まず本来の目的である北海道との連絡と資材輸送のための港湾を考え、次に港湾と街道沿いの町を結び産業の振興を促すことを考えたわけであろう。
また、トンネル建設の技術はまだ幼稚であったからなるべく避けようとしたのであるが、鉄橋も、利根川のようなところは川の両側にまず線路を敷き、橋はあとから完成させるという方法をとらなければならなかったし、荒川やその他の川も最初は木の仮橋であった。
勾配ももちろん避けるに越したことはない。最初川口から工事を開始したのは工事のやりやすい平地であるという理由もあったのである。
東北本線の勾配は、黒磯・郡山間、松川・白石間は四十分の一、郡山・松川間は五十分の一、松島附近と、盛岡以北は大体六十分の一であるが、奥中山附近は四十二分の一の急勾配となっている。
いずれにしても、実際の東北本線の路線が決定するまでは、住民の反対や、工事の難易などによっていろいろ変わっているが、くわしくはわからない。
なお、東北本線という名称は、国有後に定められたもので、建設当時は一定の名称はなかったから、本篇では便宜上東北本線という名称を仮に使用する。
.最初の工事は川口から 第1区線
第1区線の東京・前橋間については、十四年六月に十二日会社側から「創立願が許可になったときは政府で工事をやってもらいたい」と請願しており、これが認められ、政府の特許条約書にも鉄道局が工事をすることと明記されている。
工事局は十五年六月赤坂榎坂町に出張所を置き、日本鉄道会社線の建設と監督の事務を一切ここでやることとした。日本鉄道会社も荒川の西岸に出張所を設けた。建物は粗末な小屋で、社員は矢立と半紙を四つ折にした大福帳を腰にぶら下げて執務したものだという。
会社は十五年一月十六日第1区線の工事仕様書と予算書の指示を工部卿に申請し二月六日に交付された。これによると品川・前橋間七四マイル四○チェーンの工事費三百二十四万九百四十一円を要するとなっていた。官設線の新橋・横浜間の鉄道の品川駅を起点とし、東京市街の北端を廻って、板橋近くに出て戸田川を越え、中仙道に沿って前橋に達するものである。横浜から前橋まで鉄道で結ぶという構想である。つまり東京・青森間の鉄道というのは品川を起点とするというのが最初の計画であったわけである。
第1区線の工事は次の3区間にわかれている。しかしこれはすぐ変更された。
品川・川口 14マイル(予算 934、276円)……第一部
川口・熊谷 31マイル(予算 899、981円)……第二部
熊谷・前橋 29マイル40チェーン (1、397、784円)……第三部
品川・川口間は市街地のしかも高低の差の多い所に工事を起こすので、距離の割には高くつくわけである。そこでこの区間はあとまわしにしようということになったのである。予算副書というものには「品川或ハ新橋ヨリ延スヲ止メ、先ツ戸田川ヨリ上野近傍便宜ノ所二止メ、而シテ新橋トノ連絡ハ暫ク水運二頼ルコトトセバ里程ハ僅カニ6英里許ニ減縮シ経費従テ其半二及バス……」 とあり、工事の容易な点と経費が半分しかかからないという点で、品川・川口間をやめ、上野附近からと予定変更した。前に述べたボイル案に似たものとなったのである。実はそうしなければならない事情があった。その頃会社には資金が全くなかったということが大きな原因である。出資金の第1回払込は十五年六月であり、しかも全国に株の募集を行なっている最中であった。工事の延滞は以後の株募集に影響を与えることになるわけである。会社は十五年一月二十三日政府に対し、三十万円の借金を申し込んだ。
二月中旬許可され二十八日に大蔵省から受け取り、建設費の内金として工部省に納入した。この借金は、8分の利子をつけて翌十六年年五月二十五日元利とも完済している。
ところで会社は工事ばかりか金の出納まで鉄道局に任せきりなので、鉄道局長井上勝は会社の社長や理事委員を呼んで注意を与えた。
「工事を鉄道局に委託するのはよいが、工事費の出納まで政府がやるのはどうかと思う。会社は局外者のようでおかしい。将来第2区線をやるとき困るだろう。会社自体で出納の責任を持つようにしなければうまくいくはずはない」
会社側もこれは当然と了承し、以後会社側がやるようになった。
東京・前橋間はこうしたいきさつもあって、もっとも有効に金を使うため、工事の割合楽な川口・熊谷間から始めることになった。
しかし品川又は新橋から工事をするのでなければ、外国から輸入した資材を現場に運んだり、工事用列車を走らせることができないわけである。そこで、川口までの連絡は水運によった。横浜から隅田川・荒川を上って川口に入ったのである。
十五年六月十五日川口・熊谷間の工事が開始されたのであるが、この最初の区間を担当した技師はかつて釜石鉱山の鉄道を手がけた工部省権少技長毛利重輔である.九月一日川口で盛大な起工式が行なわれた。工部省官吏、地方官吏、沿道株主等二百余名が参列した。会社は茶菓酒食を出し、善光号という機関車に土運車数量を連結して来賓を乗せ、四五マイルほどの大場村まで運転し、工事の実況を見せた。
上野・川口間は支線
関東平野を突っ切って、工事が順調に進展すると、品川・川口間の線路をどうするか早く決めなければならなかった。 十五年七月十八日会社の株主総会で、会社側はこの問題を説明している。
「そもそも第1区線は品川を基点として板橋に出ることになっている。東京は十里四方もあるのに駅といえば品川と新橋だけである。日本橋以南の人はこの両駅を経て板橋に行くのはよいとして、神田、浅草、本所などの各区から行く者は北の方に行くのに人力車で南に向かわなければならない。これは時間と金がかかって不便である。むしろまっすぐ板橋に行ったほうがよいくらいである。貨物などはことのほか不便である。そこで上野の山下に駅をつくり、王子を経て川口に達する支線をつくれば、線路は四~五マイルで客貨とも便利であろう」
こうして別に上野から川口まで支線を敷き、更に予定通り品川・板橋・川口間の連絡線をつくることを議決し、十五年八月三日上野・川口間の新線建設について工部省に申請二十四日認可された。
十月中に測量を終わり、同下旬上野の旧下寺跡から工事を始めた。この工事の担当者は権少技長増田礼作である。この区間の主要な工事は荒川の橋梁で最初は仮橋をつくって線路を通し、十六年五月から本橋梁の工事を始めた。
荒川橋梁は十七年二月十四日完成した。延長三千三十二フィート、ワーレン形橋桁四連を架し、これを支える橋脚は五個、巾二フィート高さに十二フィートで直径十二フィートの煉瓦造井筒基礎上に立っている。将来複線とする予定で最初からそれだけの巾で作られたという。工事は鉄道局雇小川勝五郎が請負った。披は「鉄橋小川」といわれた名人である。煉瓦は高島嘉右衛門が請負い元郷村で製造した。
上野駅は永久極端駅と呼ばれ、支線どころか東北本線の大玄関となった。その場所は上野寛永寺旧下寺跡で、上野公園の東明地といわれていた所である。十五年十一月八日東京府知事にその土地二万九千坪の貸し下げを申請し、十三日許可となった。あとで会社は千坪を返したが、駅の敷地としては、当時大変広大な感じがしたといわれる。この外山下町1番地の区会議事堂跡や小学校跡の貸下げを受けている。
上野にステンショが建つということになると、上野山下町から車坂あたりまで土地の値段がぐんぐんあがり、十六年四月二十一日の郵便報知によると、地価は3倍ぐらいになり、一坪千六百円円だったのが、三千二百五十円で売れた例がでている。
上野・高崎間開業
十六年七月二十六日上野・熊谷間の工事が完了し、この日試運転が行なわれた。小松宮彰仁、北白川宮能久、伏見宮貞愛の三親王を始め、三条太政大臣、徳大寺宮内卿、参議等が臨席した。二十八日上野・熊谷間に2往復の旅客列車が運転され、ここに日本最初の私設鉄道が営業を開始した。
会社としては開業式を八月下旬か九月上旬にやる予定で、宮内郷に行幸の伺書を出し、承認も得ており、内々準備を進めていた。ところが井上鉄道局長から工部卿に対し、開業式は見合わせるべきだという意見が出された。上野・熊谷間はほんの一部分であるし、営業も本式のものでなく、車両もそろっていない。第1区線は完了していないから開業式は早計であるという理由である。
工部卿佐々木高行は吉井社長にこの意見を示して再考を促したりしているうち十七年になってしまい、高崎までの開通が間近になってきたので、開業式は断念した。
改めて上野・高崎間開業式を行なうこととしたのである。上野・高崎間は十七年五月一日開通となったが、この日開通式は行なわれなかった。ちょうど天皇が御病気のため、改めて六月二十五日上野で開かれることと決定した。
十七年六月二十五日七時十分明治天皇は、礼服の会社役員等がお迎えする中を上野駅に御到着、お召列車にお乗りになられた。皇族、大臣、参議、各国公使等がこれに同乗した。八時お召列車は上野を発車し、十時十二分熊谷に到着され、鉄道局の技師が指揮する線路敷設作業を御覧になった。 十時三十二分熊谷を発車、正午高崎にお着きになり、御昼食をおとりになった。午後三時高崎を御出発、七時上野駅に御帰着になられた。この日のため特別に準備された式場に直ちに入御された。天皇は日本鉄道会社最初の開業式に当たり、勅語を賜わった。
「日本鉄道会社員ノ協同力ヲ効セルニ因リ東京高崎間鉄道成ルヲ告ケ茲二開業ノ式ヲ挙ク都鄙便ヲ通シ遠近利二倚ル朕カ嘉尚スル所ナリ」
続いて工部郷佐々木高行、社長吉井友実、発起人総代が祝辞を述べた。