前号で昭和四十年代の武輪水産の置かれた位置を見たが、助子の赤字を出したあたりは、八戸の水産界は好景気の渦中にあった。
ところが、武輪水産は助子の着色の亜硝酸は体に悪いと使用を中止。問屋がこれに難色を示し、在庫の山となる。資金繰りが悪化し、金策に奔走中に労働組合が出来る騒ぎ。
踏んだり蹴ったりの様相。これは武輪氏が東北の旗頭となり、業界を健全な方向へと導こうとした結果が逆目となった。
無一物から東北一の水産加工業者となったことが、こうした業界を揚げての健康食品への舵取りをさせた。
ところが業界というのは頑迷で、簡単に東北一の加工屋の言うことに耳を傾けない。何を言っているんだぐらいのことしか考えていないのだ。
そもそも、亜硝酸塩は亜硝酸がヘム鉄に配位して鮮赤色を呈するので、ソーセージなどの食品添加物として利用された。鮮やかな色の赤に刺激されタラコはこうしたものだとの先入観が消費者にあれば、これを払拭するには多くの時間と宣伝が必要になる。
それを体に悪いから止めるでは、ナマの助子の色だけで本当に消費者は付いてくるのかの疑問が取引業者にはあったのだろう。
八戸の水産界の助子の取引量には変化がない。つまり武輪水産だけが先走った結果だった。商人は利益を挙げてこその企業。理念、理想は教育者・政治家の言うことで、商人、加工業者の目指すところではない。しかし、順風満帆であった武輪氏は健康こそ世の大命題と捉えたのだろう。
そして、この考え方は間違いなく、現今は無農薬の野菜・米を求める人々が増加。武輪氏は三十年も先を読んでいたのだ。しかし学者や預言者ならともかく、商人は時代を先読みすれば滅びる。滞貨の山となれば、血であるところの金が廻らなくなる。世の中は人・物・金の三つが廻らなくなると倒産する。
武輪氏は労働組合の人・滞貨の山の物・血の金の三つにつまずいた。しかし、武輪氏の言うことに間違いはない。時代が早すぎただけと金融関係も支援し、急場をしのぎ、赤字を三年で克服する強靭な面を見せる。しかし、払った授業料は大きかった。
そして五十年代は難問の二百海里に直面
武輪水産の五十年史を見ながら解説。
昭和五十年度の営業概況にも原魚の価格は平均魚価に於て前年比いか五七%高、鯖六二%高、助宗一八%安で、いかに於ては塩辛を除き珍味製品は韓国物の安値に押されて内地物の市況は冴えず、鯖はフィレ、味淋干ともに人気なく原魚高の為採算を取る事が困難であり、代る商品として一夜干し味淋、〆鯖等の研究をなし順次軌道にのせつつあります。此様に今八戸の名産となりました〆鯖の生産を此時点で始めて居ります。助宗は魚価、数量ともに程々に推移し、生すり身、生子の販売は好調で、我社の伝統商品の一つである塩辛と共に最も高い収益をあげる事が出来ました。
昭和五十三年度の営業概況によりますと、やや恢復の兆を見せた日本経済も円高によるデフレ効果が産業界に対し次第に圧迫の度を強め、不況から脱出を困難にして居り、消費経済全般の延びも見られない状況でありました。水産業界に於ても消費地市場の取扱高は金額、数量ともに微増に止まり、中には減額を呈したものも見られる等、近年になく沈滞ムードに支配された市況で、更に今年は二百海里漁業専管水城実施の影響が現実の姿となって現われ、北方水域に於ける底曳漁業の如きは潰滅的打撃を受け原料面に於いても非常に困難な状況に直面したのであります。当期の経過を概観致しますと、いかについては、するめいかはここ数年の傾向通りの最低の漁権高で価格は加工用として使用出来る眼界を越えて居り、これの代替品としての紫いかは十二万tと言う水揚げがあり、珍味原料やロールいかとして加工原料にクローズアップされてきました、鯖は秋口から好漁に恵まれ、鮮魚並びに、はまちの餌料として旺盛な需要があり、例年にない収益をあげました。助宗は北転船による水揚げは前年の二〇%と言う有様で一部得意先と自家練製品の原料向けに止まりました。今期決算は普通償却約五千万円、特別償却約二千万円を償却し経常利益約三千万円でした。
(第三の谷間)
昭和五十四年度は二百海里漁業専管水域の実施による影響は北海道、東北の漁業基地に於ては益々深刻な様相を呈して参りました。特に八戸に於きましては、北洋助宗の潰滅は業界に大きな打撃を与え我社に於てもスリ身、紅葉子、生子等の助宗関係の売上が激減し、ニュージーいかの水揚げがあったもののいか全休の水揚げが少なく、大漁のあった旋網鯖も大型の為鮮魚出荷を中心にし、加工ヘの切り換が遅れ、償却丈は満額計上したものの不本意な成績に終りました。此の為鯖対策として、第三冷蔵工場を農林漁業金融公庫と青森銀行の協調融資により着工、昭和五十五年度初めに完成、盛漁期に備え、凍結と原料の備蓄に活用すべく期待したのですが、昭和五十五年度並びに昭和五十六年度共、秋の盛漁期に於ける鯖漁は魚群の組成が大型主体であったため鮮魚出荷は大幅に延びたものの、加工用の小型、フィーレ型の水揚が少なく加工原料の確保に苦心致しました。然しフィーレ、〆鯖は二五%強の売上げ増を見、鯖関係の利益貢献度は少なからぬものがありました。
昭和五十六年度に於けるいか関係については太平洋側に於ける近海するめいかの豊漁、ニュージーいかの過剰在庫、輸入いかの供給過多等のため魚価は暴落し、原料安によりサキイカは可成りの数量を拡売し往年の実績をいささか回復致しましたが、いか製品中の中核商品とも言う事の出来る塩辛が量、金額ともに若干減少した事は残念でした。以上の状態で昭和五十四年度より昭和五十七年度迄連続四期低調な採算に終りました事は誠に残念な事であります。此四年間の成績不良の一因として第二次エネルギー危機の影響もあります。即ち産地高の消費地安と言う市況の逆転現象、電気及び燃油等の大幅な値上げ、人件費、副資材、運賃等の高騰と言う悪条件が重なった結果とも言えます。
昭和五十八年度は更にきびしく、漁業専管水域に対する沿岸諸国の締めつけ、海流異変による近海漁業の漁獲高の減少により魚価の高騰を招き水産加工業界の経営は困難の度を増しました。鯖につきましては鯖加工品中〆鯖は昭和五十七年度非常な好評を博し、六月には備蓄原料も底をつき得意先の需要に応ずる為、止むを得ず他社、他地方産の原料を使用して出荷を続けました。今期は前年の苦い経験に鑑み、充分な原料を確保すべく秋の盛漁期に原料魚の買付けに当たりました、処が今期の鯖は其組成が〆鯖、フィーレ等に適した型が非常に少なく、大型と小型(缶詰、はまちの餌料、魚粕原料向け)に二大分され、加うるに総水揚高が前年の三削減と言う貧漁となり魚価は高騰致しました。為に加工用原料を手当する事は困難となり、〆鯖は例年からすれば一廻りも二廻りも下のサイズを使用して加工致しましたが、販売は伸び悩み年間の販売額は前年比四割もダウンしました。鯖フィーレについても同様な事情であり、従って加工用原料として備蓄した原魚の大半はデッドストックとなり、小型鯖を使用する缶詰業界の輸出不振もあって、小型鯖を見切り販売すればKg当り四〇円から六〇円も逆鞘になると言う有様で、期末の七、八月には各月三、〇〇〇万円の赤字を出す結果となりました。(今から思いますと、五、六年魚と一年魚の混じりで中間の産卵が何等かの原因で少なかったのではないか、此時既に現在の様な乱穫の為、急速に資源の減少につながったのではないかと思われます)いかについても魚価は船凍するめいかをはじめとして、NZいか、紫いかも総じて高値に経過し、そのため主力製品たる塩辛の祖利益率も低下し、叉紫いかを原料とするいかロールは三陸筋のダンピングもあって市況は安値に支配され原価で販売しても尚赤字が出る状況でありました。
以上のいか鯖の主力加工商品の不振が今期減益の主因となり、実に他の商品に於ても消費地市場の不況から原魚高の製品安と言う状況で、今期の加工品の平均租利益率は前期の一五%に対し、一〇%と下る結果となりました。此の為め今期は約一億三千万円の損金を出すに至りました。之が第三の谷間でした。
水産加工業者と漁業家は不即不離の関係にあり、魚がとれなくなれば加工屋も困る図式。
二百海里問題で日本は困った状況が出た。どうしてこの二百海里問題が発生したのか魚市場史から見てみる。
昭和四十年ごろから秋になると、八戸沖の日本領海近くにソ連の漁船団が出没し始めた。ソ連漁船団は昭和三十年ごろから北海道海域へ出漁していたといわれるが、次第に南下し始めていた。最初は一万㌧級の母船と二~三百㌧級の独航船二十隻程度で、サンマ棒受け網漁をしていた。鮫角から六海里辺りで操業し、陸地から肉眼でもはっきりと見ることができた。
ところが昭和四十五年ごろになると、母船、巻き網船、トロール船、タンカーなど合わせて六十隻の大船団に膨れ上がり、八戸から三沢沖へかけてズラリと並ぶに至っては穏やかではない。しかも、日本では資源維持のためにトロール漁法を禁じている海域での操業とあっては、なおのこと漁民の気持ちが治まらない。だが操業位置が領海三海里の外であるので領海侵犯とはならない。こうした状況の中で日本漁船とのトラブルが発生し始めた。特に、八戸沖で四百隻前後のイカ釣り漁船の操業海域と重なっていることから「シー・アンカーを引っ掛けられ三十分も引きずられた」とか「イカ釣り針をもぎ取られた」という騒ぎ。中には転覆寸前まで追い詰められた船も出て「転覆事故が発生したらだれが責任を取るのか」と激高するありさま。その被害も数億円といわれ、漁業者が「緊急対策会議」を開き、ソ連大使館に厳重な抗議を申し入れた。ちょうど中国の国運参加、沖縄返還、陸上自衛隊八戸駐屯地のホーク部隊常駐問題など複雑な世界情勢の中、「漁船でカモフラージュした情報収集」といううわさも流れ、ソ連女性の水死体が発見されるとソ連側では該当者無しと突っぱねたりで、毎年秋になると漁民はソ連船団に悩まされ続けた。
こうしたソ連漁船団と日本の沿岸漁民のトラブル防止のため、昭和五十年六月六日に「日ソ漁業操業協定」が調印され、損害賠償請求も出されたが、ほとんど実効はなかった。
このソ連漁船団の出現は、実はソ連の厳しい食糧政策と関連があったのである。ソ連は農業生産や畜産が低迷し、その打開策として、漁業生産の強化を打ち出していた。昭和三十六年から漁業振興計画が立てられ、第二十二回共産党大会でのミハイロフ論文にはこう述べられている。「漁業に資本を投下することは農業に比べて資本を効果的に利用する方法であり、海洋を開発し、新しい漁業、魚種を求めることはわれわれの義務である」。ソ連はこうした論理で世界の海に進出して行った。多くの海域で大型船の操業によって海洋占有の実績をつくりつつ、一方では「海国ソ連」を誇示するのがその世界戦略でもあった。
ソ連の漁船団は太平洋、大西洋、バルト海、北氷洋、インド洋と全世界にカマとツチの赤い旗をなびかせながら漁獲量を増やしていった。
こうした動きは折から台頭しつつあった「二百海里経済専管水域」とも複雑に関連し、世界は一気に二百海里時代へと突入していくのである。八戸沖に毎年出没したソ連の漁船団は二百海里時代の到来を予告する「黒船」でもあったのだ。
二百カイリ問題の経緯
昭和十三年、アメリカ・ルイジアナ州沖のメキシコ湾大陸棚で、海底油田の試掘が成功した。それがきっかけとなって、第二次大戦が連合国側の勝利に帰した昭和二十年、アメリカのトルーマン大統領が待ちかねていたように、水深二百㍍までの大陸棚を自国の領有とする「トルーマン宣言」を行った。これがきっかけで、海洋再編の動きが始まったのである。
昭和二十七年、李承晩軍事ラインが引かれ、同じ年にペルー、チリ、エクアドルの三国による二百海里領有のサンチャゴ宣言がなされるなど、多くの国の複雑な動きが続いていたこうした状況を収拾し、共通のルールを作ろうというのが海洋法会議の開催であった。昭和三十三年には国連主催による第一次、次いで三十五年には第二次の海洋法会議が開催されたが、各国の利害が対立し、合意に達することはできなかった。この時点においては、議論の中心は三回海里説と十二海里説の対立であって、領海二百海里説は例外的な意見でしかなかった。
ところが、昭和四十九年のカラカス、翌年のジュネーブでの海洋法会議までの二十余年の間に世界情勢は大きく変わっていた。かつては大国が国連を動かし、世界世論を左右していたが、アジア・アフリカ諸国が国際社会に大きな発言力を持つに至ったのである。これらの国々の多くは貧しく、近代国家として大きく立ち遅れていた。彼らは先進国の資源と富の独占を阻止するために強烈な主張を始めた。カラカスの準備会議があった昭和四十七年のアフリカ諸国ヤウンデ会議で二百海里経済専管水域が提案され、熱烈な拍手を浴びたのであった。経済専管水域(エコノミック・ゾーン、略してEZ)という耳慣れない言葉に問題の本質の変化をうかがうことができる。
領海とは、言わば領土の延長であり、侵犯は許されない。しかし、経済専管水域では沿岸国は一定の水域内で天然資源の探査、保存、管理、開発について「主権」と「排他的管轄権」を有するというものである。したがって、海上の通常の航行までも規制するものではない。海底資源までを含めて管轄権を有するという、この二百海里(EZ)が多くの国に支持され、海洋法会議の主流を占めていったのもまた当然である。昭和五十一年のニューヨークの海洋法会議でも合意を得るには至らなかった。しかし、二百海里EZは完全に世界の大勢となっていた。海洋法会議での合意を待たずに、一方的に二百海里宣言を行う国が続出した。これは途上国だけではなかった。五十二年の年明けとともにEC、カナダ、ノルウエー、二百海里に反対していたソ連やアメリカも、二百海里EZであれば航行上の制約はなく、世界戦略上支障なしと三月になって同調した。むしろ、世界世論の反発を恐れたのである。こうして世界はなだれるようにして二百海里時代に突入した。
世界一の水産国日本は最後まで世界世論を読み切れず、エクセプト・ワン(ただ一国のみ反対)といわれ、孤立していた。そして、事実上二百海里時代に入ってから、日本も同年四月、遅ればせながら二百海里宣言をしたのである。この時から日本漁業は苦悩と試練の中に立たされたのだった。
魚が獲れなくなる。漁業家と不足不離の水産加工業者もこの問題を避けては通れない。妙なのは難問が出ても、一度や二度はその後、巧く運ぶのが世の常。しかし、次第に事態は厳しさを増す。日本有数の加工場を持つ八戸は、この問題をどう解決するのか、人々は智慧を絞る。置かれた環境の中、解決策を求めて人々が動くが、相手は世界、簡単に結論は出ない。出口は次第に狭まり、魚は確実に減少の一途。さて、当時の人々はどうしたのか。武輪武一氏の打った手は? 次号に続く
2008年4月1日火曜日
2008年3月1日土曜日
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 5
昭和四十三年度はイカ釣漁業、鯖まき縄漁業、大型機船底曳網(北転船)共水櫛量を増やし、水揚げ量も四三四、四九五tと四〇万tを突破し、助宗スリ身工場も十七工場に増加した年でしたから、まずまずの成績を納められました。
(第二の谷間)
昭和四十四年度以降、太平洋に於けるするめいかの水揚げが急速に減少し、魚価が暴騰してサキイカの原価も高くつきサキイカ中心の操業より、助宗スリ身生産に重点を移しました。当社も昭和四十四年十一月第二工場に二〇屯プラントの助宗スリ身工場を完成、これがフル操業の為め毎日一〇〇tから二〇〇tの助宗を買付け、スリ身生産と共に助子を生産しました。此頃業界より助子に発色材としての亜硝酸を使用した事が判れば廃業処分になる恐れがあり、損害が計り知れないから亜硝酸を使用しない事にしてはと云う問題提起がありました。これは役員会丈では決めかねる事でもあり、加工業者の全休会議を開き協議する事にした結果、亜硝酸を使わない事に決定しました,尤も自然界に取れる硝石は使用してもよいのですが即効性がないのです。そこで八戸水産加工連の会長であった私をはじめ、主な幹部が関東地方は東京で、関西地方は大阪に主要な取引市場の方々に御参集を頂き、助子に亜硝酸を使用しない事にした為、発色しないが今迄と同様に販売して頂き度いと御願いしました。処が暫らくして亜硝酸を使用しない製品が売れなくなった為、今迄通り使用し度いと云う申入れがあり、業界の困惑を考え、事情を取引先に説明し各自対処して頂く事にしました。
然し、私は当面の責任者として市場筋に公 言した手前朝令暮改しては私の信用を失墜する。一時的な損害はあっても長い信用に変えられないとの信念から遂に硝石のみの使用でとおしました,助子の在庫は増大し、運転資金面では急迫し、信用保証協会の保証で融資を依頼したり、取引先の大手筋に支払サイドの短縮や纏まった前渡金を出して貰ったり、資金の調達に奔走しました。最後には在庫の助子を成り行きで処分し、大型の赤字を初めて出しました。此問題で私は得難い教訓を種々体得しました。之が第二の谷間でした。此問題の後始末として臨時株主総会を開き決算期を三月三十一日より八月三十一日に変更する件を議決し、昭和四十五年四月一日より八月三十一日までの決算で約一億円の損失を初めて出しました。此損失は二年間で充填し、三年目より黒字決算になりましたが、一番の痛手は私が資金調達の為奔走している間に従業員の一部に労働組合結成の動きがあった事です。之が表面化し、従業員が動揺し、優秀な若手の男子、女子従業員が多数退職した事です。少数の労働組合に対し多数の従業員が従業員組合を作り全社一丸となっての行動をとる迄に暫らくかかりましたし、丁度石油危機の発生を契機に物価の爆発的な高騰と景気の厳しい落込みと言う戦後最も厳しい試練に見舞われました。加うるに世界経済の不況と相挨って不景気には強いと言われる食品業界も次第に不況の波に洗われ、水産加工業界に於ては原魚高の製品安と言う逆鞘現象が各種の商品に見られる様になりました。ベースアップ率が年同一五%乃至二〇%になり人件費の高騰のあおりを受けたのも此頃であります。
ここで武輪水産のおかれていた昭和四十年代の水産界をみてみよう。
水産界は漁労と加工に大別される。近海のみの漁労をしていた明治期に青森県は佐渡の漁師を招き八戸にイカ釣り技術を教えさせた。明治二十年代の話だ。
明治三十年代には鰹、鮪の豊漁は東奥日報により報道されている。漁業は浜揚げした魚を運搬に時間を消費すれば鮮度は落ちる。運搬技術を持たない時代は人、馬、牛に頼るいがいに方法はなく、遠方への輸送手段はない。そのため地域漁労、地域消費しかない。
日持ちのする商品となればイカをするめと加工するか、イワシを干して肥料とするいがいに手段を持たない。
昭和十二年の八戸商工案内から往時の漁業関係者を探る。
安政三年 製造 中村商店 中村栄吉 南横町
文久二年 漁業 五戸 五戸岩次郎 湊
文久二年 鮮魚 戸田魚店 六日町 戸田栄一
明治十年 小売 魚周 沼館周太郎 六日
明治十年 漁業 秋山 秋山熊五郎 浜須賀
明治十二、漁業、神田商店、神田俊雄 湊柳町
明治二二 漁業 岩五商店 岩岡義剛 鮫
明治二八 蒲鉾 槻末商店 槻舘新太郎 六日
明治四五 卸小売大山商店 大山富蔵 六日
明治三年 製造 中平魚店 中島平助 六日
明治四十 漁業 高橋商店 高橋善蔵 下條
明治三六 卸 夏市商店 夏堀市太郎 湊
明治二五 漁業 長谷川藤次郎商店 白銀
四十 卸 田名旗商店 田名部旗次郎二十三日
四五 卸 田中清三郎商店 白銀
三二 卸 沼田魚店 沼田嘉蔵 六日町
大正元 卸 関橋商店 関橋耕作 小中野
大正二 小売 福田魚店 福田真太郎 六日
大正三 小売 中梅 中島梅吉 六日町
大正三 卸 夏堀商店 夏堀源三郎 南横町
々 卸 宮市商店 宮崎市太郎 鮫
大正五 製造 吉田契造商店 湊大沢
大正五 卸 柳谷鮮魚店 柳谷歌吉 小中野
大正五 卸 久保田魚店 久保田留之助 六日
大正十 卸 武尾商店 武尾憲三郎 下條
大正十二 卸 田中商店 田中仁太郎 湊
々 卸 倉本商店 倉本象二 湊
大正十三 小売 石良商店 石橋良一 六日
大正十二 製造 大石蒲鉾 大石連治 北横町
大正十五 卸 中石商店 中島石蔵 小中野
昭和元年 漁業 吉田商店 吉田利八郎 下條
昭和二年 卸 岩村商店 岩村四方吉 湊
々 漁業 平岡春松 鮫
昭和四 卸 熊野商店 熊野福三郎 湊
々 卸 榎本海産店 榎本元吉 湊
昭和六 卸 町田商店 町田米次郎 南横町
々 卸 角田商店 栗原平蔵 新堀
昭和八 漁業 角栄海産物 角栄次郎 北横町
昭和九 卸 沢口商店 沢口由郎 湊
昭和十一 小売 佐々木魚店 佐々木惣吉 鮫
さらに水産加工品業者には
肥料 関五 関川五郎 北横町 明治二二
魚肥 金入 金入文吉 番町 明治四二
々 南部物産 高橋正志 新堀
佃煮 滝川水産加工場 滝川忠兵衛 小中野
魚肥 鳥谷部商店 鳥谷部堅吉 湊
乾物 柏商店 柏美与志 白銀
海産物 荒井商店 荒井八十八 鮫
海産加工 佐川商店 佐川幸蔵 鮫
乾魚 長谷商店 長谷春松 六日町
魚肥 石要商店 石橋要吉 十八日町
々 三新商店 富岡新太郎 十三日町
々 秋山秀之助 浜須賀
ここに武輪氏が割って入ったことになる。
戦後間もなくは政府の方針で、木造船を継ぎ足して大きくし、魚を沢山獲る工夫をなした。多くの大型漁船は徴用され、輸送船として外地で撃沈された。船も人手も不足していた。
外地からの引揚者三百万人、これらの食べる苦労から開始となった。武輪氏はまさに、この時代に旗揚げすることになった。最初は労力しかなく、骨身惜しまず働く、人が捨てるような魚屑から肥料をつくり、その爪に火を点すような苦労を重ね資本を得て、魚を買い加工に身を乗り出した。国民が食えればいい時代は直ぐに終息。
美味しいものを求めるようになる。ここに加工の技術が生かされた。
漁労をせず、加工だけにたよると、市場での買いつけが勝負になる。多くの従業員を擁する企業に伸し上がると、買い付け額も上る。
従業員の給料を確保するためには高値で購入するようになる。
ここに企業家としての悩みも出る。昭和四十四年武輪水産が大きな赤字を出した。その背景の八戸水産界はどのような悩みを抱えていたのだろうか。
それを探るべく往時のにデーリー東北新聞を見た。すると「水産八戸のカルテ」というシリーズが掲載されていた。そのなかに東北水研八戸支所が出ている。
イカ・サバ調査に力。
基礎的研究体制が必要
昭和二十五年全国八箇所に水産研究所が設けられ八戸は塩釜の支所。魚の年齢構成、成長、分布、深度別魚種別調査などで、漁船数と資源量を明確化した。北海道へ入会操業していた中型トロールを減船した。減少した若齢サバ、自然条件が響くイカなどの記載があるが、結果的にはイカ・サバの増減は判明せず。今後の研究が必要とある。
漁獲量によって漁業家は左右され、加工場も同様である。しかし、加工場に卓越した技術があれば、八戸の水揚げに頼ることなく魚は全国、全世界から集まる。
この昭和四十四年には想像もつかなかっただろうが、後年武輪水産はノルウェーからサバを全国に先駆けて実施。加工技術、新製品開発以外に企業が生き残る術はないのだ。
デーリー東北新聞の連載「カルテ」に水産加工流通の方向の記事がある。それには、ふえる冷凍、加工とあり、水揚げは昭和三十年代が十万トン、四十年代には二十万トンから三十万トン、さらに四十万トンへと急速飛躍。水揚げ量の増大は魚場が近いこと、水揚げ価格が競合港より高いこと、価格が安定していることである。水揚げの対象魚種はイカ、サバ、サンマなど回遊性多獲魚から北洋トロールのスケトウタラで、水揚げ金額では高級魚が少ないため全国では順位が落ちるが、量的には日本一である。
これらの水揚げされた魚の処理であるが、鮮魚として処理三十九%、冷凍冷蔵三十%、加工その他三十一%で、将来は加工能力の増大から鮮魚は二十%、冷凍冷蔵、加工で八十%となることが予想されている。
期待のイカ、珍味、スケソウねり製品
それでは、八戸港で生産される加工品の種類はどれだけあるだろうか。製造方法が低次から高次へと多様で生産品目も豊富だが、販売高の構成比では鮮魚がトップ。今後の期待製品は、現在成長中のイカ珍味と、完全利用が出来ていないスケソウタラ利用のねり製品の二つである。この二つの製造、生産については地元八戸の業者も意欲的で、地元の水産加工研究所を主体として研究を続け、すでにスケ子、イカの珍味においては集中生産方式によって大きな成果をあげている。
集中生産方式で原料高く買い、製品安く売る
集中生産方式とは、相当規模の実験工場で製品を試作し広く公開する。収益性が高いと予想された場合、生産工場数が急増、需要に充分こたえられる方式で、ねり製品の原料となる北転船の水揚げ魚種のスケソウは北海道よりは鮮度の面で落ちるとしても、価格面では北海道と同等に対抗できるわけで、今後の生産技術開発によっては先進地よりもよい製品を生産、優位にたてることも可能といわれる。
商品が商品を呼び産地銘柄を確立
八戸水産加工の今後の期待はねり製品、イカ珍味、冷凍食品であるが、これを食品ルートに乗せようとすると水産大手との激しい販売競争が待っている。しかし、販売ルートに乗せなくては、効果が期待できない訳で、八戸港としては卸売り市場を固めながら、一般食品問屋ルートの開発も急がなければ販売高の伸長は望めない。
この時、大いに生かしたいのは、流通面にも集中生産方式の精神の貫徹である。優秀製品を看板商品として既存ルートに取り扱いの意欲をもたせ、実績が上昇に転じたとき、すかさず集中方式によって規格化された均一商品を集中的に流通路線に乗せる。これが商品が商品を呼ぶことになり、八戸の産地銘柄が確立される。
端的に言えば原料を高く買い、加工製品をより安く売るメカニズムを無理なく定着させ、発展させて行くことが八戸水産加工流通の基本的課題である。
(第二の谷間)
昭和四十四年度以降、太平洋に於けるするめいかの水揚げが急速に減少し、魚価が暴騰してサキイカの原価も高くつきサキイカ中心の操業より、助宗スリ身生産に重点を移しました。当社も昭和四十四年十一月第二工場に二〇屯プラントの助宗スリ身工場を完成、これがフル操業の為め毎日一〇〇tから二〇〇tの助宗を買付け、スリ身生産と共に助子を生産しました。此頃業界より助子に発色材としての亜硝酸を使用した事が判れば廃業処分になる恐れがあり、損害が計り知れないから亜硝酸を使用しない事にしてはと云う問題提起がありました。これは役員会丈では決めかねる事でもあり、加工業者の全休会議を開き協議する事にした結果、亜硝酸を使わない事に決定しました,尤も自然界に取れる硝石は使用してもよいのですが即効性がないのです。そこで八戸水産加工連の会長であった私をはじめ、主な幹部が関東地方は東京で、関西地方は大阪に主要な取引市場の方々に御参集を頂き、助子に亜硝酸を使用しない事にした為、発色しないが今迄と同様に販売して頂き度いと御願いしました。処が暫らくして亜硝酸を使用しない製品が売れなくなった為、今迄通り使用し度いと云う申入れがあり、業界の困惑を考え、事情を取引先に説明し各自対処して頂く事にしました。
然し、私は当面の責任者として市場筋に公 言した手前朝令暮改しては私の信用を失墜する。一時的な損害はあっても長い信用に変えられないとの信念から遂に硝石のみの使用でとおしました,助子の在庫は増大し、運転資金面では急迫し、信用保証協会の保証で融資を依頼したり、取引先の大手筋に支払サイドの短縮や纏まった前渡金を出して貰ったり、資金の調達に奔走しました。最後には在庫の助子を成り行きで処分し、大型の赤字を初めて出しました。此問題で私は得難い教訓を種々体得しました。之が第二の谷間でした。此問題の後始末として臨時株主総会を開き決算期を三月三十一日より八月三十一日に変更する件を議決し、昭和四十五年四月一日より八月三十一日までの決算で約一億円の損失を初めて出しました。此損失は二年間で充填し、三年目より黒字決算になりましたが、一番の痛手は私が資金調達の為奔走している間に従業員の一部に労働組合結成の動きがあった事です。之が表面化し、従業員が動揺し、優秀な若手の男子、女子従業員が多数退職した事です。少数の労働組合に対し多数の従業員が従業員組合を作り全社一丸となっての行動をとる迄に暫らくかかりましたし、丁度石油危機の発生を契機に物価の爆発的な高騰と景気の厳しい落込みと言う戦後最も厳しい試練に見舞われました。加うるに世界経済の不況と相挨って不景気には強いと言われる食品業界も次第に不況の波に洗われ、水産加工業界に於ては原魚高の製品安と言う逆鞘現象が各種の商品に見られる様になりました。ベースアップ率が年同一五%乃至二〇%になり人件費の高騰のあおりを受けたのも此頃であります。
ここで武輪水産のおかれていた昭和四十年代の水産界をみてみよう。
水産界は漁労と加工に大別される。近海のみの漁労をしていた明治期に青森県は佐渡の漁師を招き八戸にイカ釣り技術を教えさせた。明治二十年代の話だ。
明治三十年代には鰹、鮪の豊漁は東奥日報により報道されている。漁業は浜揚げした魚を運搬に時間を消費すれば鮮度は落ちる。運搬技術を持たない時代は人、馬、牛に頼るいがいに方法はなく、遠方への輸送手段はない。そのため地域漁労、地域消費しかない。
日持ちのする商品となればイカをするめと加工するか、イワシを干して肥料とするいがいに手段を持たない。
昭和十二年の八戸商工案内から往時の漁業関係者を探る。
安政三年 製造 中村商店 中村栄吉 南横町
文久二年 漁業 五戸 五戸岩次郎 湊
文久二年 鮮魚 戸田魚店 六日町 戸田栄一
明治十年 小売 魚周 沼館周太郎 六日
明治十年 漁業 秋山 秋山熊五郎 浜須賀
明治十二、漁業、神田商店、神田俊雄 湊柳町
明治二二 漁業 岩五商店 岩岡義剛 鮫
明治二八 蒲鉾 槻末商店 槻舘新太郎 六日
明治四五 卸小売大山商店 大山富蔵 六日
明治三年 製造 中平魚店 中島平助 六日
明治四十 漁業 高橋商店 高橋善蔵 下條
明治三六 卸 夏市商店 夏堀市太郎 湊
明治二五 漁業 長谷川藤次郎商店 白銀
四十 卸 田名旗商店 田名部旗次郎二十三日
四五 卸 田中清三郎商店 白銀
三二 卸 沼田魚店 沼田嘉蔵 六日町
大正元 卸 関橋商店 関橋耕作 小中野
大正二 小売 福田魚店 福田真太郎 六日
大正三 小売 中梅 中島梅吉 六日町
大正三 卸 夏堀商店 夏堀源三郎 南横町
々 卸 宮市商店 宮崎市太郎 鮫
大正五 製造 吉田契造商店 湊大沢
大正五 卸 柳谷鮮魚店 柳谷歌吉 小中野
大正五 卸 久保田魚店 久保田留之助 六日
大正十 卸 武尾商店 武尾憲三郎 下條
大正十二 卸 田中商店 田中仁太郎 湊
々 卸 倉本商店 倉本象二 湊
大正十三 小売 石良商店 石橋良一 六日
大正十二 製造 大石蒲鉾 大石連治 北横町
大正十五 卸 中石商店 中島石蔵 小中野
昭和元年 漁業 吉田商店 吉田利八郎 下條
昭和二年 卸 岩村商店 岩村四方吉 湊
々 漁業 平岡春松 鮫
昭和四 卸 熊野商店 熊野福三郎 湊
々 卸 榎本海産店 榎本元吉 湊
昭和六 卸 町田商店 町田米次郎 南横町
々 卸 角田商店 栗原平蔵 新堀
昭和八 漁業 角栄海産物 角栄次郎 北横町
昭和九 卸 沢口商店 沢口由郎 湊
昭和十一 小売 佐々木魚店 佐々木惣吉 鮫
さらに水産加工品業者には
肥料 関五 関川五郎 北横町 明治二二
魚肥 金入 金入文吉 番町 明治四二
々 南部物産 高橋正志 新堀
佃煮 滝川水産加工場 滝川忠兵衛 小中野
魚肥 鳥谷部商店 鳥谷部堅吉 湊
乾物 柏商店 柏美与志 白銀
海産物 荒井商店 荒井八十八 鮫
海産加工 佐川商店 佐川幸蔵 鮫
乾魚 長谷商店 長谷春松 六日町
魚肥 石要商店 石橋要吉 十八日町
々 三新商店 富岡新太郎 十三日町
々 秋山秀之助 浜須賀
ここに武輪氏が割って入ったことになる。
戦後間もなくは政府の方針で、木造船を継ぎ足して大きくし、魚を沢山獲る工夫をなした。多くの大型漁船は徴用され、輸送船として外地で撃沈された。船も人手も不足していた。
外地からの引揚者三百万人、これらの食べる苦労から開始となった。武輪氏はまさに、この時代に旗揚げすることになった。最初は労力しかなく、骨身惜しまず働く、人が捨てるような魚屑から肥料をつくり、その爪に火を点すような苦労を重ね資本を得て、魚を買い加工に身を乗り出した。国民が食えればいい時代は直ぐに終息。
美味しいものを求めるようになる。ここに加工の技術が生かされた。
漁労をせず、加工だけにたよると、市場での買いつけが勝負になる。多くの従業員を擁する企業に伸し上がると、買い付け額も上る。
従業員の給料を確保するためには高値で購入するようになる。
ここに企業家としての悩みも出る。昭和四十四年武輪水産が大きな赤字を出した。その背景の八戸水産界はどのような悩みを抱えていたのだろうか。
それを探るべく往時のにデーリー東北新聞を見た。すると「水産八戸のカルテ」というシリーズが掲載されていた。そのなかに東北水研八戸支所が出ている。
イカ・サバ調査に力。
基礎的研究体制が必要
昭和二十五年全国八箇所に水産研究所が設けられ八戸は塩釜の支所。魚の年齢構成、成長、分布、深度別魚種別調査などで、漁船数と資源量を明確化した。北海道へ入会操業していた中型トロールを減船した。減少した若齢サバ、自然条件が響くイカなどの記載があるが、結果的にはイカ・サバの増減は判明せず。今後の研究が必要とある。
漁獲量によって漁業家は左右され、加工場も同様である。しかし、加工場に卓越した技術があれば、八戸の水揚げに頼ることなく魚は全国、全世界から集まる。
この昭和四十四年には想像もつかなかっただろうが、後年武輪水産はノルウェーからサバを全国に先駆けて実施。加工技術、新製品開発以外に企業が生き残る術はないのだ。
デーリー東北新聞の連載「カルテ」に水産加工流通の方向の記事がある。それには、ふえる冷凍、加工とあり、水揚げは昭和三十年代が十万トン、四十年代には二十万トンから三十万トン、さらに四十万トンへと急速飛躍。水揚げ量の増大は魚場が近いこと、水揚げ価格が競合港より高いこと、価格が安定していることである。水揚げの対象魚種はイカ、サバ、サンマなど回遊性多獲魚から北洋トロールのスケトウタラで、水揚げ金額では高級魚が少ないため全国では順位が落ちるが、量的には日本一である。
これらの水揚げされた魚の処理であるが、鮮魚として処理三十九%、冷凍冷蔵三十%、加工その他三十一%で、将来は加工能力の増大から鮮魚は二十%、冷凍冷蔵、加工で八十%となることが予想されている。
期待のイカ、珍味、スケソウねり製品
それでは、八戸港で生産される加工品の種類はどれだけあるだろうか。製造方法が低次から高次へと多様で生産品目も豊富だが、販売高の構成比では鮮魚がトップ。今後の期待製品は、現在成長中のイカ珍味と、完全利用が出来ていないスケソウタラ利用のねり製品の二つである。この二つの製造、生産については地元八戸の業者も意欲的で、地元の水産加工研究所を主体として研究を続け、すでにスケ子、イカの珍味においては集中生産方式によって大きな成果をあげている。
集中生産方式で原料高く買い、製品安く売る
集中生産方式とは、相当規模の実験工場で製品を試作し広く公開する。収益性が高いと予想された場合、生産工場数が急増、需要に充分こたえられる方式で、ねり製品の原料となる北転船の水揚げ魚種のスケソウは北海道よりは鮮度の面で落ちるとしても、価格面では北海道と同等に対抗できるわけで、今後の生産技術開発によっては先進地よりもよい製品を生産、優位にたてることも可能といわれる。
商品が商品を呼び産地銘柄を確立
八戸水産加工の今後の期待はねり製品、イカ珍味、冷凍食品であるが、これを食品ルートに乗せようとすると水産大手との激しい販売競争が待っている。しかし、販売ルートに乗せなくては、効果が期待できない訳で、八戸港としては卸売り市場を固めながら、一般食品問屋ルートの開発も急がなければ販売高の伸長は望めない。
この時、大いに生かしたいのは、流通面にも集中生産方式の精神の貫徹である。優秀製品を看板商品として既存ルートに取り扱いの意欲をもたせ、実績が上昇に転じたとき、すかさず集中方式によって規格化された均一商品を集中的に流通路線に乗せる。これが商品が商品を呼ぶことになり、八戸の産地銘柄が確立される。
端的に言えば原料を高く買い、加工製品をより安く売るメカニズムを無理なく定着させ、発展させて行くことが八戸水産加工流通の基本的課題である。
2008年1月1日火曜日
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 4
このようにして北転船が二百海里問題でカムチャッカを閉め出される迄、昭和四十三年度から逐次すり身生産が増大。
昭和四十九年三万五千㌧
昭和五十二年三万四千㌧
五十三年一万㌧
五十四年六千五百㌧
五十五年四千㌧
五十六年四千㌧
五十七年二千㌧
期間は十二月から翌年四月頃迄を最盛期に、水産加工業界は助宗鱈を原料としてガラ切、すり身生産、タラ子生産に追われました。昭和五十七年以降練製品業者が自家用に北海道から助宗ガラを購入、すり身を作る状態になりました。
十、排水処理 (公害問題)
助宗すりみ生産に付随して、問題となったのは昭和四十二年八月から施行された、公害対策基本法による水質汚濁防止問題でありました。
たまたま新井田川で鮭が死んで浮上する事件があり、川ぞいにある水産加工場が流出する排水が原因だと指摘されました。水産加工場はそんなに多数あった訳ではなく、家庭排水も大きな要因でしたが、県条例で上乗せのきびしい基準が設定されました。すり身を生産をする為には大量の水を使いますので、この排水を処理するには億単位の設備投資をしなければなりません。
違反すると罰金刑が科せられますので大量の水を処理する為、加圧浮上法で処理する他ありません。業界でも色々検討の結果、八戸が全国にさきがけてやろうと言う事になり、日東化学の子会社のネスコに依頼し第一号機の設置に踏切りました。電力費、添加剤等ランニングコストもかかりますが、前向きに対処したわけです。業界でも続々と設備しましたが、浜市川に水産加工団地が造成され、夢の大橋も実現し交通が便利になった事もあり、ミール工場をはじめすり身生産、その他の水産加工場も移転しました。
そして共同汚水処理施設の事業主体は八戸市、施設の管理運営には八戸水産加工団地協同組合(組合長町田勝男氏)が当りました。資金調達は公害防止事業団で、その後脱臭装置なども設置されました。共同汚水処理施設の一日の処理能力は百㌧でした。すり身の生産は終りましたが鯖の処理、いかの処理等で汚濁された排水の処理をする必要があり、排水量も一日二百㌧余りになりましたので、よりきれいな水にする為、今は活性汚泥法で処理しています。余剰汚泥の脱水装置もつけましたので、更に一億五千万円程度設備にかかり、ランニングコストも電力費、添加剤と莫大にかかりますが、環境保全のためには必要経費と思っています。
十一、日本の多獲性魚の供給について
日本をとりまく海で漁獲され多獲される魚 はイカ、鯖、秋刀魚、鰯をあげられると思います。国民のとる蛋白質の四十%は魚で補給していると聞いていますが日本は自給自足出来ているでしょうか。イカは日本の近海だけでは供給不足で大型船をつくりニュージーランド、アルゼンチン迄出かけ漁獲しています。その他太平洋の真中迄出かけ赤いかをとり、更にペルー、コスタリカ、メキシコ等に行きアメリカオオアカイカを漁獲しています。総体的に供給が増えると価格が暴落しますし、供給不足だと暴騰します。消費者に供給する役目を負っている流通加工業者も高いいかを保管していて高いが故に販売しそこなうと、次の年獲れ過ぎて暴落すれば、その差額分目減りして赤字になります。
又漁業者も沢山獲っても半値以下に下ると採算が取れないでしょう。結局一番困るのは安定した供給を受けられぬ消費者だと思います。秋刀魚は調整組合があり、獲り過ぎると休漁する為、資源が安定し供給されています。
さて鰯と鯖ですが、今年は激減し、小さい一年魚が主体ですがこれを獲りつくすと、来年から資源はなくなるでしょう。平成八年度海洋法が批准されました。平たく言うと日本の二百海里内にいる魚は、日本だけのものではなく世界のものですよ、だから資源を大切にして安定供給出来る様にし、あまれば外国にもわけて下さいと言う様に私は理解しています。
(排他的経済水域とは、沿岸国の権利と自由通航の確保という矛盾する要請を同時に満足させるための方策として考え出されたものである。200海里もの広範な領海を設定していた国の主張を経済的主権に限定して認める代わり、自由航行のできる水域を確保したのである。排他的経済水域において全ての国は、航行、上空飛行、海底電線・海底パイプラインの敷設が出来る)
平成九年一月一日からタックが施行され漁獲規制されたと聞いていますが、過去三年間の平均の数量に規制されただけとうかがっています。現状は四、三、二年魚は殆んど獲りつくされ、卵を生めない一年魚がとれています。従って零才魚も生れておらずほんの僅かしかとれていない様です。之で果して安定的に国民に供給出来るのでしょうか。然も一年魚ではせいぜい一部缶詰に使われるだけで、あとはハマチの飼料にするか、ミールにして飼料にするだけです。国民に食料として安定供給出来るでしょうか、漁業者の方々は、価値の少ない故に安くしか売れない魚をとれば、来年以降自分達が困るという事は一番御存知の筈です。
然し獲らなければ経営が行きづまると言う切実ななやみで、泣く泣く獲っておられると思います。どうか国民の為、食料になる魚を安定供給出来る様、対策を講じて頂き度いと思います。私達流通加工業者は鯖を消費者に供給する為、ノルウェーから輸入して居ります。ノルウェーでは昔から資源を大切にして資源の状況にあわせて漁獲規制をして来ました。その為に毎年同じ組成で大きい魚、中位の魚、小さい魚が獲れて来ました。唯一度だけあやまちを起こしました。それはEUに加盟するかもしれぬと言う事で実績をつくる為、二十%位多く獲りました。国民投票でEUに加盟せぬ事に決まり、漁獲量を元の通りに減らしましたが、時すでにおそく資源にひびき、次の年から三十五%カットする事にしました。
(「鯖は世界中に「真鯖」「ゴマ鯖」「ノルウェー鯖」の三種類。ノルウェー鯖は北欧が主な産地で遠い為、鮮度が今ひとつと言われるので、生のものは出回らず冷凍が主、スーパーなどで見られるのは、「ノルウェー鯖」で背中の柄が青黒色に近く、クッキリしている。脂が豊富、惣菜向きだが大味。」)
今年も前年通り漁獲枠を減らしましたが、大きい魚が減りました。冷凍能力は漁獲量の二倍になっていますから浜値は昨年は前年の二倍になり、今年も更に高くなっています。之を輸入し消費者に供給しなければなりませんから、消費者は高い鯖を買わなければならない訳です。高すぎて販売出来ないと加工業者は、出血して売らなければなりません。之も日本国内の鯖がとれなくなった為です。以上、申述べました様に今年はタックに入れられていないイカも含めて、四大多獲性魚だけでも効果の期待できる漁獲規制をして、国民 (消費者)に安定供給出来る政策を抜本的に実施して下さる様、関係の皆様に御願い致します。
十二 武輪水産㈱経営(なりわい)の山と谷
八戸水産業界の変遷につき一通りふれて参りましたが、武輪水産㈱自体の経営につきふり返って見度いと思います。企業経営は長期計画を立て常に外的要因を考慮に入れながら、憤重な運営をしなければなりませんが、それでも常に安定した経営は至難の業だと思います。まして経験不足のまま、万全の角度から検討せずに、実行に移した場合には大きな落し穴があります。
今振り返って見れば創業当初の一を二に、二を四にと確実な運営を自己中心に続けて来た時は、比較的安定していましたが、一度経営が軌道に乗り業界と共に繁栄しよう、其為には常に自己本位ではなく、奉仕の理想を中心に行動しようと考えて実行する様になってからは、外界の影響が大きく響く様になったと思います。奉仕の考え方は今でも正しかったと考え、今後も一貫して行き度いと思いますが、外部と関係のある場合はあらゆる角度から慎重に検討する必要があると次第に考える様になりました。之も経験の積重ねがあったからと思います。
(第一の谷間)
昭和二十三年創業、たった一人で旗揚げ。
昭和三十一年四月資本金五百万円の武輪商店株式会社に組織変更、従業員四十名。
昭和三十六年資本金二千万円
昭和三十八年武輪水産に社名変更
昭和四十一年、四千九百万円に増資
原料貯蔵の冷凍冷蔵工場を建造、増設し、逐次加工場も増築し乾燥装置、いか塩辛・加工のオートベルトコンベヤー装置等設置。
昭和三十八年、珍味工場を増築し珍味加工品の生産に乗り出す。
昭和三十九年九月販売網拡張の為東京営業所を設置し、その後珍味製品の生産販売高は上昇の一途をたどり、更に珍味工場を増築。従業員五五〇名(男九五名女四五五名)。
昭和四十一年度営業報告書に珍味の売上が前年の倍増(数量約六百t金額三億七千万円)で総売上の三分の一を占め、償却後の純利益八千五百万円に達し、会社設立以最高額を計上。(創業十九年で東北一の売上高を誇る加工場にのし上がった。人間の力の偉大さを知る)
来期は珍味の五割増産を計画し、更に原料確保の為、冷凍工場(凍結三六㌧、冷蔵一、四〇〇㌧)を新設する事に決定し、二月初旬工事着工に踏切り六月末日完成の予定でした。まさに最高の山場であった訳であります。処が幸時魔多しと申しますが、昭和四十二年六月第二冷蔵工場完成直後、本社事務所内で終業後厳禁してあった会社内での飲酒をした従業員達があり、電気温沸器で薬缶に酒を入れ温めたまま退社した為、薬缶が燃え上り事務所より出火し、たちまち工場にもえ移り主力工場二棟及び隣接していた冷蔵工場二棟全焼の大惨事をひき起しました。幸い隣家にも多大の迷惑もかけず、さきいか工場も残り、又新設の冷蔵工場も利用出来ましたので、従業員全員に翌日より操業再開の旨告げました。之が第一の谷間となりました。
水産加工場焼く(デーリー東北新聞昭和四十二年七月十二日号)
消防士一人が殉職
濃霧と狭い道
消火に四時間も
昭和四十二年七月十一日早暁、八戸市鮫町下手代森、武輪水産会社=武輪武一社長(五二)=の鮮魚処理工場南西すみにある従業員詰め所から火が出て、発見が遅れたため火は天井づたいに燃え広がり、同鮮魚処理工場とむね続きの乾燥室、隣接の民家をなめつくしたうえ、鮮魚処理工場とわずかな通路をへだてた冷凍工場にも燃え移り、合計三むね、二千七百平方米を全焼した。冷凍工場には窓らしい窓がないため火は中でくすぶり続け、かけつけた十五台の消防自動車は手のほどこしようがなく消火に手間取り、鎮火したのは出火から四時間以上もたった午前七時だった。八戸署の調べによると原因は前夜、従業員詰め所の電気コンロのスイッチを切り忘れて帰宅したためとわかった。工場設備と鮮魚、製品などを合わせると損害は二億円にものぼる。この火事で冷凍工場と乾燥工場の間の通路で消火に当たっていた消防士一人が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルの下敷きになって死亡したほか、消防署員二人が十日から二週間のけがをした。
損害二億、電気コンロの不始末で
火が出たのは午前三時少し前ごろらしい。発見したのは出火場所とブロックのへい一つへだてて隣合わせている会社員高橋五郎さん(三一)で「バリ、バリッ」とガラスが割れるような音で目をさましたという。高橋さんはてっきり泥棒だと思い起きてみたところ、武輪水産の従業員詰め所が火につつまれていた。そのあとあわてて一一九番に通報したが、みるみるうちに火は工場全体に燃え広がった。また高橋さんが発見したころ、武輪水産でもお手伝いの長根洋子さん(二○)が火事に気がつき当直員を起し、消防署に連絡する一方、消防自動車が入れるように門を開けた。しかも通報を受けてかけつけた消防自動車は現場付近の狭い道路と濃い霧に前方をさえぎられ、現場に到着したときは鮮魚工場と乾燥室のあるむね全体が火につつまれていたほか、高橋さん方と通路をへだてた冷凍工場まで火が燃え移っており手のほどこしようがなかった。冷凍工場は木造モルタル造りで火は中で燃え広がり、ここの消火だけで三時間を費やすほどだった。
同冷凍工場には最近仕入れたばかりだったサケ・マス百三十五㌧五千万円をはじめ、カズノコ十三t、イカ二百tなど合わせて一億円の冷凍品がはいっていたが、この火事でほとんど売り物にならなくなり、乾燥機三台が据付けられていた工場建物と合わせて損害は二億円にのぼる。八戸署の調べによると原因は前日午後五時ごろ作業終了後、従業員二十一人で酒を飲み始めたが、その際、酒を飲まない人がいたため電気コンロでお茶を沸かし、同九時ごろ帰宅どきスイッチを切らなかったことから過熱したもの。
この火事で乾燥工場と冷凍工場の通路で消火作業をしていた八戸市是川新田、消防士上杉武男さん(四○)が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルカベの下敷きとなり、青森労災病院に運ばれたが頭の骨を折って午前五時ごろ死亡したほか、消防士長浜田松雄さん(三九)が右足に二週間、消防士榊輝美さん(二二)が背中に十日間のけがをした。同市の消防署員の殉職は昭和三十二年の八戸警察署の火事のさいの池田豊消防司令長に次いで戦後二人目。
なおこの火事で工場が使用するアンモニアガスボンベの爆発が心配されたが、同社はこれを地下貯蔵の設備を完成していたため大事を未然に防いだ。付近には鮫小学校や民家が密集しており、一時は延焼も心配されたが、風が全く無かったのと水の便がよかったのでくい止めることができた。
売上げ東北一の水産加工会社
火事にあった武輪水産は昭和二十三年の創業で、珍味品、冷凍品などを生産するほか、鮮魚の出荷も扱い年間の売り上げ額は十億円を越え、水産加工品では東北一を誇っている。従業員は五百七十人。
焼け跡を見つめる武輪社長はすでに再建の意欲を見せ「従業員のうち半数が臨時やパートタイマーだが解雇するようなことはせず、あすからでも残った工場で操業を始める。いまへこたれてはこれまで援助してくれた人たちに申し訳ない。幸いこのほど新しい冷凍工場が完成したばかりなのでこれまで以上にがんばるつもりだ」と語っていた。
戦後二人目の犠牲
小杉消防士を二階級特進
殉職した八戸消防署消防士、小杉武男(四○)は八戸市吹上の生まれ。昭和二十三年海上消防団とん所を振り出しに鮫出張所、湊出張所を経てことし四月本署に転任したばかりだった。同僚の間では最優秀職員の表彰も受け、まじめな性格と、仕事熱心で評判がよかったという。家庭は妻ミヤさんと女だけ三人の小学生と長男の雅永ちゃん(五歳)が残され、近所の人や同僚が同情を寄せている。小杉さんは野山を歩くことが好きで休みにはよく山菜とりに出かけていたという。
殉職についてある同僚は「消防士は自分の身のことは十分気をつけて消火作業をするが、私でもあの場合、小杉さんと同じ位置で作業をしただろう」といっていた。八戸消防署では小杉さんに二階級特進の司令補とした。葬儀も消防葬として十五日午後一時から願栄寺で行なう予定である。なお消防署員の殉職は戦後二人目。
わざわいを転じて福となすたとえもありますが、焼け跡を同業者多数の応援で整理し、当時としては始めての鉄骨コンクリート三階建の建物をつくり、冷蔵工場は本社工場完成後一年後に之又三階建に改築し、跡地の一部は熱風乾燥機三基、冷風乾燥機一基収容の乾燥工場に改築、サキイカ増産に備えました。焼失した建物及び冷蔵工場内の原料及び製品に火災保険をかけて居りましたので実質的な損害はあまりなく、操業も利益のあるサキイカ中心に行いましたので、昭和四十二年度も約七千万円の利益を計上出来ました。
昭和四十九年三万五千㌧
昭和五十二年三万四千㌧
五十三年一万㌧
五十四年六千五百㌧
五十五年四千㌧
五十六年四千㌧
五十七年二千㌧
期間は十二月から翌年四月頃迄を最盛期に、水産加工業界は助宗鱈を原料としてガラ切、すり身生産、タラ子生産に追われました。昭和五十七年以降練製品業者が自家用に北海道から助宗ガラを購入、すり身を作る状態になりました。
十、排水処理 (公害問題)
助宗すりみ生産に付随して、問題となったのは昭和四十二年八月から施行された、公害対策基本法による水質汚濁防止問題でありました。
たまたま新井田川で鮭が死んで浮上する事件があり、川ぞいにある水産加工場が流出する排水が原因だと指摘されました。水産加工場はそんなに多数あった訳ではなく、家庭排水も大きな要因でしたが、県条例で上乗せのきびしい基準が設定されました。すり身を生産をする為には大量の水を使いますので、この排水を処理するには億単位の設備投資をしなければなりません。
違反すると罰金刑が科せられますので大量の水を処理する為、加圧浮上法で処理する他ありません。業界でも色々検討の結果、八戸が全国にさきがけてやろうと言う事になり、日東化学の子会社のネスコに依頼し第一号機の設置に踏切りました。電力費、添加剤等ランニングコストもかかりますが、前向きに対処したわけです。業界でも続々と設備しましたが、浜市川に水産加工団地が造成され、夢の大橋も実現し交通が便利になった事もあり、ミール工場をはじめすり身生産、その他の水産加工場も移転しました。
そして共同汚水処理施設の事業主体は八戸市、施設の管理運営には八戸水産加工団地協同組合(組合長町田勝男氏)が当りました。資金調達は公害防止事業団で、その後脱臭装置なども設置されました。共同汚水処理施設の一日の処理能力は百㌧でした。すり身の生産は終りましたが鯖の処理、いかの処理等で汚濁された排水の処理をする必要があり、排水量も一日二百㌧余りになりましたので、よりきれいな水にする為、今は活性汚泥法で処理しています。余剰汚泥の脱水装置もつけましたので、更に一億五千万円程度設備にかかり、ランニングコストも電力費、添加剤と莫大にかかりますが、環境保全のためには必要経費と思っています。
十一、日本の多獲性魚の供給について
日本をとりまく海で漁獲され多獲される魚 はイカ、鯖、秋刀魚、鰯をあげられると思います。国民のとる蛋白質の四十%は魚で補給していると聞いていますが日本は自給自足出来ているでしょうか。イカは日本の近海だけでは供給不足で大型船をつくりニュージーランド、アルゼンチン迄出かけ漁獲しています。その他太平洋の真中迄出かけ赤いかをとり、更にペルー、コスタリカ、メキシコ等に行きアメリカオオアカイカを漁獲しています。総体的に供給が増えると価格が暴落しますし、供給不足だと暴騰します。消費者に供給する役目を負っている流通加工業者も高いいかを保管していて高いが故に販売しそこなうと、次の年獲れ過ぎて暴落すれば、その差額分目減りして赤字になります。
又漁業者も沢山獲っても半値以下に下ると採算が取れないでしょう。結局一番困るのは安定した供給を受けられぬ消費者だと思います。秋刀魚は調整組合があり、獲り過ぎると休漁する為、資源が安定し供給されています。
さて鰯と鯖ですが、今年は激減し、小さい一年魚が主体ですがこれを獲りつくすと、来年から資源はなくなるでしょう。平成八年度海洋法が批准されました。平たく言うと日本の二百海里内にいる魚は、日本だけのものではなく世界のものですよ、だから資源を大切にして安定供給出来る様にし、あまれば外国にもわけて下さいと言う様に私は理解しています。
(排他的経済水域とは、沿岸国の権利と自由通航の確保という矛盾する要請を同時に満足させるための方策として考え出されたものである。200海里もの広範な領海を設定していた国の主張を経済的主権に限定して認める代わり、自由航行のできる水域を確保したのである。排他的経済水域において全ての国は、航行、上空飛行、海底電線・海底パイプラインの敷設が出来る)
平成九年一月一日からタックが施行され漁獲規制されたと聞いていますが、過去三年間の平均の数量に規制されただけとうかがっています。現状は四、三、二年魚は殆んど獲りつくされ、卵を生めない一年魚がとれています。従って零才魚も生れておらずほんの僅かしかとれていない様です。之で果して安定的に国民に供給出来るのでしょうか。然も一年魚ではせいぜい一部缶詰に使われるだけで、あとはハマチの飼料にするか、ミールにして飼料にするだけです。国民に食料として安定供給出来るでしょうか、漁業者の方々は、価値の少ない故に安くしか売れない魚をとれば、来年以降自分達が困るという事は一番御存知の筈です。
然し獲らなければ経営が行きづまると言う切実ななやみで、泣く泣く獲っておられると思います。どうか国民の為、食料になる魚を安定供給出来る様、対策を講じて頂き度いと思います。私達流通加工業者は鯖を消費者に供給する為、ノルウェーから輸入して居ります。ノルウェーでは昔から資源を大切にして資源の状況にあわせて漁獲規制をして来ました。その為に毎年同じ組成で大きい魚、中位の魚、小さい魚が獲れて来ました。唯一度だけあやまちを起こしました。それはEUに加盟するかもしれぬと言う事で実績をつくる為、二十%位多く獲りました。国民投票でEUに加盟せぬ事に決まり、漁獲量を元の通りに減らしましたが、時すでにおそく資源にひびき、次の年から三十五%カットする事にしました。
(「鯖は世界中に「真鯖」「ゴマ鯖」「ノルウェー鯖」の三種類。ノルウェー鯖は北欧が主な産地で遠い為、鮮度が今ひとつと言われるので、生のものは出回らず冷凍が主、スーパーなどで見られるのは、「ノルウェー鯖」で背中の柄が青黒色に近く、クッキリしている。脂が豊富、惣菜向きだが大味。」)
今年も前年通り漁獲枠を減らしましたが、大きい魚が減りました。冷凍能力は漁獲量の二倍になっていますから浜値は昨年は前年の二倍になり、今年も更に高くなっています。之を輸入し消費者に供給しなければなりませんから、消費者は高い鯖を買わなければならない訳です。高すぎて販売出来ないと加工業者は、出血して売らなければなりません。之も日本国内の鯖がとれなくなった為です。以上、申述べました様に今年はタックに入れられていないイカも含めて、四大多獲性魚だけでも効果の期待できる漁獲規制をして、国民 (消費者)に安定供給出来る政策を抜本的に実施して下さる様、関係の皆様に御願い致します。
十二 武輪水産㈱経営(なりわい)の山と谷
八戸水産業界の変遷につき一通りふれて参りましたが、武輪水産㈱自体の経営につきふり返って見度いと思います。企業経営は長期計画を立て常に外的要因を考慮に入れながら、憤重な運営をしなければなりませんが、それでも常に安定した経営は至難の業だと思います。まして経験不足のまま、万全の角度から検討せずに、実行に移した場合には大きな落し穴があります。
今振り返って見れば創業当初の一を二に、二を四にと確実な運営を自己中心に続けて来た時は、比較的安定していましたが、一度経営が軌道に乗り業界と共に繁栄しよう、其為には常に自己本位ではなく、奉仕の理想を中心に行動しようと考えて実行する様になってからは、外界の影響が大きく響く様になったと思います。奉仕の考え方は今でも正しかったと考え、今後も一貫して行き度いと思いますが、外部と関係のある場合はあらゆる角度から慎重に検討する必要があると次第に考える様になりました。之も経験の積重ねがあったからと思います。
(第一の谷間)
昭和二十三年創業、たった一人で旗揚げ。
昭和三十一年四月資本金五百万円の武輪商店株式会社に組織変更、従業員四十名。
昭和三十六年資本金二千万円
昭和三十八年武輪水産に社名変更
昭和四十一年、四千九百万円に増資
原料貯蔵の冷凍冷蔵工場を建造、増設し、逐次加工場も増築し乾燥装置、いか塩辛・加工のオートベルトコンベヤー装置等設置。
昭和三十八年、珍味工場を増築し珍味加工品の生産に乗り出す。
昭和三十九年九月販売網拡張の為東京営業所を設置し、その後珍味製品の生産販売高は上昇の一途をたどり、更に珍味工場を増築。従業員五五〇名(男九五名女四五五名)。
昭和四十一年度営業報告書に珍味の売上が前年の倍増(数量約六百t金額三億七千万円)で総売上の三分の一を占め、償却後の純利益八千五百万円に達し、会社設立以最高額を計上。(創業十九年で東北一の売上高を誇る加工場にのし上がった。人間の力の偉大さを知る)
来期は珍味の五割増産を計画し、更に原料確保の為、冷凍工場(凍結三六㌧、冷蔵一、四〇〇㌧)を新設する事に決定し、二月初旬工事着工に踏切り六月末日完成の予定でした。まさに最高の山場であった訳であります。処が幸時魔多しと申しますが、昭和四十二年六月第二冷蔵工場完成直後、本社事務所内で終業後厳禁してあった会社内での飲酒をした従業員達があり、電気温沸器で薬缶に酒を入れ温めたまま退社した為、薬缶が燃え上り事務所より出火し、たちまち工場にもえ移り主力工場二棟及び隣接していた冷蔵工場二棟全焼の大惨事をひき起しました。幸い隣家にも多大の迷惑もかけず、さきいか工場も残り、又新設の冷蔵工場も利用出来ましたので、従業員全員に翌日より操業再開の旨告げました。之が第一の谷間となりました。
水産加工場焼く(デーリー東北新聞昭和四十二年七月十二日号)
消防士一人が殉職
濃霧と狭い道
消火に四時間も
昭和四十二年七月十一日早暁、八戸市鮫町下手代森、武輪水産会社=武輪武一社長(五二)=の鮮魚処理工場南西すみにある従業員詰め所から火が出て、発見が遅れたため火は天井づたいに燃え広がり、同鮮魚処理工場とむね続きの乾燥室、隣接の民家をなめつくしたうえ、鮮魚処理工場とわずかな通路をへだてた冷凍工場にも燃え移り、合計三むね、二千七百平方米を全焼した。冷凍工場には窓らしい窓がないため火は中でくすぶり続け、かけつけた十五台の消防自動車は手のほどこしようがなく消火に手間取り、鎮火したのは出火から四時間以上もたった午前七時だった。八戸署の調べによると原因は前夜、従業員詰め所の電気コンロのスイッチを切り忘れて帰宅したためとわかった。工場設備と鮮魚、製品などを合わせると損害は二億円にものぼる。この火事で冷凍工場と乾燥工場の間の通路で消火に当たっていた消防士一人が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルの下敷きになって死亡したほか、消防署員二人が十日から二週間のけがをした。
損害二億、電気コンロの不始末で
火が出たのは午前三時少し前ごろらしい。発見したのは出火場所とブロックのへい一つへだてて隣合わせている会社員高橋五郎さん(三一)で「バリ、バリッ」とガラスが割れるような音で目をさましたという。高橋さんはてっきり泥棒だと思い起きてみたところ、武輪水産の従業員詰め所が火につつまれていた。そのあとあわてて一一九番に通報したが、みるみるうちに火は工場全体に燃え広がった。また高橋さんが発見したころ、武輪水産でもお手伝いの長根洋子さん(二○)が火事に気がつき当直員を起し、消防署に連絡する一方、消防自動車が入れるように門を開けた。しかも通報を受けてかけつけた消防自動車は現場付近の狭い道路と濃い霧に前方をさえぎられ、現場に到着したときは鮮魚工場と乾燥室のあるむね全体が火につつまれていたほか、高橋さん方と通路をへだてた冷凍工場まで火が燃え移っており手のほどこしようがなかった。冷凍工場は木造モルタル造りで火は中で燃え広がり、ここの消火だけで三時間を費やすほどだった。
同冷凍工場には最近仕入れたばかりだったサケ・マス百三十五㌧五千万円をはじめ、カズノコ十三t、イカ二百tなど合わせて一億円の冷凍品がはいっていたが、この火事でほとんど売り物にならなくなり、乾燥機三台が据付けられていた工場建物と合わせて損害は二億円にのぼる。八戸署の調べによると原因は前日午後五時ごろ作業終了後、従業員二十一人で酒を飲み始めたが、その際、酒を飲まない人がいたため電気コンロでお茶を沸かし、同九時ごろ帰宅どきスイッチを切らなかったことから過熱したもの。
この火事で乾燥工場と冷凍工場の通路で消火作業をしていた八戸市是川新田、消防士上杉武男さん(四○)が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルカベの下敷きとなり、青森労災病院に運ばれたが頭の骨を折って午前五時ごろ死亡したほか、消防士長浜田松雄さん(三九)が右足に二週間、消防士榊輝美さん(二二)が背中に十日間のけがをした。同市の消防署員の殉職は昭和三十二年の八戸警察署の火事のさいの池田豊消防司令長に次いで戦後二人目。
なおこの火事で工場が使用するアンモニアガスボンベの爆発が心配されたが、同社はこれを地下貯蔵の設備を完成していたため大事を未然に防いだ。付近には鮫小学校や民家が密集しており、一時は延焼も心配されたが、風が全く無かったのと水の便がよかったのでくい止めることができた。
売上げ東北一の水産加工会社
火事にあった武輪水産は昭和二十三年の創業で、珍味品、冷凍品などを生産するほか、鮮魚の出荷も扱い年間の売り上げ額は十億円を越え、水産加工品では東北一を誇っている。従業員は五百七十人。
焼け跡を見つめる武輪社長はすでに再建の意欲を見せ「従業員のうち半数が臨時やパートタイマーだが解雇するようなことはせず、あすからでも残った工場で操業を始める。いまへこたれてはこれまで援助してくれた人たちに申し訳ない。幸いこのほど新しい冷凍工場が完成したばかりなのでこれまで以上にがんばるつもりだ」と語っていた。
戦後二人目の犠牲
小杉消防士を二階級特進
殉職した八戸消防署消防士、小杉武男(四○)は八戸市吹上の生まれ。昭和二十三年海上消防団とん所を振り出しに鮫出張所、湊出張所を経てことし四月本署に転任したばかりだった。同僚の間では最優秀職員の表彰も受け、まじめな性格と、仕事熱心で評判がよかったという。家庭は妻ミヤさんと女だけ三人の小学生と長男の雅永ちゃん(五歳)が残され、近所の人や同僚が同情を寄せている。小杉さんは野山を歩くことが好きで休みにはよく山菜とりに出かけていたという。
殉職についてある同僚は「消防士は自分の身のことは十分気をつけて消火作業をするが、私でもあの場合、小杉さんと同じ位置で作業をしただろう」といっていた。八戸消防署では小杉さんに二階級特進の司令補とした。葬儀も消防葬として十五日午後一時から願栄寺で行なう予定である。なお消防署員の殉職は戦後二人目。
わざわいを転じて福となすたとえもありますが、焼け跡を同業者多数の応援で整理し、当時としては始めての鉄骨コンクリート三階建の建物をつくり、冷蔵工場は本社工場完成後一年後に之又三階建に改築し、跡地の一部は熱風乾燥機三基、冷風乾燥機一基収容の乾燥工場に改築、サキイカ増産に備えました。焼失した建物及び冷蔵工場内の原料及び製品に火災保険をかけて居りましたので実質的な損害はあまりなく、操業も利益のあるサキイカ中心に行いましたので、昭和四十二年度も約七千万円の利益を計上出来ました。
2007年12月1日土曜日
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 3
七、八戸水産流通加工団体の活躍
昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合をつくったのを手始めに、水産流通加工に関係する諸団体に加わり、八戸水産業界と共に汗を流しました。地元の八戸水産加工振興協議会も、昭和四十四年五月水協法に基づく、八戸水産加工業協同組合連合会に改組しました。傘下団体は、八戸魚市場水産加工業協同組合など四団体でした。
当時は未だ水産流通加工業会の力が弱く、系統の金融機関に融資を申し込んでも中々応じて貰えませんでした。商工中金に御願いすれば、水産加工は農林中金に頼みなさい、農林中金に御願いすれば、加工業だから商工中金に行きなさいと言われる始末でした。そこで八戸水産加工連は水協法にし農林中金から、八戸魚市場仲買連は中企法 に基づく組合にして商工中金から融資して頂く途を作りました。現在では両方共積極的に融資に応じて頂く様になり有難いと思っています。
八戸水産加工連の結成と前後して昭和四十四年三月、流通、加工の近代化、合理化を総合的に実現しようとする水産物産地流通加工センター形成事業に、地域業界挙げての熱意によって八戸港が指定されました。第一次の指定を受けたのは八戸、稚内、境港、下関、長崎の五地区でありました。八戸市の場合は流通加工センター形成事業は、修築工事が進んでいる館鼻漁港とその周辺地区で実施されることになりました。
最終的に四十六年から四十八年の三ヵ年実施、事業費の内訳は流通部門五億八千二百万円、加工部門十億二千二百万円、このうち国の補助対象事業は十二億円でありました。八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設は約十億円で国が三分の一、県が三分の一補助し、残り三分の一を事業主体が負担すると言う願ってもない事でありましたが、そこで国、県、農林中金から八戸水産加工連の出資金が唯の百万円では困ると言う事になりました。
当時八戸魚市場から仲買人完納奨励金として、買付額の千分の五が交付されて居り、水揚げ高も二百億円に達していました。よって奨励金の五分の一を出資して貰えば一年間で二千万円の出資になり、五年間で一億円になる。仲買連の各組合が、加工連の準組合員になって貰い出資して貰えば、五年間で一億円の出資金となる、よって仲買連の会長が加工連の会長になって貰い、総会で決議して貰えば自ら途が開けると考え、仲買連の会長であった佐々木惣吉さんに御願いしました。その結果、業界の為になるなら結構だ、但し青森県水産加工連、全水加工連の仕事は引続きやってくれ、という事で承知して頂きました。
昭和四十六年七月会長職を辞任、八戸水産加工連の副会長として引続き参画する事になり、国、県、農林中金にも納得して頂き、事業を順調に進める事になりました。建設用地は県より譲渡して頂き、昭和四十六年九月二十二日八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設などの着工式が全事業のトップを切って行われました。
八、水産流通加工の急成長
八戸の終戦直後の水産加工にはふれて来ましたが、もう一度見直して見度いと思います。
戦前はイワシ粕、イワシ油、カマボコ類、スルメ、煮干、干しアワビ、フカのヒレ、等が主体で、昭和二十五年頃からイカの大漁貧乏対策としてスルメ、イカの塩辛等のイカ製品がまず水産加工の中心でした。こうしたイカの大量水揚げに対処するために、冷蔵庫建設も次第に盛んになり、三十年における冷蔵能力は八千四百㌧と昭和二十五年の四千二百㌧に比して二倍に増強されました。昭和二十八年には鯖の好漁があって塩鯖加工が普及し始め、三十年には缶詰工場の県外からの進出も見られる等、水産加工場は家内工業も合わせると四百を超える盛況ぶりでした。
昭和三十一年八月、青森県水産加工研究所が設置され、初代所長の荒木さんは自ら包丁を持って、魚をさばく等熱心に指導されました。更にいかの肝臓等公害の原因となる内臓を処理し、SP飼料に利用する工場、八戸水産飼料が操業を開始しました。又サンマの豊漁からこれのみりん干が開発される等活発な動きが展開されたのであります。 昭和三十六、七年にはサンマ棒受け網が豊漁でサンマの加工が進むと共にイカの加工品も増産が続き、生産額は二十八億円となり、冷蔵能力は三万㌧を超えていました。
昭和三十九年にはイカの珍味生産がさらに盛んとなり、加工機械に対する需要が高まり、昭和三十九年には青森県水産加工用施設整備促進条例および八戸市水産加工用機械貸与条例の制定により、加工機械類の貸与が行われました。
昭和四十六年には加工生産高は三十五億円に達し、冷蔵能力も一気に四万七千㌧を超える増強ぶりでした。こうした状況の中で水揚げが急上昇し、昭和四十年には史上初めて二十万㌧を超え、四十二年には早くも三十万㌧、翌四十三年には四十三万㌧というまさに驚異的な伸びを見せたのであります。こうした急上昇の要因は鯖と助宗の水揚げが急増したからであります。したがって水産加工業もまた、こうした状況に対応して、発展を続けたのであります。北転船の助宗鱈を原料とするスリ身の生産、あるいは練り製品などの二次加工品、助宗鱈の魚卵によるタラ子の製造などが 急激に伸び、塩鯖や缶詰などの生産も大幅に伸びました。北転船の水揚げが本格的となった、昭和四十三年までに十七のスリ身工場が、一気に稼働を始めることが出来たのも、これまでに業界に培われて来た実力を示す以外の何物でもなかったのでありましょう。水産加工場数二百四十、従業員数約八千人、生産高二十四万七千㌧、二百三十億円、冷蔵能力九万㌧、まさに日本有数の規模を訪るべき位置に八戸の流通加工業はあったのであります。こうした実績の下にこの年水産物流通加工センター形成事業の指定を受け、四十六年度からは市川地区に加工団地の造成が始まりました。この年八戸の工業出荷額は九百五億五千万円であり、水産加工はその二十五%を占めるに至ったのであります。
九、北洋転換トロールと助宗スリ身生産
沿岸漁民とのトラブルが多い機船底引漁船を減船し、遠洋底引き漁に切り替えるための北洋転換船は、昭和四十年に青森県に十七隻許可され、大型鉄鋼船時代を迎える様になりました。この様な漁船の大型化に伴って、主要漁獲量である助宗鱈の水揚げが飛躍的に増大することは必至で、昭和四十一年度の漁獲量は約十万㌧になりました。しかし大量水揚げによる漁獲低落を防ぐためには、従来のスケコ(魚卵加工)づくりの他、練製品の二次加工の必要性が叫ばれはじめました。これは魚卵利用後、練製品原料として県外出荷されている魚休利用を本県でも取入れようというものであります。
そこで冷凍すり身工場を建設し、練製品の原料をつくる計画が進められましたが、冷凍すり身製法に関する特許は北海道庁が持ち権利を道冷凍魚肉協会に移管していました。このため青森県水産商工部では道庁に対し、特許使用について折衝したが道庁では色々な事情で難色を示している為、県では水産庁にもあっせんを要請、北海道側も北海道、東北北転船は助宗漁場を同じくし助宗魚価もおおむね連動している故大局的判断に立って県別の少数工場数に局限し、これを容認特許権侵害防止の措置を考慮すべきではないか等の意見も出はじめました。一方早期開放を要する東北地方の動きは、八戸地区では昭和四十二年十二月、「東北冷凍魚肉協会」が設立され、宮城県では昭和四十四年三月「宮城県冷凍魚肉協会」が設立されました。東北地方に於ける事態の推移に対し北海道特許審議委員会が全委員一致、許諾の結論を得たのは、昭和四十四年九月でした。容認工場数は青森県(八戸)十七工場、岩手県五工場、宮城県十九工場計四十一工場に及びました。
昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合をつくったのを手始めに、水産流通加工に関係する諸団体に加わり、八戸水産業界と共に汗を流しました。地元の八戸水産加工振興協議会も、昭和四十四年五月水協法に基づく、八戸水産加工業協同組合連合会に改組しました。傘下団体は、八戸魚市場水産加工業協同組合など四団体でした。
当時は未だ水産流通加工業会の力が弱く、系統の金融機関に融資を申し込んでも中々応じて貰えませんでした。商工中金に御願いすれば、水産加工は農林中金に頼みなさい、農林中金に御願いすれば、加工業だから商工中金に行きなさいと言われる始末でした。そこで八戸水産加工連は水協法にし農林中金から、八戸魚市場仲買連は中企法 に基づく組合にして商工中金から融資して頂く途を作りました。現在では両方共積極的に融資に応じて頂く様になり有難いと思っています。
八戸水産加工連の結成と前後して昭和四十四年三月、流通、加工の近代化、合理化を総合的に実現しようとする水産物産地流通加工センター形成事業に、地域業界挙げての熱意によって八戸港が指定されました。第一次の指定を受けたのは八戸、稚内、境港、下関、長崎の五地区でありました。八戸市の場合は流通加工センター形成事業は、修築工事が進んでいる館鼻漁港とその周辺地区で実施されることになりました。
最終的に四十六年から四十八年の三ヵ年実施、事業費の内訳は流通部門五億八千二百万円、加工部門十億二千二百万円、このうち国の補助対象事業は十二億円でありました。八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設は約十億円で国が三分の一、県が三分の一補助し、残り三分の一を事業主体が負担すると言う願ってもない事でありましたが、そこで国、県、農林中金から八戸水産加工連の出資金が唯の百万円では困ると言う事になりました。
当時八戸魚市場から仲買人完納奨励金として、買付額の千分の五が交付されて居り、水揚げ高も二百億円に達していました。よって奨励金の五分の一を出資して貰えば一年間で二千万円の出資になり、五年間で一億円になる。仲買連の各組合が、加工連の準組合員になって貰い出資して貰えば、五年間で一億円の出資金となる、よって仲買連の会長が加工連の会長になって貰い、総会で決議して貰えば自ら途が開けると考え、仲買連の会長であった佐々木惣吉さんに御願いしました。その結果、業界の為になるなら結構だ、但し青森県水産加工連、全水加工連の仕事は引続きやってくれ、という事で承知して頂きました。
昭和四十六年七月会長職を辞任、八戸水産加工連の副会長として引続き参画する事になり、国、県、農林中金にも納得して頂き、事業を順調に進める事になりました。建設用地は県より譲渡して頂き、昭和四十六年九月二十二日八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設などの着工式が全事業のトップを切って行われました。
八、水産流通加工の急成長
八戸の終戦直後の水産加工にはふれて来ましたが、もう一度見直して見度いと思います。
戦前はイワシ粕、イワシ油、カマボコ類、スルメ、煮干、干しアワビ、フカのヒレ、等が主体で、昭和二十五年頃からイカの大漁貧乏対策としてスルメ、イカの塩辛等のイカ製品がまず水産加工の中心でした。こうしたイカの大量水揚げに対処するために、冷蔵庫建設も次第に盛んになり、三十年における冷蔵能力は八千四百㌧と昭和二十五年の四千二百㌧に比して二倍に増強されました。昭和二十八年には鯖の好漁があって塩鯖加工が普及し始め、三十年には缶詰工場の県外からの進出も見られる等、水産加工場は家内工業も合わせると四百を超える盛況ぶりでした。
昭和三十一年八月、青森県水産加工研究所が設置され、初代所長の荒木さんは自ら包丁を持って、魚をさばく等熱心に指導されました。更にいかの肝臓等公害の原因となる内臓を処理し、SP飼料に利用する工場、八戸水産飼料が操業を開始しました。又サンマの豊漁からこれのみりん干が開発される等活発な動きが展開されたのであります。 昭和三十六、七年にはサンマ棒受け網が豊漁でサンマの加工が進むと共にイカの加工品も増産が続き、生産額は二十八億円となり、冷蔵能力は三万㌧を超えていました。
昭和三十九年にはイカの珍味生産がさらに盛んとなり、加工機械に対する需要が高まり、昭和三十九年には青森県水産加工用施設整備促進条例および八戸市水産加工用機械貸与条例の制定により、加工機械類の貸与が行われました。
昭和四十六年には加工生産高は三十五億円に達し、冷蔵能力も一気に四万七千㌧を超える増強ぶりでした。こうした状況の中で水揚げが急上昇し、昭和四十年には史上初めて二十万㌧を超え、四十二年には早くも三十万㌧、翌四十三年には四十三万㌧というまさに驚異的な伸びを見せたのであります。こうした急上昇の要因は鯖と助宗の水揚げが急増したからであります。したがって水産加工業もまた、こうした状況に対応して、発展を続けたのであります。北転船の助宗鱈を原料とするスリ身の生産、あるいは練り製品などの二次加工品、助宗鱈の魚卵によるタラ子の製造などが 急激に伸び、塩鯖や缶詰などの生産も大幅に伸びました。北転船の水揚げが本格的となった、昭和四十三年までに十七のスリ身工場が、一気に稼働を始めることが出来たのも、これまでに業界に培われて来た実力を示す以外の何物でもなかったのでありましょう。水産加工場数二百四十、従業員数約八千人、生産高二十四万七千㌧、二百三十億円、冷蔵能力九万㌧、まさに日本有数の規模を訪るべき位置に八戸の流通加工業はあったのであります。こうした実績の下にこの年水産物流通加工センター形成事業の指定を受け、四十六年度からは市川地区に加工団地の造成が始まりました。この年八戸の工業出荷額は九百五億五千万円であり、水産加工はその二十五%を占めるに至ったのであります。
九、北洋転換トロールと助宗スリ身生産
沿岸漁民とのトラブルが多い機船底引漁船を減船し、遠洋底引き漁に切り替えるための北洋転換船は、昭和四十年に青森県に十七隻許可され、大型鉄鋼船時代を迎える様になりました。この様な漁船の大型化に伴って、主要漁獲量である助宗鱈の水揚げが飛躍的に増大することは必至で、昭和四十一年度の漁獲量は約十万㌧になりました。しかし大量水揚げによる漁獲低落を防ぐためには、従来のスケコ(魚卵加工)づくりの他、練製品の二次加工の必要性が叫ばれはじめました。これは魚卵利用後、練製品原料として県外出荷されている魚休利用を本県でも取入れようというものであります。
そこで冷凍すり身工場を建設し、練製品の原料をつくる計画が進められましたが、冷凍すり身製法に関する特許は北海道庁が持ち権利を道冷凍魚肉協会に移管していました。このため青森県水産商工部では道庁に対し、特許使用について折衝したが道庁では色々な事情で難色を示している為、県では水産庁にもあっせんを要請、北海道側も北海道、東北北転船は助宗漁場を同じくし助宗魚価もおおむね連動している故大局的判断に立って県別の少数工場数に局限し、これを容認特許権侵害防止の措置を考慮すべきではないか等の意見も出はじめました。一方早期開放を要する東北地方の動きは、八戸地区では昭和四十二年十二月、「東北冷凍魚肉協会」が設立され、宮城県では昭和四十四年三月「宮城県冷凍魚肉協会」が設立されました。東北地方に於ける事態の推移に対し北海道特許審議委員会が全委員一致、許諾の結論を得たのは、昭和四十四年九月でした。容認工場数は青森県(八戸)十七工場、岩手県五工場、宮城県十九工場計四十一工場に及びました。
2007年11月1日木曜日
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 2
四、零からの出発
京都に婦ってから、一ケ月程して再度八戸に来ました。大龍産業八戸営業所時代に知りあった人達、八戸市役所の福祉課長をしておられた清水丑松さん、皮革会社の魚住亀治さん、鉄工所経営の高橋さん達と相談して仕事を始める事にしました。蕪島の対岸に戦時中、海水を汲み上げ塩を煮つめていた工場が、たまたま高橋さんに払い下げられていたのを借り受け、資金は清水さんが調達する事、私は労力を提供することで清水さんの頭文字ローマ字のSをとり、○S水産加工所として発足しました。
昭和二十三年一月でした。資金は零、魚及び加工の知識も零、一時清水さんの家の一間を借りて居たのを引払って、塩たき小屋の内に三畳一間の部屋で寝おきして自炊する事にしました。
土地は川平操さんの所有地をお借りし、塩たき小屋のそばにバラックの小屋に釜をつけ、魚粕をつくる事にしました。水は川平さんの土地のはずれにわいていたのを、おけでかついで使いました。御馳走は一週間に一個の卵でした。王城子原の訓練中、主食は高梁、おかずは演習の帰途つんだぜんまい等で生活した経験が役立ったのです。
先ず加工の手始めは、皮革会社で鮫(毛鹿鮫、吉切鮫)の皮をはぎ、肉をとった残りの頭、中骨等を代金後払いでわけて貰い、煮て肥料にする事から始めました。当時鰯等を魚粕にする場合は、煮てドで締めて水分をとったあと、むしろにひろげて干すのですが、鮫の頭や骨はドでしめられません。むしろの土にまな板を置き頭や骨をのせ、なたで切るより方法がありません。
雨の時にはむしろをたたむのですが、蝿がつき虫がつくのです。それを拡げて干すのが大変でした。パートの人を三人たのみ手伝って貰いましたが、いやな仕事は私がしました。それでも当時は肥料が少なかったものですから、米と交換して貰えました。
次に蕪島の海水浴をする浜に時化のあと海草があがりました。それを拾い集め、乾かしてからもやし、更にうにを取ったあとのカゼ殼を集めもやし、それに鮫の肝臓を煮て油をとった後のべとを貰い受け、三つをダンゴにしてむしろで干しました。肥料の三元素があるという事で買って貰いました。少しずつ資金が出来たので、八戸魚市場から魚を買う事にしました。商号は○S、市場のかぎ取りの岩崎良助さんは○石の事をドンコロイシ、○Sの事を文化エスと呼びました。八戸弁ではエとイ、シとスの区別が発音しづらいのです。中々有名なしっかりした方でした。
資金がないので安いものを買う事にしました。 鮫という地名の通り油鮫がとれました。その生れたばかりの子をピン鮫と云っていましたが、余り利用価値がないので安く買えました。鰹節の製法を調べていましたので、鮫の節をつくる事にしました。頭と腹をかき、セイロで並べて煮てから火山(半分地中に埋め、その上にセイロを積み、下から火をもして燻製にする)にかけて乾しました。花かつをは本物の鰹を削ったものもありますが、市販用の安いのは鯖や鰯の節を削ったものです。これに鮫からつくったのを混ぜて貰うのです。日本中の削り節問屋を調べて売り歩きました。幸いよい値段で買ってくれました。
次にいかの加工を取り上げました。当時はするめに干すのが主流で、まだ冷凍工場はありません。雨が降ってくると腐って悪臭を放ちます。従っていかの値段も安かったのです。
雨が降っても干せる方法を考え、火山に屋根をかけ、いかの胴体を三つ位に切り煮ると輪になります。それをセイロに並べ火山にかけ、いかの節をつくりました。削るときれいな花になります。これを削り節工場に売りに行き、よい値段で買って貰いました。其内クレームがつきました。汁に人れますと鯖、鰯、鮫等の花はしずみますが、いかの花はぽっかり浮くと云うのです。そこでふりかけに使うか、佃煮にすればよいでしょうと云いました。それで納得して買って貰いました。
白銀でスルメを干して雨に困っていた加工業者の人達が早速造り出しました。所が削り節業者からクレームがつきました。削り機の歯がかけるというのです。白銀の砂浜でつくれば風の時にいかに砂がついたのです。削る歯に砂は大敵です。それ等の事を考慮に入れないと失敗します。その内に指導してくれる人があって佃煮を造りました。当時は数軒の佃煮業者がありました。又竹輪を造る業者も数社ありました。○万さん等有力な人達でした。缶詰業者や八戸に鰹が水揚げされた時に、鰹節をつくった業者もあったと聞きましたが、戦後は下火になった様でした。
当時目抜等の水揚げが多く、粕漬けを大量に製造する加工業者もありました。○福さん等が大手でした。其内に油鰈が大量に水揚げされました。肝臓がビタミンをつくる製薬会社に高値で売れ、魚肉は練製品業者に売れ、名古屋迄送られました。頭や残滓は煮て油が大量にとれました。卵は塩蔵して売れました。
当時の工場では手挟でしたが、それでもフル操業しました。にわか造りの工場で加工する人も出ました。それぞれ利益の出る仕事だったと思います。私も一を二に、二を四にと手堅く倍増し、仕事も軌道に乗って来ました。製塩工場も買取りし、資金も信用保証協会の保証借入れから、保証なしで借りられる様になりました。
五、本工場の新築
三年間程で資金も少しながらまとまり、昭和二十六年三月現在の本社の土地の一部三八六坪を六拾五万円で購入しました。そこに蕪島前の製塩工場を移転し、更に新工場をつぎ足し従業員も逐次増加、佃煮、雑節、油鰈の処理、(魚肉、魚油、魚卵等を製造)いかの塩辛、目抜等の粕漬を生産しました。
堅実な倍増計画も順調に進み、二階は男子従業員の宿舎、下は倉庫の二階建の建物も造り、住宅金融公庫の借入れで自宅を建て、一部は事務所にしました。工場も手狭になり逐次増築、更に事務所も新築しました。土地も隣接地一〇〇〇坪程借り乾燥工場に使いました。
事業も順調に進みましたので、昭和三十一年四月二日個人資産、負債を包括引継ぎ株式会社武輪商店を設立しました。資本金は五百万円でした。第一期の決算もまずまずの成績で株主配当も二割出来ました。当時水産加工業界のなやみの種は、冷凍冷蔵設備の不足でした。加工原料を冷凍保管し、魚が切れた後の原料確保が出来なかった事です。加工専業者はまだ冷凍設備を持っている業者はありませんでした。八戸魚市場等設備のある業者に冷凍を頼んでも、処理能力が不足のため思う様にはいきませんでした。それでも一年間(昭和三二年)の冷凍保管料支払額は三五〇万円に達しました。それで意を決し冷凍冷蔵庫建設にふみ切った訳です。借入金二千万円、返済各年度四百万円宛の五ケ年返済計画です。各年度支払う冷凍冷蔵経費を充当すれば返済出来る額です。
六、水産加工組合づくり
事業も漸く軌道にのり、業界の事を考える余裕が出来、真先に考えた事は何故水産加工業界には、組合がないのだろうという事でした。個々の力では出来ない事でも、多数の人の力を合わせば出来る、組合をつくり仕事をすれば、めいめいが更によくなる筈だと思いました。夫々の人達に意見を聞いた処、組合をつくっても幹部の人達だけが組合を利用して、得をするのでメリットがないと言う事でした。それでは幹部の人は組合の為に、奉仕をする心構えでやればよいだろうという事で、当時の水産加工専業者の人達に話しかけ賛成を得て、昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合を設立、事務所を当社におき役員は無報酬、経費もかけない方針で発足しました。
当時は未だ北海道に鰊がとれていましたので、漁船を二隻チャーターして鰊の共同買付をしました。それを組合員に分配して加工しましたが、北海道方式の身欠ではなく、一尾から二枚のフィーレにし、一夜干にして東京に出荷しました。北海道では身欠にしていましたが、一尾から腹を欠き固く干して出荷していました。日待ちをよくする為に水分を取った訳ですが、魚は鮮魚のままが一番おいしくて、水分をとり干す程にまずくなるのです。八戸の地の利を活用して、輸送時間が短くてすみますから骨をとり二枚のフィーレにし、余り乾燥せず出荷したのです。果して好評を博し高く売れました。次にいかの塩辛の製法も皆で共同研究し、これも函館の塩辛の製法を改良し、用塩量を減らしました。
容器の共同購入、機械も村上機械(現在の南部クボタ)と共同開発、量産化をはかりました。夫々の努力で販売先を開拓、当社でも最盛期には一日に貨車積三車を出荷しました,いかさきの省力化を考え、廻りに楕円形のコンベヤーで函入りのいかを供給、中にさき手が五十名入り、さいた身、足、内臓を夫々のコンベヤーで回収する装置も作りました。年に一度、組合員一同が北海道をはじめ各地を視察、視野を広めました。組合をつくりよかったと思いました。いかも次第に多く取れ出しました。当時は冷凍設備も少なく、七十%以上鮮魚出荷をしていました。それも貨車輸送が主力で、入車数も中々追いつかず氷をかけ市場に積止めが増えました。
遂に水揚げしたいかが売れず、値段も極端に下落し、私も一函二円で三千函入札したのが当り、尚二千函残り全部引取ってくれとの事で、一函三円に仕切直して五千函買った事があり、今でも覚えて居ります。それからが大変で毎日増し氷をし、一日千函宛、塩辛といか節に製造し、五日間かかり処理しましたが、氷代と鮮度低下を考えると無茶な事をしたものだと反省させられました。それから余分の魚は買うものではないと、随分勉強になりましたが、今でも時々余分の魚を買い後始末に苦労しています。
次に三次加工して、付加価値をつける事を考えました。八戸はいかの水揚げ日本一といわれ、大量に水揚げされますので、大量処理をする為、兎角一次加工を主にして来ましたが、付加価値をつける為には、三次加工をしなければなりません。当時は珍味加工と言っても、調味したいかを一枚宛鉄板で合わせ焼く程度でしたが、主として消費地でスルメからサキいかが作られていました。乾したスルメの皮をむき、耳足をとったものを調味して焼き、機械でさいて居た訳ですが、固くて老人や子供は中々食べづらいものでした。いかの産地でわざわざスルメに干してから、サキいかを作るのは如何なものかと考え、鮮いかのつぼ抜きを六十度の温度で、ボイルすれば皮がむけるのを利用し、鮮いかから皮をむき調味し、乾燥機で干し、ロースター(上、下の鉄板を回転させ併せて、上下より熱し焼く装置)で焼き、サク方法で作って見ました。消費地に送った所、やわらかくて万人向けだと好評を得ました。採算もよく、珍味組合(昭和三十九年四月発足)の組合員に製法採算点等説明し、皆で作ろうと提案しました。組合員の一人が、皆に教えてはもうからなくなるから教えるなという意見がありましたが、現在のスルメからのサキいかは、全部新しいサキいか(ソフトサキ)になるから販路は全国に拡がるし、皆でつくればそれだけ宣伝になるから心配はないと説得し始めました。所がやはり量産したいという考えがあり、半製品のまま出荷する組合員が続出、ダルマ(耳足をとり調味、乾燥機で干したもの)のまま出荷する様になりました。
当社は白サキ、後に皮つきの製品もつくり、黄金サキとして最盛期には新潟へ貨車積する位になりました。ダルマ出荷は大畑や函館迄出荷する様になり、遂に予想した通り全国中スルメのサキいかは姿を消しました。
サキイカ製法に関して思い出の一つは、昭和四十一年八月十四日三笠宮、同妃殿下が御子さま同道でサキイカ工場見学に見えられた事です。珍しそうで熱心に、見学された事を思い出します。
一方鮮魚出荷に、水揚高の七十%迄依存していた八戸の水産業界も、冷凍冷蔵の設備が増大し中央大手日冷も、大型冷蔵工場を新設する事になりました。当時の岩岡八戸市長から地元以外からの大手業者の設備投資の可否を聞かれた事を覚えていますが、その時に私は「水は低い所に流れるが、魚は高い所に集まります。大手の方にどしどし設備を作って貰い、技術も導入し業界こぞって付加価値をつける事に励めば、八戸の水産業界の前途は洋々たるものがあります。但し、その為には水揚場を増設し県外船の誘致を受入れる様にして下さい」と言った事を思い出します。鮫の第一魚市場から湊の第二魚市場、後には館鼻の第三魚市場と市場設備が拡充され、増大する水揚が処理された訳です。冷凍冷蔵設備も日本有数の収容力を備え、年間加工の原料を蓄える事が出来ました。
京都に婦ってから、一ケ月程して再度八戸に来ました。大龍産業八戸営業所時代に知りあった人達、八戸市役所の福祉課長をしておられた清水丑松さん、皮革会社の魚住亀治さん、鉄工所経営の高橋さん達と相談して仕事を始める事にしました。蕪島の対岸に戦時中、海水を汲み上げ塩を煮つめていた工場が、たまたま高橋さんに払い下げられていたのを借り受け、資金は清水さんが調達する事、私は労力を提供することで清水さんの頭文字ローマ字のSをとり、○S水産加工所として発足しました。
昭和二十三年一月でした。資金は零、魚及び加工の知識も零、一時清水さんの家の一間を借りて居たのを引払って、塩たき小屋の内に三畳一間の部屋で寝おきして自炊する事にしました。
土地は川平操さんの所有地をお借りし、塩たき小屋のそばにバラックの小屋に釜をつけ、魚粕をつくる事にしました。水は川平さんの土地のはずれにわいていたのを、おけでかついで使いました。御馳走は一週間に一個の卵でした。王城子原の訓練中、主食は高梁、おかずは演習の帰途つんだぜんまい等で生活した経験が役立ったのです。
先ず加工の手始めは、皮革会社で鮫(毛鹿鮫、吉切鮫)の皮をはぎ、肉をとった残りの頭、中骨等を代金後払いでわけて貰い、煮て肥料にする事から始めました。当時鰯等を魚粕にする場合は、煮てドで締めて水分をとったあと、むしろにひろげて干すのですが、鮫の頭や骨はドでしめられません。むしろの土にまな板を置き頭や骨をのせ、なたで切るより方法がありません。
雨の時にはむしろをたたむのですが、蝿がつき虫がつくのです。それを拡げて干すのが大変でした。パートの人を三人たのみ手伝って貰いましたが、いやな仕事は私がしました。それでも当時は肥料が少なかったものですから、米と交換して貰えました。
次に蕪島の海水浴をする浜に時化のあと海草があがりました。それを拾い集め、乾かしてからもやし、更にうにを取ったあとのカゼ殼を集めもやし、それに鮫の肝臓を煮て油をとった後のべとを貰い受け、三つをダンゴにしてむしろで干しました。肥料の三元素があるという事で買って貰いました。少しずつ資金が出来たので、八戸魚市場から魚を買う事にしました。商号は○S、市場のかぎ取りの岩崎良助さんは○石の事をドンコロイシ、○Sの事を文化エスと呼びました。八戸弁ではエとイ、シとスの区別が発音しづらいのです。中々有名なしっかりした方でした。
資金がないので安いものを買う事にしました。 鮫という地名の通り油鮫がとれました。その生れたばかりの子をピン鮫と云っていましたが、余り利用価値がないので安く買えました。鰹節の製法を調べていましたので、鮫の節をつくる事にしました。頭と腹をかき、セイロで並べて煮てから火山(半分地中に埋め、その上にセイロを積み、下から火をもして燻製にする)にかけて乾しました。花かつをは本物の鰹を削ったものもありますが、市販用の安いのは鯖や鰯の節を削ったものです。これに鮫からつくったのを混ぜて貰うのです。日本中の削り節問屋を調べて売り歩きました。幸いよい値段で買ってくれました。
次にいかの加工を取り上げました。当時はするめに干すのが主流で、まだ冷凍工場はありません。雨が降ってくると腐って悪臭を放ちます。従っていかの値段も安かったのです。
雨が降っても干せる方法を考え、火山に屋根をかけ、いかの胴体を三つ位に切り煮ると輪になります。それをセイロに並べ火山にかけ、いかの節をつくりました。削るときれいな花になります。これを削り節工場に売りに行き、よい値段で買って貰いました。其内クレームがつきました。汁に人れますと鯖、鰯、鮫等の花はしずみますが、いかの花はぽっかり浮くと云うのです。そこでふりかけに使うか、佃煮にすればよいでしょうと云いました。それで納得して買って貰いました。
白銀でスルメを干して雨に困っていた加工業者の人達が早速造り出しました。所が削り節業者からクレームがつきました。削り機の歯がかけるというのです。白銀の砂浜でつくれば風の時にいかに砂がついたのです。削る歯に砂は大敵です。それ等の事を考慮に入れないと失敗します。その内に指導してくれる人があって佃煮を造りました。当時は数軒の佃煮業者がありました。又竹輪を造る業者も数社ありました。○万さん等有力な人達でした。缶詰業者や八戸に鰹が水揚げされた時に、鰹節をつくった業者もあったと聞きましたが、戦後は下火になった様でした。
当時目抜等の水揚げが多く、粕漬けを大量に製造する加工業者もありました。○福さん等が大手でした。其内に油鰈が大量に水揚げされました。肝臓がビタミンをつくる製薬会社に高値で売れ、魚肉は練製品業者に売れ、名古屋迄送られました。頭や残滓は煮て油が大量にとれました。卵は塩蔵して売れました。
当時の工場では手挟でしたが、それでもフル操業しました。にわか造りの工場で加工する人も出ました。それぞれ利益の出る仕事だったと思います。私も一を二に、二を四にと手堅く倍増し、仕事も軌道に乗って来ました。製塩工場も買取りし、資金も信用保証協会の保証借入れから、保証なしで借りられる様になりました。
五、本工場の新築
三年間程で資金も少しながらまとまり、昭和二十六年三月現在の本社の土地の一部三八六坪を六拾五万円で購入しました。そこに蕪島前の製塩工場を移転し、更に新工場をつぎ足し従業員も逐次増加、佃煮、雑節、油鰈の処理、(魚肉、魚油、魚卵等を製造)いかの塩辛、目抜等の粕漬を生産しました。
堅実な倍増計画も順調に進み、二階は男子従業員の宿舎、下は倉庫の二階建の建物も造り、住宅金融公庫の借入れで自宅を建て、一部は事務所にしました。工場も手狭になり逐次増築、更に事務所も新築しました。土地も隣接地一〇〇〇坪程借り乾燥工場に使いました。
事業も順調に進みましたので、昭和三十一年四月二日個人資産、負債を包括引継ぎ株式会社武輪商店を設立しました。資本金は五百万円でした。第一期の決算もまずまずの成績で株主配当も二割出来ました。当時水産加工業界のなやみの種は、冷凍冷蔵設備の不足でした。加工原料を冷凍保管し、魚が切れた後の原料確保が出来なかった事です。加工専業者はまだ冷凍設備を持っている業者はありませんでした。八戸魚市場等設備のある業者に冷凍を頼んでも、処理能力が不足のため思う様にはいきませんでした。それでも一年間(昭和三二年)の冷凍保管料支払額は三五〇万円に達しました。それで意を決し冷凍冷蔵庫建設にふみ切った訳です。借入金二千万円、返済各年度四百万円宛の五ケ年返済計画です。各年度支払う冷凍冷蔵経費を充当すれば返済出来る額です。
六、水産加工組合づくり
事業も漸く軌道にのり、業界の事を考える余裕が出来、真先に考えた事は何故水産加工業界には、組合がないのだろうという事でした。個々の力では出来ない事でも、多数の人の力を合わせば出来る、組合をつくり仕事をすれば、めいめいが更によくなる筈だと思いました。夫々の人達に意見を聞いた処、組合をつくっても幹部の人達だけが組合を利用して、得をするのでメリットがないと言う事でした。それでは幹部の人は組合の為に、奉仕をする心構えでやればよいだろうという事で、当時の水産加工専業者の人達に話しかけ賛成を得て、昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合を設立、事務所を当社におき役員は無報酬、経費もかけない方針で発足しました。
当時は未だ北海道に鰊がとれていましたので、漁船を二隻チャーターして鰊の共同買付をしました。それを組合員に分配して加工しましたが、北海道方式の身欠ではなく、一尾から二枚のフィーレにし、一夜干にして東京に出荷しました。北海道では身欠にしていましたが、一尾から腹を欠き固く干して出荷していました。日待ちをよくする為に水分を取った訳ですが、魚は鮮魚のままが一番おいしくて、水分をとり干す程にまずくなるのです。八戸の地の利を活用して、輸送時間が短くてすみますから骨をとり二枚のフィーレにし、余り乾燥せず出荷したのです。果して好評を博し高く売れました。次にいかの塩辛の製法も皆で共同研究し、これも函館の塩辛の製法を改良し、用塩量を減らしました。
容器の共同購入、機械も村上機械(現在の南部クボタ)と共同開発、量産化をはかりました。夫々の努力で販売先を開拓、当社でも最盛期には一日に貨車積三車を出荷しました,いかさきの省力化を考え、廻りに楕円形のコンベヤーで函入りのいかを供給、中にさき手が五十名入り、さいた身、足、内臓を夫々のコンベヤーで回収する装置も作りました。年に一度、組合員一同が北海道をはじめ各地を視察、視野を広めました。組合をつくりよかったと思いました。いかも次第に多く取れ出しました。当時は冷凍設備も少なく、七十%以上鮮魚出荷をしていました。それも貨車輸送が主力で、入車数も中々追いつかず氷をかけ市場に積止めが増えました。
遂に水揚げしたいかが売れず、値段も極端に下落し、私も一函二円で三千函入札したのが当り、尚二千函残り全部引取ってくれとの事で、一函三円に仕切直して五千函買った事があり、今でも覚えて居ります。それからが大変で毎日増し氷をし、一日千函宛、塩辛といか節に製造し、五日間かかり処理しましたが、氷代と鮮度低下を考えると無茶な事をしたものだと反省させられました。それから余分の魚は買うものではないと、随分勉強になりましたが、今でも時々余分の魚を買い後始末に苦労しています。
次に三次加工して、付加価値をつける事を考えました。八戸はいかの水揚げ日本一といわれ、大量に水揚げされますので、大量処理をする為、兎角一次加工を主にして来ましたが、付加価値をつける為には、三次加工をしなければなりません。当時は珍味加工と言っても、調味したいかを一枚宛鉄板で合わせ焼く程度でしたが、主として消費地でスルメからサキいかが作られていました。乾したスルメの皮をむき、耳足をとったものを調味して焼き、機械でさいて居た訳ですが、固くて老人や子供は中々食べづらいものでした。いかの産地でわざわざスルメに干してから、サキいかを作るのは如何なものかと考え、鮮いかのつぼ抜きを六十度の温度で、ボイルすれば皮がむけるのを利用し、鮮いかから皮をむき調味し、乾燥機で干し、ロースター(上、下の鉄板を回転させ併せて、上下より熱し焼く装置)で焼き、サク方法で作って見ました。消費地に送った所、やわらかくて万人向けだと好評を得ました。採算もよく、珍味組合(昭和三十九年四月発足)の組合員に製法採算点等説明し、皆で作ろうと提案しました。組合員の一人が、皆に教えてはもうからなくなるから教えるなという意見がありましたが、現在のスルメからのサキいかは、全部新しいサキいか(ソフトサキ)になるから販路は全国に拡がるし、皆でつくればそれだけ宣伝になるから心配はないと説得し始めました。所がやはり量産したいという考えがあり、半製品のまま出荷する組合員が続出、ダルマ(耳足をとり調味、乾燥機で干したもの)のまま出荷する様になりました。
当社は白サキ、後に皮つきの製品もつくり、黄金サキとして最盛期には新潟へ貨車積する位になりました。ダルマ出荷は大畑や函館迄出荷する様になり、遂に予想した通り全国中スルメのサキいかは姿を消しました。
サキイカ製法に関して思い出の一つは、昭和四十一年八月十四日三笠宮、同妃殿下が御子さま同道でサキイカ工場見学に見えられた事です。珍しそうで熱心に、見学された事を思い出します。
一方鮮魚出荷に、水揚高の七十%迄依存していた八戸の水産業界も、冷凍冷蔵の設備が増大し中央大手日冷も、大型冷蔵工場を新設する事になりました。当時の岩岡八戸市長から地元以外からの大手業者の設備投資の可否を聞かれた事を覚えていますが、その時に私は「水は低い所に流れるが、魚は高い所に集まります。大手の方にどしどし設備を作って貰い、技術も導入し業界こぞって付加価値をつける事に励めば、八戸の水産業界の前途は洋々たるものがあります。但し、その為には水揚場を増設し県外船の誘致を受入れる様にして下さい」と言った事を思い出します。鮫の第一魚市場から湊の第二魚市場、後には館鼻の第三魚市場と市場設備が拡充され、増大する水揚が処理された訳です。冷凍冷蔵設備も日本有数の収容力を備え、年間加工の原料を蓄える事が出来ました。
2007年10月1日月曜日
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 1
年寄りの話は面白い。結末を知った推理小説で、安心して聞いてられる。八戸の若者に仕事がなく、シルバー人材センターの定年者たちに仕事が集まり、その額が四十五億もあった。これを若者に回せと力説したが、「はちのへ今昔」は売れない雑誌で、まさにごまめの歯ぎしり(力のない者が、いたずらにいきりたつこと)だ。ごまめってのは正月のおせち料理に出る田作りの、あの小さいカタクチイワシの干物を言う。それの歯軋りじゃ、ドウモコウモナラン。
シルバー人材センターは毎年八戸市から補助を得ている。若者の受け入れ先がないから、補助はまったくない。若者をないがしろにすると未来はないぞ。
それでも若者、嘆く前に先人の足跡から、自立の道を考えよう。人にこき使われるだけが人生じゃない。
八戸には、無一物から人生の大道を堂々を歩んだ人が何人もおられる。今回は武輪水産の創始者を紹介。この人が上梓された「零からの出発」を読み、人生はやる気と根気を読み取ろう。そして、ヨタヨタでも人生の航海を開始しよう。北朝鮮から木造小船で青森まで逃げてきた家族のように、意のあるところには必ず道があるんだ。
一、生い立ち
私は大正三年十二月三十一日、父安太郎、母マサの長男として京都市下京区西七条に生まれました。父は大正五年一月十九日に死去しましたので、私が生まれてから僅か満一年でした,母は三人の姉と私をかかえ苦労した事と思います。
私が物心のついた頃には長姉は住み込みの勤めをし、次姉は叔父の養女となり、末の姉と私を母が育てて居りました。
京都市立七条尋常小学校を卒業、京都府立京都第二中学校に進学、小学、中学を通じ無欠席で通しました。此の間風邪を引いた事もあったでしょうが頑張らなくてはという気持がそうさせたと思います。
後日大学卒業後就職の際健康診断の時、肺に異常ありとの事で京都府立医大でレントゲン撮影の結果、確かに二、三ケ所痕跡があるが、既に完治しているから大丈夫と太鼓判をおされました。その旨を会社に報告無事入社出来ましたが矢張り二、三回発熱をおして頑張った結果だと思います。旧制中学卒業の頃、母が多年無理をして働いたいた結果、リウマチスで立てなくなりました。止むを得ず進学をあきらめ、京都府立京都第二中学校の校長を三十年勤められた中山再次郎先生にお願いし、当時中学生を寄宿させ指導されていた浴風塾に働めさせて頂き、いわゆる内弟子として御指導頂く事になりました。
然し、進学の念をあきらめきれず更に、お願いして、昼は浴風塾に勤めながら夜、立命館大学専門学部に通う事となりました。その後台風が京都市を直撃し、浴風塾の木造二階建二棟が倒壊しました。止むを得ず、校長、教員の舎宅の空室を使わせて頂き塾生たちの勉学指導をし、それにより得た報酬で家計をささえながら夜学に通いました。
中山先生も校長勤続三十年で退職され、卒業生の父兄で先生に心酔されていた、伏見の月桂冠の社長の寄進で東福寺の近くに建てられた住宅におすまいでしたが、その一部を塾とし中学生を指導されていました。少年の指導が何物にもかえがたく思われたのでしょう。終生続けられました。私も其頃は自宅、又は近所に部屋を借り中学生の勉学の指導をし、先生の御宅にも御邪魔して何かと御用達しをし、夜は専門学部から大学に進学し、相当忙しい日々を送りました。末の姉も結婚し一家をかまえ、私もその隣りの家を借りて母と住み、姉が立てない母の世話をしてくれましたので、心おきなく頑張れました。
二、北京での思い出
立命館大学経済学部経済学科卒業も間近になった頃、日本軍が満州より北支那に進出、華北臨時政府を擁立、行政顧問として内務官僚であった湯沢三千男氏を送り込みました。
一方経済面の開発を担当する北支那開発株式会社を設立、鉄道、電気等の建設、石炭、鉄鉱、綿花、塩等資源の開発を大々的に進めました。初代の総裁として、拓務大臣も勤められた大谷尊由氏が就任されました。この頃大谷氏が中山先生の教え子でもあった関係から、又、北支那開発株式会社の当時、北京支社総務課長兼経理課長でもあった中島要造氏も、中山先生の教え子であった関係上、私も採用される事に内定しました。
先ず母に相談した所、病気で立てない状態でありながら気丈にも賛成してくれました。世話をして貰っている姉夫婦にも相談した所、心配せずに就職する様にと賛成してくれました。そこで意を決し、昭和十四年四月北支那開発株式会社(半官半民の国策会社)に入社、東京本社に二ケ月勤務後、当時大学卒第一期生として三十名勇躍北京支社勤務として赴任しました。赴任早々文書課勤務となり、総裁公邸内の一室をあてがわれ暗号電報翻訳担当となり、大金庫に当時軍が使用していた乱数表を収納、暗号電報の来る度に翻訳しました。記憶に残る事は、三十九度の発熱時に長文の暗号電報が来信、二時間かけて無事翻訳出来、使命を果たした事もありました。一緒に北京に赴任した第一期生三十名が、それぞれ病気欠勤した中で、入社時健康診断でクレームのついた私が欠勤する事なく、勤務出来た事を有難いと思っています。其後、産業課勤務となり内蒙古龍畑鉄鉱や山西省の石炭鉱山等々視察に行き、又年に一度は東京支社(北京支社は一年位で本社となった)に出張、主として子会社に対する資金及び、建設資材の調達と開発計画の打合せでした。途中京都に立寄り母の見舞、中山先生ヘ近況報告をしました。
北京本社勤務中、同好者でコーラス団を組み、本格的に勉強した事もなかった私も下手の横好きで入り、ラジオ放送をした事がありました。それがたまたま軍の幹部の耳に入り、名簿を出せと言われ、出したそうです。これは終戦後知った事ですが、とんでもない事に結びつきました。
昭和十九年に入り戦況がますますきびしくなり、北京現地でも召集があると言う情報が私の耳に入りました。元情報担当をしていたせいでしょう、私は戦前の兵隊検査で第二国民兵役、丙種合格と言う、当時では兵隊になる資格がないと言う決定をされていました。それで私は絶対に召集されないが、同期生たちに現地召集がありそうだから心構えをした方がよいと伝えました。私の予想通り間もなく現地召集がありましたが、何と、私に第一回目の召集が来ました。それは終戦後しばらくしてわかったのですが、コーラス放送が原因だったのです。止むなく入隊しましたが、幹部候補生になれというのです。私は丙種合格だから大学で教練を受けていないと言うと中学では受けただろうとの事で、勿論検査前だから教練は受けていると答えると、それで沢山だという事で、幹部候補生教育を受ける事になりました。その内益々日本国内も満州もきびしくなり、教育訓練中の者を半分は国内に、半分は満州に移駐させる事になりました。幸い私は国内組に入り、仙台に移駐、王城子原の演習場で訓練を続行されました。その間に仙台市は空襲を受け焼野原になりました。訓練が終り東北軍管区司令部付防空指揮班に編入され、仙台城地下壕で空襲警報発令の任務につきました。終戦になり武器弾薬を集結アメリカ軍に引渡し、逐次兵隊は除隊し最後に私も除隊しました。
余談ですが兵隊になる資格のなかった私が、いわゆる、ポツダム少尉で、当時陸軍では本科歩兵少尉と言っていた者になるとは信じられませんでした。八戸市に来てから正八位に任ぜられましたから本当だったのです。ちなみに北京現地では同僚、後輩達が続々召集され半分近く戦死したそうです。第一回目に召集され、然も国内に移駐され命拾いした私は結果的に考えると運がよかったと思います。母は私が召集される前に姉夫婦に見とられなくなりました。私は会社より特別休暇を貰い帰京しましたが間にあいませんでした。気丈な母は最後迄取りみださず、私を案じてくれていたと聞かされ心をうたれました。
又若い頃好きだった歌も、召集の原因がコーラスだったと知り、歌う気にならなくなりました。平成十年一月は私の創業五十周年になります。これを契機に気分を入れかえ、北京在勤中に覚えた「好日君再来」でも歌おうかなと思います。
三、八戸に来て
終戦後除隊して、最初に北支那開発株式会社の東京支社に行きました。所がアメリカ兵が剣付鉄砲を構え中に入れてくれません。国策会社なるが故に閉鎖されたのです。近所の人に聞きますと、社員は渋谷の寮に居るとの事で訪ねて行きますと、会社は全部さし押さえられていました。支社勤務の人たちも明日からの生活が大変で、北京本社から引揚げて来る何千人の同僚の事を考える余裕もなかったのです。幸い一期生の仲間や先輩達数人が居り、引揚げ者中、家も焼かれ困っている人達を一人でも受入れる会社を創ろうと言う事になりました。今後は商売で中国と取引する為、社名も中国向きに大龍産業㈱としました。同僚の一人に八戸で海産商を手広くやっていた店と関係のある者が居り、八戸に営業所を設ける事になり、たまたま私が独身者で身軽な事から八戸に来る事になりました。
終戦の昭和二十年秋満三十才の時でした。早速、鮫の宮市に事務所を借り、中国との取引に船が必要だと言う事から、船を買う事になりました。たまたま青森市に売りたい船があるとの情報、船の事に詳しいと言う人と一緒に見に行きました。この船は瀬戸内海で航行していたのを軍に徴用され、北千島に食糧等を運搬する事になったそうですが、船足がおそく青森の造船所で機関をつけかえる為、ドック入りしていたが、青森市も空襲を受け、船も一部焼けて立往生。何と船主が船長でおまけに奥さんも一緒で、とても寒い青森では、大変だから早く船を売って帰り度いと言う事でした。船の事は何も判らず一緒に行ってくれた人が、船底に銅版が張ってあり虫がつかず好い船だと言う事で、早速買う事にしました。東京本社に行き当時百円札で代金拾五万円を受けとり、腹にまき再び青森に行き買取ったのは昭和二十一年一月元旦でした。早速造船所に修理と機関の取りかえを契約し、八戸に帰り宮市の主人とも相談し、鰊の積取りをする事にしました。船長、機関長はじめ乗組員六名も雇い入れ船にのせました。所が青森の造船所が中々手をつけてくれません。
丁度、その頃から戦争も終り青森地元の人たちも船を使う気運になり、つぎつぎに好条件で修理を発注し始めたのです。青森に八戸から日参し督促したのですが埓があきません。乗組員の食糧の事もあり、秋田へ米を買いにやったり苦労しました。とうとう鰊の積取りが間に合わなくなり、意を決して造船所に船をおろす事を申入れ、八戸に廻航する事にしました。私も始めての経験でしたが、一緒に船に乗り昼頃青森を出港しました。船の事にまだふれていませんでしたが、船名は住若九百トンの木造機帆船、機関は九十九馬力、いわゆるトン馬力という船で、おまけに瀬戸内海航行の船底の平らな船でした。機関つけ替えの為、大湊から一二〇馬力の機関を貰い受け一緒に積んで居りました。知らないと言う事は恐ろしいものですが、当時は知らない為にこわさ知らずに一緒に船に乗り、八戸廻航を決行したのです。しばらく航行して津軽海峡に出る前に、突然機関が止まりました。どうしたのだろうと思っている内、又機関がかかりました。大間のさきあたりに来た時に、船長が気圧計の針が立って乗たので時化になり、岬をかわせないから停船しようという事になりいかりを下ろしました,既に日が暮れ漁村のあかりが見えていました。
しばらくして船長室からあかりを見ると随分小さく見えました。船長を起し、その旨話すといかりが砂浜できかず流されている。いかりを上げ機関をかけぬと大変だという事で、全員あらしの中で手まきでいかりを上げました。船酔いをしていた私も、必死であらしの中いかり上げを手伝いました。不思議なもので、船酔いも吹き飛びシャンとしました。もう一度機関をかけ浜近く迄船を寄せ、様子を見ました。夜明けにかけ針も下って来たので、もう大丈夫だと岬をかわし津軽海峡から太平洋に出て、岸づたいに八戸を目指しました。大波で船はきしむし、しばらくすると又機関が止まり岸に打寄せられます。あわや坐礁する直前、又機関がかかり沖に向けてはしり、その事の繰返しで夜に入り、一昼夜半でようやく鮫に帰港しました。宮市の主人にも青森を出たまま音沙汰なく、浜は岩がごろごろ転がる大しけの中、どうしたのだろうと随分心配をかけました。機関が止まった理由は八戸でドックに入れ、調べた結果機関の手入れをせず、錆ついて循環水が充分に通らずピストンの熱で動かなくなった為でした。知識の無いと言う事はこわいもので、あやうく命をおとす所でした。
昭和二十一年春の鰊積取りは、この様な訳で出来ませんでしたが、それから八戸の造船所で船体の整備をし、もう一台の一二〇馬力の機関の買手があり、八万円で売却し鰊積取りの資金も出来、翌昭和二十二年春いよいよ北海道余市へ向け出港しました。運よく鰊を満船し帰港すると言う連絡があり、もう帰る筈だと待っていても、中々帰らず同じ鰊の積取りをして、帰港した他の船に聞いた所、函館に居たという事でした。何しろ船足の遅い船なので、地元の船の様には走れず遅れながらも鮫港に帰港しました。丁度住若丸唯一隻の販売で全部売れました。
当時は魚の統制販売の時で、魚の鮮度に関係なく鰊の価格は一定でした。地元船は小型船で三〇トンばかりで、スピードも出ますから鮮度がよいのですが、住若丸はスピードが遅く鮮度も悪かったのですが価格は同じで売れました。一〇〇トン積でしたから数量は多く扱え、販売利益は十五万円以上あり、船の買取り価格をカバーしました。船長連はすっかり昧をしめ、もう一度行きたいという。私は船足は遅いし鰊の北上に追いつけないから止めた方がよいと言ったのですが中々聞かず、間に合わない場合は、ホッケでも積取りするという事で、再度出港させました。果して北海道の北端迄行ったが鰊の姿はなくホッケを積んで帰って来ました。所が船足が遅く、おまけにホッケは鮮度が落ち易いため到着した時は、すっかり魚体がとけていました。今なら公害問題で大変でしたが、当時は肥料が少なく農家に連絡、馬車にこえ樽を積んで来て貰い、何とか全量買いとって貰いました。此航海では多少損失を出しましたが、前の利益があり機関の売却益もあり、経営には大きな影響がありませんでした。其後、東京本社で今迄社長には北支那開発時代の先輩をお願いして来たのですが、北支那開発に関係のあった天津で事業をしていた、会社の社長を本社の社長にしたという事でした。おまけに引揚げて来た同僚を収容してきたのを全部解雇したと言う事を聞き、大龍産業設立の目的に反するという事で、その社長をやめさすか、それが出来なければ私はやめると言う事になりました。
一時京都に帰っていましたが、その後、住若丸を秋田に塩辛樽の運搬にやった帰港途中に、時化の為坐礁し函館よりサルベージ船を救援に頼んだ処、住若丸の乗組員は全員たすかったものの、サルベージ船の乗組員が死亡したという事を聞きました。もともと住若丸は、日本海の荒海を時化早い時に乗り切れる船ではなかったのですが、無茶な事をしたものだと悔まれました。私の頼んだ住若丸の乗組員が助かったのはせめてもの幸いでしたが、サルベージ船の乗組員には気の毒な事をしたと、今でも思い出すたびに心がいたみます。
大龍産業の其後は事業がうまく行かず、後任の社長が責任をとり自殺したと言う事を聞きました。大龍産業も運命を共にし終焉を迎えたと聞きました。
シルバー人材センターは毎年八戸市から補助を得ている。若者の受け入れ先がないから、補助はまったくない。若者をないがしろにすると未来はないぞ。
それでも若者、嘆く前に先人の足跡から、自立の道を考えよう。人にこき使われるだけが人生じゃない。
八戸には、無一物から人生の大道を堂々を歩んだ人が何人もおられる。今回は武輪水産の創始者を紹介。この人が上梓された「零からの出発」を読み、人生はやる気と根気を読み取ろう。そして、ヨタヨタでも人生の航海を開始しよう。北朝鮮から木造小船で青森まで逃げてきた家族のように、意のあるところには必ず道があるんだ。
一、生い立ち
私は大正三年十二月三十一日、父安太郎、母マサの長男として京都市下京区西七条に生まれました。父は大正五年一月十九日に死去しましたので、私が生まれてから僅か満一年でした,母は三人の姉と私をかかえ苦労した事と思います。
私が物心のついた頃には長姉は住み込みの勤めをし、次姉は叔父の養女となり、末の姉と私を母が育てて居りました。
京都市立七条尋常小学校を卒業、京都府立京都第二中学校に進学、小学、中学を通じ無欠席で通しました。此の間風邪を引いた事もあったでしょうが頑張らなくてはという気持がそうさせたと思います。
後日大学卒業後就職の際健康診断の時、肺に異常ありとの事で京都府立医大でレントゲン撮影の結果、確かに二、三ケ所痕跡があるが、既に完治しているから大丈夫と太鼓判をおされました。その旨を会社に報告無事入社出来ましたが矢張り二、三回発熱をおして頑張った結果だと思います。旧制中学卒業の頃、母が多年無理をして働いたいた結果、リウマチスで立てなくなりました。止むを得ず進学をあきらめ、京都府立京都第二中学校の校長を三十年勤められた中山再次郎先生にお願いし、当時中学生を寄宿させ指導されていた浴風塾に働めさせて頂き、いわゆる内弟子として御指導頂く事になりました。
然し、進学の念をあきらめきれず更に、お願いして、昼は浴風塾に勤めながら夜、立命館大学専門学部に通う事となりました。その後台風が京都市を直撃し、浴風塾の木造二階建二棟が倒壊しました。止むを得ず、校長、教員の舎宅の空室を使わせて頂き塾生たちの勉学指導をし、それにより得た報酬で家計をささえながら夜学に通いました。
中山先生も校長勤続三十年で退職され、卒業生の父兄で先生に心酔されていた、伏見の月桂冠の社長の寄進で東福寺の近くに建てられた住宅におすまいでしたが、その一部を塾とし中学生を指導されていました。少年の指導が何物にもかえがたく思われたのでしょう。終生続けられました。私も其頃は自宅、又は近所に部屋を借り中学生の勉学の指導をし、先生の御宅にも御邪魔して何かと御用達しをし、夜は専門学部から大学に進学し、相当忙しい日々を送りました。末の姉も結婚し一家をかまえ、私もその隣りの家を借りて母と住み、姉が立てない母の世話をしてくれましたので、心おきなく頑張れました。
二、北京での思い出
立命館大学経済学部経済学科卒業も間近になった頃、日本軍が満州より北支那に進出、華北臨時政府を擁立、行政顧問として内務官僚であった湯沢三千男氏を送り込みました。
一方経済面の開発を担当する北支那開発株式会社を設立、鉄道、電気等の建設、石炭、鉄鉱、綿花、塩等資源の開発を大々的に進めました。初代の総裁として、拓務大臣も勤められた大谷尊由氏が就任されました。この頃大谷氏が中山先生の教え子でもあった関係から、又、北支那開発株式会社の当時、北京支社総務課長兼経理課長でもあった中島要造氏も、中山先生の教え子であった関係上、私も採用される事に内定しました。
先ず母に相談した所、病気で立てない状態でありながら気丈にも賛成してくれました。世話をして貰っている姉夫婦にも相談した所、心配せずに就職する様にと賛成してくれました。そこで意を決し、昭和十四年四月北支那開発株式会社(半官半民の国策会社)に入社、東京本社に二ケ月勤務後、当時大学卒第一期生として三十名勇躍北京支社勤務として赴任しました。赴任早々文書課勤務となり、総裁公邸内の一室をあてがわれ暗号電報翻訳担当となり、大金庫に当時軍が使用していた乱数表を収納、暗号電報の来る度に翻訳しました。記憶に残る事は、三十九度の発熱時に長文の暗号電報が来信、二時間かけて無事翻訳出来、使命を果たした事もありました。一緒に北京に赴任した第一期生三十名が、それぞれ病気欠勤した中で、入社時健康診断でクレームのついた私が欠勤する事なく、勤務出来た事を有難いと思っています。其後、産業課勤務となり内蒙古龍畑鉄鉱や山西省の石炭鉱山等々視察に行き、又年に一度は東京支社(北京支社は一年位で本社となった)に出張、主として子会社に対する資金及び、建設資材の調達と開発計画の打合せでした。途中京都に立寄り母の見舞、中山先生ヘ近況報告をしました。
北京本社勤務中、同好者でコーラス団を組み、本格的に勉強した事もなかった私も下手の横好きで入り、ラジオ放送をした事がありました。それがたまたま軍の幹部の耳に入り、名簿を出せと言われ、出したそうです。これは終戦後知った事ですが、とんでもない事に結びつきました。
昭和十九年に入り戦況がますますきびしくなり、北京現地でも召集があると言う情報が私の耳に入りました。元情報担当をしていたせいでしょう、私は戦前の兵隊検査で第二国民兵役、丙種合格と言う、当時では兵隊になる資格がないと言う決定をされていました。それで私は絶対に召集されないが、同期生たちに現地召集がありそうだから心構えをした方がよいと伝えました。私の予想通り間もなく現地召集がありましたが、何と、私に第一回目の召集が来ました。それは終戦後しばらくしてわかったのですが、コーラス放送が原因だったのです。止むなく入隊しましたが、幹部候補生になれというのです。私は丙種合格だから大学で教練を受けていないと言うと中学では受けただろうとの事で、勿論検査前だから教練は受けていると答えると、それで沢山だという事で、幹部候補生教育を受ける事になりました。その内益々日本国内も満州もきびしくなり、教育訓練中の者を半分は国内に、半分は満州に移駐させる事になりました。幸い私は国内組に入り、仙台に移駐、王城子原の演習場で訓練を続行されました。その間に仙台市は空襲を受け焼野原になりました。訓練が終り東北軍管区司令部付防空指揮班に編入され、仙台城地下壕で空襲警報発令の任務につきました。終戦になり武器弾薬を集結アメリカ軍に引渡し、逐次兵隊は除隊し最後に私も除隊しました。
余談ですが兵隊になる資格のなかった私が、いわゆる、ポツダム少尉で、当時陸軍では本科歩兵少尉と言っていた者になるとは信じられませんでした。八戸市に来てから正八位に任ぜられましたから本当だったのです。ちなみに北京現地では同僚、後輩達が続々召集され半分近く戦死したそうです。第一回目に召集され、然も国内に移駐され命拾いした私は結果的に考えると運がよかったと思います。母は私が召集される前に姉夫婦に見とられなくなりました。私は会社より特別休暇を貰い帰京しましたが間にあいませんでした。気丈な母は最後迄取りみださず、私を案じてくれていたと聞かされ心をうたれました。
又若い頃好きだった歌も、召集の原因がコーラスだったと知り、歌う気にならなくなりました。平成十年一月は私の創業五十周年になります。これを契機に気分を入れかえ、北京在勤中に覚えた「好日君再来」でも歌おうかなと思います。
三、八戸に来て
終戦後除隊して、最初に北支那開発株式会社の東京支社に行きました。所がアメリカ兵が剣付鉄砲を構え中に入れてくれません。国策会社なるが故に閉鎖されたのです。近所の人に聞きますと、社員は渋谷の寮に居るとの事で訪ねて行きますと、会社は全部さし押さえられていました。支社勤務の人たちも明日からの生活が大変で、北京本社から引揚げて来る何千人の同僚の事を考える余裕もなかったのです。幸い一期生の仲間や先輩達数人が居り、引揚げ者中、家も焼かれ困っている人達を一人でも受入れる会社を創ろうと言う事になりました。今後は商売で中国と取引する為、社名も中国向きに大龍産業㈱としました。同僚の一人に八戸で海産商を手広くやっていた店と関係のある者が居り、八戸に営業所を設ける事になり、たまたま私が独身者で身軽な事から八戸に来る事になりました。
終戦の昭和二十年秋満三十才の時でした。早速、鮫の宮市に事務所を借り、中国との取引に船が必要だと言う事から、船を買う事になりました。たまたま青森市に売りたい船があるとの情報、船の事に詳しいと言う人と一緒に見に行きました。この船は瀬戸内海で航行していたのを軍に徴用され、北千島に食糧等を運搬する事になったそうですが、船足がおそく青森の造船所で機関をつけかえる為、ドック入りしていたが、青森市も空襲を受け、船も一部焼けて立往生。何と船主が船長でおまけに奥さんも一緒で、とても寒い青森では、大変だから早く船を売って帰り度いと言う事でした。船の事は何も判らず一緒に行ってくれた人が、船底に銅版が張ってあり虫がつかず好い船だと言う事で、早速買う事にしました。東京本社に行き当時百円札で代金拾五万円を受けとり、腹にまき再び青森に行き買取ったのは昭和二十一年一月元旦でした。早速造船所に修理と機関の取りかえを契約し、八戸に帰り宮市の主人とも相談し、鰊の積取りをする事にしました。船長、機関長はじめ乗組員六名も雇い入れ船にのせました。所が青森の造船所が中々手をつけてくれません。
丁度、その頃から戦争も終り青森地元の人たちも船を使う気運になり、つぎつぎに好条件で修理を発注し始めたのです。青森に八戸から日参し督促したのですが埓があきません。乗組員の食糧の事もあり、秋田へ米を買いにやったり苦労しました。とうとう鰊の積取りが間に合わなくなり、意を決して造船所に船をおろす事を申入れ、八戸に廻航する事にしました。私も始めての経験でしたが、一緒に船に乗り昼頃青森を出港しました。船の事にまだふれていませんでしたが、船名は住若九百トンの木造機帆船、機関は九十九馬力、いわゆるトン馬力という船で、おまけに瀬戸内海航行の船底の平らな船でした。機関つけ替えの為、大湊から一二〇馬力の機関を貰い受け一緒に積んで居りました。知らないと言う事は恐ろしいものですが、当時は知らない為にこわさ知らずに一緒に船に乗り、八戸廻航を決行したのです。しばらく航行して津軽海峡に出る前に、突然機関が止まりました。どうしたのだろうと思っている内、又機関がかかりました。大間のさきあたりに来た時に、船長が気圧計の針が立って乗たので時化になり、岬をかわせないから停船しようという事になりいかりを下ろしました,既に日が暮れ漁村のあかりが見えていました。
しばらくして船長室からあかりを見ると随分小さく見えました。船長を起し、その旨話すといかりが砂浜できかず流されている。いかりを上げ機関をかけぬと大変だという事で、全員あらしの中で手まきでいかりを上げました。船酔いをしていた私も、必死であらしの中いかり上げを手伝いました。不思議なもので、船酔いも吹き飛びシャンとしました。もう一度機関をかけ浜近く迄船を寄せ、様子を見ました。夜明けにかけ針も下って来たので、もう大丈夫だと岬をかわし津軽海峡から太平洋に出て、岸づたいに八戸を目指しました。大波で船はきしむし、しばらくすると又機関が止まり岸に打寄せられます。あわや坐礁する直前、又機関がかかり沖に向けてはしり、その事の繰返しで夜に入り、一昼夜半でようやく鮫に帰港しました。宮市の主人にも青森を出たまま音沙汰なく、浜は岩がごろごろ転がる大しけの中、どうしたのだろうと随分心配をかけました。機関が止まった理由は八戸でドックに入れ、調べた結果機関の手入れをせず、錆ついて循環水が充分に通らずピストンの熱で動かなくなった為でした。知識の無いと言う事はこわいもので、あやうく命をおとす所でした。
昭和二十一年春の鰊積取りは、この様な訳で出来ませんでしたが、それから八戸の造船所で船体の整備をし、もう一台の一二〇馬力の機関の買手があり、八万円で売却し鰊積取りの資金も出来、翌昭和二十二年春いよいよ北海道余市へ向け出港しました。運よく鰊を満船し帰港すると言う連絡があり、もう帰る筈だと待っていても、中々帰らず同じ鰊の積取りをして、帰港した他の船に聞いた所、函館に居たという事でした。何しろ船足の遅い船なので、地元の船の様には走れず遅れながらも鮫港に帰港しました。丁度住若丸唯一隻の販売で全部売れました。
当時は魚の統制販売の時で、魚の鮮度に関係なく鰊の価格は一定でした。地元船は小型船で三〇トンばかりで、スピードも出ますから鮮度がよいのですが、住若丸はスピードが遅く鮮度も悪かったのですが価格は同じで売れました。一〇〇トン積でしたから数量は多く扱え、販売利益は十五万円以上あり、船の買取り価格をカバーしました。船長連はすっかり昧をしめ、もう一度行きたいという。私は船足は遅いし鰊の北上に追いつけないから止めた方がよいと言ったのですが中々聞かず、間に合わない場合は、ホッケでも積取りするという事で、再度出港させました。果して北海道の北端迄行ったが鰊の姿はなくホッケを積んで帰って来ました。所が船足が遅く、おまけにホッケは鮮度が落ち易いため到着した時は、すっかり魚体がとけていました。今なら公害問題で大変でしたが、当時は肥料が少なく農家に連絡、馬車にこえ樽を積んで来て貰い、何とか全量買いとって貰いました。此航海では多少損失を出しましたが、前の利益があり機関の売却益もあり、経営には大きな影響がありませんでした。其後、東京本社で今迄社長には北支那開発時代の先輩をお願いして来たのですが、北支那開発に関係のあった天津で事業をしていた、会社の社長を本社の社長にしたという事でした。おまけに引揚げて来た同僚を収容してきたのを全部解雇したと言う事を聞き、大龍産業設立の目的に反するという事で、その社長をやめさすか、それが出来なければ私はやめると言う事になりました。
一時京都に帰っていましたが、その後、住若丸を秋田に塩辛樽の運搬にやった帰港途中に、時化の為坐礁し函館よりサルベージ船を救援に頼んだ処、住若丸の乗組員は全員たすかったものの、サルベージ船の乗組員が死亡したという事を聞きました。もともと住若丸は、日本海の荒海を時化早い時に乗り切れる船ではなかったのですが、無茶な事をしたものだと悔まれました。私の頼んだ住若丸の乗組員が助かったのはせめてもの幸いでしたが、サルベージ船の乗組員には気の毒な事をしたと、今でも思い出すたびに心がいたみます。
大龍産業の其後は事業がうまく行かず、後任の社長が責任をとり自殺したと言う事を聞きました。大龍産業も運命を共にし終焉を迎えたと聞きました。
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