中村節子
○ 新聞少年
弟が高校を卒業した。その年は舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットした年で、卒業謝恩会で高校三年生を大合唱したと言っていた。
その弟が読売新聞社の奨学生となって東京の大学へ行くことになった。いわゆる新聞配達をしながら大学へ通うのである。
奨学生は四年制大学の合格が絶対の条件であったので、弟は勉強したらしい。
それよりもなによりも心配なのが、末っ子の甘えん坊が知らない土地で新聞配達ができるのであろうかということであった。
高校生になってもネコの様に体をすりよせて母に甘える。「母さん、今日の弁当のおかずは何?」と言っていた弟に、大学合格の通知が届いて東京行は決定した。
三月の中頃、弟の出発の日は父も私も出勤したので見送ったのは母だけであった。
八戸駅(現本八戸)まで見送ると言った母に「母さんは玄関から外へ出てはダメ」と言って一人で出発したのだそうだ。
四月の上旬、父と母は大学の入学式に行って来ると言って東京に出かけた。弟が生活している新聞販売店の寮も見て安心して帰って来た。
それから父は玄関の鍵をゆるくかける様になった。その当時の鍵はサッシではなく、ネジ棒をしめる古い型の鍵であった。ガタガタとゆするとネジ棒がぬけるのではないかと思うほどゆるくしめるのである。私が気がついて鍵をしめなおす事が何度もあった。
ついに私は言った。「どうしてあんな鍵のかけ方をするの? あれだったらちょっとガタガタしただけですぐはずれるよ」
「亮(弟の名)がな、東京で新聞少年をやっているんだぞ」と父は言った。ああそうだったのか。鍵をゆるくかけると、戸の間に新聞をはさめるくらいの隙間が出来る。弟への父の愛情を感じた。しばらくして父は郵便受箱を取りつけた。
半年ぐらいすぎてから、母は弟の好物を両手にぶらさげて一人で東京に出かけた。
以下は母から聞いた話である。
駅へ迎えに出ることになっている息子は、どうしたことか待っても待ってもこない。しかたがないので一度だけ行ったことのある新聞販売店の寮をたずねていった。
そこには各地方から上京し、奨学生として新聞配達をしている息子の仲間が五人待っていた。「亮君は駅へお母さんを迎えに行きましたよ。」「どこかですれ違ったのですね。」「お母さんよくいらっしゃいました。」「お母さんお疲れでしょう。」「お母さんお茶を。」
お母さん、お母さんとまるで自分の母親に甘えるかの様にそばに寄って来る。親が恋しいのだなあと思った。肝心の息子にはまだ逢っていないけれど、持って行ったお土産をひろげた。喜んで食べ始めた。その食欲の旺盛なこと、息子の分が無くなりはしないかとハラハラした。やっと帰って来た息子の言い分は「迎えに早く行きすぎたので、待ってる間にパチンコをしたら、すっかり時間を忘れてしまった。」と。
弟は四年間がんばって大学を卒業し、読売新聞社の系列会社に就職した。団塊の世代に生まれた新聞少年は、今年定年を迎える。(現在さいたま市に在住)
○ 甲子園
運送会社に勤めて五年ほど過ぎた頃だった。突然高校の同級生が私をたずねて会社にきた。「三沢高校の野球部が甲子園に行くことになった。」「そうだよね。甲子園に行くんだよね。すごいねえ。」「それで寄付を集めることになって、僕が八戸の担当になったんだよ。」「あ、そうなの、ご苦労さん。八戸には同級生は何人いるの?」「八人いるよ。」
三沢高校夏の甲子園出場。投手は二年生の太田幸治君である。
会社で甲子園の話をすると「三沢高校なんてどうせ一回戦で負けるんだから」「負けたっていいよ。甲子園へ行くことだけでも、すごいのだから」「八高はな、準決勝まで行ったんだぞ」と八戸高校出身のAさんは言った。ところが三沢高校は一回戦は勝った。二回戦で負けた。
次の年、春の選抜大会に三沢高校が選ばれた。二度目の甲子園であるが、寄付集めは来なかった。「三沢高校なんて勝ったとしても一回戦だけだ。八高は準決勝まで行ったんだぞ」と、またも八高出身のAさんが言った。この時も一回戦は勝った。二回戦で負けた。
そして夏の甲子園は、三年生となった投手の太田幸治君をエースとする三沢高校の連続出場と決まった。この時も寄付集めは来ない。「また二回戦で負けるんだべ。八高は準決勝まで行ったんだぞ。」又々Aさんは言った。
ところが一回戦、二回戦、三回戦と勝ち進み、準々決勝、準決勝、ついに決勝まで勝ち進んだのである。その都度テレビから三沢高校校歌が流れる。それを聞くたびに感動した。
四国の松山商業高校との決勝戦の当日は、会社ではテレビを借りてきて見せてくれた。仕事に手がつかなかった。会社全員で応援した。試合は大接戦で延長十五回でも勝負はつかず、翌日再試合となった。
再試合も一所懸命応援したが、残念なことに三沢高校は負けた。しかし閉会式で準優勝旗を持って、グランドを一周する選手達を見た時は涙が出た。私は感動のあまり応援してくれた会社の人達にケーキをごちそうした。
「八高は準決勝まで行ったんだぞ」と口グセだったAさんは、この日以来二度と言わなくなった。又、寄付集めが来なかったのは、三沢市の商店街から大口の寄付があったからだと後で聞いた。又、試合のある時間はシャッターをおろし道路は一 人も歩いていなかったそうだ。
あれから四十年以上も経過しているが、甲子園が始まると、三沢高と松山商業高の決勝戦のことは、未だに語り草になっている。
○ 思わず「ハイ」
お茶を習い始めてちょうど五年、友達のY子さんと三日町でバッタリ出合った。お茶のお稽古を三ヶ月ぐらい休んでいたので、どうしたのかなと心配していたのである。
「どうしたの?体の具合でも悪いのかと思って心配してたの。」「私ね、今詩吟をやっているの。詩吟知ってる?」「知ってるよ。」「詩吟はとても難しいのよ。」と言う彼女の言葉には、その難しいのを私はやっているんだからと言うニュアンスがあった。
難しいと言ったって、この人がやっているんだから私にだって出来るよと思った。
「ね、詩吟の教場に見学に来ない?」「そうね、行ってみてもいいよ。」Y子さんと約束して土曜日の夜六時からの教場に見学に行った。それが八日町の明治薬館であった。
お店の二階が住まいになっていて、八畳間に男性三名女性三名集まっていた。
母と同年代ぐらいの女の先生は大きな声で吟ずる。そして生徒さんたちも一緒に吟ずる。
すごいなあと思った。次に生徒さん一人一人が吟ずる。稽古が終わって帰る時「来週も見学にいらっしゃいよ」と先生がおっしゃった。思わず「ハイ」と答えてしまった。
次の土曜日も見学に行った。帰る時「あんたも会にお入りなさいよ」思わず「ハイ」
いとも簡単に詩吟の会に入ることになった。
昭和四十三年二月。最上翠岳先生の教場に入門する。二十七歳の時である。
○ 長者山の女ターザン
詩吟教室で一番始めに教えて頂いたのは菅原道真作の「九月十日」である。この詩文は「去年の今夜」で始まる。「去年の今夜」「去年の今夜」と何度も繰り返して練習していると「金色夜叉」でもあるまいにと思ったこともあった。とにかく新人は「九月十日」から習うものだと聞いていたので、「どうしてですか。」と先輩に聞いてみた。「菅原道真は学問の神様でしょ」と教えてくれた。
徐々に詩吟が楽しくなってきた。稽古の帰りは吟じながら歩いた。詩文を覚えていない時は、外灯のあかりで教本を見た。
家では風呂で吟じて母にしかられた。布団をかぶって声を出してみたら苦しかった。そこで長者山に行った。我が家は長者山の麓で、旧町名は長者山下である。境内にお祭りの時の加賀流騎馬打毬をやる馬場がある。そこが絶好の場所であった。
ある時、その馬場に先客がいた。男の人が何か歌っていたので、私は遠くからそっと見ていた。そのことを先輩に話したら、「昔ね、長者山の神主さんの娘さんで音楽の先生がいてね、外でよく歌っていたんですって、それで長者山の女ターザンとあだ名が付いたの」
「えっ!」さあ大変。私も女ターザンなどと言われたら大変だ。でも毎日長者山へ行くわけでもないから、気にしないことにした。
詩吟がすごく楽しくなってきたけれど、その当時はお茶に熱中していた。何があってもお茶が第一優先であった。詩吟の行事とお茶の行事が重なった時はもちろんお茶であった。
「申しわけありませんが、お茶の方が優先ですので」とはっきり言って、詩吟の行事をことわったことが何度かあった。現在私は詩吟教室を開き、あの当時の最上先生と同じ立場にある。
「○○がありますから参加して下さい」と言った時「△△がありますので参加できません」と返事が返って来る時の悲しいこと。
私もあの時、最上先生に悲しい思いをさせたのだなあと思うのである。