2008年3月1日土曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 3

それから日本医科大に進んだ室岡玄悦さん。大下常吉さんの二年後輩で、大学の勉強を早めに切り上げて、夏休み前に古い硬式ボールを袋いっぱい背負って来てくれました。当時はボール一個が一円五十銭でしたから、本当にありがたかったですよ。室岡先生は、終戦直後のあの物資不足の時期に新品の硬式ボールを八戸中学に寄付してくれた方なんです。
 練習では、私は捕手もやったし、バッティング投手もやりました。自慢じゃありませんが、肩は無類に強かったし、走るのは浜で鍛えられて、野球用のスパイクをはいて百㍍十二秒でしたから。大下常吉さんに「お前、もう少し早く野球部に入っていれば、いい外野手になったのになあ。惜しいことしたもんだ」と言われました。
 練習グラウンドは、今の八高のサッカー場の下の方にあって草ぼうぼう。ファウルすると、すぐボールが見えなくなる。探すのはマネジャーの仕事みたいなもので、私は一番早く見つける。暑くなるとブヨが剌すんです。ストッキングの上からも容赦なし。ヨードチンキという薬、今でもありますが、あれを塗るとなんとか防げるんですが、それでも剌されて、私は皮膚が弱いものですから、ボコッとはれて大変でした。

焼きイモで腹ごしらえ
 それと、外野の奥の方に柔道場があって、ボールが飛んでいくと屋根を時々、破ったりする。ボールを返してくれなくて…。主将は小中野出身の大久保正君。「おい今度、焼きイモ買ってくるからなんとか返してくれ」と交渉したものです。
 焼きイモは、大工町の横町ストアの所で、おやじさんが小さな平屋の店をやって売っていた。練習が終わって三里の道を浜須賀まで歩いて帰るんですが、腹が減ってとても歩けない。焼きイモ屋に寄って腹ごしらえをして、やっと人心地がつくんです。
後で、横町ストアの息子さんたちに、その話をして、「いやあ、君たちのおやじさんには随分と世話になったんだよ。あそこが、野球部員のたまり場みたいになっていたからなあ」と言うと「うちのおやじは、それでもうけたんじゃないんですか」。とても、そんなにもうかるわけじゃないんですが、夏場は氷をかんなでカリカリと削って、氷水を出してくれるやさしいおやじさんでした。

昭和3年の奥羽大会
 当時のメンバーは、投手で四番が大下健一。常吉さんの実弟でサウスポー、速球と外角へのシュートが武器。セカンドが後に石橋スポーツ社長となった石橋政太郎、打順は五番。一番がショート橋本、二番レフト小泉、三番サード田端、六番ライト三上、七番キャッチャー田中、八番センター泉山、九番ファースト阿部という布陣でした。
 大下健一君は私の二年下。年齢は同じなんです。ある時、兄の常吉さんとけんか、野球をやめるということになって練習に出てこなくなった。そこで学校の裏門で待ち構えていた。「おい、大下、待て」「あっ、監督」「ちょっとこっちへ来い。お前随分早いな」「今、家さ帰るとこです」「家さ帰って何やるんだ」と聞くと黙っている。
 「どうもうわさは本当のようだな。お前野球やめるつもりか。お前がやめれば投手がいなくなる。それも困ることだが、一体、お前は野球をやめて何をやるつもりだ。勉強して東大なんかに行けるのか。おれは見込みないと思う。持って生まれた天分を生かし、野球をやってこそ人生が開けるんじゃないのか。兄さんと何かあったかしらんが、一晩じっくり考えてこい。おれは人間・大下にものをいってるんだ。野球しかお前には能はない」と言ったんです。
 そしたら次の日「監督、心配かけました。私も野球しか能がないと思う。許して下さい」「よし、腹すえてやれ。なんとしても勝つべし」ということになったわけです。後日、大下君は「あの時は怖かったなあ」と言っていましたが…。

秋田師範と決勝、9対2で逆転勝ち
 対外試合の交渉なんかも一手に引き受けました。また、当時の中学野球の規定は「学術優秀、品行方正でなければ出場資格はない」とされていて、落第した者は出場できなかったんですが、選手の成績を調べて、危ないなと思うと夜、先生を訪ねる。
 「今の野球部のメンバーは、こうです。彼が欠けると戦えないので、なんとかよろしく」と頼んで歩いた。先生はにやにや笑いながら聞いていて、それでも何とかしてくれたものでした。
 さて、昭和三年の奥羽大会は秋田で行われ、八月五日に決勝で秋田師範と当たった。大会中は縁起をかついで、○○中学対八戸中学という掲示の際には、絶対に八戸中学を下には書かないでくれと朝日新聞の秋田支局に申し入れもしました。「横書きであれば我慢する」なんてことを言ったり…。行動力というか反抗心旺盛というか。
 決勝戦は一度は逆転されたものの五回、七回に大量点を奪って9―2で快勝。試合経過は、八高が七十周年の時に出版した「大杉平の七十年」に木幡清風先生が詳しく書いておられますが、大下常吉さんが、秋田師範の投手が一球ごとにベンチのサインを見て投げるのを見破り、集中打を浴びせたんです。
 「秋師の斎藤投手の大きく割れるカーブに悩まされたが、大下コーチが秋師ベンチのハンカチや扇子、足を組むなどの動きが多いのに気付いた。注意していると、捕手が一球ごとにベンチを振り返る。ハンカチで額をふくとカーブ、足を組むと直球。四回以降は直球のサインが出たら打てと戦法を変え、ガンガン打ちまくり、七回には田端、大下がショート強襲。田中が左前安打。泉山がとどめの三塁打を放ち一挙5点を挙げて押し切った」
 アサヒスポーツの戦評では「八戸はヒッティンブ・システムをウェイテングに変更して……。秋師投手が連日奮戦の結果、疲労困ぱいの極に達せる時、縦横に健棒を振りまくって奥羽の覇権を大正十五年に続いて再び取り戻した」と書いてあり、サイン見破りには気付かなかったようでした。

甲子園で感激の行進
 あこがれの夏の甲子園大会は昭和三年八月十二日が開会式でした。その三日ぐらい前に大阪入りして、大阪朝日新聞社の大ホールで抽選会に臨みました。各校が、校歌を歌いエールの交換をやる。今は出場校も多く、やってないようですが、感激しました。
 私が大学卒業後、お世話になった苫米地義三さんが、当時、日本油脂の前身である合同油脂の常務をしておられて「郷土の後輩たちに昼食をごちそうしよう」と招待してくれた。工業倶楽部のレストランに招待されて行くと、苫米地さんが「諸君、よく来た。きょうは、大阪の社長連中がふだん食べている昼食を君たちに食べてもらう。頑張ってほしい」と話された。洋食で、ハンバーグかなんかだったように思われます。スープなんかも出て、うまかった。
 開会式には、私もユニホームを着て、入場行進しました。すでに内野スタンドは整備され、外野も人でびっしり。今でも目を閉じると、あの時の光景が鮮明によみがえってきます。球場の素晴らしさには「いやあ、オレたちの八戸は草野球だなあ」と実感したのを覚えています。
 入場行進の写真は、アサヒグラフに載りましたが、途中で行進の列が途切れている。「なんだ? ちゃんと歩けなかったのか」と後で冷やかされましたが、紅白のリボンで飾った始球式のボールを飛行機から落とす場面で、これを見上げていた者がいて、それで列が途切れた。私は最後尾を歩いていましたから。
 物珍しげに飛行機を見上げていたのは石橋政太郎だったということになっています。本人はもちろん「オレじゃない」と言っていましたが。

1回戦完封負け 大下さんに大目玉
 当時の応援団は、大阪在住の県人会とか先輩たちだけでした。遠征費用も先輩たちが集めてくれる。阿部真之介さんや中島石蔵さんなんかは野球が好きで、合宿の時には、よく肉を差し入れしてくれました。「あの時の肉は本当にうまかったですよ」と後年、阿部さんにお礼を言ったら「よく覚えていたなあ」と笑っていました。
 試合は大会二日目の八月十三日。京津代表の平安中学が相手。平安中は台湾の嘉義農林から転校してきた伊藤兄弟を擁して全盛期。伊藤兄は、この年の五本の指に入るといわれた好投手で、八中は、わずか4安打。十二個の三振を喫し、守備でも乱れて5―0で敗退しました。
 学生野球の大御所だった飛田穂洲さんが、この試合の戦評を「素朴を賞し気概乏しさを惜む」と題して書いています。「平安は四回二点を得た。香椎(平安の二番打者)の右飛は平凡な飛球。右翼も二塁手も一塁手も捕ろうとせず線上に落ち、それをファウルとでも思ってか早く拾おうとしなかった為、二塁打となった。続く伊藤の三塁打も、実は右翼手が飛球の方向とは反対に回った為、見当を誤ったもので、投手・大下には気の毒であった。(中略)試合の内容は、はなはだ貧しく、平安は平凡に勝った」と実に手厳しい。
 でも、その後に「先輩・大下に学べ」として「八戸は醇朴そのままの気持ちよいチームだが、温和し過ぎる。男らしく戦え。(八中の先輩)旧早稲田の大下常吉は、球拾い時代に、半年ばかり飛球をつかんだことがなかった。しかし彼には東北人特有の晩成力と不屈の精神と強力目醒むるばかりのファイテングがあった。評には不用だが、八戸は名誉の先輩を有していることを失念することなく、明年を約して努めねばならぬ」とぬくもりのある言葉を示しています。
 敗退したら大下常吉さんが「コラ!一列に並べ」。バットの根元で、全員の頭をゴンゴンゴンとなぐり「何だ、お前らは。私立学校なんかに負けて」。平安中は、その後勝ち進み、とうとう決勝まで行ってしまった。決勝では長野の松本商業に負けましたが、それを見て大下さんは「ウン、お前らじゃ勝てない。よくやった」。一週間もたってから、やっとほめてくれました。

宝塚見て母見舞う
甲子園で平安中学に敗れて大下常吉さんにしかられた翌日、野球部長として一緒に来ていた尾形先生に申し出た。
「先生は、かつて関西におられたこともある。野球部員は私が引率して帰りますので、先生は思い出の場所を歩くなり、知人に会うなりなさって下さい」。大阪で先生と別れて、別行動をとり「さあみんなして宝塚を見に行くべ」。
 あのころ、甲子園への出場校は、今と比べるとかなり少なかったんです。滞在費は、一回戦で負けても決勝戦までの分が支給されました。われわれは大会二日目で負けたものですから、お金はたっぷりある。宝塚歌劇の舞台は、やはり美しかったし、女性も本当にきれいでした。
 レストランに入ると、スイカを二つ割りにしたのに水とハチミツをかけたのが出た。「おっ! これは八戸にはないものだなあ」とみんなで食べましたが、実においしかった。本場の神戸牛のスキヤキも、十分たんのうしました。いい時代でした。
 母が心臓を悪くして仙台市の病院に入院していたので、私はひとり仙台で下車して見舞いに行きました。
 「だれもケガしないで帰ってきたじゃ」と言うと、母は「皐二郎、野球は勝ったのか?」「いや負けた」「大阪は、ぬくくて、あったべ」「ああ、ぬくくてぬくくて、野球どころじゃなかった。オレは、これから高等学校へ行く準備するから」、そんな会話を交わしました。
 十一月に入って、群馬県の桐生市で市営グラウンド開設を記念しての全国選抜野球大会に招待され遠征しました。一回戦で広島の広陵中学と対戦。当時の広陸中は、前年の甲子園で準優勝、後に明治大学に進んで東京六大学で大活躍した八十川という投手を擁していた強豪でした。
 結果は八中が安打3、三振5.広陵が安打5、三振4で2対0で敗れましたが、大下健一投手は、Aクラスのチームを相手に好投しました。左投手独特の外角に鋭く切れるシュートと、内角へ肩口から入るカーブが素晴らしかった。あの時から大下君は自信を特って投げるようになったようです。
 大下君は昭和五年の神宮大会で決勝に進み、平安中学を相手に7対6で敗れたものの十五奪三振を記録。早稲田大学に進み、新人戦で優勝、主将を務めました。
 桐生で試合が終わった後、市の野球関係者が来て「素晴らしい試合でした。ついては桐生中学も阿部という兄弟バッテリーがいて強いので、何とか練習試合をやってもらえないか」と申し込まれました。大下常吉さんが「学校から来ているのは秋山君、お前だけだ。事情を話して許可をもらってくれよ」というので、早速、校長官舎に電話を入れた。
 鈴木安言校長が「そりゃあ、いいなあ、やって来い」という答え。大下さんに「許可もらいましたよ」と伝えると「ヨシ、あとは任せろ」。桐生の役員に電話して「費用は全部、そちらで持つんだな。引き受けましょう。ところで選手も疲れてるんで、何か、うまいものを食わせたい。食堂を 紹介してくれ」。スキヤキ屋を紹介してもらって「たらふく肉を食えよ。費用は桐生市で持ってくれるそうだ」というわけで、十二人でなんと三十八人分も食べました。
 帰って来て、遠征費用の整理をしてたら、選手の個人負担となっていた弁当代の計算書が出てきて、学校で当然負担する、というので八十三円五十銭が戻ってきた。みんなを集めて、またスキヤキ。とても食べきれなくて、その金と部費の残りで野球用具をそろえました。バットとユニホーム、ボールなんかを新調できました。
 恵まれた野球一筋の中学時代は、本当に悔いのない青春でした。しかし、その後に大きな試練が待ち構えていようとは…。人生というものは、なかなか味のあるものです。