ラベル 八戸の話 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 八戸の話 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年4月17日金曜日

奥南新報

阪本安太郎氏と鍛業
八戸二十八日町鍛工なる同氏は久しく斯業界に雄視つつあるは世の知る所なるが今を去る十八、九年前地方に於ける製軸業の勃興せる時に当たり右に用いる刻み機械の破損することあるも修繕に応ずる鍛工なきより往々事業の進捗を妨げる概し自ら神戸に至りて完全なる「ダライ」盤を購求すると共になお其業を暦修別に自宅裏手に該工場を設けしより歯車その他要部の修繕等に至る迄差し支えなく注文に応じ得られる事となりしかば他に便益を与えること多大にして地方の機器修繕並び新製は挙げて同氏の一手に帰するの盛運を開きたり日々使用せる熟練の職工を合して十数名に達するの外渡り職人の来たりて使役を乞う者少なからざるも役に立つ者は十中一人位にして幾んと信用し難たし中には田舎鍛冶屋と軽蔑して法螺を吹きたて「ダライ」盤の使用方法も知らずして巧者ぶり、論より証拠実地に掛けて試験するに大へまをやらかし道具を破損して逃げ出す者などありて容易に口車に乗られざるが多しとぞ、古名工が鎚の音を聞きて精妙を悟りしと同じく氏も鎚打ちや「ダライ」盤運転の響きによりて直にその職工の技量と機械の具合を識別することが容易に出来得るというに徴するもまた斯業に熱心にして深き興味を有するを知るべし氏の如きもと平鍛冶より叩き上げて今日の盛運を開くに至るまた尋常の腕前ならずと言うべし
○軽米岩岡商店の近況 同店は開店以来頗る繁盛しつつおるが来る旧二十七日より正月七日まで十日間景品付大売出しをなす由
和洋小間物陶器漆器硝子器雑貨
文房具運動器撃剣道具一手販売
ランギペン一手特約販売
陸奥国八戸三日町
関野重三郎
荷札弊店製造紙製ツエ
キハ価低廉ニシテ頗ル便利也
見本ハ御申込次第進呈
八戸二十三日
伊藤荷札店
八戸三日町
片岸元吉
石油硝子器類
洋釘類
諸紙類
畳表類
その他種々

弊店販売の時計及び付属品双眼鏡望遠鏡眼鏡その他諸機械類は構造精巧堅牢なり
弊店は誠実を旨とし廉価にて販売す
弊店は御需に応じ入念精密に修繕す
白銅皮中形二円半、本銀片硝子アンタル六円四十銭、同両蓋八円、七日巻き十円、本メリケン小型中型十七、八円、その他新型時計種々ボンボン時計小型二円八十銭、三円、三円半、四円その他種々
八戸番町停車場通り
前原時計店
各湯屋備え付けの時計は時間正確に致し置き候

八戸町大字堀端三番地
横沢新太郎
改良亀の井
銘酒千とせ
官塩元売捌所

本紙一枚一銭五厘
一ヶ月定価十銭
郵税一枚当たり五厘
毎月十回発行
広告料 五号活字十七字一行一回金五銭五回以上金四銭、特別広告料は通常料金の三割増し、いずれも前金
発行人 近藤喜衛
編集人 関向堅吾
印刷人 石原義衛
陸奥国三戸郡八戸町大字堀端三番地
発行所 奥南新報社

○屋根転落して頓死
三戸郡地引村大字苫米地五十七番地平民大工職夏堀源松は去る一日午後二時頃自宅細工場に於いて工事に従事中雪のため屋根転落し頭部を強く打たれ鼻耳口より出血甚だしく直に医師の診察を受けたるも遂に午後四時頃死亡したりと
○八戸精米所の開設
八日町吉田三郎兵衛氏は今回自家所有の下番町敷地に精米場を開設し昨今しきりに運転しつつあり

○何ぞ暴慢なる
大日本捕鯨会社が極力怪運動を試みたる屠鯨所設置の出願は、公共に害ある故を以って不許可に帰したるに関わらず、走狗的奸輩はあくまで○欲を逞しうせんとし、更に恵比須浜の私有地を選定し、屠鯨所を設置するに意ありと伝う、真否未だにわかに断じ難しといえども万一拠ある風説なりとせんか、何ぞそれ暴慢にして、公利公益を無視するの甚だしきや
彼奸輩等の主張する所によれば、地方庁が不許可を与えたるは、官有地に係れるに由るも、別に私有地を選定し設置する以上、何等容啄の権能なしと、是れ所謂鈴を盗んで耳を覆うの類に外ならず、縦令私有地たりといえども、苟くも公利公益に妨害ありと認める以上、地方庁は行政の職権を以って、十分これを制裁するの機能あること無論なり、いわんや衛生上公共上公安上に妨害ありと認めるに於いておや、いわんや地方庁が与えたる不許可の理由は、彼奸輩等の解釈するがごとき狭義的の理由にあらずして、きわめて広義的な範囲を有するに於いておや
地方庁己に認めて公共に害ありと為し、又地方一般一致して之を否認す、彼奸輩等如何に三百的口吻を弄し、かつ如何に一部の臭類誘惑するも、其の目的を実現せんこと断じて不可能なるべし、もしあくまで公益を軽視し、暴慢を逞しくする如きあらば、関係漁民の公憤は斉しく発して再び紛擾を激成せんこと必然なり、一片地方公益を尊重するの意ありとせば、須らく猛省自抑する所なかるべからず
○文明の利器は国家経済の基
手間少なき人自炊者等に最も適すマッチ一本にて点火すれば直に強熱を発す無煙無臭一点の臭なく飯湯魚肉を煮炙る等即座に弁じ誠に文明の利器賞賛の外なし
一枡の水沸騰十分間     石油一厘代
一枡の飯炊き上げ二十分間  石油二厘代
定価 二円半より六円位
官許度量衡器販売所
米田金物商会
八戸町三日町
会主 米田宇兵衛
営業部主任 米田善三郎

本社は各高級技師諸士の名誉社員を有す
本社は缶詰製造上設計及び見積もり等惣てのご依頼に応ず
本社は缶詰製造上に付十数年来の経験を有す
八戸実業缶詰工社
社長米田宇兵衛
副社長高橋吉助
理事八田宇吉
  志賀十二
  吉田紋次郎
  米田善三郎
  米内山健助
八戸町大字窪町四番地
珍菓特約販売広告
月ヶ瀬乃梅
臥龍梅
園の薫
都の誉
右四菓子は衛生上有益の原料品のみを混合し調整方丹精工夫をこらしたるものなれば永く貯蔵にたえかつ体裁優美にしてご進物として最適当也依て地方販売方を三井商店に一手特約仕候間沢山御用命仰せ付け被下度奉希上候敬白
東京市京橋区入船町二丁目
菓子製造販売商 古市本舗
陸奥八戸新荒町
地方一手特約販売商 三井惣助
八戸三日町 菓子商 松橋貞吉
  十八日町 菓子商 藤源福蔵
  湊新町  勉強堂 中島新太郎
  湊浦町  花月堂 山内初太郎
  白銀       大橋留吉
○新流行新柄
教員学生服
八戸二十三日町 浅沼裁縫店
○表具師 八戸十六日町 中島嘉吉
○クリーム石鹸 代理店
八戸二十三日町 工藤伝三郎
○種油製造業
煉油類
肥料製造販売
陸奥八戸三日町
橋本和吉
○八戸町会議員名寄帳
小山田定弥氏
氏少壮東都に遊学して法律を修めたり、すでにこの素養あり、思慮綿密にして挙措苟しくもせざる○る処ありというべし、家代々富裕なれども驕らず高ぶらずさりとて理義を重んじ人情に厚く公益慈善の為には常に相応の出金を惜しみたることなし、他にあっては己を奉ずること奢侈にして他を待つに卑吝を極むの者滔々皆是なる間に立って、己を持する頗る厳に反って他に対して寛容なるは何人といえども感服せざる能はざるところなり、氏は金持ちにも似合わずハイカラ式を好まねば未だかつて自転車に乗らずといえども義理と褌を欠きたる例なく、世の中には役人とさえ聞けばどんな小役人へでも手摺骨拝しながら立派な独立の人間、威張りたがる者あれど、氏は全く違って、ヘッポコ官吏などへペコペコお辞儀せぬ替りにどんな人でも粗末にせぬ、心の呵責に神経昂ぶり夜もロクロク眠れぬ者ありというに、心広く体ゆたかにゆっくり安眠できる故モルヒネを呑む必要なく心身共に愈々壮健なるは重畳の至というべし、
天は満るを欠く厳父久しく病床に呻吟せらる、氏もとより至孝かかりしより此の方出て遠く遊ばず常に傍らに待して家事を見るの外他を顧りみず、昨年県会議員の改選に際し衆望に背いて強いて候補たるを辞したるもこれが為めなりと聞こえにき、氏既に父母に其の孝其の骨肉に対する友情慈愛知るべきのみ、試みに氏の家庭を訪れば、春は即ち梅花香り、秋は即ち菊花薫る、満堂の和気人をして欣美に堪えさらしむ
氏の性格おおよそ上述のごとくなるが上に氏は実業に熱心にしてなかんづく牛馬改良のために貢献せるもの年あり其の功績の漸く顕著なるは世人の熟知せる処なるを信ず、今や我が町会は刷新剤の中毒に依って身体不自由となりたれば町政などはこの末如何になり行くも知るべからず、頼むは神様仏様よりも先ず以って氏の如き資望あり手腕あり抱負あり誠意ある所の諸氏のみ、町民の禍福一に諸氏肩上係れり、別して氏は春秋に富む、庶幾くは我が八戸町為に否国家の為に原頭の老杉、巌角の古松厭はるる勿れ、至嘱々々

2009年1月3日土曜日

昭和34年の八戸

おみやげどっさり
南郷・捕鯨出稼ぎ、続々帰る

第十三次南氷洋捕鯨オリンピックに参加したわが国の捕鯨船団はこのほど好成績をあげて帰ってきたが、三八地方から参加した出稼ぎ者は「出 稼ぎ村」として有名な南郷村の百六十名を筆頭に約三百人。いずれも大洋漁業の日新丸、第二日新丸、錦城丸船団の母船や冷凍船、仲積船の作業員として活躍。帰港のトップは錦城丸船団で今月はじめ帰ってきて以来、さる十二日には主力船団の日新丸と第二日新丸船団が横須賀に帰港。今回のオリンピックでは日新丸の優勝、第二日新丸の五位をはじめとし好成績。出稼ぎ者たちの報酬も多くおみやげをどっさり持ち帰り家族を喜ばせた。
郷土民芸制作者の顕彰で八戸から二人が受賞
全国郷土玩具友の会第一回玩具大会は四日山梨県甲府市で開かれ、この日玩具つくり一筋に生きてきた全国の民芸制作者五十人が顕彰されたが、八戸市関係では八幡馬つくりの大久保岩太郎さん(五七)市内笹子、八幡のまといつくり田頭松蔵さん(七九)市内二十六日町の二人が受賞し、賞状と山梨の代表的民芸品である印伝(いんでん)の財布が記念品として贈られた。
大久保岩太郎さん一家は親子三代に渡る八幡馬つくりとしてあまりにも有名で、その素朴な作風は東北の馬のひなびた風格を端的に表現していると定評があり今回の受賞となったもの。また八幡まつりの「まとい」つくりをしている田頭さんはこの道に四十年生きてきた人だけに八十になろうとしているいま、なおまといつくりが夢で、老いをしらない確かな手先で巧みにまといをつくり、八幡まつりには出品販売し、この郷土玩具が八幡まつりの一つの名物にさえなっている。
八戸市にもスーパーマーケット(昭和三四)
県下では二番目、村井酒造湊支店で
五日から新装開店
八戸市でこのほど初めてセルフサービスの商店が現れた。いわゆるスーパーマーケットと呼ばれ、お客がみずから自由に商品を選び出口のレジスターで会計をするという方法だ。最近の商店の経営方式として世界的に人気を集めているものだが、県下では弘前市(去年暮れに出現)に次いで二番目。さる五日から新装開店した陸奥湊駅前の村井酒造湊支店がそれである。
店内は二百五十平米、商品棚はゴンドラ式と呼ばれる並べ方で、従来のカウンター式、ウインドウ式にくらべ数倍も動線(お客が歩く通路)が増えた。商品類も従来の一般調味料、酒類、砂糖、漬け物などに精肉、惣菜類、雑貨などを加えて、鮮魚、野菜類を除いては台所はここだけでまかなえそうな豊富さである。支店長の村井淳平氏(二十六)はセルフサービス転換の直接動機は食料業界 新聞に載った記事と日本ナショナル金銭登録機の講習会にあるという。講習会の帰りに盛岡市に寄ったが、すでに数軒の店が導入、東北地方では初だったが、その見聞を店舗拡張に生かした。
開店以来一週間だが売り上げは以前の倍、値段も市価の5%引き、村井氏は①動線が増えたので場所の有効活用ができる。②売り上げが上昇し資本回転が良くなる。同店の出現で東宝劇場前に新築中の東宝ストア、赤十字病院前の蔦林商店、上組町の佐々木商店などがセルフサービス方式を検討中。
スーパーマーケット出現で心配顔の小売り業者
スーパーが三軒でき人気を呼んでいる。開店早々の客の出足は好調。経営者は図に当たったと喜んでいるが、一方スーパー付近の小売店は今後を心配。スーパーと小売店の食い合いは今後の問題になりそうだ。
二十八日町に開店したTストアは従業員一人あたりの売り上げ平均が約二万五千円、予想した二倍のお客だったという。スーパー出現の物珍しさの客もあったと見ているが、開店サービスが終了した後も従業員一人あたりの一日の売り上げを一万円と見ている。問屋はこれらスーパーに積極協力。付近商店街は目に見えて売り上げは減少していないが今後は脅威になると見ているが対策については何も考えていないと消極的。スーパーがセルフサービスならこっちもサービスだと一部商店はサービス戦術に出ようと競合は激化の模様。

2008年12月30日火曜日

三日町の話5

昭和四十五年十一月六日 デーリー東北新聞
押すな押すなの大盛況
「長崎屋」八戸店オープン
買い物客が七万人
八戸市の商店街にとって「黒船」の第二弾ともいうべきチエーン・ストア「長崎屋」八戸店が六日花花しく開店した。開店と同時に色とりどりの風船が上げられたり、高校のブラスバンドが「開店」のプラカードを持って商店街を行進するなど、おまつりなみのにぎやかさ。この一日だけで、約七万人の買い物客があったと見られ、商店街には同店から出された紙バックを持つ市民がいっぱいだった。
 開店は午前十時だったが、この朝六時ごろから行列が始まった。同市北糠塚の主婦、金浜トミさん(六一)らは近所の人たちと誘い合って最前列に陣取っていた。開店の直前には、同店から約二百米はなれた東北銀行八戸支店を飛び越える行列ができ、約三千人が開店を待つほど。午前十時、何百という風船が放たれ、市内のK高校のブラスバンド演奏の景気づけでオープン。同時に行列が店内に吸いこまれた。
昭和四十五年十一月二十六日 デーリー東北新聞
シリーズ企画10 トップに聞く
その2.・八戸市の企業
実った中央進出の悲願
ねばり強さを身上に
株式会社中央スーパー森山千年春氏
森山千年春氏ちねはると読む。四十三歳。会社員を経て「セルフサービスもりやま」を八戸市町組町に開業したのは昭和二十六年、二十四歳のときであった。それから十九年、時勢を見る目の確かさと、不屈の努力で、いま同市内に五つの店舗を構えるまでに至った。株式会社中央スーパーと社名を変えて法人化したのはさる三十八年だが、こんど長崎屋地階に店をオープンして「ようやく社名通りに中央へ進出、これからが本番です」と意欲をたぎらせている。小柄な体のどこにそんなファイトを隠しもっているのか、烈々たるものがある。それでいて如才がない。
大盛況だった「長崎屋」オープン
―なかなかお盛んで、「長崎屋」オープン当日はたいへんなご盛況と聞きましたが。
森山 おかげさまで、お客様からは好評をいただいております。オープンした初日は私たちの予想をはるかに上回り、店内十台のレジを通したお客様の数は一万人に達しました。ガードマンがお客様の流れを整理したわけですが、さばききれずに何回もエスカレーターを止めるやら、お客さまの
昭和四十六年十月六日デーリー東北
第四の大波かぶる地元商店街
ニチイ明日オープン
売上横ばいのなか 商戦激化…不安顔も
八戸の商店街にとって、「丸光」「緑屋」そして「長崎屋」に続く四番目の大型域外資本ニチイ…いよいよ明日七日「八戸ショッピングプラザ」として開店するが、これを迎える地元資本はまたまた大きな試練に立たされている。これまで大型店進出のたびに商圏を拡大してきた同商店街ではあるが、このところ売上の伸び悩みが目立っているといわれるだけにこのニチイの開店をどううけとめるか注目されている。
きめの細かな経営が勝負に
商店街にとって初めての試練、それは三年前の「丸光」「緑屋」進出だった。それまでは「殿様商法」が堂々とまかり通り、買い物客には不評このうえない商店街だったが、この二つの大型店から受けた刺激は大きかった。中には、かなりの打撃を受けるデパートや商店もあった。しかし、商店街全体から見ると、商圏の拡大…という思わぬ副産物があり、一部を除くと売上はむしろ上昇の一途をたどってきた。
 大型店が進出する前の商圏といえば、八戸市とその周辺町村に限られていた。それが「丸光」「緑屋」によって北は十和田、三沢の両市がスッポリ、南は岩手県の種市、軽米、一戸、福岡、金田一、浄法寺の各町村まで商圏内に入り、今では商圏人口五十五万人に膨れ上がっている。それまでは、たとえば十和田市からわざわざ買い物にやってくる…などということはほとんどなく、逆に八戸市から青森、盛岡にでかけることが珍しくなかった。
 しかし、こうした商圏拡大の中で、閉店に追い込まれた店も少なくない。最も大きかったのは、一昨年秋の丸美屋デパート。理由がさまざまあったとはいえ、大型店に押されて売上が低下したのが最大の原因。そのほかO洋服店、T洋服店、I服地店などが相次いで商店街から姿を消した。「八戸ショッピングプラザ」つまりニチイはこのような状況の中で開店するわけだが、これ以上の商圏拡大は無理といわれる昨今だけに、地元資本にとっては「丸光」「緑屋」以来の試練に立たされるのは確実。とくに昨年来の不況が響いてか、このところの売上が頭打ち状態2なってるといわれ、ここにまた一つ大型店となれば、頭打ちどころか落ち込むところも出てきそうな気配が感じられる。
 事実、ある商店では「これまで中央の大型店が開店するたびに、新しい客が増え、それだけ売上が伸びてきた。しかし、これからはそうはいかないと思う。キメ細かな経営が必要になってくるのではなかろうか」と不安そう。ともあれ、それぞれが特徴を出した経営方法をとることになろうが、これまで以上の激しい商戦が展開されることは間違いなかろう。
昭和四十六年十月八日 デーリー東北新聞
 商店街のワクを広げる
八戸ショッピングプラザめでたくオープン
午前中で二万の人出
青森ニチイ(武田貞助社長)が運営するニチイチェーン八戸ショッピングプラザが七日、華々しくオープンした。この日、開店前から長い行列が出来、午後にわか雨に見舞われたが、初日とあってまずまずの人出。これまで三日町中心のこじんまりした商店街がわくを広げた感じを与える開店だった。
 午前十時の開店に二時間前から行列ができるほどだった。それが開店直前には約二千人の列となり上々の人気。十時丁度、ノロシを合図に橋本和吉松和本店社長夫妻とニチイ・チェーンを代表して西端行雄ニチイ社長夫妻がテープカット。同ビル着工から数えて十ヵ月商店街注目の中でめでたくオープンした。
 午前中天気に恵まれたため、周辺町村からの買い物客も含めて約二万人の入店者を数えた。この勢いに乗って、同店では閉店までに八万人ほどの入店者を見込んでいたが、午後のにわか雨で客の出足はにぶりがち。しかし、夕方には勤め帰りのサラリーマンやOLなどが「下見」をきめ込んで入店、盛り返した感じだった。
 さて、どの程度の売上となったか…青森ニチイの備谷寛二八戸支店長は「ニチイ・チェーンの他店に比べると、スタートの人出はそう多くなかった。ウイークデーと一部農繁期にかかったためらしい。しかし、客の切れ目がなく、レジの休むヒマがなかった」と話しており、初日としては人出、売上ともまずまずのようす。
 ところで「八戸ショッピングプラザ」のオープンは同市商店街に少なからぬ影響を与えそうだが、この日だけを見ても商店街のわくが一歩広がった感じ。これについて中央のあるコンサルタントは「安いばかりが能ではない、地元の商店も、もう一度消費者の立場、つまり原点に立って経営を考えれば、とくに恐れることはない」と話していた。
昭和五十五年四月二十日 デーリー東北新聞
どっと四万人の買い物客
八戸スカイビルが開店
早朝からお祭り騒ぎ
イトーヨーカドー八戸店(広江克己店長を核テナントとした青森県内で最初の市街地再開発ビル・八戸スカイビル(八戸市十三日町)が十九日午前九時三十分開店、四万人の買い物客が押しかけてにぎわった。日本のビッグチェーン・イトーヨーカドーの開店は八戸市の商業界に新たな活気を呼ぶとともに早くも「価格戦争」を引き起こしている。
激化する「価格戦争」
 午前七時には早くも一番乗りをねらう買い物客が順番待ちをし、開店の「お祭り騒ぎ」は早朝から始まった。同八時三十分ごろから急に人の数が増えはじめ、開店直前には四列に並んでちょうど八戸スカイビルを一周する約二千人の人がきが出来上がり、店員やガードマンは人がきの整理と交通渋滞の解消に汗だくだった。
 午前九時半を期して正面玄関前で広江克己イトーヨーカドー八戸店長、小瀬川吉三八戸第一市街地再開発組合理事長、越後谷仲三八戸市都市開発部長、消費者代表の大串道子さんなど十四人がテープカット、ヨークデキシーバンドのファンファーレが高らかに演奏され、打ち上げ花火と風船が乱舞する中を「一番客」がどっと店内にくりこんだ。
 イトーヨーカドーの商品量、センス、飾りつけ、店内設備などはさすがはビッグチェーンと思わせるものがあり、買い物客をうならせていた。また、開店記念セールということもあって価格もかなり安く、開店後も人の流れはヨーカドー目指して切れ目なく続き、初日の買い物客は約四万人、売上額は目標の八千万円を突破した。
 店内にはヨーカドーの商品や陳列、価格を見ようとする他店の担当者も大勢つめかけていた。
 イトーヨーカドー八戸店は同社九十四番目の店舗。同社は関連企業を含めた五十五年度の総売上額目標を一兆円においている。八戸店もその戦略の一翼を担い、初年度売上目標を衣料二十一億円、住居関連十四億円、食品十九億円としている。しかし、弘前店の昨年度売上が百億円を超えていることから、八戸店もそれに近い数字となるとみている関係者が多く、既存店にとってはヨーカドーは大変な脅威だ。
 既存の大型店やスーパーは一斉に大売出しを企画してヨーカドーに対抗していたが、同日の客の減少は歴然としていた。ただ、地元百貨店の三春屋は呉服の六割引きをはじめ家庭電気器具、衣料、食品をかなり値引きして正面からヨーカドーに対抗、いつも以上の客を集めていたのが目立った。
 イトーヨーカドーの開店によって八戸市の商業界は大きく変ろうとしている。その陰では早くも「価格戦争」がエスカレートする気配を見せ、このままだと倒産企業も出るのではないかと心配されている。
 なお、八戸市への域外大型店の進出は四十三年の「丸光」「緑屋」、四十五年の「長崎屋」、四十六年の「ニチイ」に次いで五店目。

2008年11月18日火曜日

三日町の話4

東奥日報昭和四十五年一月三日号
「丸光」「緑屋」という黒船の到来で目をさまし、奮起が大いに期待されている八戸市商店街だが、ことしもどうやら試練の年になりそうだ。「丸光」「緑屋」の力は、昨年「丸美屋」の閉店で充分思い知らされている。ところが、今年の秋には「長崎屋」が一枚加わることになっているのだから商店街にとってこれ以上の大脅威はない。一方これを迎え撃つ地元側はどうかというと、「長崎屋」よりおよそ一ヶ月遅れて「みまんショッピングセンター」「八戸中央ビル」「七尾ビル」などが続々顔を揃えて対抗することになっているが、全般的に立ち遅れの感は免れない。共同店舗、専門店化など、大型店対策が叫ばれてはいるのだが、なかなか具体化するまでには至っていないのが現状だ。
 大型店進出の影響がはっきり現れ始めている昨今だけに、同市の商店街はことしも波乱に明け暮れそうな情勢になっている。
 ことし新しく生まれ変わるところを拾ってみよう。最も早いとみられるのが、十月オープンの「長崎屋」(八日町)地下一階地上八階、床面積一万三千二百平方メートルというのだから一部娯楽部門の営業が予定されているとはいっても相当な売り場面積だ。しかも全部が衣料で全国に五十以上の店舗を構えるチェーンストアだけに独特の販売シシステムがとられるといわれ、地元の衣料関係小売り業者にとって大きな脅威となりそうだ。
 続いてお目見えするのは「みまんショッピングセンター」(三日町)だろう。十一月下旬ということだが、建物の規模は「長崎屋」「丸光」をもしのぐ地下一階、地上八階の大きなもの。この中にはデパート一つのほかスーパー一、専門店二十―四十などが入店するといわれ、完成すると、このショッピングセンター内だけですべて必要なものが整えられるという完ぺきさを持つ見込み。
 また早くからウワサにのぼっていた三日町防災街区の第四号ビル「八戸中央ビル」も、いよいよ今月中に着工、オープンは十一月。地下一階、地上六階、五千五百平方メートルの共同ビルとなるが、これもショッピングだけではなく、レジャー的な機能まで持つことになりそうだ。長横町では七尾家具百貨店が建設を予定している「七尾ビル」がある。ほとんど同店が使用することになりそうだが、家具専門店であるだけに、その規模はかなりのもの。
 このほか、六日町には「松和ビル」の建設構想があり、今年は「丸光」「緑屋」が進出した一昨年を上回るにぎやかなビル・ラッシュになりそうな気配となっている。
 ここでもう一つ見落とせないものは十三日町の「丸美屋」跡がどうなるかということである。三日町中心の傾向が強まってきているものの「丸美屋」跡は一等地であることにかわりはない。その意味では現在の状態で放置しておくこと自体大きな損失であり、新年早々から「丸美屋」をめぐる動きが活発になることが十分予想されるところ。そして、いたんでいるとはいえ「丸美屋」の建物がなんらかの形で新しく生れ変わるのも案外早いのではなかろうか。
 こうしてみてくると、秋から来年にかけて同市の商店街では、これまでなかった激しい形の攻防戦がくりひろげられることになりそうだ。「丸光」「緑屋」の進出で「丸美屋」が手をあげたのは、わずか一年あとのこと。関係者のみならず大型店の力を目のあたりにみせられた格好だった。ところがこれに「長崎屋」「みまんショッピングセンター」などが続くとなれば、商店街はいったいどうなるのか。従来からの地元業者にとっては試練以上のものになることは確か。これからの荒波をどう乗り切るか、各小売業者にとって今後大きな課題となることだろう。
 しかし、大型化の動きをよそに全般的に見た場合地元側の立ち遅れはどうしようもない。先にあげた一部の小売業者はすばやく転換、あるいは店舗の近代化などで県外資本との対抗策を編み出したが、大部分の業者はいまだに流れに身をまかせている感じ。このままでは、必然的に苦境に立たされるところが出て、「丸美屋」の二の舞を演ずる懸念さえある。
 ただ店舗の近代化を図るにしても先立つもには資本。ところが個々の業者では当然限界がある訳で、仮に経営者の頭の中に考えが芽生えても先には進めない。そこで、出てくるのが「八戸中央ビル」(つきや洋装店と広沢朝平氏の共同ビル)のような店舗の共同化など。大手スーパーの進出に悩まされている地方都市で最近活発になっている大型店対策である。この際関係指導機関が率先して地元の力を結集するように業者に働きかけ、これから永久に続くかもしれないあらしに備える必要があるのではなかろうか。
 こうした中で注目されるのは専門店会(小瀬川吉三理事長)と商業会(石岡佐蔵)の合併問題である。大型店に対抗するための一つに割賦販売があるといわれているが、どちらかといえば、是までは地元同士が競争に身をやつしてきた感が強かった。これでは共倒れの恐れさえ出てきかねず、「敵は本能寺にあり」ということで今回両者の合併話が浮き上がってきた。順調に話し合いが進めば、四月には実現の見通しだという。
昭和四十五年元旦 東奥日報
 大型店めぐり攻防激化 八戸に進撃始める 温室に吹き込んだ風
 地上八階の長崎屋 
青森県の流通業界の本格的な変革は五、六年先=これは五年くらいまえから毎年のように繰返されてきたことばだ。大型企業の影響は、関東の日帰り圏に編入された地区だけ。東北では福島あたりが吸引され始めたが、青森県を中心とした北部三県はまだまだ……業界にはそういう安心感があった。
 大型化、近代化は理論では聞かされ知ってきたが、」きびしさに眼をつぶり、なんとなく時期尚早論を口にしてきた。これが青森県の流通業界の現状ではなかろうか。しかし、温室のような青森県の業界にも、容赦なくスキマ風が吹き込んできた。
 青森県の流通業界の最初の試練は一昨年、八戸市に進出した域外大型店の開店で始まった。この影響は昨年になって、地元企業の閉店という形で現れた。大型店が地元業界に及ぼす影響を、業界はまざまざと見た。五、六年先どころか現実に足元で波乱が起こったわけである。
 地元が最も恐れていた事態、つまり閉店や倒産に追い詰められるきびしい事態に業界は揺らいだ。しかし、これは域外勢力が伸ばしたほんの一部の触手にすぎない。またそれが業界への決定的な打撃になったわけではない。早い話が局地的なアラシだった=と見てよい。
 注目されるのは、昨年後半にクローズアップされた第三勢力のショッピングセンターである。八戸地区に着工した「長崎屋」は全国に五十の店舗を持ち、年商は実に四百億円(四十五年二月決算時の推定)秋田、盛岡とじりじり北上を続けてきたが、本県入りは八戸が初めて。
 地上八階のビルは、八戸市内でも高層建築の部類に入る。巨大なだけなら、地域だけの影響で住む。広域店といっても県南から岩手県北までの地域が影響を受けるだけで済む。しかし「長崎屋」の場合はそれだけでは済まない。それは前にもあげたように、同店がショッピングセンター的な経営形態を考えているからである。
アラシは強くなる ショッピングセンターは、もともと米国から輸入された形態。海外でのショッピングセンターは例外なく郊外型。下町の小売業は自動車の洪水で立ち行かなくなった。このため郊外の原野に、マンモス的な店舗が続々開店した。これが日本にまっすぐ入り、今その本格的な第一波が本県にも及んできたというわけだ。
 現在、国内で最も大型なショッピングセンターは、百二十五の出店者を抱え一万四千平方米の売り場面積を持っている。ところが売り場面積六万六千平方米という巨大なものも計画されている。弘前には大坂資本のショッピングセンターが開店して話題を呼んだがこうした形の店舗が次々に計画され、開店していくものと見られる。
 こうしたはなやかな開店のムードの裏に、問題点が全くないわけではない。それは高層化に伴うビル経営上の問題である。簡単に言えば、各階を満たすだけの入店者があるかどうか=ということだ。この点について先進地八戸の商工会議所では次のように警告する。「地下、あるいは一、二階は建築主が入ることが多く、別に困らない。しかし三階以上となると、なかなか簡単に決まらない。よそ(域外)から連れてくるのもいいが、下手をすると競争相手になる。この悩みは大きい。高層ビルで最も苦労するのは三階以上をどうするかだ」 
 巻き返しはできる ビル建設の資金は、極端にいうとどうにでもなる。建ててしまってからこういう伏兵がいることも十分知って置くべきだ=と同会議所では言う。ビッグストアは、ボウリング場などレジャー施設を抱えて出店する。これは地方進出の戦略としては、最も効果的である。現に、黒石市に開店したデパートのチェーン店もこれを採用した。
「しかし、八戸市には既設のボウリング場が何ヶ所かある。レジヤー施設にも限界というものがある」と同会議所ではいう。防災ビル、あるいは再開発ビル…と近い将来、市部にはショッピングセンターがどしどし建つだろうが、この点を考えに入れて置かなければ百%事業を達成したといえない=というわけである。
 このショッピングセンターは、地元の商業団体、たとえば専門店会や商店組織に、微妙な影響を与えそうだ。ビルが出来れば、食料品店や飲食店が開店するのは最近の風潮だと言われるが、これはその他の業種にもいえる。とにかく、近年にない出店ブームが出現すると予想される。
 いきなり規模の大きい競合時代に巻き込まれて、地元の業者は何を考えているだろうか。これも八戸商工会議所の意見だが、巻き返しは出来る」と断言する。同地区の業界にとって当面のライバルは大型店。はっきり言うと、デパートには、あらゆる商品がある。総合的には消費者の需要は満たせる。この点は太刀打ちできない。しかし専門商品となると、個人商店の努力移管では十分対抗していける余地がある」と同会議所はいうが「地元の三萬が計画したショッピングセンターは生き延びるためにはよい方法だ」と両面作戦の必要も付け加えた。
 ショッピングセンターの展開とデパート、スーパーの新市への出店は、ことしの商業界の二つの目立った傾向になりそうである。このほかに考えられるのは、第二の商店開発である。八戸市の繁華街は道幅が狭いため一方通行になっている。
「こうも車が多くなると、戦災にあわなかった町並みだけに駐車場難がこたえる。こうなれば、新しい商店街の位置を考えなければならない。たとえば類家田んぼとか尻内駅周辺とか、土地の問題に煩わされないところに中心街を移動させることも…」と地元ではいう。
昭和四十五年三月二十日 東奥日報
三春屋が買収交渉
八戸丸美屋デパート大資本進出押さえる?
中央資本の進出と大型店の挟撃をうけて閉鎖のうきめにあった八戸市十三日町、丸美屋デパート(大沼直社長・資本金三千五百万円)の跡地利用については、中央資本あるいは地元業者の手でどのように再建を図るか注目されていたが、結局隣接の総合衣料店三春屋(藤井与惣治社長・資本金五百万円・従業員八十四人)が昨年暮れから買収交渉を進め、いま買収条件などで詰めの段階。
 丸美屋デパートは負債総額約五億円をかかえて精算事務に入っているが、土地は三千三百平米の坪単価七十万円としてざっと七億円に上る巨費だけに、おいそれとは買い手がつかなかった。もっとも中央から十字屋をはじめ大手からの買収交渉があるにはあったようだが、八戸商工会議所など地元商業界から「ここ一、二年の間に「丸光」「緑屋」、それに現在建設中の「長崎屋」が相次いで進出、地元業者を圧迫している折に、これ以上中央資本の進出を許してはますますジリ貧状態に追い込まれる」として、地元業者を優先的にという要望が強かった。
結果的にはこれが受け入れられた形で、今三春屋が単独で買収交渉を進めている。買収条件については明らかではないが、丸美屋の建物(鉄筋コンクリート、地上三階延べ二千二百七十六平米=食堂を除く)は十勝沖地震の影響で使用に耐えないため
① 土地を買収する
② 株を額面より高く買収して、一切の負債を肩代わりする
の二点が考えられているが、後者の買収形態で交渉をすすめているといわれる。
 問題の丸美屋労組(富岡委員長ら二十五人)は営業時の百九十人から大きく脱落し、いま経済闘争に重点をおいている。それも退職金の上積みなどの条件さえ同意を得られれば、あえて再雇用問題に固執しないと態度が軟化していることから、解決の方向に歩み出している。もっとも丸美屋としても五億円に上る負債の金利だけでも月約三百五十万円余に上るだけに、労組の要求にある程度譲歩しても土地を売り急いで早めに精算したい考えもあるようだ。
(つづく)

2008年11月16日日曜日

三日町の話3

 ここで総ざらいをしてみる。「はちのへ今昔」は昭和三十年から八戸を見直して、今、六月号は昭和三十一年、しかし中心商店街にとっては、大事な年は昭和二十六年十二月十三日、この日、南部トラック跡地に八戸初の百貨店が誕生。
昭和二十六年十二月十一日 デーリー東北新聞
 しのぎを削る商戦 デパート出現に狼狽
資本金二千万円、地元投資家の中島石蔵氏を社長とし岩手殖産という大バックに恵まれて十三日開店の運びとなった丸美屋デパートの出現はさしあたって八戸商人にとっては一大脅威である。盛岡の川徳デパート直系で仕入れるため、高い八戸商品の売れ行きに影響することは当然でしかも歳末を控えての開店とあってはなおさらのことであろう。
 しかしこのデパートの出現は地方民待望のものであり、これに刺激され呉服、洋品類を始め地元業者が中央直仕入れなどデパートに負けないサービス本位に転換されていくこともまた必至で、丸美屋デパートの開店は八戸商品の価格表示に画期的な改革をもたらすものとして購買層はこれを心から歓迎している。
 商工会議所の「大歳の市」は参加店二百店を突破するものとみられるが、専門店会では本年掉尾(とうびまたはちょうび・最後)の大サービス「甘辛づくし景品付き大売出し」を今十一日から二十一日まで二十日間にわたって行う、これは買い上げ百円毎に福引補助券一枚を進呈し、補助券五枚で福引抽選券一枚となる仕組み特賞に砂糖二十六貫入り五本呈上とあるから甘党にとってはすばらしい魅力となるわけ。地域的には二十三日町、小中野、鮫あたりがすでに連合大売出しの計画を明らかにしており、湊は本町と柳町がしのぎを削る競争を展開する。また陸奥湊駅の「暁市場」も大館村のそ采類を主力としてかつぎ込まれ、山の幸、海の幸の激しい交流がミナト八戸の歳末風景に特徴ある彩りを添えている。
十三日町に登場した八戸初のデパート丸美屋は南部トラック会社跡に建った。
デパート名を公募し、丸美屋に決定。
公募入選者名は一等賞金五千円 八戸市小中野北横町中村義勝殿
二等賞金千円 山伏小路 大里征夫殿
小中野新丁 澤上政吉殿
三等五百円 八幡町 鳥畑鴻次殿
          木村みどり殿
      大工町 古川ノリ子殿
昭和二十六年十二月十四日
 デーリー東北新聞
丸美屋デパートきのう華々しく開店
 八戸十三日町中央に新築中だった丸美屋デパートは十三日華々しく開店した。この日デパート前には色とりどりの花輪が飾られ、十三日町角まで開店を待つ人々がワンサと詰め掛け時ならぬ賑わいを呈した。
 店内は一階に化粧品、ネクタイ、食料品、菓子、家庭雑貨、家具、二階は衣料、呉服、服地、玩具、和装雑貨で六万五千円の振袖や一万五、六千円のお召しなどがご婦人の人気をよんだ。三階は文具と大食堂、売り子さんもグリーンに白線の入った制服で愛嬌たっぷりのサービスぶり、クリスマス年末年始を控えて店内は老幼男女の人波に埋まった。 デーリー東北新聞
昭和43年6月27日デーリー東北
風雲急!八戸商戦夏の陣
あす二デパート開店
地元イメージアップで対抗
新産都市・八戸の商業地図を大きく塗り替えるとみられる県外資本の大型二店があす二十八日そろって開店する。仙台に本店を持つ「八戸丸光」と全国四十チェーンの月賦販売「緑屋」で、ともに中心街に大型のデラックス店舗をかまえ、商品の陳列も終わってオープンを待つばかり。地元の小売り業界にとっては脅威だが、商業界が近代化へ脱皮するための試練ともいわれる。一般消費者にとっては「東京センスの買い物ができる」と大歓迎。大型店の進出で八戸商業界はどうなるのか。夏の商戦のスタートに合わせた大型店の開店と夏の商戦を展望すると…
割引セールも花盛り
「えらいことになりそうだ」というのが商業関係者の受け取り方だ。新産業都市としては発展を続ける八戸市の商業界が、いつかはくぐらなければならない関門であり、きたるべきものがきたともいう。とにかく既設のデパートはもちろん、小売店の規模をはるかにしのぐ大型店が、競って二店同時に開店することで、業界はとまどっている。
 八戸「丸光」、八戸市の年間売り上げ(小売業)の六分の一に匹敵する年間四十億の売上が目標といわれるから、既存の小売り業者への影響は免れない、というのが一般的な見方である。「家族連れで楽しいお買い物を」と売り込んでいる。
 一方、緑屋も「東京センスの買い物を月賦で」と年間の皮算用は高い水準であり、買い物からレジャーまでというこれまでにないシステムのもの。
 大型店の進出に対処する地元業者はどうか…。まず、店舗の増改築が盛んだ。衣料品のM、呉服店のO、雑貨の数店など、店内の改装や増築で新しいイメージをつくり、客足の吸収に懸命。三日町かどに靴、カバンの専門店が進出するうごきや、Mデパートの売り場面積の拡張計画など目抜き通りの商店街は今後も変わりそうだという。一般消費者にとっては歓迎すべきことだが、大型店の進出に対抗したと見られる「割引セール」や大売出しが花盛りで、いかにも「戦国時代」を思わせる。
 「既存の小売店にも激しい商戦を生き抜く手段はあるはずだ」(八戸商工会議所)は忠告する。

昭和四十三年六月二十九日デーリー東北
まるでお祭りさわぎ
「丸光」「緑屋」開店
どっと五万人の客
八戸駅前まで人の波続く
八戸「丸光」と緑屋八戸店が二十八日そろって開店した。八戸初めての大型デパートの開店につめかけた買い物客はざっと五万人。時ならぬ人出に町はごった返し、交通がマヒするなど「お祭り」以上のにぎわいだった。「丸光」「緑屋」の営業開始は八戸商店界に転機をもたらし、異様な熱をおびて夏の商戦がスタートした。
交通マヒ、迷子も続出
 大型デパート、八戸「丸光」はこの日午前九時半開店したが、新装なった同店の三日町通り入り口でミス・ワールド代表の外山智香子さんも花を添えて「開会式」を行い、正面に張られた紅白のテープに佐々木正一社長、木幡市助役、武輪八戸商工会議所副会頭がハサミを入れ、クス玉が割られて花ふぶきのなかを待ちかねた買い物客がどっと店内に吸いこまれた。一方、前日、松和ビルの落成式と内覧会をやった月賦専門店緑屋も同九時半、打ち上げ花火を合図に開店した。両店の開店は、八戸商店界の夏の商戦のスタートでもあり、既存の小売店のほとんどが同時に「祝賀セール」と銘打つなどの大売出しを始めた。
県外からも多数 
 「丸光」「緑屋」の開店したこの日、八戸市の中心街は文字通りお祭り気分で地元八戸をはじめ三戸郡下、十和田、三沢を含む上北地方、岩手県北の久慈、種市、福岡、軽米などからおおよそ五万人の人出(八戸警察署調べ)だった。
 なかでも「丸光」デパートの盛況は大変なもので、開店二時間前から「一番乗り」を待つ人をはじめ午前中、長蛇の列が八戸駅前まで続いた。
業界に活気呼ぶ
 開店後一時間で同店内に吸いこまれた人はざっと六千人ということで、店内を一巡したあと緑屋、そして岩徳ビル、三萬、丸美屋などで買い物していた。丸光の買い物客は五万人を数えたという。
 大型店の開店を機に八戸商店界に「活気」を期待する声が多い。「地元小売店にとっては確かに脅威であろうが、八戸に客を引く魅力が増えたわけで、消費購買力の吸引力が倍加するだろう。商業圏内の人口三十五、六万でその三十五、六%を吸引していると見られるが、一、二年中には五十%になりうるだろう」(菅原商工観光課長の話)という。八戸商店界が飛躍、発展の第一歩を踏み出し、今後業界の近代化、体質改善が進むものと期待される。
人出の割りに平穏 
 この日八戸署ではまつりなみの警察官(四十二人)を繰り出し、交通整理と警備にあたった。同署の調べだと昼すぎまでに三万人の人出があり、さらにその後もふえて最終的には五万人を越える買い物客が押しかけたとみている。この人出につれて迷子が続出、同署保安課ではテンテコ舞いの忙しさ。「ここでは迷子の大安売り」とぼやいていた。しかし人出の割りには平穏無事なデパートのオープン・デーだった。
 昭和四十四年十一月十四日号 デーリー東北
さようなら丸美屋 十八年間親しまれ ついに閉店、明日解散
 県南地方では初めてのデパートとして十八年間八戸市民に親しまれてきた丸美屋デパートは、きのう十三日で閉店した。会社は十五日株主総会を開いて解散するという。
 株式会社丸美屋(資本金三千五百万円、大沼直社長、従業員約百七十人)は、地元経済界とデパート経営では東北地方でも屈指の川徳デパート(盛岡市)がタイアップして昭和二十六年にオープンした。消費経済の順調な伸びにささえられて業績も毎年伸びていたが、八戸経済界の再編が目立ってきた四十二年ごろから下降線をたどるようになった。特に「丸光」「緑屋」など県外資本の大型店が進出した四十三年夏から売上は更に悪化、四十四年二月決算では二千七百八十万円の赤字を出した。このほか巻き返しを狙って買収した拡張用地や運営資金の確保などで負債が約五億円にも上ったたため、会社側ではさらに多額の投資をして建て直しを図っても採算的には不可能と判断、十月十三日の株主懇談会で自主閉店をきめた。(後略)

2008年11月15日土曜日

三日町の話2

ビル街への変貌
田名部 昭和三十年に、八戸にはじめて信号機がつけられました。今の丸光さんのあたりですね。その後、四十三年に「丸光」「緑屋」さんが進出してきまして、ともに現在にいたっているわけです。
鈴木 ツキウさんが昭和四十三年に唱えはじめた防災街区、これをうかがいたいですね。
月館 大型店がまだないころでした。建物も古くなったし町内で協同でやれば建築費用も少なくてすむ、魅力も増すと思いました。駐車場もつけられる等の利点もあります。それで都市の大きな建物などを見学して、五年くらい運動をつづけました。結局、空中分解
に終わりましたが、その後、一号として岩徳ビルができました。私は以前、洋服専門店で失敗していますので、考えあぐねた末、かって見学に行った自由が丘を思い出しました。今の協同建築のようなバラックに闇市が二、三十軒入って大変繁盛していました。どうせかまど返しするなら、三日町から裏通りへつきとおすということで味の名店街をつくりました。そうしたら岩徳ビルも儲かるし、魚町の方も繁盛するようになりました。
鈴木 それが八戸の三日町に不燃の大きなビルを建てるきっかけになったんです。当初の計画通りの理想的なものではなかったんですが、そういうものを作ろうという、大きな原動力になったことは確かです。それをさらに拡張しようと、ロー丁、十三日町の方も、最近では熱を入れてきています。その意味ではやはり三日町が先鞭をつけたことになるでしょう。
八戸の商売
月館 ジャスコの問題ですが、皆は悪い影響を及ぼすとお考えになっています。決してそうではないんですよ。出た方が三栄会としても活気づくし新しい客も呼べる。いいのではないかと思っています。三日町を二万坪の大デパートとして、それこそ共存共栄でやれば、プラスになるんじゃないですか。たとえば、歩道を越えて向こうへ渡るときでも、地下を通してとか、ビルに陸橋をつけるなどの条件でもっていけばいいんじゃないかと思います。(後略)
この月館さんの話に驚嘆、中村市長はジャスコ(イオンの前身)に来るなと宣言したが、なんと昭和四十九年にこの問題があったのだ。
 その場とは三萬の跡地。デーリー東北を図書館で見ると、昭和四十九年三月三日号に次の一文あり。
 大型店進出めぐり攻防
これ以上は絶対阻止
小売業界七日、ジャスコから説明
八戸市の小売業界は昨年来大型店進出阻止が大きな課題となっている。四日には大型店進出阻止対策実行委、続いて七日には商業調整懇話会が開かれ、進出を計画しているジャスコ側から進出に関する説明を聞くが、地元小売業界ではこれ以上の大型店が進出すると営業がなりたたないと、あくまで阻止の構えを見せており、大型店問題は進出の攻防で活発な論議を呼びそうだ。
 市商工会議所がまとめた八戸市の小売り、卸業の販売高は昭和四十七年で千六百七十五億八千万円、内訳は小売業は六百九十一億四千万円。
 進出が予定されているジャスコの建設、営業構想を見ると敷地面積約三千九百六十平米の中に地下一階、地上七階の店舗を建設、ジャスコが約一万平米を使用、営業することになっている。
 テナントの使用売り場面積は約八千平米、年間売り上げ見込みはジャスコ三十五億円、テナント二十五億円の合わせて六十億円が予想されている。計画通り売上があったとすると、市内小売業五千五百店の総売上の約一割を占めることになり、それだけ地元小売業者は市場を奪われることになると、大型店進出阻止実行委関係者は見ている。こうしたことから同実行委では商調懇でのジャスコ関係者の説明を受ける前に、大型店阻止に対する小売業界の意思の統一をはかり、商調懇では現状を訴え進出阻止を期待したい考えだが、進出阻止を訴えている関係者の中には系統上部関係団体のバックアップでジャスコ進出予定地を買い取り、八戸市都市再開発事業と関連させ、小売り業界が結束して「市民のためのショッピングビル」建設を進めるべきだ…との意見も出始めている。
 しかし、ジャスコではすでに建設申請を市当局に提出、建設認可も下りており、通産省の総需要抑制策、指導に協力、また資材の値上げなど客観情勢の変化から着工が延び延びになっているものの、四十九年度には建設に着手したい意向であるとも言われており、阻止に立つ地元小売業界と進出を目指すジャスコの両者、調整機関の三者がガップリ組み合うことになり、大型店進出問題は本格的議題となりそうだ。
 論議の商店は地元業界との摩擦をいかにしたら避けられるか、さらに用地買取など進出を食い止めるための具体的策をどれだけ打ち出し合意を得られるかで、近く開始される一連の話し合いが注目されている。
このジャスコがどうして進出しなかったのか? ここが不思議。

2008年11月13日木曜日

八戸三日町の話

ご挨拶
協同組合三日町銀座三栄会理事長
月館宇右衛門
 協同組合三日町銀座三栄会が大正十三年、八戸大火の直後あの焼土の中から立ち上がり、八戸商業の中心地であるとの自覚のもとに、その復興を目指して創立されてから、今年で五十周年を数えることになります。
 その半世紀にわたる間には、昭和初期の経済パニック、戦時の物資の欠乏と統制、戦後の混乱、ドルショック、石油ショックなど数々の出来事がありましたが、この試練を経てこんにちの繁栄を見るに至ったのであります。
 現在私たちの周囲をとりまく情勢は新幹線、東北縦貫道、むつ小川原開発など、まことに前途洋々たる材料に満ちあふれておりますが、目下、石油ショック以来の物価狂乱のため、総需要の抑制、金融の引き締めなど、私たち商人としては、誠にやり難い困難な時代に遭遇していると申さねばなりません。
 しかし私たち会員は、過去において幾多の非常時を切り抜けてまいりました経験と勇気を生かし、必ずこの苦難を克服し、やがて市民の皆様のご期待にそえますよう、粉骨砕身することをお誓い申し上げます。
座談会 三日町を語る
買い物公園をつくりたい
出席者
大浦岩松(元松和本店店員)
太田福弥(八戸丸光)
工藤政次(根友商店)
鈴木操(八戸商工会議所専務)
関野勇(せきのドラッグストア)
田名部勇(レストランマルフク・司会)
月館宇右衛門(銀座三栄会会長)
 
田名部 協同組合三日町銀座三栄会創立五十周年記念の座談会ということですが、まず会長の月館さんからお願いします。
月館 銀座三栄会五十周年にちなんで、その歩みを振り返り更に若い人たちの感覚で今後の見通しを捕らえるということで本日の会を開きました。まず初期の三栄会創設の動機のことを大浦さんにお尋ねします。
焼け跡からの出発
大浦 年月日が不明で浦山三千彦さんと話しまして、八戸大火後の十月ですね、全市灰になったわけですから、私は当時松和本店、油屋主体の店におりましたが、三栄会ができる頃までは、八戸の商店街は吊るしランプで全部商売していました。大火後、いくらか電灯もつきまして、全部ではなく裸電球ふたつに、あとはランプが四つ程度、もちろん、灯油はそうとう安い時期でしたが、電気は高いという先入観がありました。あの火事では八戸市民、旧市内、ほとんど気抜けの状態になりまして、商人も消費者も気迫が失せ、ゲンナリしてしまったんです。新材が手に入らない時代でしたから、残材がほとんどで、八戸周辺から古い家を買って解体し、バラックを建て、古いトタンで囲いをして、とりあえず商店は物を売る場を確保しました。でも、購買力が全くありません。衣料品なんか眼中にない、焼けて裸になっても、先ず自分の住まいというのが頭から離れません。これではならんと三日町の商店主が集まり、東京の銀座にならって派手な気分で盛りたてようと、銀座三栄会となりました。
田名部 設立が大正十三年十月、翌十四年にはじめて夜店が催されましたね。
大浦 発足当時はまだ協同組合になっていません。運営にあたっては新しいアイデアが必要と青霞堂の浦山三千彦さんが企画、発案し、それを役員が審議し実施しました。
関野 当時そのようなことは他の町内もしていましたか。
大浦 三日町だけでした。
田名部 商業組合があったそうですが。
大浦 荒町から二十八日町までの店が加盟し慰安旅行など親睦を主にしていましたが、売り出し、景品付き一等、二等などは三栄会が先鞭をつけました。これを刺激として他の町内も売り出しをするようになりました。三日町の商店主は相当の冒険をしましたが、それが八戸の発展の基礎になりました。
パニックの頃
田名部 月館さん、昭和四年に市政施行になり、五年には銀行取付騒ぎ、いわゆるパニックですが、当時はどうでしたか。
月館 たいていの銀行が休業しました。中小企業は相当影響を受け、出張販売などをしました。錦座で連合の売り出しをしたり、三戸、一戸へ団体で出張したり、深刻でした。
田名部 観桜会がはじまったのはその頃ですか。三日町への影響はどうでしたか。
月館 三八城山でしたから、その隣はずっと陰気だったわけです。で、バーや飲食店が出張してサービスしましたから相当…。
田名部 いい意味で影響があったんですね。商店街にも。
協同組合に
田名部 戦後になると夜店を継承した七夕が始まり二十九年の十二月にアーケードの完成があるわけですが、このアーケードはどういう発想からできましたか。
鈴木 函館の大門通りでアーケードを作ったからと商工会議所に招待状がきた。当時の会長の伊吉さん、副会長の文明堂さんらをお誘いして見学に行きました。いろいろ聞いて、ツキウさんが推進して、それが協同組合になるきっかけになりました。
工藤 金を集めるためにどうしても協同組合にしなければならなかったんです。とにかく個人には銀行がお金を貸さなかった。
鈴木 他所では一部アーケードが欠けたりするんですが、八戸は郵便局や銀行がアーケードつくりに協力してくれました。
月館 村井医院のところが欠けていましたが、完成したのは二十九年でした。
田名部 効果はどうでした。
工藤 よくなりました。雨、雪、暑いときには日陰になり、三日町というより買い物をするお客様のためにもなるということでしました。アーケードそのものは昔のコモセの近代化されたものです。
大浦 コモセは三日町が一番広く五尺五寸ありました。今のアーケードのようなものです。十三日町あたりは三尺五寸、狭かったんです。三日町に来ると自由に三人はすれちがいできる、表側の店は雪がひどかったんですよ。対面販売ですから、腰をかけているでしょう。で、吹雪がプープー吹き込んできて充分話ができない。だから一間ぐらいの桟に障子を張ってエゴマの油をひき破れないようにしてたてました。真ん中に大きくその店のマークをつけて冬の期間中三日町の両側にずっと建てておくわけです。
田名部 油紙ではないんですか。
大浦 全然ちがいます。渋を塗ったところもありますが、店が暗くなるので、ほとんどエゴマ、十年油ですね、アーケードは東北では仙台についで八戸でした。
三日町の道路のこと
鈴木 あと三日町が率先してやったのは、今はもう使えなくなった、水飲みの水道をつけたことです。ただ八戸の場合、残念なのは歩道が狭くてせせっこましい感じがすることです。さきほどの観桜会によって三日町は非常に潤った。四月から五月にかけて、三八城山へ行った帰りに三日町に繰り出す。秋にしても、共進会が八戸小学校の全校舎を使って展示会、即売会をやったもんです。戦前、三日町、八日町へかけて二米弱のせきがあったんです。荒町の方から水がどんどん流れてくるんです。当時の水はきれいでしたから、そこを舞台に消防演習をしたもんです。
工藤 私も子どもの頃三輪車で三回せきに落ちました。泥だらけになり叱られました。
大浦 当時は何かあれば市と警察へも陳情しなければなりませんでした。せきを小さくし二年くらい経ってから舗装した。簡易舗装じゃなくコンクリートで不便でした。
工藤 側溝が狭くなり車道が広くなったんでしょう。
大浦 そうです。そのときに、商店が一米くらい引っ込んだんです。前は馬車三台並べば車道は一杯でしたから。せきを店よりにしてその分両側で二米車道が広くなった。今でも歩道は官地ではなく商店のものと言っていますね。

2008年11月12日水曜日

悪ガキばんざい パート2 風の又五郎

戦争の最中、こんな時代でも悪ガキ軍団は大人の舌を巻くような遊びを考えだしては楽しんだ。
 いつの時代でも子供のほうがたくましい。経済が悪かろうが世の中が末期状態であろうが一向に構わぬ。大人たちがオロオロとしていても天使の顔で遊ぶ。子供は大人にとっては、宝であり、なにごとにつけても「救い」なのだが、現代ではその天使を抹殺する悪魔の大人がいるのは嘆かわしい。
悪ガキはこのあたりでは、投げワラシと呼ばれた。
物心のついたあたりには洋品店を営んでいた私の家には、自転車が数台とリヤカーが大小あり、毎日のように商品の運搬にもちいられていた。いまのように自動車で仕事をできるのは大きな商店でもなかった。それができるのはハイヤー会社ぐらいのもので、それもガソリンが枯渇していて、ほとんどは休業の状態であった。国内の産出するガソリンは雀の涙ほどのもので終戦間際では、松の根っこから搾り出す油、すなわち松根油(しょうこん油)からガソリンの代用品を造った。これで飛んだ飛行機はエンジンが止まりよく落ちた。
 戦況もだんだんと悪化をたどり、いよいよ全般に不況の風が吹きはじめ、店も暇がおおくなった。若い男の従業員は兵隊にとられ女子供と年寄りばかりとなっては商売にならぬ。自転車もリヤカーも無用の長物となり、これは、子供たちの格好のおもちゃになってしまった。
 リヤカーはご存知のように(と言っても現代人にはわからぬか)二輪車だが自転車は縦に車輪がついている。リヤカーは横並びである。
 これを自動車のように四輪にして走れぬものか?と万兆(まんちょう)は考えた。ああそうだ万兆と言う人物を紹介しておこう。わたしより七歳上の従兄弟がひとつ屋根の下に暮らしていた。ほんとの名はM志と言うがこのあだ名は万兆、日ごろの会話では子供らしからぬ、大きな夢や構想を口にする。年上の仲間は蔑(さげす)みの意味であろうか、万も兆もホラを吹くとこのあだ名を授けたものだ。
 かと言って、話だけで終わるのかと思えばその話の一部は実行、実現をするから、すばらしい。ガキ仲間からはある意味での信頼のような感情があるのだ。早い話、子供でありながらいっぱしの発明家といったところだろう。新案、奇案、珍案がぽんぽんと出てくるのだ
日ごろ、なにか面白い遊びをはじめるのでいつでも周りには子供たちがウロウロしている。次はなにをはじめるのか?
 ガキ仲間はいつでも興味津々なのであった。
この万兆なる人物は、いまも健在なのでお叱りをうけるかもしれぬが全部をばらそう。子供の時分に「やんちゃ」をつくした勲章としてここに書きしるしたい。

 このリヤカー2台をつないだり離したりしているうちに、出来た!四輪の自動車ならぬ人動車ができた。小型のリヤカーは三角に近い引き手、大型は四角の引き手だ。
これを、うまく組み合わせたものだ。つなぎ目は棒を一本とワラ縄でくくり、左右にかじ取りができるようにした。操縦は発明者の万兆だ。四人乗せて一人が押す。すーいすいと、走るといったら走る。これで町内を走りまわり、軍艦マーチをおおきな声で歌いだした。
 その声を聞きつけて、こどもたちが家の中から飛び出してきた。町内はこのメインストリートであり道はコンクリートで出来ていて、両側にはあらゆる業種の商店が建ち並んで一丁ほどの距離は端から端まで見渡せた。
 誰かが言い出した。
「あすこがらだったらどんだべ はぇーがな?」
と橋のうえを指さす。それあ速いだろう、急な坂道で日ごろは自転車がキイキイブレーキを鳴らしながら走り降りてくる場所なのである。

「おもっしれい」
「オモッシレイ」
こんなことでみんなでエッチラオッチラと、この乗り物を橋の真中まで押し上げた。
怖いもなにも考えない、………と、言うよりかここでは、口にだせない。みんな空元気なのだが「いやだ」と言えば臆病ものと馬鹿にされる。ここでは「じぐ無し」と呼ばれる。子供ながらにもプライドがあったものだがこれは戦意高揚とやらで教育もそのようにすっかり染まっていた。当然なことであろう。国家は人間を鉄砲の弾丸一発ぐらいにしか考えていなかったろうから。
湊橋の真中から通りの高差は十メートルにもなろうか、橋の下はマストを上げたままの漁船が通行する高さだ。
お客となった悪ガキ三人と運転手となる万兆は緊張気味だ。
「押せ押せ!」
後押しは船具屋の末息子武、そして米屋の清吾の二人だ。どちらも身体が大きく力がある。
「せーの」
の掛け声でこの二人が力任せに押した。坂の途中からどんどんスピードがあがった。まあ、その速さはさしずめ冬季オリンピックのボブスレーやリュージュ。テレビでの画面を思い出していただきたい。
エンジンもない乗り物は当然音もない、排気のガスもない。だが、市営バスより2倍も速い。そんなに速ければ交通の妨げになろうなどの心配はいらぬ、バスはいまのようのに沢山あるわけでなし、ほんとにたまにしか来ない。
このバスだって木炭を燃やして水をたらし水成のガスをつくりエンジンを廻していた。このガスだって尻からでるものと同じメタンガスなので馬力がない。坂道などでは動けなくなり乗客が降りて後押しをしたものだ。
リヤカー2台のこの乗り物は考えていたより快適に走った、四度 五度と試しているうちにすっかりコツをつかんだ万兆。得意満面、運転手か操縦士になった気分だ。
運転免許?そんなもの、要るわけがない。このゼロ戦のようなリヤカーに乗る人数が多くなれば慣性も大きく、スピードも増す。5人乗ったらその距離約300メーターにもなった。つぎは「わ」おれだ、と列ができた。こんなに楽しそうな子供たちに大人たちはおおらかなもので、危険だとか迷惑になるとかは言わない。現代であればとても許されるものではないであろう。心配で見物していた大人たちは「大丈夫」とそれぞれに家のなかにひっこんだ。
5人でよければ6人乗っても同じだろうと万兆は考えた、小さな身体であってもぎゅうぎゅう詰めだ。運転の万兆で7人となる。1人増えれば走行距離がもっと伸びる。「愚かな」と口にする大人もこの悪ガキたちと同じことをしでかすことは説明のいとまもない。まあ、人間とはこんなことの繰り返しの歴史を創っているにすぎないのだ。
誰もが安心した。と思ったときに、大事件が起こった。いや、大事故か?発進が20回ほどにもなったころだろうか、またもすんなりと走り去るものと思っていた。
ガッシャーンガラガラバリーン、大音響が聞こえた。あれー吾がゼロ戦はいづこや?見えない。見えないはずだ、煙か湯気かホコリかわからぬものが、坂道の右がわの床屋から立ち上がった。
「床屋だー」
誰かが絶叫をあげた。
「入ったーはいったー」
あとのことばの「はいったー」はここの方言で大変なことを起こしたときの囃子言葉である。
リヤカー2台を繋ぎ総勢7人が乗り、床屋のガラス戸を2枚を破って飛び込んだ。床屋のおやじは手にくしとハサミをもって外に飛び出した。当然お客の髪整髪の途中であったろう。
「いらっしゃい」
もなにも口にする暇もないわけで、招かざるお客といったところか。
スピードが出るので面白くまた距離も大きくのび
ると喜んで定員以上?の乗客を乗せたのでハンドルとなる三角の取っ手にワラ縄が食い込んだ。
スピードが上がったところへ犬が道の真中に飛びだした。慌ててハンドルを切ったが戻らない。
いかんせん、所詮は子供の考えるところ緊急時を想定していなかった。ブレーキが無い、棒一本でも括りつけていればよかったがあとの祭り。
「止められない止まらないカッパえびせん」
というコマーシャルソングがあったけー。その時代にはまだ無い。あったらこんなことが起こらなかったなどとは言い切れない。
幸いに悪ガキたちはかすり傷程度で済んだ。昔のガラスは薄かった、これが幸いした。木の枠に美濃版ガラスという小さなサイズのガラスをはめ込んだ戸が定番であった。
リヤカー2台と7人の悪ガキたちは床屋の大事な商売道具の鏡の直前でようやく止まっていた。
なぜか皆顔が真っ白になって、しまった。タルカンポーダーの容器がつぶれて粉が噴き出したのだった。それにガラスのかけらがキラキラと身体にふり注いでいた。度胸のない子供はワーワーと泣き叫んだが万兆はそれをなだめる余裕もない。
床屋の親父から何と叱られるか?このあとどのように始末をつけられるのか?頭のなかは、いままでの楽しさも何も吹き飛んでしまった。
誰かが万兆の家に走った。
「大変だ―事故だ―、死んだかもしれねぇ」
番頭の陽助がとんできた。状況を確かめるためだ。
こんなとき家長の親父は慌てない。今考えてみると慌てない理由としては、子沢山なので一人二人死んでもかまわぬ。と腹を括っていたのかもしれないと思うのはあんまりなのであろうか?
あるいは、こんな戦争で死なせるよりか楽しんで死んでくれるほうが悔いが少ない。と思ったか、どうか今となっては知りたくも親父は他界しているので確かめることは叶わぬ。
床屋への弁償も詫びを入れるも大変だ。同じ町内でお互いにお客なのである。万兆はすっかりうなだれ家に帰った。親父の雷が怖い。普段は少しの過ちでも大きなゲンコツがくる。こんな大事件を起こしてしまったので只ではすまないのは目にみえている。
家に帰って拍子抜けした。真っ先に親父が飛び出してきた。番頭の陽助から報告あったのだ。元気なく、縮こまった身体が哀れさを表わしている。
「怪我なくてよがったな、足洗って晩飯食え」
たったそれだけを言い残し佛間に引っ込んだ。まもなく香のにおいが流れてきた。親父はご先祖様に無事を感謝していたのだった。
こんな日があって三十年もしてから母から聞かされた。戦時中の苦く酸っぱい想い出である。