭りに参加して35年目という記念すべき年にあわせるように、見事に花が開いたわけである。山車を曳く子供達にとっては、最大の贈りものになった。子供達は大喜びで自慢しあったのは勿論であるが、お祭りの若者達も、永年に亘る苦労が報いられ、その喜びはひとしお、大きなものであった。
毎年春早くから、製作に携わり、苦労を重ねてきただけに、その甲斐があったと言うものである。祝賀会での乾杯は、本当にうまい酒であった。
ここ5年程続けて努力賞を受賞し、昨年は優秀賞を受賞した。これも指導者に人を得たということであろうし、又作る人達の技術が向上したとも言える。
平成4年10月3日、八戸グランドホテルに於て催した35年の記念式典に、宮沢文夫委員長が 「最優秀賞を受賞できたのは、皆さんのお力添えのたまもの、これからも地域に喜ばれる山車をつくっていきたい」とあいさつをのべたが、この謙虚な心が実を結んだのであろうと思われる。
山車組の功労者
この式典では、その発展に尽力した次の人達に感謝状を贈って、その功を謝した。
創始者初代委員長 故中村利雄
々 副委員長歴任 故宮沢三次郎
々 三代目委員長 故西村清一
元委員長 二代目委員長 野沢 剛
々 四代目委員長 中村倉松
々 五代目委員長 市川儀郎
々 六代目委員長 川口徳治
々 七代目委員長 中村明人
功労者八戸山車絵師 夏坂和良
々 山車人形着付功労者 広津淑子
平成3年に優秀賞を受賞した山車の題材は「白蛇伝という中国京劇であった。「白蛇伝」の舞台の両側に配した円柱を、中国風に朱や青の原色或は金色などの、おきまりの色彩をとらず、白一色に仕上げたことは、重厚さを表し、全体に深味を増して盛り上げている。正面の焦点を絞り、統一を図ってすっきりさせたならば最優秀賞に限りなく近づいたであろう」という評であった。
平成4年に最優秀賞に輝いた山車はデーリー東北の「山車ものがたり」に次のように紹介されている。
スーパー歌舞伎・京劇リューオー(龍王)
市川猿之肋の企画演出による中国三大怪奇小説「封神演義」ナタの龍退治と近松門左衛門の「国性爺合戦」を組合わせた物語を題材とした。日本の漁師・海彦と超能力を持つ中国の少年・ナタが協力し、海で悪事を働く巨大な龍王との戦いの場を表現したものであった。
優秀賞・最優秀賞に入賞したこの作品は、夏坂和良氏の指導によるものである。
附祭の事始め
昭和32年の夏の頃、屯所に土用干しに何人かの人達が集った時に、たまたま山車の話が出て隣の新組も山車を出した。我が町でもお祭りに参加しようではないかという話が出た。
今子供達はお祭りになると、よその町内の山車に参加している。自分達の町内の山車を曳く夢をかなえさせてやりたいということである。
農業をしている人は、お祭りの準備に人手を必要とする時期は、農繁期と重なり合って手伝いは不可能だ、従って実現はむずかしいというもっともな話もあったりして、仲々話は進まなかった。
しかし、実現派は熱心であった。とにかくやってみようと、中村利雄氏が代表となり宮沢三次郎、西村清一氏等を中心に準備を進め、翌年(33年)から参加することに決め、神明宮の附祭になることが決った。何もかも初めてで勝手がわからなかったが、慎重に話し合った結果題材に歌舞伎の外題のトップである「勧進帳」と決った。しかし、台車を始め人形も何も無いので、先輩格の廿六日町の附祭りから、いろいろ指導を受けた。そしてすべてのものを借りることにした。自分のものと言えば、やっと買った曳綱位のものである。肝心の山車の人形も二体ですませるという離れ技もやってのけた。
準備金も無いので、お祭りに参加しても、翌日の昼食の準備にも事欠いて、米や小豆、魚など材料を、各自が持ち寄り作るという、今では想像もつかないような苦労をしたのであった。
(市川儀郎氏談) 努力賞の山車
昭和61年売市がお祭りに参加して29年目に山車が努力賞に入賞した。題材は「雷神不動北山桜鳴神の破戒」であった。
川口徳治代表はおどり上って喜んだ。皆の苦労に報いられると言って目を真赤にして酒をついで回った。
63年から中村明人氏が代表を引継いだが、どう運が付いたものか、61年から62、63、平成元同2年と連続して努力賞を受賞した。そしてついに平成3年に優秀賞を受賞した。中村明人代表の笠ぬぎの時の挨拶の言葉も嬉しさにふるえていた。
山車の審査
お祭りの理解者で長い間、山車の審査委員長をされた故音喜多富寿先生が審査の際「山車の審査はひとり山車だけではなく、次の三点のバランスを考えなければならない]とよく言われていた。
第一は、山車の着想は、見て楽しくわかり易 いもの、飾り付けは美しいもの。
第二は、お囃子の太鼓、笛は揃って、音頭は メリハリのきいたもの。
第三は、曳子の掛声、態度に元気あり、衣装 は清潔なこと等を強調されていた。更に、①時代考証は尊重しなければならないがあまり、こだわらない。②むごたらしいもの、殺伐な場面はお祭りの山車にふさわしくない。③子供が楽しく見られるものを歓迎したいと言うのが口ぐせであった。
山車づくりは類家、塩町、市職員互助会、青年会議所がひと時代を牛耳ってきた。長横町の山車の構想も好評である。それらの山車づくりの構想によって、八戸の山車は横に拡がり、上に延び2倍にも3倍にも大きくなり、文字通り豪華で絢爛なものに発展してきた。これは、或る意味では伝統をやぶったからだと言える。
伝統にこだわっては、硬直して発展は望めないが、と言って伝統を無視しては単なるカーニバルに駄してしまう。このことは古い時代の山車の写真と今の山車とを見比べて見ればよくわかる。
お祭りはますます盛んになるであろうが、お祭りは神と共にあるということを忘れてはならない。
最近は、昔話や童話ものがすくなくなり、子供たちには淋しいお祭りになったと言われている。テーマに関係ない飾りや物が付けられ焦点がぼやけ、八戸の三社大祭らしい伝統が失なわれつつあるという不満の声もある。
お祭りは子供の夢を育てる大きな役目のあることも忘れてはならない。
売市の附祭の、今後ますます精進して二度三度の最優秀賞を獲得されることを期待したい。
2008年3月1日土曜日
2008年1月1日火曜日
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 7
伝統を誇る荒谷の?
平成五年度売市?組の名簿
代表者 田中博逸
親方 田中博逸 中村孝 坂本忠
北村 進 松原誠 西村日出圀
太夫
先太夫藤九郎 竹岸 昇
中太夫中畔止め 川口徳治
後太夫畔止め 中村 孝 川口義国
笛 松橋 忠
太鼓 市川 勇
売市の「えんぶり」の「のぼり」に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と記している。荒谷のえんぶりは、「えんぶり」の始祖であるといわれる所以からであろう。
荒谷のえんぶりは、五拍子である。五拍子は、敵を攻撃するのに都合がよかったのであろう。太鼓は平打の太鼓といわれ、敵陣への切り込みに使用された。
二通りの型があり、一つは、昼攻撃型で、春祈梼のふりをして敵陣に向う。もう一つは、夜攻撃型、覆面をして敵に顔を見られないようにしている。この覆面は、現在の黒い頭巾の事であろう。当時の名残りである。
帯刀して、えんぶりを舞うのも武士の名残りであろう。又、えんぶりの旗は侍が戦いの時、使用した旗印であるといい伝えられている。
① えんぶりの起源
Q ?の起源には色々の説があるようですが
A ?のはじまりはいつ頃誰が始めたのか、明 らかではありませんが、その起源を伝える伝説は2~3残されています。
「南部三郎光行」説。「藤九郎盛国」説。「源九郎義経」説などが、その代表的なものです。売市にゆかりのある「藤九郎盛国説」を話しましょう。
藤九郎守国(盛国)説
根城南部家の先祖、南部実長(南部光行の六男)が甲州波木井(はきい・山梨県身延町)に在住していた時に、?が始まったという説であります。
実長は日蓮上人を厚く敬い、法名を日円と言っていました。日蓮を佐渡から迎えて身延山を寄進し、お寺を建てて、手厚くもてなしました。
橘藤九郎守国は、実長の家来で耕作奉行として仕えていました。
建治2年(1276)の正月十五日殿様の御前で唄いながら舞いを披露しました。舞を?(えんぶり)うたはごいわい(御祝)と申しあげました。これが?のはじまりであると言っております。
実長から4代目の殿様の南部師行が八戸根城に建武元年(1334)に築城し、その一族や家来も甲州から八戸に移住してきました。守国の子孫も同行して来て、根城の荒谷村(八戸市売市)に移り住み、?を伝えた……と言うのが根城南部の?起源説であります。
この示承を受け売市の?組は、旗印に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と表示しています。
② えんぶり摺りとエンコ・エンコ
Q ?は田植え踊りと思いますがえんぶりとは 変った名前ですね。
A ?は八戸地方の農民達が豊年を祈願して踊 る田植え踊りであります。?と呼ぶのは「えぶり」という農具の名からきたもので、農民達が農具を持って踊ったのが始まりと言われております。?は田を摺る作業が踊りとなったことから踊ることを「摺る」と言っております。?の主役は太夫と呼ばれ烏帽子をかぶった舞い手達であります。
農業を守って下さる神様、つまり農神様は華麗な烏帽子に降臨され、太夫達は神の化身になると考えられています。
太夫は組によって3人或は5人ですが、売市は3人です。先頭の太夫を藤九郎、2番目を中の太夫、3番目を畔どめと呼んでいます。
太夫は烏帽子をかぶるほか、ぶっちゃき羽織 (又はぶっさき羽織)と呼ぶ直垂に似た羽織を着ています。売市の場合背中に三階菱の大きな紋と裾に波型が染められており、色は濃紺ですが、他の組では浅黄もあります。
一般の田植踊りのように華やかではなく、神事的な形が色濃く残っていて、足をふまえて、頭の烏帽子をふるさまは一幅の絵であると言えましょう。
子供のおどりエンコ・エンコ
Q 子供もカスリの着物を着て踊っていますね。A 子供も組に入って「エンコ・エンコ」という踊りを演じます。言葉の意味は不明ですが、神の来臨を告げる内容であると言われております。普通少年3人によって踊られます。
農繁期のネコの手も借りたい時に、子供達 も一役買い、幼児の子守りをするというのが踊りになったと言われています。手に持った竹の輪に天保銭を付けた「ゼニダイコ」は子供をあやす「ガラガラ」の役をします。
③ 刀に対する心構え
Q 売市の?は武家とゆかりがあると伝えられ ていますが、何か特微がありますか。
A 売市の?は「なが?」です。従って古典的で摺りは悠長で動作は優雅なのですが、摺りの節々に武者が戦にのぞんだ時の動作が、チラチラ表れます。お囃子の太鼓も早打ちで、それは敵陣への切り込みの攻撃型であると言われています。それに黒い頭巾は忍者のかぶり物と同じであると聞いております。
売市の?組は大小を帯刀しております。従って組の者に対する礼儀作法などの躾はきびしく、特に刀の扱い方は武士の心を持てと躾けられます。戦後は行列には模造刀を帯びていますが、作法は簡略にせず、方式通りに行っております。売市にとっては、刀は武士の持ち物と尊重し、?の小道具とは思っておりません。同じように、囃方の服装も他に比べて大変地味です。
④ 売市の烏帽子
Q 売市の烏帽子には特微があると聞いていま すが。
A ?では烏帽子を三揃い持っています。一昨 年作った物、昭和十四年の物、それに大正初期 の物の三種であります。一番古いものは博物館にでも寄贈しようかと話し合っております。図柄は型紙があって他の組のものと大体同じですが、昨年作ったものは努めて明るい感じに作ったので、十四年の「あめ色」のものに比べると、華かに見えるでしょう。作り方は、売市独得の方法で作っています。大きな判の日本紙を拡げて、それに布を貼り合せ、その上に上質の日本紙を何枚か貼って 固めます。乾いてから二つに折り合せますが、形を整えるのに苦心します。そのかわり丈夫で、後の方を角ばらせるのが特徴であります。よその烏帽子のように柾やダンボール紙などを芯に使えば軽くて作り易いのですが売市では使いません。それが自慢であり又特徴だと言えるでしょう。 日本紙だけで作りますから、目方が大変重くなります。烏帽子をかぶった時、紐をしっかり締めないと頭をふった時、烏帽子がふっとんでゆくと言います。今烏帽子を作る人は、2人位しかいないのではないでしょうか。作り賃は二十万円を超え ると言われています。
烏帽子の図柄
Q 烏帽子の模様はおめでたいもの、農作業な どありますが、きまりがあるのですか。
A 太夫の役柄によって一定しているようです。
先頭の藤九郎は「代かき、苗取り、田植え、稲荷様」中の太夫は「宝づくし」畔どめは「鶴・亀、エビス・大黒」が描かれているようです。
烏帽子には、上から後にかけて五色の紙の「たてがみ」風のものがありますが、そこに神が宿るといい、丁寧に扱っています。ぬいだ時は、床の間とか神棚或は台の上など、必ず高い所に安置して、お神酒をあげ、柏手を打つなど、?のシンボルとして大切に扱っています。
⑤ なが?とどうさい?
Q 売市の?は「なが?」と聞きましたが、
「どうさい?」との見分け方は。
A ?は「なが?」と「どうさい?」との二種ですが、烏帽子に長い五色のテープ状の紙のふさが付いている方が「どうさい?」です。
又歌の中に「ドーサイ」のかけ声が人ります。 ふさが無くて先頭の藤九郎の烏帽子に赤い牡 丹の花(又は卯の花)が付いているのが「なが?」です。なが?はごいわい?、又はキロキロとも呼ばれます。ただ売市には牡丹の花も卯の花も付けていません。
Q その他の違いは
A「なが?」と「どうさい?」とでは摺りが違います。「なが?」は古典的と言われていますが、 テンポが遅く動作が荘重です。神への祈りの所作をとどめていると言えます。現代調に言えばワルツ調だと言う人もあります。それに引きかえ「どうさい?」はリズミカルであり、勇壮で現代感覚でルンバ調と言えましょう。華やかですから若い人に好まれ、「なが?」から「どうさい?」に変る組もふえてきたと言うことです。最近の行列に参加している組は「なが?」7組に対して、「どうさい机」は30組とずい分差があります。
⑥ 御前えんぶり
Q 売市の?は御前?だと聞いていましたが。
A 御前?は、売市、櫛引、田面木、中居林、白銀、湊、柳町、石堂それに後から糠塚と大久保が加えられ十組ありますが、藩政時代に毎年交代で南部邸に上り、御前で?を奉仕しました。これ等の組は刀を帯びるなど格式があると言われております。
廃藩後も続けられ八幡町(今の内丸)の南 部家の屋敷で摺り、南部邸が南部会館になってから市役所の前庭で行うようになりました。
御賄所日誌
南部藩時代は、摺った時の御祝儀に、殿様から次のようなものを賜わったということです。
黒蝶足膳にて、中白米壱升、鳥目十疋、肴台にて干鰯五串、鏡もち弐面、或は黒蝶足膳で鏡餅弐枚、中白米弐升、鳥目十疋、濁酒五升、田作塩煮、浅漬大根とあり、末尾に小頭安太郎が直垂を着用して取り計らったと記されています。
増補奥南温古集
八戸藩の歴史を書いたもののうち、最も古いと思われる接待治郷の「増補奥南温古集」に、御前えんぶりについて書かれています。この時の御前えんぶりは7組があげられています。
大小帯刀については荒谷村の外は「相ならず」と仲々きびしい扱いをしているようです。
⑦ 「取締り」?組
Q 売市は?組の「取締り」と言いますが、どういう役目ですか。
A 明治維新後、えんぶりは廃止させられてい ましたが、街の要望で大沢多門はその復活に努力し、明治十四年新羅神社の豊年祭として行列を行うようになりました。これはその後の話。
河野市兵衛家文書「取締り」について次の ように書かれています。行列の先頭の陣取りの争いで喧嘩があり、売市、糠塚、中居林、類家の四組を「取締り」にして、抽せんによって先頭をきめるようにして争いを防いだという。大沢多門の知恵でしょう。取締りは?組同志の争いや神事にまつわるので礼儀を正しくする。或は若い者にあり勝ないさかいなどの仲裁をするという役目であります。取締は、各組の幟旗の上に紺地に白ヌキで取締と染ぬいた小旗をつけています。
⑧ 楽器と音頭とり
Q お囃子は笛、太鼓、手びらがねという誠に 原始的な簡単な楽器ですが、仲々にぎやかで春を呼ぶという感じで、心が浮き立ちますね。
A それに音頭とりと言う唄い手が、十数名つ いております。色紙で作った「ジャハイ」とよぶ采配をふって音頭をとって歌います。この采配は昔櫛引八幡宮から授かった五色の幣が変形したものということです。従って腰にするようなことはなく、襟元に差す習わしになっています。ジャハイのうち銀色は組頭をあらわします。えんぶりは十数種の舞いからなり、それぞれにお囃子と歌がついています。歌詞は口から口に伝えてきたので、歌っている本人にも判らない部分が多いようです。その一部を現代文で紹介すれば……
鎌倉の早乙女 五月召したるかたびら肩と裾は蓬ぎ草なかはうんずら卯の花……などいうのもあり、無骨な農民のうちにも、なかなかのロマンチストがいたようです
⑨ えんぶりあれこれ
Q ?の世間の評価はどうですか。
A 全国民謡舞踊大会、大分昔のことになりま したが、標題のような催しが昭和3年4月、東京明治神宮外苑の日本青年会館で催されました。 全国から7組の舞踊が選ばれて出演しました。青森県代表として八戸市糠塚えんぶり組が選ばれて出場、舞踊中見事第一位に入賞して、大いに賞讃されました。
国の民俗文化財に指定
?の特異な服装や歌、伝統的な構成に対して、昭和五四年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
Q ?は作り字ですか。
A ?は立派な漢字、?は水稲に八で、八戸に ちなんだ作り字ではないかと思われますが、辞典にある漢字です。醍醐天皇の昌泰(898~929)年中昌住の編んだ「新撰字鏡」の農業調度章の中に「?=江夫利」あり、その他にも見えています。 Q えんぶりの巻物が各組にあって、えんぶり 摺の大意が書いてあるそうですが。
A ?の故事来歴を書いた巻物が、古い?組に 伝えられています。八戸市博物館にも寄託されたものが保管されております。
南部家の奥州下向の歴史から説きおこし、?が侍の武装や武具に由来すること等が、記されています。文中に荒谷村(現売市)の?組が古いしきたりを伝える組で、大小を帯ぶると書かれています。荒谷村を知っている人の筆でしょうか? 売市の?組にも巻物があるそうで、みだりに見ると目がつぶれると、箱に入れて封をして保管(高崎裕允氏)しているということです。
Q 前にも?と刀が話題になりましたが、刀の 扱いについてお知らせ下さい。
A 刀は取締り組の?組だけが、腰に差すもの と言われています。ただ腰に差すだけで抜刀することはありません。
⑩ これからの?の世界
Q 後援者を失った?のこれからの行き方は。
A 昔と違って農閑期と言っても、今の農家で は遊んでいる人はありません。又?は農家の人ばかりではなく、職人でも勤人でも、?の好きな者は集ってきます。勿論みんな無報酬で奉仕です。それでも?を出すには必要経費は産み出さなければなりません。烏帽子や衣装の補修費、参加者の食事や慰労費など最低限度の経費は必要です。 今までは、豊年祭には「うちの?が来る」と言ってご馳走を作り、多額の祝儀で祝ってくれた町の地主がいたのでしたが、それが農地改革で消えてしまいました。その後は専ら「門付け」によって、一般に接するようになったわけです。?は大衆のものになったとも言えますが、それが必ずしも 全面的に歓迎されているとも言えないのが現実です。えんぶりの祝儀の戦後派らしい額(紫峰) と川柳は見ぬいています。えんぶりに女世帯の堅い門(和穂)時にはこういうつらい場面にもぶつかることもあります。?の伝統の灯を守り、国の民俗文化財として継続を図るためには、門付けされる市民の心に、どう対応すべきかの課題を、解かなければならないでしょう。
平成五年度売市?組の名簿
代表者 田中博逸
親方 田中博逸 中村孝 坂本忠
北村 進 松原誠 西村日出圀
太夫
先太夫藤九郎 竹岸 昇
中太夫中畔止め 川口徳治
後太夫畔止め 中村 孝 川口義国
笛 松橋 忠
太鼓 市川 勇
売市の「えんぶり」の「のぼり」に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と記している。荒谷のえんぶりは、「えんぶり」の始祖であるといわれる所以からであろう。
荒谷のえんぶりは、五拍子である。五拍子は、敵を攻撃するのに都合がよかったのであろう。太鼓は平打の太鼓といわれ、敵陣への切り込みに使用された。
二通りの型があり、一つは、昼攻撃型で、春祈梼のふりをして敵陣に向う。もう一つは、夜攻撃型、覆面をして敵に顔を見られないようにしている。この覆面は、現在の黒い頭巾の事であろう。当時の名残りである。
帯刀して、えんぶりを舞うのも武士の名残りであろう。又、えんぶりの旗は侍が戦いの時、使用した旗印であるといい伝えられている。
① えんぶりの起源
Q ?の起源には色々の説があるようですが
A ?のはじまりはいつ頃誰が始めたのか、明 らかではありませんが、その起源を伝える伝説は2~3残されています。
「南部三郎光行」説。「藤九郎盛国」説。「源九郎義経」説などが、その代表的なものです。売市にゆかりのある「藤九郎盛国説」を話しましょう。
藤九郎守国(盛国)説
根城南部家の先祖、南部実長(南部光行の六男)が甲州波木井(はきい・山梨県身延町)に在住していた時に、?が始まったという説であります。
実長は日蓮上人を厚く敬い、法名を日円と言っていました。日蓮を佐渡から迎えて身延山を寄進し、お寺を建てて、手厚くもてなしました。
橘藤九郎守国は、実長の家来で耕作奉行として仕えていました。
建治2年(1276)の正月十五日殿様の御前で唄いながら舞いを披露しました。舞を?(えんぶり)うたはごいわい(御祝)と申しあげました。これが?のはじまりであると言っております。
実長から4代目の殿様の南部師行が八戸根城に建武元年(1334)に築城し、その一族や家来も甲州から八戸に移住してきました。守国の子孫も同行して来て、根城の荒谷村(八戸市売市)に移り住み、?を伝えた……と言うのが根城南部の?起源説であります。
この示承を受け売市の?組は、旗印に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と表示しています。
② えんぶり摺りとエンコ・エンコ
Q ?は田植え踊りと思いますがえんぶりとは 変った名前ですね。
A ?は八戸地方の農民達が豊年を祈願して踊 る田植え踊りであります。?と呼ぶのは「えぶり」という農具の名からきたもので、農民達が農具を持って踊ったのが始まりと言われております。?は田を摺る作業が踊りとなったことから踊ることを「摺る」と言っております。?の主役は太夫と呼ばれ烏帽子をかぶった舞い手達であります。
農業を守って下さる神様、つまり農神様は華麗な烏帽子に降臨され、太夫達は神の化身になると考えられています。
太夫は組によって3人或は5人ですが、売市は3人です。先頭の太夫を藤九郎、2番目を中の太夫、3番目を畔どめと呼んでいます。
太夫は烏帽子をかぶるほか、ぶっちゃき羽織 (又はぶっさき羽織)と呼ぶ直垂に似た羽織を着ています。売市の場合背中に三階菱の大きな紋と裾に波型が染められており、色は濃紺ですが、他の組では浅黄もあります。
一般の田植踊りのように華やかではなく、神事的な形が色濃く残っていて、足をふまえて、頭の烏帽子をふるさまは一幅の絵であると言えましょう。
子供のおどりエンコ・エンコ
Q 子供もカスリの着物を着て踊っていますね。A 子供も組に入って「エンコ・エンコ」という踊りを演じます。言葉の意味は不明ですが、神の来臨を告げる内容であると言われております。普通少年3人によって踊られます。
農繁期のネコの手も借りたい時に、子供達 も一役買い、幼児の子守りをするというのが踊りになったと言われています。手に持った竹の輪に天保銭を付けた「ゼニダイコ」は子供をあやす「ガラガラ」の役をします。
③ 刀に対する心構え
Q 売市の?は武家とゆかりがあると伝えられ ていますが、何か特微がありますか。
A 売市の?は「なが?」です。従って古典的で摺りは悠長で動作は優雅なのですが、摺りの節々に武者が戦にのぞんだ時の動作が、チラチラ表れます。お囃子の太鼓も早打ちで、それは敵陣への切り込みの攻撃型であると言われています。それに黒い頭巾は忍者のかぶり物と同じであると聞いております。
売市の?組は大小を帯刀しております。従って組の者に対する礼儀作法などの躾はきびしく、特に刀の扱い方は武士の心を持てと躾けられます。戦後は行列には模造刀を帯びていますが、作法は簡略にせず、方式通りに行っております。売市にとっては、刀は武士の持ち物と尊重し、?の小道具とは思っておりません。同じように、囃方の服装も他に比べて大変地味です。
④ 売市の烏帽子
Q 売市の烏帽子には特微があると聞いていま すが。
A ?では烏帽子を三揃い持っています。一昨 年作った物、昭和十四年の物、それに大正初期 の物の三種であります。一番古いものは博物館にでも寄贈しようかと話し合っております。図柄は型紙があって他の組のものと大体同じですが、昨年作ったものは努めて明るい感じに作ったので、十四年の「あめ色」のものに比べると、華かに見えるでしょう。作り方は、売市独得の方法で作っています。大きな判の日本紙を拡げて、それに布を貼り合せ、その上に上質の日本紙を何枚か貼って 固めます。乾いてから二つに折り合せますが、形を整えるのに苦心します。そのかわり丈夫で、後の方を角ばらせるのが特徴であります。よその烏帽子のように柾やダンボール紙などを芯に使えば軽くて作り易いのですが売市では使いません。それが自慢であり又特徴だと言えるでしょう。 日本紙だけで作りますから、目方が大変重くなります。烏帽子をかぶった時、紐をしっかり締めないと頭をふった時、烏帽子がふっとんでゆくと言います。今烏帽子を作る人は、2人位しかいないのではないでしょうか。作り賃は二十万円を超え ると言われています。
烏帽子の図柄
Q 烏帽子の模様はおめでたいもの、農作業な どありますが、きまりがあるのですか。
A 太夫の役柄によって一定しているようです。
先頭の藤九郎は「代かき、苗取り、田植え、稲荷様」中の太夫は「宝づくし」畔どめは「鶴・亀、エビス・大黒」が描かれているようです。
烏帽子には、上から後にかけて五色の紙の「たてがみ」風のものがありますが、そこに神が宿るといい、丁寧に扱っています。ぬいだ時は、床の間とか神棚或は台の上など、必ず高い所に安置して、お神酒をあげ、柏手を打つなど、?のシンボルとして大切に扱っています。
⑤ なが?とどうさい?
Q 売市の?は「なが?」と聞きましたが、
「どうさい?」との見分け方は。
A ?は「なが?」と「どうさい?」との二種ですが、烏帽子に長い五色のテープ状の紙のふさが付いている方が「どうさい?」です。
又歌の中に「ドーサイ」のかけ声が人ります。 ふさが無くて先頭の藤九郎の烏帽子に赤い牡 丹の花(又は卯の花)が付いているのが「なが?」です。なが?はごいわい?、又はキロキロとも呼ばれます。ただ売市には牡丹の花も卯の花も付けていません。
Q その他の違いは
A「なが?」と「どうさい?」とでは摺りが違います。「なが?」は古典的と言われていますが、 テンポが遅く動作が荘重です。神への祈りの所作をとどめていると言えます。現代調に言えばワルツ調だと言う人もあります。それに引きかえ「どうさい?」はリズミカルであり、勇壮で現代感覚でルンバ調と言えましょう。華やかですから若い人に好まれ、「なが?」から「どうさい?」に変る組もふえてきたと言うことです。最近の行列に参加している組は「なが?」7組に対して、「どうさい机」は30組とずい分差があります。
⑥ 御前えんぶり
Q 売市の?は御前?だと聞いていましたが。
A 御前?は、売市、櫛引、田面木、中居林、白銀、湊、柳町、石堂それに後から糠塚と大久保が加えられ十組ありますが、藩政時代に毎年交代で南部邸に上り、御前で?を奉仕しました。これ等の組は刀を帯びるなど格式があると言われております。
廃藩後も続けられ八幡町(今の内丸)の南 部家の屋敷で摺り、南部邸が南部会館になってから市役所の前庭で行うようになりました。
御賄所日誌
南部藩時代は、摺った時の御祝儀に、殿様から次のようなものを賜わったということです。
黒蝶足膳にて、中白米壱升、鳥目十疋、肴台にて干鰯五串、鏡もち弐面、或は黒蝶足膳で鏡餅弐枚、中白米弐升、鳥目十疋、濁酒五升、田作塩煮、浅漬大根とあり、末尾に小頭安太郎が直垂を着用して取り計らったと記されています。
増補奥南温古集
八戸藩の歴史を書いたもののうち、最も古いと思われる接待治郷の「増補奥南温古集」に、御前えんぶりについて書かれています。この時の御前えんぶりは7組があげられています。
大小帯刀については荒谷村の外は「相ならず」と仲々きびしい扱いをしているようです。
⑦ 「取締り」?組
Q 売市は?組の「取締り」と言いますが、どういう役目ですか。
A 明治維新後、えんぶりは廃止させられてい ましたが、街の要望で大沢多門はその復活に努力し、明治十四年新羅神社の豊年祭として行列を行うようになりました。これはその後の話。
河野市兵衛家文書「取締り」について次の ように書かれています。行列の先頭の陣取りの争いで喧嘩があり、売市、糠塚、中居林、類家の四組を「取締り」にして、抽せんによって先頭をきめるようにして争いを防いだという。大沢多門の知恵でしょう。取締りは?組同志の争いや神事にまつわるので礼儀を正しくする。或は若い者にあり勝ないさかいなどの仲裁をするという役目であります。取締は、各組の幟旗の上に紺地に白ヌキで取締と染ぬいた小旗をつけています。
⑧ 楽器と音頭とり
Q お囃子は笛、太鼓、手びらがねという誠に 原始的な簡単な楽器ですが、仲々にぎやかで春を呼ぶという感じで、心が浮き立ちますね。
A それに音頭とりと言う唄い手が、十数名つ いております。色紙で作った「ジャハイ」とよぶ采配をふって音頭をとって歌います。この采配は昔櫛引八幡宮から授かった五色の幣が変形したものということです。従って腰にするようなことはなく、襟元に差す習わしになっています。ジャハイのうち銀色は組頭をあらわします。えんぶりは十数種の舞いからなり、それぞれにお囃子と歌がついています。歌詞は口から口に伝えてきたので、歌っている本人にも判らない部分が多いようです。その一部を現代文で紹介すれば……
鎌倉の早乙女 五月召したるかたびら肩と裾は蓬ぎ草なかはうんずら卯の花……などいうのもあり、無骨な農民のうちにも、なかなかのロマンチストがいたようです
⑨ えんぶりあれこれ
Q ?の世間の評価はどうですか。
A 全国民謡舞踊大会、大分昔のことになりま したが、標題のような催しが昭和3年4月、東京明治神宮外苑の日本青年会館で催されました。 全国から7組の舞踊が選ばれて出演しました。青森県代表として八戸市糠塚えんぶり組が選ばれて出場、舞踊中見事第一位に入賞して、大いに賞讃されました。
国の民俗文化財に指定
?の特異な服装や歌、伝統的な構成に対して、昭和五四年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
Q ?は作り字ですか。
A ?は立派な漢字、?は水稲に八で、八戸に ちなんだ作り字ではないかと思われますが、辞典にある漢字です。醍醐天皇の昌泰(898~929)年中昌住の編んだ「新撰字鏡」の農業調度章の中に「?=江夫利」あり、その他にも見えています。 Q えんぶりの巻物が各組にあって、えんぶり 摺の大意が書いてあるそうですが。
A ?の故事来歴を書いた巻物が、古い?組に 伝えられています。八戸市博物館にも寄託されたものが保管されております。
南部家の奥州下向の歴史から説きおこし、?が侍の武装や武具に由来すること等が、記されています。文中に荒谷村(現売市)の?組が古いしきたりを伝える組で、大小を帯ぶると書かれています。荒谷村を知っている人の筆でしょうか? 売市の?組にも巻物があるそうで、みだりに見ると目がつぶれると、箱に入れて封をして保管(高崎裕允氏)しているということです。
Q 前にも?と刀が話題になりましたが、刀の 扱いについてお知らせ下さい。
A 刀は取締り組の?組だけが、腰に差すもの と言われています。ただ腰に差すだけで抜刀することはありません。
⑩ これからの?の世界
Q 後援者を失った?のこれからの行き方は。
A 昔と違って農閑期と言っても、今の農家で は遊んでいる人はありません。又?は農家の人ばかりではなく、職人でも勤人でも、?の好きな者は集ってきます。勿論みんな無報酬で奉仕です。それでも?を出すには必要経費は産み出さなければなりません。烏帽子や衣装の補修費、参加者の食事や慰労費など最低限度の経費は必要です。 今までは、豊年祭には「うちの?が来る」と言ってご馳走を作り、多額の祝儀で祝ってくれた町の地主がいたのでしたが、それが農地改革で消えてしまいました。その後は専ら「門付け」によって、一般に接するようになったわけです。?は大衆のものになったとも言えますが、それが必ずしも 全面的に歓迎されているとも言えないのが現実です。えんぶりの祝儀の戦後派らしい額(紫峰) と川柳は見ぬいています。えんぶりに女世帯の堅い門(和穂)時にはこういうつらい場面にもぶつかることもあります。?の伝統の灯を守り、国の民俗文化財として継続を図るためには、門付けされる市民の心に、どう対応すべきかの課題を、解かなければならないでしょう。
2007年12月1日土曜日
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 6
座談会
南売市の今昔を語る
南売市は歴史の古い町・荒谷時代から
川□さよ、川口助四郎、後村仁太郎、川口市太郎、二沢平義雄、久慈忠治、野沢宗芳、川口喜助、鈴木操町内会長、中村宗エ門司会
挨 拶
鈴木操町内会長記録して後世に残したい荒谷弁でどんどん話して
この度南売市町内会が昭和35年に創立されて30年を迎えました。その30年の節目にあたり、意義あるものを出版刊行し記念にいたしたいと思いまして、何回か会合を持ちました。その結果地域の事情をご存じの方々からお話を伺ってそれ等を記録し後世に残したいと存じまして、座談会を計画しました。売市弁で、色々お話をして戴くようお願い致します。
司 会
中 村 宗右工門
ルーツをお聞きしたい戦前の町内会の制度……
司会を仰せつかりました、中村でございます。不馴れでございますので皆様方の御協力により務めさせて戴きます。
戦後になり、正式に町内会が発足されてから30周年の節目になりますが戦前にはどの様な制度があったのか、過去を振り返り、ルーツを御聞きしてみたい、そうしたことに皆様も関心があることと思います。
町内会の生い立ち
司会 川口助四郎さんの祖父、川口福次郎さんが、舘村時代に区長を勤められたと聞いておりますが、川口さんその辺の所からお話をお願いします。
川□助四郎さん
町内会長は市長が委嘱館村時代は区長制
それでは町内会について話して見ます。
町内会長と言う名称は、昭和15年1月に三戸郡館村から、八戸市に合併になった時からでございます。昭和15年5月1目付八戸市長から交付の委嘱状も手元にあります。
その頃は日支事変中で戦時体制、町内会長の下に隣組制度があり隣組長がありました。
町内会の組織になる前、三戸郡館村時代には大字毎に、区長を設ける制度で明治の頃からあったと思います。
町内会は銃後の守り(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。「銃後の守り」と使う)として戦時中は債券の割当消化、米の供出督励、金属の回収、生活必需品の配給、出征兵士の見送り、防空演習等戦争遂行の為の行政事務の上意下達の役割を持つ組織でした。
一番多い仕事は生活必需品の配給でした。町内の人達に公平に配ばるのに苦労しました。
野沢宗芳さん
高館の飛行場に勤労奉仕戦後は町内会は追放
その他に町内会として勤労奉仕の協力要請がありました。それは高館に陸軍飛行場が建設されることになり、各町内会に割当があり順番に勤労奉仕しました。毎日各地区から動員され、売市方面は徒歩で飛行場まで行きました。遠くは岩手県軽米方面、津軽方面からトラックに乗って応援にきたようです。
戦争が終ってから占領軍から町内会は敵視され、昭和22年マッカサー司令部から追放命令により、町内会は解散されたようです。
南売市も22年に解散して、35年に組織するまで13年間、空白時代が続いた。
区長制度
司会 さきほど区長のお話が出ましたが舘村時代には大字毎に一人区長を置く制度があったようですが。
川口市太郎さん
アメヤのぢいちゃんの役、区長の話で思い出したが、アメヤ(西村燃料店)のぢいさんが各戸に、フレて歩いたのは何の役だったのかな。
川□助四郎さん 正式には使丁、通称コバシリ
あれは通称コバシリ、正式には区使丁と言って、村役場からの納税通知書、田植えが終ると各部落毎に、一斉に休日(テノリ)にする習慣があった。そのことを伝達したりその他村役場、区長から行事の伝達をする役目で、今で言う連絡係に当るのかな。
上村晃一さん
区長と言えば何に当りますか?
川口助四郎さん
今の役員に当ります。
二沢平義雄さん区長は今の町内会長
荒谷から村会議員三人
区長は、地域の自治会長のような役割をもって居り、今の町内会長に当る。当時、南売市からは、川口福次郎、山田太太郎、野沢扇治の三氏が館村の村会議員に選出され、村政の為に活躍されておりました。
上村晃一さん
区長は誰が決めたんですか?
川□助四郎さん
売市の区長は三部落交代昭和16年三分割
部落の総会の時、話し合いで決めてたようです。大字売市は、南、西、長根の三部落で交替して区長を勤めました。売市地区は、範囲が広いので、どなたがやっても大変だと言う事で、昭和16年に、南、西、長根に三分割することを消防屯所に集まり話し合い、その結果、何の異議もなく分割に合意しました。その様な話し合いの中で西村徳次郎さんが従来の新丁組の名称を、西売市に改名したいと発言がありこれを了承しました。売市地区の3分割当時の各町内会長は、次の方々でした。
西売市町内会長…………二沢平市太郎
南売市町内会長…………川口大次郎
長根町内会長…………小軽米福右エ門
南売市副会長…………川口市蔵
売市の道路
司会
戦前、売市の道路が悪かったと聞いてます。特に入梅時期になりますと、ぬかる道になったそうですが?
久慈忠治さん
私か八中(八高)時代に、八中から馬淵川の大橋までマラソンで走りました。その頃は道路の両側に杉やけやきの大木があり、その枝葉でふさがれ、道に陽が当らなかったので一度雨が降れば、ぬかる道となり荷馬車の車輪堀りが出来、馬車の心棒につかえるほど、道路が悪かった。
売市の道路が、コンクリート舗装になったのは、いつごろでしたか。
二沢平義雄さん
私が昭和13年に軍隊に行ったのでよく判らないが。
久慈忠治さん 昭和15年道路舗装
2回目は28年やり直し
昭和15年高館に陸軍飛行場が出来ることになり、その頃道路工事が始まった。道路拡幅工事の為に、両側の大きな木が切り倒され、明るくなり、コンクリート舗装になった。2回目の舗装工事は昭和28年に、やり直しました。
川□助四郎さん 道路工事中火事で苦労
川口徳太郎さんの家が火事になった年だった。丁度その時、道路工事中で割栗石を敷いた状態でしたので、火事場へ行くのに苦労しました。
川口喜助さん
コンクリート舗装写真が証明
私の所にある写真、昭和16年のものを見ますと、すでにコンクリート舗装になってます。
司会
さきほど川口市太郎さんがお聞きになりました、売市の道路がいつ頃コンクリート舗装になったのかについては、今のお話でお判り戴けたと思います。
久慈忠治さん バス停設置の陳情
コンクリート舗装が出来たので、南売市にバス停の設置を陳情しました。
悪道の証明
司会
中新酒店のおばあさんのお話によりますと昭和14年に結婚したそうです。その時おばあさんが、浜市川から人力車に乗って、売市の中新酒店に嫁入したそうです。その頃道路が悪くてと、話してました。
二沢平義雄さん 嫁の実家は西売市
大橋の家までタクシーで
昭和15年に私が結婚しました。嫁の実家は、西売市で西村家の娘で、当時、私の家は馬淵川の大橋の傍にありました。西売市と大橋では近いので歩いて来てもよいのですが、道路舗装工車中の為、タクシーに乗り長根を廻り、新坂を通って、遠廻りをして大橋の私の家に着きました。
売市地区に電気・水道のついた時期
司会
ところで、売市地区にいつごろ電気が点燈しましたか、記憶ありませんか。
後村仁太郎さん 電灯は大正10年頃か まぶしかった10燭光
売市地区は下長に比べ早いような気がした。私が小学校2年生の頃電気がついたと思いました。その頃はまだ電気がついてない家もありました。
野沢宗芳さん
あなたは何年生れですか。
後村仁太郎さん
私は大正3年生れで8才で小学校へ入学しました。今から67年位前になりますが。
野沢宗芳さん
私の姉達の話によれば、子供の頃には電気がついて居たそうです。
川口喜助さん
私の母の話によりますと八戸大火(大正13年)の頃には、もう電気がついて居たと話してます。
便利な水道
司会
次に水道通水はいつ頃でしょうか。
川口市太郎さん
久慈さん売市に来て何年になりますか。
久慈忠治さん
昭和26年4月、私が売市で食料品、雑貨店を開きました。そのあとに、昭和31年頃に水道が通水したと思います。
川口助四郎さん
NTT、高周波の住宅へ通水
その頃佐々木秀文氏が県会議員の時、NTT、官舎及び高周波の住宅へ通水の為、道路を横断する工事をした。
川□喜助さん 売市の水道は昭和38年
昭和38年に根城の浄水場を開設することになり、隣地境界線立合いのため私の父が現地に行って来ました。その時発病し倒れましたので、記憶にあります。
後村仁太郎さん 水道は便利・金がかかる
井戸水を汲むのと違って、蛇口をひねると、水が出て来る水道は便利だったが、工事費が高いので、誰でも水道を引けなかった。井戸水を利用している人は多かった。
電話
川口喜助さん 売市の電話は山田さん
山田国太郎さんの話によると、売市村に電話が入って来た時代は大正7、8年の頃だろう。設置者は父山田大太郎で、住所は売市13番地、当時は局に電話機の在庫がなく、何時になったら入荷するかその見込みも立たず、島谷部町の或る質家から買って設置した。
代金は(権利)1台350円設置料込みで390円(電柱1本10円)かかり、売市まで4本たてた。電話番号は378番で約10年ぐらい使用した。この378番はゴロ読みをするとミナハズレと読まれるので378番は気に入らず、昭和に入って191番と取り替えた。それは昭和35年の自動式になるまで続いた。
荒谷のぼんおどり
司会 荒谷のぼんおどりは、昔からあったようですが、いつ頃から始まったのでしょうか。
川口助四郎さん 荒谷の盆踊りは弘化4年
荒谷のぼんおどりの始まりは弘化4年3月28日に建前をし、その家の新築祝いが8月17日でした。その日、家の前庭で手伝いに来て居た人や、台所廻りの手伝い人のみなさんへ御馳走したら、その人達が喜んでぼんおどりを踊り、夜明けまで踊り続けたそうです。それが荒谷のぼんおどりの始まりだと言われてます。
司会
弘化4年と言えば今から何年位前ですか。
川□助四郎さん 今から約150年位前になります。
上村晃一さん 荒谷はどこからどこまで
荒谷とはとこからどこまででを言いますか。
荒谷の地域
川□助四郎さん
荒谷の部落は庚申塚のある所から、西売市の西村燃料店の横に区画整理前の旧道がありました。そこまでを荒谷と呼んでいたようです。
久慈忠治さん
私達が小学校(八尋)に人ってた頃、人まねこまね荒谷の狐と言った事を記憶してますが。
川□助四郎さん 荒谷の狐のいわれ
昔は狐はどこにでも居たと思います。一説によりますと、凶作が続き、藩の財政が苦しくなり年貢の取り立てが厳しくなった。農民は働けど働けど苦しくなるばかり、自分から進んで、何かしようとする気持ちを持たなくなった。他村の人が仕事を始めたら仕事につくと言うような事で、よそ村の人達より遅れると言う有様だった。人のまねをするようであった。それを見て、よその人達は馬鹿にして人まねこまね荒谷の狐というようになった。
売市小学校の思い出
司会
売市小学校が根城の現在地に移ったと聞いています。その頃のお話をお願いします。
二沢平義雄さん 売市小学校から根城の新校舎に移ったのは昭和5年4月でした。新しい学校が現在地に建設され、移転することになったが移転の予算も無いので、生徒達が机、椅子、その他の備品を運びました。
川口助四郎さん 高等科の生れたいきさつ
私たちが売市高等小学校の第1回生です。それまでは吹上の高等小学校に御世話になってました。入学式の間近になって、吹上小学校から入学を断られました。そこで大急ぎで村議会を開き、協議の結果、売市小学校に高等科を併設する事になり、私達が第1回の卒業生となり、記念に校旗を寄附しました。
川□市太郎さん 高等科は袴を着けた
それまでは、吹上の高等科に進むには袴を着け人並みの服装で通学する。ところが新品は買えない時代でしたので、古着を買いに高岩まで行き、古着店で調達して吹上の高等科へ通ったものだ。色々な事があり吹上の学校に行けない人もありました。地元売市にも高等科が出来たので99%の人が入学しました。
司会 昔は寺小屋がありそこで子弟の教育が行なわれていたと聞きますが。
川口助四郎さん 売市の寺小屋は弘化3年 教科書「源平藤橘」
寺小屋は弘化3年、今から約150年程前に開かれたようです。その頃使用された、御手本が残ってます。今の教科書の代りに「源平藤橘」を手本にし、掟に基づいて寺小屋が聞かれて居たようです。
その他の行事
司会
その他の行事という事で、売市地区にあった行事は。
川口さよさん ムギカラ人形で悪魔払い 村の四ツ角でモチ撤き
私達が小さい頃にあったのに、悪魔払いがありました。6月24日、無病息災を願って、村の人達が産土神(おばしな様)に集まり、ムギカラで、男女一対の人形を造り屋敷の入口の両側に寄りかけた、それを何日かすると川に流し1年間病魔を払う役割をしました。又、悪魔払いに村の四ツ角、東西南北にモチを作りこの1年無事に過せますように祈ってモチをまき散らした。
司会
南米の方ではトウキミを粉にしてモチを作り主食にしてると聞きますが、この地区ではどんなものがありましたか。
鈴木 操会長
昔は麦モチ、そばモチ等をかしわの葉にくるんで、灰の中に入れて焼き、ほど焼きと言って食べたと聞いています。
川□さよさん
かぼちやの葉にくるんで、ほど焼きにすると青くさくて、おいしくなかった。
司会
青年団当時、各青年団で泊りがけで研修会を開いたようですが。
川□助四郎さん 一夜講習と館村青年団
館村青年団では階上町の寺下観音で一夜講習会がありました。その時小井川先生や神代忠治さん達も同行しました。
二沢平義雄さん 寺下観音の別当さん宅で
その時、私も行った、寺下観音の別当さんの家へ泊まって、研修会があり往復歩きました。館村青年団主催で一晩泊まって、先生方のお話を聞いて帰ってきた事があります。往きは耳ケ吠を通り、帰途は海岸に出て途中にある、史蹟、名勝を、小井川先生の説明をお聞きしながら帰って来ました。
司会
長時間に亘り、売市を中心に昔の話、弘化年間から戦後にかけて売市に、まつわる貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。
南売市の今昔を語る
南売市は歴史の古い町・荒谷時代から
川□さよ、川口助四郎、後村仁太郎、川口市太郎、二沢平義雄、久慈忠治、野沢宗芳、川口喜助、鈴木操町内会長、中村宗エ門司会
挨 拶
鈴木操町内会長記録して後世に残したい荒谷弁でどんどん話して
この度南売市町内会が昭和35年に創立されて30年を迎えました。その30年の節目にあたり、意義あるものを出版刊行し記念にいたしたいと思いまして、何回か会合を持ちました。その結果地域の事情をご存じの方々からお話を伺ってそれ等を記録し後世に残したいと存じまして、座談会を計画しました。売市弁で、色々お話をして戴くようお願い致します。
司 会
中 村 宗右工門
ルーツをお聞きしたい戦前の町内会の制度……
司会を仰せつかりました、中村でございます。不馴れでございますので皆様方の御協力により務めさせて戴きます。
戦後になり、正式に町内会が発足されてから30周年の節目になりますが戦前にはどの様な制度があったのか、過去を振り返り、ルーツを御聞きしてみたい、そうしたことに皆様も関心があることと思います。
町内会の生い立ち
司会 川口助四郎さんの祖父、川口福次郎さんが、舘村時代に区長を勤められたと聞いておりますが、川口さんその辺の所からお話をお願いします。
川□助四郎さん
町内会長は市長が委嘱館村時代は区長制
それでは町内会について話して見ます。
町内会長と言う名称は、昭和15年1月に三戸郡館村から、八戸市に合併になった時からでございます。昭和15年5月1目付八戸市長から交付の委嘱状も手元にあります。
その頃は日支事変中で戦時体制、町内会長の下に隣組制度があり隣組長がありました。
町内会の組織になる前、三戸郡館村時代には大字毎に、区長を設ける制度で明治の頃からあったと思います。
町内会は銃後の守り(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。「銃後の守り」と使う)として戦時中は債券の割当消化、米の供出督励、金属の回収、生活必需品の配給、出征兵士の見送り、防空演習等戦争遂行の為の行政事務の上意下達の役割を持つ組織でした。
一番多い仕事は生活必需品の配給でした。町内の人達に公平に配ばるのに苦労しました。
野沢宗芳さん
高館の飛行場に勤労奉仕戦後は町内会は追放
その他に町内会として勤労奉仕の協力要請がありました。それは高館に陸軍飛行場が建設されることになり、各町内会に割当があり順番に勤労奉仕しました。毎日各地区から動員され、売市方面は徒歩で飛行場まで行きました。遠くは岩手県軽米方面、津軽方面からトラックに乗って応援にきたようです。
戦争が終ってから占領軍から町内会は敵視され、昭和22年マッカサー司令部から追放命令により、町内会は解散されたようです。
南売市も22年に解散して、35年に組織するまで13年間、空白時代が続いた。
区長制度
司会 さきほど区長のお話が出ましたが舘村時代には大字毎に一人区長を置く制度があったようですが。
川口市太郎さん
アメヤのぢいちゃんの役、区長の話で思い出したが、アメヤ(西村燃料店)のぢいさんが各戸に、フレて歩いたのは何の役だったのかな。
川□助四郎さん 正式には使丁、通称コバシリ
あれは通称コバシリ、正式には区使丁と言って、村役場からの納税通知書、田植えが終ると各部落毎に、一斉に休日(テノリ)にする習慣があった。そのことを伝達したりその他村役場、区長から行事の伝達をする役目で、今で言う連絡係に当るのかな。
上村晃一さん
区長と言えば何に当りますか?
川口助四郎さん
今の役員に当ります。
二沢平義雄さん区長は今の町内会長
荒谷から村会議員三人
区長は、地域の自治会長のような役割をもって居り、今の町内会長に当る。当時、南売市からは、川口福次郎、山田太太郎、野沢扇治の三氏が館村の村会議員に選出され、村政の為に活躍されておりました。
上村晃一さん
区長は誰が決めたんですか?
川□助四郎さん
売市の区長は三部落交代昭和16年三分割
部落の総会の時、話し合いで決めてたようです。大字売市は、南、西、長根の三部落で交替して区長を勤めました。売市地区は、範囲が広いので、どなたがやっても大変だと言う事で、昭和16年に、南、西、長根に三分割することを消防屯所に集まり話し合い、その結果、何の異議もなく分割に合意しました。その様な話し合いの中で西村徳次郎さんが従来の新丁組の名称を、西売市に改名したいと発言がありこれを了承しました。売市地区の3分割当時の各町内会長は、次の方々でした。
西売市町内会長…………二沢平市太郎
南売市町内会長…………川口大次郎
長根町内会長…………小軽米福右エ門
南売市副会長…………川口市蔵
売市の道路
司会
戦前、売市の道路が悪かったと聞いてます。特に入梅時期になりますと、ぬかる道になったそうですが?
久慈忠治さん
私か八中(八高)時代に、八中から馬淵川の大橋までマラソンで走りました。その頃は道路の両側に杉やけやきの大木があり、その枝葉でふさがれ、道に陽が当らなかったので一度雨が降れば、ぬかる道となり荷馬車の車輪堀りが出来、馬車の心棒につかえるほど、道路が悪かった。
売市の道路が、コンクリート舗装になったのは、いつごろでしたか。
二沢平義雄さん
私が昭和13年に軍隊に行ったのでよく判らないが。
久慈忠治さん 昭和15年道路舗装
2回目は28年やり直し
昭和15年高館に陸軍飛行場が出来ることになり、その頃道路工事が始まった。道路拡幅工事の為に、両側の大きな木が切り倒され、明るくなり、コンクリート舗装になった。2回目の舗装工事は昭和28年に、やり直しました。
川□助四郎さん 道路工事中火事で苦労
川口徳太郎さんの家が火事になった年だった。丁度その時、道路工事中で割栗石を敷いた状態でしたので、火事場へ行くのに苦労しました。
川口喜助さん
コンクリート舗装写真が証明
私の所にある写真、昭和16年のものを見ますと、すでにコンクリート舗装になってます。
司会
さきほど川口市太郎さんがお聞きになりました、売市の道路がいつ頃コンクリート舗装になったのかについては、今のお話でお判り戴けたと思います。
久慈忠治さん バス停設置の陳情
コンクリート舗装が出来たので、南売市にバス停の設置を陳情しました。
悪道の証明
司会
中新酒店のおばあさんのお話によりますと昭和14年に結婚したそうです。その時おばあさんが、浜市川から人力車に乗って、売市の中新酒店に嫁入したそうです。その頃道路が悪くてと、話してました。
二沢平義雄さん 嫁の実家は西売市
大橋の家までタクシーで
昭和15年に私が結婚しました。嫁の実家は、西売市で西村家の娘で、当時、私の家は馬淵川の大橋の傍にありました。西売市と大橋では近いので歩いて来てもよいのですが、道路舗装工車中の為、タクシーに乗り長根を廻り、新坂を通って、遠廻りをして大橋の私の家に着きました。
売市地区に電気・水道のついた時期
司会
ところで、売市地区にいつごろ電気が点燈しましたか、記憶ありませんか。
後村仁太郎さん 電灯は大正10年頃か まぶしかった10燭光
売市地区は下長に比べ早いような気がした。私が小学校2年生の頃電気がついたと思いました。その頃はまだ電気がついてない家もありました。
野沢宗芳さん
あなたは何年生れですか。
後村仁太郎さん
私は大正3年生れで8才で小学校へ入学しました。今から67年位前になりますが。
野沢宗芳さん
私の姉達の話によれば、子供の頃には電気がついて居たそうです。
川口喜助さん
私の母の話によりますと八戸大火(大正13年)の頃には、もう電気がついて居たと話してます。
便利な水道
司会
次に水道通水はいつ頃でしょうか。
川口市太郎さん
久慈さん売市に来て何年になりますか。
久慈忠治さん
昭和26年4月、私が売市で食料品、雑貨店を開きました。そのあとに、昭和31年頃に水道が通水したと思います。
川口助四郎さん
NTT、高周波の住宅へ通水
その頃佐々木秀文氏が県会議員の時、NTT、官舎及び高周波の住宅へ通水の為、道路を横断する工事をした。
川□喜助さん 売市の水道は昭和38年
昭和38年に根城の浄水場を開設することになり、隣地境界線立合いのため私の父が現地に行って来ました。その時発病し倒れましたので、記憶にあります。
後村仁太郎さん 水道は便利・金がかかる
井戸水を汲むのと違って、蛇口をひねると、水が出て来る水道は便利だったが、工事費が高いので、誰でも水道を引けなかった。井戸水を利用している人は多かった。
電話
川口喜助さん 売市の電話は山田さん
山田国太郎さんの話によると、売市村に電話が入って来た時代は大正7、8年の頃だろう。設置者は父山田大太郎で、住所は売市13番地、当時は局に電話機の在庫がなく、何時になったら入荷するかその見込みも立たず、島谷部町の或る質家から買って設置した。
代金は(権利)1台350円設置料込みで390円(電柱1本10円)かかり、売市まで4本たてた。電話番号は378番で約10年ぐらい使用した。この378番はゴロ読みをするとミナハズレと読まれるので378番は気に入らず、昭和に入って191番と取り替えた。それは昭和35年の自動式になるまで続いた。
荒谷のぼんおどり
司会 荒谷のぼんおどりは、昔からあったようですが、いつ頃から始まったのでしょうか。
川口助四郎さん 荒谷の盆踊りは弘化4年
荒谷のぼんおどりの始まりは弘化4年3月28日に建前をし、その家の新築祝いが8月17日でした。その日、家の前庭で手伝いに来て居た人や、台所廻りの手伝い人のみなさんへ御馳走したら、その人達が喜んでぼんおどりを踊り、夜明けまで踊り続けたそうです。それが荒谷のぼんおどりの始まりだと言われてます。
司会
弘化4年と言えば今から何年位前ですか。
川□助四郎さん 今から約150年位前になります。
上村晃一さん 荒谷はどこからどこまで
荒谷とはとこからどこまででを言いますか。
荒谷の地域
川□助四郎さん
荒谷の部落は庚申塚のある所から、西売市の西村燃料店の横に区画整理前の旧道がありました。そこまでを荒谷と呼んでいたようです。
久慈忠治さん
私達が小学校(八尋)に人ってた頃、人まねこまね荒谷の狐と言った事を記憶してますが。
川□助四郎さん 荒谷の狐のいわれ
昔は狐はどこにでも居たと思います。一説によりますと、凶作が続き、藩の財政が苦しくなり年貢の取り立てが厳しくなった。農民は働けど働けど苦しくなるばかり、自分から進んで、何かしようとする気持ちを持たなくなった。他村の人が仕事を始めたら仕事につくと言うような事で、よそ村の人達より遅れると言う有様だった。人のまねをするようであった。それを見て、よその人達は馬鹿にして人まねこまね荒谷の狐というようになった。
売市小学校の思い出
司会
売市小学校が根城の現在地に移ったと聞いています。その頃のお話をお願いします。
二沢平義雄さん 売市小学校から根城の新校舎に移ったのは昭和5年4月でした。新しい学校が現在地に建設され、移転することになったが移転の予算も無いので、生徒達が机、椅子、その他の備品を運びました。
川口助四郎さん 高等科の生れたいきさつ
私たちが売市高等小学校の第1回生です。それまでは吹上の高等小学校に御世話になってました。入学式の間近になって、吹上小学校から入学を断られました。そこで大急ぎで村議会を開き、協議の結果、売市小学校に高等科を併設する事になり、私達が第1回の卒業生となり、記念に校旗を寄附しました。
川□市太郎さん 高等科は袴を着けた
それまでは、吹上の高等科に進むには袴を着け人並みの服装で通学する。ところが新品は買えない時代でしたので、古着を買いに高岩まで行き、古着店で調達して吹上の高等科へ通ったものだ。色々な事があり吹上の学校に行けない人もありました。地元売市にも高等科が出来たので99%の人が入学しました。
司会 昔は寺小屋がありそこで子弟の教育が行なわれていたと聞きますが。
川口助四郎さん 売市の寺小屋は弘化3年 教科書「源平藤橘」
寺小屋は弘化3年、今から約150年程前に開かれたようです。その頃使用された、御手本が残ってます。今の教科書の代りに「源平藤橘」を手本にし、掟に基づいて寺小屋が聞かれて居たようです。
その他の行事
司会
その他の行事という事で、売市地区にあった行事は。
川口さよさん ムギカラ人形で悪魔払い 村の四ツ角でモチ撤き
私達が小さい頃にあったのに、悪魔払いがありました。6月24日、無病息災を願って、村の人達が産土神(おばしな様)に集まり、ムギカラで、男女一対の人形を造り屋敷の入口の両側に寄りかけた、それを何日かすると川に流し1年間病魔を払う役割をしました。又、悪魔払いに村の四ツ角、東西南北にモチを作りこの1年無事に過せますように祈ってモチをまき散らした。
司会
南米の方ではトウキミを粉にしてモチを作り主食にしてると聞きますが、この地区ではどんなものがありましたか。
鈴木 操会長
昔は麦モチ、そばモチ等をかしわの葉にくるんで、灰の中に入れて焼き、ほど焼きと言って食べたと聞いています。
川□さよさん
かぼちやの葉にくるんで、ほど焼きにすると青くさくて、おいしくなかった。
司会
青年団当時、各青年団で泊りがけで研修会を開いたようですが。
川□助四郎さん 一夜講習と館村青年団
館村青年団では階上町の寺下観音で一夜講習会がありました。その時小井川先生や神代忠治さん達も同行しました。
二沢平義雄さん 寺下観音の別当さん宅で
その時、私も行った、寺下観音の別当さんの家へ泊まって、研修会があり往復歩きました。館村青年団主催で一晩泊まって、先生方のお話を聞いて帰ってきた事があります。往きは耳ケ吠を通り、帰途は海岸に出て途中にある、史蹟、名勝を、小井川先生の説明をお聞きしながら帰って来ました。
司会
長時間に亘り、売市を中心に昔の話、弘化年間から戦後にかけて売市に、まつわる貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。
2007年11月1日木曜日
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 5
民生委員のころ
鈴木 弥生
小春日和の暖かい或る日、町内会の役員の方々がお揃いでお見えになりました。昭和49年の頃でありました。お話は民生委員の候補者を町内から推せんするのだが、その仕事を引受けてくれないかという、おさそいでありました。
売市に移って来て9年目の頃で、ちょうど子供達も大きくなり、手がかからなくなった時でもあったので、何か習いごとでもと思っていた矢先でもありました。お話には興味をひかれました。
しかし、事務的な仕事には経験が乏しい事などを思って、果して務まるかと、不安がつきまとい、決心がつきかねておりました。けれどもお話はどんどん進められ、12月には辞令をいただくようになってしまいました。町内からは植木さんも一緒に推せんされていました。
辞令をいただいた早々に、例会の案内がありました。民生委員の例会というのが、毎月定期的に開かれ、根城地区の委員27名全員が集まり、新しい仕事の打合せ、調査の報告などが行なわれますが、先輩委員の経験談、苦心談が良い勉強になりました。
地区委員の代表を総務と言いますが、古参の田村弥五蔵先生がお引受けになって、おせわされることになりました。
研修会も度々開かれました。ここでも仕事の実務をいろいろ聞かせていただきました。先輩方の事例の発表は、仕事の実際を取扱う上に大変参考になりました。
しかし、むずかしかったのは、福祉の適用を受ける証明でありました。適用を希望する方には強い同情の気持を持ちますが、適用に近いきわどい境にあるものなどには、随分なやみました。
民生委員の仕事は、全面的に福祉の仕事でありますが、福祉団体の運営にも協力する仕事もありました。例えば日本赤十字社の仕事、或は赤い羽根募金や福祉協議会の仕事などがそれであります。
町内では、赤い羽根募金や歳末助け合い募金、日赤の社費寄付などを、町内の予算に計上して、一般からの募金をしませんでした。
その内、日赤の社費は社員個人が、奉仕の心を社費として負担するのが建前であるということから、日赤の社員を募集することになりました。
町内を戸別訪問して入会を勧誘しました。植木さんは有功章社員を多数勧誘しました。久慈さんも協力してくれました。
その結果、金色有功章社員、銀色有功章社員、金色特別社員、銀色特別社員、正社員等々に多数の方々が申込んで下さいまして好成績でありました。中でも互光産業㈱さんでは金色有功章寄付金を2年に亘って行うなどの協力ぶりでありました。この事は根城地区全体の成績を押し上げ、全市的にみても成績の上位地区になり、例会では田村総務さんも上気嫌で成績を発表されました。
何れは、赤い羽根も歳末助け合いの募金でも同じように検討する必要があるのではないかと思いました、
民生委員を3期9年間無事務めさせていただきましたが、この仕事を通じて、多くの方々の知遇をいただき、教えられ、助けられることが沢山ありました。又年1回行なわれる研修旅行では、他都市の福祉の新しい施設を見学する機会にも恵まれ、9年間は決して長い期間ではありませんでした。私の人生に、大きな剌激になったことは確であります。このことは常に感謝の気持で一杯でおります。
町内会奮戦記
鈴木 操
私が町内会に初めてつながりを待ったのは、昭和17年、30歳の時のことでした。戦争中のことで町内会は行政の末端の仕事を色々と背負っておりました。
当持私は、鳥屋部町に住んでおりました。町内会に協力してほしいというお話がありました。当時若い者は召集されて戦地に行くか、工場で生産に、或は食糧増産に励んでいる時で、遊んでいる者なぞ無いときでした。再三のお話で、結局お手伝いすることになりました。
町内会長は松原富男という方で、前に八戸銀行の頭取もされた事があり、又吹揚にナシ畑や栗の木畑を広く持っておられ、それに貸家を30戸程建て、ご自分の名前を採って松富町とつけたという、八戸でもトップクラスの資産家ということでした。
○ 戦時中の町内会
頼まれた仕事は、総務班長と経済班長という立派な名前でしたが、他に警防班長、教化班長、婦人班長、健民班長が居りました。実際は名目だけで、総務班長が一人で全部こなさなければならない本当の雑務係でした。最初からそう説明されました。
辞令をもらって、初めて手がけた仕事は、生活物資の配給でした。小豆やもち米などの食料品、足袋や手拭のような衣料品、酒やたばこなどの嗜好品、それもたっぷりくるのではなく、ほんの少々の数量でしたので、配給の順番を決めて、隣組長を通じて配給切符で配るのでした。それでも当った人には喜ばれましたが、はずれた人は何も言いませんが、顔を見るのはつらいものでした。それよりももっとつらいことは、米の供出要請や債券の割当てでした。町内には大きな地主(田んぼを持っている者)が3~4人居り、その人達には秋に小作米が入ります。その中から、1~2俵(4斗が一俵)位、市に売ってくれと要請するのでした。それを供出米と言っていました。翼賛(よくさん・力をそえて(天子などを)たすけること)壮年団と町内会が市の手先となって地主の説得に当るのでした。地主は二重取りだと怒りをぶちまけます。たしかに市中には公定価の何倍の価でヤミ米が流れていました。
市の説明では、供出米を病人などに特配して、すこしでもひもじさを救いたいという…納得のゆく説明でした。
叉そのような収入の多い人は、町内会に割当てられる戦時債券(戦時に、国家が軍事費調達のために発行する公債。軍事公債)なども、沢山買ってもらわなければならない相手です。債券は1枚10円から20円位でした。随分各方面に押し付けました。今でも、その時の末消化のため引受けた債券が2~30枚手許にありますが、子供のおもちゃにもなりません。当時は3千円も出せば、まず住める一戸建の住宅が建てられたものです。
○ 戦争末期の町内会
戦争が苛烈になるにつれて、物資の配給はだんだんすくなくなってきました。反面出征兵士の見送りや、防空演習、金属の回収、慰問袋を差出す割当などが多くなり、町内から持って行かれるものが多くなりました。
昭和18年になってからは、高館の飛行場の整備や、是川村の上り街道近辺の陣地構築に、人夫代りに勤労奉仕という名目で、働く人の割当てがあるようになりました。言葉を代えて言えば、人夫の手配でした。勿論これらの仕事は奉仕であって賃金が支払われるわけではありません。ふだん労働をした事のない人も、セメントや木材をリヤカーやソリで運搬したり、穴掘りなどの仕事をしました。
勿論毎日の奉仕ではなく、月のうち1~2回の出勤だったので、続いたものと思います。
○ 町内会の仕事にお別れ
私の町内会の仕事は2ヵ年間という、短かい期間で終りました。昭和19年に月刊評論社という雑誌社に勤めることになったためであります 2ヵ年間ではありましたが、随分動き回りました。仕事には追い廻されましたが、思うように、自由にやらせてもらったので、面白味もありました。松原会長は「問題が起きたら、私が処理するから、どんどんやって下さい」と言って、命令をしたことはなく、親分肌の人でした。
仕事をやめてからの感じですが、供出させられた人、債券を押し付けられた人達は、さぞ不愉快な思いをしたことであるうと、反省の念しきりであります。
聖戦遂行という美名に、一点の疑いも持たぬ不敏(ふびん・才知・才能に乏しいこと。多く自分について、へりくだって言う時に用いる)のなせる業でした。
昭和22年のポツダム政令15号によれば、私の町内会での行動は、公職追放に問われるものであったであろうと、政令を何度も何度も読み返しました。
○ 多くの知人を得る
町内会は、市の大政翼賛会(第2次近衛内閣の下で新体制運動の結果結成された国民統制組織。各政党は解党、また産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会を統合、部落会・町内会・隣組を末端組織とした)、或は翼賛壮年団と関連がありましたので、それらの団休の幹部とお近づきとなり、おかげで私の人脈は豊かになりました。
市の翼賛会の事務局長の永田正太郎(後の佐々木正太郎デーリー東北社長)三戸郡翼賛会事務局長の峯正太郎、同総務の成田昌彦、熊谷義雄、橋本八右衛門、広田豊柳、大久保弥三郎、(田口豊洲団長はその前からお近づきいただいてました)等の方々が私の名簿に記されております。私の貴重な財産であり、払の人生に大きな影響を及ぼした方々であります。
○ 鳥屋部町から南売市へ
私が鳥屋部町から南売市に移って来だのは、昭和41年早々のことでありました。家は南売市のバス停から100米ほど西の方に入った大変静かな畑の中にありました。家の前は柿の木畑で、初夏の柿の葉の美しさを、この時初めて知りました。
又初夏の候には近くの高い木の天辺で鳴く「カッコー」の明るい声は、大げさに言えば、この世の天国という感の深いものでした。
勤め先の商工会議所の仕事に没頭していた昭和44年の春の頃、南売市の町内会からお呼びがあり、又お手伝い(監事)することになりました。それ以来平成4年の春までの23年間おつきあいさせていただき、居心地が良く、つい長居してしまいました。
その間、いつ頃か忘れましたが、朝の新聞を広げて一番先に目の行くところは、投書欄になっておりました。そこには、時々町内会に関することが投稿されており、貴重な意見があり、要望があり、又時には批判や手きびしい非難が書かれており、教えられるところが沢山ありました。世間の眼はするどいものだと思い知らされました。
○ 町内会とともに
町内会の運営は信頼性、堅実性、永続性が基本だと言われています。
そこに住んでいる者は、地域団体である町内会とは、何らかの形で、かかわりを持っていて、のがれられないものです。従って町内会は住民が町内会から圧迫やわずらわしさを感じないよう、親しさと安上りの団体であることを目標に運営すべきであると心がけてきました。
しかし、あまりそれにのみこだわりますと、どうしても事業は「地味」になりがちです。今考えてみれば、時には一点豪華主義も取入れて会員の心に楽しみと喜びを持たせるべきであったと、いささか反省しております。
鈴木 弥生
小春日和の暖かい或る日、町内会の役員の方々がお揃いでお見えになりました。昭和49年の頃でありました。お話は民生委員の候補者を町内から推せんするのだが、その仕事を引受けてくれないかという、おさそいでありました。
売市に移って来て9年目の頃で、ちょうど子供達も大きくなり、手がかからなくなった時でもあったので、何か習いごとでもと思っていた矢先でもありました。お話には興味をひかれました。
しかし、事務的な仕事には経験が乏しい事などを思って、果して務まるかと、不安がつきまとい、決心がつきかねておりました。けれどもお話はどんどん進められ、12月には辞令をいただくようになってしまいました。町内からは植木さんも一緒に推せんされていました。
辞令をいただいた早々に、例会の案内がありました。民生委員の例会というのが、毎月定期的に開かれ、根城地区の委員27名全員が集まり、新しい仕事の打合せ、調査の報告などが行なわれますが、先輩委員の経験談、苦心談が良い勉強になりました。
地区委員の代表を総務と言いますが、古参の田村弥五蔵先生がお引受けになって、おせわされることになりました。
研修会も度々開かれました。ここでも仕事の実務をいろいろ聞かせていただきました。先輩方の事例の発表は、仕事の実際を取扱う上に大変参考になりました。
しかし、むずかしかったのは、福祉の適用を受ける証明でありました。適用を希望する方には強い同情の気持を持ちますが、適用に近いきわどい境にあるものなどには、随分なやみました。
民生委員の仕事は、全面的に福祉の仕事でありますが、福祉団体の運営にも協力する仕事もありました。例えば日本赤十字社の仕事、或は赤い羽根募金や福祉協議会の仕事などがそれであります。
町内では、赤い羽根募金や歳末助け合い募金、日赤の社費寄付などを、町内の予算に計上して、一般からの募金をしませんでした。
その内、日赤の社費は社員個人が、奉仕の心を社費として負担するのが建前であるということから、日赤の社員を募集することになりました。
町内を戸別訪問して入会を勧誘しました。植木さんは有功章社員を多数勧誘しました。久慈さんも協力してくれました。
その結果、金色有功章社員、銀色有功章社員、金色特別社員、銀色特別社員、正社員等々に多数の方々が申込んで下さいまして好成績でありました。中でも互光産業㈱さんでは金色有功章寄付金を2年に亘って行うなどの協力ぶりでありました。この事は根城地区全体の成績を押し上げ、全市的にみても成績の上位地区になり、例会では田村総務さんも上気嫌で成績を発表されました。
何れは、赤い羽根も歳末助け合いの募金でも同じように検討する必要があるのではないかと思いました、
民生委員を3期9年間無事務めさせていただきましたが、この仕事を通じて、多くの方々の知遇をいただき、教えられ、助けられることが沢山ありました。又年1回行なわれる研修旅行では、他都市の福祉の新しい施設を見学する機会にも恵まれ、9年間は決して長い期間ではありませんでした。私の人生に、大きな剌激になったことは確であります。このことは常に感謝の気持で一杯でおります。
町内会奮戦記
鈴木 操
私が町内会に初めてつながりを待ったのは、昭和17年、30歳の時のことでした。戦争中のことで町内会は行政の末端の仕事を色々と背負っておりました。
当持私は、鳥屋部町に住んでおりました。町内会に協力してほしいというお話がありました。当時若い者は召集されて戦地に行くか、工場で生産に、或は食糧増産に励んでいる時で、遊んでいる者なぞ無いときでした。再三のお話で、結局お手伝いすることになりました。
町内会長は松原富男という方で、前に八戸銀行の頭取もされた事があり、又吹揚にナシ畑や栗の木畑を広く持っておられ、それに貸家を30戸程建て、ご自分の名前を採って松富町とつけたという、八戸でもトップクラスの資産家ということでした。
○ 戦時中の町内会
頼まれた仕事は、総務班長と経済班長という立派な名前でしたが、他に警防班長、教化班長、婦人班長、健民班長が居りました。実際は名目だけで、総務班長が一人で全部こなさなければならない本当の雑務係でした。最初からそう説明されました。
辞令をもらって、初めて手がけた仕事は、生活物資の配給でした。小豆やもち米などの食料品、足袋や手拭のような衣料品、酒やたばこなどの嗜好品、それもたっぷりくるのではなく、ほんの少々の数量でしたので、配給の順番を決めて、隣組長を通じて配給切符で配るのでした。それでも当った人には喜ばれましたが、はずれた人は何も言いませんが、顔を見るのはつらいものでした。それよりももっとつらいことは、米の供出要請や債券の割当てでした。町内には大きな地主(田んぼを持っている者)が3~4人居り、その人達には秋に小作米が入ります。その中から、1~2俵(4斗が一俵)位、市に売ってくれと要請するのでした。それを供出米と言っていました。翼賛(よくさん・力をそえて(天子などを)たすけること)壮年団と町内会が市の手先となって地主の説得に当るのでした。地主は二重取りだと怒りをぶちまけます。たしかに市中には公定価の何倍の価でヤミ米が流れていました。
市の説明では、供出米を病人などに特配して、すこしでもひもじさを救いたいという…納得のゆく説明でした。
叉そのような収入の多い人は、町内会に割当てられる戦時債券(戦時に、国家が軍事費調達のために発行する公債。軍事公債)なども、沢山買ってもらわなければならない相手です。債券は1枚10円から20円位でした。随分各方面に押し付けました。今でも、その時の末消化のため引受けた債券が2~30枚手許にありますが、子供のおもちゃにもなりません。当時は3千円も出せば、まず住める一戸建の住宅が建てられたものです。
○ 戦争末期の町内会
戦争が苛烈になるにつれて、物資の配給はだんだんすくなくなってきました。反面出征兵士の見送りや、防空演習、金属の回収、慰問袋を差出す割当などが多くなり、町内から持って行かれるものが多くなりました。
昭和18年になってからは、高館の飛行場の整備や、是川村の上り街道近辺の陣地構築に、人夫代りに勤労奉仕という名目で、働く人の割当てがあるようになりました。言葉を代えて言えば、人夫の手配でした。勿論これらの仕事は奉仕であって賃金が支払われるわけではありません。ふだん労働をした事のない人も、セメントや木材をリヤカーやソリで運搬したり、穴掘りなどの仕事をしました。
勿論毎日の奉仕ではなく、月のうち1~2回の出勤だったので、続いたものと思います。
○ 町内会の仕事にお別れ
私の町内会の仕事は2ヵ年間という、短かい期間で終りました。昭和19年に月刊評論社という雑誌社に勤めることになったためであります 2ヵ年間ではありましたが、随分動き回りました。仕事には追い廻されましたが、思うように、自由にやらせてもらったので、面白味もありました。松原会長は「問題が起きたら、私が処理するから、どんどんやって下さい」と言って、命令をしたことはなく、親分肌の人でした。
仕事をやめてからの感じですが、供出させられた人、債券を押し付けられた人達は、さぞ不愉快な思いをしたことであるうと、反省の念しきりであります。
聖戦遂行という美名に、一点の疑いも持たぬ不敏(ふびん・才知・才能に乏しいこと。多く自分について、へりくだって言う時に用いる)のなせる業でした。
昭和22年のポツダム政令15号によれば、私の町内会での行動は、公職追放に問われるものであったであろうと、政令を何度も何度も読み返しました。
○ 多くの知人を得る
町内会は、市の大政翼賛会(第2次近衛内閣の下で新体制運動の結果結成された国民統制組織。各政党は解党、また産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会を統合、部落会・町内会・隣組を末端組織とした)、或は翼賛壮年団と関連がありましたので、それらの団休の幹部とお近づきとなり、おかげで私の人脈は豊かになりました。
市の翼賛会の事務局長の永田正太郎(後の佐々木正太郎デーリー東北社長)三戸郡翼賛会事務局長の峯正太郎、同総務の成田昌彦、熊谷義雄、橋本八右衛門、広田豊柳、大久保弥三郎、(田口豊洲団長はその前からお近づきいただいてました)等の方々が私の名簿に記されております。私の貴重な財産であり、払の人生に大きな影響を及ぼした方々であります。
○ 鳥屋部町から南売市へ
私が鳥屋部町から南売市に移って来だのは、昭和41年早々のことでありました。家は南売市のバス停から100米ほど西の方に入った大変静かな畑の中にありました。家の前は柿の木畑で、初夏の柿の葉の美しさを、この時初めて知りました。
又初夏の候には近くの高い木の天辺で鳴く「カッコー」の明るい声は、大げさに言えば、この世の天国という感の深いものでした。
勤め先の商工会議所の仕事に没頭していた昭和44年の春の頃、南売市の町内会からお呼びがあり、又お手伝い(監事)することになりました。それ以来平成4年の春までの23年間おつきあいさせていただき、居心地が良く、つい長居してしまいました。
その間、いつ頃か忘れましたが、朝の新聞を広げて一番先に目の行くところは、投書欄になっておりました。そこには、時々町内会に関することが投稿されており、貴重な意見があり、要望があり、又時には批判や手きびしい非難が書かれており、教えられるところが沢山ありました。世間の眼はするどいものだと思い知らされました。
○ 町内会とともに
町内会の運営は信頼性、堅実性、永続性が基本だと言われています。
そこに住んでいる者は、地域団体である町内会とは、何らかの形で、かかわりを持っていて、のがれられないものです。従って町内会は住民が町内会から圧迫やわずらわしさを感じないよう、親しさと安上りの団体であることを目標に運営すべきであると心がけてきました。
しかし、あまりそれにのみこだわりますと、どうしても事業は「地味」になりがちです。今考えてみれば、時には一点豪華主義も取入れて会員の心に楽しみと喜びを持たせるべきであったと、いささか反省しております。
2007年10月1日月曜日
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 4
心に残る思い出
桂木 規好
南売市町内に住んで最早27年になります。忘れもしない、昭和49年4月14日三八教育会館で南売市町内会の総会が開催されました。
ところが役員改選で突然に私が副会長を拝命、以来51年3月まで2ケ年未熟ものでしたが皆様の暖かいご指導とご協力を頂き乍ら勤めさせて頂きました。
町内会心に残る思い出 その1
年度変りに会長がおやめになり、次期会長候補のお願いに役員の皆さんと約10日間程、町内を廻った時の苦労したこと。
町内会心に残る思い出 その2
町内の民生委員の方がおやめになりその後任者依頼に役員の皆さんと約一週間程町内を廻りましたがついに引受けて頂ける人がなかったことです。致し方なく役員の皆さんと相談した結果小生が推薦のハメになり、以来昭和49年11月より58年10月まで9ケ年その職を勤めさせて頂いた次第です。
民生委員心に残る思い出 その1
日赤募金は私が民生委員になる前までは、町内会に割当が来て町内会費から納めていたのですが、日赤募金は寄付的性格上町内会費からは出さないことになり、私の時から日赤社員募集に入り日夜3、4ケ月も町内一軒一軒お願いして廻りました時には犬に吠えられ追われることもありましたが、おかげ様で皆さんのご理解とご協力を頂くことが出来ました。それ以来毎年民生委員が町内の日赤社員募集や集金などを担当することになりました。したがって町内会費からは日赤募金を出さなくてもよくなりました。良かったと思っております。
民生委員心に残る思い出 その2
民生委員の活動で町内を廻ったり例会に出席して勉強や情報交換をしたり、又関係ある会合に出席したり、時には養護老人ホーム、身体障害者、精薄者などの福祉施設など視察して参考にし、民生委員活動の使命のもと、日夜出来る限りの努力を続けたものでした。
民生委員心に残る思い出 その3
まだ働ける様に見える人に地区民生委員の意見もきかず、民生委員の知らないうちに役所が生活保護決定したからと突然通知を頂いた時、民生委員の役割とは何だったのかと考えさせられ、残念に思ったいやな思いをしたこと。
むすび 町内会の役員として4年間、民生委員としての9年間、勉強したことや一生懸命活動したことは私の貴重な体験として懐かしい思い出としていつまでも心の中に生きてゆくことと思います。 皆様に感謝申し上げますと共にご多幸をお祈りし、これからもよろしくお願いします。
記念誌によせて
片峯 正夫
南売市町内会三十周年おめでとうございます。その陰には、何代にもわたる会長さん始め役員の方々の御努力と、いつも温かく支えて来られた町内の方々のご理解とご協力があったことを思い、お祝い申し上げます。町内会活動でユニークな事は資源ごみ回収事業です。各町内に先駆けて市の事業に賛同して計画され、当日は回収物の整理に当たる方々のご協力と、品物を出してくださる町内の方々のご協力で成果をあげ、これまで少ない会費で町内活動がなされて来たことです。町内会についての苦情が、時々デーリー東北紙こだま欄に掲載されておりますが、町内会の基本は、地位や名誉に関係無く地域社会で生活するお隣さん同士の交わりの中で、理解と協力によってよりよい生活環境を整えて、明るく過ごすことと理解しております。
動物はこの世を一匹で生きることが出来るそうですが、人は他の人に支えられ、人の間でこそ生きることが出来、また生かされて行く者です。家族を除いて近い他人はお隣さんです。
しかし、ご近所の方でも中々親しくお会いする機会がありません。今年班長の番が回って来て、町内の用事で戸別にお訪ねさせて頂きましたが、お陰で最近越して来られた方とはじめてお会いしてお話も出来、嬉しく感謝でした。班長でなければ、わざわざお訪ね出来ませんし、また、顔見しりにもなれませんでした。班のある方が「町内会の行事にはなるべく参加して交わりを持ち、親しくなる事が大事だと思います」とお話しされ、区民運動会にも町内懇親会にもご参加なさいましたが、全く同感です。
三十年前の南売市は、国道を除き畑地や空き地の中のやっと車が通れる数本の道路に添って住宅が疎らに建ち、近年まで夏になれば背の高い草やとうもろこし等が人目を遮り、その蔭から人が急に出て来て驚かされた事もありました。
約二十年来区画整理の移転工事で落ち着かない日々でしたが、今では町並みが整い住宅が並び、街灯も整備されて素晴らしい生活環境に変貌しました。新しい住民の方々もお迎えし、これからは落ち着いた生活の中で新しい交わりを持ちつつ、活発な町内会活動炉なされることを期待いたします。
南売市在住30年
大久保勝次
○転入の頃
終戦直後昭和20年9月1日、郷里の疎開先から家族と共に売市字下久根15番地の市営住宅に入居し、南売市の住人になりました。知人の世話で入居しましたが随分遠い場所に落着いたものだと思ったのは実感でした。住宅は背中あわせの二軒長屋で8畳、6畳、3畳間と台所、風呂場、井戸は、屋根付き2軒で使用する。それに物置小屋、周りには板塀に囲まれ格子戸のついた門その上宅地内が広く、菜園花壇に適しておりました。市住宅課のお話によれば、昭和16年、軍の要請により、民有地を借り上げ、将校用軍関係者の官舎として建築、終戦により市営住宅に転用したと記憶しております。入居した時は隣近所に多数軍人の家族がおりました。私の住宅の家賃は月額21円で当時、市内各所にあった市営住宅の家賃は、3円から5円であったので高い家賃だったようですが、住宅の条件が良かったので21円の家賃は妥当だったようです。
○市営住宅払下げのこと
昭和30年頃だったと思いますが、故岩岡市長さんの時、市の方針として、戦前建築した住宅を払い下げることになりました。急遽会合を開き組合をつくり書類を作成して、居住者に払下げて下さるよう陳情しました。結果は約半数が居住者に払い下げになりましたが、私の通りにある住宅は、地主の承諾が得られず、購入する事が出来ませんでした。
○町内会長として
私は勤務先を退職した頃、前町内会長の中村繁蔵さん、近所の野沢宗芳さん、行政委員で町内会の事務局長の久慈さん達が拙宅を訪問され町内会長就任を要請されました。突然のお話で考えても見なかった事でもありお断り致しましたが、長年お世話になった町内でもあり、御恩返しのつもりでお引受けした次第です。その時、南売市町内会の世帯数は587世帯、34班編成運営されておりました。町内会長とはこんなに多忙なものかと身をもって体験致しました。これまでの町内会長をつとめられた方々の御苦労が偲ばれました。
町内会は勿論の事、各種団体の会合行事に出席する回数の多いのに精神的な疲労が強く感じられました。又それにも増して事務局長の久慈さんには会の運営行事の立案、会議の進行、他団体との連絡等、行政員の要職にあって精力的に活躍され敬服致しました。
南売市在住の皆々様の御健勝と町内の益々の御発展をお祈り申しあげます。
.南売市に住んで20年になります
婦人部長 杉本 鈴子
昭和48年8月に八日町から南売市に転居して、はや20年になりました。その間父母をあの世に送り、区画整理がありで、何かと心せわしい日々を送りました。今は町内婦人部員と仲よく楽しいふれあいの集いをもっております。
婦人部は、春と秋の料理講習会、日帰りのふれあいの旅、一年の終わりには歌や踊りをしながらの楽しみ会などをもち、又町内の廃品回収にも協力しながら、部員同志の心の交流を深めるようつとめたり、婦人部員の中には民謡、カラオケ、詩吟、おいしい漬物の得意な人達がおり、年毎に親密度も増す楽しい会であります。
このような集いがもてますのも、町内会長さんはじめ、町内の皆様の温かい思いやりとやさしさに支えられているお陰だと、心から感謝し、うれしく思っております。
南売市の魅力
体育部長 田中博逸
私30才で東京より古里に帰り以来17年間、とりわけスポーツが好きでしたので、町内の体育部員として、又、連町の体育部員として参加させていただきました。日曜日返上で夫婦での活動をする理事の方には頭の下がる思いでした。
元旦マラソン、うみねこマラソン、区民運動会、連町の各種競技会、市総合と年間スケジュールを皆さんと一緒に頑張って成功させる様努力の日々です。問題も沢山あります、くじけずに頑張りたいと思います。
町内の資源ゴミ回収活動、表彰されたことをほこりに続けたいと思います。又売市山車組に参加して以来、今年初めて最優秀賞をいただきました。
用地の確保、近在への山車貸し出し料の契約、小屋の設定、山車づくりの若者の参加人数の確保、沢山の問題をクリアーしつつ、受賞をいただいた時は感動の一言でした。
皆が手をとり合って一つの目標に向かえばすばらしい結果が生まれることを学びました。売市のえんぶり組の親方の一人として先人の残した民族の遺産を守りたく活動しています。
とりとめもなく書きならべましたけど、町内の皆さんと仲よく、手を取り合って、子供達の住みよい町内、伝統の芸能を守り豊かな町内にする様、これからも私個人も今以上に頑張り、より人間として成長していくつもりです。
町内会の移り変わり
川口助四郎
八戸市の市制発足より遅れること十年、館村の八戸市合併は昭和十五年一月一日のことでありました。合併を機に、それまでの区長制度を改め、新たに町内会を設けることになりました。なにぶん戦前のことですので、名称は変わっても、活動の内容はさほど変化はなかったと記憶しています。
「売市町内会」が発足して一年、どうも、売市地区を一町内とするには余りに広すぎるのではないかということになり、翌十六年、「南売市」「西売市」「長根」の三つに分割することになりました。時局柄、上部組織からの情報伝達が円滑にいくようにとの配慮があったのかも知れません。
町内の命名に関しては、西村徳次郎さんの発案であったとうかがっておりますが、誰からの反対もなく、全会一致で決定したようでした。
南売市町内会発足当時より会長を仰せつかってきた私の父、大次郎が任期途中で病没したのは昭和二十年三月のことでありました。その頃、私は出征中であり、復員したのは二十一年六月でしたので、その当時の様子などは余り詳しくは存じあげないのですが、当時憲兵隊長をなさっていた松田久五郎さんに会長を引き継いでいただいたようです。
終戦後、世の中がすっかり変わって、いわゆる民主主義に基づいた新しい町内会の発足をということで、私が第一回目の会長に推挙していただいたのは、確か昭和二十五年のことだったと思います。お恥しい話ですが、新しい町内会といっても、何も新しいことをしなかったからでしょう、だんだん町内会そのものが衰退していきました。これではいけないということで、三十五年、再度町内会を組織しなおし、初代の会長は岡田実さん、二代目に松田久五郎さんにお願いいたしました。現在の町内会隆盛の基礎はこのあたりに築かれたものです。松田さんの後、再び私に声がかかった時、私のすることはもう何もございませんでした。ですから、安心して引き受けたわけでございます。
雑感 交通安全部長 後村美代治
昭和45年に南売市に住居を構えて以来、実に22年余の歳月が週ぎました。
ご存知の通り、当地区の区画整理事業も完成に近く、街並みも整い、市内では最も住宅地としてふさわしいとの評判が高まっております。
往事を振り返り、この変容を見ると隔世の感があるが、あの頃の長閑で緑豊かであった風情が懐かしく思われる今日です。それは田舎育ちのせいなのかも知れません。 ところで私達が住む地域と町内の方々の事を知り、交流を深める近道は、やはり町内会の活動に参加することが一番と考え、まず体育部に入れて頂きました。当時は区民運動会の外、当町内会単独での運動会を企画する等の部活動も大変活発であった。体育部は、10年程前に若い方々に後事を託し、交通安全部に移り、現在に至って居ります。交通安全部では区画整理の進行に伴って、順次カーブミラー、道路標識の設置を進めるなど、当町内からの交通事故防止に努めております。しかしながらこの様に道路事情がよくなる反面、交通事故発生率が高まることが懸念されるところですが、当町内独自での交通安全キャンペーンを行うことは、その費用と人的な面からも難かしい状況であり、勢い根城地区全体での運動に終始していることは否めないが、少くとも当町内から交通事故が起きないよう微力ながら運動を続けて行きますので、今後ともご理解とご協力をお願いしたい。
桂木 規好
南売市町内に住んで最早27年になります。忘れもしない、昭和49年4月14日三八教育会館で南売市町内会の総会が開催されました。
ところが役員改選で突然に私が副会長を拝命、以来51年3月まで2ケ年未熟ものでしたが皆様の暖かいご指導とご協力を頂き乍ら勤めさせて頂きました。
町内会心に残る思い出 その1
年度変りに会長がおやめになり、次期会長候補のお願いに役員の皆さんと約10日間程、町内を廻った時の苦労したこと。
町内会心に残る思い出 その2
町内の民生委員の方がおやめになりその後任者依頼に役員の皆さんと約一週間程町内を廻りましたがついに引受けて頂ける人がなかったことです。致し方なく役員の皆さんと相談した結果小生が推薦のハメになり、以来昭和49年11月より58年10月まで9ケ年その職を勤めさせて頂いた次第です。
民生委員心に残る思い出 その1
日赤募金は私が民生委員になる前までは、町内会に割当が来て町内会費から納めていたのですが、日赤募金は寄付的性格上町内会費からは出さないことになり、私の時から日赤社員募集に入り日夜3、4ケ月も町内一軒一軒お願いして廻りました時には犬に吠えられ追われることもありましたが、おかげ様で皆さんのご理解とご協力を頂くことが出来ました。それ以来毎年民生委員が町内の日赤社員募集や集金などを担当することになりました。したがって町内会費からは日赤募金を出さなくてもよくなりました。良かったと思っております。
民生委員心に残る思い出 その2
民生委員の活動で町内を廻ったり例会に出席して勉強や情報交換をしたり、又関係ある会合に出席したり、時には養護老人ホーム、身体障害者、精薄者などの福祉施設など視察して参考にし、民生委員活動の使命のもと、日夜出来る限りの努力を続けたものでした。
民生委員心に残る思い出 その3
まだ働ける様に見える人に地区民生委員の意見もきかず、民生委員の知らないうちに役所が生活保護決定したからと突然通知を頂いた時、民生委員の役割とは何だったのかと考えさせられ、残念に思ったいやな思いをしたこと。
むすび 町内会の役員として4年間、民生委員としての9年間、勉強したことや一生懸命活動したことは私の貴重な体験として懐かしい思い出としていつまでも心の中に生きてゆくことと思います。 皆様に感謝申し上げますと共にご多幸をお祈りし、これからもよろしくお願いします。
記念誌によせて
片峯 正夫
南売市町内会三十周年おめでとうございます。その陰には、何代にもわたる会長さん始め役員の方々の御努力と、いつも温かく支えて来られた町内の方々のご理解とご協力があったことを思い、お祝い申し上げます。町内会活動でユニークな事は資源ごみ回収事業です。各町内に先駆けて市の事業に賛同して計画され、当日は回収物の整理に当たる方々のご協力と、品物を出してくださる町内の方々のご協力で成果をあげ、これまで少ない会費で町内活動がなされて来たことです。町内会についての苦情が、時々デーリー東北紙こだま欄に掲載されておりますが、町内会の基本は、地位や名誉に関係無く地域社会で生活するお隣さん同士の交わりの中で、理解と協力によってよりよい生活環境を整えて、明るく過ごすことと理解しております。
動物はこの世を一匹で生きることが出来るそうですが、人は他の人に支えられ、人の間でこそ生きることが出来、また生かされて行く者です。家族を除いて近い他人はお隣さんです。
しかし、ご近所の方でも中々親しくお会いする機会がありません。今年班長の番が回って来て、町内の用事で戸別にお訪ねさせて頂きましたが、お陰で最近越して来られた方とはじめてお会いしてお話も出来、嬉しく感謝でした。班長でなければ、わざわざお訪ね出来ませんし、また、顔見しりにもなれませんでした。班のある方が「町内会の行事にはなるべく参加して交わりを持ち、親しくなる事が大事だと思います」とお話しされ、区民運動会にも町内懇親会にもご参加なさいましたが、全く同感です。
三十年前の南売市は、国道を除き畑地や空き地の中のやっと車が通れる数本の道路に添って住宅が疎らに建ち、近年まで夏になれば背の高い草やとうもろこし等が人目を遮り、その蔭から人が急に出て来て驚かされた事もありました。
約二十年来区画整理の移転工事で落ち着かない日々でしたが、今では町並みが整い住宅が並び、街灯も整備されて素晴らしい生活環境に変貌しました。新しい住民の方々もお迎えし、これからは落ち着いた生活の中で新しい交わりを持ちつつ、活発な町内会活動炉なされることを期待いたします。
南売市在住30年
大久保勝次
○転入の頃
終戦直後昭和20年9月1日、郷里の疎開先から家族と共に売市字下久根15番地の市営住宅に入居し、南売市の住人になりました。知人の世話で入居しましたが随分遠い場所に落着いたものだと思ったのは実感でした。住宅は背中あわせの二軒長屋で8畳、6畳、3畳間と台所、風呂場、井戸は、屋根付き2軒で使用する。それに物置小屋、周りには板塀に囲まれ格子戸のついた門その上宅地内が広く、菜園花壇に適しておりました。市住宅課のお話によれば、昭和16年、軍の要請により、民有地を借り上げ、将校用軍関係者の官舎として建築、終戦により市営住宅に転用したと記憶しております。入居した時は隣近所に多数軍人の家族がおりました。私の住宅の家賃は月額21円で当時、市内各所にあった市営住宅の家賃は、3円から5円であったので高い家賃だったようですが、住宅の条件が良かったので21円の家賃は妥当だったようです。
○市営住宅払下げのこと
昭和30年頃だったと思いますが、故岩岡市長さんの時、市の方針として、戦前建築した住宅を払い下げることになりました。急遽会合を開き組合をつくり書類を作成して、居住者に払下げて下さるよう陳情しました。結果は約半数が居住者に払い下げになりましたが、私の通りにある住宅は、地主の承諾が得られず、購入する事が出来ませんでした。
○町内会長として
私は勤務先を退職した頃、前町内会長の中村繁蔵さん、近所の野沢宗芳さん、行政委員で町内会の事務局長の久慈さん達が拙宅を訪問され町内会長就任を要請されました。突然のお話で考えても見なかった事でもありお断り致しましたが、長年お世話になった町内でもあり、御恩返しのつもりでお引受けした次第です。その時、南売市町内会の世帯数は587世帯、34班編成運営されておりました。町内会長とはこんなに多忙なものかと身をもって体験致しました。これまでの町内会長をつとめられた方々の御苦労が偲ばれました。
町内会は勿論の事、各種団体の会合行事に出席する回数の多いのに精神的な疲労が強く感じられました。又それにも増して事務局長の久慈さんには会の運営行事の立案、会議の進行、他団体との連絡等、行政員の要職にあって精力的に活躍され敬服致しました。
南売市在住の皆々様の御健勝と町内の益々の御発展をお祈り申しあげます。
.南売市に住んで20年になります
婦人部長 杉本 鈴子
昭和48年8月に八日町から南売市に転居して、はや20年になりました。その間父母をあの世に送り、区画整理がありで、何かと心せわしい日々を送りました。今は町内婦人部員と仲よく楽しいふれあいの集いをもっております。
婦人部は、春と秋の料理講習会、日帰りのふれあいの旅、一年の終わりには歌や踊りをしながらの楽しみ会などをもち、又町内の廃品回収にも協力しながら、部員同志の心の交流を深めるようつとめたり、婦人部員の中には民謡、カラオケ、詩吟、おいしい漬物の得意な人達がおり、年毎に親密度も増す楽しい会であります。
このような集いがもてますのも、町内会長さんはじめ、町内の皆様の温かい思いやりとやさしさに支えられているお陰だと、心から感謝し、うれしく思っております。
南売市の魅力
体育部長 田中博逸
私30才で東京より古里に帰り以来17年間、とりわけスポーツが好きでしたので、町内の体育部員として、又、連町の体育部員として参加させていただきました。日曜日返上で夫婦での活動をする理事の方には頭の下がる思いでした。
元旦マラソン、うみねこマラソン、区民運動会、連町の各種競技会、市総合と年間スケジュールを皆さんと一緒に頑張って成功させる様努力の日々です。問題も沢山あります、くじけずに頑張りたいと思います。
町内の資源ゴミ回収活動、表彰されたことをほこりに続けたいと思います。又売市山車組に参加して以来、今年初めて最優秀賞をいただきました。
用地の確保、近在への山車貸し出し料の契約、小屋の設定、山車づくりの若者の参加人数の確保、沢山の問題をクリアーしつつ、受賞をいただいた時は感動の一言でした。
皆が手をとり合って一つの目標に向かえばすばらしい結果が生まれることを学びました。売市のえんぶり組の親方の一人として先人の残した民族の遺産を守りたく活動しています。
とりとめもなく書きならべましたけど、町内の皆さんと仲よく、手を取り合って、子供達の住みよい町内、伝統の芸能を守り豊かな町内にする様、これからも私個人も今以上に頑張り、より人間として成長していくつもりです。
町内会の移り変わり
川口助四郎
八戸市の市制発足より遅れること十年、館村の八戸市合併は昭和十五年一月一日のことでありました。合併を機に、それまでの区長制度を改め、新たに町内会を設けることになりました。なにぶん戦前のことですので、名称は変わっても、活動の内容はさほど変化はなかったと記憶しています。
「売市町内会」が発足して一年、どうも、売市地区を一町内とするには余りに広すぎるのではないかということになり、翌十六年、「南売市」「西売市」「長根」の三つに分割することになりました。時局柄、上部組織からの情報伝達が円滑にいくようにとの配慮があったのかも知れません。
町内の命名に関しては、西村徳次郎さんの発案であったとうかがっておりますが、誰からの反対もなく、全会一致で決定したようでした。
南売市町内会発足当時より会長を仰せつかってきた私の父、大次郎が任期途中で病没したのは昭和二十年三月のことでありました。その頃、私は出征中であり、復員したのは二十一年六月でしたので、その当時の様子などは余り詳しくは存じあげないのですが、当時憲兵隊長をなさっていた松田久五郎さんに会長を引き継いでいただいたようです。
終戦後、世の中がすっかり変わって、いわゆる民主主義に基づいた新しい町内会の発足をということで、私が第一回目の会長に推挙していただいたのは、確か昭和二十五年のことだったと思います。お恥しい話ですが、新しい町内会といっても、何も新しいことをしなかったからでしょう、だんだん町内会そのものが衰退していきました。これではいけないということで、三十五年、再度町内会を組織しなおし、初代の会長は岡田実さん、二代目に松田久五郎さんにお願いいたしました。現在の町内会隆盛の基礎はこのあたりに築かれたものです。松田さんの後、再び私に声がかかった時、私のすることはもう何もございませんでした。ですから、安心して引き受けたわけでございます。
雑感 交通安全部長 後村美代治
昭和45年に南売市に住居を構えて以来、実に22年余の歳月が週ぎました。
ご存知の通り、当地区の区画整理事業も完成に近く、街並みも整い、市内では最も住宅地としてふさわしいとの評判が高まっております。
往事を振り返り、この変容を見ると隔世の感があるが、あの頃の長閑で緑豊かであった風情が懐かしく思われる今日です。それは田舎育ちのせいなのかも知れません。 ところで私達が住む地域と町内の方々の事を知り、交流を深める近道は、やはり町内会の活動に参加することが一番と考え、まず体育部に入れて頂きました。当時は区民運動会の外、当町内会単独での運動会を企画する等の部活動も大変活発であった。体育部は、10年程前に若い方々に後事を託し、交通安全部に移り、現在に至って居ります。交通安全部では区画整理の進行に伴って、順次カーブミラー、道路標識の設置を進めるなど、当町内からの交通事故防止に努めております。しかしながらこの様に道路事情がよくなる反面、交通事故発生率が高まることが懸念されるところですが、当町内独自での交通安全キャンペーンを行うことは、その費用と人的な面からも難かしい状況であり、勢い根城地区全体での運動に終始していることは否めないが、少くとも当町内から交通事故が起きないよう微力ながら運動を続けて行きますので、今後ともご理解とご協力をお願いしたい。
2007年9月1日土曜日
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 3
終戦前の思い出 山田 静
南売市の町内のことを思い出して書いて下さいと云われ、考えて見たらこれまで大変なお世話を頂いて来たんだな、六十数年間、生まれてから、ずーっとこの事を省みて感無量と思うのが実感です。この聞目に見えない、気がつかない温い人情に甘え育って来ました。これが生れ故郷と云うものかも知れません。
南売市といわれるようになったのはいつ頃からでしょうか、小学校の夏休みのラジオ体操を近所の空地でやった時はそのような町名を使った記憶はありませんので、多分戦時中の隣組編成の頃からではないかと思いますが、それにしても東売市、北売市がなく、南と西になったのも何か、理由があったのかも知れません。
小学校、中学校時代(昭和十八年まで)は本当にのんびりしてました。家は何軒もあるわけではなく、木や林に囲まれた農村地帯だったのが敗戦を境に、然も区画整理後は全くと云ってよい程昔の面影は無くなって、町並も家の造りも一変して本当に、驚き以外の言葉がありません,昔の小学校の同級生も、戦死したり、他に転居したりで何か発展と逆比例して、淋しいものを感じる最近です。老いて来ると、懐古話しのみが多くなると云いますが、それにしても、昔の隣近所が皆親類のような、まとまりと人情が失われていくのは、何か淋しさを伴うものです。挨拶を交わすのも皆様からの顔馴染みの先輩の方ばかりです。又淋しさを感じるのに、林や木がどんどん切られ、子供達の遊び場と憩いの安らぎの場が失れてしまったことです。時代のうつり変りと云えばそれまでですが、しかしこうなってしまってから、取り返しのつかないことですが、せめてもう一度、町内の方々が昔と同様に、情味のある、暖い気持ちで接し合うことは何時でも出来ることですから、そのように願いたいものです。みんなで町内の為に関心を持ち直して、良い所を保ち、いつまでも暮らしたいものです。
三十周年記念誌に寄せて
根城正一郎
「根城地域はすばらしく立派になりましたね」とよく言われます。本当に私達の住むこの地区全体が、売市区画整理事業施行によって昔とは一変して美しく立派な町に生れ変りました.大都市のような喧噪的、非人間的、コンクリートジャングルと対比して、ここは静寂であり、町並も人間的で、詩的ですらあると思います。木の香もふくよかな建物の町並は、たしかに美しく健康的な空間であり自分の気持ちや体調に合わせながら、安らぎと充実感を与えてくれる町となりました。このあたり一帯の空間は精神の緊張を断ち切り、明日への活力を新らしく湧き立たせてくれる、とても素適な町だと思います。
昔から、真に定着するには庭付きの住いが望ましいと考えられています。庭とは、自分自らが手を下せる自然を持つことだと云われ、手をよごして植物を育てたり、日光浴をしたり、食事をとったり、体操をしたり、読書を楽しんだり、作業をしたりできる自分だけの屋外空間であります。
町並は、そこに住みついた人々がその歴史のなかで創りあげてきたものであり、その創られ方は、その風土と人間とのかかわり合いにおいて成立するものであります。世界中で一番美しい町、魅力ある所が、イタリーであると云われています。オランダでは窓の美しい町が有名で、どの家でも窓には美しい花を飾り、町行く人々の目を楽しませてくれます。窓のカーテンが開かれて、室内が見える美しい町でもあるのです。そこに住む人々にとって少しでも快的な住いの環境や美しい町並を創り出すことは、そこに住む人々の義務であります。人は町を育てるとともに、町は人を育てると申します。目に見える町も大切ですが、目に見えない町創りも大切だと思います。隣り同志が睦み合い助け合い、そこに住む人々の気に入る町、個性ある健康で明るい町を創りたいと切望しています。
.南売市に住んでおもう
平賀 ミツ
私が南売市に住むことになったのは、県職員として三戸地区から八戸地区に転任になったからで、早や三十年になろうとしている。
あの頃の南売市は、まわり一面畑が多く、秋には真赤なりんごを見ることが懐しかった。道路は石ころが多く、あちこちに水溜りがあり、鬱蒼と茂った大木が昼尚暗い感であった。又、年数がたった藁屋があちこちにあり、まるで山村という感じであった。近所の人々は、垣根越しに声をかけ、野菜を分け合ったりして、朝夕の挨拶も楽しく、住みよい所だと思った。しかし、人情が深くても日常生活の習慣、地域環境に対する発展性並びに人間関係は、他に比較して非常におくれている様な感じがした。私が県内をよく指導して歩いたので、すぐその事に気がついた。
先般或る家を訪問する機会に、訪問先には電話連絡をし、南売市を中心に、下久根、西売市をゆっくり見る機会を得た。目的の家は見つからず、お迎えをうけた始末である。周辺は素晴らしい変り様である。新住宅とアパートだけ、これだけに変貌した南売市は、住民の限りない理解と協力があったと思った。道を歩いている人は少く、只、車が我が道とばかり走ってゆく。道を尋ねるにもお互に高い塀をまわし、門構えは人を寄せつけない冷たい感じで、挨拶の仕様もなかった。新しい道路と新住宅であってもその中に住む人の心構えが変らない限り、三十年前の売市になりかねない。挨拶運動、青少年育成等々、今日的問題を各団体でよびかけているが、どれだけの効果があったろうか。それは家庭と地域に住む私達が、人に区別をつけず、人々の良さを発見し、口先ばかりでなく自分の発言に責任をもち、老も若きも大いに話合いの機会をもって活動ができたら、やがて誰もが通る老後生活も楽しいものに変るのではないかと、自分の幸を思いながら、より以上の住みよい南売市になる様にと祈りながら帰路についた。
.この地に住んで思うこと
巻 隆
私は、この地(売市狐窪)に移り住んだのは昭和三十六年9月でしたから、ここに住みついて既に三十一年が過ぎ去ったことになります。
光陰矢の如しと云いますが、歳月の流れ去る早さを改めて感じております。
私の住家は当時の松の湯(現在、豊田産婦人科駐車場)の向い側の少し奥まった所でしたが、この辺は杉や欅や栗の老木が鬱蒼としており朝夕小鳥のさえずりが聞かれる、とても閑静な場所でした。また、現在のスーパーみなとやの向い一帯は畑が広がっており、その畑の間に住家が点在しているような実に長閑な状態で、謂わばこの地区は無定型で自然発生的に出来た街といっても過言ではないと当時のことを思い浮かべております。それにこの辺は車が通行出来るような道路らしい道路は皆無に等しい状態であり、万一、火災でも発生したら恐らく全焼は免れなかったのではないかと今改めて当時の状況を思い浮べているところです。
時期は定かでないが、巷に売市区画整理事業の話が彷彿と開かれるようになり、その後区画整理に開する説明会が数度にわたり開催されました。
私はこの説明を聞いて光明が灯された思いで、早期実現を期待したものでした。
いよいよ、街路工事が実際に開始されたのは昭和五十六年頃ではなかったかと記憶しておりますが、その工事が進捗するにつれて私共が住んでいる狐窪が他の地区に先がけて昭和五十七年から家屋移転等の工事が行われるようになり、私の所は五十八年7月に工事が完了しました。
この区画整理事業は、その後も年次計画に基づき工事が進められており、最早、昔の南光市の面影を伺い知ることが出来なくなりました。
他の地域にはあまり見られないような歩行者専用道路が整備されたり、街路が縦横に造成される等、昔の街を一新し、明るく住み良い街が現実のものになるうとしています。
このことは、正に南売市町内会三十周年に相応しい街づくりと云えるのではないでしょうか。
この地区は、市の中心部に近く、長根運動公園にも隣接しているうえ、住み良い生活環境に恵まれ、仕合わせを感じている今日この頃です。
明 る い 街
稲垣 利衛
出身地の五戸の上市川から三日町への南部バスのルートは何十年も変っておりません.此処売市を通るバスから見る売市は、しばらくの間全く変化がありませんでした。青森~東京間の駅伝コースでもありました。静かな街という印象でした。又バスから降りる理由もない街であったとも思っておりました。変化は急に此処4、5年のことでしょうか。その結果今は一部を除いて明るく立派な家と店と街並みになりました。市の中心部に近く、住むには本当によい条件を備えていると思います。
売市に住んでこの十二月で十一年が経過します。 夢中の3年と祭りに期待しました数年であったと思います。此の地で3人の子供が生まれました。又今、医院と住いを新しくしております。周囲が本当にきれいになったものですから、もう此の地ウルイチが生涯の場所となることでしょう。と言いますのも当初売市に医院を開設しました時に何人かの人に言われました。売市は『仕事の場としては不毛の地である』……と。確かに歯科医院としては初め患者はそう多くはなく、というよりも他と比較してかなり少ない方でした。多分に迷いました。ところが今もそう変りがありません。このことは八戸で歯科医院がこの十年間にほぼ倍に増えたことを考えますと驚くべきことと思っております。隣近所にも恵まれました、名久井クリーニングさんであり、久慈電気さんです。又吉田内科の先生には急患等をお願いした事も度々ありました。こうして過ぎて来てみますと決して派手な街ではないけれども地道にやって来ますと底力のある街であると思っております。
運動会や町内活動等色々の行事も沢山あります。又、前会長の鈴木さんの文化に対する考えも知る事ができました。色々の個性と実績のある方も沢山おられます。そうして売市には山車祭りがあります。長女から参加させてもらい最後の5人目も来年と思っております。横浜、横須賀、仙台と転々として来ました私達にとりまして子供が参加できる祭りが町内にあるということは大変に落ちつくものでありますし、豊かな気持ちになります。御承知の様に今、大変に活気のあります売市の山車祭りの周辺の風景です。あやかって仕事を通じ、又、町内の行事に参加して自分自身の活気を保って行きたいと思っております。殊に明晰な頭をもって隣の名久井さんと一緒に明るくして行きたいと考えます。(え、あ、うん?)
売市の思いで
久慈 忠治
私は市内十八日町の出生で、昔の八戸町で育った訳ですが、子供達の遊び言葉の中に「人まねこまね荒谷の狐」と言うのがありました。中学校(旧制)に入校してから同級生では下久根に、玉山千里君が居り、又新組には下斗米喜三郎君や物故した沢口由郎君等が居りましたので、遠くに来た様な感じがしませんでした。特に売市の通りについては、中学校で毎年(昭和3年~7年)校内マラソンがあって、大杉平を出発して、この売市街道に差しかかると、たるみこ(中村安江さん)の前から登坂となり丁度今の私の家の処が頂上で、道路の両側に大木があり、その枝葉で覆れ、昼尚暗く日照りが当らない為、雨でも降ったら道路が泥んこで足の踏む場を探しながら走った所で、その印象が強く残って居ります。
昭和二十六年四月、縁あって現在地に住む様になりました。この道路は昭和十五年高館に陸軍飛行場が出来その頃出来たコンクリート道路でしたが所々破損して居りました、その後昭和二十八年に辻本建設の施工で、改修工事が行われたのが記憶にあります。当時の町内の様子はほとんど草葺屋根の家が多く、農家の方々のようでした。私が昭和二十四年十月に長者町で、食料品雑貸店を開業致しましたが、幸いにしてこの地が授かり、二十六年4月に新築転居して参りました。長者町に居った頃の売上は1人で十円、二十円と言うお客様でしたが、売市に開店しまして、時期も田植時でもありましたが100円、200円と云うお客様許りで大変助けて頂きました。
当時は、十鉄と南鉄が日に何本かのバスが通って居りました。路上ではキャッチボールやバドミントンをやるやら悠長なものでした。市営バスは、二十八年9月から開通となり、私の店の前に、バス停留所を設置して頂き、バス券の発売もやらせて頂きました。
私が転居して来た昭和二十六年度は、川口助四郎さんが行政員でしたが、二十七年から三十年まで邨谷忠吉氏、三十一年から松田久五郎氏が三十五年度まで勤められました。岡田実氏官職を退き、帰郷されて、南売市に町内会の無い事を憂慮され、三十五年の年頭に、町内の有志の方々を自宅に招いて町内会の設立について相談され、皆様の同意を得て、三十五年二月二十八日南売市町内会が創立されました。
平成2年2月28日で南売市町内会創立30周年を迎えました。私が売市に来て皆様にお世話になってから、39年を迎える事に相成り、誠に感無量なるものがあります。町内会創立以来小使役として、今日まで町内のお世話をさせて頂きました。これも皆町内にお住みの皆様方の御慈愛を頂き、一家挙げてお世話に相成りました事を深く感謝申し上げる次第であります。
売市区画整理完了後は、町内の状態は一変し世帯数も500戸を突破するものと思います。
これからの町内会は、若い方々にお願いして立派な町内会活動をして頂く事を念願して、この一編を売市の思い出として終りと致します。
私の人生と南売市町内
中村喜兵衛
今私たちの南売市町内は近代的生活環境に恵まれた住宅街に変りました。世の中の移り変りを思う時、私の人生も又考えさせられる。
過去の三面(戦前、戦中、戦後)の見聞を思うと走馬灯のように思い出が回る。
幼少時代、いまのイトーヨーカ堂の西面に大塚屋という酒造店があった(ご主人は中村秀三さん)良く父と一緒に裏庭でトンボ取りした記憶がぼんやりと浮ぶ。その大塚屋が八戸大火により全焼し廃業した。私の生家も蔵を残しただけで全焼した。又、尋常2年生の時、湊の親戚に泊りに行っていて小中野の大火にあい、三日も消火が出来なかった怖い日の事が忘れられない。
香月園の温室の見学等、少年期の思い出が尽きないが割愛する。
中学卒業後、志願して長い兵役に服す。
農地改革の終った昭和23年の7月に除隊して帰った。八戸はほとんど入隊前と変らない町並であった。
あとで、鮫、小中野に少々の戦禍があったと聞く。
昭和30年頃より南売市町内に世話になっている。良く休みには杉の葉拾いに自転車で根城の森か松園町の森に出かけた。新組町を通り、根城小学校を過ぎると民家も少く、両側は畑で土ぼこりを立てていた。町内には道路らしい道路はなく、農道的小道を町内の連絡道にしてあった。
その為、町内の昼火事でも消防車が近づけず大通りからホースを何本も接続して現場に向った。そんな状態の消防活動の為、大半焼失した後の放水となったことを思い出す。
私は一期、町内会長を勤めた事がある。その当時は生活環境清潔検査が春秋2回行なわれていた。各家庭の生活排水は裏に浸透桝を作り不衛生的排水をしていた。検査は家屋の清掃と共に不衛生的個所の検査に久慈さんの案内で各家庭を訪れ、検査済札と消石灰を配ったものである。朝9時から始まり夕方迄廻っても終らず、丸2日も掛り私達の町内は広いなぁと思った。
そんな根城地区に、長者山下にあった裁判所が移転、これを機会に根城地区区画整理事業が始り、競馬場跡を中心とした広い畑地が一つの街に変った。続いて売市区画整理事業が始まり、新しく江南小学校、博物館が出来、根城隣接の町内から除々に畑地が住宅街に変っていった。
私達の南売市町内も最近整備が始まり、新しい街が出来ようとしている。
各家には救急車や消防車が横付け出来る立派な道路も出来、更に、下水道事業も加わり生活環境が一変し、何処の家庭も台所附近は奇麗な花が咲き乱れ最近迄の不衛生的思い出がうそのようである。もう、昔の面影は何処にも残っていない。 先輩が残した進歩的歴史が忘れられようとしている。この時に当り記念誌を発行し、後輩に伝える事が誠に意義深い事と思います。
区画整理事業関係者各位に感謝し、新しい街となった町内に一層の文化を加え、益々の発展を願います。最後に、本誌編集に努力下さいました方々に感謝申し上げます。
南売市の町内のことを思い出して書いて下さいと云われ、考えて見たらこれまで大変なお世話を頂いて来たんだな、六十数年間、生まれてから、ずーっとこの事を省みて感無量と思うのが実感です。この聞目に見えない、気がつかない温い人情に甘え育って来ました。これが生れ故郷と云うものかも知れません。
南売市といわれるようになったのはいつ頃からでしょうか、小学校の夏休みのラジオ体操を近所の空地でやった時はそのような町名を使った記憶はありませんので、多分戦時中の隣組編成の頃からではないかと思いますが、それにしても東売市、北売市がなく、南と西になったのも何か、理由があったのかも知れません。
小学校、中学校時代(昭和十八年まで)は本当にのんびりしてました。家は何軒もあるわけではなく、木や林に囲まれた農村地帯だったのが敗戦を境に、然も区画整理後は全くと云ってよい程昔の面影は無くなって、町並も家の造りも一変して本当に、驚き以外の言葉がありません,昔の小学校の同級生も、戦死したり、他に転居したりで何か発展と逆比例して、淋しいものを感じる最近です。老いて来ると、懐古話しのみが多くなると云いますが、それにしても、昔の隣近所が皆親類のような、まとまりと人情が失われていくのは、何か淋しさを伴うものです。挨拶を交わすのも皆様からの顔馴染みの先輩の方ばかりです。又淋しさを感じるのに、林や木がどんどん切られ、子供達の遊び場と憩いの安らぎの場が失れてしまったことです。時代のうつり変りと云えばそれまでですが、しかしこうなってしまってから、取り返しのつかないことですが、せめてもう一度、町内の方々が昔と同様に、情味のある、暖い気持ちで接し合うことは何時でも出来ることですから、そのように願いたいものです。みんなで町内の為に関心を持ち直して、良い所を保ち、いつまでも暮らしたいものです。
三十周年記念誌に寄せて
根城正一郎
「根城地域はすばらしく立派になりましたね」とよく言われます。本当に私達の住むこの地区全体が、売市区画整理事業施行によって昔とは一変して美しく立派な町に生れ変りました.大都市のような喧噪的、非人間的、コンクリートジャングルと対比して、ここは静寂であり、町並も人間的で、詩的ですらあると思います。木の香もふくよかな建物の町並は、たしかに美しく健康的な空間であり自分の気持ちや体調に合わせながら、安らぎと充実感を与えてくれる町となりました。このあたり一帯の空間は精神の緊張を断ち切り、明日への活力を新らしく湧き立たせてくれる、とても素適な町だと思います。
昔から、真に定着するには庭付きの住いが望ましいと考えられています。庭とは、自分自らが手を下せる自然を持つことだと云われ、手をよごして植物を育てたり、日光浴をしたり、食事をとったり、体操をしたり、読書を楽しんだり、作業をしたりできる自分だけの屋外空間であります。
町並は、そこに住みついた人々がその歴史のなかで創りあげてきたものであり、その創られ方は、その風土と人間とのかかわり合いにおいて成立するものであります。世界中で一番美しい町、魅力ある所が、イタリーであると云われています。オランダでは窓の美しい町が有名で、どの家でも窓には美しい花を飾り、町行く人々の目を楽しませてくれます。窓のカーテンが開かれて、室内が見える美しい町でもあるのです。そこに住む人々にとって少しでも快的な住いの環境や美しい町並を創り出すことは、そこに住む人々の義務であります。人は町を育てるとともに、町は人を育てると申します。目に見える町も大切ですが、目に見えない町創りも大切だと思います。隣り同志が睦み合い助け合い、そこに住む人々の気に入る町、個性ある健康で明るい町を創りたいと切望しています。
.南売市に住んでおもう
平賀 ミツ
私が南売市に住むことになったのは、県職員として三戸地区から八戸地区に転任になったからで、早や三十年になろうとしている。
あの頃の南売市は、まわり一面畑が多く、秋には真赤なりんごを見ることが懐しかった。道路は石ころが多く、あちこちに水溜りがあり、鬱蒼と茂った大木が昼尚暗い感であった。又、年数がたった藁屋があちこちにあり、まるで山村という感じであった。近所の人々は、垣根越しに声をかけ、野菜を分け合ったりして、朝夕の挨拶も楽しく、住みよい所だと思った。しかし、人情が深くても日常生活の習慣、地域環境に対する発展性並びに人間関係は、他に比較して非常におくれている様な感じがした。私が県内をよく指導して歩いたので、すぐその事に気がついた。
先般或る家を訪問する機会に、訪問先には電話連絡をし、南売市を中心に、下久根、西売市をゆっくり見る機会を得た。目的の家は見つからず、お迎えをうけた始末である。周辺は素晴らしい変り様である。新住宅とアパートだけ、これだけに変貌した南売市は、住民の限りない理解と協力があったと思った。道を歩いている人は少く、只、車が我が道とばかり走ってゆく。道を尋ねるにもお互に高い塀をまわし、門構えは人を寄せつけない冷たい感じで、挨拶の仕様もなかった。新しい道路と新住宅であってもその中に住む人の心構えが変らない限り、三十年前の売市になりかねない。挨拶運動、青少年育成等々、今日的問題を各団体でよびかけているが、どれだけの効果があったろうか。それは家庭と地域に住む私達が、人に区別をつけず、人々の良さを発見し、口先ばかりでなく自分の発言に責任をもち、老も若きも大いに話合いの機会をもって活動ができたら、やがて誰もが通る老後生活も楽しいものに変るのではないかと、自分の幸を思いながら、より以上の住みよい南売市になる様にと祈りながら帰路についた。
.この地に住んで思うこと
巻 隆
私は、この地(売市狐窪)に移り住んだのは昭和三十六年9月でしたから、ここに住みついて既に三十一年が過ぎ去ったことになります。
光陰矢の如しと云いますが、歳月の流れ去る早さを改めて感じております。
私の住家は当時の松の湯(現在、豊田産婦人科駐車場)の向い側の少し奥まった所でしたが、この辺は杉や欅や栗の老木が鬱蒼としており朝夕小鳥のさえずりが聞かれる、とても閑静な場所でした。また、現在のスーパーみなとやの向い一帯は畑が広がっており、その畑の間に住家が点在しているような実に長閑な状態で、謂わばこの地区は無定型で自然発生的に出来た街といっても過言ではないと当時のことを思い浮かべております。それにこの辺は車が通行出来るような道路らしい道路は皆無に等しい状態であり、万一、火災でも発生したら恐らく全焼は免れなかったのではないかと今改めて当時の状況を思い浮べているところです。
時期は定かでないが、巷に売市区画整理事業の話が彷彿と開かれるようになり、その後区画整理に開する説明会が数度にわたり開催されました。
私はこの説明を聞いて光明が灯された思いで、早期実現を期待したものでした。
いよいよ、街路工事が実際に開始されたのは昭和五十六年頃ではなかったかと記憶しておりますが、その工事が進捗するにつれて私共が住んでいる狐窪が他の地区に先がけて昭和五十七年から家屋移転等の工事が行われるようになり、私の所は五十八年7月に工事が完了しました。
この区画整理事業は、その後も年次計画に基づき工事が進められており、最早、昔の南光市の面影を伺い知ることが出来なくなりました。
他の地域にはあまり見られないような歩行者専用道路が整備されたり、街路が縦横に造成される等、昔の街を一新し、明るく住み良い街が現実のものになるうとしています。
このことは、正に南売市町内会三十周年に相応しい街づくりと云えるのではないでしょうか。
この地区は、市の中心部に近く、長根運動公園にも隣接しているうえ、住み良い生活環境に恵まれ、仕合わせを感じている今日この頃です。
明 る い 街
稲垣 利衛
出身地の五戸の上市川から三日町への南部バスのルートは何十年も変っておりません.此処売市を通るバスから見る売市は、しばらくの間全く変化がありませんでした。青森~東京間の駅伝コースでもありました。静かな街という印象でした。又バスから降りる理由もない街であったとも思っておりました。変化は急に此処4、5年のことでしょうか。その結果今は一部を除いて明るく立派な家と店と街並みになりました。市の中心部に近く、住むには本当によい条件を備えていると思います。
売市に住んでこの十二月で十一年が経過します。 夢中の3年と祭りに期待しました数年であったと思います。此の地で3人の子供が生まれました。又今、医院と住いを新しくしております。周囲が本当にきれいになったものですから、もう此の地ウルイチが生涯の場所となることでしょう。と言いますのも当初売市に医院を開設しました時に何人かの人に言われました。売市は『仕事の場としては不毛の地である』……と。確かに歯科医院としては初め患者はそう多くはなく、というよりも他と比較してかなり少ない方でした。多分に迷いました。ところが今もそう変りがありません。このことは八戸で歯科医院がこの十年間にほぼ倍に増えたことを考えますと驚くべきことと思っております。隣近所にも恵まれました、名久井クリーニングさんであり、久慈電気さんです。又吉田内科の先生には急患等をお願いした事も度々ありました。こうして過ぎて来てみますと決して派手な街ではないけれども地道にやって来ますと底力のある街であると思っております。
運動会や町内活動等色々の行事も沢山あります。又、前会長の鈴木さんの文化に対する考えも知る事ができました。色々の個性と実績のある方も沢山おられます。そうして売市には山車祭りがあります。長女から参加させてもらい最後の5人目も来年と思っております。横浜、横須賀、仙台と転々として来ました私達にとりまして子供が参加できる祭りが町内にあるということは大変に落ちつくものでありますし、豊かな気持ちになります。御承知の様に今、大変に活気のあります売市の山車祭りの周辺の風景です。あやかって仕事を通じ、又、町内の行事に参加して自分自身の活気を保って行きたいと思っております。殊に明晰な頭をもって隣の名久井さんと一緒に明るくして行きたいと考えます。(え、あ、うん?)
売市の思いで
久慈 忠治
私は市内十八日町の出生で、昔の八戸町で育った訳ですが、子供達の遊び言葉の中に「人まねこまね荒谷の狐」と言うのがありました。中学校(旧制)に入校してから同級生では下久根に、玉山千里君が居り、又新組には下斗米喜三郎君や物故した沢口由郎君等が居りましたので、遠くに来た様な感じがしませんでした。特に売市の通りについては、中学校で毎年(昭和3年~7年)校内マラソンがあって、大杉平を出発して、この売市街道に差しかかると、たるみこ(中村安江さん)の前から登坂となり丁度今の私の家の処が頂上で、道路の両側に大木があり、その枝葉で覆れ、昼尚暗く日照りが当らない為、雨でも降ったら道路が泥んこで足の踏む場を探しながら走った所で、その印象が強く残って居ります。
昭和二十六年四月、縁あって現在地に住む様になりました。この道路は昭和十五年高館に陸軍飛行場が出来その頃出来たコンクリート道路でしたが所々破損して居りました、その後昭和二十八年に辻本建設の施工で、改修工事が行われたのが記憶にあります。当時の町内の様子はほとんど草葺屋根の家が多く、農家の方々のようでした。私が昭和二十四年十月に長者町で、食料品雑貸店を開業致しましたが、幸いにしてこの地が授かり、二十六年4月に新築転居して参りました。長者町に居った頃の売上は1人で十円、二十円と言うお客様でしたが、売市に開店しまして、時期も田植時でもありましたが100円、200円と云うお客様許りで大変助けて頂きました。
当時は、十鉄と南鉄が日に何本かのバスが通って居りました。路上ではキャッチボールやバドミントンをやるやら悠長なものでした。市営バスは、二十八年9月から開通となり、私の店の前に、バス停留所を設置して頂き、バス券の発売もやらせて頂きました。
私が転居して来た昭和二十六年度は、川口助四郎さんが行政員でしたが、二十七年から三十年まで邨谷忠吉氏、三十一年から松田久五郎氏が三十五年度まで勤められました。岡田実氏官職を退き、帰郷されて、南売市に町内会の無い事を憂慮され、三十五年の年頭に、町内の有志の方々を自宅に招いて町内会の設立について相談され、皆様の同意を得て、三十五年二月二十八日南売市町内会が創立されました。
平成2年2月28日で南売市町内会創立30周年を迎えました。私が売市に来て皆様にお世話になってから、39年を迎える事に相成り、誠に感無量なるものがあります。町内会創立以来小使役として、今日まで町内のお世話をさせて頂きました。これも皆町内にお住みの皆様方の御慈愛を頂き、一家挙げてお世話に相成りました事を深く感謝申し上げる次第であります。
売市区画整理完了後は、町内の状態は一変し世帯数も500戸を突破するものと思います。
これからの町内会は、若い方々にお願いして立派な町内会活動をして頂く事を念願して、この一編を売市の思い出として終りと致します。
私の人生と南売市町内
中村喜兵衛
今私たちの南売市町内は近代的生活環境に恵まれた住宅街に変りました。世の中の移り変りを思う時、私の人生も又考えさせられる。
過去の三面(戦前、戦中、戦後)の見聞を思うと走馬灯のように思い出が回る。
幼少時代、いまのイトーヨーカ堂の西面に大塚屋という酒造店があった(ご主人は中村秀三さん)良く父と一緒に裏庭でトンボ取りした記憶がぼんやりと浮ぶ。その大塚屋が八戸大火により全焼し廃業した。私の生家も蔵を残しただけで全焼した。又、尋常2年生の時、湊の親戚に泊りに行っていて小中野の大火にあい、三日も消火が出来なかった怖い日の事が忘れられない。
香月園の温室の見学等、少年期の思い出が尽きないが割愛する。
中学卒業後、志願して長い兵役に服す。
農地改革の終った昭和23年の7月に除隊して帰った。八戸はほとんど入隊前と変らない町並であった。
あとで、鮫、小中野に少々の戦禍があったと聞く。
昭和30年頃より南売市町内に世話になっている。良く休みには杉の葉拾いに自転車で根城の森か松園町の森に出かけた。新組町を通り、根城小学校を過ぎると民家も少く、両側は畑で土ぼこりを立てていた。町内には道路らしい道路はなく、農道的小道を町内の連絡道にしてあった。
その為、町内の昼火事でも消防車が近づけず大通りからホースを何本も接続して現場に向った。そんな状態の消防活動の為、大半焼失した後の放水となったことを思い出す。
私は一期、町内会長を勤めた事がある。その当時は生活環境清潔検査が春秋2回行なわれていた。各家庭の生活排水は裏に浸透桝を作り不衛生的排水をしていた。検査は家屋の清掃と共に不衛生的個所の検査に久慈さんの案内で各家庭を訪れ、検査済札と消石灰を配ったものである。朝9時から始まり夕方迄廻っても終らず、丸2日も掛り私達の町内は広いなぁと思った。
そんな根城地区に、長者山下にあった裁判所が移転、これを機会に根城地区区画整理事業が始り、競馬場跡を中心とした広い畑地が一つの街に変った。続いて売市区画整理事業が始まり、新しく江南小学校、博物館が出来、根城隣接の町内から除々に畑地が住宅街に変っていった。
私達の南売市町内も最近整備が始まり、新しい街が出来ようとしている。
各家には救急車や消防車が横付け出来る立派な道路も出来、更に、下水道事業も加わり生活環境が一変し、何処の家庭も台所附近は奇麗な花が咲き乱れ最近迄の不衛生的思い出がうそのようである。もう、昔の面影は何処にも残っていない。 先輩が残した進歩的歴史が忘れられようとしている。この時に当り記念誌を発行し、後輩に伝える事が誠に意義深い事と思います。
区画整理事業関係者各位に感謝し、新しい街となった町内に一層の文化を加え、益々の発展を願います。最後に、本誌編集に努力下さいました方々に感謝申し上げます。
2007年8月1日水曜日
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 2
南売市町内会創立30周年に当り
川口 喜助
今から五十年ほど前の風景をスケッチで綴って見たいと思います。当時は舘村売市宇売市三十八番地と四十一番地の境であるこの道を「マイミツコ」と称した前の道のことだろう。私の通学路でもあり、又遊び場所でもあった。この絵の左側の大木は高崎さんの田屋欅の大木、右側の杉と欅は川口喜四郎さん宅の大木で、左側の茅葺き屋根は当時中川さんの住いであった。この道の突き当りは幸崎さんの住いであった。
道の途中から左へ入った所にえんぶり神様があり、その祠そばにも欅の大木があった。売市に町の商家の田屋と言う屋敷が多く、どの屋敷にも樹が沢山あった。
畑には作間路があり、家の前を村人が通り抜けしても大して咎める人もなかった。今のように道路が整理されていないので、人の家の前や横を通っていた。
やがて戦争が強まり舟の材料に徴収され、切り倒された。今の人達には想像もつかないような風景があった現在のまほろば幼稚園の通りである。
.三十周年記念によせて 高崎 裕允
昭和四十五年杉山に売市幼稚園を開園、昭和五十二年にまほろば幼稚園と園名を変更し、地域の皆様のご協力を頂き、今年二十五年目を迎えた。
二クラスで始まった幼稚園も、現在七クラス二百四十名が在園している。
幼い頃、まほろば幼稚園の辺りは一面の柿畑であった。果樹に造詣が深かった祖父が明治三十八年、日露戦争で日本が大勝利をおさめて帰還途中、朝鮮半島より長崎に上陸した際に、巨大柿の特産地より苗木を買い求め、杉山の畑に百本植えたものである。柿畑の周囲には丹波栗が植えられ、畑の入口から幸崎さんまでは、欅の巨木が並んでいたが、先の大戦に船材として供出され、鮫へ運ばれた。
白山の小川は今の桜木町あたりでせき止められ、上堤と下堤に造られ、冬には村人総出で氷切りをし、八戸水利組合の氷庫に保存した。氷切作業は、村の年中行事であり部落の唯一の現金収入源であった。
柿畑の一角にえんぶり小屋があった。大正年間に、祖父が村の長老達と計り、えんぶり神様を祀り、村の鎮守の宮とした。荒谷のえんぶりは殿様より唯一帯刀を許され、今も売市えんぶりとして伝統が受け継がれている。
まほろば幼稚園では開園以来毎年2月には売市のえんぶりを鑑賞させていただいているが、最近ではエンコエンコや、鯛釣り舞に卒園生の顔も見られ、また8月の三社大祭には売市山車組に、お囃しや引子として園児や卒園生が参加している。
明治以来、周辺の移り変りを見てきた柿の木は、僅かに幸崎さんとまほろば幼稚園に残るだけとなったが、秋にはたわわに実をつける。今後も地域の益々の発展を見守り続けてほしいものだ。
.中村繁蔵さんの思い出 東野 徳夫
わが家は、南売市町内に転入し二十八年になります。私の記憶の中の中村さんは町内会長、農業委員等の要職を勤められた方と伺って居り私が会った頃は、七十才位に見受けられました。農家で屋敷が広く、周囲は槻木や杉、栗の大木で囲まれてました。
屋敷が広いので、貸し家や菜園があり、いずれも広々として近所の子供たちの、かっこうの遊び場となっていました。
家の前の畑の奥は耕作しないまま野原となっていて、ここでは昆虫採集からキャッチボールなどなんでも遊べました。中村さん夫婦は自分の土地を近所の子供たちの遊び場のままにし、元気に飛びまわる子供の姿を笑顔で見守りながら、静かに広場を見廻り、小石やガラスなどの破片を拾う姿に接し、私は感勤し、スイスの教育者のペスタロッチの物語を連想しながら感謝していました。
私の所から新組町に出る近道は、中村さんの入口の2本の槻木から貸家の前の杉並木を通り、屋敷に入ると、栗の大木が3本あり、屋敷を抜けた畑頭は、また杉並木でした。隣地との境は、八戸市の木になっている、イチイが植えてありました。その脇の小道はやがて売市旧墓地にでた。そこは旧五戸街道の入口にあたり、大橋理容所や住吉食堂のところに出る道でした。
ある日この近道を歩いて来たら、中村さんが葱畑の端に座っていて、日焼した顔に鉢巻がよく似合っていました。挨拶を交した私は、立ち止りほんのひとときでしたが、お話を伺った事があります。中村さんはすでに町内会長も辞し、毎日屋敷内を見廻ったり、菜園の仕事をしてる様子でした。
中村さんは、ご自分の父親について、とつとつと語られた。病人はよく幼い日の思い出の事を話すとか、その話の中に幼少の頃の果物やおかずのことを言い出し、何かと中村さんに要求したという、今日のように食品の保存や加工が進んでいなかった。それでも後いくばくも生きられないと思うと、食べたいと言うものは何であれ一生懸命さがして歩いたそうです。夏の柿、春の秋刀魚、冬の苺等いろいろな店を訪ね聞き回りした話でした。
私は話終わって自分の家へ向かいながら本当に優しい人だなあ、いい所に転入して来たとしみじみ思ったものです。
今は亡き中村さん、その屋敷跡地のほとんどは、杉山公園用地になっております。私は犬と毎朝散歩しながら、あの日焼けしたまん丸なお顔を思い浮かべております。
公園のあちらこちらから子供達を見守って下さっている、その優しさは接したみなさんの胸にきっと残っていると思っています。
町内会に寄せて
松沢 初枝
昭和十四年、舘村立明治尋常高等小学校に転任になり、終戦すぎの21年まで勤務しました。その当時舘村には明治小、田面木小、売市小と三校がありました。三校は青年学級、処女会など、村内の学事会で時折り交流があり、町内の方々とも顔を合わせることもありました。今にして思えば、その頃から売市地区とは何かの縁で結ばれていたような気がしてなりません。その間に舘村が八戸市に編入になり、売市小も二十二年には根城小学校と改名されました。
時は流れ、その後二十七年に根城小に転任になりました。その当時根城小は十二学級でした。地区は田畑が多く、家屋も少なく、美しい小鳥の鳴き声がよく聞かれ、緑の多い静かな町でした。
三十二年、私は町内の方のご厚意により、畑をゆずっていただき、現在の所に住居を構えることになりました。
それからすでに三十数年過ぎ去りました。前の舘村時代のことをよく覚えていて、声をかけて下さる方も多く、なつかしく心強く思われます。たくさんの方々のお世話になりながら、町内の行事にも参加させていただいて今日に至りました。
町内の方々の努力が実り、市街地は進んで区画整理も順調におこなわれ、道路も見違える程立派になりました。
着々と環境が整備され、新しい形の住宅が建ち並び、町内の著しい変貌を見る時、全く隔世の感に打たれます。
八戸発祥の地、根城史跡を有するゆかりのこの地区で生涯を暮せる仕合わせをしみじみ感じているこの頃です。この地区で住むものとして愛着一入でございます。
今、町内会創立三十周年を迎えるに当たり今後の弥栄を祈るのみです。
.南売市の想い出 松田 マサ
馬淵川の清流、町を囲む緑の山々そこにお住まいの皆様の事、私は何時も懐かしく思い出しております。
昭和十七年8月の陸軍の移動で、弘前憲兵隊付き八戸憲兵分隊長に補す、の命令を受けた主人に従って、前任地の宇都宮から八戸市に参りました。想えば三十八年に亘る第2の故郷根城地区売市での生活は亡夫も私も二人の息子達もご町内の皆様の温いお情で無事楽しく過させて頂きました。
いま走馬灯の様に週ぎ去った歳月の出来事のあれこれを想い起しております。楽しかった事、嬉しかった事、喜びの思い出を沢山残しております。然し、人生行路には、悲しみもついて廻るものです。聖戦と信じ、戦勝を信じて居た戦は敗れました。職業軍人の戦後の生活はまことに悲惨なものです。そんな中にご町内の多くの方のお励しや、御親切の数々は私達にとって、どんなにか勇気と希望が与えられた事でしょう。
息子喜重の許に身を寄せて十年余りになります。誰に憚る事のない我まま、自由な生活は身体の老化と頭のボケを早めた様です。昨日の事、今日の事も、何も彼も、遠い日の出来事は鮮明で忘れがたいもので、御地での美しい思い出は終生、いや涅槃の国へ参りましても決して忘れ得ないと存じます。ほんとうに有難うございます。
うれしいな生きて居る家族がいる、犬がいる、うれしいな生きて居る。
住み慣れし多摩路の宿よ、緑あり丘あり水良し仲良しも出来。
大正二年生れ 八十歳
東京都日野市平山3・38・2
.記念誌発刊にあたり 二沢平義雄
人生は白駒なりと云うが、私がこの地に生まれ七十六年の歳月を迎えたが、かえり見れば、私たちの幼少の頃は、売市を通称荒谷と云って、八戸市の中心街まで徒歩で十分足らずの地にありながら、春はヒバリ、夏は耳をつんざくようなセミの声、秋はふくろうの淋しそうな鳴き声がきこえ る老杉が生い茂り、各家々は戸窓が少なく家の中は昼なお暗い藁ぶき屋根、朝は夜明けと共に家を出て、夕日が山に沈んでから家路をたどる。そのような労働、生活環境は明治年代以前からのもの、そのままであった。
それが大正年代に至り、各家庭に電気が灯り昭和十六年の頃に道路はコンクリート舗装となり、その頃からどうやら人間の住むような部落になったような感じがする。
それから三十年後の頃からこの売市地区各町内に急激な変化をもたらす、それが売市地区区画整理事業に依る変化、現在の町内環境の姿である。
この環境の変化を見てここに住む方々は予期していなかった様変わりを見て白髪の多くなった方々は、昭和の初期の売市地区の姿を忘れ去る事であろう。このように考えると、冒頭の白駒の意味がうなづけるものと信じる。
白駒とは辞書に依れば、「歳月の過ぎ易すきは白い馬が壁の隙間を過ぐる如く疾きを喩う」とある。人生はうかうかしていれば壁の隙間の向こうを白い駒が通り過ぎるを見る如く、あっという間に終ってしまうの喩え、気がつかないうちに終り、又忘れてしまうものであるとの意味であろう。
この三十周年記念誌は古きを尋ね、現在を後世に残す意味からして真に意義あるものであり、これを編集して下さった方々に対し万感の謝意を表する次第である。
.敬老会に思うこと 民生委員 小林 綾子
三十周年おめでとうございます。 三十年を最初から支えて、今を築かれた方々には心から感謝申し上げます。
私は既に立派になった町内に滑り込み、居心地よくぬくぬくと過ごさせて頂いています。その中で民生委員を仰せつかり、6年を経過しました。それまでは十三班の中のことしか知らなかった私が、今では南売市町内会全体に視野が広がりました。
殊に敬老会を通して、沢山のお年寄りを知った事は、とても嬉しいことのひとつです。昨年六十五才以上のご夫婦だけの世帯と、独り暮らしの世帯の調査がありました。
私の担当地区では、老夫婦だけの世帯が6世帯、独り暮らしが5世帯でした。それらの方々の緊急連絡場所などをチェックする為だったのですが、皆さん心配の無い方ばかりなのは、心強いことでした。
マスコミの伝える内容を見ますと、都会では大変気の毒な方もおられるようですが、南売市を見る限り、七十過ぎても外へ出て働いている方もあり、その元気なのに頭が下ります。
整然と区画され、立派に舗装された道路、豪華な家々、すばらしい住環境の町内を、敬老会の招待状を持ってお訪ねしながら「豊かだなあ」と心から感じます。
町内会としては三十周年でも、古くから住んでいる方が多いのですから、どうしても老人人口は多くなります。中には大半が該当する班もあるのですが、殆どの方が元気で、豊かで、幸せというのは、これから仲間入りする私達にとって、先行き嬉しいことです。
住民のひとりとして、仲間入りさせて頂いたのですから、元気でいる間は町内のお役に立てるように努力したいと思っています。
風呂屋さん 佐藤 重男
風呂屋さん、親しみのあるそして今では懐しくさえ聞こえる言葉になった。平安時代、京都の東山あたりが発祥の地だと聞いた事があるが、多分当時はまだ庶民のものではなかったのかも知れない。江戸時代には大衆化し明治の初期までは、男女混浴の銭湯(風呂屋)が多かったと云う。近年は広い駐車場を持つ○○温泉と称する郊外型の風呂屋に変って来て、イメージも、雰囲気もかつての風呂屋さんとは全く違ったものになったように思う。
私が常備消防に入って、初めの勤務場所は鍛冶町の屯所だった。(昭和二十六年)そこには消防団員の外に家事仕事の息抜きに来る人、勤務明けの若者達、町内の隠居的な人、風来坊的な人などさまざまな人達が屯ろしていた。そして将棋、碁、花札、トランプ、マージャンと云った娯楽に興ずる人、専ら喋べる人、聞き役に徹する人、これまたさまざまだった。その中に風呂屋の主人も居た。屯所の筋向いに風呂屋さんがあり、近かったせいもあり、入浴客の少ない時を見計らって息抜きに屯所に来る。番台の話が出て「誰か番台を代ってくれる人いないかな三十分でもいいから」と番台の交替を探す話に、オレがと軽口をたたいている連中も、いざとなると誰もそんな勇気は持ちあわせていなかった。
私が売市の住人となったのは昭和二十九年の5月でした。その頃、売市の風呂屋さんと云えば高砂湯のことだった。お客さんも多く、特に夕方から夜にかけての浴室の中は、話し声や、笑い声、それに子供達の泣き声、子を叱る親達の声など庶民的な賑かさがあった。それから数年後我が家の近くに、松の湯と云う風呂屋さんが、開業し、南売市は2軒となった。近いと云う事は何かと便利で、嵐の日や、寒い晩などはその有難さを痛切に感じたものだった、風呂屋さんはその地域のコミュニケーションの場、はだかでのつき合いの場、隣人愛を醸成する所でもあった。残念なことに、松の湯も高砂湯も数年前になくなってしまった。郊外型浴場の盛況と家庭風呂の普及と云う時代の流れに押されて社会に大きな役割を果した、街の風呂屋さんも年々残り少なくなり、実に寂しい限りである
川口 喜助
今から五十年ほど前の風景をスケッチで綴って見たいと思います。当時は舘村売市宇売市三十八番地と四十一番地の境であるこの道を「マイミツコ」と称した前の道のことだろう。私の通学路でもあり、又遊び場所でもあった。この絵の左側の大木は高崎さんの田屋欅の大木、右側の杉と欅は川口喜四郎さん宅の大木で、左側の茅葺き屋根は当時中川さんの住いであった。この道の突き当りは幸崎さんの住いであった。
道の途中から左へ入った所にえんぶり神様があり、その祠そばにも欅の大木があった。売市に町の商家の田屋と言う屋敷が多く、どの屋敷にも樹が沢山あった。
畑には作間路があり、家の前を村人が通り抜けしても大して咎める人もなかった。今のように道路が整理されていないので、人の家の前や横を通っていた。
やがて戦争が強まり舟の材料に徴収され、切り倒された。今の人達には想像もつかないような風景があった現在のまほろば幼稚園の通りである。
.三十周年記念によせて 高崎 裕允
昭和四十五年杉山に売市幼稚園を開園、昭和五十二年にまほろば幼稚園と園名を変更し、地域の皆様のご協力を頂き、今年二十五年目を迎えた。
二クラスで始まった幼稚園も、現在七クラス二百四十名が在園している。
幼い頃、まほろば幼稚園の辺りは一面の柿畑であった。果樹に造詣が深かった祖父が明治三十八年、日露戦争で日本が大勝利をおさめて帰還途中、朝鮮半島より長崎に上陸した際に、巨大柿の特産地より苗木を買い求め、杉山の畑に百本植えたものである。柿畑の周囲には丹波栗が植えられ、畑の入口から幸崎さんまでは、欅の巨木が並んでいたが、先の大戦に船材として供出され、鮫へ運ばれた。
白山の小川は今の桜木町あたりでせき止められ、上堤と下堤に造られ、冬には村人総出で氷切りをし、八戸水利組合の氷庫に保存した。氷切作業は、村の年中行事であり部落の唯一の現金収入源であった。
柿畑の一角にえんぶり小屋があった。大正年間に、祖父が村の長老達と計り、えんぶり神様を祀り、村の鎮守の宮とした。荒谷のえんぶりは殿様より唯一帯刀を許され、今も売市えんぶりとして伝統が受け継がれている。
まほろば幼稚園では開園以来毎年2月には売市のえんぶりを鑑賞させていただいているが、最近ではエンコエンコや、鯛釣り舞に卒園生の顔も見られ、また8月の三社大祭には売市山車組に、お囃しや引子として園児や卒園生が参加している。
明治以来、周辺の移り変りを見てきた柿の木は、僅かに幸崎さんとまほろば幼稚園に残るだけとなったが、秋にはたわわに実をつける。今後も地域の益々の発展を見守り続けてほしいものだ。
.中村繁蔵さんの思い出 東野 徳夫
わが家は、南売市町内に転入し二十八年になります。私の記憶の中の中村さんは町内会長、農業委員等の要職を勤められた方と伺って居り私が会った頃は、七十才位に見受けられました。農家で屋敷が広く、周囲は槻木や杉、栗の大木で囲まれてました。
屋敷が広いので、貸し家や菜園があり、いずれも広々として近所の子供たちの、かっこうの遊び場となっていました。
家の前の畑の奥は耕作しないまま野原となっていて、ここでは昆虫採集からキャッチボールなどなんでも遊べました。中村さん夫婦は自分の土地を近所の子供たちの遊び場のままにし、元気に飛びまわる子供の姿を笑顔で見守りながら、静かに広場を見廻り、小石やガラスなどの破片を拾う姿に接し、私は感勤し、スイスの教育者のペスタロッチの物語を連想しながら感謝していました。
私の所から新組町に出る近道は、中村さんの入口の2本の槻木から貸家の前の杉並木を通り、屋敷に入ると、栗の大木が3本あり、屋敷を抜けた畑頭は、また杉並木でした。隣地との境は、八戸市の木になっている、イチイが植えてありました。その脇の小道はやがて売市旧墓地にでた。そこは旧五戸街道の入口にあたり、大橋理容所や住吉食堂のところに出る道でした。
ある日この近道を歩いて来たら、中村さんが葱畑の端に座っていて、日焼した顔に鉢巻がよく似合っていました。挨拶を交した私は、立ち止りほんのひとときでしたが、お話を伺った事があります。中村さんはすでに町内会長も辞し、毎日屋敷内を見廻ったり、菜園の仕事をしてる様子でした。
中村さんは、ご自分の父親について、とつとつと語られた。病人はよく幼い日の思い出の事を話すとか、その話の中に幼少の頃の果物やおかずのことを言い出し、何かと中村さんに要求したという、今日のように食品の保存や加工が進んでいなかった。それでも後いくばくも生きられないと思うと、食べたいと言うものは何であれ一生懸命さがして歩いたそうです。夏の柿、春の秋刀魚、冬の苺等いろいろな店を訪ね聞き回りした話でした。
私は話終わって自分の家へ向かいながら本当に優しい人だなあ、いい所に転入して来たとしみじみ思ったものです。
今は亡き中村さん、その屋敷跡地のほとんどは、杉山公園用地になっております。私は犬と毎朝散歩しながら、あの日焼けしたまん丸なお顔を思い浮かべております。
公園のあちらこちらから子供達を見守って下さっている、その優しさは接したみなさんの胸にきっと残っていると思っています。
町内会に寄せて
松沢 初枝
昭和十四年、舘村立明治尋常高等小学校に転任になり、終戦すぎの21年まで勤務しました。その当時舘村には明治小、田面木小、売市小と三校がありました。三校は青年学級、処女会など、村内の学事会で時折り交流があり、町内の方々とも顔を合わせることもありました。今にして思えば、その頃から売市地区とは何かの縁で結ばれていたような気がしてなりません。その間に舘村が八戸市に編入になり、売市小も二十二年には根城小学校と改名されました。
時は流れ、その後二十七年に根城小に転任になりました。その当時根城小は十二学級でした。地区は田畑が多く、家屋も少なく、美しい小鳥の鳴き声がよく聞かれ、緑の多い静かな町でした。
三十二年、私は町内の方のご厚意により、畑をゆずっていただき、現在の所に住居を構えることになりました。
それからすでに三十数年過ぎ去りました。前の舘村時代のことをよく覚えていて、声をかけて下さる方も多く、なつかしく心強く思われます。たくさんの方々のお世話になりながら、町内の行事にも参加させていただいて今日に至りました。
町内の方々の努力が実り、市街地は進んで区画整理も順調におこなわれ、道路も見違える程立派になりました。
着々と環境が整備され、新しい形の住宅が建ち並び、町内の著しい変貌を見る時、全く隔世の感に打たれます。
八戸発祥の地、根城史跡を有するゆかりのこの地区で生涯を暮せる仕合わせをしみじみ感じているこの頃です。この地区で住むものとして愛着一入でございます。
今、町内会創立三十周年を迎えるに当たり今後の弥栄を祈るのみです。
.南売市の想い出 松田 マサ
馬淵川の清流、町を囲む緑の山々そこにお住まいの皆様の事、私は何時も懐かしく思い出しております。
昭和十七年8月の陸軍の移動で、弘前憲兵隊付き八戸憲兵分隊長に補す、の命令を受けた主人に従って、前任地の宇都宮から八戸市に参りました。想えば三十八年に亘る第2の故郷根城地区売市での生活は亡夫も私も二人の息子達もご町内の皆様の温いお情で無事楽しく過させて頂きました。
いま走馬灯の様に週ぎ去った歳月の出来事のあれこれを想い起しております。楽しかった事、嬉しかった事、喜びの思い出を沢山残しております。然し、人生行路には、悲しみもついて廻るものです。聖戦と信じ、戦勝を信じて居た戦は敗れました。職業軍人の戦後の生活はまことに悲惨なものです。そんな中にご町内の多くの方のお励しや、御親切の数々は私達にとって、どんなにか勇気と希望が与えられた事でしょう。
息子喜重の許に身を寄せて十年余りになります。誰に憚る事のない我まま、自由な生活は身体の老化と頭のボケを早めた様です。昨日の事、今日の事も、何も彼も、遠い日の出来事は鮮明で忘れがたいもので、御地での美しい思い出は終生、いや涅槃の国へ参りましても決して忘れ得ないと存じます。ほんとうに有難うございます。
うれしいな生きて居る家族がいる、犬がいる、うれしいな生きて居る。
住み慣れし多摩路の宿よ、緑あり丘あり水良し仲良しも出来。
大正二年生れ 八十歳
東京都日野市平山3・38・2
.記念誌発刊にあたり 二沢平義雄
人生は白駒なりと云うが、私がこの地に生まれ七十六年の歳月を迎えたが、かえり見れば、私たちの幼少の頃は、売市を通称荒谷と云って、八戸市の中心街まで徒歩で十分足らずの地にありながら、春はヒバリ、夏は耳をつんざくようなセミの声、秋はふくろうの淋しそうな鳴き声がきこえ る老杉が生い茂り、各家々は戸窓が少なく家の中は昼なお暗い藁ぶき屋根、朝は夜明けと共に家を出て、夕日が山に沈んでから家路をたどる。そのような労働、生活環境は明治年代以前からのもの、そのままであった。
それが大正年代に至り、各家庭に電気が灯り昭和十六年の頃に道路はコンクリート舗装となり、その頃からどうやら人間の住むような部落になったような感じがする。
それから三十年後の頃からこの売市地区各町内に急激な変化をもたらす、それが売市地区区画整理事業に依る変化、現在の町内環境の姿である。
この環境の変化を見てここに住む方々は予期していなかった様変わりを見て白髪の多くなった方々は、昭和の初期の売市地区の姿を忘れ去る事であろう。このように考えると、冒頭の白駒の意味がうなづけるものと信じる。
白駒とは辞書に依れば、「歳月の過ぎ易すきは白い馬が壁の隙間を過ぐる如く疾きを喩う」とある。人生はうかうかしていれば壁の隙間の向こうを白い駒が通り過ぎるを見る如く、あっという間に終ってしまうの喩え、気がつかないうちに終り、又忘れてしまうものであるとの意味であろう。
この三十周年記念誌は古きを尋ね、現在を後世に残す意味からして真に意義あるものであり、これを編集して下さった方々に対し万感の謝意を表する次第である。
.敬老会に思うこと 民生委員 小林 綾子
三十周年おめでとうございます。 三十年を最初から支えて、今を築かれた方々には心から感謝申し上げます。
私は既に立派になった町内に滑り込み、居心地よくぬくぬくと過ごさせて頂いています。その中で民生委員を仰せつかり、6年を経過しました。それまでは十三班の中のことしか知らなかった私が、今では南売市町内会全体に視野が広がりました。
殊に敬老会を通して、沢山のお年寄りを知った事は、とても嬉しいことのひとつです。昨年六十五才以上のご夫婦だけの世帯と、独り暮らしの世帯の調査がありました。
私の担当地区では、老夫婦だけの世帯が6世帯、独り暮らしが5世帯でした。それらの方々の緊急連絡場所などをチェックする為だったのですが、皆さん心配の無い方ばかりなのは、心強いことでした。
マスコミの伝える内容を見ますと、都会では大変気の毒な方もおられるようですが、南売市を見る限り、七十過ぎても外へ出て働いている方もあり、その元気なのに頭が下ります。
整然と区画され、立派に舗装された道路、豪華な家々、すばらしい住環境の町内を、敬老会の招待状を持ってお訪ねしながら「豊かだなあ」と心から感じます。
町内会としては三十周年でも、古くから住んでいる方が多いのですから、どうしても老人人口は多くなります。中には大半が該当する班もあるのですが、殆どの方が元気で、豊かで、幸せというのは、これから仲間入りする私達にとって、先行き嬉しいことです。
住民のひとりとして、仲間入りさせて頂いたのですから、元気でいる間は町内のお役に立てるように努力したいと思っています。
風呂屋さん 佐藤 重男
風呂屋さん、親しみのあるそして今では懐しくさえ聞こえる言葉になった。平安時代、京都の東山あたりが発祥の地だと聞いた事があるが、多分当時はまだ庶民のものではなかったのかも知れない。江戸時代には大衆化し明治の初期までは、男女混浴の銭湯(風呂屋)が多かったと云う。近年は広い駐車場を持つ○○温泉と称する郊外型の風呂屋に変って来て、イメージも、雰囲気もかつての風呂屋さんとは全く違ったものになったように思う。
私が常備消防に入って、初めの勤務場所は鍛冶町の屯所だった。(昭和二十六年)そこには消防団員の外に家事仕事の息抜きに来る人、勤務明けの若者達、町内の隠居的な人、風来坊的な人などさまざまな人達が屯ろしていた。そして将棋、碁、花札、トランプ、マージャンと云った娯楽に興ずる人、専ら喋べる人、聞き役に徹する人、これまたさまざまだった。その中に風呂屋の主人も居た。屯所の筋向いに風呂屋さんがあり、近かったせいもあり、入浴客の少ない時を見計らって息抜きに屯所に来る。番台の話が出て「誰か番台を代ってくれる人いないかな三十分でもいいから」と番台の交替を探す話に、オレがと軽口をたたいている連中も、いざとなると誰もそんな勇気は持ちあわせていなかった。
私が売市の住人となったのは昭和二十九年の5月でした。その頃、売市の風呂屋さんと云えば高砂湯のことだった。お客さんも多く、特に夕方から夜にかけての浴室の中は、話し声や、笑い声、それに子供達の泣き声、子を叱る親達の声など庶民的な賑かさがあった。それから数年後我が家の近くに、松の湯と云う風呂屋さんが、開業し、南売市は2軒となった。近いと云う事は何かと便利で、嵐の日や、寒い晩などはその有難さを痛切に感じたものだった、風呂屋さんはその地域のコミュニケーションの場、はだかでのつき合いの場、隣人愛を醸成する所でもあった。残念なことに、松の湯も高砂湯も数年前になくなってしまった。郊外型浴場の盛況と家庭風呂の普及と云う時代の流れに押されて社会に大きな役割を果した、街の風呂屋さんも年々残り少なくなり、実に寂しい限りである
2007年7月1日日曜日
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 1
国に国史、市に市史、企業に社史があるように町内にも歴史あり、それが町史。これを作ったのが南売市、他にも作った町内があるかと八戸図書館で調べたが糠塚にあるだけ。貴重な文献である。
こうした地域に根付いた史料は大事なもの。
その地域でしか知ることのできない事実が幾つもあるからだ。
これらの事柄を中心にして南売市町内会誌を見てみよう。
この貴重な本の存在を教えてくらたのが、西売市の「ギャラリーみち」での「第一回私のありがとう」聞き取り会に出席された北山栄子さん。
この人は絵心を持ち継続し個展を開く市井の画家。こうした文化活動を地道に続ける多くの人がいる。人口二十五万都市、八戸もなかなかなもの、内懐が深い。
さて、「はちのへ今昔」が最も興味のある記事、
その町にどんな人がいたかから紹介。
思い出の記 .明治の頃から大正の始め
山田 国太郎
○7~8才のころ
私は明治33年生れです。父、大太郎は師範学校を出て、教員でした。三戸郡舘村大字売市字売市21番地、山田銀蔵、孫、平民、国太郎、父大 太郎長男と届けてありました。
その頃、一家に一人1票選挙権が与えられ、それも男子でなければなりませんでした。私の家では祖父が戸主でしたので、すべてこの様に記されておりました。
元の家は、細長い屋敷の奥にありましたが、その元家を取り壊して、道路側に征服で300円で建てた(当時、茅葺が多かった)と聞いております。祖父母と姉はここで暮らしていましたが、私は 親と赴任先の島守におりました。八戸に来たのは7才の春でした。牛の背中に乗せられて上り街道を下って来たのを80余年経っても鮮明に覚えています。
小学校は、売市尋常小学校でした。お天満様(天満宮)の向いにあり、平家で教室が二つと玄関を入れば左が教員室、その奥が当直室でした。
7才で入学するのは当り前でしたが、9才位で入学する者もおりました。当時は余り厳しくなかった様です。
服装は筒袖に前掛を当てた、袴をはく子は売市には他に居りませんでした。ただ一人私だけ紋付を着ておりました。それは、母が大人の紋付きを切りつめて呉れた一つ紋でした。
生徒数は全部で30人前後だったと思います。
入学式と云っても親が来たり来なかったりのようでした。学科は書き方(習字)、修身(道徳)、読本(国語)、算術(算数)でした。運動会と云っても大げさなものでなく、30間位(60)米の広場をはだしで走っただけでした。はせ比べとか、よせつんどと言い合っていました。その頃は尋常科は4年制でした。男の子は褌など当てていなかったので、先生が前掛を代りに結んで、スッペさみ取りして呉れました。
O10~12才のころ
父は病弱でした それで、水目沢にあった田畑を売り、生活費としているようでした。その頃母が袴を作って呉れました。それは御年始に、父の代りに、常海町の某と云う先生の所や山ノ下の池田様といった士族方のお宅に行く為のものでした。勿論お顔を拝見する訳でもなく父の代りに名刺を置くだけでした。
その頃父は、鶏卵の商いをしたり、教員あがりだと云う事もあり、館村の村会議員に推せんされたり、後に村長の役を仰せ付かる事になったようで、家には常に村の人達が集って居ました。
O14~15才のころ
その頃の民家は現在の中村安江さんの所から 始って、大橋まで戸数71~72戸位でした。
私の家の上隣りは本家の山田弥三郎の屋敷が あり、間口30間ありました。その上の小道を入 るとカラタチの木があり、その奥が南部様で、左に曲ると野沢様で、二階建の家がありました。
その向こうに岡田さんの屋敷がありました。ま た大通には福田さんの土地、それを過ぎると根伝さん(川口さんの向いあたり)、その近くに川口初蔵さんがいました。長松の入り口(角コ)まで三春屋さんの田屋で、道路端にはオンコの木が植えてありました。
一方私の家の向いから庚申塚のある所まで、岡田さんと云う人の上地で四00坪を四00円で三萬さんに売り、大久保山へ移ったと聞いていま す。三萬さんは、セイロ(穀物用倉庫)を建て、 その管理をする為に、今文壇で活躍なさってい る哲郎さんの父親さんが時折り見えておりまし た。人口にヒバの木を植えていました。その枝を 取り、根つけし成長したのが今私の屋敷に育っ ているしだれヒバの木です。庚申塚の道から西 側に田茂さんの土地、つぎが高崎さんの柿畑で した。その西奥の方は福田さんの土地で、同級 生の中村繁蔵さんの生れた,家がありました。そ のあたりは杉の林が多く、遊びに適さなかった ので、もっぱら表の通りだけでした。それも道 路の両側から木の枝が折り重なって、夏でも薄暗いトンネルのようでした。
○16~17才のころ(大正に入った頃)
米は1俵4円でした。若い者達は角コ(大橋鉄男)のT字路の道端に置かれた3~4個の大きな石(35貫匁~27貫匁、重さの事は木村秋氏の説)があり、その石を肩まで持ち上げる若い者達の力競べが盛んで、夕方になると、T字路に集って来ました。今の重量揚げのようなことをして遊んでいたことをなつかしく思い出します。
.売市附祭のこと
野沢 剛
八戸三社大祭、平成4年に売市附祭最優秀賞受賞、念願の最高の賞であり、子供たちの目も一段と輝き、掛け声も元気一杯、天候にも恵まれ、売市附祭にとって、今年は特別に忘れる事の出来ない素晴らしいお祭りとなりました。
売市附祭の三社大祭初参加は、昭和33年のことであり、南高市町内会が岡田実氏を初代会長として発足し、戦後の大混乱も漸く落着きを取り戻し、再建の足どり払いよいよスビードを早めつつある時であり、八戸でも日曹製鋼(現太平洋金属33年)火力発電所(33年)東新鋼業(35年)等の進出があり、又根城区画整理事業の施行区域、事業計画が決定(34年)され、進出した企業のアパート、社宅等がこの地域に建設される等、敗戦後の暗いイメージから明るい将来に向けての躍動が感じられる時期でした。
新組町の附祭が一足早く(31年)参加したと云うこともあり、売市もと云う気持ちが若い人達にあったのだと思いますが、年明け早々に中村利雄(中村酒店先代)、宮沢三次郎(宮沢現委員長の父)、西村清一(西村燃料店先代)の3氏が発起人となって呼びかけがあり、鳥屋部町の村井さんの御指導を頂いて勧進帖の山車が出来上り、初参加となったのでした。お祭りとは見るものだとばかり思って居ました私に、附祭参加の相談があった時は本当に面食ったものでした。全くの無からの出発で、山車の台車、大小の太鼓、人形等、殆んどが二十六日町附祭組からの借物と云う状態で、新調したのは引綱だけであったと思います。旗、腰巻、浴衣等については、山田、岩沢両呉服さん始め多くの方々の御協力で、どうにか恰好がついたのでした。
こうした事から一度に準備できないので毎年人形を揃えたり、大太鼓(36年)、小太鼓、台車等順次に新調しなければならず、肝心の山車に充分な製作費が掛けられず苦労したものです。
初めは珍らしさもあって多数の子供達も参加しましたが、他所の山車より売市の山車が見劣りすると云う事から、年々参加者が少くなり、それを防ぐ為にバス旅行を計画し呼びかけた事も忘れられない事の一つです。参加当初の頃を考えるとよくここまでやって来たものだとつくづく思います。
着工以来15年、売市区画整理もようやく最終段階となり、町内の様相もすっかり変ってしまいました。町内会発足当時の地域のことを想いますと、感無量のものがあります。町内の発展と共に歩んで来た売市附祭も昭和60年以来5年連続努力賞、昨年は優秀賞35年目の今年は最優秀賞に輝やく事が出来ました。この事は平成元年以来御指導を頂いて来た、夏坂和良さんの御力による所、大でありますが、それにもまして委員長を中心に若い方々の、やろうと云う結集した団結の力があっての事であり、これを契機に、今後より一層頑張って八戸三社大祭を大いに盛り上げ、より多くの人々を喜ばせてほしいものです。
昭和33年初参加の顔ぶれ
発起人 中村利雄・西村清一・宮沢三次郎
山車製作指導者 村井四良
相談役 邨谷忠吉・幸崎幸市郎
会計 北村市太郎 会計監査 中村福次郎
山車製作者 月舘藤吉・元沢馬吉
歴代委員長
初代 野洋 剛 昭和33年~昭和46年
2代 西村清一 昭和47年~昭和53年
3代 中村会松 昭和54年~昭和56年
4代 市川儀郎 昭和57年~昭和59年
5代 川口徳治 昭和60年~昭和62年
6代 中村明人 昭和63年~平成3年 -,
7代 宮沢文夫 平成4年~
こうした地域に根付いた史料は大事なもの。
その地域でしか知ることのできない事実が幾つもあるからだ。
これらの事柄を中心にして南売市町内会誌を見てみよう。
この貴重な本の存在を教えてくらたのが、西売市の「ギャラリーみち」での「第一回私のありがとう」聞き取り会に出席された北山栄子さん。
この人は絵心を持ち継続し個展を開く市井の画家。こうした文化活動を地道に続ける多くの人がいる。人口二十五万都市、八戸もなかなかなもの、内懐が深い。
さて、「はちのへ今昔」が最も興味のある記事、
その町にどんな人がいたかから紹介。
思い出の記 .明治の頃から大正の始め
山田 国太郎
○7~8才のころ
私は明治33年生れです。父、大太郎は師範学校を出て、教員でした。三戸郡舘村大字売市字売市21番地、山田銀蔵、孫、平民、国太郎、父大 太郎長男と届けてありました。
その頃、一家に一人1票選挙権が与えられ、それも男子でなければなりませんでした。私の家では祖父が戸主でしたので、すべてこの様に記されておりました。
元の家は、細長い屋敷の奥にありましたが、その元家を取り壊して、道路側に征服で300円で建てた(当時、茅葺が多かった)と聞いております。祖父母と姉はここで暮らしていましたが、私は 親と赴任先の島守におりました。八戸に来たのは7才の春でした。牛の背中に乗せられて上り街道を下って来たのを80余年経っても鮮明に覚えています。
小学校は、売市尋常小学校でした。お天満様(天満宮)の向いにあり、平家で教室が二つと玄関を入れば左が教員室、その奥が当直室でした。
7才で入学するのは当り前でしたが、9才位で入学する者もおりました。当時は余り厳しくなかった様です。
服装は筒袖に前掛を当てた、袴をはく子は売市には他に居りませんでした。ただ一人私だけ紋付を着ておりました。それは、母が大人の紋付きを切りつめて呉れた一つ紋でした。
生徒数は全部で30人前後だったと思います。
入学式と云っても親が来たり来なかったりのようでした。学科は書き方(習字)、修身(道徳)、読本(国語)、算術(算数)でした。運動会と云っても大げさなものでなく、30間位(60)米の広場をはだしで走っただけでした。はせ比べとか、よせつんどと言い合っていました。その頃は尋常科は4年制でした。男の子は褌など当てていなかったので、先生が前掛を代りに結んで、スッペさみ取りして呉れました。
O10~12才のころ
父は病弱でした それで、水目沢にあった田畑を売り、生活費としているようでした。その頃母が袴を作って呉れました。それは御年始に、父の代りに、常海町の某と云う先生の所や山ノ下の池田様といった士族方のお宅に行く為のものでした。勿論お顔を拝見する訳でもなく父の代りに名刺を置くだけでした。
その頃父は、鶏卵の商いをしたり、教員あがりだと云う事もあり、館村の村会議員に推せんされたり、後に村長の役を仰せ付かる事になったようで、家には常に村の人達が集って居ました。
O14~15才のころ
その頃の民家は現在の中村安江さんの所から 始って、大橋まで戸数71~72戸位でした。
私の家の上隣りは本家の山田弥三郎の屋敷が あり、間口30間ありました。その上の小道を入 るとカラタチの木があり、その奥が南部様で、左に曲ると野沢様で、二階建の家がありました。
その向こうに岡田さんの屋敷がありました。ま た大通には福田さんの土地、それを過ぎると根伝さん(川口さんの向いあたり)、その近くに川口初蔵さんがいました。長松の入り口(角コ)まで三春屋さんの田屋で、道路端にはオンコの木が植えてありました。
一方私の家の向いから庚申塚のある所まで、岡田さんと云う人の上地で四00坪を四00円で三萬さんに売り、大久保山へ移ったと聞いていま す。三萬さんは、セイロ(穀物用倉庫)を建て、 その管理をする為に、今文壇で活躍なさってい る哲郎さんの父親さんが時折り見えておりまし た。人口にヒバの木を植えていました。その枝を 取り、根つけし成長したのが今私の屋敷に育っ ているしだれヒバの木です。庚申塚の道から西 側に田茂さんの土地、つぎが高崎さんの柿畑で した。その西奥の方は福田さんの土地で、同級 生の中村繁蔵さんの生れた,家がありました。そ のあたりは杉の林が多く、遊びに適さなかった ので、もっぱら表の通りだけでした。それも道 路の両側から木の枝が折り重なって、夏でも薄暗いトンネルのようでした。
○16~17才のころ(大正に入った頃)
米は1俵4円でした。若い者達は角コ(大橋鉄男)のT字路の道端に置かれた3~4個の大きな石(35貫匁~27貫匁、重さの事は木村秋氏の説)があり、その石を肩まで持ち上げる若い者達の力競べが盛んで、夕方になると、T字路に集って来ました。今の重量揚げのようなことをして遊んでいたことをなつかしく思い出します。
.売市附祭のこと
野沢 剛
八戸三社大祭、平成4年に売市附祭最優秀賞受賞、念願の最高の賞であり、子供たちの目も一段と輝き、掛け声も元気一杯、天候にも恵まれ、売市附祭にとって、今年は特別に忘れる事の出来ない素晴らしいお祭りとなりました。
売市附祭の三社大祭初参加は、昭和33年のことであり、南高市町内会が岡田実氏を初代会長として発足し、戦後の大混乱も漸く落着きを取り戻し、再建の足どり払いよいよスビードを早めつつある時であり、八戸でも日曹製鋼(現太平洋金属33年)火力発電所(33年)東新鋼業(35年)等の進出があり、又根城区画整理事業の施行区域、事業計画が決定(34年)され、進出した企業のアパート、社宅等がこの地域に建設される等、敗戦後の暗いイメージから明るい将来に向けての躍動が感じられる時期でした。
新組町の附祭が一足早く(31年)参加したと云うこともあり、売市もと云う気持ちが若い人達にあったのだと思いますが、年明け早々に中村利雄(中村酒店先代)、宮沢三次郎(宮沢現委員長の父)、西村清一(西村燃料店先代)の3氏が発起人となって呼びかけがあり、鳥屋部町の村井さんの御指導を頂いて勧進帖の山車が出来上り、初参加となったのでした。お祭りとは見るものだとばかり思って居ました私に、附祭参加の相談があった時は本当に面食ったものでした。全くの無からの出発で、山車の台車、大小の太鼓、人形等、殆んどが二十六日町附祭組からの借物と云う状態で、新調したのは引綱だけであったと思います。旗、腰巻、浴衣等については、山田、岩沢両呉服さん始め多くの方々の御協力で、どうにか恰好がついたのでした。
こうした事から一度に準備できないので毎年人形を揃えたり、大太鼓(36年)、小太鼓、台車等順次に新調しなければならず、肝心の山車に充分な製作費が掛けられず苦労したものです。
初めは珍らしさもあって多数の子供達も参加しましたが、他所の山車より売市の山車が見劣りすると云う事から、年々参加者が少くなり、それを防ぐ為にバス旅行を計画し呼びかけた事も忘れられない事の一つです。参加当初の頃を考えるとよくここまでやって来たものだとつくづく思います。
着工以来15年、売市区画整理もようやく最終段階となり、町内の様相もすっかり変ってしまいました。町内会発足当時の地域のことを想いますと、感無量のものがあります。町内の発展と共に歩んで来た売市附祭も昭和60年以来5年連続努力賞、昨年は優秀賞35年目の今年は最優秀賞に輝やく事が出来ました。この事は平成元年以来御指導を頂いて来た、夏坂和良さんの御力による所、大でありますが、それにもまして委員長を中心に若い方々の、やろうと云う結集した団結の力があっての事であり、これを契機に、今後より一層頑張って八戸三社大祭を大いに盛り上げ、より多くの人々を喜ばせてほしいものです。
昭和33年初参加の顔ぶれ
発起人 中村利雄・西村清一・宮沢三次郎
山車製作指導者 村井四良
相談役 邨谷忠吉・幸崎幸市郎
会計 北村市太郎 会計監査 中村福次郎
山車製作者 月舘藤吉・元沢馬吉
歴代委員長
初代 野洋 剛 昭和33年~昭和46年
2代 西村清一 昭和47年~昭和53年
3代 中村会松 昭和54年~昭和56年
4代 市川儀郎 昭和57年~昭和59年
5代 川口徳治 昭和60年~昭和62年
6代 中村明人 昭和63年~平成3年 -,
7代 宮沢文夫 平成4年~
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