2008年1月1日火曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 11

 伝心寺時代(明治二十五年~三十三年)
一、岸沢惟安氏弟子となる
 穆山師の伝心寺への退董は普通人なら隠居であり閑居の生活に入ったのでありますが、宗教界は穆山師を有閑老師にしておかなかった。退隠した穆山師は、早速静岡県榛原(はいばら)郡金谷町洞善院の江湖会結制修行の西堂(さいどう・西は賓位であるからいう) 禅宗で、他寺を隠退してきて本寺に住する長老。転じて、住職以外の上首)
様として招待され、前可睡様、眼蔵(正法眼蔵・しょうぼうげんぞう=道元が仏法の真髄を和文で説いた書。七十五巻本 現成公按(げんじょうこうあん 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゅじょう)あり。
 万法(まんぼう)ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生(しょう)なく滅(めつ)なし。
 仏道、もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆへに、生滅(しょうめつ)あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。
 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。
 自己をはこびて万法を修証(しょうしゅう)するを迷(まよい)とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟(だいご)するは諸仏なり、悟に大迷(だいめい)なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷(ゆうめい)の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
 身心(しんじん)を挙(こ)して色(しきを見取し、身心を挙して声(しょう)を聴取するに、したしく会取(かいしゅ)すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは、一方はくらし。
 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。
と大変難解、これを西有穆山は生涯研究された)
大家として偉大な感化を与えたのであります。この洞善院の三ケ月の結制修行が終ると同時に内定していた島田市の伝心寺に入寺しました。この気候の温暖な島田は老師の身心を休養させるには最適の場所でありました。ところが、求道の師が次から次へと集って来て老師の身心を休養させません。その内、後の眼蔵研究継承者となった岸沢惟安師が伝心寺時代に弟子となった。岸沢氏は既に居士として眼蔵の提唱を聴き、漢学者、詩人として知名でありました。弟子として入門を許された時三十二歳でありました。禅師はこの岸沢氏の長所も短所も見抜いて、その教育と進路指導には特別の配慮を与えております。その効果があって持てる力を充分発揮出来る眼蔵家となり禅師の委嘱を能く果して師恩に報答(ほうとう・こたえ。返事)しております。又筆者は大成後の岸沢老師に京浜間に於ける眼蔵会に於て親しく謦咳に接し(けいがいにせっする・目上の方にお会いする)、西有寺単頭勤務中、心魂に徹する親訓を、西有寺報恩眼蔵会中に終生忘れることがない響きを身に受けております。有難いことです。
  二、大井川の荒男を教化す
 現代の教有職である宗教家、教育家は概して利巧である。何故なら「君士危うきに近寄らず」の方針で、世の謂所、荒くれ男達からはなるべく遠ざかって身の安全を保とうとしている。暴力団とか、暴走族という種類の人々は教化の対象外であろうか、筆者は少年時代に沢庵和尚とか物外和尚の底知れぬ力に、あこがれたものである。無用の否、行き過ぎた武勇伝は警戒すべきであるが、法力の伴った偉大な感化力は宗教人にあって然るべきだと思います。
 穆山師は可睡時代の火渡り等に於て加持した不思議な法力を持っていたと思われる。伝心寺は島田在の旗指という所にあり、この旗指には大井川の川越し人夫達が居て、気性の荒い乱暴な連中がいた。穆山師はこの人夫達を伝心寺の門前に集めて説教し、地方一帯を柔和な気風に一変したのであります。その感化力の威力は、可睡斎の三尺坊大権現様の御加護によると見られる。島田旗指の住民達は穆山師が可睡斎の御前様であることを知っており、その穆山師は御祈祷の不思議な力を持っており、雨乞祈祷をして雨を降らせた話も伝え聞いており、旗指に姿を見せる前から穆山師の威神力に恐れをなしていたから、住民は「御前様はこわいお天狗様をお使いなさる。御隠居なされてこの地においでになられた当時はお天狗様が毎晩火に乗って飛んできて、八重橋の木のうらにとまっていた」と、且つ恐れ、且つ尊敬したので、その感化力が充分発揮されたのであります。
     
三、出る方は出る方、見る方は見る方
 明治二十六年に穆山師七十三歳の老体で赤痢病におかされて、一日に七十四、五回も用便して苦しまれた。普通人なら青くなって沈んでいるのに、穆山師は平気で一向気にもとめないで、仏門の研究で最も難解だといわれる五位顕訣元字脚と華厳五教章とを研究してやめなかった。これを見かねた看護婦さんが、「病気に障りますから御やめ下さい」と注意すると、穆山師やめるどころか平気の平ざで、「出る方は出る方、みる方はみる方で分業だ」といって研究をやめなかった。
 穆山師は、数年後に伝心寺に於て、この五位顕訣元字脚を講義せられた。その講座には後に曹洞宗大学長となった筒川方外師、丘宗潭師、秋野孝道師を始め足立巍堂師、岸沢惟安師等の御歴々が顔を連ねて、赤痢病の御利益にあずかったものである。この元字脚の研究は穆山師一代で研究が完了しなかったので、老師は岸沢惟安師に研究継続を委嘱せられ、岸沢老師は、巨刹、名藍からの請待も固辞し最後に永平寺不老閣の祝座をも辞退して(岸沢師は永平寺寺西堂職に就かれていたが、宗制改正で、西堂職の者が不老閣祝座に昇進する制度となったことを聞き、(「これは大変なことだ、先師(穆山師)の御言い付に違犯する事になるといって、速刻西堂職を辞職したのであった」元字脚の研究を完了し、先師古仏(穆山師)の真前に御報告中し上げたのであります。岸沢師は「先師が自分を守護していて下さる」と信じ切って研究三昧に入り九十一歳まで長寿を保って穆山師匠の嘱託に答えたのであります。「この師にしてこの弟子あり」と心から敬服している次第であります。このように師子ともに前人未踏の研究成果を遺している精力は何処から涌いたものでしょうか、それは座禅の力、六波羅蜜の力、等々色々ありましょうが、ここに一笑話を述べてお互の参考にしたい。
 穆山師が、赤痢の大病を全治した直後の或る時語って曰く、「わしが行脚してあるいた時、大垣の全昌寺に拝宿し、翌朝出立して門を出ると何に気をとられていたか、つまずいて倒れた。すると子供らが手をたたいて「やあ坊主が娘に見とれて打ったおれた」といってはやされた。はっと思って起きあがってみると十五、六の小娘がまっ赤になって走っていたので、自分も思わずまっ赤になった。まったく女の子が来たのも知らなかったのだが、まっ赤になったところをみると何処かに色気があったのだな」と、又若い時、彦根の清涼寺の漢三和尚が「比丘尼に睾丸を洗わせて平気であった」といっているのを聞いて、『そんなことができるものかしら』と疑っていたが、今度の赤痢病中看護婦が、前も後もどこからどこまでも洗ったりふいたりしてくれたが何ともなかった。そうすると、漢三和尚が一人えらいのではない、みんな相当年をとり、修養すれば性欲も調整出来るものだ、好い試験をした、これも赤痢病の御利益である」といったそうであります。
 人間の欲望の中で、色欲は本能的なもので、昔から修行人に取って重大なもので、これに対する戒律も訓戒もきびしいものがあります。又それだけに古来より名僧知識となられた方々は工夫と苦労をせられております。禅門に「婆子焼庵」の公案があり、色欲是認、色欲否定等色々議論され研究されているのでありますが、古来より恥部に関することとして、かくしたり、さけたりする傾向もありますが、生物たる人間の誰でもが固有する欲望であるから放任するわけにゆかぬと思う、穆山師の生涯で、名久井の法光寺在住時代に出て来た未亡人の「逢わぬつらさで酒を欲む」の話が表に出た最初の話でありますが、その外青年時代には性欲の問題が色色あったものと思う。穆山師は、日本で最初に木版の大蔵経を刊行した鉄眼和尚が、大蔵経木版刊行の願行を実現する為に色欲が起ってくれば、線香の火で、亀頭を焼いて鎮静せしめたのをまねて、自分もしばしば亀頭を線香の火で焼いてその勢(性)力を眼蔵研究に注入したと間いて居ります。人間は性欲の強さは濃淡様々個人差があるように聞きますが、それにも先天的のものと後天的のもの種々ありましょう。大事なことは人間として酒色におぼれぬこと、願がけしている偉人、修行人たるものは、これを調整することが大切であります。こうした意味から穆山師が正直に、色欲の経験を語って、世人出家人を指導していることは貴いことであります。性欲は男女とも死ぬまであるということを教える為に穆山師は、或る人が「禅師様、色欲というものは何歳まであるものでしょうか」と、尋問したのに対して、「これこれまでよ」と、いって火鉢の灰を手の平にのせて見せた、という御話もあります。人間は本質的には生きているうち性欲がある、それを調整して色欲に自分の生活を、自分の仕事を、自分の願行をさまたげられないようにすることが肝要と思います。

   四、穆山師頓智の一証
穆山師が、英潮院住職時代に、深く帰依していた常盤屋という御老人がいた。穆山師と御老人は一杯やりながら色々歓談していたが、
常盤屋「御前様、死人というものはひどくつめたいものですな」
穆山「どうして」
常盤屋「御承知の岩本(英潮院檀頭)にかたずいていた姉が、なくなりましたから御通夜にゆき、一生の別れだと思い、足の方からもぐりこんで寝たのです、ところがそれはそれはつめたかったのですよ」
穆山「それはそのはずだ」
常盤屋「どうして」
穆山「足柄下郡(足からしも氷)だ」
常盤屋「なるほど」というわけで、さすが滑稽百出の常盤屋も二の句がつげなかった。けだし岩本の家は、足柄下郡にあるからです。

  五、喜寿の祝寿会
 明治三十年九月、東京駒込の吉祥寺を会場として喜寿の祝寿会を開催したのでありますが、発起人は当時の政界財界宗教界の大物が悉く名を連ねており、その数百人余で、最大の盛況ぶりであった。隠居同様の身である穆出師の人気は依然として京浜間に盛んであった。明治二十六年に穆山師は孫弟子の玉田仁齢に命じて、横浜市野毛山に万徳寺を開則せしめ可睡斎の末寺として横浜市に縁を結んだ。