2008年1月1日火曜日

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 7

伝統を誇る荒谷の?
 平成五年度売市?組の名簿
 代表者 田中博逸
 親方 田中博逸 中村孝 坂本忠
    北村 進 松原誠 西村日出圀
太夫
先太夫藤九郎 竹岸 昇
中太夫中畔止め 川口徳治
後太夫畔止め 中村 孝 川口義国
笛  松橋 忠
太鼓 市川 勇
 売市の「えんぶり」の「のぼり」に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と記している。荒谷のえんぶりは、「えんぶり」の始祖であるといわれる所以からであろう。
 荒谷のえんぶりは、五拍子である。五拍子は、敵を攻撃するのに都合がよかったのであろう。太鼓は平打の太鼓といわれ、敵陣への切り込みに使用された。
 二通りの型があり、一つは、昼攻撃型で、春祈梼のふりをして敵陣に向う。もう一つは、夜攻撃型、覆面をして敵に顔を見られないようにしている。この覆面は、現在の黒い頭巾の事であろう。当時の名残りである。
 帯刀して、えんぶりを舞うのも武士の名残りであろう。又、えんぶりの旗は侍が戦いの時、使用した旗印であるといい伝えられている。
 ① えんぶりの起源
Q ?の起源には色々の説があるようですが
A ?のはじまりはいつ頃誰が始めたのか、明 らかではありませんが、その起源を伝える伝説は2~3残されています。
「南部三郎光行」説。「藤九郎盛国」説。「源九郎義経」説などが、その代表的なものです。売市にゆかりのある「藤九郎盛国説」を話しましょう。
 藤九郎守国(盛国)説
 根城南部家の先祖、南部実長(南部光行の六男)が甲州波木井(はきい・山梨県身延町)に在住していた時に、?が始まったという説であります。
 実長は日蓮上人を厚く敬い、法名を日円と言っていました。日蓮を佐渡から迎えて身延山を寄進し、お寺を建てて、手厚くもてなしました。
 橘藤九郎守国は、実長の家来で耕作奉行として仕えていました。
 建治2年(1276)の正月十五日殿様の御前で唄いながら舞いを披露しました。舞を?(えんぶり)うたはごいわい(御祝)と申しあげました。これが?のはじまりであると言っております。
 実長から4代目の殿様の南部師行が八戸根城に建武元年(1334)に築城し、その一族や家来も甲州から八戸に移住してきました。守国の子孫も同行して来て、根城の荒谷村(八戸市売市)に移り住み、?を伝えた……と言うのが根城南部の?起源説であります。
 この示承を受け売市の?組は、旗印に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と表示しています。
 ② えんぶり摺りとエンコ・エンコ
Q ?は田植え踊りと思いますがえんぶりとは 変った名前ですね。
A ?は八戸地方の農民達が豊年を祈願して踊 る田植え踊りであります。?と呼ぶのは「えぶり」という農具の名からきたもので、農民達が農具を持って踊ったのが始まりと言われております。?は田を摺る作業が踊りとなったことから踊ることを「摺る」と言っております。?の主役は太夫と呼ばれ烏帽子をかぶった舞い手達であります。
農業を守って下さる神様、つまり農神様は華麗な烏帽子に降臨され、太夫達は神の化身になると考えられています。
 太夫は組によって3人或は5人ですが、売市は3人です。先頭の太夫を藤九郎、2番目を中の太夫、3番目を畔どめと呼んでいます。
 太夫は烏帽子をかぶるほか、ぶっちゃき羽織 (又はぶっさき羽織)と呼ぶ直垂に似た羽織を着ています。売市の場合背中に三階菱の大きな紋と裾に波型が染められており、色は濃紺ですが、他の組では浅黄もあります。
 一般の田植踊りのように華やかではなく、神事的な形が色濃く残っていて、足をふまえて、頭の烏帽子をふるさまは一幅の絵であると言えましょう。
 子供のおどりエンコ・エンコ
Q 子供もカスリの着物を着て踊っていますね。A 子供も組に入って「エンコ・エンコ」という踊りを演じます。言葉の意味は不明ですが、神の来臨を告げる内容であると言われております。普通少年3人によって踊られます。
  農繁期のネコの手も借りたい時に、子供達 も一役買い、幼児の子守りをするというのが踊りになったと言われています。手に持った竹の輪に天保銭を付けた「ゼニダイコ」は子供をあやす「ガラガラ」の役をします。
 ③ 刀に対する心構え
Q 売市の?は武家とゆかりがあると伝えられ ていますが、何か特微がありますか。
A 売市の?は「なが?」です。従って古典的で摺りは悠長で動作は優雅なのですが、摺りの節々に武者が戦にのぞんだ時の動作が、チラチラ表れます。お囃子の太鼓も早打ちで、それは敵陣への切り込みの攻撃型であると言われています。それに黒い頭巾は忍者のかぶり物と同じであると聞いております。
 売市の?組は大小を帯刀しております。従って組の者に対する礼儀作法などの躾はきびしく、特に刀の扱い方は武士の心を持てと躾けられます。戦後は行列には模造刀を帯びていますが、作法は簡略にせず、方式通りに行っております。売市にとっては、刀は武士の持ち物と尊重し、?の小道具とは思っておりません。同じように、囃方の服装も他に比べて大変地味です。
 ④ 売市の烏帽子
Q 売市の烏帽子には特微があると聞いていま すが。
A ?では烏帽子を三揃い持っています。一昨 年作った物、昭和十四年の物、それに大正初期 の物の三種であります。一番古いものは博物館にでも寄贈しようかと話し合っております。図柄は型紙があって他の組のものと大体同じですが、昨年作ったものは努めて明るい感じに作ったので、十四年の「あめ色」のものに比べると、華かに見えるでしょう。作り方は、売市独得の方法で作っています。大きな判の日本紙を拡げて、それに布を貼り合せ、その上に上質の日本紙を何枚か貼って 固めます。乾いてから二つに折り合せますが、形を整えるのに苦心します。そのかわり丈夫で、後の方を角ばらせるのが特徴であります。よその烏帽子のように柾やダンボール紙などを芯に使えば軽くて作り易いのですが売市では使いません。それが自慢であり又特徴だと言えるでしょう。  日本紙だけで作りますから、目方が大変重くなります。烏帽子をかぶった時、紐をしっかり締めないと頭をふった時、烏帽子がふっとんでゆくと言います。今烏帽子を作る人は、2人位しかいないのではないでしょうか。作り賃は二十万円を超え ると言われています。
  烏帽子の図柄
Q 烏帽子の模様はおめでたいもの、農作業な どありますが、きまりがあるのですか。
A 太夫の役柄によって一定しているようです。
 先頭の藤九郎は「代かき、苗取り、田植え、稲荷様」中の太夫は「宝づくし」畔どめは「鶴・亀、エビス・大黒」が描かれているようです。
 烏帽子には、上から後にかけて五色の紙の「たてがみ」風のものがありますが、そこに神が宿るといい、丁寧に扱っています。ぬいだ時は、床の間とか神棚或は台の上など、必ず高い所に安置して、お神酒をあげ、柏手を打つなど、?のシンボルとして大切に扱っています。
 ⑤ なが?とどうさい?
Q 売市の?は「なが?」と聞きましたが、
 「どうさい?」との見分け方は。
A ?は「なが?」と「どうさい?」との二種ですが、烏帽子に長い五色のテープ状の紙のふさが付いている方が「どうさい?」です。
 又歌の中に「ドーサイ」のかけ声が人ります。 ふさが無くて先頭の藤九郎の烏帽子に赤い牡 丹の花(又は卯の花)が付いているのが「なが?」です。なが?はごいわい?、又はキロキロとも呼ばれます。ただ売市には牡丹の花も卯の花も付けていません。
Q その他の違いは
A「なが?」と「どうさい?」とでは摺りが違います。「なが?」は古典的と言われていますが、 テンポが遅く動作が荘重です。神への祈りの所作をとどめていると言えます。現代調に言えばワルツ調だと言う人もあります。それに引きかえ「どうさい?」はリズミカルであり、勇壮で現代感覚でルンバ調と言えましょう。華やかですから若い人に好まれ、「なが?」から「どうさい?」に変る組もふえてきたと言うことです。最近の行列に参加している組は「なが?」7組に対して、「どうさい机」は30組とずい分差があります。
 ⑥ 御前えんぶり
Q 売市の?は御前?だと聞いていましたが。
A 御前?は、売市、櫛引、田面木、中居林、白銀、湊、柳町、石堂それに後から糠塚と大久保が加えられ十組ありますが、藩政時代に毎年交代で南部邸に上り、御前で?を奉仕しました。これ等の組は刀を帯びるなど格式があると言われております。
 廃藩後も続けられ八幡町(今の内丸)の南 部家の屋敷で摺り、南部邸が南部会館になってから市役所の前庭で行うようになりました。
 御賄所日誌
 南部藩時代は、摺った時の御祝儀に、殿様から次のようなものを賜わったということです。
 黒蝶足膳にて、中白米壱升、鳥目十疋、肴台にて干鰯五串、鏡もち弐面、或は黒蝶足膳で鏡餅弐枚、中白米弐升、鳥目十疋、濁酒五升、田作塩煮、浅漬大根とあり、末尾に小頭安太郎が直垂を着用して取り計らったと記されています。
 増補奥南温古集
 八戸藩の歴史を書いたもののうち、最も古いと思われる接待治郷の「増補奥南温古集」に、御前えんぶりについて書かれています。この時の御前えんぶりは7組があげられています。
 大小帯刀については荒谷村の外は「相ならず」と仲々きびしい扱いをしているようです。
 ⑦ 「取締り」?組
Q 売市は?組の「取締り」と言いますが、どういう役目ですか。
A 明治維新後、えんぶりは廃止させられてい ましたが、街の要望で大沢多門はその復活に努力し、明治十四年新羅神社の豊年祭として行列を行うようになりました。これはその後の話。
 河野市兵衛家文書「取締り」について次の ように書かれています。行列の先頭の陣取りの争いで喧嘩があり、売市、糠塚、中居林、類家の四組を「取締り」にして、抽せんによって先頭をきめるようにして争いを防いだという。大沢多門の知恵でしょう。取締りは?組同志の争いや神事にまつわるので礼儀を正しくする。或は若い者にあり勝ないさかいなどの仲裁をするという役目であります。取締は、各組の幟旗の上に紺地に白ヌキで取締と染ぬいた小旗をつけています。
 ⑧ 楽器と音頭とり
Q お囃子は笛、太鼓、手びらがねという誠に 原始的な簡単な楽器ですが、仲々にぎやかで春を呼ぶという感じで、心が浮き立ちますね。
A それに音頭とりと言う唄い手が、十数名つ いております。色紙で作った「ジャハイ」とよぶ采配をふって音頭をとって歌います。この采配は昔櫛引八幡宮から授かった五色の幣が変形したものということです。従って腰にするようなことはなく、襟元に差す習わしになっています。ジャハイのうち銀色は組頭をあらわします。えんぶりは十数種の舞いからなり、それぞれにお囃子と歌がついています。歌詞は口から口に伝えてきたので、歌っている本人にも判らない部分が多いようです。その一部を現代文で紹介すれば……
 鎌倉の早乙女 五月召したるかたびら肩と裾は蓬ぎ草なかはうんずら卯の花……などいうのもあり、無骨な農民のうちにも、なかなかのロマンチストがいたようです
⑨ えんぶりあれこれ
Q ?の世間の評価はどうですか。
A 全国民謡舞踊大会、大分昔のことになりま したが、標題のような催しが昭和3年4月、東京明治神宮外苑の日本青年会館で催されました。 全国から7組の舞踊が選ばれて出演しました。青森県代表として八戸市糠塚えんぶり組が選ばれて出場、舞踊中見事第一位に入賞して、大いに賞讃されました。
  国の民俗文化財に指定
 ?の特異な服装や歌、伝統的な構成に対して、昭和五四年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
Q ?は作り字ですか。
A ?は立派な漢字、?は水稲に八で、八戸に ちなんだ作り字ではないかと思われますが、辞典にある漢字です。醍醐天皇の昌泰(898~929)年中昌住の編んだ「新撰字鏡」の農業調度章の中に「?=江夫利」あり、その他にも見えています。        Q えんぶりの巻物が各組にあって、えんぶり 摺の大意が書いてあるそうですが。
A ?の故事来歴を書いた巻物が、古い?組に 伝えられています。八戸市博物館にも寄託されたものが保管されております。
 南部家の奥州下向の歴史から説きおこし、?が侍の武装や武具に由来すること等が、記されています。文中に荒谷村(現売市)の?組が古いしきたりを伝える組で、大小を帯ぶると書かれています。荒谷村を知っている人の筆でしょうか?  売市の?組にも巻物があるそうで、みだりに見ると目がつぶれると、箱に入れて封をして保管(高崎裕允氏)しているということです。
Q 前にも?と刀が話題になりましたが、刀の 扱いについてお知らせ下さい。
A 刀は取締り組の?組だけが、腰に差すもの と言われています。ただ腰に差すだけで抜刀することはありません。
 ⑩ これからの?の世界
Q 後援者を失った?のこれからの行き方は。
A 昔と違って農閑期と言っても、今の農家で は遊んでいる人はありません。又?は農家の人ばかりではなく、職人でも勤人でも、?の好きな者は集ってきます。勿論みんな無報酬で奉仕です。それでも?を出すには必要経費は産み出さなければなりません。烏帽子や衣装の補修費、参加者の食事や慰労費など最低限度の経費は必要です。  今までは、豊年祭には「うちの?が来る」と言ってご馳走を作り、多額の祝儀で祝ってくれた町の地主がいたのでしたが、それが農地改革で消えてしまいました。その後は専ら「門付け」によって、一般に接するようになったわけです。?は大衆のものになったとも言えますが、それが必ずしも 全面的に歓迎されているとも言えないのが現実です。えんぶりの祝儀の戦後派らしい額(紫峰) と川柳は見ぬいています。えんぶりに女世帯の堅い門(和穂)時にはこういうつらい場面にもぶつかることもあります。?の伝統の灯を守り、国の民俗文化財として継続を図るためには、門付けされる市民の心に、どう対応すべきかの課題を、解かなければならないでしょう。