2008年3月1日土曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 13

 禅師の人物観察とその指導方針
 穆山禅師は、人を視ること敏にして細、真に適確でありまして、この点も驚嘆するものがあります。かつて、可睡斎を隠退される時に、私のあとに最もよい適任者がいるといって、日置黙仙師(後の永平寺禅師)を後住とした。日置禅師は穆山禅師のお目がねにかなって、可睡斎の経営は勿論のこと、穆山禅師の退隠後の御生活に対してはいうまでもなし、喜寿、米寿の祝寿会には率先して、知恩、報恩の御世話をなさり、遂に大本山永平寺不老閣猊下となられて最高の恩返しをした仁徳者であります。又前述の如く大本山総持寺移転復興の大事業には、素童和尚の方がよい、適時に退隠して、素童禅師に思う存分の力量を発揮させたればこそ今日の総持寺があるのであります。又、岸沢惟安師には、「お前は大きい寺に住職するな、お前は、漢学に自信がありすぎて宗乗に素直に入りくい癖があるから丘(丘宗潭)のところに行け、わしの研究し尽せなかった「五位顕訣元字脚」を、お前ならやれるから研究し尺してくれ、これはな、御開山様(道元禅師のこと)が支那(中国)より伝来せる「五位顕訣」を、洞水月湛師が、四十余年間も研讃してまとめた註解書であるから容易なことではない、けれども宗門の学問の根本をなすものだから一生かかってやってくれ」、と依嘱し、岸沢師をして、永平寺の西堂職を投げ捨てしめ永平寺貫首となることを回避せしめた。これは前にもふれたが、一時、宗制で、両大本山西堂は貫首欠けたる場合、即刻次の貫首に昇進すると規定された時がある。
その特、岸沢師は水平寺西堂であった。これを聞いた岸沢師は、「これは大変なことだ、師命にそむくことになる」といって、周囲のとめるのをきかず(法類並びに近親者は穆山師匠様が慕っていた高祖様のお膝もとの不老閣貌下にしたかったでしよう)無理やり辞職したのであります。そして岸沢師でなくては出来ない仕事である「五位顕訣元字脚」の研究を完成して、柳本師穆山禅師真前に備えたのであります。ひとり宗学者ばかりでなく宗門人は勿論のこと、ひろく道を求める者への大福音であります。数え来ればこうした穆山禅師の対機視察、対機相応指導といった事は無数であります。私達、宗教界に身を置く者、教育に従事するもの、社会指導の任にある者等に対する大なる教訓として模範とすべきことと思います。
 ここに浄国禅師(西有穆山)が石川禅師に如何に期待をかけ、且つ信頼して居られたかの一証を左に記して、両禅師の本面目を偲びたいと思う。
 牧牛素童和尚に示す(牧牛は石川禅師の号)
   手裏一鞭時変に臨む
   鼻繩の緩急吾が心に在り
   ただまさに放牧して芳草に飼うべし
   倒臥横眠烟雨深し(原漢詩)
手の裏に秘めた一鞭の秘策を、臨機応変に活用して、本山を移転再興する重荷な時機に相立ち向っている。
 牛の鼻穴に通した繩を緩めて自由にするも、しめつけて自由を奮うも自分の心中にあって自由自在である。
(牧牛は)今は、ただ、ひたすら牧野に放って、滋味豊かな飼料を十分与えて力を養なって                                  おくべきである。(時機を待て、自乗して自力を養なっておれ)。
身をぶったをして、よく眠るに、ふさわしい静かな牧場には、烟雨が深く垂れこめて、まことによい風景ではないか。
 この牧牛和尚(浄国禅師の気持をくんでこう書かせて戴きます)が、穆山禅師の芳草を食みこみ、消化して、総持寺独住四世となってから、穆山禅師の肖像画に次の如く賛しています。
    維持濁住第三世
    宗説般々祖風を展じ
    無辺の誓願無限を度し
    堂に富って端坐して円通を現ず
    眠松の鶴夢を驚かして心に吟じ
    寫雁清雲の真に没す(原漢詩)
と、あります。穆素二禅師肝胆相照して、大本山東本復興の大事業を成就し、お互いにいたわりあい、ほめあっている様子がうかがわれて、嬉しく感じます。
 石川禅師は明治三十八年四月十六日穆山禅師の後継者として、小田原の最乗寺より晋住し、営々辛苦十六年間、本山移転再興の大事業に精魂を打ちこんだのであります。移転計画が進むにつれ、移転反対派の放った刺客が石川監院をねらった事がしばしばであったといわれます。文字通り命をかけた移転推進であったのであります。こうした空気の中で、穆山禅師は陰に陽に石川禅師を励まし、また、穆山禅師在世中は勿論、禅師の随身門弟を本山の用僧として復興事業に助力せしめたのであります。また西有寺は二世玉田住職時代になっても、西有寺掛塔僧を本山に助力させたのであります。本山移転当初は、本山安居者よりも西有寺修行僧の方が、はるかに多かったのであります。西有寺専門僧堂が大本山総持寺分僧堂として運営された時もあり、両者相互扶助の関係はまことに親密でありました。
 昭和二十年五月二十九日の大東亜戦末期に於けるアメリカ空軍の横浜大空襲は、広島市原子爆弾空襲前に於ける所謂ジュータン爆撃の最大のものでありました。この空襲により西有寺専門僧堂は、新増築の講堂教室を始め本堂衆寮等全滅しました。副寺兼教授の善浪舜童師は爆風を受けて殉職し、僧堂の一切の設備も灰塵に帰したのであります。この時大本山総持寺監院は、前西有寺専門僧堂、曹洞宗第八禅林林長たりし安藤文英老師でありました。監院老師は本山の建物一部疎開等の臨戦の万全の策を講じ、本山と共に死なんと泰然として本山を守護した功あって、一箇所も焼けなかったのであります。あれだけの大きな多くの建物があり、而も軍隊が宿泊していたのに京浜間の大本山で焼けなかったのは総持寺だけという不思議な現象となったのであります。
西有寺の安居僧は非常に多く、学徒動員された者も居りましたが、在籍残留者は皆、大本山専門僧堂に安居させて戴いた次第でありました。そして西有寺専門僧堂はその年を以て閉単となったのであります。財団法人西有専修学校はその後数年間、神奈川県知事が再建を望んで、そのまま生かして置きましたが、再建の望み立たざるに依り閉校となりました。現在西有寺には、西有寺専門僧堂、同禅林、及び曹洞宗第八禅林に安居修学した者を以て組織した「西有寺会」というものがあり、毎年西有禅師の祥月命日の十二月四日に全国から西有寺に集合して報恩の読誦回向をして居ります。この集会は、西有禅師の精神を復活して西有寺専門僧堂を再建してもらいたい念願をこめてのものであります。西有寺僧堂関係者で現存する方は、講師であった榑林皓堂前駒大総長・駒大教授・永久博士、可睡斎専門僧堂後堂小川達道老師を始めとして相当人教居りますからこうした尊宿方の御指導も受けて一日も早く僧堂開単するよう祈っております。かつての西有寺僧堂には百二十名もの安居者がありました。その魅力が何であったかというと、
第一は開山禅師の穆山精神を修得すること。
第二には師家講師陣の充実。
第三には看読実習は宗門規程以上にやったこと。
であると思います。従って私は右の条件を現代化した専門僧堂を西有寺に於て再現してほしいと願っております。
 今や、総持寺、西有寺とも、大伽藍の完備を見、京浜間に相並んで、最高に発展していることは有難いことであります。