座談会
南売市の今昔を語る
南売市は歴史の古い町・荒谷時代から
川□さよ、川口助四郎、後村仁太郎、川口市太郎、二沢平義雄、久慈忠治、野沢宗芳、川口喜助、鈴木操町内会長、中村宗エ門司会
挨 拶
鈴木操町内会長記録して後世に残したい荒谷弁でどんどん話して
この度南売市町内会が昭和35年に創立されて30年を迎えました。その30年の節目にあたり、意義あるものを出版刊行し記念にいたしたいと思いまして、何回か会合を持ちました。その結果地域の事情をご存じの方々からお話を伺ってそれ等を記録し後世に残したいと存じまして、座談会を計画しました。売市弁で、色々お話をして戴くようお願い致します。
司 会
中 村 宗右工門
ルーツをお聞きしたい戦前の町内会の制度……
司会を仰せつかりました、中村でございます。不馴れでございますので皆様方の御協力により務めさせて戴きます。
戦後になり、正式に町内会が発足されてから30周年の節目になりますが戦前にはどの様な制度があったのか、過去を振り返り、ルーツを御聞きしてみたい、そうしたことに皆様も関心があることと思います。
町内会の生い立ち
司会 川口助四郎さんの祖父、川口福次郎さんが、舘村時代に区長を勤められたと聞いておりますが、川口さんその辺の所からお話をお願いします。
川□助四郎さん
町内会長は市長が委嘱館村時代は区長制
それでは町内会について話して見ます。
町内会長と言う名称は、昭和15年1月に三戸郡館村から、八戸市に合併になった時からでございます。昭和15年5月1目付八戸市長から交付の委嘱状も手元にあります。
その頃は日支事変中で戦時体制、町内会長の下に隣組制度があり隣組長がありました。
町内会の組織になる前、三戸郡館村時代には大字毎に、区長を設ける制度で明治の頃からあったと思います。
町内会は銃後の守り(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。「銃後の守り」と使う)として戦時中は債券の割当消化、米の供出督励、金属の回収、生活必需品の配給、出征兵士の見送り、防空演習等戦争遂行の為の行政事務の上意下達の役割を持つ組織でした。
一番多い仕事は生活必需品の配給でした。町内の人達に公平に配ばるのに苦労しました。
野沢宗芳さん
高館の飛行場に勤労奉仕戦後は町内会は追放
その他に町内会として勤労奉仕の協力要請がありました。それは高館に陸軍飛行場が建設されることになり、各町内会に割当があり順番に勤労奉仕しました。毎日各地区から動員され、売市方面は徒歩で飛行場まで行きました。遠くは岩手県軽米方面、津軽方面からトラックに乗って応援にきたようです。
戦争が終ってから占領軍から町内会は敵視され、昭和22年マッカサー司令部から追放命令により、町内会は解散されたようです。
南売市も22年に解散して、35年に組織するまで13年間、空白時代が続いた。
区長制度
司会 さきほど区長のお話が出ましたが舘村時代には大字毎に一人区長を置く制度があったようですが。
川口市太郎さん
アメヤのぢいちゃんの役、区長の話で思い出したが、アメヤ(西村燃料店)のぢいさんが各戸に、フレて歩いたのは何の役だったのかな。
川□助四郎さん 正式には使丁、通称コバシリ
あれは通称コバシリ、正式には区使丁と言って、村役場からの納税通知書、田植えが終ると各部落毎に、一斉に休日(テノリ)にする習慣があった。そのことを伝達したりその他村役場、区長から行事の伝達をする役目で、今で言う連絡係に当るのかな。
上村晃一さん
区長と言えば何に当りますか?
川口助四郎さん
今の役員に当ります。
二沢平義雄さん区長は今の町内会長
荒谷から村会議員三人
区長は、地域の自治会長のような役割をもって居り、今の町内会長に当る。当時、南売市からは、川口福次郎、山田太太郎、野沢扇治の三氏が館村の村会議員に選出され、村政の為に活躍されておりました。
上村晃一さん
区長は誰が決めたんですか?
川□助四郎さん
売市の区長は三部落交代昭和16年三分割
部落の総会の時、話し合いで決めてたようです。大字売市は、南、西、長根の三部落で交替して区長を勤めました。売市地区は、範囲が広いので、どなたがやっても大変だと言う事で、昭和16年に、南、西、長根に三分割することを消防屯所に集まり話し合い、その結果、何の異議もなく分割に合意しました。その様な話し合いの中で西村徳次郎さんが従来の新丁組の名称を、西売市に改名したいと発言がありこれを了承しました。売市地区の3分割当時の各町内会長は、次の方々でした。
西売市町内会長…………二沢平市太郎
南売市町内会長…………川口大次郎
長根町内会長…………小軽米福右エ門
南売市副会長…………川口市蔵
売市の道路
司会
戦前、売市の道路が悪かったと聞いてます。特に入梅時期になりますと、ぬかる道になったそうですが?
久慈忠治さん
私か八中(八高)時代に、八中から馬淵川の大橋までマラソンで走りました。その頃は道路の両側に杉やけやきの大木があり、その枝葉でふさがれ、道に陽が当らなかったので一度雨が降れば、ぬかる道となり荷馬車の車輪堀りが出来、馬車の心棒につかえるほど、道路が悪かった。
売市の道路が、コンクリート舗装になったのは、いつごろでしたか。
二沢平義雄さん
私が昭和13年に軍隊に行ったのでよく判らないが。
久慈忠治さん 昭和15年道路舗装
2回目は28年やり直し
昭和15年高館に陸軍飛行場が出来ることになり、その頃道路工事が始まった。道路拡幅工事の為に、両側の大きな木が切り倒され、明るくなり、コンクリート舗装になった。2回目の舗装工事は昭和28年に、やり直しました。
川□助四郎さん 道路工事中火事で苦労
川口徳太郎さんの家が火事になった年だった。丁度その時、道路工事中で割栗石を敷いた状態でしたので、火事場へ行くのに苦労しました。
川口喜助さん
コンクリート舗装写真が証明
私の所にある写真、昭和16年のものを見ますと、すでにコンクリート舗装になってます。
司会
さきほど川口市太郎さんがお聞きになりました、売市の道路がいつ頃コンクリート舗装になったのかについては、今のお話でお判り戴けたと思います。
久慈忠治さん バス停設置の陳情
コンクリート舗装が出来たので、南売市にバス停の設置を陳情しました。
悪道の証明
司会
中新酒店のおばあさんのお話によりますと昭和14年に結婚したそうです。その時おばあさんが、浜市川から人力車に乗って、売市の中新酒店に嫁入したそうです。その頃道路が悪くてと、話してました。
二沢平義雄さん 嫁の実家は西売市
大橋の家までタクシーで
昭和15年に私が結婚しました。嫁の実家は、西売市で西村家の娘で、当時、私の家は馬淵川の大橋の傍にありました。西売市と大橋では近いので歩いて来てもよいのですが、道路舗装工車中の為、タクシーに乗り長根を廻り、新坂を通って、遠廻りをして大橋の私の家に着きました。
売市地区に電気・水道のついた時期
司会
ところで、売市地区にいつごろ電気が点燈しましたか、記憶ありませんか。
後村仁太郎さん 電灯は大正10年頃か まぶしかった10燭光
売市地区は下長に比べ早いような気がした。私が小学校2年生の頃電気がついたと思いました。その頃はまだ電気がついてない家もありました。
野沢宗芳さん
あなたは何年生れですか。
後村仁太郎さん
私は大正3年生れで8才で小学校へ入学しました。今から67年位前になりますが。
野沢宗芳さん
私の姉達の話によれば、子供の頃には電気がついて居たそうです。
川口喜助さん
私の母の話によりますと八戸大火(大正13年)の頃には、もう電気がついて居たと話してます。
便利な水道
司会
次に水道通水はいつ頃でしょうか。
川口市太郎さん
久慈さん売市に来て何年になりますか。
久慈忠治さん
昭和26年4月、私が売市で食料品、雑貨店を開きました。そのあとに、昭和31年頃に水道が通水したと思います。
川口助四郎さん
NTT、高周波の住宅へ通水
その頃佐々木秀文氏が県会議員の時、NTT、官舎及び高周波の住宅へ通水の為、道路を横断する工事をした。
川□喜助さん 売市の水道は昭和38年
昭和38年に根城の浄水場を開設することになり、隣地境界線立合いのため私の父が現地に行って来ました。その時発病し倒れましたので、記憶にあります。
後村仁太郎さん 水道は便利・金がかかる
井戸水を汲むのと違って、蛇口をひねると、水が出て来る水道は便利だったが、工事費が高いので、誰でも水道を引けなかった。井戸水を利用している人は多かった。
電話
川口喜助さん 売市の電話は山田さん
山田国太郎さんの話によると、売市村に電話が入って来た時代は大正7、8年の頃だろう。設置者は父山田大太郎で、住所は売市13番地、当時は局に電話機の在庫がなく、何時になったら入荷するかその見込みも立たず、島谷部町の或る質家から買って設置した。
代金は(権利)1台350円設置料込みで390円(電柱1本10円)かかり、売市まで4本たてた。電話番号は378番で約10年ぐらい使用した。この378番はゴロ読みをするとミナハズレと読まれるので378番は気に入らず、昭和に入って191番と取り替えた。それは昭和35年の自動式になるまで続いた。
荒谷のぼんおどり
司会 荒谷のぼんおどりは、昔からあったようですが、いつ頃から始まったのでしょうか。
川口助四郎さん 荒谷の盆踊りは弘化4年
荒谷のぼんおどりの始まりは弘化4年3月28日に建前をし、その家の新築祝いが8月17日でした。その日、家の前庭で手伝いに来て居た人や、台所廻りの手伝い人のみなさんへ御馳走したら、その人達が喜んでぼんおどりを踊り、夜明けまで踊り続けたそうです。それが荒谷のぼんおどりの始まりだと言われてます。
司会
弘化4年と言えば今から何年位前ですか。
川□助四郎さん 今から約150年位前になります。
上村晃一さん 荒谷はどこからどこまで
荒谷とはとこからどこまででを言いますか。
荒谷の地域
川□助四郎さん
荒谷の部落は庚申塚のある所から、西売市の西村燃料店の横に区画整理前の旧道がありました。そこまでを荒谷と呼んでいたようです。
久慈忠治さん
私達が小学校(八尋)に人ってた頃、人まねこまね荒谷の狐と言った事を記憶してますが。
川□助四郎さん 荒谷の狐のいわれ
昔は狐はどこにでも居たと思います。一説によりますと、凶作が続き、藩の財政が苦しくなり年貢の取り立てが厳しくなった。農民は働けど働けど苦しくなるばかり、自分から進んで、何かしようとする気持ちを持たなくなった。他村の人が仕事を始めたら仕事につくと言うような事で、よそ村の人達より遅れると言う有様だった。人のまねをするようであった。それを見て、よその人達は馬鹿にして人まねこまね荒谷の狐というようになった。
売市小学校の思い出
司会
売市小学校が根城の現在地に移ったと聞いています。その頃のお話をお願いします。
二沢平義雄さん 売市小学校から根城の新校舎に移ったのは昭和5年4月でした。新しい学校が現在地に建設され、移転することになったが移転の予算も無いので、生徒達が机、椅子、その他の備品を運びました。
川口助四郎さん 高等科の生れたいきさつ
私たちが売市高等小学校の第1回生です。それまでは吹上の高等小学校に御世話になってました。入学式の間近になって、吹上小学校から入学を断られました。そこで大急ぎで村議会を開き、協議の結果、売市小学校に高等科を併設する事になり、私達が第1回の卒業生となり、記念に校旗を寄附しました。
川□市太郎さん 高等科は袴を着けた
それまでは、吹上の高等科に進むには袴を着け人並みの服装で通学する。ところが新品は買えない時代でしたので、古着を買いに高岩まで行き、古着店で調達して吹上の高等科へ通ったものだ。色々な事があり吹上の学校に行けない人もありました。地元売市にも高等科が出来たので99%の人が入学しました。
司会 昔は寺小屋がありそこで子弟の教育が行なわれていたと聞きますが。
川口助四郎さん 売市の寺小屋は弘化3年 教科書「源平藤橘」
寺小屋は弘化3年、今から約150年程前に開かれたようです。その頃使用された、御手本が残ってます。今の教科書の代りに「源平藤橘」を手本にし、掟に基づいて寺小屋が聞かれて居たようです。
その他の行事
司会
その他の行事という事で、売市地区にあった行事は。
川口さよさん ムギカラ人形で悪魔払い 村の四ツ角でモチ撤き
私達が小さい頃にあったのに、悪魔払いがありました。6月24日、無病息災を願って、村の人達が産土神(おばしな様)に集まり、ムギカラで、男女一対の人形を造り屋敷の入口の両側に寄りかけた、それを何日かすると川に流し1年間病魔を払う役割をしました。又、悪魔払いに村の四ツ角、東西南北にモチを作りこの1年無事に過せますように祈ってモチをまき散らした。
司会
南米の方ではトウキミを粉にしてモチを作り主食にしてると聞きますが、この地区ではどんなものがありましたか。
鈴木 操会長
昔は麦モチ、そばモチ等をかしわの葉にくるんで、灰の中に入れて焼き、ほど焼きと言って食べたと聞いています。
川□さよさん
かぼちやの葉にくるんで、ほど焼きにすると青くさくて、おいしくなかった。
司会
青年団当時、各青年団で泊りがけで研修会を開いたようですが。
川□助四郎さん 一夜講習と館村青年団
館村青年団では階上町の寺下観音で一夜講習会がありました。その時小井川先生や神代忠治さん達も同行しました。
二沢平義雄さん 寺下観音の別当さん宅で
その時、私も行った、寺下観音の別当さんの家へ泊まって、研修会があり往復歩きました。館村青年団主催で一晩泊まって、先生方のお話を聞いて帰ってきた事があります。往きは耳ケ吠を通り、帰途は海岸に出て途中にある、史蹟、名勝を、小井川先生の説明をお聞きしながら帰って来ました。
司会
長時間に亘り、売市を中心に昔の話、弘化年間から戦後にかけて売市に、まつわる貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。