十五柱の神々を祭る
うぶすなさま荒谷の天満宮
美事な桂の御神木
売市の天満宮は、長根の天満宮をすぎて香月園前の三叉路から、左側の小路を売市のバス通り(国道104号線)に向う道路添いにある。
この進を土地の人達は「てんまみち]と呼んでいた。昔は荒谷の学校とこのお宮は向いあっていた。境内はあまり広いとは言えない。間口3間半 (約12m)、奥行5間(約16.5m)の木造のお堂が、西向きに建っている。大分やつれている。
正面の欄間に掲げられている「天満宮」と書かれている額は、お堂とはつり合わず立派なものである。
朱塗りの鳥居のそばに、樹令2~3百年位と思われる桂の木が大小2本立っている。見事な御神木である。
お堂の前右側に、自然石の碑が二体並んでいる。ひとつは筆太に、「十和田山大権現」天保14年8月12日と、もう一基には、「金比羅大権現」慶応3年12月吉日の年号が刻まれている。
天満宮は、荒谷の産土神(うぶすながみ)として崇められているが、祭神は言うまでもなく菅原道真朝臣命である。そのほか態野大権現、豊受大神宮、月山、湯殿山、羽黒山、白山、子安様、稲荷神社(境内に別に小さな祠に祀られている)、農神様等々15柱が祀られているという。
このように沢山の神々が祀られたのは、明治維新の廃仏毀釈の時、お寺を追われた神々の難をかばい、お招きしたからであるということである。
天満宮のお祭り
天満宮のお祭りは、菅原道真の命日である2月25日に行なわれるところが多いが、ここではそれと異なり、旧の11月24日に行なわれている。それには次のようないわれがある。「昔各地に悪疫が流行した時、荒谷の周辺には全然病人がでなかった。産土神の御加護であると感謝の意をこめて、この日にお祭りを行うことになった」と伝えられている。
春を呼ぶ春祈祷
お正月も過ぎた1月中旬、笛や太鼓、手平鉦をお供に(歯がみ)の音も高々と春祈祷の権現様が荒谷の家々を訪れる。春の前ぶれと歓迎されている。この時いただくお札には、「天満宮熊野権現」と大書され、朱色の大きな印判がどっしりと押されている。荒谷のえんぶりの人達が熊野権現に奉仕しているのだということである。
天満宮は荒谷の産土神として祀られているので、神様のルーツをもうすこし尋ねてみたい。
天満宮の祭神菅県道真朝臣命は、学問の神様であることは有名であるが、同時に書の神様でもある。弘法大師、小野道風と共に「書の三聖」と言われるほどの腕の持主でもあった。又、梅をこよなく愛したが、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」の歌によって表現している。天満宮では、京都の北野天満宮、九州大宰府天満宮、東京の湯島天満宮、亀戸の天満宮等が有名である。
副神 熊野権現
熊野権現の本社は、和歌山県紀伊半島にある。
紀伊勝浦駅から山に向って車で20分程行くとうっそうとした原始林が見え、その中に高さ133 mの日本一の那智の滝が見える。熊野三山の一つの熊野那智大社がここにある。熊野信仰の根元は那智の滝にあり、この大瀑布を御神体として生れたものである。
熊野那智大社(那智勝浦町)
熊野速玉大社(新宮市)
熊野本宮大社(本宮町)
この三社を熊野三山、三所権現或は三熊野と言っている。
青森県の熊野信仰
青森県内の熊野信仰とのつながりは、十和田湖伝説の主、南祖坊をはじめ、岩木山の三所権現、八戸では常泉院(栄尊)、大泉院、熊野堂等修験者達は、当然熊野権現とは直接つながりがあったと思われる。
それについて川口前四郎氏は、別当とは親戚関係にあるのだがと言って、次の通り語ってくれた。「寛文5年八戸南部(三八城山)初代藩主となった直房公が、まだ盛岡に在住中昵懇にしていた士、高橋勘五郎を修験となして無量院と号せしめた。後、常泉院栄尊(本姓を野田と改める)と呼び、修験の頭領となして、神社、仏閣に於て祈祷をなさしめた。
当時、八戸地方に於ては、軽米村には修験松本院、八戸にては修験大泉院(大泉坊と称した)久慈村にては同南光院、南学院、南等院、名久井村本光院等は各地方に於ては大祈祷師であった。
常泉院は領内修験の総禄を命ぜられ、是等の修験を命令した。そして法霊、神明、長者山の三社、豊山寺、蕪島弁天、湊大祐の六ケ所は主なる祈祷所であり、そこでは常泉院の命によって、修験、神官、僧侶、別当等が祈祷をなした。
宝永6年暫らく雨が降らず干ばつの様相を呈したので6月22日領内の全修験を集め、池野堂に於て雨乞いの大祈祷をなさしめた所、同月25日に雨が降り、人民蘇生の思いをなしたことがある。
その大泉坊は熊野堂権現を兼ねていたが、上市川の池野堂より移ってきたと言われている。
大泉坊・城前坊 二洋平義雄調査
売市字長根に、大泉坊の屋敷跡という所がある。長根町内に住む、野田テルさん(80才)からの話をまとめてみると……。
大泉坊の祖先は、遠く藤原源氏の末えいで、藤原源氏が戦いに敗れて、市川村字池ノ堂部落に山伏となって隠れ住みついていた。幾百年かを経て、八戸藩の客分として招かれ、長根の天満宮の隣地に、千刈坪を配領して住むことになったとのこと。市川村から移住してきたところから、市川姓を名乗ったのだという。又大泉坊の分かれに、城前坊という者がいて、これが長根の根城家の祖先とのこと。
一説には、城前院坊の院号の前は、常就院とあり、その後常寺院と称したともある。城前院の後継者は苗字を根城氏を名乗ったところから現在は常寿院を語呂合せのように″じょうぜん″と称して根城氏の家号となっている。
よって常就院~常寿院~城常院~じょうぜんは一連の名称である。
大泉坊は学者肌で宮司職を業とし、城前坊は農業に従事する豪農だったが、元は共に山伏であり、大泉坊の墓地には市川家と根城家の墓がある。なお大泉坊市川家の家紋は、十六坊菊である。
大泉坊市川家とゆかりのあるのが長者山の常泉院であるが、長者山附近に常泉院が住んだところから、常泉下という字名が残っている。ところが大泉坊の住んだこの地域には、残念ながら大泉坊下という地名は残っていない。
大泉坊の住んだ地域は、右水門下、左水門下とよばれている。現在の長根総合グランドは、以前は、農業用貯水池、即ち長根の堤であった。堤の両側には、水門があり、現在もそのまま残されているが、左水門は余り使用されていない。今後水門の整理も考えられるので、両水門からの字名の起源が忘れられるかもしれないので、ここに改めて、両水門のあったことを記して置きたい。
産土神と鎮守様・氏神様
「うぶすながみ]或は「おぼすなさま」と言って、自分の生れた土地の神様、或は住んでいる土地の神様をそう呼んでいる。
又、同じ氏(同姓)の人達が一緒に祀る神様を氏神様(人の方を氏子)という。いろいろの違った氏の人達が、共同で祀る杜を鎮守様と呼んでいる。しかし今は、産土神も、鎮守様もあまり区別して考えていない。
長根天満宮・
はじめ、三戸永福寺の住僧が文明3年6月、 八戸天神の御神体と八幡の御神体を京都で作ったとき、長根天満宮の御神体も作り、東構あたりに祀ってあったものと思われる。寛永4年大守利直公が遠野へ移封されたとき、別当であった東善寺住僧栄尊も本宮の御神体を持ってお供したと言われている。
それからどのくらいの年月が経ったか明らか ではないが、① 長坂に禅源寺と隅の観音と並んで建てられた。② それがいつの頃か東構に移った。③ それから享保3年3月2日に火災にあって焼失し、そのまま放置されていたのを元八戸藩士津村邸跡に、弘化の頃移転した。
先に述べたように、御神体は遠野へ持っていかれたので、九州大宰府天満宮の梅の古木で御神体を作ったという。
弘化3年(1846)現在地に遷座された。
明治初年白山宮、鹿島神社、八幡宮、山神社、熊野神社の五社を合祀現在に至っている。八幡宮は根城本丸跡にあったものであるという。境内に筆塚の碑があり春秋例大祭を行っている。旧藩時代は大神宮と言った。現在は天満宮と呼んでいる。
祭日は9月25日、社総代根滅入右工門外6名。
(川口前四郎)
お祭り参加35年の花道
報いられて最優秀賞
平成4年の三社大祭に、売市の山車は栄えある最優秀賞に輝いた。前年に優秀賞を受賞していたので、2年続きの栄誉である。しかも、お祭りに参加して35年目という記念すべき年にあわせるように、見事に花が開いたわけである。山車を曳く子供達にとっては、最大の贈りものになった。子供達は大喜びで自慢しあったのは勿論であるが、お祭りの若者達も、永年に亘る苦労が報いられ、その喜びはひとしお、大きなものであった。
毎年春早くから、製作に携わり、苦労を重ねてきただけに、その甲斐があったと言うものである。祝賀会での乾杯は、本当にうまい酒であった。
ここ5年程続けて努力賞を受賞し、昨年は優秀賞を受賞した。これも指導者に人を得たということであろうし、又作る人達の技術が向上したとも言える。
平成4年10月3日、八戸グランドホテルに於て催した35年の記念式典に、宮沢文夫委員長が 「最優秀賞を受賞できたのは、皆さんのお力添えのたまもの、これからも地域に喜ばれる山車をつくっていきたい」とあいさつをのべたが、この謙虚な心が実を結んだのであろうと思われる。
山車組の功労者
この式典では、その発展に尽力した次の人達に感謝状を贈って、その功を謝した。
創始者初代委員長 故中村利雄
々 副委員長歴任 故宮沢三次郎
々 三代目委員長 故西村清一
元委員長 二代目委員長 野沢 剛
々 四代目委員長 中村倉松
々 五代目委員長 市川儀郎
々 六代目委員長 川口徳治
々 七代目委員長 中村明人
功労者八戸山車絵師 夏坂和良
々 山車人形着付功労者 広津淑子
平成3年に優秀賞を受賞した山車の題材は「白蛇伝という中国京劇であった。「白蛇伝」の舞台の両側に配した円柱を、中国風に朱や青の原色或は金色などの、おきまりの色彩をとらず、白一色に仕上げたことは、重厚さを表し、全体に深味を増して盛り上げている。正面の焦点を絞り、統一を図ってすっきりさせたならば最優秀賞に限りなく近づいたであろう」という評であった。
平成4年に最優秀賞に輝いた山車はデーリー東北の「山車ものがたり」に次のように紹介されている。
スーパー歌舞伎・京劇リューオー(龍王)
市川猿之肋の企画演出による中国三大怪奇小説「封神演義」ナタの龍退治と近松門左衛門の「国性爺合戦」を組合わせた物語を題材とした。日本の漁師・海彦と超能力を持つ中国の少年・ナタが協力し、海で悪事を働く巨大な龍王との戦いの場を表現したものであった。
優秀賞・最優秀賞に入賞したこの作品は、夏坂和良氏の指導によるものである。
附祭の事始め
昭和32年の夏の頃、屯所に土用干しに何人かの人達が集った時に、たまたま山車の話が出て隣の新組も山車を出した。我が町でもお祭りに参加しようではないかという話が出た。
今子供達はお祭りになると、よその町内の山車に参加している。自分達の町内の山車を曳く夢をかなえさせてやりたいということである。
農業をしている人は、お祭りの準備に人手を必要とする時期は、農繁期と重なり合って手伝いは不可能だ、従って実現はむずかしいというもっともな話もあったりして、仲々話は進まなかった。
しかし、実現派は熱心であった。とにかくやってみようと、中村利雄氏が代表となり宮沢三次郎、西村清一氏等を中心に準備を進め、翌年(33年)から参加することに決め、神明宮の附祭になることが決った。何もかも初めてで勝手がわからなかったが、慎重に話し合った結果題材に歌舞伎の外題のトップである「勧進帳」と決った。しかし、台車を始め人形も何も無いので、先輩格の廿六日町の附祭りから、いろいろ指導を受けた。そしてすべてのものを借りることにした。自分のものと言えば、やっと買った曳綱位のものである。肝心の山車の人形も二体ですませるという離れ技もやってのけた。
準備金も無いので、お祭りに参加しても、翌日の昼食の準備にも事欠いて、米や小豆、魚など材料を、各自が持ち寄り作るという、今では想像もつかないような苦労をしたのであった。
(市川儀郎氏談) 努力賞の山車
昭和61年売市がお祭りに参加して29年目に山車が努力賞に入賞した。題材は「雷神不動北山桜鳴神の破戒」であった。
川口徳治代表はおどり上って喜んだ。皆の苦労に報いられると言って目を真赤にして酒をついで回った。
63年から中村明人氏が代表を引継いだが、どう運が付いたものか、61年から62、63、平成元同2年と連続して努力賞を受賞した。そしてついに平成3年に優秀賞を受賞した。中村明人代表の笠ぬぎの時の挨拶の言葉も嬉しさにふるえていた。
山車の審査
お祭りの理解者で長い間、山車の審査委員長をされた故音喜多富寿先生が審査の際「山車の審査はひとり山車だけではなく、次の三点のバランスを考えなければならない]とよく言われていた。
第一は、山車の着想は、見て楽しくわかり易 いもの、飾り付けは美しいもの。
第二は、お囃子の太鼓、笛は揃って、音頭は メリハリのきいたもの。
第三は、曳子の掛声、態度に元気あり、衣装 は清潔なこと等を強調されていた。更に、①時代考証は尊重しなければならないがあまり、こだわらない。②むごたらしいもの、殺伐な場面はお祭りの山車にふさわしくない。③子供が楽しく見られるものを歓迎したいと言うのが口ぐせであった。
山車づくりは類家、塩町、市職員互助会、青年会議所がひと時代を牛耳ってきた。長横町の山車の構想も好評である。それらの山車づくりの構想によって、八戸の山車は横に拡がり、上に延び2倍にも3倍にも大きくなり、文字通り豪華で絢爛なものに発展してきた。これは、或る意味では伝統をやぶったからだと言える。
伝統にこだわっては、硬直して発展は望めないが、と言って伝統を無視しては単なるカーニバルに駄してしまう。このことは古い時代の山車の写真と今の山車とを見比べて見ればよくわかる。
お祭りはますます盛んになるであろうが、お祭りは神と共にあるということを忘れてはならない。
最近は、昔話や童話ものがすくなくなり、子供たちには淋しいお祭りになったと言われている。テーマに関係ない飾りや物が付けられ焦点がぼやけ、八戸の三社大祭らしい伝統が失なわれつつあるという不満の声もある。
お祭りは子供の夢を育てる大きな役目のあることも忘れてはならない。
売市の附祭の、今後ますます精進して二度三度の最優秀賞を獲得されることを期待したい。