2007年12月1日土曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 1

東奥日報が伝えた。
元八戸市長で同市名誉市民の秋山皐二郎氏が九月二十八日午後一時二十分、八戸市内の病院で心不全のため死去。九十七歳だった。同市長を一九六九年から五期務め、県市長会長、全国市長会副会長などを歴任した。
秋山元市長は八戸を海から拓いたと評される。どんな一代記であったかを東奥日報社刊の回顧録「雨洗風磨」から転載してみる。同著は八戸図書館所蔵。
名付け親は西有穆山禅師
 私が生まれたのは明治四十三年二月二十二日、、戸籍上はそうなっている。ただ、母すゑは、よく「お前は、えんぶりの始まる朝に生まれてきたんだよ」と言っていましたから、本当は二月十七日が誕生日なんです。昔のことですから、役場に届け出た日を、そのまま生年月日にしたというのが、どうも真相のようです。
 私は実は四男坊。四歳上の兄が幼名・政次郎。三代目熊五郎を継ぐんですが、長兄、次兄とも赤ん坊のうちに亡くなって、兄は三男坊の繰上げ当選の惣領息子というわけです。二人も幼い子供を亡くしているので、母にしてみると「とにかく、きかなくてもどうでも、丈夫に育ってくれればいい」と考えたのでしょう。私の命名を西有穆山禅師に頼んだんです。禅師は母にとっては叔父。禅師の姉が関川という家へ嫁に来て母を生んだのですが、私の母方の祖母という人は、禅師とそっくりの人でした。禅師は湊本町の笹本という豆腐屋の息子。曹洞宗管長を務め、鶴見の大本山総持寺三世となった方なんです。母たちには、よく「子供というものは、ふた親が力を合わせて育てるもんだ。小鳥でさえも巣をつくり、ふた親でエサを運んで育てている。大切に育てなくてはダメだぞ」と話していたそうです。禅師については、顕彰会が結成されて、私が会長を引き受け、四十四年六月に公園を造成、銅像を建立しました。
 その禅師に付けていただいた名前が「皐二郎」。ところが、小学校に入ったらだれも「コウジロウ」と呼んでくれない。「いや違う。おれはコウジロウだ」と何度言っても、先生までが「サイジロウ」と呼ぶ。
 旧制八戸中学に入学した時に辞書を買ってもらい、真っ先に調べて「ああ、やっぱりコウジロウでいいんだなあ」と安心したのを覚えています。どうもみんな、勤物のサイ「犀」と間違えていたらしい。
  竹内俊吉さんに聞くと高い丘の意味と言う
「皐」の本字は「學」。浩然の気を養うの「浩」と同じ意味。「とにかく丈夫で」という母の願いを込めて、禅師が考えてくれたのだなあと思いました。禅師は、私の名前を付けたその年の秋に、九十歳で世を去りました。
 後年、県議になって、竹内俊吉知事に聞いたら「君の皐は高い丘という意味だなあ」と教えられました。副議長になった時に記念に何か書いてくださいと頼んだら「陶淵明の五言絶句に、東皐に登りて笛を吹くというのがあるから」と言われて 「東皐香梅花」という書を揮ごうしてくれました。八戸の東方、鮫の丘ということです。
 名前で困ったのは、当用漢字にないこと。名刺を作るようになってから、印刷屋に活字がなくて、泣かされました。「皐」という活字を彫ってもらって作ったんです。出張の時なんかは、かさばらないように薄い上質の紙で名刺を作り百枚も持って行く。無くなっても、すぐ印刷というわけにはいかないんですから。
 私の父は興吉と言って、私が二歳の時に腎臓病で亡くなりました。三十四歳でした。父の記憶は全くありません。ダブルの三つぞろい、金鎖なんか身に着けて馬に乗ってる写真が残っていますが、なかなかのシャレ者だったようです。
 兄は一緒に撮った写真があるんですが、私と一緒のは一枚もない。母は冗談半分で笑いながら「お前は赤ん坊のころ、まことにゲホ(みっともないの意)でね。だからお父さんは、好まなかったんだろう」と言いました。
 初代熊五郎に才覚、前浜の漁で大もうけ
 私が生まれ育った秋山家は八戸藩のお抱え漁師だった家柄で、伝承によると、甲斐南部家の南部光行らの糠部下向の折に、今の山梨県の秋山郷から一緒に来たといわれています。当主は代々、孫兵衛を名乗り、屋号は「まごべえや」。前浜での漁業を管理して藩政時代から続いてきた家です。ところが、この孫兵衛家が慶応の年に破産してしまう。
 わが家は、私の祖父・初代熊五郎の代に分家という形になっているんですが、祖父が数えの十八歳の時だったそうです。
 祖父の話では、昔から孫兵衛家には言い伝えがあり「本当に困った時は、一番奥の座敷のこういう場所を開けてみろ」というんで、何か必ず宝物があるはずだと、開けてみたら千両箱があったが、中は空だったそうです。そこへ来るまでに使い果たしたんでしょう。私が子供のころまで、その千両箱が神棚に残っていました。
 孫兵衛家は現在の湊トンネルの上、館鼻公園のそばの一角にあったのですが、すっかり城を開け渡して、それまでは干場で、シメ粕や網、煮干しを干していた浜須賀の浜辺へ下りて住まいしたんです。どの家にも長い歴史がありますが、わが一族も没落して路頭に迷った時期があったわけです。
米内山家と並ぶ網元に
 祖父・初代熊五郎は、なかなか先の見通しが利く人で、前浜の地引き網漁で、随分大漁したんです。東の秋山、西の米内山といわれて、代議士をなさった米内山義一郎さんのところも古くからの網元なんですが、私の方は五カ統あった地引き網を小作に出していました。八太郎日計、市川、一川目、二川目、三川目と一カ統ずつ。その北の方は米内山さんだった。
 後年、米内山さんに言われたことがある。「いや秋山君、君のとこは、今の資本主義経済に乗って、随分と大きくなったなあ。私のとこは古くさい経営方法でダメだった。一族で守っていたから伸びなかった。君の方は小作に出していたからなあ」と二人で大笑いしました。
 私が物心ついたころ、ある朝、「ドシン、ドシン」という音で目が覚めた。寝ぼけ眼で起きて行くと、上間でウス二丁並べて若い衆がモチをついている。レンガ敷きで十五、六畳ある土間でして、 一斗炊きのカマが二つ掛かるカマドがありました。つきたてのモチをほお張りながら「きょうは何なのだっけ」と間くと母たちが「九日モチだよ。これを食べて漁のあるのを待つんだ」。
 私の祖父が前浜で漁を始めたころ不漁の年があった。旧暦の九月九日には他の人たちは、もう完全に切り上げてしまったそうなんです。祖父だけは「必ず漁があるはずだ」と船頭たちに話してモチをつき「慌てないでモチを食べて休んでろ」と待ち続け大漁したというんです。わが家では「九日モチ」と称して年中行事となっていました。
 祖父はまた、巻き網漁では、綿糸でアグリ網を考案改良した長谷川藤次郎さんと共同経営していました。「成田丸」という船名はもともとは長谷川さんのところの船名なんてすが、後年、長谷川さんが巻き網漁業から手を引いた時に譲ってくれたものです。
 明治の末ごろ、私の生まれた前後でしょうが、北海道のニシン不漁で私の祖父も長谷川さんも大変な借金を抱えた。私の祖父は二万八千円、長谷川さんのところは十三万円だったそうです。
 祖父は当時の八戸商業銀行の鈴本吉十郎頭取のところへ行って「もう、すべてを整理します。浜から足を洗います」と言ったら頭取が「そこまで腹決めたんであれば待ってやる。何も急いで船や網を売ることもなかろう。もう一回、漁をやってみろ」と諭されて、地引き網専門で二年間で二万八千円を返済したそうです。
 その時の手形は今もわが家にあります。
盛大な大漁祝い母が指揮
 網元の家というのは、とにかく人の出入りが多くて、にぎやかなものでした。私の子供のころで地引き網五カ統、巻き網三カ統持っていましたから。巻き網は手こぎ舟で、いわゆるテントウ舟というものでした。
 食事は、わが家の家族も船頭も船乗りも一緒になってとる。細長い飯台をズラーッと並べて、少しアワを混ぜたご飯を三交代ぐらいで食べる。昼食用に長四角の木箱(沖箱と言っていましたが)にご飯とおかずを詰めて出漁していく。
 漁を終えて帰ってくると、すぐ酒盛りが始まる。土間にある四斗だるから酒を酌んできて爛をつけ、船から持ってきた魚を刺し身にして。
 父を二歳の時に亡くしたんですが、こうした雰囲気の中で育ったせいか、それほど寂しいという思いはしませんでした。ただ、最初に父親を感じたのは、八戸の三社大祭を見に行った時のこと。  小学生になっていたと思うんですが、母に十銭もらって出掛ける。馬車に乗ると往復十銭なんですが、バカくさくて歩いて行く。十銭あると結構、いろいろ食べられたんです。
 ところが、祭りを見ようとすると大変。体が小さいものですから、人込みの中を潜って歩く。周りを見回すと、小さい子供は、みんな父親に肩車してもらっている。
 「あーっ。おれのおやじも生きてたら肩車してくれただろうなあ。そうすりゃ高い所から、もっとよく祭りが見られるのになあ」とうらやましく思いました。
 網元の家の行事の最初が、旧暦の正月二日の乗り初め。商家でいえば初売り、初荷ということになります。船に大漁旗をいっぱい立てて、満艦飾に飾る。一年間の漁の態勢を、この時に決めるわけです。
 当時のわが家は、十五畳ぐらいの土間に続いて十畳の茶の間、玄関と続く十畳の中茶の間があり、それから奥へ十六畳、十畳、十畳と三部屋が続いていた。ふすまを取り外すと、L宇型の広間になり、百五十人ぐらいが座って酒盛りできる広さでした。
神棚には山盛りの銀貨
 一番、楽しかったのは、なんといっても漁の切り上げや大漁祝い。母が四日ぐらいかかって、一族や船頭、船乗りの夫人たちを総指揮して料理を作る。最初に船頭が一升ますに山盛りにした銀貨を神棚に上げる。その時に手にいっぱいつかんでパッと投げつけるんです。子供たちは先を争って、それを拾う、台所の女性たちも人って大騒ぎする。
 一升ますは最後に神棚に上げられるんですが、ある時、兄が「肩車してやるから、神棚の上のますから少し取ってこよう」と誘う。ヨシッと言うんで銀貨を取ろうとした矢先に母に見つかった。
 「コラーッ、何をしてる」としかられて、兄はサッと肩を外して逃げてしまい、私は神棚につかまって足をバタバタ。母にそのままの格好で、おしりを思い切りひっぱたかれました。しりは痛いし、逃げようにも手を離せば落ちるし、でどうにもならない。往生しました。
 暮れになると、下北、三陸、小名浜などから地引き網や巻き網船が、次々に網を積んで回港してくる。網を網倉(八戸では網戸という)へ納めて、一杯飲んで帰る。
 山海の珍味というよりは、海海の珍味で、もてなし、帰りは馬車で送るんです。サバずしとかマグロの刺し身、エビ天、ホッキ貝の照り焼き、サメなますなんかが、よく出ました。
 こういう料理は、その度ごとに母が、親類縁者の女性たちを指揮してつくり、後片付けも膳や椀を洗って倉にしまうまで、いろいろしゃべりながら三日ぐらいかかってやる。娯楽の少ない当時でしたから、こんなふうに集まるのが、一種のレクリエーションみたいなものだったんだと思います。
 私はじっとしているより動き回ってる方が楽しい性格で、随分と浜の仕事をやりました。小さいころから浜風が身にしみているんです。
浜辺は子供の楽園
 小学校は湊小学校。今のJR陸奥湊駅の向かい、魚菜市場のところにあり、段々になった敷地に校舎が階段状に立っていました。三本のポプラが植えてあった校庭は大変狭く、思いっ切り走ることができず、運動会のリレーの練習を上ノ山地区の市道を使ってやった記憶があります。
 市長になって学校を整備する際に、運動場は最低でも直線で百㍍のコースが取れるようにと考えて実行したのは、子供の時の狭い校庭が頭にあったからでした。
 現在の築港街や港湾施設はまったく無い時代で、扇浦といわれる美しい砂浜がずうっと広がっていました。今の湊トンネルから港へ抜ける出口の上は、こんもりした森で、そこにたくさんの野鳥が飛んで来たものです。新井田川の河口にかけては砂丘が広がり、ハマナスがいっぱいありました。
 浜須賀からは白銀にあった製材工場が見えて、沖合三百㍍ぐらいの所に「双デ石」という岩があり、そこまで泳いで行けるようになると一人前に扱われました。
 朝、起きると母が、一斗炊きの釜の底にできた「お焦げ」に黒砂糖をまぶして、鉄製のへらでパリパリッとはがして竹製のざるに取ってくれる。それを懐に入れて、砂浜へ飛び出すのが日課。
 近所の子供たちを集めて黒砂糖まぶしの「お焦げ」を配給するんです。うまいんですよ。香ばしくて。大阪名物の「石おこし」みたいでした。
四季折々に遊び工夫
 遊びは広大な砂浜ですから、陣取りという戦争ごっこや「こま回し」というアイスホッケーの元祖みたいなこともやったんです。直径十㌢ぐらいの丸太を輪切りにして、これを相手に向かって投げる。上手に受け止めればいいが、相手が落としたりすると、その地点まで味方が進める。丸太の輪切りですから、受け損ねて顔なんかに当たると実に痛たくて。
 春先はこうがい打ち。細木を土に打ちつけてね。ひと抱えも勝って意気揚々と家へ持って帰ったら、母が「そんな汚いもの家では燃やせない。捨ててきなさい」とこっぴどくしかられて。
 夏は、もちろん水泳。前浜は川が流れ込んでいるので、海藻類が実によく繁茂していました。ソイやアブラメがよく釣れるし、カキなんかも採れたんです。砂地を足で掘ればホッキガイもある。
 港湾の施設がなかったから、大きな三〇〇トンクラスの船は沖合に停泊する。「おい、きょうは蒸気船まで行くぞ」と誘い合って沖合の船へ泳ぐ。船員は「おっ、よく来た、よく来た」と必ず、お菓子をくれる。それを食べながら泳いで戻るなんてこともやりました。
 冬は、そり遊び。館鼻の上から道路をぐるうっと回りゲンゴ坂を滑り、浜まで約四、五百㍍も滑る。私なんかはカネげた(スケート)で館鼻の急斜面を直滑降したりもしました。
 食べ物は生ものが苦手
私は食べ物では生ものが苦手。セグロイワシの背焼き(背の部分を少し焼いて食べる)なんか食事に出ると、なかなか口に入らない。焼きながら食べるんですから、生焼けのうちにみんなパクパク。ちゃんと焼けるのを待ってるとなくなってしまう。みんなの食事が終わってから、ようやく一人でじっくり焼いたりなんかしました。
 奸物だったのは酸味の強いマルメロと青梅。マルメロは丸かじりする。渋みがなんとも言えず口に合うんです。青梅の方も、周辺の梅の木の所在は、しっかり覚えていました。トゲトゲがあって手や足が痛いんですが、それでも木に登って随分食べました。                                 
 浜辺で煮干しに交じっている小エビやカニ、カレイ、サバ、イカなんかも、毎日のように食べました。薄い塩味がついていて実にうまい。遊びや煮ぼし干しの手伝いをしながら、つまむ。おかげてカルシウムは何年分も摂取できたようで歯は今でも丈夫そのもの。
 あのころの浜辺は私どもの楽園であり、古戦場でもありました。
小学校時代、山崎岩男さんの兄さんから教わる
 小学校の先生には、山崎岩男さんのお兄さんが居て、四年生の時に教わりました。岩男さんは後に県知事になり、息子の竜男さんが今も参院議員ですが、当時、岩男さんは八戸中学生。
 時々八中の学生帽をかぶって小学校に来て、お兄さんの代わりに教壇に立って算術を私どもに教えるんです。勝手に先生をやってもだれも文句を言わないし、大らかな時代でした。
 県の視学官などを務め、素晴らしい教育者になられた寺井五郎さんも八中を卒業したばかりで代用教員として赴任して来ましたが、若々しくて「坊やみたい」と悪童たちに評されました。
厳しかった秀之助叔父
 父が居なかった私を家で鍛えてくれたのは、父のすぐ下の弟だった秀之肋叔父。小学校一年になると、こぶしぐらいの大きさの綿糸の玉と網針を手渡して網の修理。船頭とか乗り組み員の子供たちも、それぞれ年齢に応じた大きさの綿糸の玉をもらって、浜にズラリと並んで網の修理を手伝いました。おかげて、網の修理は、すごくうまくなった。
 網干しなんかも手伝いました。一家総出で浜に網を広げ、夕方には取り込む。重くて大変な重労働でした。網を渋で染めるのも、ふんどし一丁でやりましたよ。渋が付着するので裸でやるんですが、網目が素肌に食い込んで痛くて痛くて。
 戦後、化学繊維の網を日本で最初に導入したのは本県の巻き網組合で、私が組合長をした時ですが、網干しや網染めの重労働の体験が生きたというわけです。
 小学校五年生になると、秀之肋叔父はいつも私に手紙を書かせる。口述筆記で、叔父の言う通りに書く。出来上がると「読め」。黙って読むのを聞いて、直して清書させる。
 あちこちへの連絡なんかも、ずい分とやりました。兄は惣領ですから、そうした細かいことは一切やらない。「皐二郎、三川目へ行って、若い衆五、六人頼んでこい」。「初めてでわからない」といえば、「いや、だれそれの家へ行って言えば、ちゃんとやってくれるから」。そこで自転車で行くと「ヨシ、わかった。アンチャ、キメジャケッコ買ってケジャ」。決め酒というのは、それで覚えたんですが、次の日の朝には若い衆が身支度を整えて出てくるわけです。
 市川とかの海岸沿いは船員、三戸郡の方には加工関係の作業員というふうに、いくつかの拠点がちゃんとあったんです。三戸にも何度も行きました。
 当時の網元と使われている人との関係は、今の雇用関係よりも、もっと密接で長い長い付き合いだったんです。漁の無い時は網元が、こうした人たちの生活を保障する。漁があれば借金を返す形になりますが、回収しないのもずい分あった。そこが網元の使命であり、権威でもあったんでしょう。
 私の家では八戸のほか北海道の釧路、岩手県の山田湾、小名浜に番屋があったんです。山田浦は鈴木善幸さんの出た所で関係は深いんです。
 煮干しやシメ粕を作る時に燃料として使うのは松の木、これは三戸郡の山から冬、雪が降ってから切り出す。そんなのにもついて行きました。
 秀之肋叔父は非常にきちょうめんな人でしたが、神田重雄さん(のち二代目八戸市長)に私淑して、日露戦争前には渤海湾へ手こぎ船を連ねて出漁しています。神田さんも一緒で、日露戦争で日本兵がたくさん来るから食糧を確保しようという長谷川藤次郎さんの構想だったそうです。
 「残念ながら漁がなかったものなあ」と叔父は言ってましたが、気宇壮大な長谷川さん、神田さんと相通じるものがあったようです。叔父は神田さんの要請で市議も三期つとめたんですが、湊地区の道路建設に反対した船具商を営む市議を議場内でポカリとやった武勇伝も残っています。「浜の世話になりながら何事か」と怒ったようです。
日本水産業界の先覚者長谷川藤次郎翁は安政二年四月六日三重県に 生れ、昭和八年二月十七日八戸市湊町において七十九才で逝 去。 明治十九年較港において肥料商を営み鰮地曳網の改良を痛感し、漁法を改善。明治二十二年巾着網を麻製の揚繰網とし、更に研究を重ね綿糸の改良揚繰網を考案。 又搾粕圧搾器を改良。三十六年湊漁業組合 初代組合長。明治三十七年七月勅定の緑綬褒賞。ここに翁の遺徳をしのび銅像を建立し水産日本の発展及旋網漁業の 隆栄を期しつつ永く其の偉業を後世に伝う。
歴代組合長
秋山秀之助 久保卯三郎 吉田契造 中村正路 熊谷義雄 秋山皐二郎