前号でみたように、八戸小唄は法師浜直吉氏が作詞したもので、それを惜しげもなく八戸市に著作権を無償で譲った。
八戸市は法師浜氏から貰い受けた著作権で幾ら手にしたことだろう。その合計金額は昭和四十三年から平成十八年までで二千六百七十万円にのぼる。
この金は八戸市公会堂基金に入れられた。すると、この公会堂とは何だ?の疑問が出る。それを調査すると、八戸市は昭和五十年一月に財団法人八戸市公会堂を立ち上げた。
そして公会堂事業基金を設立。昭和五十三年三月に「公会堂事業基金取り扱い要領の制定について」という文書が作成された。
総務部総務課行政係主事中村昭雄氏の名が記載されている。往時を知る人の為にサービスで押された印鑑名を紹介。
秋山市長、巻助役、松沢部長、長岡次長、橋本課長、係長植村、係員立花、財政部長松橋、次長下斗米、補佐川越、副参事杉本、契約課長久保、以下略。
理由 八戸市基金の設置及び管理に関する条例の一部を改正する条例の可決に伴い、公会堂事業基金(原資一億一千万円)の取り扱いについて必要事項を規定するものである。
基金の効率的な運用により、その収益を財団法人八戸市公会堂が自主的に開催する文化事業に充当する。
公会堂事業基金取り扱い要領
第一 公会堂事業基金による公会堂事業を効果的に運用するために必要な事項を定める
第二 八戸小唄著作権使用及び寄付金については基金に積み立てる
第三 基金の運用から生ずる収益は財団法人八戸市公会堂が主催する文化事業に使用する
第四 基金の運用から生ずる収益は一般会計歳入歳出予算に計上し、文化事業に要する経費に充てるものとし、残金を生じた場合は基金に積み立てるものとする
第五 基金の状況を明らかにするため次の帳簿を備え付ける
一、 財産台帳 基金出納補助簿
附 この要領は昭和五十三年三月三十一日から実施する
諸君も知っているように公会堂の中に公民館がある。これは建設中にオイルショックがあり建設材料高騰のため金が不足。そのため、金を工面しようと、当時、爆撃機騒音対策で防衛施設庁がふんだんに持っていた金に眼をつけた。つけたのは市長でなく、市役所職員だろう。傾いた家が飛行コースにあったため、サッシの防音窓枠をつけたら家がそれで持ち直したの笑話もある。
折衝してみると、公会堂には金は出せないが公民館整備なら出るとなった。それでも金を欲しいと、その金を食ったのが毒饅頭。
そのため、一つ屋根の下に公会堂と公民館の看板がぶら下がる格好となった。
もともと補助金欲しさで手を出した金。官庁からの交付金に眼をつけるのが会計検査院、ここに睨まれると厄介な問題になる。そのため公民館という名ばかりの、公民館ではない代物が登場する。公民館は教育委員会の管轄で、中央公民館が管理する。市内に二十二あり、次長級が中央公民館長となる。この公民館は八戸市公民館条例に規定される。公民館条例は公民館には館長をおかなければならないとある。
公会堂の中にある八戸市公民館は教育委員会文化課に所属する。公民館なのに中央公民館の管理下ではない。
この公民館は今、財団法人公民館が管理している。そこに公民館管理費として年間二千五百万が文化課から出ている。
中央公民館が管理する地域公民館の運営費は人件費を含め年間八百万円程度。公民館長は九万円の月給で奉仕する。二千五百万という地域公民館の三倍以上の金が何故必要なのか。
これらは全て、国(防衛施設庁)を騙したとがめだ。国から交付金を受け、それをいかにももっともらしく見せるために、公民館の看板を掲げた。それを維持するために、名目だけの公民館館長を置く。この館長は教育長が任命しなければならないと八戸市公会堂条例にある。すると誰が疑惑の八戸市公民館長に任命されていたのか。
当初は総務部の所管にあったそうだ。この証拠が明確になっていない。文化課の言い分では平成になってから文化課の管理下になったそうだが、それもまだ明確になっていない。書証を文化課がそろえるのを待つ状態。
現在は公会堂が公民館を管理している。公民館管理費の二千五百万円の内容が実に不透明。文化課はかかる費用を出しているというが、正しく使われているのか、大いに疑問。というのも、八戸市公会堂の指定管理は年間一億八千万円。ここから出る収益は運営する者がとっていいとある。
つまり、管理費の外に収益を上げれば管理側の利益になる。映画館経営者が、年間一億八千万円の金を貰って、映画館を経営する。そして上映収入を丸々もらえるなんて巧い話が現実にあるんだ。
中心商店街から逃げた女房のイトーヨーカドーの跡地に映画館がある。ここは天井が低くて、映画館とは名ばかり。ところが、公会堂はスケールが違う。公民館ですら五百席のステージを持つ。ここの管理費が問題なのだ。
上の表の清掃業務と警備業務に着目。公民館が合計で千六百万円、公会堂は二千九百万円。
公会堂と公民館は屋根は一つ、仕切りの壁もない。どこから公民館でどこが公会堂なのだろう。
警備と清掃で四千五百万円も支払われている。
さらに、驚くのは八戸市役所の新館と旧館の警備業務には千八百万円しか払われていない。
公会堂と市役所とはどちらが大きい。これは見ただけでも見当がつく。市役所の新旧館合計延べ面積は二万二千四百三十六平米、公会堂公民館は一万四千二百十九平米。
仕切りも明確でないところに巨額な金を流しているが、これは正しい執行と果たして言えるのだ ろうか。本来一つの建物で、二つに分けたのは名目上の問題。国を騙した行為は時効だ。にもかかわらずこれを連綿と続けるのは市民を欺く行為だ。
ここで頭を整理しよう。財団法人八戸市公会堂は八戸市役所の外郭団体で、八戸市が運営するものではない。
八戸市は市民の税金を八戸市公会堂に投入し、管理・運営をさせている。この公会堂が出来た当時の市職員定年は五十八。この受け皿として、公会堂を外郭団体とした。つまり、税金をうまく利用して、定年延長ができないので、再雇用としたのだ。市の財政がうまく回転していればいいが、財政破綻をきたした状況では重荷にしかならない。役人は自分の在任期間をことなかれ主義ですごしたい。だから、改革、改新などが行なわれず先送りされる。すると、現在まで、第二退職金として支払われた総額は?
文化事業とは何が行なわれたのか?
2007年12月1日土曜日
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 3
七、八戸水産流通加工団体の活躍
昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合をつくったのを手始めに、水産流通加工に関係する諸団体に加わり、八戸水産業界と共に汗を流しました。地元の八戸水産加工振興協議会も、昭和四十四年五月水協法に基づく、八戸水産加工業協同組合連合会に改組しました。傘下団体は、八戸魚市場水産加工業協同組合など四団体でした。
当時は未だ水産流通加工業会の力が弱く、系統の金融機関に融資を申し込んでも中々応じて貰えませんでした。商工中金に御願いすれば、水産加工は農林中金に頼みなさい、農林中金に御願いすれば、加工業だから商工中金に行きなさいと言われる始末でした。そこで八戸水産加工連は水協法にし農林中金から、八戸魚市場仲買連は中企法 に基づく組合にして商工中金から融資して頂く途を作りました。現在では両方共積極的に融資に応じて頂く様になり有難いと思っています。
八戸水産加工連の結成と前後して昭和四十四年三月、流通、加工の近代化、合理化を総合的に実現しようとする水産物産地流通加工センター形成事業に、地域業界挙げての熱意によって八戸港が指定されました。第一次の指定を受けたのは八戸、稚内、境港、下関、長崎の五地区でありました。八戸市の場合は流通加工センター形成事業は、修築工事が進んでいる館鼻漁港とその周辺地区で実施されることになりました。
最終的に四十六年から四十八年の三ヵ年実施、事業費の内訳は流通部門五億八千二百万円、加工部門十億二千二百万円、このうち国の補助対象事業は十二億円でありました。八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設は約十億円で国が三分の一、県が三分の一補助し、残り三分の一を事業主体が負担すると言う願ってもない事でありましたが、そこで国、県、農林中金から八戸水産加工連の出資金が唯の百万円では困ると言う事になりました。
当時八戸魚市場から仲買人完納奨励金として、買付額の千分の五が交付されて居り、水揚げ高も二百億円に達していました。よって奨励金の五分の一を出資して貰えば一年間で二千万円の出資になり、五年間で一億円になる。仲買連の各組合が、加工連の準組合員になって貰い出資して貰えば、五年間で一億円の出資金となる、よって仲買連の会長が加工連の会長になって貰い、総会で決議して貰えば自ら途が開けると考え、仲買連の会長であった佐々木惣吉さんに御願いしました。その結果、業界の為になるなら結構だ、但し青森県水産加工連、全水加工連の仕事は引続きやってくれ、という事で承知して頂きました。
昭和四十六年七月会長職を辞任、八戸水産加工連の副会長として引続き参画する事になり、国、県、農林中金にも納得して頂き、事業を順調に進める事になりました。建設用地は県より譲渡して頂き、昭和四十六年九月二十二日八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設などの着工式が全事業のトップを切って行われました。
八、水産流通加工の急成長
八戸の終戦直後の水産加工にはふれて来ましたが、もう一度見直して見度いと思います。
戦前はイワシ粕、イワシ油、カマボコ類、スルメ、煮干、干しアワビ、フカのヒレ、等が主体で、昭和二十五年頃からイカの大漁貧乏対策としてスルメ、イカの塩辛等のイカ製品がまず水産加工の中心でした。こうしたイカの大量水揚げに対処するために、冷蔵庫建設も次第に盛んになり、三十年における冷蔵能力は八千四百㌧と昭和二十五年の四千二百㌧に比して二倍に増強されました。昭和二十八年には鯖の好漁があって塩鯖加工が普及し始め、三十年には缶詰工場の県外からの進出も見られる等、水産加工場は家内工業も合わせると四百を超える盛況ぶりでした。
昭和三十一年八月、青森県水産加工研究所が設置され、初代所長の荒木さんは自ら包丁を持って、魚をさばく等熱心に指導されました。更にいかの肝臓等公害の原因となる内臓を処理し、SP飼料に利用する工場、八戸水産飼料が操業を開始しました。又サンマの豊漁からこれのみりん干が開発される等活発な動きが展開されたのであります。 昭和三十六、七年にはサンマ棒受け網が豊漁でサンマの加工が進むと共にイカの加工品も増産が続き、生産額は二十八億円となり、冷蔵能力は三万㌧を超えていました。
昭和三十九年にはイカの珍味生産がさらに盛んとなり、加工機械に対する需要が高まり、昭和三十九年には青森県水産加工用施設整備促進条例および八戸市水産加工用機械貸与条例の制定により、加工機械類の貸与が行われました。
昭和四十六年には加工生産高は三十五億円に達し、冷蔵能力も一気に四万七千㌧を超える増強ぶりでした。こうした状況の中で水揚げが急上昇し、昭和四十年には史上初めて二十万㌧を超え、四十二年には早くも三十万㌧、翌四十三年には四十三万㌧というまさに驚異的な伸びを見せたのであります。こうした急上昇の要因は鯖と助宗の水揚げが急増したからであります。したがって水産加工業もまた、こうした状況に対応して、発展を続けたのであります。北転船の助宗鱈を原料とするスリ身の生産、あるいは練り製品などの二次加工品、助宗鱈の魚卵によるタラ子の製造などが 急激に伸び、塩鯖や缶詰などの生産も大幅に伸びました。北転船の水揚げが本格的となった、昭和四十三年までに十七のスリ身工場が、一気に稼働を始めることが出来たのも、これまでに業界に培われて来た実力を示す以外の何物でもなかったのでありましょう。水産加工場数二百四十、従業員数約八千人、生産高二十四万七千㌧、二百三十億円、冷蔵能力九万㌧、まさに日本有数の規模を訪るべき位置に八戸の流通加工業はあったのであります。こうした実績の下にこの年水産物流通加工センター形成事業の指定を受け、四十六年度からは市川地区に加工団地の造成が始まりました。この年八戸の工業出荷額は九百五億五千万円であり、水産加工はその二十五%を占めるに至ったのであります。
九、北洋転換トロールと助宗スリ身生産
沿岸漁民とのトラブルが多い機船底引漁船を減船し、遠洋底引き漁に切り替えるための北洋転換船は、昭和四十年に青森県に十七隻許可され、大型鉄鋼船時代を迎える様になりました。この様な漁船の大型化に伴って、主要漁獲量である助宗鱈の水揚げが飛躍的に増大することは必至で、昭和四十一年度の漁獲量は約十万㌧になりました。しかし大量水揚げによる漁獲低落を防ぐためには、従来のスケコ(魚卵加工)づくりの他、練製品の二次加工の必要性が叫ばれはじめました。これは魚卵利用後、練製品原料として県外出荷されている魚休利用を本県でも取入れようというものであります。
そこで冷凍すり身工場を建設し、練製品の原料をつくる計画が進められましたが、冷凍すり身製法に関する特許は北海道庁が持ち権利を道冷凍魚肉協会に移管していました。このため青森県水産商工部では道庁に対し、特許使用について折衝したが道庁では色々な事情で難色を示している為、県では水産庁にもあっせんを要請、北海道側も北海道、東北北転船は助宗漁場を同じくし助宗魚価もおおむね連動している故大局的判断に立って県別の少数工場数に局限し、これを容認特許権侵害防止の措置を考慮すべきではないか等の意見も出はじめました。一方早期開放を要する東北地方の動きは、八戸地区では昭和四十二年十二月、「東北冷凍魚肉協会」が設立され、宮城県では昭和四十四年三月「宮城県冷凍魚肉協会」が設立されました。東北地方に於ける事態の推移に対し北海道特許審議委員会が全委員一致、許諾の結論を得たのは、昭和四十四年九月でした。容認工場数は青森県(八戸)十七工場、岩手県五工場、宮城県十九工場計四十一工場に及びました。
昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合をつくったのを手始めに、水産流通加工に関係する諸団体に加わり、八戸水産業界と共に汗を流しました。地元の八戸水産加工振興協議会も、昭和四十四年五月水協法に基づく、八戸水産加工業協同組合連合会に改組しました。傘下団体は、八戸魚市場水産加工業協同組合など四団体でした。
当時は未だ水産流通加工業会の力が弱く、系統の金融機関に融資を申し込んでも中々応じて貰えませんでした。商工中金に御願いすれば、水産加工は農林中金に頼みなさい、農林中金に御願いすれば、加工業だから商工中金に行きなさいと言われる始末でした。そこで八戸水産加工連は水協法にし農林中金から、八戸魚市場仲買連は中企法 に基づく組合にして商工中金から融資して頂く途を作りました。現在では両方共積極的に融資に応じて頂く様になり有難いと思っています。
八戸水産加工連の結成と前後して昭和四十四年三月、流通、加工の近代化、合理化を総合的に実現しようとする水産物産地流通加工センター形成事業に、地域業界挙げての熱意によって八戸港が指定されました。第一次の指定を受けたのは八戸、稚内、境港、下関、長崎の五地区でありました。八戸市の場合は流通加工センター形成事業は、修築工事が進んでいる館鼻漁港とその周辺地区で実施されることになりました。
最終的に四十六年から四十八年の三ヵ年実施、事業費の内訳は流通部門五億八千二百万円、加工部門十億二千二百万円、このうち国の補助対象事業は十二億円でありました。八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設は約十億円で国が三分の一、県が三分の一補助し、残り三分の一を事業主体が負担すると言う願ってもない事でありましたが、そこで国、県、農林中金から八戸水産加工連の出資金が唯の百万円では困ると言う事になりました。
当時八戸魚市場から仲買人完納奨励金として、買付額の千分の五が交付されて居り、水揚げ高も二百億円に達していました。よって奨励金の五分の一を出資して貰えば一年間で二千万円の出資になり、五年間で一億円になる。仲買連の各組合が、加工連の準組合員になって貰い出資して貰えば、五年間で一億円の出資金となる、よって仲買連の会長が加工連の会長になって貰い、総会で決議して貰えば自ら途が開けると考え、仲買連の会長であった佐々木惣吉さんに御願いしました。その結果、業界の為になるなら結構だ、但し青森県水産加工連、全水加工連の仕事は引続きやってくれ、という事で承知して頂きました。
昭和四十六年七月会長職を辞任、八戸水産加工連の副会長として引続き参画する事になり、国、県、農林中金にも納得して頂き、事業を順調に進める事になりました。建設用地は県より譲渡して頂き、昭和四十六年九月二十二日八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設などの着工式が全事業のトップを切って行われました。
八、水産流通加工の急成長
八戸の終戦直後の水産加工にはふれて来ましたが、もう一度見直して見度いと思います。
戦前はイワシ粕、イワシ油、カマボコ類、スルメ、煮干、干しアワビ、フカのヒレ、等が主体で、昭和二十五年頃からイカの大漁貧乏対策としてスルメ、イカの塩辛等のイカ製品がまず水産加工の中心でした。こうしたイカの大量水揚げに対処するために、冷蔵庫建設も次第に盛んになり、三十年における冷蔵能力は八千四百㌧と昭和二十五年の四千二百㌧に比して二倍に増強されました。昭和二十八年には鯖の好漁があって塩鯖加工が普及し始め、三十年には缶詰工場の県外からの進出も見られる等、水産加工場は家内工業も合わせると四百を超える盛況ぶりでした。
昭和三十一年八月、青森県水産加工研究所が設置され、初代所長の荒木さんは自ら包丁を持って、魚をさばく等熱心に指導されました。更にいかの肝臓等公害の原因となる内臓を処理し、SP飼料に利用する工場、八戸水産飼料が操業を開始しました。又サンマの豊漁からこれのみりん干が開発される等活発な動きが展開されたのであります。 昭和三十六、七年にはサンマ棒受け網が豊漁でサンマの加工が進むと共にイカの加工品も増産が続き、生産額は二十八億円となり、冷蔵能力は三万㌧を超えていました。
昭和三十九年にはイカの珍味生産がさらに盛んとなり、加工機械に対する需要が高まり、昭和三十九年には青森県水産加工用施設整備促進条例および八戸市水産加工用機械貸与条例の制定により、加工機械類の貸与が行われました。
昭和四十六年には加工生産高は三十五億円に達し、冷蔵能力も一気に四万七千㌧を超える増強ぶりでした。こうした状況の中で水揚げが急上昇し、昭和四十年には史上初めて二十万㌧を超え、四十二年には早くも三十万㌧、翌四十三年には四十三万㌧というまさに驚異的な伸びを見せたのであります。こうした急上昇の要因は鯖と助宗の水揚げが急増したからであります。したがって水産加工業もまた、こうした状況に対応して、発展を続けたのであります。北転船の助宗鱈を原料とするスリ身の生産、あるいは練り製品などの二次加工品、助宗鱈の魚卵によるタラ子の製造などが 急激に伸び、塩鯖や缶詰などの生産も大幅に伸びました。北転船の水揚げが本格的となった、昭和四十三年までに十七のスリ身工場が、一気に稼働を始めることが出来たのも、これまでに業界に培われて来た実力を示す以外の何物でもなかったのでありましょう。水産加工場数二百四十、従業員数約八千人、生産高二十四万七千㌧、二百三十億円、冷蔵能力九万㌧、まさに日本有数の規模を訪るべき位置に八戸の流通加工業はあったのであります。こうした実績の下にこの年水産物流通加工センター形成事業の指定を受け、四十六年度からは市川地区に加工団地の造成が始まりました。この年八戸の工業出荷額は九百五億五千万円であり、水産加工はその二十五%を占めるに至ったのであります。
九、北洋転換トロールと助宗スリ身生産
沿岸漁民とのトラブルが多い機船底引漁船を減船し、遠洋底引き漁に切り替えるための北洋転換船は、昭和四十年に青森県に十七隻許可され、大型鉄鋼船時代を迎える様になりました。この様な漁船の大型化に伴って、主要漁獲量である助宗鱈の水揚げが飛躍的に増大することは必至で、昭和四十一年度の漁獲量は約十万㌧になりました。しかし大量水揚げによる漁獲低落を防ぐためには、従来のスケコ(魚卵加工)づくりの他、練製品の二次加工の必要性が叫ばれはじめました。これは魚卵利用後、練製品原料として県外出荷されている魚休利用を本県でも取入れようというものであります。
そこで冷凍すり身工場を建設し、練製品の原料をつくる計画が進められましたが、冷凍すり身製法に関する特許は北海道庁が持ち権利を道冷凍魚肉協会に移管していました。このため青森県水産商工部では道庁に対し、特許使用について折衝したが道庁では色々な事情で難色を示している為、県では水産庁にもあっせんを要請、北海道側も北海道、東北北転船は助宗漁場を同じくし助宗魚価もおおむね連動している故大局的判断に立って県別の少数工場数に局限し、これを容認特許権侵害防止の措置を考慮すべきではないか等の意見も出はじめました。一方早期開放を要する東北地方の動きは、八戸地区では昭和四十二年十二月、「東北冷凍魚肉協会」が設立され、宮城県では昭和四十四年三月「宮城県冷凍魚肉協会」が設立されました。東北地方に於ける事態の推移に対し北海道特許審議委員会が全委員一致、許諾の結論を得たのは、昭和四十四年九月でした。容認工場数は青森県(八戸)十七工場、岩手県五工場、宮城県十九工場計四十一工場に及びました。
手記 我が人生に悔いなし 四
中村節子
○ 奉仕隊
文化服装学院在学中の感動の出来事
一月下旬から二月上旬に、インターハイに続いて国体のスケート大会が八戸の長根リンクで行なわれることになった。その選手団のお世話のお手伝いをお願いしたいという依頼が市から学校にあった。お手伝いの内容は、選手の宿泊所(旅館)と大会場の案内とか伝達などのお世話である。期間は三週間。
なぜ洋裁学校に依頼が来たかというと、当時八戸には大学がなかった。高校在学中の生徒より、すでに卒業して洋裁を学んでいる学生の方が役に立ちそうだという理由だった。
従って文化服装とドレスメーカー女学院の二校から二十五名が決まった。もちろん全部女性である。全くの無料奉仕なので「奉仕隊」という名がつけられ、十二月の始めから、その準備が開始された。
先ず奉仕隊のユニフォームを作ることになった。ブルーのコール天の生地でトッパーコートを作ることになった。洋裁 学校だから作るのはお手のものだが、材料費は半分自己、半分はPTA会費から援助があった。その外に白の毛糸でマフラーとボーシを編む。もちろん材料費自己負担である。
一月に入ると何度も打ち合わせがあり、私の担当旅館は長者荘ともう一軒あったが忘れた。現在はその旅館は無い。確か北海道の高校選手が宿泊していたと記憶している。国体になったら尼崎市からの選手の担当になった。
大会の始まる一週間前から、仕立て上がったブルーのユニフォームを着てその任務についた。
その年(昭和三十六年)は暖冬で長根リンクが凍らず、選手達は練習できず肝心の大会さえ危ぶまれた。
練習には高舘のリンクが使用できると言われたが、その高舘のリンクはどこにあるのかマニアルにはない。その高舘リンクから氷を自衛隊のトラックで長根リンクに運んだ。
とにかくインターハイ開会に間にあった。
開会式にはブルーのユニフォーム奉仕隊がずらり整列して開会式に花をそえた。ブルーがとてもきれいだったと街の人に言われた。
大会は順調に進み国体の開会式には義宮(よしのみや・現常陸宮)様がおいでになった。この時も奉仕隊は整列したがとても緊張した。
各地から来た大会役員に「ブルーのユニフォームがとても目立つ。あっちにもこっちにも見えるがいったい何人いるの?」とか「バイト料はいくらなの?」と聞かれた。無料奉仕ですと答えると驚いていた。(昼食は頂いた)
大会は無事終了した。私達はとても良い経験を させてもらったと思った。
三年後に東京オリンピックが開催され、コンパニオンという言葉が流行したが、私達の奉仕隊はあのコンパニオンの草分けだったのだと思っている。
○ ミシン
専攻科の教室の廊下側に三台、窓側に三台、計六台のミシンがあった。その六台のどれかに必ず「故障」の張り紙が貼ってある。
多い時には三台に貼ってあり使えるのは三台だけ。順番待ちになる。
「どうして?、洋裁学校なのに。」と不満が出る。院長先生がおっしゃった。
「学校は、わからないところ、できないところを教えてもらうところなのです。わかるところは家でミシンを掛けてきなさい。」なるほど。「一台のミシンを一人の人が使うと、ずっと長持ちします。学校では色々な人が色々なクセでミシンを使います。それによって故障になりやすいのです。」なるほど。
我が家には私が気づいた時にはすでにミシンがあった。私達の着る物は母がミシンを掛けて作ってくれた。裁縫の嫌いな私でも中学生の頃はミシンの使い方は知っていた。
そのミシンを今度は私が頻繁に使うようになった。私が生まれる前からのミシンだから、ガタガタ音がうるさい。それは我慢できるがバックができないのは不便だった。
「新しいミシンが欲しい」と頼んだ。
「嫁に行くとき古くなるからダメ」と母は言った。「えっ?」また母は矛盾したことを言ったのだ。洋裁を習えと言ったのは母ではないか。やっと説得して買ってもらった。
新しいミシンは静かに針目が進む。私専用のミシンだ。時々私の留守に母が使う。それが私にはすぐわかる。言葉では表現できないが、なんとなく「今日は母が使った」とわかるのである。
そのミシンが六年前に調子が悪くなった。
ちょうど四十年目であった。ミシン屋さんに見てもらったら「古い型なのでもう部品はありません」と言われた。やむなく新しいのに買い換えたが、四十年の長きにわたって愛用したミシンを捨てる時は、一抹の寂しさが胸をよぎった。
○ 運送会社に就職
洋裁学校を卒業して、八戸駅(現本八戸)前の運送会社に就職した。(現在会社は河原木にある)この民間企業に勤めて官(自衛隊)と民との大きな違いに戸惑いを感じた。
イヤ、あたりまえであるものを無知なるがゆえに戸惑ったと言う方が正確かも知れない。
一、まず電話に出たら「毎度ありがとう ございます」私はこれを言えなかったのである。
あたりまえの挨拶なのだが、初めてのお客にも「毎度」とは?と思ったからである。
二、日曜日は必ず休みという考えを変えなければならないことに気がついた。普通日曜日は日直の人が出勤し、あとの人は休みなのだが、届けを 書く。しかも代休届けと書いた。何の代休かわからないけれど届けを書いた。
三、給料日に経理の人が「ハンコ持って来て」と言う。これが給料支給の合図なのだ。
初めの頃はわからなかったので行かなかった。「あんたは給料はいらないのか」と言われた。「給料を支給します」と言えばいいではないか。その 人は社内で唯一の大学卒といわれた人である。「あんたは言葉を知らないのかと言ってやりたかった。
○ リストラ
この会社には女性二十八歳定年という規則があ って、先輩が退職した。その時「必ずしもやめなくてもいいんだよ、エヘヘヘ」と支配人が笑った。背筋に冷たいものを感じた。
その後二十八歳定年の規則は削除されたが、三十五歳の時リストラの対象になった。対象者は四人。男性二人は通告のあったその日に退職した。 私は「二ヶ月後の十二月のボーナスをもらったらやめます」と言った。もう一人の私と同年の女性は「家族のためにもうしばらく働かなければならないので…」と会社に残った。
退職して二週間後失業保険の手続きをするため職安へ行った。なんと家族のために働くと言ったはずの彼女にバッタリ出合った。
思わず「何しに来ているの?」「失業保険の手 続きに」私の退職後、彼女は会社からイヤガラセを受けたのだ。遠くの営業所へ行けと。
この時の失業保険はすんなりと決まった。
運送会社には十四年間お世話になったが、楽しい思い出は一つも浮かんでこない。
きっとリストラと共に消えさったのだ。
○ 茶道入門
会社の友達とお茶を習いに行くことにした。
内丸にお茶の先生のお宅があるから、そこへ行こうということになった。一度も抹茶を味わったことがないし、流派など知らないが、とにかく内 丸だと会社からの帰り道だから都合がいい、ただその程度の考えで入門した。
流派は裏千家流で、母屋の隣の離れがお稽古場であった。七畳の茶室に八畳間が続き六畳の水屋がついている。
水曜日の夜は勤め帰りの若い人でいっぱいになった。先生はおばあちゃんで、古いお弟子さんが新入りの私達のめんどうを良く見てくれた。先 輩弟子には男性もいたし、陸海空の自衛官もいた。
先生のご主人のことを、私達はおじいちゃんと呼んだ。おじいちゃんは時々お稽古場に来て歴史の話をして下さった。八戸南部の殿様のお話はとても興味深かった。
お茶の稽古は楽しくて、毎週水曜日は休むことなく通った。
○ 仮縫い・本縫い
お茶のお稽古のある日のこと、男性自衛官の二人が「着物を着てみたい。ウールのアンサンブルを作ろう」ということになった。
たまたま男性先輩弟子が呉服屋さんだったので反物を持って来て、どれがいいか二人が選んだ。そして寸法も計った。
「仮縫いはいつできるんですか」と聞いた。呉服屋さんは、えっ?と言うようにして言葉につまった。そこで私が口をはさんだ。
「着物はねえ、洋服と違って仮縫いしないで、すぐ本縫いに入るんですよ」と。
このことを家に帰って母に話した。
「節子はよくほんぬいという言葉を知ってたね。」「あたりまえでしょ。洋裁やってたら仮縫いして本縫いに入ると言うんだよ。」
その時の母との会話はここまでだったけれど、しばらくしてまたこの話になった。
「あの時、学校へ入れた甲斐があったと思ったよ」と母はぽつりと言った。
私が洋裁学校へ入る前までは、全部母が縫ってくれていた。だから母は何でも知っているし、何でも縫えると思っていた。
私が学校から帰ると、私の縫った物を点検するかの様に見る。ファスナーやポケットの付け方やボタンホールのあけ方等々。
今までは見よう見真似で縫ってきたが、本式はどの様にするか縫い方を見たかったのだと母は言っていた。けれども言葉だけは気が付かなかったのだ。
その道、その道でそれなりの言葉使いがある。たった「ほんぬい」という言葉を使っただけなのに、学校へ入れた甲斐があったと思ったという。親というものは、この様なものなのだなあと思った。
○ 奉仕隊
文化服装学院在学中の感動の出来事
一月下旬から二月上旬に、インターハイに続いて国体のスケート大会が八戸の長根リンクで行なわれることになった。その選手団のお世話のお手伝いをお願いしたいという依頼が市から学校にあった。お手伝いの内容は、選手の宿泊所(旅館)と大会場の案内とか伝達などのお世話である。期間は三週間。
なぜ洋裁学校に依頼が来たかというと、当時八戸には大学がなかった。高校在学中の生徒より、すでに卒業して洋裁を学んでいる学生の方が役に立ちそうだという理由だった。
従って文化服装とドレスメーカー女学院の二校から二十五名が決まった。もちろん全部女性である。全くの無料奉仕なので「奉仕隊」という名がつけられ、十二月の始めから、その準備が開始された。
先ず奉仕隊のユニフォームを作ることになった。ブルーのコール天の生地でトッパーコートを作ることになった。洋裁 学校だから作るのはお手のものだが、材料費は半分自己、半分はPTA会費から援助があった。その外に白の毛糸でマフラーとボーシを編む。もちろん材料費自己負担である。
一月に入ると何度も打ち合わせがあり、私の担当旅館は長者荘ともう一軒あったが忘れた。現在はその旅館は無い。確か北海道の高校選手が宿泊していたと記憶している。国体になったら尼崎市からの選手の担当になった。
大会の始まる一週間前から、仕立て上がったブルーのユニフォームを着てその任務についた。
その年(昭和三十六年)は暖冬で長根リンクが凍らず、選手達は練習できず肝心の大会さえ危ぶまれた。
練習には高舘のリンクが使用できると言われたが、その高舘のリンクはどこにあるのかマニアルにはない。その高舘リンクから氷を自衛隊のトラックで長根リンクに運んだ。
とにかくインターハイ開会に間にあった。
開会式にはブルーのユニフォーム奉仕隊がずらり整列して開会式に花をそえた。ブルーがとてもきれいだったと街の人に言われた。
大会は順調に進み国体の開会式には義宮(よしのみや・現常陸宮)様がおいでになった。この時も奉仕隊は整列したがとても緊張した。
各地から来た大会役員に「ブルーのユニフォームがとても目立つ。あっちにもこっちにも見えるがいったい何人いるの?」とか「バイト料はいくらなの?」と聞かれた。無料奉仕ですと答えると驚いていた。(昼食は頂いた)
大会は無事終了した。私達はとても良い経験を させてもらったと思った。
三年後に東京オリンピックが開催され、コンパニオンという言葉が流行したが、私達の奉仕隊はあのコンパニオンの草分けだったのだと思っている。
○ ミシン
専攻科の教室の廊下側に三台、窓側に三台、計六台のミシンがあった。その六台のどれかに必ず「故障」の張り紙が貼ってある。
多い時には三台に貼ってあり使えるのは三台だけ。順番待ちになる。
「どうして?、洋裁学校なのに。」と不満が出る。院長先生がおっしゃった。
「学校は、わからないところ、できないところを教えてもらうところなのです。わかるところは家でミシンを掛けてきなさい。」なるほど。「一台のミシンを一人の人が使うと、ずっと長持ちします。学校では色々な人が色々なクセでミシンを使います。それによって故障になりやすいのです。」なるほど。
我が家には私が気づいた時にはすでにミシンがあった。私達の着る物は母がミシンを掛けて作ってくれた。裁縫の嫌いな私でも中学生の頃はミシンの使い方は知っていた。
そのミシンを今度は私が頻繁に使うようになった。私が生まれる前からのミシンだから、ガタガタ音がうるさい。それは我慢できるがバックができないのは不便だった。
「新しいミシンが欲しい」と頼んだ。
「嫁に行くとき古くなるからダメ」と母は言った。「えっ?」また母は矛盾したことを言ったのだ。洋裁を習えと言ったのは母ではないか。やっと説得して買ってもらった。
新しいミシンは静かに針目が進む。私専用のミシンだ。時々私の留守に母が使う。それが私にはすぐわかる。言葉では表現できないが、なんとなく「今日は母が使った」とわかるのである。
そのミシンが六年前に調子が悪くなった。
ちょうど四十年目であった。ミシン屋さんに見てもらったら「古い型なのでもう部品はありません」と言われた。やむなく新しいのに買い換えたが、四十年の長きにわたって愛用したミシンを捨てる時は、一抹の寂しさが胸をよぎった。
○ 運送会社に就職
洋裁学校を卒業して、八戸駅(現本八戸)前の運送会社に就職した。(現在会社は河原木にある)この民間企業に勤めて官(自衛隊)と民との大きな違いに戸惑いを感じた。
イヤ、あたりまえであるものを無知なるがゆえに戸惑ったと言う方が正確かも知れない。
一、まず電話に出たら「毎度ありがとう ございます」私はこれを言えなかったのである。
あたりまえの挨拶なのだが、初めてのお客にも「毎度」とは?と思ったからである。
二、日曜日は必ず休みという考えを変えなければならないことに気がついた。普通日曜日は日直の人が出勤し、あとの人は休みなのだが、届けを 書く。しかも代休届けと書いた。何の代休かわからないけれど届けを書いた。
三、給料日に経理の人が「ハンコ持って来て」と言う。これが給料支給の合図なのだ。
初めの頃はわからなかったので行かなかった。「あんたは給料はいらないのか」と言われた。「給料を支給します」と言えばいいではないか。その 人は社内で唯一の大学卒といわれた人である。「あんたは言葉を知らないのかと言ってやりたかった。
○ リストラ
この会社には女性二十八歳定年という規則があ って、先輩が退職した。その時「必ずしもやめなくてもいいんだよ、エヘヘヘ」と支配人が笑った。背筋に冷たいものを感じた。
その後二十八歳定年の規則は削除されたが、三十五歳の時リストラの対象になった。対象者は四人。男性二人は通告のあったその日に退職した。 私は「二ヶ月後の十二月のボーナスをもらったらやめます」と言った。もう一人の私と同年の女性は「家族のためにもうしばらく働かなければならないので…」と会社に残った。
退職して二週間後失業保険の手続きをするため職安へ行った。なんと家族のために働くと言ったはずの彼女にバッタリ出合った。
思わず「何しに来ているの?」「失業保険の手 続きに」私の退職後、彼女は会社からイヤガラセを受けたのだ。遠くの営業所へ行けと。
この時の失業保険はすんなりと決まった。
運送会社には十四年間お世話になったが、楽しい思い出は一つも浮かんでこない。
きっとリストラと共に消えさったのだ。
○ 茶道入門
会社の友達とお茶を習いに行くことにした。
内丸にお茶の先生のお宅があるから、そこへ行こうということになった。一度も抹茶を味わったことがないし、流派など知らないが、とにかく内 丸だと会社からの帰り道だから都合がいい、ただその程度の考えで入門した。
流派は裏千家流で、母屋の隣の離れがお稽古場であった。七畳の茶室に八畳間が続き六畳の水屋がついている。
水曜日の夜は勤め帰りの若い人でいっぱいになった。先生はおばあちゃんで、古いお弟子さんが新入りの私達のめんどうを良く見てくれた。先 輩弟子には男性もいたし、陸海空の自衛官もいた。
先生のご主人のことを、私達はおじいちゃんと呼んだ。おじいちゃんは時々お稽古場に来て歴史の話をして下さった。八戸南部の殿様のお話はとても興味深かった。
お茶の稽古は楽しくて、毎週水曜日は休むことなく通った。
○ 仮縫い・本縫い
お茶のお稽古のある日のこと、男性自衛官の二人が「着物を着てみたい。ウールのアンサンブルを作ろう」ということになった。
たまたま男性先輩弟子が呉服屋さんだったので反物を持って来て、どれがいいか二人が選んだ。そして寸法も計った。
「仮縫いはいつできるんですか」と聞いた。呉服屋さんは、えっ?と言うようにして言葉につまった。そこで私が口をはさんだ。
「着物はねえ、洋服と違って仮縫いしないで、すぐ本縫いに入るんですよ」と。
このことを家に帰って母に話した。
「節子はよくほんぬいという言葉を知ってたね。」「あたりまえでしょ。洋裁やってたら仮縫いして本縫いに入ると言うんだよ。」
その時の母との会話はここまでだったけれど、しばらくしてまたこの話になった。
「あの時、学校へ入れた甲斐があったと思ったよ」と母はぽつりと言った。
私が洋裁学校へ入る前までは、全部母が縫ってくれていた。だから母は何でも知っているし、何でも縫えると思っていた。
私が学校から帰ると、私の縫った物を点検するかの様に見る。ファスナーやポケットの付け方やボタンホールのあけ方等々。
今までは見よう見真似で縫ってきたが、本式はどの様にするか縫い方を見たかったのだと母は言っていた。けれども言葉だけは気が付かなかったのだ。
その道、その道でそれなりの言葉使いがある。たった「ほんぬい」という言葉を使っただけなのに、学校へ入れた甲斐があったと思ったという。親というものは、この様なものなのだなあと思った。
昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 5
九十周年に思う
旧職員寄稿
思い出の一ふし
野 田 三 蔵
昭和十年前後と申せば軍国主義政治の華やかなりし頃(教育も勿論軍国主義教育)しきりに軍部の明星等が八小校に講演に来られ我が陸海軍の威力を遺憾なくお話しされて帰られた。一日某海軍中将が見えられて一場の講演をされたがその一節に「日本海軍の砲弾の命中率は百発百中、某国海軍の命中率はよくみて五〇パーセント、発射速度は三対二、それに潜水艦の働き、駆逐艦の行動と合わせて万全を期するのである」と。私は実に聞きよい目出度いお話しだと思いました。
その翌日私の空き時間に職員室で「もし中将閣下のお話しをそのまま受け入れて考えて見れば某国とは確かに米国を指すでしょう。当時米国は我が方の海軍力を実有せられている。もし両軍相対して交戦するとせば一対三の勢力で戦はねばならない。我が各砲の命中率を百パーセント、我が方から攻撃して敵艦一を撃沈しても尚二残る計算となる。次には敵から攻撃を受けると見なければなるまい。若し中将お話しの様に五〇パーセントの命中率として二の力が一を全滅せしめるわけである。敵を知らずして戦えば敗我れにありとは古哲の言である。中将のお話しは桃太郎の鬼が島征伐に彷彿とした講演と申さねばなるまい」と。
ところが私の言うことを聞いていた八小校配属軍人が怒ったの怒らんのって「生意気だ」「ぶんなぐるぞ」と立ち上った。私は「此処は戦場ではない、喧嘩の場所でもない、人をなぐれば刑法の制裁を受けますぞ」と、私の坐っている椅子を足げにしてけりがついた。配属軍人は満洲事変で戦死されましたが、今も尚其の軍人の俤が思い出されてなりません。
馬場町の校舎
都 筑 ミサヲ
私が初めて赴任した時のみなさんの学校は今の場所ではなく馬場町にありました。大変古い建物で棟ごとに日本の地名がつけられてありました。「四国」とか「九州」とか、そして冬など北風のあたるところの校舎を「北海道」と呼んでいました。半世紀もの昔はじめてここで教壇に立ちました。その年の六月頃だったと思います。一年男子組の修身の授業を見せてもらいました。
『坐礼』という厳とした先生の声がかかると生徒は一斉に椅子からはなれ、静かに坐り丁寧に頭をさげておじぎをしました。それからおもむろに授業がはじまりました。どんな内容のことをお話しなされたかは記億によみがえりませんが『坐礼』にはじまる教室の厳しゆくさだけがうかんできます。
現在とは大変なちがいです。考えられないようなことがありました。それが時代というのかもしれません。
これからは私たちの心のよりどころとして、今後愈々学校が発展されますことをのぞみ、九十年によする言葉といたします。
さいかちの木とプラタナス
寺 井 五 郎
九十周年を迎える八戸小学校に私は大正のはじめ頃在学していた。
パンパパン、パンパパンと打ち鳴らされる始業 合図の手木の音、休みを告げるガランガランという鐘の音、そして半手木といって学習の中頃に静まを破って遠く或は近くひびいて来るパーンパーンという音などこれは毎日の学習生活にくり返されたもので今でも印象深くのこる。
校舎は市役所前のロータリー(明治天皇行在所跡)から市の水道部のあるあたりまで、長く長く並び立っていた。いろいろな建築様式の校舎で高等小学校もいっしょであった。
校庭は細長くそこには通称もみの木、さいかちの木、ポプラの木の三本が目立って校庭にそびえていた。特にさいかちの木に元気ものはよく空洞をのぼった。みんなの樹といってもよい存在であった。
木馬(馬なりに木取ったもの)一つに鉄棒砂場が外庭での唯一の遊び道具で、市沢安恵先生が高等科の生徒を指導し乍らやる大車輪というものを物珍らしく眺めて居た。遊びは球技らしいものもなく、つなぎ鬼、馬乗り(騎馬戦)、陣取り、かくれんぼ、戦ごっこなどが盛んに行われた。
校舎のつくりが非常に年代を経て居たためか釘や、板目や、机の角などで衣類(全部つつそで着物)のかぎざきが多くて困った。
大小便所とも暗く不潔で泣き泣き用たししたこと、階段が大人でもどうかと思うほどの高きざみのところがあって危いと思ったことなども印象にのこる。
第一次世界大戦の影響で黄金の景気があらわれそれがインフレに昂じて学校生活にも大変影響があった。修学旅行も六年生で野辺地までやったことがせいぜいの様子であった。
低学年では飯田ひさ先生、高学年で八小向健児先生から教わった。先生はみな真面目で立派であったという印象が深い。
同じクラスには有能で世の中に活躍している人たちが大へん多く、よい学校よいクラスで勉強出来たと思っている。以上は母校としての想い出の一ふしである。
その次は、昭和三年から昭和二十年四月までの十七年間奉職することの出来た間のことである。これは八戸小学校が充実向上の一途をたどり、多方面に活躍した多彩な期間でにわかに語りつくせない程の内容をもっている。
整備された理科室、工作室、図書室、音楽室がありその他柔道室、礼法裁縫室、教具室、中央階段下の消毒室、保健室には歯科治療機械等まで設けられてあった。
校内には全校放送設備があり、講堂には暗幕が装置されて毎月定期的に映写会が催された。
一六ミリの太陽映写機(三一キロワット当時では最新型のもの)が私の係りで、それを操作しながらよく弁士をつとめた。
音楽効果を出すために伴奏レコードもフィルムに応じて用意されたものだ。
外には講堂わきの弓場、南側外庭の相撲場、トラック、ジャンプ場、低鉄棒、高鉄棒、中庭周辺いっぱいといってよい運動用具(ジャングルジム、遊動橋は今も残っている)が子供等を楽しませ、体力向上に大いに役立ったようだ。現在は立派な足洗場に、新しいいろいろな運動用具に更新されたようである。
従って対外試合でも、体育に学芸に大活躍し所謂八尋として注目された。
ある時期には地方では常勝校の観を呈した。長者小学校もまた同様でよい競争相手であったし、種目によって八小中野、湊校もそうであった。
青森にも何年も何度も遠征して優勝の栄誉も味わった。県下の弁論大会でも三ケ年連続優勝し、優勝盃も永久授与された。その折は三人一組のチーム戦で、外交官として将来を期待されている原富士男君も弁士の一人であった。当時在学の生徒諸君は誇り高い思い出の数々をもっていると思う。
校門に高く大きくそびえるプラタナスは、一年から六年生まで担任した級の卒業記念に橋本香月園主の正次さんが(子息橋本誠一郎さんもこのクラスで卒業となるので)植えられたものである。市役所前の一本も同じ年のものである。
校庭整備で植樹もたくさん進められた。その中で玄関前の築山と、道路に沿うたヒマラヤシーダーはよく育ったものである。高々とそびえるプラタナスは、その年輪を語るが如く、またすばらしい成長ぶりに驚いている。
昭和三年には新卒八名という前代未聞の配置を含む職員の大異動があった。
その新卒とは山根現湊中校長、宇都宮現三条小校長、田中キエ現福田小校長、私、それに亡くなられた田中未蔵、滝田栄次郎、松井秀雄、久保スヱの八名で張りきるのも当然であった。
全国が紀元二千六百年にたたえられた前後、昭和十何年であったか全県視学の合同視察をうけ、古山正三校長先生を陣頭に頑張った頃はその最高潮ともいうべきであったろう。
その後大東亜戦争のためにすべてが転換期につきあたった。或は渋滞し或はすたれて行った。学区も吹上にわかれたり柏崎校が創立されたりして大分変更となった。
こう書いてくると、何か往時讃歌のように思われて恐縮かつ申し駅ないが、決してそうではない。その時代とその環境に応じて、それなりのことであって、今の八戸小学校は、より新しく、よりよく整備され、内外ともに九十周年を迎えるにふさわしい様子と思う。
私が快い回想をかき得るのも、当時の職員の勉励と、学区の絶大な協力のあったお蔭である。その伝統は更にすばらしく今に発展して、今日の充実し且つ整備された八戸小学校をつくりつつあると思う。
小学校の思い出
尋常一年生のとき
野 田 龍 男
あさひと輝く、大正の
みいつの光、あらたにて、
六千余万のくにたみの
若やぐ血潮のイサミもて
祝え、君が代、万々才。
天長節のことぶきを
初めて祝う、めでたさよ、
六千余万のくにたみの………
入学は大正二年でしたろう。浅水いさを先生に引率され、長者山からこの歌をうたって行進をおこし、上組町から下組町まで、日の丸の紙旗を振って、行列して歩きました。私らの前には、六年女生かいて、時々、「バンザーイ」と唱えると、私たちもつぎに「バンザーイ」とさけびました。校庭で、ワラでしばったセンベイ十枚頂いて解散しました。ふしぎに六十才のきょうまでも、この日の祝歌を忘れませんが、第二節の「六千余万」へくると、「旭と輝く」になり、あとの歌詞は思い出せない。淡水いさを先生は、いまの山本富士子のような、日本一の美人の先生のようだった、と記憶しています。現在は大阪市香里にお元気でおられるとか。
梁瀬校長先生のお宅は、窪町の角屋敷で、毎月、一回講堂訓話をされ、二人用の腰掛けを二階の講堂に運んでお話をきいたし、「散歩というのがあって、一年生から徒歩で、舘鼻海岸まで行き、海べで遊んで、午前中に帰校しました。あの頃の一年生は、相当な徒歩力があったものと、いま考えるとふしぎです。友人では、いまもたまに出逢うと、なつかしく呼びかけてくださるのは、下組町の細越末太郎さん。私とちがって、親としての義務をりっぱにはたし、悠々自適の生活をしているようで、うれしく思っています。
なつかしの二年半よ
八戸市立長者中学校
和 泉 み よ
八戸小学校が、八尋といわれていた頃、私は、八東高の前身、青森県立八戸高等女学校の汽車通生で、朝夕、八尋の校門の前を通った。私には、この門を出入りする生徒、先生方があかぬけて見え、今から考えるとおかしいが、何か恐怖さえコの宇型の古い木造校舎に対して抱いていた。それが潜在意識となっていたのか、小中野中から突然の転任となったときは、気おくれと、困惑とで一時はうつうつとしていた。松尾校長在任最後の年で船場武志教頭と、名コンビといわれていた。私の担任は五年二組、学年主任はマダラ鬼、又はジュロチヤンこと大橋寿郎先生、三組はミッチヤンこと山田実先生、四組は、かっては若尾文子といわれたこともあるミセス・ボリューム村田(当時松倉)トミ先生であった。クラスにいってみると、いたいた、小さな子たちが、古い教室の中に、あるいは鼻をたらし、あるいはパッチリした目をしたりして、ハイ、ソプラノを響かせて、中学生とはおよそ異った、可憐なきまじめなふわふわしたような雰囲気を漂わせて坐っていた。その彼等よ、今は社会人として三年経た者もいるし、高校の三年生になって勉学にスポーツに青春を謳歌しているのだ。部屋は市庁舎よりの一ばんすみっこの天井近い正面のすき聞からは、直接陽光がみられる箇所もあったが、位置としては、子どもたちには好適であった。カーテンはやはり教室にふさわしく年を経て、大きく破れていて、それを見たときの穴に比例するように私のこの学校に抱いていたコンプレックスは消散した。それも先生方が親切だったし、子どもたちは全くかわいかったからだ。
朝、職員朝会のとき、輪番で所感を述べる時間があった。なかなか個性のあるもので二三分ぐらいの短時間だったが興味深く耳を傾けたものである。職員室には古びた学校調度が並び、私の椅子などは、明治時代の遺品ではないかと思われた。この陽あたりの悪い寒くて古い職員室は、次第に私にとって居心地のいい、楽しい場になっていった。今でも誰れ彼れの先生の笑顔、声音をなつかしくまざまざと思い出す。生徒朝会のときは、低中高と二学年ずつに分かれ、松尾校長の慈愛あふれる「お話」を聞いた。校舎は古かったが掃除はよくされて、広い廊下は光っていたのに、なお清掃の徹底の週訓など出されると私は中学校に比べて驚いたものである。クラブ活動も組織的に、よく運営されていた。この小さな子たちを自由に操ることのできる先生方の力は魔術にも似たものである。二学期には発表会があり、それぞれステージ発表をするが、中学校は生活が忙しいせいかそうした試みがなく残念である。卒業式にはこの学校独特の葉書大の金ぶち入りの卒業証書を、音楽にあわせて、ひとりびとりがもらいに出るのだが、その厳粛さ、またリズミカルなことはこの目で見た者ならではわからない。五六年を受け持って、翌年はジュロチャンと私は希望通り三年生、ミッチャン、ミセス村田のベテラン組は五年生と、一応四人組は解体した。五六年に比べて、三年生は更に小さくかわいかった。南校舎の昇降口のすみのせまい教室に、小さな秀才と才媛たちがいた。今この子たちは二中の二年生。この子たちと一しょの生活はまた楽しく、「虹の子」というクラスのテーマソングを鬼柳先生に作曲してもらって歌ったりした。しかしこの子だちとの生活は秋で終止符を打たれて、私は湊中へゆくことになった。あいさつまわりのときは日暮れまでも子どもたちは私のあとにぞろぞろついて歩いてくれた。この二年半、私は楽しく暮らした。しかし生徒に対しては、慙愧の想いがある。勝手に理想化し、それに到達しないと思われたときは強く叱ったことも度々であった。あのふわふわしたやさしい彼等の感受性にどんなにそれが激しく印象されたことか。許して、かわいい教え子たちよ、私はいつかこのことばを彼等の前で言いたい、そして心からその幸せを祈りたい。
八小をしのぶ座談会
時 昭和三十八年九月二十三日
所 江陽小学校放送室
出席者 旧八小職員
(清川艶子、下斗米トシヱ、久水英一、立花みのり、八木田勝子)
司会 八戸小学校も今年九十周年のお祝いをすることになったそうで、本当にお目出たいことです。そこで元八小にお世話になったかたたちで昔の八小をしのんでみようという意味でお集まりをいただいたわけです。この中で一番古い方はどなたですか。
B 私が昭和二十一年四月ですから一番古いと思いますが
D すると、私が二番目に古いことになりますね。二十一年八月三十一日付ですから
司会 私はたしか二十二年三月だと記憶しています。今から十七、八年も前のことで、しかも終戦の翌年ということになりますが、その頃のことで、何か残っていることはありませんか。
B ずい分昔のことで殆ど忘れかけていますが、食糧事情の一番ひどかった頃で、何でも午後まで授業をすると腹がヘって倒れるというので、午前授業だったことを覚えています。
D 私は同じ年の二学期からでしたが、買い出しに行くからおいとまをくださいという子がおりましたよ。
司会 あの頃は本当に大変でしたね、空地という空地、庭という庭はみな耕やされて、南瓜やいも畑になっていましたものね。焼夷弾で焼かれた校舎の片袖にも、新校舎が建つまで南瓜のつるがはっていたのが印象に残っています。
A 私が八小にお世話になったのは、昭和二十四年ですが、その頃はもう焼跡に新校舎が建てられ、南瓜のはいまわっている様子を想像することは出来ませんでした。授業をするにもなにかと不自由だったでしょうね。
B 体操場を仕切ったこともありました。又一学級の人数が非常に多く七十名近かったと記憶しています。
D 私が赴任した時は、男女別学で、年度の途中なものですから男の子ばかりの組を預けられ、人数は多いし手をあげたことが忘れられません。
B 男女共学は二十二年度からでしたが、共学別学の是非について、職員会議で議論したこともなつかしい思い出です。
司会 ではここいらでその頃の給食についてどなたか。
A 私が行った頃は脱脂粉乳と温食の給食が行われておりました。
D 調理室は、今の理科室になっているところでしたね。せっかくお金をかけて作った調理室でしたが、食糧事情が好転してくると、学校の給食は「ジョウミズ」だとか何とか言う子もありまして、アンケートを取った結果やめてしまうことになりました。給食で思い出すのは、先生方がおそくまでドーナツ作りをしたり、またまんじゆうふかしをしたことなどです。
司会 今年も共進会で教室を使われるとか聞きましたが、共進会では頭をなやましましたね。
A 余り休んでばかりいると学力が低下するというので長者小学校や吹上小学校、柏崎小学校をお借りして午後授業をしたことが頭に残っています。小さい子供達は、学校に着いて三十分もすると、あくびをしたりいねむりを始めたりしてうまくなかったようでした。
司会 八戸小学校は、八戸の学習院だなどとおだてられたりしたこともありますが、とにかく父兄の方はそろっているし、文化的環境には恵まれているし、やりがいのある学校でしたね。
C 離れてみてその良さがわかると言われますが、私もよその学校に転任してみて、八小は良かったとしみじみ思っています。
司会 今日はいろいろと思い出を話していただいてありがとうございました。八小の今後の御発展をお祈りしてこの会を終わることにしましょう。 (八木田記)
旧職員寄稿
思い出の一ふし
野 田 三 蔵
昭和十年前後と申せば軍国主義政治の華やかなりし頃(教育も勿論軍国主義教育)しきりに軍部の明星等が八小校に講演に来られ我が陸海軍の威力を遺憾なくお話しされて帰られた。一日某海軍中将が見えられて一場の講演をされたがその一節に「日本海軍の砲弾の命中率は百発百中、某国海軍の命中率はよくみて五〇パーセント、発射速度は三対二、それに潜水艦の働き、駆逐艦の行動と合わせて万全を期するのである」と。私は実に聞きよい目出度いお話しだと思いました。
その翌日私の空き時間に職員室で「もし中将閣下のお話しをそのまま受け入れて考えて見れば某国とは確かに米国を指すでしょう。当時米国は我が方の海軍力を実有せられている。もし両軍相対して交戦するとせば一対三の勢力で戦はねばならない。我が各砲の命中率を百パーセント、我が方から攻撃して敵艦一を撃沈しても尚二残る計算となる。次には敵から攻撃を受けると見なければなるまい。若し中将お話しの様に五〇パーセントの命中率として二の力が一を全滅せしめるわけである。敵を知らずして戦えば敗我れにありとは古哲の言である。中将のお話しは桃太郎の鬼が島征伐に彷彿とした講演と申さねばなるまい」と。
ところが私の言うことを聞いていた八小校配属軍人が怒ったの怒らんのって「生意気だ」「ぶんなぐるぞ」と立ち上った。私は「此処は戦場ではない、喧嘩の場所でもない、人をなぐれば刑法の制裁を受けますぞ」と、私の坐っている椅子を足げにしてけりがついた。配属軍人は満洲事変で戦死されましたが、今も尚其の軍人の俤が思い出されてなりません。
馬場町の校舎
都 筑 ミサヲ
私が初めて赴任した時のみなさんの学校は今の場所ではなく馬場町にありました。大変古い建物で棟ごとに日本の地名がつけられてありました。「四国」とか「九州」とか、そして冬など北風のあたるところの校舎を「北海道」と呼んでいました。半世紀もの昔はじめてここで教壇に立ちました。その年の六月頃だったと思います。一年男子組の修身の授業を見せてもらいました。
『坐礼』という厳とした先生の声がかかると生徒は一斉に椅子からはなれ、静かに坐り丁寧に頭をさげておじぎをしました。それからおもむろに授業がはじまりました。どんな内容のことをお話しなされたかは記億によみがえりませんが『坐礼』にはじまる教室の厳しゆくさだけがうかんできます。
現在とは大変なちがいです。考えられないようなことがありました。それが時代というのかもしれません。
これからは私たちの心のよりどころとして、今後愈々学校が発展されますことをのぞみ、九十年によする言葉といたします。
さいかちの木とプラタナス
寺 井 五 郎
九十周年を迎える八戸小学校に私は大正のはじめ頃在学していた。
パンパパン、パンパパンと打ち鳴らされる始業 合図の手木の音、休みを告げるガランガランという鐘の音、そして半手木といって学習の中頃に静まを破って遠く或は近くひびいて来るパーンパーンという音などこれは毎日の学習生活にくり返されたもので今でも印象深くのこる。
校舎は市役所前のロータリー(明治天皇行在所跡)から市の水道部のあるあたりまで、長く長く並び立っていた。いろいろな建築様式の校舎で高等小学校もいっしょであった。
校庭は細長くそこには通称もみの木、さいかちの木、ポプラの木の三本が目立って校庭にそびえていた。特にさいかちの木に元気ものはよく空洞をのぼった。みんなの樹といってもよい存在であった。
木馬(馬なりに木取ったもの)一つに鉄棒砂場が外庭での唯一の遊び道具で、市沢安恵先生が高等科の生徒を指導し乍らやる大車輪というものを物珍らしく眺めて居た。遊びは球技らしいものもなく、つなぎ鬼、馬乗り(騎馬戦)、陣取り、かくれんぼ、戦ごっこなどが盛んに行われた。
校舎のつくりが非常に年代を経て居たためか釘や、板目や、机の角などで衣類(全部つつそで着物)のかぎざきが多くて困った。
大小便所とも暗く不潔で泣き泣き用たししたこと、階段が大人でもどうかと思うほどの高きざみのところがあって危いと思ったことなども印象にのこる。
第一次世界大戦の影響で黄金の景気があらわれそれがインフレに昂じて学校生活にも大変影響があった。修学旅行も六年生で野辺地までやったことがせいぜいの様子であった。
低学年では飯田ひさ先生、高学年で八小向健児先生から教わった。先生はみな真面目で立派であったという印象が深い。
同じクラスには有能で世の中に活躍している人たちが大へん多く、よい学校よいクラスで勉強出来たと思っている。以上は母校としての想い出の一ふしである。
その次は、昭和三年から昭和二十年四月までの十七年間奉職することの出来た間のことである。これは八戸小学校が充実向上の一途をたどり、多方面に活躍した多彩な期間でにわかに語りつくせない程の内容をもっている。
整備された理科室、工作室、図書室、音楽室がありその他柔道室、礼法裁縫室、教具室、中央階段下の消毒室、保健室には歯科治療機械等まで設けられてあった。
校内には全校放送設備があり、講堂には暗幕が装置されて毎月定期的に映写会が催された。
一六ミリの太陽映写機(三一キロワット当時では最新型のもの)が私の係りで、それを操作しながらよく弁士をつとめた。
音楽効果を出すために伴奏レコードもフィルムに応じて用意されたものだ。
外には講堂わきの弓場、南側外庭の相撲場、トラック、ジャンプ場、低鉄棒、高鉄棒、中庭周辺いっぱいといってよい運動用具(ジャングルジム、遊動橋は今も残っている)が子供等を楽しませ、体力向上に大いに役立ったようだ。現在は立派な足洗場に、新しいいろいろな運動用具に更新されたようである。
従って対外試合でも、体育に学芸に大活躍し所謂八尋として注目された。
ある時期には地方では常勝校の観を呈した。長者小学校もまた同様でよい競争相手であったし、種目によって八小中野、湊校もそうであった。
青森にも何年も何度も遠征して優勝の栄誉も味わった。県下の弁論大会でも三ケ年連続優勝し、優勝盃も永久授与された。その折は三人一組のチーム戦で、外交官として将来を期待されている原富士男君も弁士の一人であった。当時在学の生徒諸君は誇り高い思い出の数々をもっていると思う。
校門に高く大きくそびえるプラタナスは、一年から六年生まで担任した級の卒業記念に橋本香月園主の正次さんが(子息橋本誠一郎さんもこのクラスで卒業となるので)植えられたものである。市役所前の一本も同じ年のものである。
校庭整備で植樹もたくさん進められた。その中で玄関前の築山と、道路に沿うたヒマラヤシーダーはよく育ったものである。高々とそびえるプラタナスは、その年輪を語るが如く、またすばらしい成長ぶりに驚いている。
昭和三年には新卒八名という前代未聞の配置を含む職員の大異動があった。
その新卒とは山根現湊中校長、宇都宮現三条小校長、田中キエ現福田小校長、私、それに亡くなられた田中未蔵、滝田栄次郎、松井秀雄、久保スヱの八名で張りきるのも当然であった。
全国が紀元二千六百年にたたえられた前後、昭和十何年であったか全県視学の合同視察をうけ、古山正三校長先生を陣頭に頑張った頃はその最高潮ともいうべきであったろう。
その後大東亜戦争のためにすべてが転換期につきあたった。或は渋滞し或はすたれて行った。学区も吹上にわかれたり柏崎校が創立されたりして大分変更となった。
こう書いてくると、何か往時讃歌のように思われて恐縮かつ申し駅ないが、決してそうではない。その時代とその環境に応じて、それなりのことであって、今の八戸小学校は、より新しく、よりよく整備され、内外ともに九十周年を迎えるにふさわしい様子と思う。
私が快い回想をかき得るのも、当時の職員の勉励と、学区の絶大な協力のあったお蔭である。その伝統は更にすばらしく今に発展して、今日の充実し且つ整備された八戸小学校をつくりつつあると思う。
小学校の思い出
尋常一年生のとき
野 田 龍 男
あさひと輝く、大正の
みいつの光、あらたにて、
六千余万のくにたみの
若やぐ血潮のイサミもて
祝え、君が代、万々才。
天長節のことぶきを
初めて祝う、めでたさよ、
六千余万のくにたみの………
入学は大正二年でしたろう。浅水いさを先生に引率され、長者山からこの歌をうたって行進をおこし、上組町から下組町まで、日の丸の紙旗を振って、行列して歩きました。私らの前には、六年女生かいて、時々、「バンザーイ」と唱えると、私たちもつぎに「バンザーイ」とさけびました。校庭で、ワラでしばったセンベイ十枚頂いて解散しました。ふしぎに六十才のきょうまでも、この日の祝歌を忘れませんが、第二節の「六千余万」へくると、「旭と輝く」になり、あとの歌詞は思い出せない。淡水いさを先生は、いまの山本富士子のような、日本一の美人の先生のようだった、と記憶しています。現在は大阪市香里にお元気でおられるとか。
梁瀬校長先生のお宅は、窪町の角屋敷で、毎月、一回講堂訓話をされ、二人用の腰掛けを二階の講堂に運んでお話をきいたし、「散歩というのがあって、一年生から徒歩で、舘鼻海岸まで行き、海べで遊んで、午前中に帰校しました。あの頃の一年生は、相当な徒歩力があったものと、いま考えるとふしぎです。友人では、いまもたまに出逢うと、なつかしく呼びかけてくださるのは、下組町の細越末太郎さん。私とちがって、親としての義務をりっぱにはたし、悠々自適の生活をしているようで、うれしく思っています。
なつかしの二年半よ
八戸市立長者中学校
和 泉 み よ
八戸小学校が、八尋といわれていた頃、私は、八東高の前身、青森県立八戸高等女学校の汽車通生で、朝夕、八尋の校門の前を通った。私には、この門を出入りする生徒、先生方があかぬけて見え、今から考えるとおかしいが、何か恐怖さえコの宇型の古い木造校舎に対して抱いていた。それが潜在意識となっていたのか、小中野中から突然の転任となったときは、気おくれと、困惑とで一時はうつうつとしていた。松尾校長在任最後の年で船場武志教頭と、名コンビといわれていた。私の担任は五年二組、学年主任はマダラ鬼、又はジュロチヤンこと大橋寿郎先生、三組はミッチヤンこと山田実先生、四組は、かっては若尾文子といわれたこともあるミセス・ボリューム村田(当時松倉)トミ先生であった。クラスにいってみると、いたいた、小さな子たちが、古い教室の中に、あるいは鼻をたらし、あるいはパッチリした目をしたりして、ハイ、ソプラノを響かせて、中学生とはおよそ異った、可憐なきまじめなふわふわしたような雰囲気を漂わせて坐っていた。その彼等よ、今は社会人として三年経た者もいるし、高校の三年生になって勉学にスポーツに青春を謳歌しているのだ。部屋は市庁舎よりの一ばんすみっこの天井近い正面のすき聞からは、直接陽光がみられる箇所もあったが、位置としては、子どもたちには好適であった。カーテンはやはり教室にふさわしく年を経て、大きく破れていて、それを見たときの穴に比例するように私のこの学校に抱いていたコンプレックスは消散した。それも先生方が親切だったし、子どもたちは全くかわいかったからだ。
朝、職員朝会のとき、輪番で所感を述べる時間があった。なかなか個性のあるもので二三分ぐらいの短時間だったが興味深く耳を傾けたものである。職員室には古びた学校調度が並び、私の椅子などは、明治時代の遺品ではないかと思われた。この陽あたりの悪い寒くて古い職員室は、次第に私にとって居心地のいい、楽しい場になっていった。今でも誰れ彼れの先生の笑顔、声音をなつかしくまざまざと思い出す。生徒朝会のときは、低中高と二学年ずつに分かれ、松尾校長の慈愛あふれる「お話」を聞いた。校舎は古かったが掃除はよくされて、広い廊下は光っていたのに、なお清掃の徹底の週訓など出されると私は中学校に比べて驚いたものである。クラブ活動も組織的に、よく運営されていた。この小さな子たちを自由に操ることのできる先生方の力は魔術にも似たものである。二学期には発表会があり、それぞれステージ発表をするが、中学校は生活が忙しいせいかそうした試みがなく残念である。卒業式にはこの学校独特の葉書大の金ぶち入りの卒業証書を、音楽にあわせて、ひとりびとりがもらいに出るのだが、その厳粛さ、またリズミカルなことはこの目で見た者ならではわからない。五六年を受け持って、翌年はジュロチャンと私は希望通り三年生、ミッチャン、ミセス村田のベテラン組は五年生と、一応四人組は解体した。五六年に比べて、三年生は更に小さくかわいかった。南校舎の昇降口のすみのせまい教室に、小さな秀才と才媛たちがいた。今この子たちは二中の二年生。この子たちと一しょの生活はまた楽しく、「虹の子」というクラスのテーマソングを鬼柳先生に作曲してもらって歌ったりした。しかしこの子だちとの生活は秋で終止符を打たれて、私は湊中へゆくことになった。あいさつまわりのときは日暮れまでも子どもたちは私のあとにぞろぞろついて歩いてくれた。この二年半、私は楽しく暮らした。しかし生徒に対しては、慙愧の想いがある。勝手に理想化し、それに到達しないと思われたときは強く叱ったことも度々であった。あのふわふわしたやさしい彼等の感受性にどんなにそれが激しく印象されたことか。許して、かわいい教え子たちよ、私はいつかこのことばを彼等の前で言いたい、そして心からその幸せを祈りたい。
八小をしのぶ座談会
時 昭和三十八年九月二十三日
所 江陽小学校放送室
出席者 旧八小職員
(清川艶子、下斗米トシヱ、久水英一、立花みのり、八木田勝子)
司会 八戸小学校も今年九十周年のお祝いをすることになったそうで、本当にお目出たいことです。そこで元八小にお世話になったかたたちで昔の八小をしのんでみようという意味でお集まりをいただいたわけです。この中で一番古い方はどなたですか。
B 私が昭和二十一年四月ですから一番古いと思いますが
D すると、私が二番目に古いことになりますね。二十一年八月三十一日付ですから
司会 私はたしか二十二年三月だと記憶しています。今から十七、八年も前のことで、しかも終戦の翌年ということになりますが、その頃のことで、何か残っていることはありませんか。
B ずい分昔のことで殆ど忘れかけていますが、食糧事情の一番ひどかった頃で、何でも午後まで授業をすると腹がヘって倒れるというので、午前授業だったことを覚えています。
D 私は同じ年の二学期からでしたが、買い出しに行くからおいとまをくださいという子がおりましたよ。
司会 あの頃は本当に大変でしたね、空地という空地、庭という庭はみな耕やされて、南瓜やいも畑になっていましたものね。焼夷弾で焼かれた校舎の片袖にも、新校舎が建つまで南瓜のつるがはっていたのが印象に残っています。
A 私が八小にお世話になったのは、昭和二十四年ですが、その頃はもう焼跡に新校舎が建てられ、南瓜のはいまわっている様子を想像することは出来ませんでした。授業をするにもなにかと不自由だったでしょうね。
B 体操場を仕切ったこともありました。又一学級の人数が非常に多く七十名近かったと記憶しています。
D 私が赴任した時は、男女別学で、年度の途中なものですから男の子ばかりの組を預けられ、人数は多いし手をあげたことが忘れられません。
B 男女共学は二十二年度からでしたが、共学別学の是非について、職員会議で議論したこともなつかしい思い出です。
司会 ではここいらでその頃の給食についてどなたか。
A 私が行った頃は脱脂粉乳と温食の給食が行われておりました。
D 調理室は、今の理科室になっているところでしたね。せっかくお金をかけて作った調理室でしたが、食糧事情が好転してくると、学校の給食は「ジョウミズ」だとか何とか言う子もありまして、アンケートを取った結果やめてしまうことになりました。給食で思い出すのは、先生方がおそくまでドーナツ作りをしたり、またまんじゆうふかしをしたことなどです。
司会 今年も共進会で教室を使われるとか聞きましたが、共進会では頭をなやましましたね。
A 余り休んでばかりいると学力が低下するというので長者小学校や吹上小学校、柏崎小学校をお借りして午後授業をしたことが頭に残っています。小さい子供達は、学校に着いて三十分もすると、あくびをしたりいねむりを始めたりしてうまくなかったようでした。
司会 八戸小学校は、八戸の学習院だなどとおだてられたりしたこともありますが、とにかく父兄の方はそろっているし、文化的環境には恵まれているし、やりがいのある学校でしたね。
C 離れてみてその良さがわかると言われますが、私もよその学校に転任してみて、八小は良かったとしみじみ思っています。
司会 今日はいろいろと思い出を話していただいてありがとうございました。八小の今後の御発展をお祈りしてこの会を終わることにしましょう。 (八木田記)
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 6
座談会
南売市の今昔を語る
南売市は歴史の古い町・荒谷時代から
川□さよ、川口助四郎、後村仁太郎、川口市太郎、二沢平義雄、久慈忠治、野沢宗芳、川口喜助、鈴木操町内会長、中村宗エ門司会
挨 拶
鈴木操町内会長記録して後世に残したい荒谷弁でどんどん話して
この度南売市町内会が昭和35年に創立されて30年を迎えました。その30年の節目にあたり、意義あるものを出版刊行し記念にいたしたいと思いまして、何回か会合を持ちました。その結果地域の事情をご存じの方々からお話を伺ってそれ等を記録し後世に残したいと存じまして、座談会を計画しました。売市弁で、色々お話をして戴くようお願い致します。
司 会
中 村 宗右工門
ルーツをお聞きしたい戦前の町内会の制度……
司会を仰せつかりました、中村でございます。不馴れでございますので皆様方の御協力により務めさせて戴きます。
戦後になり、正式に町内会が発足されてから30周年の節目になりますが戦前にはどの様な制度があったのか、過去を振り返り、ルーツを御聞きしてみたい、そうしたことに皆様も関心があることと思います。
町内会の生い立ち
司会 川口助四郎さんの祖父、川口福次郎さんが、舘村時代に区長を勤められたと聞いておりますが、川口さんその辺の所からお話をお願いします。
川□助四郎さん
町内会長は市長が委嘱館村時代は区長制
それでは町内会について話して見ます。
町内会長と言う名称は、昭和15年1月に三戸郡館村から、八戸市に合併になった時からでございます。昭和15年5月1目付八戸市長から交付の委嘱状も手元にあります。
その頃は日支事変中で戦時体制、町内会長の下に隣組制度があり隣組長がありました。
町内会の組織になる前、三戸郡館村時代には大字毎に、区長を設ける制度で明治の頃からあったと思います。
町内会は銃後の守り(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。「銃後の守り」と使う)として戦時中は債券の割当消化、米の供出督励、金属の回収、生活必需品の配給、出征兵士の見送り、防空演習等戦争遂行の為の行政事務の上意下達の役割を持つ組織でした。
一番多い仕事は生活必需品の配給でした。町内の人達に公平に配ばるのに苦労しました。
野沢宗芳さん
高館の飛行場に勤労奉仕戦後は町内会は追放
その他に町内会として勤労奉仕の協力要請がありました。それは高館に陸軍飛行場が建設されることになり、各町内会に割当があり順番に勤労奉仕しました。毎日各地区から動員され、売市方面は徒歩で飛行場まで行きました。遠くは岩手県軽米方面、津軽方面からトラックに乗って応援にきたようです。
戦争が終ってから占領軍から町内会は敵視され、昭和22年マッカサー司令部から追放命令により、町内会は解散されたようです。
南売市も22年に解散して、35年に組織するまで13年間、空白時代が続いた。
区長制度
司会 さきほど区長のお話が出ましたが舘村時代には大字毎に一人区長を置く制度があったようですが。
川口市太郎さん
アメヤのぢいちゃんの役、区長の話で思い出したが、アメヤ(西村燃料店)のぢいさんが各戸に、フレて歩いたのは何の役だったのかな。
川□助四郎さん 正式には使丁、通称コバシリ
あれは通称コバシリ、正式には区使丁と言って、村役場からの納税通知書、田植えが終ると各部落毎に、一斉に休日(テノリ)にする習慣があった。そのことを伝達したりその他村役場、区長から行事の伝達をする役目で、今で言う連絡係に当るのかな。
上村晃一さん
区長と言えば何に当りますか?
川口助四郎さん
今の役員に当ります。
二沢平義雄さん区長は今の町内会長
荒谷から村会議員三人
区長は、地域の自治会長のような役割をもって居り、今の町内会長に当る。当時、南売市からは、川口福次郎、山田太太郎、野沢扇治の三氏が館村の村会議員に選出され、村政の為に活躍されておりました。
上村晃一さん
区長は誰が決めたんですか?
川□助四郎さん
売市の区長は三部落交代昭和16年三分割
部落の総会の時、話し合いで決めてたようです。大字売市は、南、西、長根の三部落で交替して区長を勤めました。売市地区は、範囲が広いので、どなたがやっても大変だと言う事で、昭和16年に、南、西、長根に三分割することを消防屯所に集まり話し合い、その結果、何の異議もなく分割に合意しました。その様な話し合いの中で西村徳次郎さんが従来の新丁組の名称を、西売市に改名したいと発言がありこれを了承しました。売市地区の3分割当時の各町内会長は、次の方々でした。
西売市町内会長…………二沢平市太郎
南売市町内会長…………川口大次郎
長根町内会長…………小軽米福右エ門
南売市副会長…………川口市蔵
売市の道路
司会
戦前、売市の道路が悪かったと聞いてます。特に入梅時期になりますと、ぬかる道になったそうですが?
久慈忠治さん
私か八中(八高)時代に、八中から馬淵川の大橋までマラソンで走りました。その頃は道路の両側に杉やけやきの大木があり、その枝葉でふさがれ、道に陽が当らなかったので一度雨が降れば、ぬかる道となり荷馬車の車輪堀りが出来、馬車の心棒につかえるほど、道路が悪かった。
売市の道路が、コンクリート舗装になったのは、いつごろでしたか。
二沢平義雄さん
私が昭和13年に軍隊に行ったのでよく判らないが。
久慈忠治さん 昭和15年道路舗装
2回目は28年やり直し
昭和15年高館に陸軍飛行場が出来ることになり、その頃道路工事が始まった。道路拡幅工事の為に、両側の大きな木が切り倒され、明るくなり、コンクリート舗装になった。2回目の舗装工事は昭和28年に、やり直しました。
川□助四郎さん 道路工事中火事で苦労
川口徳太郎さんの家が火事になった年だった。丁度その時、道路工事中で割栗石を敷いた状態でしたので、火事場へ行くのに苦労しました。
川口喜助さん
コンクリート舗装写真が証明
私の所にある写真、昭和16年のものを見ますと、すでにコンクリート舗装になってます。
司会
さきほど川口市太郎さんがお聞きになりました、売市の道路がいつ頃コンクリート舗装になったのかについては、今のお話でお判り戴けたと思います。
久慈忠治さん バス停設置の陳情
コンクリート舗装が出来たので、南売市にバス停の設置を陳情しました。
悪道の証明
司会
中新酒店のおばあさんのお話によりますと昭和14年に結婚したそうです。その時おばあさんが、浜市川から人力車に乗って、売市の中新酒店に嫁入したそうです。その頃道路が悪くてと、話してました。
二沢平義雄さん 嫁の実家は西売市
大橋の家までタクシーで
昭和15年に私が結婚しました。嫁の実家は、西売市で西村家の娘で、当時、私の家は馬淵川の大橋の傍にありました。西売市と大橋では近いので歩いて来てもよいのですが、道路舗装工車中の為、タクシーに乗り長根を廻り、新坂を通って、遠廻りをして大橋の私の家に着きました。
売市地区に電気・水道のついた時期
司会
ところで、売市地区にいつごろ電気が点燈しましたか、記憶ありませんか。
後村仁太郎さん 電灯は大正10年頃か まぶしかった10燭光
売市地区は下長に比べ早いような気がした。私が小学校2年生の頃電気がついたと思いました。その頃はまだ電気がついてない家もありました。
野沢宗芳さん
あなたは何年生れですか。
後村仁太郎さん
私は大正3年生れで8才で小学校へ入学しました。今から67年位前になりますが。
野沢宗芳さん
私の姉達の話によれば、子供の頃には電気がついて居たそうです。
川口喜助さん
私の母の話によりますと八戸大火(大正13年)の頃には、もう電気がついて居たと話してます。
便利な水道
司会
次に水道通水はいつ頃でしょうか。
川口市太郎さん
久慈さん売市に来て何年になりますか。
久慈忠治さん
昭和26年4月、私が売市で食料品、雑貨店を開きました。そのあとに、昭和31年頃に水道が通水したと思います。
川口助四郎さん
NTT、高周波の住宅へ通水
その頃佐々木秀文氏が県会議員の時、NTT、官舎及び高周波の住宅へ通水の為、道路を横断する工事をした。
川□喜助さん 売市の水道は昭和38年
昭和38年に根城の浄水場を開設することになり、隣地境界線立合いのため私の父が現地に行って来ました。その時発病し倒れましたので、記憶にあります。
後村仁太郎さん 水道は便利・金がかかる
井戸水を汲むのと違って、蛇口をひねると、水が出て来る水道は便利だったが、工事費が高いので、誰でも水道を引けなかった。井戸水を利用している人は多かった。
電話
川口喜助さん 売市の電話は山田さん
山田国太郎さんの話によると、売市村に電話が入って来た時代は大正7、8年の頃だろう。設置者は父山田大太郎で、住所は売市13番地、当時は局に電話機の在庫がなく、何時になったら入荷するかその見込みも立たず、島谷部町の或る質家から買って設置した。
代金は(権利)1台350円設置料込みで390円(電柱1本10円)かかり、売市まで4本たてた。電話番号は378番で約10年ぐらい使用した。この378番はゴロ読みをするとミナハズレと読まれるので378番は気に入らず、昭和に入って191番と取り替えた。それは昭和35年の自動式になるまで続いた。
荒谷のぼんおどり
司会 荒谷のぼんおどりは、昔からあったようですが、いつ頃から始まったのでしょうか。
川口助四郎さん 荒谷の盆踊りは弘化4年
荒谷のぼんおどりの始まりは弘化4年3月28日に建前をし、その家の新築祝いが8月17日でした。その日、家の前庭で手伝いに来て居た人や、台所廻りの手伝い人のみなさんへ御馳走したら、その人達が喜んでぼんおどりを踊り、夜明けまで踊り続けたそうです。それが荒谷のぼんおどりの始まりだと言われてます。
司会
弘化4年と言えば今から何年位前ですか。
川□助四郎さん 今から約150年位前になります。
上村晃一さん 荒谷はどこからどこまで
荒谷とはとこからどこまででを言いますか。
荒谷の地域
川□助四郎さん
荒谷の部落は庚申塚のある所から、西売市の西村燃料店の横に区画整理前の旧道がありました。そこまでを荒谷と呼んでいたようです。
久慈忠治さん
私達が小学校(八尋)に人ってた頃、人まねこまね荒谷の狐と言った事を記憶してますが。
川□助四郎さん 荒谷の狐のいわれ
昔は狐はどこにでも居たと思います。一説によりますと、凶作が続き、藩の財政が苦しくなり年貢の取り立てが厳しくなった。農民は働けど働けど苦しくなるばかり、自分から進んで、何かしようとする気持ちを持たなくなった。他村の人が仕事を始めたら仕事につくと言うような事で、よそ村の人達より遅れると言う有様だった。人のまねをするようであった。それを見て、よその人達は馬鹿にして人まねこまね荒谷の狐というようになった。
売市小学校の思い出
司会
売市小学校が根城の現在地に移ったと聞いています。その頃のお話をお願いします。
二沢平義雄さん 売市小学校から根城の新校舎に移ったのは昭和5年4月でした。新しい学校が現在地に建設され、移転することになったが移転の予算も無いので、生徒達が机、椅子、その他の備品を運びました。
川口助四郎さん 高等科の生れたいきさつ
私たちが売市高等小学校の第1回生です。それまでは吹上の高等小学校に御世話になってました。入学式の間近になって、吹上小学校から入学を断られました。そこで大急ぎで村議会を開き、協議の結果、売市小学校に高等科を併設する事になり、私達が第1回の卒業生となり、記念に校旗を寄附しました。
川□市太郎さん 高等科は袴を着けた
それまでは、吹上の高等科に進むには袴を着け人並みの服装で通学する。ところが新品は買えない時代でしたので、古着を買いに高岩まで行き、古着店で調達して吹上の高等科へ通ったものだ。色々な事があり吹上の学校に行けない人もありました。地元売市にも高等科が出来たので99%の人が入学しました。
司会 昔は寺小屋がありそこで子弟の教育が行なわれていたと聞きますが。
川口助四郎さん 売市の寺小屋は弘化3年 教科書「源平藤橘」
寺小屋は弘化3年、今から約150年程前に開かれたようです。その頃使用された、御手本が残ってます。今の教科書の代りに「源平藤橘」を手本にし、掟に基づいて寺小屋が聞かれて居たようです。
その他の行事
司会
その他の行事という事で、売市地区にあった行事は。
川口さよさん ムギカラ人形で悪魔払い 村の四ツ角でモチ撤き
私達が小さい頃にあったのに、悪魔払いがありました。6月24日、無病息災を願って、村の人達が産土神(おばしな様)に集まり、ムギカラで、男女一対の人形を造り屋敷の入口の両側に寄りかけた、それを何日かすると川に流し1年間病魔を払う役割をしました。又、悪魔払いに村の四ツ角、東西南北にモチを作りこの1年無事に過せますように祈ってモチをまき散らした。
司会
南米の方ではトウキミを粉にしてモチを作り主食にしてると聞きますが、この地区ではどんなものがありましたか。
鈴木 操会長
昔は麦モチ、そばモチ等をかしわの葉にくるんで、灰の中に入れて焼き、ほど焼きと言って食べたと聞いています。
川□さよさん
かぼちやの葉にくるんで、ほど焼きにすると青くさくて、おいしくなかった。
司会
青年団当時、各青年団で泊りがけで研修会を開いたようですが。
川□助四郎さん 一夜講習と館村青年団
館村青年団では階上町の寺下観音で一夜講習会がありました。その時小井川先生や神代忠治さん達も同行しました。
二沢平義雄さん 寺下観音の別当さん宅で
その時、私も行った、寺下観音の別当さんの家へ泊まって、研修会があり往復歩きました。館村青年団主催で一晩泊まって、先生方のお話を聞いて帰ってきた事があります。往きは耳ケ吠を通り、帰途は海岸に出て途中にある、史蹟、名勝を、小井川先生の説明をお聞きしながら帰って来ました。
司会
長時間に亘り、売市を中心に昔の話、弘化年間から戦後にかけて売市に、まつわる貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。
南売市の今昔を語る
南売市は歴史の古い町・荒谷時代から
川□さよ、川口助四郎、後村仁太郎、川口市太郎、二沢平義雄、久慈忠治、野沢宗芳、川口喜助、鈴木操町内会長、中村宗エ門司会
挨 拶
鈴木操町内会長記録して後世に残したい荒谷弁でどんどん話して
この度南売市町内会が昭和35年に創立されて30年を迎えました。その30年の節目にあたり、意義あるものを出版刊行し記念にいたしたいと思いまして、何回か会合を持ちました。その結果地域の事情をご存じの方々からお話を伺ってそれ等を記録し後世に残したいと存じまして、座談会を計画しました。売市弁で、色々お話をして戴くようお願い致します。
司 会
中 村 宗右工門
ルーツをお聞きしたい戦前の町内会の制度……
司会を仰せつかりました、中村でございます。不馴れでございますので皆様方の御協力により務めさせて戴きます。
戦後になり、正式に町内会が発足されてから30周年の節目になりますが戦前にはどの様な制度があったのか、過去を振り返り、ルーツを御聞きしてみたい、そうしたことに皆様も関心があることと思います。
町内会の生い立ち
司会 川口助四郎さんの祖父、川口福次郎さんが、舘村時代に区長を勤められたと聞いておりますが、川口さんその辺の所からお話をお願いします。
川□助四郎さん
町内会長は市長が委嘱館村時代は区長制
それでは町内会について話して見ます。
町内会長と言う名称は、昭和15年1月に三戸郡館村から、八戸市に合併になった時からでございます。昭和15年5月1目付八戸市長から交付の委嘱状も手元にあります。
その頃は日支事変中で戦時体制、町内会長の下に隣組制度があり隣組長がありました。
町内会の組織になる前、三戸郡館村時代には大字毎に、区長を設ける制度で明治の頃からあったと思います。
町内会は銃後の守り(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。「銃後の守り」と使う)として戦時中は債券の割当消化、米の供出督励、金属の回収、生活必需品の配給、出征兵士の見送り、防空演習等戦争遂行の為の行政事務の上意下達の役割を持つ組織でした。
一番多い仕事は生活必需品の配給でした。町内の人達に公平に配ばるのに苦労しました。
野沢宗芳さん
高館の飛行場に勤労奉仕戦後は町内会は追放
その他に町内会として勤労奉仕の協力要請がありました。それは高館に陸軍飛行場が建設されることになり、各町内会に割当があり順番に勤労奉仕しました。毎日各地区から動員され、売市方面は徒歩で飛行場まで行きました。遠くは岩手県軽米方面、津軽方面からトラックに乗って応援にきたようです。
戦争が終ってから占領軍から町内会は敵視され、昭和22年マッカサー司令部から追放命令により、町内会は解散されたようです。
南売市も22年に解散して、35年に組織するまで13年間、空白時代が続いた。
区長制度
司会 さきほど区長のお話が出ましたが舘村時代には大字毎に一人区長を置く制度があったようですが。
川口市太郎さん
アメヤのぢいちゃんの役、区長の話で思い出したが、アメヤ(西村燃料店)のぢいさんが各戸に、フレて歩いたのは何の役だったのかな。
川□助四郎さん 正式には使丁、通称コバシリ
あれは通称コバシリ、正式には区使丁と言って、村役場からの納税通知書、田植えが終ると各部落毎に、一斉に休日(テノリ)にする習慣があった。そのことを伝達したりその他村役場、区長から行事の伝達をする役目で、今で言う連絡係に当るのかな。
上村晃一さん
区長と言えば何に当りますか?
川口助四郎さん
今の役員に当ります。
二沢平義雄さん区長は今の町内会長
荒谷から村会議員三人
区長は、地域の自治会長のような役割をもって居り、今の町内会長に当る。当時、南売市からは、川口福次郎、山田太太郎、野沢扇治の三氏が館村の村会議員に選出され、村政の為に活躍されておりました。
上村晃一さん
区長は誰が決めたんですか?
川□助四郎さん
売市の区長は三部落交代昭和16年三分割
部落の総会の時、話し合いで決めてたようです。大字売市は、南、西、長根の三部落で交替して区長を勤めました。売市地区は、範囲が広いので、どなたがやっても大変だと言う事で、昭和16年に、南、西、長根に三分割することを消防屯所に集まり話し合い、その結果、何の異議もなく分割に合意しました。その様な話し合いの中で西村徳次郎さんが従来の新丁組の名称を、西売市に改名したいと発言がありこれを了承しました。売市地区の3分割当時の各町内会長は、次の方々でした。
西売市町内会長…………二沢平市太郎
南売市町内会長…………川口大次郎
長根町内会長…………小軽米福右エ門
南売市副会長…………川口市蔵
売市の道路
司会
戦前、売市の道路が悪かったと聞いてます。特に入梅時期になりますと、ぬかる道になったそうですが?
久慈忠治さん
私か八中(八高)時代に、八中から馬淵川の大橋までマラソンで走りました。その頃は道路の両側に杉やけやきの大木があり、その枝葉でふさがれ、道に陽が当らなかったので一度雨が降れば、ぬかる道となり荷馬車の車輪堀りが出来、馬車の心棒につかえるほど、道路が悪かった。
売市の道路が、コンクリート舗装になったのは、いつごろでしたか。
二沢平義雄さん
私が昭和13年に軍隊に行ったのでよく判らないが。
久慈忠治さん 昭和15年道路舗装
2回目は28年やり直し
昭和15年高館に陸軍飛行場が出来ることになり、その頃道路工事が始まった。道路拡幅工事の為に、両側の大きな木が切り倒され、明るくなり、コンクリート舗装になった。2回目の舗装工事は昭和28年に、やり直しました。
川□助四郎さん 道路工事中火事で苦労
川口徳太郎さんの家が火事になった年だった。丁度その時、道路工事中で割栗石を敷いた状態でしたので、火事場へ行くのに苦労しました。
川口喜助さん
コンクリート舗装写真が証明
私の所にある写真、昭和16年のものを見ますと、すでにコンクリート舗装になってます。
司会
さきほど川口市太郎さんがお聞きになりました、売市の道路がいつ頃コンクリート舗装になったのかについては、今のお話でお判り戴けたと思います。
久慈忠治さん バス停設置の陳情
コンクリート舗装が出来たので、南売市にバス停の設置を陳情しました。
悪道の証明
司会
中新酒店のおばあさんのお話によりますと昭和14年に結婚したそうです。その時おばあさんが、浜市川から人力車に乗って、売市の中新酒店に嫁入したそうです。その頃道路が悪くてと、話してました。
二沢平義雄さん 嫁の実家は西売市
大橋の家までタクシーで
昭和15年に私が結婚しました。嫁の実家は、西売市で西村家の娘で、当時、私の家は馬淵川の大橋の傍にありました。西売市と大橋では近いので歩いて来てもよいのですが、道路舗装工車中の為、タクシーに乗り長根を廻り、新坂を通って、遠廻りをして大橋の私の家に着きました。
売市地区に電気・水道のついた時期
司会
ところで、売市地区にいつごろ電気が点燈しましたか、記憶ありませんか。
後村仁太郎さん 電灯は大正10年頃か まぶしかった10燭光
売市地区は下長に比べ早いような気がした。私が小学校2年生の頃電気がついたと思いました。その頃はまだ電気がついてない家もありました。
野沢宗芳さん
あなたは何年生れですか。
後村仁太郎さん
私は大正3年生れで8才で小学校へ入学しました。今から67年位前になりますが。
野沢宗芳さん
私の姉達の話によれば、子供の頃には電気がついて居たそうです。
川口喜助さん
私の母の話によりますと八戸大火(大正13年)の頃には、もう電気がついて居たと話してます。
便利な水道
司会
次に水道通水はいつ頃でしょうか。
川口市太郎さん
久慈さん売市に来て何年になりますか。
久慈忠治さん
昭和26年4月、私が売市で食料品、雑貨店を開きました。そのあとに、昭和31年頃に水道が通水したと思います。
川口助四郎さん
NTT、高周波の住宅へ通水
その頃佐々木秀文氏が県会議員の時、NTT、官舎及び高周波の住宅へ通水の為、道路を横断する工事をした。
川□喜助さん 売市の水道は昭和38年
昭和38年に根城の浄水場を開設することになり、隣地境界線立合いのため私の父が現地に行って来ました。その時発病し倒れましたので、記憶にあります。
後村仁太郎さん 水道は便利・金がかかる
井戸水を汲むのと違って、蛇口をひねると、水が出て来る水道は便利だったが、工事費が高いので、誰でも水道を引けなかった。井戸水を利用している人は多かった。
電話
川口喜助さん 売市の電話は山田さん
山田国太郎さんの話によると、売市村に電話が入って来た時代は大正7、8年の頃だろう。設置者は父山田大太郎で、住所は売市13番地、当時は局に電話機の在庫がなく、何時になったら入荷するかその見込みも立たず、島谷部町の或る質家から買って設置した。
代金は(権利)1台350円設置料込みで390円(電柱1本10円)かかり、売市まで4本たてた。電話番号は378番で約10年ぐらい使用した。この378番はゴロ読みをするとミナハズレと読まれるので378番は気に入らず、昭和に入って191番と取り替えた。それは昭和35年の自動式になるまで続いた。
荒谷のぼんおどり
司会 荒谷のぼんおどりは、昔からあったようですが、いつ頃から始まったのでしょうか。
川口助四郎さん 荒谷の盆踊りは弘化4年
荒谷のぼんおどりの始まりは弘化4年3月28日に建前をし、その家の新築祝いが8月17日でした。その日、家の前庭で手伝いに来て居た人や、台所廻りの手伝い人のみなさんへ御馳走したら、その人達が喜んでぼんおどりを踊り、夜明けまで踊り続けたそうです。それが荒谷のぼんおどりの始まりだと言われてます。
司会
弘化4年と言えば今から何年位前ですか。
川□助四郎さん 今から約150年位前になります。
上村晃一さん 荒谷はどこからどこまで
荒谷とはとこからどこまででを言いますか。
荒谷の地域
川□助四郎さん
荒谷の部落は庚申塚のある所から、西売市の西村燃料店の横に区画整理前の旧道がありました。そこまでを荒谷と呼んでいたようです。
久慈忠治さん
私達が小学校(八尋)に人ってた頃、人まねこまね荒谷の狐と言った事を記憶してますが。
川□助四郎さん 荒谷の狐のいわれ
昔は狐はどこにでも居たと思います。一説によりますと、凶作が続き、藩の財政が苦しくなり年貢の取り立てが厳しくなった。農民は働けど働けど苦しくなるばかり、自分から進んで、何かしようとする気持ちを持たなくなった。他村の人が仕事を始めたら仕事につくと言うような事で、よそ村の人達より遅れると言う有様だった。人のまねをするようであった。それを見て、よその人達は馬鹿にして人まねこまね荒谷の狐というようになった。
売市小学校の思い出
司会
売市小学校が根城の現在地に移ったと聞いています。その頃のお話をお願いします。
二沢平義雄さん 売市小学校から根城の新校舎に移ったのは昭和5年4月でした。新しい学校が現在地に建設され、移転することになったが移転の予算も無いので、生徒達が机、椅子、その他の備品を運びました。
川口助四郎さん 高等科の生れたいきさつ
私たちが売市高等小学校の第1回生です。それまでは吹上の高等小学校に御世話になってました。入学式の間近になって、吹上小学校から入学を断られました。そこで大急ぎで村議会を開き、協議の結果、売市小学校に高等科を併設する事になり、私達が第1回の卒業生となり、記念に校旗を寄附しました。
川□市太郎さん 高等科は袴を着けた
それまでは、吹上の高等科に進むには袴を着け人並みの服装で通学する。ところが新品は買えない時代でしたので、古着を買いに高岩まで行き、古着店で調達して吹上の高等科へ通ったものだ。色々な事があり吹上の学校に行けない人もありました。地元売市にも高等科が出来たので99%の人が入学しました。
司会 昔は寺小屋がありそこで子弟の教育が行なわれていたと聞きますが。
川口助四郎さん 売市の寺小屋は弘化3年 教科書「源平藤橘」
寺小屋は弘化3年、今から約150年程前に開かれたようです。その頃使用された、御手本が残ってます。今の教科書の代りに「源平藤橘」を手本にし、掟に基づいて寺小屋が聞かれて居たようです。
その他の行事
司会
その他の行事という事で、売市地区にあった行事は。
川口さよさん ムギカラ人形で悪魔払い 村の四ツ角でモチ撤き
私達が小さい頃にあったのに、悪魔払いがありました。6月24日、無病息災を願って、村の人達が産土神(おばしな様)に集まり、ムギカラで、男女一対の人形を造り屋敷の入口の両側に寄りかけた、それを何日かすると川に流し1年間病魔を払う役割をしました。又、悪魔払いに村の四ツ角、東西南北にモチを作りこの1年無事に過せますように祈ってモチをまき散らした。
司会
南米の方ではトウキミを粉にしてモチを作り主食にしてると聞きますが、この地区ではどんなものがありましたか。
鈴木 操会長
昔は麦モチ、そばモチ等をかしわの葉にくるんで、灰の中に入れて焼き、ほど焼きと言って食べたと聞いています。
川□さよさん
かぼちやの葉にくるんで、ほど焼きにすると青くさくて、おいしくなかった。
司会
青年団当時、各青年団で泊りがけで研修会を開いたようですが。
川□助四郎さん 一夜講習と館村青年団
館村青年団では階上町の寺下観音で一夜講習会がありました。その時小井川先生や神代忠治さん達も同行しました。
二沢平義雄さん 寺下観音の別当さん宅で
その時、私も行った、寺下観音の別当さんの家へ泊まって、研修会があり往復歩きました。館村青年団主催で一晩泊まって、先生方のお話を聞いて帰ってきた事があります。往きは耳ケ吠を通り、帰途は海岸に出て途中にある、史蹟、名勝を、小井川先生の説明をお聞きしながら帰って来ました。
司会
長時間に亘り、売市を中心に昔の話、弘化年間から戦後にかけて売市に、まつわる貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。
秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 1
東奥日報が伝えた。
元八戸市長で同市名誉市民の秋山皐二郎氏が九月二十八日午後一時二十分、八戸市内の病院で心不全のため死去。九十七歳だった。同市長を一九六九年から五期務め、県市長会長、全国市長会副会長などを歴任した。
秋山元市長は八戸を海から拓いたと評される。どんな一代記であったかを東奥日報社刊の回顧録「雨洗風磨」から転載してみる。同著は八戸図書館所蔵。
名付け親は西有穆山禅師
私が生まれたのは明治四十三年二月二十二日、、戸籍上はそうなっている。ただ、母すゑは、よく「お前は、えんぶりの始まる朝に生まれてきたんだよ」と言っていましたから、本当は二月十七日が誕生日なんです。昔のことですから、役場に届け出た日を、そのまま生年月日にしたというのが、どうも真相のようです。
私は実は四男坊。四歳上の兄が幼名・政次郎。三代目熊五郎を継ぐんですが、長兄、次兄とも赤ん坊のうちに亡くなって、兄は三男坊の繰上げ当選の惣領息子というわけです。二人も幼い子供を亡くしているので、母にしてみると「とにかく、きかなくてもどうでも、丈夫に育ってくれればいい」と考えたのでしょう。私の命名を西有穆山禅師に頼んだんです。禅師は母にとっては叔父。禅師の姉が関川という家へ嫁に来て母を生んだのですが、私の母方の祖母という人は、禅師とそっくりの人でした。禅師は湊本町の笹本という豆腐屋の息子。曹洞宗管長を務め、鶴見の大本山総持寺三世となった方なんです。母たちには、よく「子供というものは、ふた親が力を合わせて育てるもんだ。小鳥でさえも巣をつくり、ふた親でエサを運んで育てている。大切に育てなくてはダメだぞ」と話していたそうです。禅師については、顕彰会が結成されて、私が会長を引き受け、四十四年六月に公園を造成、銅像を建立しました。
その禅師に付けていただいた名前が「皐二郎」。ところが、小学校に入ったらだれも「コウジロウ」と呼んでくれない。「いや違う。おれはコウジロウだ」と何度言っても、先生までが「サイジロウ」と呼ぶ。
旧制八戸中学に入学した時に辞書を買ってもらい、真っ先に調べて「ああ、やっぱりコウジロウでいいんだなあ」と安心したのを覚えています。どうもみんな、勤物のサイ「犀」と間違えていたらしい。
竹内俊吉さんに聞くと高い丘の意味と言う
「皐」の本字は「學」。浩然の気を養うの「浩」と同じ意味。「とにかく丈夫で」という母の願いを込めて、禅師が考えてくれたのだなあと思いました。禅師は、私の名前を付けたその年の秋に、九十歳で世を去りました。
後年、県議になって、竹内俊吉知事に聞いたら「君の皐は高い丘という意味だなあ」と教えられました。副議長になった時に記念に何か書いてくださいと頼んだら「陶淵明の五言絶句に、東皐に登りて笛を吹くというのがあるから」と言われて 「東皐香梅花」という書を揮ごうしてくれました。八戸の東方、鮫の丘ということです。
名前で困ったのは、当用漢字にないこと。名刺を作るようになってから、印刷屋に活字がなくて、泣かされました。「皐」という活字を彫ってもらって作ったんです。出張の時なんかは、かさばらないように薄い上質の紙で名刺を作り百枚も持って行く。無くなっても、すぐ印刷というわけにはいかないんですから。
私の父は興吉と言って、私が二歳の時に腎臓病で亡くなりました。三十四歳でした。父の記憶は全くありません。ダブルの三つぞろい、金鎖なんか身に着けて馬に乗ってる写真が残っていますが、なかなかのシャレ者だったようです。
兄は一緒に撮った写真があるんですが、私と一緒のは一枚もない。母は冗談半分で笑いながら「お前は赤ん坊のころ、まことにゲホ(みっともないの意)でね。だからお父さんは、好まなかったんだろう」と言いました。
初代熊五郎に才覚、前浜の漁で大もうけ
私が生まれ育った秋山家は八戸藩のお抱え漁師だった家柄で、伝承によると、甲斐南部家の南部光行らの糠部下向の折に、今の山梨県の秋山郷から一緒に来たといわれています。当主は代々、孫兵衛を名乗り、屋号は「まごべえや」。前浜での漁業を管理して藩政時代から続いてきた家です。ところが、この孫兵衛家が慶応の年に破産してしまう。
わが家は、私の祖父・初代熊五郎の代に分家という形になっているんですが、祖父が数えの十八歳の時だったそうです。
祖父の話では、昔から孫兵衛家には言い伝えがあり「本当に困った時は、一番奥の座敷のこういう場所を開けてみろ」というんで、何か必ず宝物があるはずだと、開けてみたら千両箱があったが、中は空だったそうです。そこへ来るまでに使い果たしたんでしょう。私が子供のころまで、その千両箱が神棚に残っていました。
孫兵衛家は現在の湊トンネルの上、館鼻公園のそばの一角にあったのですが、すっかり城を開け渡して、それまでは干場で、シメ粕や網、煮干しを干していた浜須賀の浜辺へ下りて住まいしたんです。どの家にも長い歴史がありますが、わが一族も没落して路頭に迷った時期があったわけです。
米内山家と並ぶ網元に
祖父・初代熊五郎は、なかなか先の見通しが利く人で、前浜の地引き網漁で、随分大漁したんです。東の秋山、西の米内山といわれて、代議士をなさった米内山義一郎さんのところも古くからの網元なんですが、私の方は五カ統あった地引き網を小作に出していました。八太郎日計、市川、一川目、二川目、三川目と一カ統ずつ。その北の方は米内山さんだった。
後年、米内山さんに言われたことがある。「いや秋山君、君のとこは、今の資本主義経済に乗って、随分と大きくなったなあ。私のとこは古くさい経営方法でダメだった。一族で守っていたから伸びなかった。君の方は小作に出していたからなあ」と二人で大笑いしました。
私が物心ついたころ、ある朝、「ドシン、ドシン」という音で目が覚めた。寝ぼけ眼で起きて行くと、上間でウス二丁並べて若い衆がモチをついている。レンガ敷きで十五、六畳ある土間でして、 一斗炊きのカマが二つ掛かるカマドがありました。つきたてのモチをほお張りながら「きょうは何なのだっけ」と間くと母たちが「九日モチだよ。これを食べて漁のあるのを待つんだ」。
私の祖父が前浜で漁を始めたころ不漁の年があった。旧暦の九月九日には他の人たちは、もう完全に切り上げてしまったそうなんです。祖父だけは「必ず漁があるはずだ」と船頭たちに話してモチをつき「慌てないでモチを食べて休んでろ」と待ち続け大漁したというんです。わが家では「九日モチ」と称して年中行事となっていました。
祖父はまた、巻き網漁では、綿糸でアグリ網を考案改良した長谷川藤次郎さんと共同経営していました。「成田丸」という船名はもともとは長谷川さんのところの船名なんてすが、後年、長谷川さんが巻き網漁業から手を引いた時に譲ってくれたものです。
明治の末ごろ、私の生まれた前後でしょうが、北海道のニシン不漁で私の祖父も長谷川さんも大変な借金を抱えた。私の祖父は二万八千円、長谷川さんのところは十三万円だったそうです。
祖父は当時の八戸商業銀行の鈴本吉十郎頭取のところへ行って「もう、すべてを整理します。浜から足を洗います」と言ったら頭取が「そこまで腹決めたんであれば待ってやる。何も急いで船や網を売ることもなかろう。もう一回、漁をやってみろ」と諭されて、地引き網専門で二年間で二万八千円を返済したそうです。
その時の手形は今もわが家にあります。
盛大な大漁祝い母が指揮
網元の家というのは、とにかく人の出入りが多くて、にぎやかなものでした。私の子供のころで地引き網五カ統、巻き網三カ統持っていましたから。巻き網は手こぎ舟で、いわゆるテントウ舟というものでした。
食事は、わが家の家族も船頭も船乗りも一緒になってとる。細長い飯台をズラーッと並べて、少しアワを混ぜたご飯を三交代ぐらいで食べる。昼食用に長四角の木箱(沖箱と言っていましたが)にご飯とおかずを詰めて出漁していく。
漁を終えて帰ってくると、すぐ酒盛りが始まる。土間にある四斗だるから酒を酌んできて爛をつけ、船から持ってきた魚を刺し身にして。
父を二歳の時に亡くしたんですが、こうした雰囲気の中で育ったせいか、それほど寂しいという思いはしませんでした。ただ、最初に父親を感じたのは、八戸の三社大祭を見に行った時のこと。 小学生になっていたと思うんですが、母に十銭もらって出掛ける。馬車に乗ると往復十銭なんですが、バカくさくて歩いて行く。十銭あると結構、いろいろ食べられたんです。
ところが、祭りを見ようとすると大変。体が小さいものですから、人込みの中を潜って歩く。周りを見回すと、小さい子供は、みんな父親に肩車してもらっている。
「あーっ。おれのおやじも生きてたら肩車してくれただろうなあ。そうすりゃ高い所から、もっとよく祭りが見られるのになあ」とうらやましく思いました。
網元の家の行事の最初が、旧暦の正月二日の乗り初め。商家でいえば初売り、初荷ということになります。船に大漁旗をいっぱい立てて、満艦飾に飾る。一年間の漁の態勢を、この時に決めるわけです。
当時のわが家は、十五畳ぐらいの土間に続いて十畳の茶の間、玄関と続く十畳の中茶の間があり、それから奥へ十六畳、十畳、十畳と三部屋が続いていた。ふすまを取り外すと、L宇型の広間になり、百五十人ぐらいが座って酒盛りできる広さでした。
神棚には山盛りの銀貨
一番、楽しかったのは、なんといっても漁の切り上げや大漁祝い。母が四日ぐらいかかって、一族や船頭、船乗りの夫人たちを総指揮して料理を作る。最初に船頭が一升ますに山盛りにした銀貨を神棚に上げる。その時に手にいっぱいつかんでパッと投げつけるんです。子供たちは先を争って、それを拾う、台所の女性たちも人って大騒ぎする。
一升ますは最後に神棚に上げられるんですが、ある時、兄が「肩車してやるから、神棚の上のますから少し取ってこよう」と誘う。ヨシッと言うんで銀貨を取ろうとした矢先に母に見つかった。
「コラーッ、何をしてる」としかられて、兄はサッと肩を外して逃げてしまい、私は神棚につかまって足をバタバタ。母にそのままの格好で、おしりを思い切りひっぱたかれました。しりは痛いし、逃げようにも手を離せば落ちるし、でどうにもならない。往生しました。
暮れになると、下北、三陸、小名浜などから地引き網や巻き網船が、次々に網を積んで回港してくる。網を網倉(八戸では網戸という)へ納めて、一杯飲んで帰る。
山海の珍味というよりは、海海の珍味で、もてなし、帰りは馬車で送るんです。サバずしとかマグロの刺し身、エビ天、ホッキ貝の照り焼き、サメなますなんかが、よく出ました。
こういう料理は、その度ごとに母が、親類縁者の女性たちを指揮してつくり、後片付けも膳や椀を洗って倉にしまうまで、いろいろしゃべりながら三日ぐらいかかってやる。娯楽の少ない当時でしたから、こんなふうに集まるのが、一種のレクリエーションみたいなものだったんだと思います。
私はじっとしているより動き回ってる方が楽しい性格で、随分と浜の仕事をやりました。小さいころから浜風が身にしみているんです。
浜辺は子供の楽園
小学校は湊小学校。今のJR陸奥湊駅の向かい、魚菜市場のところにあり、段々になった敷地に校舎が階段状に立っていました。三本のポプラが植えてあった校庭は大変狭く、思いっ切り走ることができず、運動会のリレーの練習を上ノ山地区の市道を使ってやった記憶があります。
市長になって学校を整備する際に、運動場は最低でも直線で百㍍のコースが取れるようにと考えて実行したのは、子供の時の狭い校庭が頭にあったからでした。
現在の築港街や港湾施設はまったく無い時代で、扇浦といわれる美しい砂浜がずうっと広がっていました。今の湊トンネルから港へ抜ける出口の上は、こんもりした森で、そこにたくさんの野鳥が飛んで来たものです。新井田川の河口にかけては砂丘が広がり、ハマナスがいっぱいありました。
浜須賀からは白銀にあった製材工場が見えて、沖合三百㍍ぐらいの所に「双デ石」という岩があり、そこまで泳いで行けるようになると一人前に扱われました。
朝、起きると母が、一斗炊きの釜の底にできた「お焦げ」に黒砂糖をまぶして、鉄製のへらでパリパリッとはがして竹製のざるに取ってくれる。それを懐に入れて、砂浜へ飛び出すのが日課。
近所の子供たちを集めて黒砂糖まぶしの「お焦げ」を配給するんです。うまいんですよ。香ばしくて。大阪名物の「石おこし」みたいでした。
四季折々に遊び工夫
遊びは広大な砂浜ですから、陣取りという戦争ごっこや「こま回し」というアイスホッケーの元祖みたいなこともやったんです。直径十㌢ぐらいの丸太を輪切りにして、これを相手に向かって投げる。上手に受け止めればいいが、相手が落としたりすると、その地点まで味方が進める。丸太の輪切りですから、受け損ねて顔なんかに当たると実に痛たくて。
春先はこうがい打ち。細木を土に打ちつけてね。ひと抱えも勝って意気揚々と家へ持って帰ったら、母が「そんな汚いもの家では燃やせない。捨ててきなさい」とこっぴどくしかられて。
夏は、もちろん水泳。前浜は川が流れ込んでいるので、海藻類が実によく繁茂していました。ソイやアブラメがよく釣れるし、カキなんかも採れたんです。砂地を足で掘ればホッキガイもある。
港湾の施設がなかったから、大きな三〇〇トンクラスの船は沖合に停泊する。「おい、きょうは蒸気船まで行くぞ」と誘い合って沖合の船へ泳ぐ。船員は「おっ、よく来た、よく来た」と必ず、お菓子をくれる。それを食べながら泳いで戻るなんてこともやりました。
冬は、そり遊び。館鼻の上から道路をぐるうっと回りゲンゴ坂を滑り、浜まで約四、五百㍍も滑る。私なんかはカネげた(スケート)で館鼻の急斜面を直滑降したりもしました。
食べ物は生ものが苦手
私は食べ物では生ものが苦手。セグロイワシの背焼き(背の部分を少し焼いて食べる)なんか食事に出ると、なかなか口に入らない。焼きながら食べるんですから、生焼けのうちにみんなパクパク。ちゃんと焼けるのを待ってるとなくなってしまう。みんなの食事が終わってから、ようやく一人でじっくり焼いたりなんかしました。
奸物だったのは酸味の強いマルメロと青梅。マルメロは丸かじりする。渋みがなんとも言えず口に合うんです。青梅の方も、周辺の梅の木の所在は、しっかり覚えていました。トゲトゲがあって手や足が痛いんですが、それでも木に登って随分食べました。
浜辺で煮干しに交じっている小エビやカニ、カレイ、サバ、イカなんかも、毎日のように食べました。薄い塩味がついていて実にうまい。遊びや煮ぼし干しの手伝いをしながら、つまむ。おかげてカルシウムは何年分も摂取できたようで歯は今でも丈夫そのもの。
あのころの浜辺は私どもの楽園であり、古戦場でもありました。
小学校時代、山崎岩男さんの兄さんから教わる
小学校の先生には、山崎岩男さんのお兄さんが居て、四年生の時に教わりました。岩男さんは後に県知事になり、息子の竜男さんが今も参院議員ですが、当時、岩男さんは八戸中学生。
時々八中の学生帽をかぶって小学校に来て、お兄さんの代わりに教壇に立って算術を私どもに教えるんです。勝手に先生をやってもだれも文句を言わないし、大らかな時代でした。
県の視学官などを務め、素晴らしい教育者になられた寺井五郎さんも八中を卒業したばかりで代用教員として赴任して来ましたが、若々しくて「坊やみたい」と悪童たちに評されました。
厳しかった秀之助叔父
父が居なかった私を家で鍛えてくれたのは、父のすぐ下の弟だった秀之肋叔父。小学校一年になると、こぶしぐらいの大きさの綿糸の玉と網針を手渡して網の修理。船頭とか乗り組み員の子供たちも、それぞれ年齢に応じた大きさの綿糸の玉をもらって、浜にズラリと並んで網の修理を手伝いました。おかげて、網の修理は、すごくうまくなった。
網干しなんかも手伝いました。一家総出で浜に網を広げ、夕方には取り込む。重くて大変な重労働でした。網を渋で染めるのも、ふんどし一丁でやりましたよ。渋が付着するので裸でやるんですが、網目が素肌に食い込んで痛くて痛くて。
戦後、化学繊維の網を日本で最初に導入したのは本県の巻き網組合で、私が組合長をした時ですが、網干しや網染めの重労働の体験が生きたというわけです。
小学校五年生になると、秀之肋叔父はいつも私に手紙を書かせる。口述筆記で、叔父の言う通りに書く。出来上がると「読め」。黙って読むのを聞いて、直して清書させる。
あちこちへの連絡なんかも、ずい分とやりました。兄は惣領ですから、そうした細かいことは一切やらない。「皐二郎、三川目へ行って、若い衆五、六人頼んでこい」。「初めてでわからない」といえば、「いや、だれそれの家へ行って言えば、ちゃんとやってくれるから」。そこで自転車で行くと「ヨシ、わかった。アンチャ、キメジャケッコ買ってケジャ」。決め酒というのは、それで覚えたんですが、次の日の朝には若い衆が身支度を整えて出てくるわけです。
市川とかの海岸沿いは船員、三戸郡の方には加工関係の作業員というふうに、いくつかの拠点がちゃんとあったんです。三戸にも何度も行きました。
当時の網元と使われている人との関係は、今の雇用関係よりも、もっと密接で長い長い付き合いだったんです。漁の無い時は網元が、こうした人たちの生活を保障する。漁があれば借金を返す形になりますが、回収しないのもずい分あった。そこが網元の使命であり、権威でもあったんでしょう。
私の家では八戸のほか北海道の釧路、岩手県の山田湾、小名浜に番屋があったんです。山田浦は鈴木善幸さんの出た所で関係は深いんです。
煮干しやシメ粕を作る時に燃料として使うのは松の木、これは三戸郡の山から冬、雪が降ってから切り出す。そんなのにもついて行きました。
秀之肋叔父は非常にきちょうめんな人でしたが、神田重雄さん(のち二代目八戸市長)に私淑して、日露戦争前には渤海湾へ手こぎ船を連ねて出漁しています。神田さんも一緒で、日露戦争で日本兵がたくさん来るから食糧を確保しようという長谷川藤次郎さんの構想だったそうです。
「残念ながら漁がなかったものなあ」と叔父は言ってましたが、気宇壮大な長谷川さん、神田さんと相通じるものがあったようです。叔父は神田さんの要請で市議も三期つとめたんですが、湊地区の道路建設に反対した船具商を営む市議を議場内でポカリとやった武勇伝も残っています。「浜の世話になりながら何事か」と怒ったようです。
日本水産業界の先覚者長谷川藤次郎翁は安政二年四月六日三重県に 生れ、昭和八年二月十七日八戸市湊町において七十九才で逝 去。 明治十九年較港において肥料商を営み鰮地曳網の改良を痛感し、漁法を改善。明治二十二年巾着網を麻製の揚繰網とし、更に研究を重ね綿糸の改良揚繰網を考案。 又搾粕圧搾器を改良。三十六年湊漁業組合 初代組合長。明治三十七年七月勅定の緑綬褒賞。ここに翁の遺徳をしのび銅像を建立し水産日本の発展及旋網漁業の 隆栄を期しつつ永く其の偉業を後世に伝う。
歴代組合長
秋山秀之助 久保卯三郎 吉田契造 中村正路 熊谷義雄 秋山皐二郎
元八戸市長で同市名誉市民の秋山皐二郎氏が九月二十八日午後一時二十分、八戸市内の病院で心不全のため死去。九十七歳だった。同市長を一九六九年から五期務め、県市長会長、全国市長会副会長などを歴任した。
秋山元市長は八戸を海から拓いたと評される。どんな一代記であったかを東奥日報社刊の回顧録「雨洗風磨」から転載してみる。同著は八戸図書館所蔵。
名付け親は西有穆山禅師
私が生まれたのは明治四十三年二月二十二日、、戸籍上はそうなっている。ただ、母すゑは、よく「お前は、えんぶりの始まる朝に生まれてきたんだよ」と言っていましたから、本当は二月十七日が誕生日なんです。昔のことですから、役場に届け出た日を、そのまま生年月日にしたというのが、どうも真相のようです。
私は実は四男坊。四歳上の兄が幼名・政次郎。三代目熊五郎を継ぐんですが、長兄、次兄とも赤ん坊のうちに亡くなって、兄は三男坊の繰上げ当選の惣領息子というわけです。二人も幼い子供を亡くしているので、母にしてみると「とにかく、きかなくてもどうでも、丈夫に育ってくれればいい」と考えたのでしょう。私の命名を西有穆山禅師に頼んだんです。禅師は母にとっては叔父。禅師の姉が関川という家へ嫁に来て母を生んだのですが、私の母方の祖母という人は、禅師とそっくりの人でした。禅師は湊本町の笹本という豆腐屋の息子。曹洞宗管長を務め、鶴見の大本山総持寺三世となった方なんです。母たちには、よく「子供というものは、ふた親が力を合わせて育てるもんだ。小鳥でさえも巣をつくり、ふた親でエサを運んで育てている。大切に育てなくてはダメだぞ」と話していたそうです。禅師については、顕彰会が結成されて、私が会長を引き受け、四十四年六月に公園を造成、銅像を建立しました。
その禅師に付けていただいた名前が「皐二郎」。ところが、小学校に入ったらだれも「コウジロウ」と呼んでくれない。「いや違う。おれはコウジロウだ」と何度言っても、先生までが「サイジロウ」と呼ぶ。
旧制八戸中学に入学した時に辞書を買ってもらい、真っ先に調べて「ああ、やっぱりコウジロウでいいんだなあ」と安心したのを覚えています。どうもみんな、勤物のサイ「犀」と間違えていたらしい。
竹内俊吉さんに聞くと高い丘の意味と言う
「皐」の本字は「學」。浩然の気を養うの「浩」と同じ意味。「とにかく丈夫で」という母の願いを込めて、禅師が考えてくれたのだなあと思いました。禅師は、私の名前を付けたその年の秋に、九十歳で世を去りました。
後年、県議になって、竹内俊吉知事に聞いたら「君の皐は高い丘という意味だなあ」と教えられました。副議長になった時に記念に何か書いてくださいと頼んだら「陶淵明の五言絶句に、東皐に登りて笛を吹くというのがあるから」と言われて 「東皐香梅花」という書を揮ごうしてくれました。八戸の東方、鮫の丘ということです。
名前で困ったのは、当用漢字にないこと。名刺を作るようになってから、印刷屋に活字がなくて、泣かされました。「皐」という活字を彫ってもらって作ったんです。出張の時なんかは、かさばらないように薄い上質の紙で名刺を作り百枚も持って行く。無くなっても、すぐ印刷というわけにはいかないんですから。
私の父は興吉と言って、私が二歳の時に腎臓病で亡くなりました。三十四歳でした。父の記憶は全くありません。ダブルの三つぞろい、金鎖なんか身に着けて馬に乗ってる写真が残っていますが、なかなかのシャレ者だったようです。
兄は一緒に撮った写真があるんですが、私と一緒のは一枚もない。母は冗談半分で笑いながら「お前は赤ん坊のころ、まことにゲホ(みっともないの意)でね。だからお父さんは、好まなかったんだろう」と言いました。
初代熊五郎に才覚、前浜の漁で大もうけ
私が生まれ育った秋山家は八戸藩のお抱え漁師だった家柄で、伝承によると、甲斐南部家の南部光行らの糠部下向の折に、今の山梨県の秋山郷から一緒に来たといわれています。当主は代々、孫兵衛を名乗り、屋号は「まごべえや」。前浜での漁業を管理して藩政時代から続いてきた家です。ところが、この孫兵衛家が慶応の年に破産してしまう。
わが家は、私の祖父・初代熊五郎の代に分家という形になっているんですが、祖父が数えの十八歳の時だったそうです。
祖父の話では、昔から孫兵衛家には言い伝えがあり「本当に困った時は、一番奥の座敷のこういう場所を開けてみろ」というんで、何か必ず宝物があるはずだと、開けてみたら千両箱があったが、中は空だったそうです。そこへ来るまでに使い果たしたんでしょう。私が子供のころまで、その千両箱が神棚に残っていました。
孫兵衛家は現在の湊トンネルの上、館鼻公園のそばの一角にあったのですが、すっかり城を開け渡して、それまでは干場で、シメ粕や網、煮干しを干していた浜須賀の浜辺へ下りて住まいしたんです。どの家にも長い歴史がありますが、わが一族も没落して路頭に迷った時期があったわけです。
米内山家と並ぶ網元に
祖父・初代熊五郎は、なかなか先の見通しが利く人で、前浜の地引き網漁で、随分大漁したんです。東の秋山、西の米内山といわれて、代議士をなさった米内山義一郎さんのところも古くからの網元なんですが、私の方は五カ統あった地引き網を小作に出していました。八太郎日計、市川、一川目、二川目、三川目と一カ統ずつ。その北の方は米内山さんだった。
後年、米内山さんに言われたことがある。「いや秋山君、君のとこは、今の資本主義経済に乗って、随分と大きくなったなあ。私のとこは古くさい経営方法でダメだった。一族で守っていたから伸びなかった。君の方は小作に出していたからなあ」と二人で大笑いしました。
私が物心ついたころ、ある朝、「ドシン、ドシン」という音で目が覚めた。寝ぼけ眼で起きて行くと、上間でウス二丁並べて若い衆がモチをついている。レンガ敷きで十五、六畳ある土間でして、 一斗炊きのカマが二つ掛かるカマドがありました。つきたてのモチをほお張りながら「きょうは何なのだっけ」と間くと母たちが「九日モチだよ。これを食べて漁のあるのを待つんだ」。
私の祖父が前浜で漁を始めたころ不漁の年があった。旧暦の九月九日には他の人たちは、もう完全に切り上げてしまったそうなんです。祖父だけは「必ず漁があるはずだ」と船頭たちに話してモチをつき「慌てないでモチを食べて休んでろ」と待ち続け大漁したというんです。わが家では「九日モチ」と称して年中行事となっていました。
祖父はまた、巻き網漁では、綿糸でアグリ網を考案改良した長谷川藤次郎さんと共同経営していました。「成田丸」という船名はもともとは長谷川さんのところの船名なんてすが、後年、長谷川さんが巻き網漁業から手を引いた時に譲ってくれたものです。
明治の末ごろ、私の生まれた前後でしょうが、北海道のニシン不漁で私の祖父も長谷川さんも大変な借金を抱えた。私の祖父は二万八千円、長谷川さんのところは十三万円だったそうです。
祖父は当時の八戸商業銀行の鈴本吉十郎頭取のところへ行って「もう、すべてを整理します。浜から足を洗います」と言ったら頭取が「そこまで腹決めたんであれば待ってやる。何も急いで船や網を売ることもなかろう。もう一回、漁をやってみろ」と諭されて、地引き網専門で二年間で二万八千円を返済したそうです。
その時の手形は今もわが家にあります。
盛大な大漁祝い母が指揮
網元の家というのは、とにかく人の出入りが多くて、にぎやかなものでした。私の子供のころで地引き網五カ統、巻き網三カ統持っていましたから。巻き網は手こぎ舟で、いわゆるテントウ舟というものでした。
食事は、わが家の家族も船頭も船乗りも一緒になってとる。細長い飯台をズラーッと並べて、少しアワを混ぜたご飯を三交代ぐらいで食べる。昼食用に長四角の木箱(沖箱と言っていましたが)にご飯とおかずを詰めて出漁していく。
漁を終えて帰ってくると、すぐ酒盛りが始まる。土間にある四斗だるから酒を酌んできて爛をつけ、船から持ってきた魚を刺し身にして。
父を二歳の時に亡くしたんですが、こうした雰囲気の中で育ったせいか、それほど寂しいという思いはしませんでした。ただ、最初に父親を感じたのは、八戸の三社大祭を見に行った時のこと。 小学生になっていたと思うんですが、母に十銭もらって出掛ける。馬車に乗ると往復十銭なんですが、バカくさくて歩いて行く。十銭あると結構、いろいろ食べられたんです。
ところが、祭りを見ようとすると大変。体が小さいものですから、人込みの中を潜って歩く。周りを見回すと、小さい子供は、みんな父親に肩車してもらっている。
「あーっ。おれのおやじも生きてたら肩車してくれただろうなあ。そうすりゃ高い所から、もっとよく祭りが見られるのになあ」とうらやましく思いました。
網元の家の行事の最初が、旧暦の正月二日の乗り初め。商家でいえば初売り、初荷ということになります。船に大漁旗をいっぱい立てて、満艦飾に飾る。一年間の漁の態勢を、この時に決めるわけです。
当時のわが家は、十五畳ぐらいの土間に続いて十畳の茶の間、玄関と続く十畳の中茶の間があり、それから奥へ十六畳、十畳、十畳と三部屋が続いていた。ふすまを取り外すと、L宇型の広間になり、百五十人ぐらいが座って酒盛りできる広さでした。
神棚には山盛りの銀貨
一番、楽しかったのは、なんといっても漁の切り上げや大漁祝い。母が四日ぐらいかかって、一族や船頭、船乗りの夫人たちを総指揮して料理を作る。最初に船頭が一升ますに山盛りにした銀貨を神棚に上げる。その時に手にいっぱいつかんでパッと投げつけるんです。子供たちは先を争って、それを拾う、台所の女性たちも人って大騒ぎする。
一升ますは最後に神棚に上げられるんですが、ある時、兄が「肩車してやるから、神棚の上のますから少し取ってこよう」と誘う。ヨシッと言うんで銀貨を取ろうとした矢先に母に見つかった。
「コラーッ、何をしてる」としかられて、兄はサッと肩を外して逃げてしまい、私は神棚につかまって足をバタバタ。母にそのままの格好で、おしりを思い切りひっぱたかれました。しりは痛いし、逃げようにも手を離せば落ちるし、でどうにもならない。往生しました。
暮れになると、下北、三陸、小名浜などから地引き網や巻き網船が、次々に網を積んで回港してくる。網を網倉(八戸では網戸という)へ納めて、一杯飲んで帰る。
山海の珍味というよりは、海海の珍味で、もてなし、帰りは馬車で送るんです。サバずしとかマグロの刺し身、エビ天、ホッキ貝の照り焼き、サメなますなんかが、よく出ました。
こういう料理は、その度ごとに母が、親類縁者の女性たちを指揮してつくり、後片付けも膳や椀を洗って倉にしまうまで、いろいろしゃべりながら三日ぐらいかかってやる。娯楽の少ない当時でしたから、こんなふうに集まるのが、一種のレクリエーションみたいなものだったんだと思います。
私はじっとしているより動き回ってる方が楽しい性格で、随分と浜の仕事をやりました。小さいころから浜風が身にしみているんです。
浜辺は子供の楽園
小学校は湊小学校。今のJR陸奥湊駅の向かい、魚菜市場のところにあり、段々になった敷地に校舎が階段状に立っていました。三本のポプラが植えてあった校庭は大変狭く、思いっ切り走ることができず、運動会のリレーの練習を上ノ山地区の市道を使ってやった記憶があります。
市長になって学校を整備する際に、運動場は最低でも直線で百㍍のコースが取れるようにと考えて実行したのは、子供の時の狭い校庭が頭にあったからでした。
現在の築港街や港湾施設はまったく無い時代で、扇浦といわれる美しい砂浜がずうっと広がっていました。今の湊トンネルから港へ抜ける出口の上は、こんもりした森で、そこにたくさんの野鳥が飛んで来たものです。新井田川の河口にかけては砂丘が広がり、ハマナスがいっぱいありました。
浜須賀からは白銀にあった製材工場が見えて、沖合三百㍍ぐらいの所に「双デ石」という岩があり、そこまで泳いで行けるようになると一人前に扱われました。
朝、起きると母が、一斗炊きの釜の底にできた「お焦げ」に黒砂糖をまぶして、鉄製のへらでパリパリッとはがして竹製のざるに取ってくれる。それを懐に入れて、砂浜へ飛び出すのが日課。
近所の子供たちを集めて黒砂糖まぶしの「お焦げ」を配給するんです。うまいんですよ。香ばしくて。大阪名物の「石おこし」みたいでした。
四季折々に遊び工夫
遊びは広大な砂浜ですから、陣取りという戦争ごっこや「こま回し」というアイスホッケーの元祖みたいなこともやったんです。直径十㌢ぐらいの丸太を輪切りにして、これを相手に向かって投げる。上手に受け止めればいいが、相手が落としたりすると、その地点まで味方が進める。丸太の輪切りですから、受け損ねて顔なんかに当たると実に痛たくて。
春先はこうがい打ち。細木を土に打ちつけてね。ひと抱えも勝って意気揚々と家へ持って帰ったら、母が「そんな汚いもの家では燃やせない。捨ててきなさい」とこっぴどくしかられて。
夏は、もちろん水泳。前浜は川が流れ込んでいるので、海藻類が実によく繁茂していました。ソイやアブラメがよく釣れるし、カキなんかも採れたんです。砂地を足で掘ればホッキガイもある。
港湾の施設がなかったから、大きな三〇〇トンクラスの船は沖合に停泊する。「おい、きょうは蒸気船まで行くぞ」と誘い合って沖合の船へ泳ぐ。船員は「おっ、よく来た、よく来た」と必ず、お菓子をくれる。それを食べながら泳いで戻るなんてこともやりました。
冬は、そり遊び。館鼻の上から道路をぐるうっと回りゲンゴ坂を滑り、浜まで約四、五百㍍も滑る。私なんかはカネげた(スケート)で館鼻の急斜面を直滑降したりもしました。
食べ物は生ものが苦手
私は食べ物では生ものが苦手。セグロイワシの背焼き(背の部分を少し焼いて食べる)なんか食事に出ると、なかなか口に入らない。焼きながら食べるんですから、生焼けのうちにみんなパクパク。ちゃんと焼けるのを待ってるとなくなってしまう。みんなの食事が終わってから、ようやく一人でじっくり焼いたりなんかしました。
奸物だったのは酸味の強いマルメロと青梅。マルメロは丸かじりする。渋みがなんとも言えず口に合うんです。青梅の方も、周辺の梅の木の所在は、しっかり覚えていました。トゲトゲがあって手や足が痛いんですが、それでも木に登って随分食べました。
浜辺で煮干しに交じっている小エビやカニ、カレイ、サバ、イカなんかも、毎日のように食べました。薄い塩味がついていて実にうまい。遊びや煮ぼし干しの手伝いをしながら、つまむ。おかげてカルシウムは何年分も摂取できたようで歯は今でも丈夫そのもの。
あのころの浜辺は私どもの楽園であり、古戦場でもありました。
小学校時代、山崎岩男さんの兄さんから教わる
小学校の先生には、山崎岩男さんのお兄さんが居て、四年生の時に教わりました。岩男さんは後に県知事になり、息子の竜男さんが今も参院議員ですが、当時、岩男さんは八戸中学生。
時々八中の学生帽をかぶって小学校に来て、お兄さんの代わりに教壇に立って算術を私どもに教えるんです。勝手に先生をやってもだれも文句を言わないし、大らかな時代でした。
県の視学官などを務め、素晴らしい教育者になられた寺井五郎さんも八中を卒業したばかりで代用教員として赴任して来ましたが、若々しくて「坊やみたい」と悪童たちに評されました。
厳しかった秀之助叔父
父が居なかった私を家で鍛えてくれたのは、父のすぐ下の弟だった秀之肋叔父。小学校一年になると、こぶしぐらいの大きさの綿糸の玉と網針を手渡して網の修理。船頭とか乗り組み員の子供たちも、それぞれ年齢に応じた大きさの綿糸の玉をもらって、浜にズラリと並んで網の修理を手伝いました。おかげて、網の修理は、すごくうまくなった。
網干しなんかも手伝いました。一家総出で浜に網を広げ、夕方には取り込む。重くて大変な重労働でした。網を渋で染めるのも、ふんどし一丁でやりましたよ。渋が付着するので裸でやるんですが、網目が素肌に食い込んで痛くて痛くて。
戦後、化学繊維の網を日本で最初に導入したのは本県の巻き網組合で、私が組合長をした時ですが、網干しや網染めの重労働の体験が生きたというわけです。
小学校五年生になると、秀之肋叔父はいつも私に手紙を書かせる。口述筆記で、叔父の言う通りに書く。出来上がると「読め」。黙って読むのを聞いて、直して清書させる。
あちこちへの連絡なんかも、ずい分とやりました。兄は惣領ですから、そうした細かいことは一切やらない。「皐二郎、三川目へ行って、若い衆五、六人頼んでこい」。「初めてでわからない」といえば、「いや、だれそれの家へ行って言えば、ちゃんとやってくれるから」。そこで自転車で行くと「ヨシ、わかった。アンチャ、キメジャケッコ買ってケジャ」。決め酒というのは、それで覚えたんですが、次の日の朝には若い衆が身支度を整えて出てくるわけです。
市川とかの海岸沿いは船員、三戸郡の方には加工関係の作業員というふうに、いくつかの拠点がちゃんとあったんです。三戸にも何度も行きました。
当時の網元と使われている人との関係は、今の雇用関係よりも、もっと密接で長い長い付き合いだったんです。漁の無い時は網元が、こうした人たちの生活を保障する。漁があれば借金を返す形になりますが、回収しないのもずい分あった。そこが網元の使命であり、権威でもあったんでしょう。
私の家では八戸のほか北海道の釧路、岩手県の山田湾、小名浜に番屋があったんです。山田浦は鈴木善幸さんの出た所で関係は深いんです。
煮干しやシメ粕を作る時に燃料として使うのは松の木、これは三戸郡の山から冬、雪が降ってから切り出す。そんなのにもついて行きました。
秀之肋叔父は非常にきちょうめんな人でしたが、神田重雄さん(のち二代目八戸市長)に私淑して、日露戦争前には渤海湾へ手こぎ船を連ねて出漁しています。神田さんも一緒で、日露戦争で日本兵がたくさん来るから食糧を確保しようという長谷川藤次郎さんの構想だったそうです。
「残念ながら漁がなかったものなあ」と叔父は言ってましたが、気宇壮大な長谷川さん、神田さんと相通じるものがあったようです。叔父は神田さんの要請で市議も三期つとめたんですが、湊地区の道路建設に反対した船具商を営む市議を議場内でポカリとやった武勇伝も残っています。「浜の世話になりながら何事か」と怒ったようです。
日本水産業界の先覚者長谷川藤次郎翁は安政二年四月六日三重県に 生れ、昭和八年二月十七日八戸市湊町において七十九才で逝 去。 明治十九年較港において肥料商を営み鰮地曳網の改良を痛感し、漁法を改善。明治二十二年巾着網を麻製の揚繰網とし、更に研究を重ね綿糸の改良揚繰網を考案。 又搾粕圧搾器を改良。三十六年湊漁業組合 初代組合長。明治三十七年七月勅定の緑綬褒賞。ここに翁の遺徳をしのび銅像を建立し水産日本の発展及旋網漁業の 隆栄を期しつつ永く其の偉業を後世に伝う。
歴代組合長
秋山秀之助 久保卯三郎 吉田契造 中村正路 熊谷義雄 秋山皐二郎
東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 1
東北線は新幹線となり、いよいよ青森に迫る。五年前八戸に新幹線が延伸された。県都青森に伸びれば八戸は通過駅になる。
通過駅になる前に、通過駅にしない工夫が大事。かなり難しい問題だが、不可能ではない。その辺をさぐるために過去の事跡から東北線を検証しよう。
東北線の開通はどうなっていたのか、国鉄が発刊した東北線のはなしから掲載。
明治十四年十二月六日、日本鉄道は東京芝紅葉館(華族の集会所)で臨時株主総会を開き、理事委員を選挙した。この日選ばれた最初の理事委員(重役)は十八名である。
吉井友実、林賢徳(旧金沢藩士。1875年士族授産を目的に東京麻布に農学舎をおこす。官設鉄道以外の会社方式による鉄道建設を林賢徳によって結成された東山社が直訴し賛同を得て、岩倉具視らが発起人となり 明治維新前の旧公家や大名を中心に日本鉄道が設立され、東北線・高崎線の建設を進めた)、大田黒惟信、大久保利和(おおくぼとしなか・貴族院議員。大久保利通の長男。明治四年のいわゆる岩倉使節団に同行、帰国後は開成学校に入学。明治十四年の日本鉄道株式会社発足に関与、その後は大蔵省主計官、貴族院議員などを務めた)池田章成(岡山藩主)、白杉敬愛、柏村信(明治十六年大倉喜八郎らと日本初の電燈会社設立)北川亥之作、伊達宗城(伊予宇和島十万石藩主)、鬼塚通理、二橋元長、長谷川敬助(初代入間・高麗郡長)、村井定吉、大矢精助(明治十八年、盛岡の士族、実業家が北上(ほくじょう)回漕株式会社を創立。初代社長、前日本鉄道株式会社理事委員の大矢精助が就任)、浦山太吉(八戸近代港湾開発の父と呼ばれる。また、東北本線開通の際、八戸を通過するように主張した一人)矢板武(辞退により横山万五郎)ほかとなっており、この中に盛岡市の豪商大矢精肋が選ばれている。このうち林、大田黒の2名は検査委員となった。理事委員の互選で元老院議官工部大輔吉井友実(鹿児島出身後に伯爵、歌人吉井勇の父)が選ばれ、吉井友実は直ちに現職を辞任する手続をとった。十五年一月正式に免官となり、二月四日社長に就任した。
会社の事務所は第十五国立銀行内に間借りしていたが、十四年十二月十五日に京橋区木挽町5丁目5番地の新社屋に引っ越した。社員たちは鉄道建設の具体的な事務について鉄道局と打ち合わせたり、株金募集で各県と連絡したりにわかに急がしくなった。
日本鉄道会社は、利子補給、免税、あるいは建設工事を政府が代行するなど手厚い保護政策の中で発足した、しかし、伝統的な鉄道官営の政策を特っている政府にとって、やむを得ない例外のことであったから、特許条約書にも五十年後には政府が会社を買収することができるという条件をつけ一応官営の原則を保持している。
また、日本鉄道会社はその成立経過からも知られるように、政府の華士族授産という大きな目的に沿ったものであり、更には北海道への連絡や東北開発の意図も兼ねているという特殊性に注目しなければならない。これらは外国などの鉄道企業とは全くことなるものである。
東北本線がようやく仙台附近に及ぼうとするころ、国内の景気も回復し、鉄道事業は紡績業とともに資本主義産業の先端を行くようになる。鉄道ブームがわきおこり明治二十五年までの間に実に五十の鉄道会社が出願され、政府当局がなんども警告を発するという状態となる。従って、政府部内には再び鉄道官営主義が強くなり、次第に私設鉄道保護の手がきびしくなってくるのは当然であった。明治二十三年の経済恐慌を経て鉄道官営の世論が一部に強くなり、翌二十四年には井上鉄道庁長官が、経済上軍事上の見地から日本の鉄道網整備計画を論じた、「鉄道政略ニ関スル議」を建言している。ちょうど、上野・青森間が完成した年である。日本鉄道会社はこのような事情を背景にして更に発展を続けていった。
東北本線建設反対の動き
日本鉄道会社が設立され、工事もやがて行なわれるとなると、東北地方の沿線各地はもちろん東京地方にもさまざまな波紋がおきたのは当然であろう。文明開化に浴すると説く者、鉄道ができては困るという者、鉄道をたねにひともうけしょうと企む者といろいろであったろう。
農民のほとんどは反対したといってもよいだろう。その理由も「汽車の煙で稲が枯れる」「火の粉で火事になる」「灰で桑が枯れる」「震動で稲の花粉が落ちたり、地割れして水がなくなる」といった風説である。他国者や泥棒が汽車に乗ってくるといった閉鎖的な考え方や、旧宿場や水運業者などが商売ができなくなるといった利害関係から反対を唱える者もあった。しかしその多くは鉄道が便利であることは認めながら、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。
東北本線の建設工事
東北本線のルート
ひとくちに東京・青森間の鉄道といっても、どこを通すかということは、日本鉄道会社が発足する頃には大体決っていたようである。それが現在の東北本線と同じ経路であったかどうか疑問があるが、あまりはっきりしない。ただ、ここでいえるのは、すでに政府の手によって二回以上にわたって路線調査が行なわれていたから、これによったことは確かであろう。
明治五年十一月工部省准十等出仕小野友五郎が東京・青森間を測量したときは東京の内藤新宿から板橋・川口を通り、埼玉県の岩槻(大宮の東方)を経て奥州街道沿いに北上し、青森に達している。ただ三戸・野辺地間は、国道沿い(五戸・三本木経由)と現在線筋(八戸・沼崎経由)の両方を測量しているのが注目される。
明治9年9月建築技長アール・ビッカース・ボイルが中仙道線の測量をしたとき、東京の町の中を通るのは困難であるとし、上野附近から王子・大宮を経て調査をし、宇都宮に向かう鉄道は大宮から分岐するのが最も良いと報告している。もうひとつ、幌内鉄道建設を指導した開拓使傭ジョゼフ・クロフオードが、明治十三年十二月松本荘一郎とともに東京・青森間を測量した。青森から踏査したのであるが線路は野辺地を終点とし、青森にはあとから延ばすべきだとしている。理由は小湊附近が難工事であることと、野辺地・青森間は同じ湾内にあり、海運の便があるということに基くものである。野辺地・三戸間と一ノ関・仙台間は現在の路線を通っている。また仙台・福島間は阿武隈川沿いでありともに国道から外れている点が注目される。また、栗橋から岩槻を経て千住から小名木川に出ており、東京の起点を小名木川としている点も興味がある。
東北本線のルートは結果から言えば、関東地方はボイル案、東北地方はクロフオード案に近いといえる。東北本線のルートを決定するに当っての基準というものは要約すれば次の三点があげられるだろう。
一、東京と野蒜(後に塩釜に変更)、八戸の各港を結び更に青森港に連する。
二、街道沿いの人目の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ。
三、急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける。
通過駅になる前に、通過駅にしない工夫が大事。かなり難しい問題だが、不可能ではない。その辺をさぐるために過去の事跡から東北線を検証しよう。
東北線の開通はどうなっていたのか、国鉄が発刊した東北線のはなしから掲載。
明治十四年十二月六日、日本鉄道は東京芝紅葉館(華族の集会所)で臨時株主総会を開き、理事委員を選挙した。この日選ばれた最初の理事委員(重役)は十八名である。
吉井友実、林賢徳(旧金沢藩士。1875年士族授産を目的に東京麻布に農学舎をおこす。官設鉄道以外の会社方式による鉄道建設を林賢徳によって結成された東山社が直訴し賛同を得て、岩倉具視らが発起人となり 明治維新前の旧公家や大名を中心に日本鉄道が設立され、東北線・高崎線の建設を進めた)、大田黒惟信、大久保利和(おおくぼとしなか・貴族院議員。大久保利通の長男。明治四年のいわゆる岩倉使節団に同行、帰国後は開成学校に入学。明治十四年の日本鉄道株式会社発足に関与、その後は大蔵省主計官、貴族院議員などを務めた)池田章成(岡山藩主)、白杉敬愛、柏村信(明治十六年大倉喜八郎らと日本初の電燈会社設立)北川亥之作、伊達宗城(伊予宇和島十万石藩主)、鬼塚通理、二橋元長、長谷川敬助(初代入間・高麗郡長)、村井定吉、大矢精助(明治十八年、盛岡の士族、実業家が北上(ほくじょう)回漕株式会社を創立。初代社長、前日本鉄道株式会社理事委員の大矢精助が就任)、浦山太吉(八戸近代港湾開発の父と呼ばれる。また、東北本線開通の際、八戸を通過するように主張した一人)矢板武(辞退により横山万五郎)ほかとなっており、この中に盛岡市の豪商大矢精肋が選ばれている。このうち林、大田黒の2名は検査委員となった。理事委員の互選で元老院議官工部大輔吉井友実(鹿児島出身後に伯爵、歌人吉井勇の父)が選ばれ、吉井友実は直ちに現職を辞任する手続をとった。十五年一月正式に免官となり、二月四日社長に就任した。
会社の事務所は第十五国立銀行内に間借りしていたが、十四年十二月十五日に京橋区木挽町5丁目5番地の新社屋に引っ越した。社員たちは鉄道建設の具体的な事務について鉄道局と打ち合わせたり、株金募集で各県と連絡したりにわかに急がしくなった。
日本鉄道会社は、利子補給、免税、あるいは建設工事を政府が代行するなど手厚い保護政策の中で発足した、しかし、伝統的な鉄道官営の政策を特っている政府にとって、やむを得ない例外のことであったから、特許条約書にも五十年後には政府が会社を買収することができるという条件をつけ一応官営の原則を保持している。
また、日本鉄道会社はその成立経過からも知られるように、政府の華士族授産という大きな目的に沿ったものであり、更には北海道への連絡や東北開発の意図も兼ねているという特殊性に注目しなければならない。これらは外国などの鉄道企業とは全くことなるものである。
東北本線がようやく仙台附近に及ぼうとするころ、国内の景気も回復し、鉄道事業は紡績業とともに資本主義産業の先端を行くようになる。鉄道ブームがわきおこり明治二十五年までの間に実に五十の鉄道会社が出願され、政府当局がなんども警告を発するという状態となる。従って、政府部内には再び鉄道官営主義が強くなり、次第に私設鉄道保護の手がきびしくなってくるのは当然であった。明治二十三年の経済恐慌を経て鉄道官営の世論が一部に強くなり、翌二十四年には井上鉄道庁長官が、経済上軍事上の見地から日本の鉄道網整備計画を論じた、「鉄道政略ニ関スル議」を建言している。ちょうど、上野・青森間が完成した年である。日本鉄道会社はこのような事情を背景にして更に発展を続けていった。
東北本線建設反対の動き
日本鉄道会社が設立され、工事もやがて行なわれるとなると、東北地方の沿線各地はもちろん東京地方にもさまざまな波紋がおきたのは当然であろう。文明開化に浴すると説く者、鉄道ができては困るという者、鉄道をたねにひともうけしょうと企む者といろいろであったろう。
農民のほとんどは反対したといってもよいだろう。その理由も「汽車の煙で稲が枯れる」「火の粉で火事になる」「灰で桑が枯れる」「震動で稲の花粉が落ちたり、地割れして水がなくなる」といった風説である。他国者や泥棒が汽車に乗ってくるといった閉鎖的な考え方や、旧宿場や水運業者などが商売ができなくなるといった利害関係から反対を唱える者もあった。しかしその多くは鉄道が便利であることは認めながら、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。
東北本線の建設工事
東北本線のルート
ひとくちに東京・青森間の鉄道といっても、どこを通すかということは、日本鉄道会社が発足する頃には大体決っていたようである。それが現在の東北本線と同じ経路であったかどうか疑問があるが、あまりはっきりしない。ただ、ここでいえるのは、すでに政府の手によって二回以上にわたって路線調査が行なわれていたから、これによったことは確かであろう。
明治五年十一月工部省准十等出仕小野友五郎が東京・青森間を測量したときは東京の内藤新宿から板橋・川口を通り、埼玉県の岩槻(大宮の東方)を経て奥州街道沿いに北上し、青森に達している。ただ三戸・野辺地間は、国道沿い(五戸・三本木経由)と現在線筋(八戸・沼崎経由)の両方を測量しているのが注目される。
明治9年9月建築技長アール・ビッカース・ボイルが中仙道線の測量をしたとき、東京の町の中を通るのは困難であるとし、上野附近から王子・大宮を経て調査をし、宇都宮に向かう鉄道は大宮から分岐するのが最も良いと報告している。もうひとつ、幌内鉄道建設を指導した開拓使傭ジョゼフ・クロフオードが、明治十三年十二月松本荘一郎とともに東京・青森間を測量した。青森から踏査したのであるが線路は野辺地を終点とし、青森にはあとから延ばすべきだとしている。理由は小湊附近が難工事であることと、野辺地・青森間は同じ湾内にあり、海運の便があるということに基くものである。野辺地・三戸間と一ノ関・仙台間は現在の路線を通っている。また仙台・福島間は阿武隈川沿いでありともに国道から外れている点が注目される。また、栗橋から岩槻を経て千住から小名木川に出ており、東京の起点を小名木川としている点も興味がある。
東北本線のルートは結果から言えば、関東地方はボイル案、東北地方はクロフオード案に近いといえる。東北本線のルートを決定するに当っての基準というものは要約すれば次の三点があげられるだろう。
一、東京と野蒜(後に塩釜に変更)、八戸の各港を結び更に青森港に連する。
二、街道沿いの人目の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ。
三、急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける。
デーリー東北新聞の創始者穂積義孝「夜討ち朝がけ」から1
穂積 義孝ほづみよしたか
明治四十(1907)~昭和五十三(1978)
デーリー東北新聞の創業者。上郷村(田子町)生まれ。早大卒後、読売新聞社に入社。昭和十四年中国上海に渡り大陸新報で健筆を振う。 十七年に帰郷、穂積建設、南部貨物、青森航空機の役員を務める。戦後二十年「民主国家の再建は言論の自由から」と同志を募りデーリー東北を創立、会長に就く。公職追放後、穂積建設、三八五貨物の役員を経て、三十年デーリー東北に復帰、副社長を歴任。(青森県人名事典・東奥日報刊)
新聞発刊への苦労
あの友、この友の多幸祈る
私は八戸市でデーリー東北新聞社を始めたのは昭和二十年の秋のことである。当時すでに佐々木正太郎さんは外人の軍隊専用のオリエンタル・ダンスホールを「三萬」の二階で始めていた。私は東京からラジオプレスの常務をしていた広塚君を連れて来て、外字新聞をまず発行するということで当時の占領軍司令官ベル代将に交渉した。広塚君は世界中のラジオを聞いて、これを日本政府に情報を出していたので、ベル代将との交渉は簡単についた。ベルさんは用紙の割り当てをすぐ申請してくれた。当時新聞が統制されて、八戸の新聞全部が東奥日報に強制的に合併されていたので、地元発行の新聞はなかった。
そこで半分を英字に、半分を日本字にし、市民にも見せたいと思ってベルさんに交渉したら 「英字新聞は必要ないから全部日本語でよい」ということになった。そこで月刊評論の成田社長に交渉し、とりあえず中央印刷を使うことになり準備を進めた。間もなく用紙割り当てが来た。さっそく同志を集めた。成田武夫君が私に「君は選挙をやるんだろう。少しでもプラスになるような陣容をつくらなくてはならないぞ。君は保守党でも革新党でもないのだから、むずかしいんだ」と言いながら成田君の自宅で、中沢村から取り寄せたそば粉で手打ちそばを作り、それを食べながら論じ合った。
最初の陣容は発起人に成田武夫、峯正太郎、木村錠之助、大津毅、田口豊州、広田豊柳、神田宏の諸氏で、株主にはこのほか平野善次郎、笹本嘉一、金野豊作、工藤忠三、佐々木正太郎、木村正逸氏らがいた。そして第一回の役員は取締役に私、神田宏、笹本嘉一、峯正太郎、木村錠之助氏、また監査役には成田武夫、大津毅の両氏が就任した。私は選挙をやるので会長となり、成田君の妹ムコである神田君に社長になってもらうことにした。その年の十二月九日に創立総会を開いた。株式は十万円であった。そのうち近藤喜一さんのお父さんの喜衛さんから私に電話があって、山の下のお宅に出かけて行くと「義孝さん、あんた、新聞を出すそうだけれど、社屋がなければ困るでしょう」と言うので「困っています」と伝えたところ 「奥南新報社の跡があるから、あんだに売る。それを使いなさい」「おじいさん、いくらですか」 「そうさなァ、八千五百円ぐらいならどうだけ」 「ようがす。お願いします」 ということになり、私はさっそく八千五百円を準備して持って行った。そしてデーリー東北の「城」が出来たのである。
近藤喜衛さんはさっそく奥南をやっていた三浦広蔵さんを呼んでその金を全部、三浦さんに渡し「この金を奥南新報にいた人達に分けてやってくれ」と言われた。おじいさんは立派な人であったと今も感心している。
それからは新聞記者をやったり、社長職をやったり、デーリーの工場に寝泊りするなどの忙しい日が続いた。正月を過ぎたある日、東京の橋本登美三郎(茨城県出身の政治家。朝日新聞記者から終戦の年に退社、戦後は自民党幹事長、建設、運輸大臣)氏から「東京に出てこい」との連絡があった。それは終戦後の総選拳を控えて日本民党(たみのとう)の旗上げであった。
彼は朝日新聞をやめて終戦後の混乱した日本の政治を立て直そうと言うのである。自由主義でも資本主義でもない。マルクス・レーニン主義の社会主義でもない、第三の哲学である共同社会民主主義をスローガンに、日本民党を結成するというのであった。私は上京して首相官邸の記者クラブに行き、読売の政治部にいた川口孝志君(元デーリー東北編集局長)を連れて築地の料理屋で開かれた結党大会に出かけた。主なる顔ぶれは小説家の石川達三、戸叶武、里子夫婦、その他文化人など四十人ぐらいであった。その時に決められたことは「各自が郷里に帰って、各県ごとに県民党を組織せよ」とのことであった。
私も八戸に帰って、旗上げの準備を始めた。三浦一雄さんと連絡をとらなくてはならない。彼は最初に出る時に「次は君を推すから」との約束があったからである。幸いに三浦さんは奥さんの実家である八戸の江渡旅館に帰っていた。私はさっそく訪ねて三階の狭い部屋で彼と会い、率直に話を切り出した。「今度いよいよ衆議院議員の選挙をやる気だから頼む」と言ったら三浦さんは 「いや穂積君、私は平和憲法の草稿をやって来たんだよ。だからあれを完成させたい。ぜひ今度は私を頼む」「あなたは書記官長をやったから戦犯だよ。どうせ追放になると思いますがね」「君だって飛行機会社をやったんだから追放だよ」と二人の話がなかなか進展しない。結局二人とも申請したら、しばらくして二人とも追放(公職追放・公共性のある職務に特定の人物が従事するのを禁止すること。日本では、戦後の民主化政策の一として、1946年1月GHQの覚書に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを約20万人追放。52年4月対日講和条約発効とともに廃止、消滅。パージ)になった。なぜ追放になったか、私は読売の政治部に調べさせたところ、翼賛壮年団の県団総務をやっていたことが理由でだめになったとのことであった。そこで、あきらめて新聞に専念することになり、さらに十万円を増資して役員をあらたにした。神田君にやめてもらい、私が社長で新聞づくりに専念した。編集局長には下斗米謹一君(現在、編集局顧問)を依頼して彼にいっさいをまかせた。
総選挙の結果はみじめであった。日本民党は全滅した。ただ一人、戸叶里子(栃木全県区(当時)から立候補し、最高点で当選。日本初の女性代議士の一人となる。以後連続11回当選)さんが当選したのがせめてもの慰めであった。
総裁の橋本登美三郎氏(現在自民党幹事長)は郷里に帰って潮来の町長になり、再起を図った。そして二度目から当選を続けている。橋本さんをはじめある者は自民党に、ある者は社会党に分かれて日本民党はなくなった。しかしその精神は今こそ必要な時ではなかろうか。彼、橋本幹事長は最近の世相に対し「自由主義でなければ社会主義だという考え方は遅れた教育のためである。人類の理想はやはり自由社会にある」と固く信じている人である。あの時、私は評論家の宮崎君(元読売論説委員)に「橋本登美三郎さんがなぜ昔からの女房と離婚して、若いアナウンサーをもらったのか」と言ったら「いや穂積さん、それは違うよ。彼は女房に捨てられたんだよ。彼が二度目に選挙に出る時奥さんがね、あんたが政治をどうしてもやるなら私は出て行きます、と言って登美さんに三下り半をたたきつけたのは奥さんの方なんだよ」との話であった。
橋本さんは日本的な政治家となったが、昔の奥さんはこれをどう評価しているであろうか。
おわりに、私はこの稿を起こすに当たって、四十年を振り返り、心のふるさとをさらけ出した訳であるが、数多くの友人や先輩のご多幸を祈り、ひとまずペンを置くことにする。
明治四十(1907)~昭和五十三(1978)
デーリー東北新聞の創業者。上郷村(田子町)生まれ。早大卒後、読売新聞社に入社。昭和十四年中国上海に渡り大陸新報で健筆を振う。 十七年に帰郷、穂積建設、南部貨物、青森航空機の役員を務める。戦後二十年「民主国家の再建は言論の自由から」と同志を募りデーリー東北を創立、会長に就く。公職追放後、穂積建設、三八五貨物の役員を経て、三十年デーリー東北に復帰、副社長を歴任。(青森県人名事典・東奥日報刊)
新聞発刊への苦労
あの友、この友の多幸祈る
私は八戸市でデーリー東北新聞社を始めたのは昭和二十年の秋のことである。当時すでに佐々木正太郎さんは外人の軍隊専用のオリエンタル・ダンスホールを「三萬」の二階で始めていた。私は東京からラジオプレスの常務をしていた広塚君を連れて来て、外字新聞をまず発行するということで当時の占領軍司令官ベル代将に交渉した。広塚君は世界中のラジオを聞いて、これを日本政府に情報を出していたので、ベル代将との交渉は簡単についた。ベルさんは用紙の割り当てをすぐ申請してくれた。当時新聞が統制されて、八戸の新聞全部が東奥日報に強制的に合併されていたので、地元発行の新聞はなかった。
そこで半分を英字に、半分を日本字にし、市民にも見せたいと思ってベルさんに交渉したら 「英字新聞は必要ないから全部日本語でよい」ということになった。そこで月刊評論の成田社長に交渉し、とりあえず中央印刷を使うことになり準備を進めた。間もなく用紙割り当てが来た。さっそく同志を集めた。成田武夫君が私に「君は選挙をやるんだろう。少しでもプラスになるような陣容をつくらなくてはならないぞ。君は保守党でも革新党でもないのだから、むずかしいんだ」と言いながら成田君の自宅で、中沢村から取り寄せたそば粉で手打ちそばを作り、それを食べながら論じ合った。
最初の陣容は発起人に成田武夫、峯正太郎、木村錠之助、大津毅、田口豊州、広田豊柳、神田宏の諸氏で、株主にはこのほか平野善次郎、笹本嘉一、金野豊作、工藤忠三、佐々木正太郎、木村正逸氏らがいた。そして第一回の役員は取締役に私、神田宏、笹本嘉一、峯正太郎、木村錠之助氏、また監査役には成田武夫、大津毅の両氏が就任した。私は選挙をやるので会長となり、成田君の妹ムコである神田君に社長になってもらうことにした。その年の十二月九日に創立総会を開いた。株式は十万円であった。そのうち近藤喜一さんのお父さんの喜衛さんから私に電話があって、山の下のお宅に出かけて行くと「義孝さん、あんた、新聞を出すそうだけれど、社屋がなければ困るでしょう」と言うので「困っています」と伝えたところ 「奥南新報社の跡があるから、あんだに売る。それを使いなさい」「おじいさん、いくらですか」 「そうさなァ、八千五百円ぐらいならどうだけ」 「ようがす。お願いします」 ということになり、私はさっそく八千五百円を準備して持って行った。そしてデーリー東北の「城」が出来たのである。
近藤喜衛さんはさっそく奥南をやっていた三浦広蔵さんを呼んでその金を全部、三浦さんに渡し「この金を奥南新報にいた人達に分けてやってくれ」と言われた。おじいさんは立派な人であったと今も感心している。
それからは新聞記者をやったり、社長職をやったり、デーリーの工場に寝泊りするなどの忙しい日が続いた。正月を過ぎたある日、東京の橋本登美三郎(茨城県出身の政治家。朝日新聞記者から終戦の年に退社、戦後は自民党幹事長、建設、運輸大臣)氏から「東京に出てこい」との連絡があった。それは終戦後の総選拳を控えて日本民党(たみのとう)の旗上げであった。
彼は朝日新聞をやめて終戦後の混乱した日本の政治を立て直そうと言うのである。自由主義でも資本主義でもない。マルクス・レーニン主義の社会主義でもない、第三の哲学である共同社会民主主義をスローガンに、日本民党を結成するというのであった。私は上京して首相官邸の記者クラブに行き、読売の政治部にいた川口孝志君(元デーリー東北編集局長)を連れて築地の料理屋で開かれた結党大会に出かけた。主なる顔ぶれは小説家の石川達三、戸叶武、里子夫婦、その他文化人など四十人ぐらいであった。その時に決められたことは「各自が郷里に帰って、各県ごとに県民党を組織せよ」とのことであった。
私も八戸に帰って、旗上げの準備を始めた。三浦一雄さんと連絡をとらなくてはならない。彼は最初に出る時に「次は君を推すから」との約束があったからである。幸いに三浦さんは奥さんの実家である八戸の江渡旅館に帰っていた。私はさっそく訪ねて三階の狭い部屋で彼と会い、率直に話を切り出した。「今度いよいよ衆議院議員の選挙をやる気だから頼む」と言ったら三浦さんは 「いや穂積君、私は平和憲法の草稿をやって来たんだよ。だからあれを完成させたい。ぜひ今度は私を頼む」「あなたは書記官長をやったから戦犯だよ。どうせ追放になると思いますがね」「君だって飛行機会社をやったんだから追放だよ」と二人の話がなかなか進展しない。結局二人とも申請したら、しばらくして二人とも追放(公職追放・公共性のある職務に特定の人物が従事するのを禁止すること。日本では、戦後の民主化政策の一として、1946年1月GHQの覚書に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを約20万人追放。52年4月対日講和条約発効とともに廃止、消滅。パージ)になった。なぜ追放になったか、私は読売の政治部に調べさせたところ、翼賛壮年団の県団総務をやっていたことが理由でだめになったとのことであった。そこで、あきらめて新聞に専念することになり、さらに十万円を増資して役員をあらたにした。神田君にやめてもらい、私が社長で新聞づくりに専念した。編集局長には下斗米謹一君(現在、編集局顧問)を依頼して彼にいっさいをまかせた。
総選挙の結果はみじめであった。日本民党は全滅した。ただ一人、戸叶里子(栃木全県区(当時)から立候補し、最高点で当選。日本初の女性代議士の一人となる。以後連続11回当選)さんが当選したのがせめてもの慰めであった。
総裁の橋本登美三郎氏(現在自民党幹事長)は郷里に帰って潮来の町長になり、再起を図った。そして二度目から当選を続けている。橋本さんをはじめある者は自民党に、ある者は社会党に分かれて日本民党はなくなった。しかしその精神は今こそ必要な時ではなかろうか。彼、橋本幹事長は最近の世相に対し「自由主義でなければ社会主義だという考え方は遅れた教育のためである。人類の理想はやはり自由社会にある」と固く信じている人である。あの時、私は評論家の宮崎君(元読売論説委員)に「橋本登美三郎さんがなぜ昔からの女房と離婚して、若いアナウンサーをもらったのか」と言ったら「いや穂積さん、それは違うよ。彼は女房に捨てられたんだよ。彼が二度目に選挙に出る時奥さんがね、あんたが政治をどうしてもやるなら私は出て行きます、と言って登美さんに三下り半をたたきつけたのは奥さんの方なんだよ」との話であった。
橋本さんは日本的な政治家となったが、昔の奥さんはこれをどう評価しているであろうか。
おわりに、私はこの稿を起こすに当たって、四十年を振り返り、心のふるさとをさらけ出した訳であるが、数多くの友人や先輩のご多幸を祈り、ひとまずペンを置くことにする。
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 10
永平寺、総持寺両出張所を合併す
曹洞宗は江戸時代、永平寺と総持寺と二つに分かれていた。明治新政府に永平寺側は取り入り、総本山を永平寺とし、総持寺を下に組み入れようとした。
おさまらないのは総持寺側、西有穆山は総持寺側に属していた。永平寺と並立こそ当然と尽力する。明治元年永平寺の請願に端を発して以来四ケ年にわたる「永平寺総持寺、宗統理の問題」は「両本山故のごとし」の新政府の裁断で解決し、両本山は同列同格の本山であることが確認され、明治五年に至り、大蔵省の演達に基づき両本山は親睦修交の盟約を締結するに至った。
西有穆山師は、こうした両山の撹乱闘争時代より、協和盟約締結期に至る激動時代に、如何なる態度で活動していたかが興味あるものである。ここにその一齣(ひとこま)を眺めることにしよう。穆山師は、かつての参禅弁道の師匠であった現在の総持寺貫主奕堂禅師の親任を得て、総持寺監院職に就いて奕堂禅師を補佐していた。前述の如く明治政府は廃仏毀釈の政策を執って仏教を圧迫したのに加えて、永平寺は、総本山の裁許を取って曹洞宗一宗統理の方針を強行したる為に総持寺側は一つは政府に対する請願陳情等、他は永平寺側に対する交渉協議等文字通り多事多難であった。
この多忙の時に当り、永平寺は出張所を芝の青松寺に、総持寺の出張所は下谷の黒門町に設けられていた為に、毎回幾度となく、両出張所の間を徒歩で往復せねばならぬ、時間の無駄、労力の浪費まことに愚なりと感じたのであります。又反面、宗門は両山一体となり、事務局も一箇所にまとまるべきだ。と考えていたから、永平寺貫主(当時は今の貫首の文字でなく貫主の字を用いた)環渓禅師に、自分の意見を申し上げて、両山の出張所を合併して一ケ所に置くべきであることを申し上げたところ、環渓禅師は穆山師とは正法眼蔵参究等の関係から非常に親しかったこともあり、御賛成なされて合併に同意せられた。そこで、総持寺貫主奕堂禅師にも同様の意見を陳述して御許可を御願したところ、禅師は「私はよいとして、総持寺の役僚達が反対だから困る…」といって、お許しにならなかった。
それで、穆山師は、役僚一同を集めて、自分の意見と理想を述べて、役僚各位の意志を確かめたところ、
役僚一同は「私たちは賛成であります。監院様の御力で是非合併を実現して下さい」というので、穆山師「それでは、明日禅師様にもう一度合併を御願する。そして禅師様が例の如く役僚が反対であるからと仰しゃったら貴僧たちを禅師様の御前に呼び出すから、その時、御前であるからといって、臆病になってぐずぐずしてはならぬぞ」と念を押して、翌日穆山師なに食わぬ顔をして「禅師様、やはりどうしても事務多端の御一新の折柄、合併した方がよろしゅうございます」と自論を申し上げると、禅師様は相変らず「役僚達が反対だから無理せぬがよかろう」と仰っしゃるので、役僚たちを禅師様の御前に呼び寄せて、
穆山師「禅師様が合併を御希望なされるのに、何故貴僧たちが反対するのか、けしからんではないか」と、役僚一同を詰責すると、
役僚一同「そんなことはありません、私達は賛成でございます」と、異口同音に答えたので穆山師「禅師様は嘘をつきなさる」と、禅師様の顔をじっと見つめると、
禅師「勝手にせよ!」と仰しゃって、席をお起ちなされた。御二人の間柄は、前橋市龍梅院時代に、住職と副寺、師家と随身、そして、毎月の一日、十五日の小参(修行僧の問答参究)には、払子をわたして、「小参は副寺和尚に一任す」といって方丈に帰られた信じ切った間柄である。
そして、「聞くに耐へたり声外菊香の残するを、許す師が特地三寸を伸べ、虚空を喝破するもまた難からず」(奕堂禅師の穆山師を印可証明した詩)と、奕堂禅師と穆山師は師資二面裂破していて、ア、ウンの呼吸が合っている二人であるから遠慮は要らぬ、「小参は副寺和尚に任す」、「勝手にせよ」「お許しが出た、さあ移転だ、引越しだ」といって、役僚を督励して、即刻荷作りを始め、愛宕山下の青松寺に引越して合併を断行してしまった。これが動因となり、明治維新に於ける宗門一体、両山一体の行政の宗務庁の前身宗務局が、芝の愛宕山下の青松寺に開設せられるに至ったのであります。
可睡斎時代 明治十年~二十五年
(静岡県袋井市久能)
一、可睡斎と徳川家康
明治十年(一八七七)穆山師五十七歳の働き盛りとなる、西郷隆盛が郷土の士族門弟同志に推されて挙兵し男の意地を立てたが敗れて城山の露と消えた。一方、東京大学が設立され、佐野常氏等が博愛社を設立し、のちの日本赤十字社の先駆となる、この年四月、穆山師は懇請されて、静岡県可睡斎住職に就任して御前様となる。
この寺は、藩政時代には、永平寺の末寺四百九十六ケ寺、総持寺の末寺二千壱百六ケ寺、計弐千七百拾弐ケ寺を配下として統轄した僧録の寺であります。この寺は山号を万松山といい、交通の便と風光に恵まれた曹洞宗東海第一の名刹であります。
足利義満が明と国交を開いた応永八年(一四〇一)に道元禅師より七代目の法孫、恕仲禅師がお 開きになった寺で、その頃は東陽軒といっていました。十一代目の住職等膳和尚が、今川義元のもとに人質となっていた竹千代丸(後の家康)を父と共に戦乱の巷から救助して国元にかえした。その後家康は次第に出世して浜松城主となった時に、親しく等膳和尚を招待して、旧恩を謝しました。和尚は、その歓待の席上で、コクリコクリと無心に居睡りをした。家康は、二ッコリせられて、
末座「和尚我れを見ること愛児の如し、故に安心して睡る、われその親密の情を喜ぶ、和尚睡る可し」といって、それ以来「可睡和尚」と愛称せられ、後に東陽軒を改造して大伽藍となし、寺号も「可睡斎」と改めたのであります。又しばしば家康の心の散乱をなおした旧恩に報しる意味で、伊豆、駿河、遠江、三河の四ケ国の総録司という取締りの職を与え、拾万石の礼を以て待遇せられるようになり、藩政時代は拾万石以下の諸大名は可睡斎の門前を通る時には龍から降りて通ったものであり、以来歴代の住職は高僧碩徳(せきとく・徳の高い人)が相続して、東海道随一の名刹
として大しに仏法をひろめ、寺門は愈々興隆し、法灯益々輝きを増して天下の「お可睡様」といわれ、又現在でも可睡斎住職を「御前様」と敬称しています。
この可睡斎在住十五年間は、穆山師が最もよく宗教家として御活躍なされた時代であると思います。可睡斎にゆかれてから可翁と号され、御巡教の先々で殆んど可翁で御揮毫なされて居り、可翁の御揮毫が一番多く遣っています。故郷八戸地方に現存している御揮毫は五百点程ありますが、その七割が可翁時代であります。
珠数の感化
穆山師が、可睡斎住職となられた当初は、廃仏殿釈の暴政の影響もあり近隣の寺院住職並びに檀信徒の風儀が願廃して無信仰状態であった。穆山師は一策を案じ、珠教を馬車に一台程買い求めて、逢う人毎に与えて、「仏教信心をなされ、幸福を与え、身を守る珠教でござる」と街頭伝道を継続せられた結果、自然に信仰心が高まり、流石に頽廃した風儀も矯正され信仰深い袋井地方となったのであります。布教教化の熱意以て範とすべきであります。
教育の振興と道義の昂揚に尽力
穆山師は明治十年四月に本校(後の駒沢大学)教師を嘱託せられ、同十二年静岡県第二号教導取締を命ぜられています。又明治十四年一月に、風紀廃頽を憂慮して敲唱会を組織して道義心の振起を叫び、更にこの年再び選ばれて、本山大会議議員(後の宗議会議員)に公選され、議長に推されたが固辞して教育と地方教化の巡教に力をそそがれたのであります。常に教学の不振を慨嘆せられ、自ら可睡斎に万松学校を創立して人材養成に渾身の努力をされたのであります。学徳を慕って集まれる門弟二百三十名、常に正法眼蔵を提唱し、又人心の願廃を嘆き、祖道の興隆と人心の刷新を訴えたのであります。この万松学校に修学せる門弟中より、曹洞宗大学林教頭(学長)筒井方外、大本山総特寺貫首、曹洞宗大学林学長秋野孝道、伊豆修禅寺住職駒沢大学学長兵宗潭及び小塚仏宗の各老師が輩出し、宗参寺時代の門弟中より、大学林学長となった古知知常、折居光輪の二老師を含めると、穆山門下より五人の大学学長が出ていることが、人材養成、教育に熱心であった何よりの証拠であります。
曹洞宗は江戸時代、永平寺と総持寺と二つに分かれていた。明治新政府に永平寺側は取り入り、総本山を永平寺とし、総持寺を下に組み入れようとした。
おさまらないのは総持寺側、西有穆山は総持寺側に属していた。永平寺と並立こそ当然と尽力する。明治元年永平寺の請願に端を発して以来四ケ年にわたる「永平寺総持寺、宗統理の問題」は「両本山故のごとし」の新政府の裁断で解決し、両本山は同列同格の本山であることが確認され、明治五年に至り、大蔵省の演達に基づき両本山は親睦修交の盟約を締結するに至った。
西有穆山師は、こうした両山の撹乱闘争時代より、協和盟約締結期に至る激動時代に、如何なる態度で活動していたかが興味あるものである。ここにその一齣(ひとこま)を眺めることにしよう。穆山師は、かつての参禅弁道の師匠であった現在の総持寺貫主奕堂禅師の親任を得て、総持寺監院職に就いて奕堂禅師を補佐していた。前述の如く明治政府は廃仏毀釈の政策を執って仏教を圧迫したのに加えて、永平寺は、総本山の裁許を取って曹洞宗一宗統理の方針を強行したる為に総持寺側は一つは政府に対する請願陳情等、他は永平寺側に対する交渉協議等文字通り多事多難であった。
この多忙の時に当り、永平寺は出張所を芝の青松寺に、総持寺の出張所は下谷の黒門町に設けられていた為に、毎回幾度となく、両出張所の間を徒歩で往復せねばならぬ、時間の無駄、労力の浪費まことに愚なりと感じたのであります。又反面、宗門は両山一体となり、事務局も一箇所にまとまるべきだ。と考えていたから、永平寺貫主(当時は今の貫首の文字でなく貫主の字を用いた)環渓禅師に、自分の意見を申し上げて、両山の出張所を合併して一ケ所に置くべきであることを申し上げたところ、環渓禅師は穆山師とは正法眼蔵参究等の関係から非常に親しかったこともあり、御賛成なされて合併に同意せられた。そこで、総持寺貫主奕堂禅師にも同様の意見を陳述して御許可を御願したところ、禅師は「私はよいとして、総持寺の役僚達が反対だから困る…」といって、お許しにならなかった。
それで、穆山師は、役僚一同を集めて、自分の意見と理想を述べて、役僚各位の意志を確かめたところ、
役僚一同は「私たちは賛成であります。監院様の御力で是非合併を実現して下さい」というので、穆山師「それでは、明日禅師様にもう一度合併を御願する。そして禅師様が例の如く役僚が反対であるからと仰しゃったら貴僧たちを禅師様の御前に呼び出すから、その時、御前であるからといって、臆病になってぐずぐずしてはならぬぞ」と念を押して、翌日穆山師なに食わぬ顔をして「禅師様、やはりどうしても事務多端の御一新の折柄、合併した方がよろしゅうございます」と自論を申し上げると、禅師様は相変らず「役僚達が反対だから無理せぬがよかろう」と仰っしゃるので、役僚たちを禅師様の御前に呼び寄せて、
穆山師「禅師様が合併を御希望なされるのに、何故貴僧たちが反対するのか、けしからんではないか」と、役僚一同を詰責すると、
役僚一同「そんなことはありません、私達は賛成でございます」と、異口同音に答えたので穆山師「禅師様は嘘をつきなさる」と、禅師様の顔をじっと見つめると、
禅師「勝手にせよ!」と仰しゃって、席をお起ちなされた。御二人の間柄は、前橋市龍梅院時代に、住職と副寺、師家と随身、そして、毎月の一日、十五日の小参(修行僧の問答参究)には、払子をわたして、「小参は副寺和尚に一任す」といって方丈に帰られた信じ切った間柄である。
そして、「聞くに耐へたり声外菊香の残するを、許す師が特地三寸を伸べ、虚空を喝破するもまた難からず」(奕堂禅師の穆山師を印可証明した詩)と、奕堂禅師と穆山師は師資二面裂破していて、ア、ウンの呼吸が合っている二人であるから遠慮は要らぬ、「小参は副寺和尚に任す」、「勝手にせよ」「お許しが出た、さあ移転だ、引越しだ」といって、役僚を督励して、即刻荷作りを始め、愛宕山下の青松寺に引越して合併を断行してしまった。これが動因となり、明治維新に於ける宗門一体、両山一体の行政の宗務庁の前身宗務局が、芝の愛宕山下の青松寺に開設せられるに至ったのであります。
可睡斎時代 明治十年~二十五年
(静岡県袋井市久能)
一、可睡斎と徳川家康
明治十年(一八七七)穆山師五十七歳の働き盛りとなる、西郷隆盛が郷土の士族門弟同志に推されて挙兵し男の意地を立てたが敗れて城山の露と消えた。一方、東京大学が設立され、佐野常氏等が博愛社を設立し、のちの日本赤十字社の先駆となる、この年四月、穆山師は懇請されて、静岡県可睡斎住職に就任して御前様となる。
この寺は、藩政時代には、永平寺の末寺四百九十六ケ寺、総持寺の末寺二千壱百六ケ寺、計弐千七百拾弐ケ寺を配下として統轄した僧録の寺であります。この寺は山号を万松山といい、交通の便と風光に恵まれた曹洞宗東海第一の名刹であります。
足利義満が明と国交を開いた応永八年(一四〇一)に道元禅師より七代目の法孫、恕仲禅師がお 開きになった寺で、その頃は東陽軒といっていました。十一代目の住職等膳和尚が、今川義元のもとに人質となっていた竹千代丸(後の家康)を父と共に戦乱の巷から救助して国元にかえした。その後家康は次第に出世して浜松城主となった時に、親しく等膳和尚を招待して、旧恩を謝しました。和尚は、その歓待の席上で、コクリコクリと無心に居睡りをした。家康は、二ッコリせられて、
末座「和尚我れを見ること愛児の如し、故に安心して睡る、われその親密の情を喜ぶ、和尚睡る可し」といって、それ以来「可睡和尚」と愛称せられ、後に東陽軒を改造して大伽藍となし、寺号も「可睡斎」と改めたのであります。又しばしば家康の心の散乱をなおした旧恩に報しる意味で、伊豆、駿河、遠江、三河の四ケ国の総録司という取締りの職を与え、拾万石の礼を以て待遇せられるようになり、藩政時代は拾万石以下の諸大名は可睡斎の門前を通る時には龍から降りて通ったものであり、以来歴代の住職は高僧碩徳(せきとく・徳の高い人)が相続して、東海道随一の名刹
として大しに仏法をひろめ、寺門は愈々興隆し、法灯益々輝きを増して天下の「お可睡様」といわれ、又現在でも可睡斎住職を「御前様」と敬称しています。
この可睡斎在住十五年間は、穆山師が最もよく宗教家として御活躍なされた時代であると思います。可睡斎にゆかれてから可翁と号され、御巡教の先々で殆んど可翁で御揮毫なされて居り、可翁の御揮毫が一番多く遣っています。故郷八戸地方に現存している御揮毫は五百点程ありますが、その七割が可翁時代であります。
珠数の感化
穆山師が、可睡斎住職となられた当初は、廃仏殿釈の暴政の影響もあり近隣の寺院住職並びに檀信徒の風儀が願廃して無信仰状態であった。穆山師は一策を案じ、珠教を馬車に一台程買い求めて、逢う人毎に与えて、「仏教信心をなされ、幸福を与え、身を守る珠教でござる」と街頭伝道を継続せられた結果、自然に信仰心が高まり、流石に頽廃した風儀も矯正され信仰深い袋井地方となったのであります。布教教化の熱意以て範とすべきであります。
教育の振興と道義の昂揚に尽力
穆山師は明治十年四月に本校(後の駒沢大学)教師を嘱託せられ、同十二年静岡県第二号教導取締を命ぜられています。又明治十四年一月に、風紀廃頽を憂慮して敲唱会を組織して道義心の振起を叫び、更にこの年再び選ばれて、本山大会議議員(後の宗議会議員)に公選され、議長に推されたが固辞して教育と地方教化の巡教に力をそそがれたのであります。常に教学の不振を慨嘆せられ、自ら可睡斎に万松学校を創立して人材養成に渾身の努力をされたのであります。学徳を慕って集まれる門弟二百三十名、常に正法眼蔵を提唱し、又人心の願廃を嘆き、祖道の興隆と人心の刷新を訴えたのであります。この万松学校に修学せる門弟中より、曹洞宗大学林教頭(学長)筒井方外、大本山総特寺貫首、曹洞宗大学林学長秋野孝道、伊豆修禅寺住職駒沢大学学長兵宗潭及び小塚仏宗の各老師が輩出し、宗参寺時代の門弟中より、大学林学長となった古知知常、折居光輪の二老師を含めると、穆山門下より五人の大学学長が出ていることが、人材養成、教育に熱心であった何よりの証拠であります。
東奥日報に見る明治三十五年の八戸及び八戸人
八戸商業組合と営業税届
八戸商業組合にては去る二十三日午後五時より長横町記念会堂に会し各営業者が営業税届けのことにつき公平を欠く事あるため毎年税務署へ往復して相互の手数頻繁なるより之が公平の調査を遂げ税務署と交渉し円満なる局を結ばんとの商議を決し委員五名を選挙したるに山本勝次郎、石橋甚三郎、松本万吉、浦山政吉、苫米地政吉の諸氏当選したり而して委員は税務署へ交渉して着々調査する由
八戸商業銀行総会
一昨日午後三時より八戸商業銀行第九期定期総会を開き大岡頭取に代わり横沢取締役会長席につき年一割の配当に満場異議無く決議せり
八戸町長の再選
八戸町長遠山景三氏は満期に付き昨日後任の選挙を行いし再選せらる
八戸通信
三北同業組合創立総会 同組合にては北部一部の反対その他の紛議ありし為久しく愚痴愚痴の間にありしが規定の人員加入せることとて創立委員等はこの際多少の纏綿(てんめん・からみつくこと。まといつくこと)を排除し来る十五日を以って愈々町役場楼上に創立会を開く筈
肥料商の運送店 八戸及び港の同業者合併して資金三万円の株式組織を以って一大運送業を開始する予定にて去る一日協議会を開きたるが小田原評定((豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、小田原城中で北条氏直の腹心等の和戦の評定が長びいて決しなかったことから) 長びいてなか なか決定しない相談。小田原談合)にて遂に纏まりつかず結局港同業者は分離し双方対立することになれりと
劇場設立計画
二十八日町福田誠造及び十一日町類家鉄造の両人発起となり一心館を買い求め十一日町裏へ劇場を建築することに纏まりたりと
八戸穀物商組合設立の計画
同業者間に於いて数年来その計画有りたるも事情のため設立の運に到らざりしが今回有志等集合して去る八日をもって二十三日町石万商店委託部に於いて協議会を開きその結果愈々設立の事に確定し設立委員二十名を選定せるが本月十一日再び同所において委員会を開き定款起草方を二三の人に託しその脱稿を待って第二回委員会を開きて組合員を募集し創立総会を開く由なり組合員は百名以上に出つべき見込みなりと而して該創立事務所は石万商店委託部に置くと愈々その成立を見るに到らば地方輸出物産の改良売買の弊害を矯正し地方同業者の利益と信用蓋し少なかざるべし由来八戸は大豆出産地として各市場に知られ品質の如きも全国中の第二位を占め来れるが近来その出石を減じ品質又粗悪に流れ世評甚だ好ましからざるとなれば該組合たるもの亦この点に多大の用意を致すべし
織物会社の総会
八戸織物合資会社の定時株主総会は去る十四日を以って同社内において開会せられたるが本期は遂に無配当におわれり
八戸商業組合定時総会
去る二十六日午後一時より八戸十六日町天聖寺において前年度収支決算報告は異議なく認定次に役員の改選を行いたるに会長には工藤與五郎、幹部には山本勝次郎、松本萬吉、評議員には浦山政吉、近藤文五郎、関野重三郎、苫米地政吉、江口梅太郎、石橋甚三郎、工藤久兵衛の諸氏当選右了て浦山十五郎氏の発議にて皇太子殿下歓迎につき呉服屋組合その他の発起者と合同して当地の行啓を仰ぐの運動をなすこととなれり亦組合員の運賃割戻しの件は役員に一任せることに決せり因に記す同組合は現在積みたて金は三百余円あり本年中は一千円位に積み立て倶楽部敷地を購入する計画あるやに聞く
荷車に圧されて負傷す
去る二十三日三戸郡八戸町大字朔日町三十五番戸馬車業者岩岡七助(安政五年生)は荷車を牽き進行中牽き馬が道にて牝馬を見るや突然疾駆したるより馬車に圧倒せられ左大腿部骨に負傷せり
第二中学校春季運動会
県立第二中学校校友会は去る九日春季運動会を八戸公園長者山に於いて開きぬ三百五十余の健児は午前七時半隊伍を整えて会場に充てられる馬場の中央二ヶ所には大国旗を翻して之に各国の国旗連結せられその外賞品係席、記録係席、合図係席、来賓席等何れも幔幕を張り廻らして一層の好景を添えたり
やがて予定の時間に至や轟然たる砲声とともに運動は開始せられて続て各種の運動四五十回に渉り百石小学校及び本校卒業生職員競争等一回又一回愈々出でて○壮なりき
この日の来賓には同地の紳士紳商並びにその夫人令嬢殊に岩手県師範学校生徒、百石小学校生徒の来観はこの会をして一層盛んならしめたり(後略)
八戸養蚕模範所
逸見直行及び石橋万治両氏宅に設置しあり去る九日開所式を挙ぐ当日会員の来会せる者五十余名白戸同所技師の養蚕飼育の定義栽桑等に付き公演ありて盛会なりき尚翌日より直ちに講話を開始せるが同所にては天候不順のため桑葉の発芽遅延するを慮り去る十日より催青室に容れて二十三日已に収養せりと
八戸町呉服商人の準備
盛岡市の榊呉服店にては再び青森市へ出張し見切り反物の売り出すをなすや青森市同業者の反抗を受けたるため思わしき結果を見ざる由なるが帰途八戸町に立ち寄りて一働きせんとの計画ありと聞くや八戸の同業者は直に組合会を開きて之に対する方針を協議し愈々同町に入込むに於いては同業者挙げて競争せんとの意気込みにて其の準備なるが先ず青森市における売出しの実況視察として一昨日一番列車にて泉山商店及び淡三商店の両主人青森に到着し榊呉服店の本陣なる中島旅店に投宿せり
承陽大師六百五十回忌
三戸郡新井田村対泉院において曹洞宗宗祖承陽大師六百五十回大遠忌該当に付き八戸方面各寺院集合の上二十八日午後三時迎聖諷経四時御逮夜、二十九日午前八時献茶湯十一時報恩講式、同日午後一時大施餓鬼供養、同三時送聖諷経を行いしが二十八日は暴風雨二十九日は大風にて農家作物の被害のため多忙にも不抱参拝者多く殊に大施餓鬼には三陸津波溺死者の七回忌コレラ病死亡者の十七回忌並びに五連隊凍死者の供養を兼ねたる事とて善男善女群集し参拝者には丁寧なる供応ありたるため参拝者も満足の模様なりしと
棍棒にて老女の頭を割る
三戸郡島守村当時八戸町糠塚六番戸寄留中山よね(六十三)は再昨(さいさく・さきおととい)十日午前十時頃舘村字犬坂台と称する畑地に草取りに出稼ぎ中同町上総町東海林長吉(三十八)の為棍棒にて頭部を叩かれ重症を負い生命覚束なしとの事なるが殴打の原因などは未だ詳らかならず
八戸町三八城神社祭り
既報の三八城神社大祭は初日の五日は折悪しく雨天のため夜宮の賑わいもなかりしが翌六日は朝来快晴にて人手多く為に道路及び境内は勿論押しながら押されて歩行く有様で昼は旧藩主の景観に供する目的にて八戸青年会並びに旧家臣老年会の武芸試合にて一層の盛況なりしその他神楽見世物等例年の通り夜は花火を打ち上げ盆踊りは(後略)
八戸商業組合にては去る二十三日午後五時より長横町記念会堂に会し各営業者が営業税届けのことにつき公平を欠く事あるため毎年税務署へ往復して相互の手数頻繁なるより之が公平の調査を遂げ税務署と交渉し円満なる局を結ばんとの商議を決し委員五名を選挙したるに山本勝次郎、石橋甚三郎、松本万吉、浦山政吉、苫米地政吉の諸氏当選したり而して委員は税務署へ交渉して着々調査する由
八戸商業銀行総会
一昨日午後三時より八戸商業銀行第九期定期総会を開き大岡頭取に代わり横沢取締役会長席につき年一割の配当に満場異議無く決議せり
八戸町長の再選
八戸町長遠山景三氏は満期に付き昨日後任の選挙を行いし再選せらる
八戸通信
三北同業組合創立総会 同組合にては北部一部の反対その他の紛議ありし為久しく愚痴愚痴の間にありしが規定の人員加入せることとて創立委員等はこの際多少の纏綿(てんめん・からみつくこと。まといつくこと)を排除し来る十五日を以って愈々町役場楼上に創立会を開く筈
肥料商の運送店 八戸及び港の同業者合併して資金三万円の株式組織を以って一大運送業を開始する予定にて去る一日協議会を開きたるが小田原評定((豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、小田原城中で北条氏直の腹心等の和戦の評定が長びいて決しなかったことから) 長びいてなか なか決定しない相談。小田原談合)にて遂に纏まりつかず結局港同業者は分離し双方対立することになれりと
劇場設立計画
二十八日町福田誠造及び十一日町類家鉄造の両人発起となり一心館を買い求め十一日町裏へ劇場を建築することに纏まりたりと
八戸穀物商組合設立の計画
同業者間に於いて数年来その計画有りたるも事情のため設立の運に到らざりしが今回有志等集合して去る八日をもって二十三日町石万商店委託部に於いて協議会を開きその結果愈々設立の事に確定し設立委員二十名を選定せるが本月十一日再び同所において委員会を開き定款起草方を二三の人に託しその脱稿を待って第二回委員会を開きて組合員を募集し創立総会を開く由なり組合員は百名以上に出つべき見込みなりと而して該創立事務所は石万商店委託部に置くと愈々その成立を見るに到らば地方輸出物産の改良売買の弊害を矯正し地方同業者の利益と信用蓋し少なかざるべし由来八戸は大豆出産地として各市場に知られ品質の如きも全国中の第二位を占め来れるが近来その出石を減じ品質又粗悪に流れ世評甚だ好ましからざるとなれば該組合たるもの亦この点に多大の用意を致すべし
織物会社の総会
八戸織物合資会社の定時株主総会は去る十四日を以って同社内において開会せられたるが本期は遂に無配当におわれり
八戸商業組合定時総会
去る二十六日午後一時より八戸十六日町天聖寺において前年度収支決算報告は異議なく認定次に役員の改選を行いたるに会長には工藤與五郎、幹部には山本勝次郎、松本萬吉、評議員には浦山政吉、近藤文五郎、関野重三郎、苫米地政吉、江口梅太郎、石橋甚三郎、工藤久兵衛の諸氏当選右了て浦山十五郎氏の発議にて皇太子殿下歓迎につき呉服屋組合その他の発起者と合同して当地の行啓を仰ぐの運動をなすこととなれり亦組合員の運賃割戻しの件は役員に一任せることに決せり因に記す同組合は現在積みたて金は三百余円あり本年中は一千円位に積み立て倶楽部敷地を購入する計画あるやに聞く
荷車に圧されて負傷す
去る二十三日三戸郡八戸町大字朔日町三十五番戸馬車業者岩岡七助(安政五年生)は荷車を牽き進行中牽き馬が道にて牝馬を見るや突然疾駆したるより馬車に圧倒せられ左大腿部骨に負傷せり
第二中学校春季運動会
県立第二中学校校友会は去る九日春季運動会を八戸公園長者山に於いて開きぬ三百五十余の健児は午前七時半隊伍を整えて会場に充てられる馬場の中央二ヶ所には大国旗を翻して之に各国の国旗連結せられその外賞品係席、記録係席、合図係席、来賓席等何れも幔幕を張り廻らして一層の好景を添えたり
やがて予定の時間に至や轟然たる砲声とともに運動は開始せられて続て各種の運動四五十回に渉り百石小学校及び本校卒業生職員競争等一回又一回愈々出でて○壮なりき
この日の来賓には同地の紳士紳商並びにその夫人令嬢殊に岩手県師範学校生徒、百石小学校生徒の来観はこの会をして一層盛んならしめたり(後略)
八戸養蚕模範所
逸見直行及び石橋万治両氏宅に設置しあり去る九日開所式を挙ぐ当日会員の来会せる者五十余名白戸同所技師の養蚕飼育の定義栽桑等に付き公演ありて盛会なりき尚翌日より直ちに講話を開始せるが同所にては天候不順のため桑葉の発芽遅延するを慮り去る十日より催青室に容れて二十三日已に収養せりと
八戸町呉服商人の準備
盛岡市の榊呉服店にては再び青森市へ出張し見切り反物の売り出すをなすや青森市同業者の反抗を受けたるため思わしき結果を見ざる由なるが帰途八戸町に立ち寄りて一働きせんとの計画ありと聞くや八戸の同業者は直に組合会を開きて之に対する方針を協議し愈々同町に入込むに於いては同業者挙げて競争せんとの意気込みにて其の準備なるが先ず青森市における売出しの実況視察として一昨日一番列車にて泉山商店及び淡三商店の両主人青森に到着し榊呉服店の本陣なる中島旅店に投宿せり
承陽大師六百五十回忌
三戸郡新井田村対泉院において曹洞宗宗祖承陽大師六百五十回大遠忌該当に付き八戸方面各寺院集合の上二十八日午後三時迎聖諷経四時御逮夜、二十九日午前八時献茶湯十一時報恩講式、同日午後一時大施餓鬼供養、同三時送聖諷経を行いしが二十八日は暴風雨二十九日は大風にて農家作物の被害のため多忙にも不抱参拝者多く殊に大施餓鬼には三陸津波溺死者の七回忌コレラ病死亡者の十七回忌並びに五連隊凍死者の供養を兼ねたる事とて善男善女群集し参拝者には丁寧なる供応ありたるため参拝者も満足の模様なりしと
棍棒にて老女の頭を割る
三戸郡島守村当時八戸町糠塚六番戸寄留中山よね(六十三)は再昨(さいさく・さきおととい)十日午前十時頃舘村字犬坂台と称する畑地に草取りに出稼ぎ中同町上総町東海林長吉(三十八)の為棍棒にて頭部を叩かれ重症を負い生命覚束なしとの事なるが殴打の原因などは未だ詳らかならず
八戸町三八城神社祭り
既報の三八城神社大祭は初日の五日は折悪しく雨天のため夜宮の賑わいもなかりしが翌六日は朝来快晴にて人手多く為に道路及び境内は勿論押しながら押されて歩行く有様で昼は旧藩主の景観に供する目的にて八戸青年会並びに旧家臣老年会の武芸試合にて一層の盛況なりしその他神楽見世物等例年の通り夜は花火を打ち上げ盆踊りは(後略)
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