2008年1月1日火曜日

戦中戦後を語る 八戸市老人クラブ連合会刊 1

戦争の体験
柏崎地区 第二柏会
  岩 舘 雄次郎 大正十一年生(八三才)
 戦雲激しいころ、時は昭和十八年三月の春まだき百五十日の衛生兵教育召集令状の赤紙が来る。三月二十日弘前北部十六部隊に入隊すべし、そのころの若い者たちは兵隊に行かなければ男として恥ずかしい時代で、男と生まれたかいがあった。町内の同級生の福田典吉さんも召集が来た。同じく三月二十日の入隊で一緒であるという。また、長横町のナナオ家具の七尾泰博さんにも召集が来たという、病院付の衛生兵弘前陸軍病院三月二十日の入隊であるという。その日町内の人たちと親類家族で、駅前は俺たち三人を送る人で万歳と軍歌の嵐がわき、人々でいっぱいで最高の歓喜であった。汽車に乗り送ってくれる人たちと笑って手を振って八戸をあとにした。駅から離れた線路にも旗を持った人たちが手を振って何箇所にも見送ってくれた。
 尻内駅からも何人かが乗る。汽車の中は召集の人でいっぱいで各駅からも少しずつ乗り、弘前駅に着くと、部隊の人たちが迎えに来ている。あまり寒くない。十六部隊まで約十五分くらい行く。営庭の広場には召集の人たちが集まっている。ここで各人の名前を呼ばれて各中隊に連れて行かれる。俺は第四中隊第一班に配属となる。古兵さんに連れられて被服庫で軍服上衣、下着、靴などをもらう。私物は家に送る支度を終えて事務室に頼む。福田さんも同中隊の三班となる。
 中隊に衛生兵四人、俺は一班、山本青森の人三班、五班二人、津鰻飯詰の平山、野辺地有戸の人四戸徳蔵さん、皆良い人ばかりで気が合う。
 俺の隣の古兵さんは名久井村の出身の人で、佐々木典七郎さんといって優しい親切で良く何でも教えてくれて本当に良い人だった。また、八戸市の番町の遠山さんで元青森県議会議長さんの長男、遠山見習士官に会って、八戸の話や弟さんと同級生の事などを話したら、何でも困ったことがあったら知らせてと言って、本当に遠山見習士官にはお世話になった。同郷の人の人情が身に沁みて感謝の気持ちでいっぱいだった。
 ラッパ合音を覚えるまでに苦労した。軍隊で礼儀や起立、動作を早く覚えること、中隊には上等兵が週番をつける食事の飯上に、使役に各班二名の声がある時は人より先に出るようにする。また食事の後の食器も古兵さんのも一緒に洗ってあげる。洗濯や靴磨きも同じで、古兵さんたちも初年兵の時はそうして苦労したことを教えてくれた。
 俺たち衛生兵は歩兵の一期の検閲が一か月位で終わり、後は衛生兵の看護教育で五月ごろから日曜日を除いて、毎日弘前陸軍病院へ四十人くらいで自習に週う。俺は中隊の衛生兵三人を医務室まで引率する。医務室から陸軍病院まで藤井が引率で三か月陸軍病院で衛生看護の検閲を受ける。初めての外出で弘前公園に仲間と行くが、出合う兵隊には皆に敬礼をしっぱなしでする。会わないようにして食事をして早く帰ってくる。次は日曜日に外出しないで面会取り次ぎに出る。面会人がご馳走をいっぱい持って来る。俺たちに入る。八月の初めに三十前後の妻子のある人が召集されてくる。八戸の人たち、町内の知っている人が二人来ている。
その人たちと八月奥羽線回りで、下関から朝鮮、釜山、京城ハルピン黒海?琿の0002部隊に転属となる。列車の途中で、人員のョメ点呼して煙?琿の部隊は夜六時ころ、夜空に満月が明るく内地で見る月より大きい。営庭に後光がさして俺たちを優しく迎えている。十分くらいで各中隊に入る。俺は連隊本部に配属となる。
 中隊から患者を出さないように健康管理で隊員を注意して見ている。
 九月二十日付で第一選抜で俺が一人一等兵昇進と精勤賞を頂く。もらうとは思わなかった。
 秋季演習も終り、冬季演習は医務室で週番で看守をする。関東車の命令で南方の野戦病院へ転属となる。下関で夏物に着替える。貨物船が三隻に駆逐船が護衛で行くが途中で一隻が魚雷で轟沈する。俺たちの船は、グアム島に上陸する。すぐ陣地に入るが、二か月くらいは何もなく島民と仲良くする。三月に上等兵に昇進する。それからは爆弾と艦砲射撃が毎日続いて我が軍は全滅する。
ニューギニア戦線死闘の思い出
是川地区 是川第四老人クラブ 上野萬蔵
 大正7年生(八七歳)
 今も時析、夢にまで見る当時のフインシュハーヘンの作戦の恐ろしさというか、なにしろ息も止まりそうな思い出。
 それは私が昭和十四年八月、北支戦線に出征して以来、二十二年二月に復員するまでの生涯で最も強烈かつ鮮明に残る思い出である。
 当時のニューギニアの各戦線は、オーストラリアとアメリカによる連合軍をもって攻勢に転じていた。日本軍はというと敵の火力の前に、無人の野を行くに等しいほど危機に瀕していた。
 この戦場の要所サッテルベルグ高地の確保も無意味なほど、敵の攻撃は熾烈化していたため、第二十師団長片桐中将は全軍総攻撃の命令を下したのであった。
 「攻撃は、昭和十八年十一月二十二日午前五時をもって開始する。各隊は第一戦を突破したあと、直ちに陣地を確保すること。また斬り込み隊もこれと合流すること。」これが田代大隊に与えられた作戦計画だった。
 私は四人の部下をそれぞれの部署につけ、機関銃をすえて時間を待った。だがその時間の長さはこれまでに経験したことのないほど長く感じられた。あと五分、三分、二分、一分…ついに攻撃開始の時刻になったらドカーンと友軍の大隊砲が火を噴いた。銃いて二発三発と同時に火を噴いた。
 ところがどうしたことか、ものの十分足らずで友軍の射撃がピタッととだえ、ただ敵の機銃だけが時折ジャングルにこだまするだけであった。友軍の攻撃が失敗に終わったことを物語るように、オーストラリア兵が何事もなかったような顔つきで往来しているのを見て私は一瞬迷ってしまった。
 結局私は一時、この場を退いて部隊に合流することを決め、四人の部下にもその旨を伝えた。その時偶然にも儘田上等兵に遭い、作戦は失敗し、大隊の八割方戦死したということを聞いた。
 このようにフインシュハーヘンの作戦にしても日本車は、不利を承知で戦い続けたのである。何しろ日本軍は大隊砲1、重機2、軽機5という貧弱な火力しかなく、しかも野砲連隊砲等の援護もなかった。これに対し連合軍は、後方から無限の援護射撃、全員が自動小銃、その上火器は数倍、それに無限の補充もあった。こういう状態でも転進作戦に入ったのであった。
 私達は中国戦線では、常に優位に戦闘を進めてきたのに対し、ニューギニア戦では規模の大きさと毎日四十度を越す暑さに疲労困憊、食糧難と医薬品不足のため、負傷者や病弱者はみな置き去りにされていった。連合軍は、昼夜を分かたず、海からは艦砲射撃、空からは限りない空襲、そして後方陣地からは砲撃と、何日もかけて造った我が陣地や周囲の山も忽ち裸にしてしまたのである。
 この頃より日本車の食糧は完全に底をつき、農場のパパイヤの木の根を堀り、ヤシの芽を採り野菜を食べた。そのほかネズミ、トカゲ、ザリガニなど口に入るものは手当たり次第食べるようになった。そうしなければ生きていけなかったからである。
 長い長い戦闘行程には、いたる所で、飢えた病人が助けを求めているのに数知れず出合った。しかし我々にも助ける余裕や話かける余裕もなく、見捨てるように部隊は進むのであった。体は弱っていても、夜には交替で歩哨に立たねばならなかった。そして夜明けとともに出発という日の繰り返しであった。
 一日の任務を終えて、今日も無事生きられた喜びを噛みしめながら草の上に体を横たえる。そして故郷の父母兄弟を思うのが楽しみであった。夜中のこと、近くで手榴弾の爆発音がしたのだという。戦友に墓穴を据って貰い、最後の一服をつけ、母の名や妻子の名を呼んで、戦友に介錯して貰って命を絶ったものも数多くいた。
 余りの辛さに幾度か死を決意、手榴弾の安全栓を抜き発火準備をしたこともあったが、故郷のこと、戦友達のことを思い考え直した。死ぬのはたやすいが生きるのは難しいと自爆を思いとどまったのである。それからは必ず生きて帰り、もう一度故郷の土を踏んでお米を一口食べてからでも遅くはないと生きることのみ考えた。
 この長くて辛い転戦作戦中、最後まで生き抜いてこられたのは、私の上官であった梶塚中隊長のすぐれた才能とそれからくる判断力と決断、そして厳正公正な命令下達等が相まってすべての作戦行動に犠牲を最小限に食い止められたものと思う。
 今こうして心静かに考えると色んな事が思い浮かぶ。ニューギニア戦線において幾度となく斬り込み隊として命をかけ、生きて帰らぬ覚悟で参戦したが、戦争の空しさ、人命の大切なことは、戦地を生き抜いてきた人開だけが知ることではないだろうか。
空襲と母
鮫地区 鮫第一寿会
 江渡豊治
昭和8年生(七二才)
 太平洋戦争中の昭和二十年八月九日、当時私は小学六年で、早朝アメリカ軍の戦闘機「グラマン」の空襲にあいました。その恐怖の体験を文章にしたいと思います。
 体の弱かった私は、小学一年生から三年生まで、体操の時間は参加もできず、ただ見ているだけで、母はいつも心配していたようでした。四年生の夏頃から母に連れられて海藻取りや、畑の野菜作りに出かけました。母は近所の子供達と一緒に遊べるようにと、出来ることを手伝わせ、体を丈夫にしようと思っていたようでした。五年生春頃から走ることが好きになり、秋の運動会には進んで参加、母に喜んでもらえるようになりました。
 六年生の夏、八月九日朝、夢心地に聞こえていたと思います。母が大きな声で起きろ起きろ早く起きるんだ、と叫んでいるような気がして目が覚めました。途端に、家の上を雷のような音をたて数知れない戦闘機がグオングオンと飛んできました。耳の鼓膜が破れるような音とバババンバババンと何か弾けるような音、家中の窓ガラスが今にも割れるのではないかと思い、私は裸のまま腰を抜かし、服を着ようにもただわなわなと体が震え、母に手をひかれ玄関を出ました。母は私の服を横抱きにして防空壕へ逃げるんだと叫んでいました。ただ、一目散に走りました。防空壕まで百メートル位、小学校入り口の草木の中に兵隊さんが掘ってくれた穴がいくつもあり、母と私と転がるようにして入り、耳をふさいで、ただ震えておりました。戦闘機からの機銃掃射の音だけが港の上空に響いていました。母は姉を仕事に出すために、いつも朝早く起きて、朝食の用意をしていました。仕事で朝早く出かけていた姉が大声で帰って来ました。海防艦稲本が飛行機に囲まれて、たくさんの弾を受けているというのです。私は、防空壕の中で耳をふさいでいるだけでした。浜の方から油の煙る匂いがし、いつのまにか飛行機の音もなくなり、大人の人達がお互いに顔を見て安心したようで、私は初めて空襲されたんだと思いました。家に帰る気力もなくただ呆然としているだけでした。
 母と姉に声をかけられて家へ、母はすぐに食事の用意をしてくれ朝食を食べていなかったのに気づきました。昼だというのに薄暗い家の中、一言もしゃべることもなく食事をすませ、窓から外を見てみると煙が町全体に広がり、外が騒がしくなり何か起きたんだろうと思いました。大人の人達が口々に水兵さん達が怪我をして運ばれて来たというのです。その様子は小学校裏通りの空き地から見えており、大人の人達は口々に海防艦稲木が爆弾を受けて、沈みそうだというのです。更に油貯蔵タンクが燃えていると、またこれからも空襲があるかもしれないとの「うわさ」が広まり、近所の人達が鮫を離れ逃避しようと口々に言い始めました。行くあてもないが夕方、母姉私と近所の人たちとで誘い合い、黒い煙を空一面に見ながら歩き、白銀を過ぎて振り返り、睦奥湊を過ぎてまた振り返り、夕焼けの空に薄黒い煙がみえておりました。何時間歩いたでしょうか、東の空が明るくなって町外れの人に間いたら剣吉(現在の名川町)だということ、「鮫から歩いて来たら大変だったでしょう。どこまで行くのですか。」と聞かれ「行く当てがなかったら休んでください。」とお茶を出してくれました。そのお茶とリンゴの美味しかったこと。見ず知らずの私達に親切にしていただき、「よろしかったら一日二日休んでもいい。」と言われ、ゆっくり休むことが出来ました。
 その後、鮫にいつ帰ったのか記憶がなく、学校で先生から児童疎開すると言われ、現在の新郷村西越小学校に疎開、山林と森に囲まれた静かな村で、私達児童を親切に迎えてくれました。何日か過ぎて八月十五日西越小学校で終戦日を迎えました。
 子供の頃の空襲の恐怖、町村の方々の親切な温かさに触れ、今元気で生きていられる喜び、私を丈夫に育ててくれた母のおかげだと思いました。
 戦地で想像に絶する苦労、戦後復興に努力、苦労の甲斐あって経済的に落ち着いた平和を見ることも無く、亡くなられた人々を心にとどめ戦争体験を子や孫に言い伝えて、平和な日本を築いていって欲しいと思います。
母と二人の防空壕
小中野地区 新地町内ひまわり会 
大野セツ子  昭和5年生(七五才)
  「あ、B29だ。早く逃げろ。」と母の甲高い声。
 すぐ家の前にある防空壕に転がるように飛び込んだ直後、爆音が響き、爆弾投下の大音響。防空壕がビシビシ揺れ崩れ落ちるのかと思うほど恐ろしい思いをしました。自分の耳に指を入れ固まって動けません。母と二人で「神様仏様お守り下さい。」と心の中で祈り続けておりました。昭和二十年八月某日、敗戦少し前の頃です。急に静かになり、隣組の人達が皆出てきて「凄かった、恐ろしい。」と口々に話し合いました。八戸線の睦奥湊、小中野の線路があり、鉄橋の両側に爆弾が投下され大きな穴が出来ました。近所の家の近くにも爆弾が投下されたので、その家の人が怪我をしたようです。
自分の家も線路の側でしたので、母は「ここも危ないから。」と言って、諏訪神社に大きな木がたくさんあるのでそこに避難するようにと決めました。
 朝早くまだ薄明かりの頃、急ぎ足で母と二人で食料と言ってもスルメ、炒り豆、小さく切った昆布など色々袋に入れ、常現寺の脇道を通って走りました。ふとお墓を見ると草が生い茂り墓が全然見えず畑みたいでした。その風景を今もはっきり覚えております。
 神社の鳥居の所に来た時また爆音、すぐ爆弾投下、今は八戸セメント会社ですが、私が子供の頃は磐城セメントでした。そのセメントが目標になり爆撃、爆音、爆撃に麦畑に伏せました。撃たれると思い急に母の顔が浮かび悲しかった。大きな木の下に五人位の男の人達が小さくなって隠れて見ていました。
 鳥居の脇に小さな防空壕が二ヵ所あり急いで立ち上がって、一カ所の中に入ってみると、おばあさんと赤ん坊をおぶった女の人、奥の方には男の人が三人、大きな目で睨まれましたが、母の姿が見えません。その防空壕から出ようと思い足を出したら、男の人に「今出て行ったらここに爆弾を落とされる。」と言われ、悲しくなりました。母のことが心配で、泣きだしそうになりました。三十分位の時間でしたがものすごく長く感じ、攻撃爆弾が、こんなに恐ろしいとは思ってもみませんでした。
 十五才真夏の終り頃でした。また急に静かになり外に出てみると母が私の姿を見て手を握り「決して離れるな。」と言いました。母は反対側にある防空壕に逃げ込んだそうです。私は母の手を強く握って放さないことにしました。それから、何回も攻撃がありましたが、母が逃げこんだ防空壕でまず食べることにしました。干しいも、スルメ、炒り豆を食べてしのぎました。
 夜は攻撃がないので外に出て涼みました。その晩蛍の群れがキラキラ舞い飛び、光が流れる小さな小川を飾ってくれました。その光景は昼の恐ろしい攻撃を一瞬忘れさせてくれました。蛍さん本当に有難う。蚊に刺されて痒くても綺麗でした。夜が明けても攻撃がなくあたり一面静かで家に帰ってみました。
 八月の何日か何時頃かわかりません。天気は良い日でした。爆音も静かに飛行機が低く飛んできたと思ったら、空から白い何かがヒラヒラ降ってきました。周りの人達が拾ってみていたので自  分も一枚拾い開いてみたら日本の国が戦争に負けたような事が書かれていました。その宇は日本語でした。
 後で天皇陛下のお言葉がラジオで放送されるとのこと。組長さんの家に集まり天皇陛下の言葉を初めて聞きましたが、なんでも広島に新型爆弾が投下され、広島の人達が全滅だとのことでした。その爆弾とは、原子爆弾だと組長さんから聞かされました。
 それから間もなく疎開していた祖父母、妹が帰ってきました。後で父も怪我ひとつせず北海道から帰り、喜び合いました。その頃、アメリカ兵が家々を回ってくると聞き、娘の私が危ないと思ったのでしょう、母が私に素肌を見せないために足袋を履かせ押入れに隠しました。
 昭和二十年高等科二年を卒業後して五ヵ月後の八月の怖くて恐ろしい太平洋戦争の終りの思い出話です。
 子供、孫に書き伝えておきたいと思い、筆を取りました。今現在七十五才のおばあさんです。