六十路会のこと
太田武美
(大正二年三月卒業生)
五十路会から六十路会になりて四年目、というのは私共は明治四十五年(十二月に大正に改元)に八戸尋常小学校を卒業したクラス会を今日まで連綿として持つ六十余才の仲間です。
尤も戦争の前後には、とぎれたこともあるが今尚廿余名の会合をやります。会場は長流寺やどこかでおよそ派手なものではないし、会長もありません。世話役の理事が数名あるだけ、物故の友の冥福を祈った後全く五十余年の昔にかえりて一杯やる。追加の会費はごきげんの頃合を見計りて座敷を托鉢?して景気のよい顔から寄附という仕組です。私共の一級あとには市長や松下総長、その他有名人がありますが私共の組は残念ながらドン栗のせいくらべです。
当時の恩師は加藤、類家、室岡、永山先生等甚だ恐縮ながらほとんどアダ名が今日追憶に偉大なる効果があるのには苦笑して居る次第です。
PTAなどの言葉は勿論ある筈もなくいたずら坊主は教室内においてすら先生のムチか棒かでやられたのですが、今日のように人権じゆうりんなどというやかましい問題もなくすべては師弟の愛敬と童心で割切って居たように思われます。
稲葉校長さんの教育勅語奉読の紫色のフクサに白手袋、そしてその手がかすかにふるえて居たことや、来賓の奈須川光宝代議士の立派なおヒゲや「赤手こ」の伝説のサイカチの木など遠い昔の想い出になりました。
茲に母校の創立九十周年の祝賀に際会する幸福と光栄を感謝してとりとめのない筆をおきます。
類 家 先 生
種 市 良 春
(大正四年三月卒業生)
明治四十一年四月、数え年七才のとき、八戸尋常小学校の一年生として入学した。一年の受持の先生は類家豊造という頭髪は短小、むしろ円満なる光頭。体躯堂々たる古武士を想わしむる先生。
私は、朔日町から六年生の兄と一諸に、始業一時間位前に登校するのが常だった。当時、現在の市庁前ロjタリーの高野槙の下に柵のような校門があり、明治天皇の行在所にもなったことのある明治建築様式の四角な八戸小学校の講堂があった。この校門と講堂とのあたりで、登校時の同じ類家先生と遭い、「種市、早いなあ」と高く叫ばれるのが今も耳にのこる。
類家先生は、体操遊戯の際には、陣太鼓を持ち出し、これを打ち鳴らしては私達の動作をかもし出さしめる。今も、三社大祭の長者山馬場にて打毬の太鼓に思いは昔に返る。
私は、一年と二年のニケ年に亘って、この先生に育てられた。そして、二年の終りの考査に、先生は、その当時の日本人としての教育根本理念であった「教育勅語」を毛筆で墨痕鮮やかに日本紙に書くことを問題としてだされた。
これができて、三年に進級、そして、副級長という白い毛糸に飾られた肩章が与えられることになった。
現在、八戸小学校校庭に街路樹の様にあるヒマラヤシーダは、昭和九年、私の植樹によるもので、私にとっては、生命ある記念となっている。
せんべいといわしの味
釜 萢 東 祐
(大正十年三月卒業生) この小学校に入学したのは、約五十年前のこと、青森から転住後、間もなくの大正四年の昔。絣の着物を着て、帯しめての登校、一文銭をもって、せんべいやあめ玉を買った想い出から始まり、薄暗い教室の中の、大きな火鉢に、あかあかと燃えている炭火を囲んでの、冬の物語りのうちに育っていった。
こうして、出張途中の快速列車で、半世紀もの昔の想い出を書こうとすれば、全く夢よりも淡い世界のことのような、そしてそれは南部せんべいの味がする。
低学年当時の想い出は、隣りにすわっていた中居松助君(八戸郵便局勤務)のこと、座席占有範囲や、持ちこんだお菓子のことでのいさかいを、ただよう雲のように想い起す。図画の手本にあったわらやねの家の模写が、どうしてもよくできなかったので、だだをこねたことも目に浮んでくる。
公衆衛生や予防保健も、十分でなかった当時であり、それに不作不況の時代で、体も弱かったせいもあって、虫歯と風邪になやまされ、欠席しがちだったようである。しかし三、四年頃から、港からたくさんとれて、安くてうまいいわしの味は、今もって忘れられない。頭も骨もみな食べる習慣がつき、健康な体になったのもそのためで、頭もついでに良くなったものと思われる。
四年生頃から、学校でローマ字を習った。英語は自学独習を志したのはよいが、単語の発音をビーオーオーケイなどと読んで止めてしまった。自動車が初めて八戸に来たといって見物に出かけたのもその頃。
五・六年生になると、上位成績の仲間入りができ、爪田亮君、晴山茂平君(八一高教頭)など、成績優秀な友だちの名前が出て来ます。担任の小向先生、隣の組担任の四戸先生の御教導の下に、よく学びよく遊んだことは今でもなつかしく強い印象に残っている。
家庭の事情で中学校に行けず、高等小学校に入り、その後で中学校・大学と進学できたのも夢のような幼心の中に育って、人間形成に大きな影響を与えて下さった小学校の先生と友だちにあったと思う。せんべいといわしの味こそ、小学校の思い出の味です。
子供四人とも八戸小学校にお世話になり、長男長女は大学卒業、二男は大学在学中、末子もすでに八高の二年生、想い出は子供たちに継がれて、母校の歴史も九十年。すべては敬意と感謝につきる。
追 憶 の 記
根 城 正一郎
(昭和三年三月卒業生) 創立九十周年にあたり学窓を巣立った頃の感慨を改めてしみじみと味わっています。八尋当時の苦しみ楽しさが懐かしく思い出されます。一番印象深く心に刻まれているのは岩手、青森二県少年野球大会に優勝したことです。毎日夕方七時過ぎまで猛練習にはげんだこと、中学校の受験準備のため教室が暗くなるまで勉強したこと、又私たちのグループが習字の時間水をこぼし下の教室で授業中の太田先生の頭をぬらして大目玉を頂戴し三時間も立たされたこと。あとでこの事件を作文にして担任の稲葉先生に出したら作文コンクールで第一位になり、講堂で朗読させられたあげく文集に出されたことなど思い出し、今更乍ら赤面の至りです 当時は野球は勿論競技、雄弁大会図画等県南第一の成績を上げ又同級の大橋君が県下学力コンクールで第一位をとるなど八尋の名声が高かったことを思い出します。
当時の男の先生の半数は和服に袴で女の先生は全部和服でした。私が五年の時父が東京土産に松坂屋から買って呉れた洋服を無理に着せられて学校に行った所、同じ日に同級の南部君も洋服姿で机についていました。友人から一日中ひやかされるので翌日から又元の着物に袴、下げカバンで通学したのをおぼえています。宿題を忘れたりやってこない場合よく余興をやらされました。えんぶりや三社大祭のはやし寅舞い太神楽等よく皆でやったものです。
今年の三社大祭で太鼓や笛を吹いている旧友を見つけた時昔を思い出し、思わず苦笑しました。校舎はコ型に建っていて中央は板で区切り男女別学だったのも今の子供たちには理解出来ないことで、野球で大活躍した同輩がハ中に進み甲子園大会に出場したのも八尋時代の練習の賜と思います。
先日私は卒業記念写真を偶然見つけて昔なつかしく眺めています。表紙に続く勅語詔書沿革を読み恩師旧友の昔の面影に接する時、六年間の母校での歩みが三十六歳月を乗り越えて浮きぼりにされ、はっきりとよみがえって来ます。今日の立派な学校内容にふれ、益々発展する母校の姿を見まして今昔の感を深くしています。
アダ名礼讃
富 岡 綾 子
(前校舎最後昭和四年卒業生) 「○○デブ、ブタおこりっぺ」とは、まるまる肥ったよくお小言をいう先生のアダ名。頭の禿げ上った先生は「止まると滑る」。やせて色が白く面長な先生は白描。御年配の束髪の先生は「ババサ」。
おでこが出っぱって四角いお顔の先生は南京豆先生。学校を出たばっかりの「五郎ちゃん」 「新ちゃん」と呼ばれる若い先生はアダ名のたぐいからは角度の違った愛称だったのかもしれない。
とに角、何時、誰が、何処で奉ったかもしれないアダ名が生徒間では通用していた。時は大正の末期から昭和のはじめにかけての旧校舎の私の小学校時代、男女七才にして席を同じうせずのことわざ通り小学校に人学した時から女生徒の組、男生徒の教室と、すっかり区分けされ、生徒の大半が和服に袴。二・三の洋服姿が人目をひいた時代の女生徒陣の間でかくも数多くのアダ名が氾濫していたのだから、お隣の男生徒陣は如何にと案じあげても考え損。男の子とおしゃべりでもしようものなら、不良という頭文字がつけられた時代。そうです、当時八戸一を誇った八戸尋常小学校といっても長い校舎のはしっこからはしっこ迄、ガランガランと腰の曲った小使さんが、ゆっくり鳴らして歩く鐘の音に授業が始まり授業が終った四十年も昔の話ですもの。こう書いてくれば、ついでにその頃の時代色豊かな絵を書き入れたいと思うのですが、女学校卒業以来、絵というものを描いた事がなく…その頃はいともじょうずなつもりで居たものですが、手が武者振いするものですから。
とんだ脱線をしましたが、もしも人間の顔が神様が他人と見分けるためにつけられたその人のシンボルであるとするならば、アダ名は人間どもが贈ったその人の代名詞ではないでしょうか。我らのありがたき恩師のありし日のお姿と共に心に残るそのアダ名。本名は思い出せなくっても、教えられた算術の法則はしどろ、もどろになり、歌った唄の文句は忘れてもいつ迄も心に残るなつかしのアダ名、先生よ、アダ名がついたからとて嘆くなかれ。アダ名こそ教え子の心に残る永遠のフイニックス。アダ名をしゃべることによって昔にかえり、なつかしの絵巻が頭の中にくりひろげられるのだから。
小学校の頃を偲んで
美濃部 洋 子
(昭和五年三月卒業生)
母校八戸小学校が、この良き秋に九十周年記念式典を挙げるときいて、九十年という年月の中のある六年間に、私の幼い生活の足跡も刻みこまれていることを、今更のようになつかしく、深い感動をもって思い起しております。今、私の胸中に八小学校六年間の年令にかえった私と友達、そして先生方、若かりし頃の今は亡き父母の面影、今はもう忘れられかけている往時の八戸町の家並み、等々が美しい絵のように、詩のように浮んで来て、涙が出そうになったり、ほほえみをおさえきれなくなったりしております。
私は大正十三年に入学し、昭和五年に卒業したのですから、その間の思い出は、大体四十年前のことになります。入学したのは古い古い校舎でした。長い大きい建物で、何時の頃からか本州とか四国とかいう呼名のついた棟々がありました。一年生の教室は、本州のまん中頃で名物の年経た大きなサイカチの木がま近く見えたあたりでした。私はその頃のメイセンの着物に友禅メリンスのひふに、えび茶の袴で入学式に参りましたが、一年生の受もちは、浅水先生、山本先生、太田先生、福士先生方で、幼い生徒たちにはただただ畏敬のまとで、又、心のすみでは、うんと甘えたい思いもかきたてられる温情のあふれた先生方でした。入学間もない五月十三日の大火で一時避難所となって休校になった学校がやっと始まった時の嬉しさは大火の恐ろしさにもまして印象に残っております。二年生は同じ先生、三年になって、今から思えば、学力向上対策とでもいわれるような級編成があったり、四年で又組変え、五・六年は同じ組で小学校仕上げの勉強にはげんだことも、ありありと思い起されます。六年の時は四国へ転出?それは上、下で四教室ある渡り廊下つづきの一棟でした。四国の住入になってからは、最高学年の誇をもって、夕闇のせまる頃まで学校に居残っては、お裁縫などにもよく励んだものでした。
四年生から始まった裁縫も大分上達していて、曲りなりにもその頃ものにすることのできた、メリンスの一つ身は、十年余り後に、私の娘の、さとの母との初対面の時の晴着に役立って、三代に渡る母と娘の忘れ得ぬ思い出になって居ります。六年生の一学期の中頃、今の校舎が落成し私たちはめいめいの机や椅子を運んで引越しをしました。ここでこの新校舎第一回の卒業生になるのだという自覚にもえて、よく学びよく遊んで過した日々はただ楽しい思い出となって浮んで参ります。木の香の新しい校舎の床は、当時の長谷川協助校長先生はじめ全校の先生も生徒も一諸になって、汗を流し糠袋などで懸命にみがきをかけましたので、今も、たまに何かの会合などで訪れますと、素足で講堂の床板をふんでみたくなるほどなつかしく感じます。昭和五年三月、六年の受持ちだった正部家先生、熊谷先生(現田中先生)、山根先生、故満江先生方に御別れを惜しんで卒業した日の感激も今日はありありと思い起こして居ります。
童の頃の思い出
木 幡 清 甫
(昭和六年三月卒業生) 何か書く様との御命令ではあるが、小学校の頃から、何分にも四〇年近くも才月は流れている。自分では青年のつもりでいても、いたずらに馬齢を加え、年令だけは、先生なら教頭、校長クラスになっているのに驚く。
私が小学校に入った年の五月に、八戸の大火があり、今の八小のところは、その頃、農事試験場といわれ、そこに天幕村が張られ、罹災者の応急収容所にあてられた。その日は夕刻近くなっても、一望の焼野原のいたるところから余燼がくすぶり、元の市役所角にあった鐘楼が、一段と淋しげに目立っていた記憶がある。
一、二年の時の担任は鈴木先生(お名前は忘れた)で、お宅は上徒士町にあり、相当御年輩だった様な気がする。
三年生の時から、今はもう姿を消した名物のサイカチの木の下で、毎年写真を撮って貰ったが、幸にも戦災を免れて、それ等は今私の手許に残っている。どれもこれも懐かしい顔だが、何割かの名前は完全に忘れてしまった。
三年は、師範を卒業したばかりの江渡孝太郎先生で、まだ制服制帽のスタイルで登校されていた。今は市内の中学校長をされている筈だが、一度もお目にかかったことがない。
四年は、黒沢精一先生。後年八中の先生をしておられた時、二・三度お会いした。
五年は、溝江浩先生で、師範卒業後何年も経っていなかった様だ。八小(当時は八尋)野球部の生みの親ではなかったろうか。旧校舎の下にあった徒弟学校の畳の部屋で、柔道も仕込まれたが、ともかく元気な先生で、ビンタをとるのが得意であった。
六年には田中勝先生。おとなしい方であったが特別の印象は残っていない。
六年生の時、市制が布かれ、私共も旗行列やら提灯行列にかり出され、間もなく現在の校舎に引越した。だから、私共は今の校舎の第一回卒業生ということになった。
それから三十幾星霜を経たわけだが、私が今でも残念に思っていることが二つある。その一は、八小学校の卒業アルバムに、先生方の名前はあっても生徒の名前が一切載っていないことである。これでは顔の記憶があっても、簡単には名前を思い出す術がない。
その二は、私共のクラスでは、選挙に打って出る人がないからというわけでもあるまいが、小学校時代のクラス会を全然やらないことである。中学のは、年に二度位集まる機会があり、お互いに親交を深め、相扶け合っている。小学校時代の学友諸君も正に働き盛り、おのがじし、それぞれの道に於いて健斗していることとは思うのだが。
想い出
和 田 喜美子
(昭和六年三月卒業生)
なつかしい母校の創立九十周年記念を迎え心からお慶び申し上げます。
私たちの小学生時代の思い出はなんといっても古い校舎から新しい校舎へ引っ越しました五年生の時のことが一番深く心に残っております。広い校庭のまん中に高く一本つっ立っているポプラの下で夜空を赤々と染める焚火を囲んで全校生徒が旧校舎にお別れの会をいたしました。合唱やら遊ぎやらいろいろな催しが行なわれました。私たち五年生の有志は白い服でユーモレスクを踊リました。そのときの踊りの振りや焚火のほてりが三十余年も過ぎた今でもつい昨日のことのように思い出されます。旧校舎は今の市役所の場所に建っていて、離れ校舎の四国やトテ学校もある長い長い端から端まで行って見たくても迷路が多くて子どもひとりではうっかり歩けなかったくらい長くて薄暗い校舎でした。その旧校舎から今の明るい近代的な新校舎まで各自が机や椅子を持って長く敷き並べた「むしろ」を渡ってエッチラオッチラ引越したことも忘れ難いことの一つです。
青々とした畳のある作法室や裁縫室、広い講堂、理科室やその他の特別教室、広い廊下、シャッターのおりる防火壁、避難用のスベリ台等、何もかも新しく立派な校舎に目を見張り名実共に八戸一の校舎のできた喜びに、きれいな校舎をよりきれいにしようと糠袋で精を出してそうじしたものでした。そのころの八尋は中々進歩的で勉強や運動その他なんでも他校より抜きん出て強く、カップや優勝旗が応接室にズラリと並んでおりました。そのころ毎年催された登校合同の「子どもの夕べ」でも流浪の民の四部合唱等、今考えても本当にやれたのかしらと思うようなものを発表してピカ一的な存在でした。その伝統ある母校に今度は子どもたちがお世話になり「おかあさんの昔話」と、笑って冷やかしていたその子どもたちも十年後の百周年記念には私たちと同じように母校をなつかしみ八小に学んだ誇りをしみじみ味うことと思っております。