2008年3月1日土曜日

手記 我が人生に悔いなし 六

中村節子
○ 空の男の休日
海上自衛隊八戸航空隊の基地の中に、三沢の航空自衛隊の一部が一時的に同居していたことがある。昭和四十四年前後五~六年の期間であったと思う。
 その航空自衛隊に茶道部があって、私の大先輩が指導に行っていたが、何かの都合で続けられなくなり、代わりに私が行くことになった。会社から半日休みをもらって出かけるのである。
 これより一年ほど前に、岩手県軽米町に茶道部ができ、先輩姉弟子のMさんと私と二人が、先生の助手としてお供をした。
 教室は毎週日曜日で三人はバスで通ったが二~三ケ月ほどで教室はMさんに任されることになり、私は助手として一緒に通った。全く新人ばかりの教室も一年ぐらいたつと、ある程度慣れてきて、助手が居なくてもいいくらい落ち着いてくる。自衛隊の茶道部の話が出たのは、ちょうどその頃であった。
 航空自衛隊のお茶の稽古日は、毎週土曜日の一時から基地内の娯楽室である。先輩との引継ぎらしいこともなく、一人で基地の正門に行ったのは、昭和四十四年の春であった。
 正門の警備の隊員に「茶道部の稽古に参りました」と言うと「茶道部があるのは知っているけれど、一般市民の人も習いに来てるの?」と隊員同士顔を見合わせた。
「あのォ習いに来たのではないのですが」
「エッ?あっ先生ですか。これは失礼致しました」道順を聞いて娯楽室に行って驚いた。広い娯楽室の三分の二が四十㌢ほど高くなった二十畳ぐらいの畳敷きで床の間もある。あとの三分の一にはテレビがあり椅子があり、隊員全員の娯楽室だから自由にテレビを見ている。茶道部は畳の部分を半分で充分。残りの半分には寝転んでいる隊員がいる。その様なところでお茶のお稽古である。
 部員は航空と海上の自衛官(当時は女性自衛官はいない)と女性職員とで十五人ぐらい。勤務の都合で全員あつまることはまず無い。
 今まで五十代の先生だったのに二十代の先生に代わった。部員にとって少し不安があったかも知れないが、私にも不安があった。稽古に行く日は予習をして出かけた。
 質問が出る。その質問たるや「畳を歩く時歩幅は何㌢ですか?」「四歩で歩ける歩幅です」「おじぎをする時の角度は何度ですか?」「私がおじぎをしますから何度か見て下さい」「帛紗さばきの時の両手の高さは、畳から何㌢の高さですか?」「両手は胸の高さですから、体格によって違います。何㌢とは言えません」等々、こんな質問を前の先生にもしたのだろうか。さらに「なぜ茶碗は丸いのですか」ときた。「みんなの和が輪になって、世の中丸く納まるように丸いのです」と答えた。
 我ながらうまく言ったものだと後で思った。完全にナメられた。おかげで一生懸命勉強した。本を読み疑問が出ると先生や先輩に教えてもらった。質問に答えられない時は「私もまだ習っていません。宿題にさせて下さい」とはっきり言った。
 その年の秋(昭和四十四年十月二十五日)第八一航空隊開隊記念の催しがあり、基地全体を一般市民に開放することになった。
 茶道部は野立てをすることになり、特別立派な道具を用意することもなく、普段の稽古道具でお茶を楽しんで頂くことにした。
 記念日の当日は晴天に恵まれた。庁舎横の芝生の上にお点前は畳の上で、お茶を召し上がるお客には長椅子を用意した。
 隊員はもちろんのこと一般市民も大勢お茶を楽しみ、中々の好評であった。翌日のデーリー東北新聞に「空の男の休日」という見出しに写真入りで報道された。
 それから三年後、航空自衛隊は三沢へ戻ることになった。現在なら車で簡単だが、当時は車も免許もない。やむなくお断りした。
 昭和四十七年十一月、市民会館でお別れ茶会をして、私の役目は終わった。
○ 三十二年ぶりの再会
その当時の航空自衛隊茶道部の部長であった小田淳治さんから、突然手紙が来たのは三年前の平成十六年八月のことである。愛知県小牧市に在住の小田さんとは、年賀状の交換はしているが、手紙は珍しかった。
 「九月に三沢市で航空自衛隊の同期会があり出席します。三沢市で一泊して翌日は家内と八戸からレンタカーで岩手県普代の親戚の墓参りをして、八戸駅から新幹線で帰る予定です。もしご都合よろしければお逢いできませんか。せっかく八戸まで行くのですから」と言う内容であった。
 私にも九月には旅行の予定があった。「日本詩吟学院の企画で十一日間のシルクロード旅行に出かけます。帰国するのはちょうど小田さんが八戸にいらっしゃる日です。中国からの飛行機が予定通りに成田空港に着けば、八戸駅に着くのは二時です。お逢いできます。」と直ぐ返事を出した。
 「普代から三時までには戻ります。四時の新幹線で帰りますから、八戸駅の待合室で三時にお逢いしましょう。」と決まった。
 運良く飛行機は予定通り飛んだ。お元気なお二人と三十二年ぶりの再会を果たした。
 「お茶はずっとご無沙汰しています。スキーとゴルフ、登山をしています。家内と二人で登ります。海外の山にも挑戦しています」等々。
 「私もお茶はほどほどにして詩吟に熱中しています。」と、懐かしかった。うれしかった。あっと言う間に時間がきて新幹線の改札口で見送って別れた。
 お互いに健康であったから逢えた。健康に感謝。現在は絵手紙の交換をしている。
○ 心臓がドキドキ
少しづつ詩吟のことがわかってきた。一人で吟ずることを独吟。全員は合吟。一題の詩を複数の人員で交対に吟ずる連吟。吟ずる人は吟者、教室のことは教場という。
 新人の私が二~三ケ月して少し慣れてきた頃に、先輩と一緒に同じ詩を指導して頂けることになった。始めは何度も合吟した後、独吟をして先生に直して頂く。その順番は先輩が先である。先輩の吟をじっくり聞き最後に私の番となる。それまでの時間を私はとても好きであった。上達の早道は続けることと、人の吟を聞き自分の耳を養うことである。
 発表会等の時は、新人が先で先輩が後という順になる。「大きなねぶたはあと」である。
 発表の機会は、初吟会、春秋の吟行会、文化協会のフェスティバル、納吟会等々で、昼と夜の教場が一緒になって行なう。昼教場には内丸の田端さん、八戸グランドホテル先代社長のお母さん、根辰の奥さん、クドウキチのおばあさん、千秋寿司店の大橋さんと小形さん達がいた。男性も何人かいたけど忘れた。
 入門して一年の間に、教場見学にさそったY子さんは詩吟をやめた。又、新人が一人も入門してこなかったので、行事の度に独吟の順番は私が一番だった。
 やっと新人が入って私の順番は二番になった。その時不思議にも心臓がドキドキした。今まで一番の時はドキドキしなかった。「どうせ新米だから」という思いがあったからだろうか。後輩ができた途端、このドキドキは何だ。「後輩に負けてたまるか」という思いが起きたのだろうか。それ以来出番を待っている間、ドキドキするようになった。ドキドキはいいことなのだ。
 現在でも舞台の脇で待機している時のドキドキは何とも言えない雰囲気がある。舞台を降りたとき、結果の良し悪しにかかわらず、また舞台に立とうという意欲がわくのである。
 詩吟とは、詩に込められた作者の喜びや哀しみ、感動した心を吟者がとらえ、声によって詩意を表現するものである。
 詩吟はお腹の底から声を出すので、ストレス解消になる。腹筋を鍛え、姿勢を良くすることにより背筋を鍛え、老化防止にもなる。
 歴史も学べるし、冠婚葬祭の席にも活用することができる。それだけではない。
 先輩の元自衛官のKさんが話してくれた。自分は下北半島の貧しい漁村に生まれた。兄弟が多かったので口減らしのため、中学校を卒業して自衛隊に入隊した。試験を受けて同期入隊の仲間がど んどん昇官してゆき、自分だけが中々受からず、後輩からも追い抜かれた。悔しさと情けなさと失望とで不良青年になる寸前までいった。その時上官が山へつれて行って大きな声で、聞いたことのない歌をうたってくれた。「今のが詩吟というものだ。お前もやってみろ」と言って詩吟を教えてくれた。教わった通り大きな声で吟じてみた。思いがけず上官にほめられた。
「自分は詩吟に救われた。詩吟は非行防止にも役立つのです」とKさんが語った。
○ 鎌倉の別荘
明治薬館の二階を詩吟の教場とする翠風会は、明治薬館のご主人最上泰風氏が会長で、奥様が師範の最上翠岳先生である。
 最上先生が鎌倉に別荘を買った。会員達が「別荘へ行きたい」と言い出し、ついでに鎌倉見物をしようということになった。昭和四十六年一月のことである。
 別荘はとても広く男性は一階に、女性は二階に泊めて頂いた。修学旅行のようで楽しくてワイワイさわいでいると、一緒に行ったNさん(元中学校教師)に「もう八時すぎているんですよ」と叱られた。
 翌日は桜井令岳先生(娘の知恵子さん)がおい出になって詩吟の勉強会を開いた。午後は別荘の近所を散歩した。散歩したのには理由がある。隣のお屋敷が原節子さんのお住まいだと聞いたので「もしかして逢えるかも?」と思ったからである。昭和初期の大女優の原節子である。私は原節子の主演映画は見たことがなく。雑誌等のグラビアかブロマイド写真等で見る程度であったが、原節子が大好きであった。
 何時頃映画界を引退したのか知らないが、近年になって懐かしの名場面で「東京物語」がとりあげられたり、ワイドショーの「あの人は今」で鎌倉のお屋敷が映し出されることもあった。引退後は一度もマスコミに姿を見せることが無いことでも有名である。
 最上先生の別荘の隣と言っても、窓から見える近さではない。その辺は広い庭付きの高級住宅地である。木立の奥にお屋敷があった。翌々日は鎌倉見物をして八戸に帰った。
これから約一年後に最上先生は明治薬館を閉店して鎌倉に移り住んだ。会員は代わる代わる訪問して泊めて頂いた。私も四~五回は泊めて頂いた。その度に近所を散歩したけれど、原節子の姿を見ることは一度も無かった。