昭和四十三年度はイカ釣漁業、鯖まき縄漁業、大型機船底曳網(北転船)共水櫛量を増やし、水揚げ量も四三四、四九五tと四〇万tを突破し、助宗スリ身工場も十七工場に増加した年でしたから、まずまずの成績を納められました。
(第二の谷間)
昭和四十四年度以降、太平洋に於けるするめいかの水揚げが急速に減少し、魚価が暴騰してサキイカの原価も高くつきサキイカ中心の操業より、助宗スリ身生産に重点を移しました。当社も昭和四十四年十一月第二工場に二〇屯プラントの助宗スリ身工場を完成、これがフル操業の為め毎日一〇〇tから二〇〇tの助宗を買付け、スリ身生産と共に助子を生産しました。此頃業界より助子に発色材としての亜硝酸を使用した事が判れば廃業処分になる恐れがあり、損害が計り知れないから亜硝酸を使用しない事にしてはと云う問題提起がありました。これは役員会丈では決めかねる事でもあり、加工業者の全休会議を開き協議する事にした結果、亜硝酸を使わない事に決定しました,尤も自然界に取れる硝石は使用してもよいのですが即効性がないのです。そこで八戸水産加工連の会長であった私をはじめ、主な幹部が関東地方は東京で、関西地方は大阪に主要な取引市場の方々に御参集を頂き、助子に亜硝酸を使用しない事にした為、発色しないが今迄と同様に販売して頂き度いと御願いしました。処が暫らくして亜硝酸を使用しない製品が売れなくなった為、今迄通り使用し度いと云う申入れがあり、業界の困惑を考え、事情を取引先に説明し各自対処して頂く事にしました。
然し、私は当面の責任者として市場筋に公 言した手前朝令暮改しては私の信用を失墜する。一時的な損害はあっても長い信用に変えられないとの信念から遂に硝石のみの使用でとおしました,助子の在庫は増大し、運転資金面では急迫し、信用保証協会の保証で融資を依頼したり、取引先の大手筋に支払サイドの短縮や纏まった前渡金を出して貰ったり、資金の調達に奔走しました。最後には在庫の助子を成り行きで処分し、大型の赤字を初めて出しました。此問題で私は得難い教訓を種々体得しました。之が第二の谷間でした。此問題の後始末として臨時株主総会を開き決算期を三月三十一日より八月三十一日に変更する件を議決し、昭和四十五年四月一日より八月三十一日までの決算で約一億円の損失を初めて出しました。此損失は二年間で充填し、三年目より黒字決算になりましたが、一番の痛手は私が資金調達の為奔走している間に従業員の一部に労働組合結成の動きがあった事です。之が表面化し、従業員が動揺し、優秀な若手の男子、女子従業員が多数退職した事です。少数の労働組合に対し多数の従業員が従業員組合を作り全社一丸となっての行動をとる迄に暫らくかかりましたし、丁度石油危機の発生を契機に物価の爆発的な高騰と景気の厳しい落込みと言う戦後最も厳しい試練に見舞われました。加うるに世界経済の不況と相挨って不景気には強いと言われる食品業界も次第に不況の波に洗われ、水産加工業界に於ては原魚高の製品安と言う逆鞘現象が各種の商品に見られる様になりました。ベースアップ率が年同一五%乃至二〇%になり人件費の高騰のあおりを受けたのも此頃であります。
ここで武輪水産のおかれていた昭和四十年代の水産界をみてみよう。
水産界は漁労と加工に大別される。近海のみの漁労をしていた明治期に青森県は佐渡の漁師を招き八戸にイカ釣り技術を教えさせた。明治二十年代の話だ。
明治三十年代には鰹、鮪の豊漁は東奥日報により報道されている。漁業は浜揚げした魚を運搬に時間を消費すれば鮮度は落ちる。運搬技術を持たない時代は人、馬、牛に頼るいがいに方法はなく、遠方への輸送手段はない。そのため地域漁労、地域消費しかない。
日持ちのする商品となればイカをするめと加工するか、イワシを干して肥料とするいがいに手段を持たない。
昭和十二年の八戸商工案内から往時の漁業関係者を探る。
安政三年 製造 中村商店 中村栄吉 南横町
文久二年 漁業 五戸 五戸岩次郎 湊
文久二年 鮮魚 戸田魚店 六日町 戸田栄一
明治十年 小売 魚周 沼館周太郎 六日
明治十年 漁業 秋山 秋山熊五郎 浜須賀
明治十二、漁業、神田商店、神田俊雄 湊柳町
明治二二 漁業 岩五商店 岩岡義剛 鮫
明治二八 蒲鉾 槻末商店 槻舘新太郎 六日
明治四五 卸小売大山商店 大山富蔵 六日
明治三年 製造 中平魚店 中島平助 六日
明治四十 漁業 高橋商店 高橋善蔵 下條
明治三六 卸 夏市商店 夏堀市太郎 湊
明治二五 漁業 長谷川藤次郎商店 白銀
四十 卸 田名旗商店 田名部旗次郎二十三日
四五 卸 田中清三郎商店 白銀
三二 卸 沼田魚店 沼田嘉蔵 六日町
大正元 卸 関橋商店 関橋耕作 小中野
大正二 小売 福田魚店 福田真太郎 六日
大正三 小売 中梅 中島梅吉 六日町
大正三 卸 夏堀商店 夏堀源三郎 南横町
々 卸 宮市商店 宮崎市太郎 鮫
大正五 製造 吉田契造商店 湊大沢
大正五 卸 柳谷鮮魚店 柳谷歌吉 小中野
大正五 卸 久保田魚店 久保田留之助 六日
大正十 卸 武尾商店 武尾憲三郎 下條
大正十二 卸 田中商店 田中仁太郎 湊
々 卸 倉本商店 倉本象二 湊
大正十三 小売 石良商店 石橋良一 六日
大正十二 製造 大石蒲鉾 大石連治 北横町
大正十五 卸 中石商店 中島石蔵 小中野
昭和元年 漁業 吉田商店 吉田利八郎 下條
昭和二年 卸 岩村商店 岩村四方吉 湊
々 漁業 平岡春松 鮫
昭和四 卸 熊野商店 熊野福三郎 湊
々 卸 榎本海産店 榎本元吉 湊
昭和六 卸 町田商店 町田米次郎 南横町
々 卸 角田商店 栗原平蔵 新堀
昭和八 漁業 角栄海産物 角栄次郎 北横町
昭和九 卸 沢口商店 沢口由郎 湊
昭和十一 小売 佐々木魚店 佐々木惣吉 鮫
さらに水産加工品業者には
肥料 関五 関川五郎 北横町 明治二二
魚肥 金入 金入文吉 番町 明治四二
々 南部物産 高橋正志 新堀
佃煮 滝川水産加工場 滝川忠兵衛 小中野
魚肥 鳥谷部商店 鳥谷部堅吉 湊
乾物 柏商店 柏美与志 白銀
海産物 荒井商店 荒井八十八 鮫
海産加工 佐川商店 佐川幸蔵 鮫
乾魚 長谷商店 長谷春松 六日町
魚肥 石要商店 石橋要吉 十八日町
々 三新商店 富岡新太郎 十三日町
々 秋山秀之助 浜須賀
ここに武輪氏が割って入ったことになる。
戦後間もなくは政府の方針で、木造船を継ぎ足して大きくし、魚を沢山獲る工夫をなした。多くの大型漁船は徴用され、輸送船として外地で撃沈された。船も人手も不足していた。
外地からの引揚者三百万人、これらの食べる苦労から開始となった。武輪氏はまさに、この時代に旗揚げすることになった。最初は労力しかなく、骨身惜しまず働く、人が捨てるような魚屑から肥料をつくり、その爪に火を点すような苦労を重ね資本を得て、魚を買い加工に身を乗り出した。国民が食えればいい時代は直ぐに終息。
美味しいものを求めるようになる。ここに加工の技術が生かされた。
漁労をせず、加工だけにたよると、市場での買いつけが勝負になる。多くの従業員を擁する企業に伸し上がると、買い付け額も上る。
従業員の給料を確保するためには高値で購入するようになる。
ここに企業家としての悩みも出る。昭和四十四年武輪水産が大きな赤字を出した。その背景の八戸水産界はどのような悩みを抱えていたのだろうか。
それを探るべく往時のにデーリー東北新聞を見た。すると「水産八戸のカルテ」というシリーズが掲載されていた。そのなかに東北水研八戸支所が出ている。
イカ・サバ調査に力。
基礎的研究体制が必要
昭和二十五年全国八箇所に水産研究所が設けられ八戸は塩釜の支所。魚の年齢構成、成長、分布、深度別魚種別調査などで、漁船数と資源量を明確化した。北海道へ入会操業していた中型トロールを減船した。減少した若齢サバ、自然条件が響くイカなどの記載があるが、結果的にはイカ・サバの増減は判明せず。今後の研究が必要とある。
漁獲量によって漁業家は左右され、加工場も同様である。しかし、加工場に卓越した技術があれば、八戸の水揚げに頼ることなく魚は全国、全世界から集まる。
この昭和四十四年には想像もつかなかっただろうが、後年武輪水産はノルウェーからサバを全国に先駆けて実施。加工技術、新製品開発以外に企業が生き残る術はないのだ。
デーリー東北新聞の連載「カルテ」に水産加工流通の方向の記事がある。それには、ふえる冷凍、加工とあり、水揚げは昭和三十年代が十万トン、四十年代には二十万トンから三十万トン、さらに四十万トンへと急速飛躍。水揚げ量の増大は魚場が近いこと、水揚げ価格が競合港より高いこと、価格が安定していることである。水揚げの対象魚種はイカ、サバ、サンマなど回遊性多獲魚から北洋トロールのスケトウタラで、水揚げ金額では高級魚が少ないため全国では順位が落ちるが、量的には日本一である。
これらの水揚げされた魚の処理であるが、鮮魚として処理三十九%、冷凍冷蔵三十%、加工その他三十一%で、将来は加工能力の増大から鮮魚は二十%、冷凍冷蔵、加工で八十%となることが予想されている。
期待のイカ、珍味、スケソウねり製品
それでは、八戸港で生産される加工品の種類はどれだけあるだろうか。製造方法が低次から高次へと多様で生産品目も豊富だが、販売高の構成比では鮮魚がトップ。今後の期待製品は、現在成長中のイカ珍味と、完全利用が出来ていないスケソウタラ利用のねり製品の二つである。この二つの製造、生産については地元八戸の業者も意欲的で、地元の水産加工研究所を主体として研究を続け、すでにスケ子、イカの珍味においては集中生産方式によって大きな成果をあげている。
集中生産方式で原料高く買い、製品安く売る
集中生産方式とは、相当規模の実験工場で製品を試作し広く公開する。収益性が高いと予想された場合、生産工場数が急増、需要に充分こたえられる方式で、ねり製品の原料となる北転船の水揚げ魚種のスケソウは北海道よりは鮮度の面で落ちるとしても、価格面では北海道と同等に対抗できるわけで、今後の生産技術開発によっては先進地よりもよい製品を生産、優位にたてることも可能といわれる。
商品が商品を呼び産地銘柄を確立
八戸水産加工の今後の期待はねり製品、イカ珍味、冷凍食品であるが、これを食品ルートに乗せようとすると水産大手との激しい販売競争が待っている。しかし、販売ルートに乗せなくては、効果が期待できない訳で、八戸港としては卸売り市場を固めながら、一般食品問屋ルートの開発も急がなければ販売高の伸長は望めない。
この時、大いに生かしたいのは、流通面にも集中生産方式の精神の貫徹である。優秀製品を看板商品として既存ルートに取り扱いの意欲をもたせ、実績が上昇に転じたとき、すかさず集中方式によって規格化された均一商品を集中的に流通路線に乗せる。これが商品が商品を呼ぶことになり、八戸の産地銘柄が確立される。
端的に言えば原料を高く買い、加工製品をより安く売るメカニズムを無理なく定着させ、発展させて行くことが八戸水産加工流通の基本的課題である。