2008年3月1日土曜日

風の旅 風天弘坊

倉敷市という町 
 此処は岡山県にあるのは説明するまではないだろう。
太平洋戦争で我が国の隅々まで爆撃され、焼けつくし、果ては広島と長崎に原子爆弾を二つも落とされた。それまでの戦争の歴史でもっとも残忍な戦法で敗戦させられ、日本中、廃墟となり人間も数限りなく殺された。
だが、此処、倉敷市と京都市それに奈良にはただの一発の焼夷弾も落とすことはなかったのだ。
なぜか?あのB29爆撃機から雨の如く降らせたので爆弾が尽きたからか?
そんな筈はないだろう。敵は物量で勝負をかけるアメ公だった。皆殺しのバラード(小歌)は常套手段。いくらも離れていない岡山市は爆撃で数多くの死者が出て町は廃墟となった。
この理由を関係者はこう解釈した。世界的に貴重な美術品や文化遺産に、傷をつけ焼失してはならない。倉敷の大原美術館にはそれがある。敵の軍部でもそのような論議がなされたのだろうか。空爆は一切なかった不思議さは、明確なことは誰にも答えられないが、大原美術館が倉敷市を救ったのだった。
爆撃を予想し、貴重な作品はいち早く奥深い山中に運び出してはいた。すべては無傷であった。
戦争の歴史をみればわかるが戦勝国は戦利品として領土のほか、財宝も美術品も賠償金も手にすることができた。これらも勝利したら特定の人物によって山分けの相談などがあったものかどうか。あったろうな。
大原美術館は我が国で最初に創られた西洋美術館であることは多くが知るところだ。
修学旅行や一般の観光のルートにものせられ、数ある話題にも上る。今や世界で名だたる美術館のひとつになっている。
私は、しがない、銭がない、先がない、三拍子揃った?美術愛好者の一人として多くの美術品を観てきたが、由緒あるといわれるこの美術館は、写真や短い説明の刷り物でしか目にしたことがなかった。数々のいわれも内容も当然知らぬことだった。
初めての町に車を乗り入れる時にはラッシュ時間を避けての出入りを考慮する。目も手も足も頭も、老衰状態の爺が運転する車は真っ直ぐに走らないのだから危険このうえない。事故を引き起こしたら一巻の終り、命懸け!だ。
大都会は深夜でも煌煌とした灯火で不夜城のような佇まいが定番だが、此処は「なんでこんなにも暗い町なのか?」夜遅くに倉敷の町に入り、第一の印象であった。
美観地域という看板がある処に迷い込んだが「これも何を表しているのか?」不思議な場所であった。柳の並木のある小さな川沿いに小さな古めかしい建物がぎっしりと並び、さしずめ古い時代にタイムスリップか。映画の撮影セットのような感じでもある。かなり人工的な匂いも否めないが夜が明けて改めてこれらに接して見ると、驚きと感動に変るのだった。第一印象だけで物事を決定できないことを此処でも教えられたものだ。これについては、後に述べよう。

まずは大原美術館を語らずして此処、倉敷と言う町の説明はつかぬことであろう。
美術館はどのような経緯で創られ変遷を経てきたのか簡単に説明しておきたい。
現在、格子窓と白壁の町の中に忽然と建っているギリシャ神殿風の建物。これこそが倉敷の富豪、大原家の美術館だ。
六百ヘクタールに及ぶ広大な地主であった大原家は江戸時代から米穀、綿問屋を営み明治初期に大原孝四郎が起した紡績業で多大な利を興する。
明治十三年(1880)孝四郎の三男として誕生した孫三郎は大切に育てられ、(長男、次男は早世)やがて東京専門学校(現在の早稲田大学)に進むが若気の至りで放蕩の限りを尽くし、莫大な借金が焦げ付く。父親の命で連れ戻され “謹慎処分 ”の身となる。そんな事があったが、すっかり改心して家業の紡績会社に就職。父親の後を継ぐがこの若き二代目は次々と事業を展開発展させ中国地方、四国地方随一の実業化に成長する。倉敷紡績すなわち倉紡だ。
 謹慎の時代に触れた二宮 尊徳の “報徳記 ”の影響とで力を注いだ社会事業のひとつ、大原奨学会の奨学生として東京美術学校(現東京芸術大学)に学び、後に生涯の友となる、画家・児島虎次郎を三度も渡欧をうながす。外地で制作に励むかたわら、虎次郎は絵画購入に奔走する。帝展審査員として活躍し、欧州でも高い評価を得ていた虎次郎は、非売品でも作者本人を拝み倒して巨匠たちの作品を次々に買い集めた数六十一点、いずれも名品である。現代、世界の名ある芸術家達は日本になぜこれほど貴重な作品があるのか?と驚嘆する。そして「奇跡だ」とまでいわれているのだ。
元気者だったが四十七歳、脳溢血で急逝する。親友の死に遭い、孫三郎の歎きは如何ばかりであったろうか。
 昭和五年十一月五日(一九三〇)孫三郎は、前年に亡くなった友、児島虎次郎を想い、遠き国から海を渡り倉敷の地に運ばれた数々の美術品を公開した。いわば虎次郎の記念館そのものだった。
自宅の向かいに開館した日本初の私立西洋美術館、 大原美術館のスタートであった。
一般公開はこれより二十日後で入館料は三十銭。(当時としては上等な昼飯代ほどか)近在から押しかけた人達で行列ができ、町中が御祭り騒ぎのようであった。最初はなんでも物見遊山(見物して歩きまわること)だが、やがて見向きもしなくなるのが定石である。これほどの「宝の山」であっても、やがては来館者が一人もない日が続く憂き目にも遭うのだ。
先号でも述べたが「もの識らず、恥しらず」を自認する私だが此の美術館もいわゆる「あぶく銭」(現代風にはバブル景気で儲けた金か?)で儲けた金を用い、価値も解らずに、高価な作品を手当り次第に買い求めたものなのだろうか、と考えていたものだ。後日、幾つかの文献を目にして、恥ずかしいことに、これは大きく違っていた。
経済は生き物、魔物だ。昨日まで富んでいたものが今日は奈落の底、大原家も富んでいてばかりではなかった。特に繊維は生活に直接関するものだから浮き沈みが大きい。大原家存亡の危機に遭ったのは数え切れないという。昭和四年にも決算赤字は三七万円、社債借入金の累計は一八〇〇万円になった。現在の金で四〇〇億円にも達した。不況の波はここにも押し寄せた。こんなときに倉紡万寿工場女子従業員六二〇人が賃上げを要求してストライキに突入した。当時ガチャ萬と言われた時代には機織り機械が一回「ガチャリ」と動けば何萬円も儲かったこともあったが経済恐慌で逆のじり貧もあったのだ。それは現代であっても同じだ。揺るぎのないと言われる巨大な会社でも簡単に崩壊する報道は日常茶飯で耳にし目にする。こんなたいへんな時期に頼りにしていた児島虎次郎が亡くなる。
大原家が三代に渡る活躍の全部は紙面に限りあるので叶わぬが、要所だけでもとりあげてみよう。
どうして?倉敷という大きくもない都市に美術館、民芸館、考古館、天文台、病院、農業研究所、東洋一と折り紙をつけられた音楽堂の市民会館など立派な施設が集中しているのか?
放蕩者と呼ばれたこともあった美術好きの孫三郎が金にあかして道楽に建てたものではないのだ。
人間、変れればこうも変る。孫三郎は高い理想に燃える偉大な先駆者に生まれ変わっていた。彼が偉大なのは実業家としてより文化研究、社会事業の分野で今日も意味ある仕事を後世に残したことであろう。キリスト教に帰依 きえ (仏や神を信仰しその力にすがること)した石井十次と明治三二年(一八九九)に会見してから良き理解者となる。手始めのひとつ、明治三九年(一九〇六)東北地方の大凶作にあたって不孝にも孤児になった子供達一二〇〇人を収容するために岡山孤児院を各所に続々と創設した。従業員の為の病院も創った。この病院は後に一般市民にも開放されている。
志ある若者のために先代が創設した奨学金制度も枠を広げ、福祉事業も数え切れないほど展開したのである。
学者には研究の助成に莫大な金を投じる反面、自分の会社経営には一厘一毛(昔の金の単位で一厘は一円の千分の一)のムダも許さないが文化、社会事業には惜しみもなく湯水のごとく資金を投じたと言う。
現代社会でもそうだが人間の心は何時でも荒んでいるもので、そんな時に何か感動を与える優しさや可憐さに出遭うと平常心に戻れるのは説明をするまでもない。
「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。「経済的に恵まれない人々、高い位の教育を受けていないひと達の目にも触れさせたい」と心底思っていたのが覗われる。
若い頃からこの美術館を観たいものだと思い続けていた私はやっとの事でそれが叶って少し興奮気味だった。暗い町中を訳もわからず走ったら大きなレンガ造りの建物があり続いて広々とした吹曝しの駐車があった。アイビースクェア駐車場と表示してあるがなんのことか?無人の駐車場でせわしくないので此処で夜明かし、野宿だ。説明では午後五時から翌朝十時までで600円。
レンガ造りの建物はホテルとレストランそれに記念館を兼ねていた。アイビー学館と呼ぶ。IVY=アイビー=植物の蔦(ツタ)の意である。
この建物は明治から、昭和初期まで紡績工場として稼動していたものだ。機械の騒音を外部に洩らし住民に迷惑をかけてはいけないと、高価なレンガ造りにしたものだった。結果は現在でも充分に用いられ採算面でも満足のいくものになった。これに蔦が這い、壁面は緑に覆われ夏の暑さを和らげたことだろう。建物の中庭は広々としている。かつてここの紡績に携わった大勢の若い女工達がこの中庭でしばしの休憩時間に仲間との会話を楽しんであろう。そのような情景が目に浮かんでくるようだ。紡績女工の労働は過酷で現代の人達では想像もつくまい。
身体を壊し早世した女達も相当な数となったでろう。そんな理由でか、会社は病院も創立する。福祉、厚生施設をいち早く確立した。
当時、我が国の企業の状況は似たり寄ったりであったが此処だけは、そんな温かみのある職場で魅力があったであろうか。
国家は西欧の列強国に支配されないようにと頑張ったのだろう。労働を特に安く得るように考えたのである。現代、お隣の国Cのようにである。
おーとっと、また悪い癖が出て話が逸れた。

町に入った翌朝、九時開館の大原美術館に向かった。昨夜迷い込んだ町並みは倉敷川沿いに古めかしく瀟洒(しょうしゃ=オシャレ)な店がそれぞれに個性を売り物にしている。倉敷川は小さな川で屋形をかけた小舟で観光客を乗せ楽しませていた。(運河か?)
観光地と言う名の地では数多くのお土産店が付きもの、呼び込みなどでうるさくお客に声を掛けるものなのだが、此処ではそのような思いは全く無かった。
大原美術館の入り口に立ったのは開館時間九時の二十分前。もう、大勢のお客人が並んでいる、外人さんも多い。これを見ただけでも世界の大原美術館だと感心するばかり。
前にも述べたが旅に出るに時には下調べをして失敗のないようにと思うものだが、私の流儀ではその場の感動が減衰しないようにと予備知識は簡単にしていると言うよりほとんどしない。そんな訳(言い訳です)で入場料金も知らぬこと。一般一〇〇〇円、六五才以上八〇〇円、私は該当する。入り口で係の女性が「誠に申し訳ございませんが生年月日をおっしゃってくださいませ」と丁寧に聞いてくる。
美術館の目的はどんなことか?
何か?
前項の言葉が思い出される。「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。すぐれた美術品の鑑賞は心の情操に良い影響をあたえる。
すなわち来客に気持ちのよい環境を与えるのが一番の目的でなければならないのだ、と考える。
また、話しが逸れて申し訳ないのだが、まあ、聞いてくれ!
印象派でも印象が悪い、何処かの都市で税務署跡につくった ビン術館では「アンタ、シニア?」「貴方、死にーゃ」早く死んでくれ・・か?・・・・それとも、もっと金くれんか?とは大きな違いだ。服装が悪い?正装でネクタイを着用して来いと言いたいか?貧乏人はこんなところに来るんじゃない。アゴをしゃくって応対した受付の女性は悪印象派であった。
大原美術館の入り口のくぐり戸は小さい。身体の大きい外人さんは頭を打たないように屈んで入った。「だけど心理やなーこのほうが抵抗なく入りやすい」個人の住いを訪ねたときの雰囲気だ。
ギリシャ神殿風の建物に入った。ここは本館、あるわ、あるわ大きいの小さいの、名作が。本館はクロード・モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」のほか若かりし頃のピカソの作品もさわやかな風を感じる。
目玉はなんと言っても十七世紀初めの作と言われるエル・グレコ(1599_1603)の「受胎告知」だ。階段を上ってすぐの右にあった。なにか無造作に壁にかけていて、ちっとも高価な雰囲気はない。次号に続く