2008年1月1日火曜日

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 4

このようにして北転船が二百海里問題でカムチャッカを閉め出される迄、昭和四十三年度から逐次すり身生産が増大。
昭和四十九年三万五千㌧
昭和五十二年三万四千㌧
五十三年一万㌧
五十四年六千五百㌧
五十五年四千㌧
五十六年四千㌧
五十七年二千㌧
期間は十二月から翌年四月頃迄を最盛期に、水産加工業界は助宗鱈を原料としてガラ切、すり身生産、タラ子生産に追われました。昭和五十七年以降練製品業者が自家用に北海道から助宗ガラを購入、すり身を作る状態になりました。
十、排水処理 (公害問題)
 助宗すりみ生産に付随して、問題となったのは昭和四十二年八月から施行された、公害対策基本法による水質汚濁防止問題でありました。
 たまたま新井田川で鮭が死んで浮上する事件があり、川ぞいにある水産加工場が流出する排水が原因だと指摘されました。水産加工場はそんなに多数あった訳ではなく、家庭排水も大きな要因でしたが、県条例で上乗せのきびしい基準が設定されました。すり身を生産をする為には大量の水を使いますので、この排水を処理するには億単位の設備投資をしなければなりません。
 違反すると罰金刑が科せられますので大量の水を処理する為、加圧浮上法で処理する他ありません。業界でも色々検討の結果、八戸が全国にさきがけてやろうと言う事になり、日東化学の子会社のネスコに依頼し第一号機の設置に踏切りました。電力費、添加剤等ランニングコストもかかりますが、前向きに対処したわけです。業界でも続々と設備しましたが、浜市川に水産加工団地が造成され、夢の大橋も実現し交通が便利になった事もあり、ミール工場をはじめすり身生産、その他の水産加工場も移転しました。
 そして共同汚水処理施設の事業主体は八戸市、施設の管理運営には八戸水産加工団地協同組合(組合長町田勝男氏)が当りました。資金調達は公害防止事業団で、その後脱臭装置なども設置されました。共同汚水処理施設の一日の処理能力は百㌧でした。すり身の生産は終りましたが鯖の処理、いかの処理等で汚濁された排水の処理をする必要があり、排水量も一日二百㌧余りになりましたので、よりきれいな水にする為、今は活性汚泥法で処理しています。余剰汚泥の脱水装置もつけましたので、更に一億五千万円程度設備にかかり、ランニングコストも電力費、添加剤と莫大にかかりますが、環境保全のためには必要経費と思っています。
十一、日本の多獲性魚の供給について
 日本をとりまく海で漁獲され多獲される魚 はイカ、鯖、秋刀魚、鰯をあげられると思います。国民のとる蛋白質の四十%は魚で補給していると聞いていますが日本は自給自足出来ているでしょうか。イカは日本の近海だけでは供給不足で大型船をつくりニュージーランド、アルゼンチン迄出かけ漁獲しています。その他太平洋の真中迄出かけ赤いかをとり、更にペルー、コスタリカ、メキシコ等に行きアメリカオオアカイカを漁獲しています。総体的に供給が増えると価格が暴落しますし、供給不足だと暴騰します。消費者に供給する役目を負っている流通加工業者も高いいかを保管していて高いが故に販売しそこなうと、次の年獲れ過ぎて暴落すれば、その差額分目減りして赤字になります。
 又漁業者も沢山獲っても半値以下に下ると採算が取れないでしょう。結局一番困るのは安定した供給を受けられぬ消費者だと思います。秋刀魚は調整組合があり、獲り過ぎると休漁する為、資源が安定し供給されています。
 さて鰯と鯖ですが、今年は激減し、小さい一年魚が主体ですがこれを獲りつくすと、来年から資源はなくなるでしょう。平成八年度海洋法が批准されました。平たく言うと日本の二百海里内にいる魚は、日本だけのものではなく世界のものですよ、だから資源を大切にして安定供給出来る様にし、あまれば外国にもわけて下さいと言う様に私は理解しています。
(排他的経済水域とは、沿岸国の権利と自由通航の確保という矛盾する要請を同時に満足させるための方策として考え出されたものである。200海里もの広範な領海を設定していた国の主張を経済的主権に限定して認める代わり、自由航行のできる水域を確保したのである。排他的経済水域において全ての国は、航行、上空飛行、海底電線・海底パイプラインの敷設が出来る)

 平成九年一月一日からタックが施行され漁獲規制されたと聞いていますが、過去三年間の平均の数量に規制されただけとうかがっています。現状は四、三、二年魚は殆んど獲りつくされ、卵を生めない一年魚がとれています。従って零才魚も生れておらずほんの僅かしかとれていない様です。之で果して安定的に国民に供給出来るのでしょうか。然も一年魚ではせいぜい一部缶詰に使われるだけで、あとはハマチの飼料にするか、ミールにして飼料にするだけです。国民に食料として安定供給出来るでしょうか、漁業者の方々は、価値の少ない故に安くしか売れない魚をとれば、来年以降自分達が困るという事は一番御存知の筈です。
 然し獲らなければ経営が行きづまると言う切実ななやみで、泣く泣く獲っておられると思います。どうか国民の為、食料になる魚を安定供給出来る様、対策を講じて頂き度いと思います。私達流通加工業者は鯖を消費者に供給する為、ノルウェーから輸入して居ります。ノルウェーでは昔から資源を大切にして資源の状況にあわせて漁獲規制をして来ました。その為に毎年同じ組成で大きい魚、中位の魚、小さい魚が獲れて来ました。唯一度だけあやまちを起こしました。それはEUに加盟するかもしれぬと言う事で実績をつくる為、二十%位多く獲りました。国民投票でEUに加盟せぬ事に決まり、漁獲量を元の通りに減らしましたが、時すでにおそく資源にひびき、次の年から三十五%カットする事にしました。
(「鯖は世界中に「真鯖」「ゴマ鯖」「ノルウェー鯖」の三種類。ノルウェー鯖は北欧が主な産地で遠い為、鮮度が今ひとつと言われるので、生のものは出回らず冷凍が主、スーパーなどで見られるのは、「ノルウェー鯖」で背中の柄が青黒色に近く、クッキリしている。脂が豊富、惣菜向きだが大味。」) 
今年も前年通り漁獲枠を減らしましたが、大きい魚が減りました。冷凍能力は漁獲量の二倍になっていますから浜値は昨年は前年の二倍になり、今年も更に高くなっています。之を輸入し消費者に供給しなければなりませんから、消費者は高い鯖を買わなければならない訳です。高すぎて販売出来ないと加工業者は、出血して売らなければなりません。之も日本国内の鯖がとれなくなった為です。以上、申述べました様に今年はタックに入れられていないイカも含めて、四大多獲性魚だけでも効果の期待できる漁獲規制をして、国民 (消費者)に安定供給出来る政策を抜本的に実施して下さる様、関係の皆様に御願い致します。

十二 武輪水産㈱経営(なりわい)の山と谷
 八戸水産業界の変遷につき一通りふれて参りましたが、武輪水産㈱自体の経営につきふり返って見度いと思います。企業経営は長期計画を立て常に外的要因を考慮に入れながら、憤重な運営をしなければなりませんが、それでも常に安定した経営は至難の業だと思います。まして経験不足のまま、万全の角度から検討せずに、実行に移した場合には大きな落し穴があります。
 今振り返って見れば創業当初の一を二に、二を四にと確実な運営を自己中心に続けて来た時は、比較的安定していましたが、一度経営が軌道に乗り業界と共に繁栄しよう、其為には常に自己本位ではなく、奉仕の理想を中心に行動しようと考えて実行する様になってからは、外界の影響が大きく響く様になったと思います。奉仕の考え方は今でも正しかったと考え、今後も一貫して行き度いと思いますが、外部と関係のある場合はあらゆる角度から慎重に検討する必要があると次第に考える様になりました。之も経験の積重ねがあったからと思います。

(第一の谷間)
昭和二十三年創業、たった一人で旗揚げ。
昭和三十一年四月資本金五百万円の武輪商店株式会社に組織変更、従業員四十名。
昭和三十六年資本金二千万円
昭和三十八年武輪水産に社名変更
昭和四十一年、四千九百万円に増資
原料貯蔵の冷凍冷蔵工場を建造、増設し、逐次加工場も増築し乾燥装置、いか塩辛・加工のオートベルトコンベヤー装置等設置。
昭和三十八年、珍味工場を増築し珍味加工品の生産に乗り出す。
昭和三十九年九月販売網拡張の為東京営業所を設置し、その後珍味製品の生産販売高は上昇の一途をたどり、更に珍味工場を増築。従業員五五〇名(男九五名女四五五名)。
昭和四十一年度営業報告書に珍味の売上が前年の倍増(数量約六百t金額三億七千万円)で総売上の三分の一を占め、償却後の純利益八千五百万円に達し、会社設立以最高額を計上。(創業十九年で東北一の売上高を誇る加工場にのし上がった。人間の力の偉大さを知る)
来期は珍味の五割増産を計画し、更に原料確保の為、冷凍工場(凍結三六㌧、冷蔵一、四〇〇㌧)を新設する事に決定し、二月初旬工事着工に踏切り六月末日完成の予定でした。まさに最高の山場であった訳であります。処が幸時魔多しと申しますが、昭和四十二年六月第二冷蔵工場完成直後、本社事務所内で終業後厳禁してあった会社内での飲酒をした従業員達があり、電気温沸器で薬缶に酒を入れ温めたまま退社した為、薬缶が燃え上り事務所より出火し、たちまち工場にもえ移り主力工場二棟及び隣接していた冷蔵工場二棟全焼の大惨事をひき起しました。幸い隣家にも多大の迷惑もかけず、さきいか工場も残り、又新設の冷蔵工場も利用出来ましたので、従業員全員に翌日より操業再開の旨告げました。之が第一の谷間となりました。
 水産加工場焼く(デーリー東北新聞昭和四十二年七月十二日号)
消防士一人が殉職
濃霧と狭い道
消火に四時間も
昭和四十二年七月十一日早暁、八戸市鮫町下手代森、武輪水産会社=武輪武一社長(五二)=の鮮魚処理工場南西すみにある従業員詰め所から火が出て、発見が遅れたため火は天井づたいに燃え広がり、同鮮魚処理工場とむね続きの乾燥室、隣接の民家をなめつくしたうえ、鮮魚処理工場とわずかな通路をへだてた冷凍工場にも燃え移り、合計三むね、二千七百平方米を全焼した。冷凍工場には窓らしい窓がないため火は中でくすぶり続け、かけつけた十五台の消防自動車は手のほどこしようがなく消火に手間取り、鎮火したのは出火から四時間以上もたった午前七時だった。八戸署の調べによると原因は前夜、従業員詰め所の電気コンロのスイッチを切り忘れて帰宅したためとわかった。工場設備と鮮魚、製品などを合わせると損害は二億円にものぼる。この火事で冷凍工場と乾燥工場の間の通路で消火に当たっていた消防士一人が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルの下敷きになって死亡したほか、消防署員二人が十日から二週間のけがをした。
損害二億、電気コンロの不始末で
火が出たのは午前三時少し前ごろらしい。発見したのは出火場所とブロックのへい一つへだてて隣合わせている会社員高橋五郎さん(三一)で「バリ、バリッ」とガラスが割れるような音で目をさましたという。高橋さんはてっきり泥棒だと思い起きてみたところ、武輪水産の従業員詰め所が火につつまれていた。そのあとあわてて一一九番に通報したが、みるみるうちに火は工場全体に燃え広がった。また高橋さんが発見したころ、武輪水産でもお手伝いの長根洋子さん(二○)が火事に気がつき当直員を起し、消防署に連絡する一方、消防自動車が入れるように門を開けた。しかも通報を受けてかけつけた消防自動車は現場付近の狭い道路と濃い霧に前方をさえぎられ、現場に到着したときは鮮魚工場と乾燥室のあるむね全体が火につつまれていたほか、高橋さん方と通路をへだてた冷凍工場まで火が燃え移っており手のほどこしようがなかった。冷凍工場は木造モルタル造りで火は中で燃え広がり、ここの消火だけで三時間を費やすほどだった。
 同冷凍工場には最近仕入れたばかりだったサケ・マス百三十五㌧五千万円をはじめ、カズノコ十三t、イカ二百tなど合わせて一億円の冷凍品がはいっていたが、この火事でほとんど売り物にならなくなり、乾燥機三台が据付けられていた工場建物と合わせて損害は二億円にのぼる。八戸署の調べによると原因は前日午後五時ごろ作業終了後、従業員二十一人で酒を飲み始めたが、その際、酒を飲まない人がいたため電気コンロでお茶を沸かし、同九時ごろ帰宅どきスイッチを切らなかったことから過熱したもの。
 この火事で乾燥工場と冷凍工場の通路で消火作業をしていた八戸市是川新田、消防士上杉武男さん(四○)が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルカベの下敷きとなり、青森労災病院に運ばれたが頭の骨を折って午前五時ごろ死亡したほか、消防士長浜田松雄さん(三九)が右足に二週間、消防士榊輝美さん(二二)が背中に十日間のけがをした。同市の消防署員の殉職は昭和三十二年の八戸警察署の火事のさいの池田豊消防司令長に次いで戦後二人目。
 なおこの火事で工場が使用するアンモニアガスボンベの爆発が心配されたが、同社はこれを地下貯蔵の設備を完成していたため大事を未然に防いだ。付近には鮫小学校や民家が密集しており、一時は延焼も心配されたが、風が全く無かったのと水の便がよかったのでくい止めることができた。
売上げ東北一の水産加工会社
 火事にあった武輪水産は昭和二十三年の創業で、珍味品、冷凍品などを生産するほか、鮮魚の出荷も扱い年間の売り上げ額は十億円を越え、水産加工品では東北一を誇っている。従業員は五百七十人。
焼け跡を見つめる武輪社長はすでに再建の意欲を見せ「従業員のうち半数が臨時やパートタイマーだが解雇するようなことはせず、あすからでも残った工場で操業を始める。いまへこたれてはこれまで援助してくれた人たちに申し訳ない。幸いこのほど新しい冷凍工場が完成したばかりなのでこれまで以上にがんばるつもりだ」と語っていた。
戦後二人目の犠牲
小杉消防士を二階級特進
殉職した八戸消防署消防士、小杉武男(四○)は八戸市吹上の生まれ。昭和二十三年海上消防団とん所を振り出しに鮫出張所、湊出張所を経てことし四月本署に転任したばかりだった。同僚の間では最優秀職員の表彰も受け、まじめな性格と、仕事熱心で評判がよかったという。家庭は妻ミヤさんと女だけ三人の小学生と長男の雅永ちゃん(五歳)が残され、近所の人や同僚が同情を寄せている。小杉さんは野山を歩くことが好きで休みにはよく山菜とりに出かけていたという。
 殉職についてある同僚は「消防士は自分の身のことは十分気をつけて消火作業をするが、私でもあの場合、小杉さんと同じ位置で作業をしただろう」といっていた。八戸消防署では小杉さんに二階級特進の司令補とした。葬儀も消防葬として十五日午後一時から願栄寺で行なう予定である。なお消防署員の殉職は戦後二人目。

わざわいを転じて福となすたとえもありますが、焼け跡を同業者多数の応援で整理し、当時としては始めての鉄骨コンクリート三階建の建物をつくり、冷蔵工場は本社工場完成後一年後に之又三階建に改築し、跡地の一部は熱風乾燥機三基、冷風乾燥機一基収容の乾燥工場に改築、サキイカ増産に備えました。焼失した建物及び冷蔵工場内の原料及び製品に火災保険をかけて居りましたので実質的な損害はあまりなく、操業も利益のあるサキイカ中心に行いましたので、昭和四十二年度も約七千万円の利益を計上出来ました。