2007年12月1日土曜日

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 3

七、八戸水産流通加工団体の活躍
 昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合をつくったのを手始めに、水産流通加工に関係する諸団体に加わり、八戸水産業界と共に汗を流しました。地元の八戸水産加工振興協議会も、昭和四十四年五月水協法に基づく、八戸水産加工業協同組合連合会に改組しました。傘下団体は、八戸魚市場水産加工業協同組合など四団体でした。
当時は未だ水産流通加工業会の力が弱く、系統の金融機関に融資を申し込んでも中々応じて貰えませんでした。商工中金に御願いすれば、水産加工は農林中金に頼みなさい、農林中金に御願いすれば、加工業だから商工中金に行きなさいと言われる始末でした。そこで八戸水産加工連は水協法にし農林中金から、八戸魚市場仲買連は中企法 に基づく組合にして商工中金から融資して頂く途を作りました。現在では両方共積極的に融資に応じて頂く様になり有難いと思っています。
 八戸水産加工連の結成と前後して昭和四十四年三月、流通、加工の近代化、合理化を総合的に実現しようとする水産物産地流通加工センター形成事業に、地域業界挙げての熱意によって八戸港が指定されました。第一次の指定を受けたのは八戸、稚内、境港、下関、長崎の五地区でありました。八戸市の場合は流通加工センター形成事業は、修築工事が進んでいる館鼻漁港とその周辺地区で実施されることになりました。
 最終的に四十六年から四十八年の三ヵ年実施、事業費の内訳は流通部門五億八千二百万円、加工部門十億二千二百万円、このうち国の補助対象事業は十二億円でありました。八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設は約十億円で国が三分の一、県が三分の一補助し、残り三分の一を事業主体が負担すると言う願ってもない事でありましたが、そこで国、県、農林中金から八戸水産加工連の出資金が唯の百万円では困ると言う事になりました。
 当時八戸魚市場から仲買人完納奨励金として、買付額の千分の五が交付されて居り、水揚げ高も二百億円に達していました。よって奨励金の五分の一を出資して貰えば一年間で二千万円の出資になり、五年間で一億円になる。仲買連の各組合が、加工連の準組合員になって貰い出資して貰えば、五年間で一億円の出資金となる、よって仲買連の会長が加工連の会長になって貰い、総会で決議して貰えば自ら途が開けると考え、仲買連の会長であった佐々木惣吉さんに御願いしました。その結果、業界の為になるなら結構だ、但し青森県水産加工連、全水加工連の仕事は引続きやってくれ、という事で承知して頂きました。
昭和四十六年七月会長職を辞任、八戸水産加工連の副会長として引続き参画する事になり、国、県、農林中金にも納得して頂き、事業を順調に進める事になりました。建設用地は県より譲渡して頂き、昭和四十六年九月二十二日八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設などの着工式が全事業のトップを切って行われました。
八、水産流通加工の急成長
 八戸の終戦直後の水産加工にはふれて来ましたが、もう一度見直して見度いと思います。
 戦前はイワシ粕、イワシ油、カマボコ類、スルメ、煮干、干しアワビ、フカのヒレ、等が主体で、昭和二十五年頃からイカの大漁貧乏対策としてスルメ、イカの塩辛等のイカ製品がまず水産加工の中心でした。こうしたイカの大量水揚げに対処するために、冷蔵庫建設も次第に盛んになり、三十年における冷蔵能力は八千四百㌧と昭和二十五年の四千二百㌧に比して二倍に増強されました。昭和二十八年には鯖の好漁があって塩鯖加工が普及し始め、三十年には缶詰工場の県外からの進出も見られる等、水産加工場は家内工業も合わせると四百を超える盛況ぶりでした。
昭和三十一年八月、青森県水産加工研究所が設置され、初代所長の荒木さんは自ら包丁を持って、魚をさばく等熱心に指導されました。更にいかの肝臓等公害の原因となる内臓を処理し、SP飼料に利用する工場、八戸水産飼料が操業を開始しました。又サンマの豊漁からこれのみりん干が開発される等活発な動きが展開されたのであります。 昭和三十六、七年にはサンマ棒受け網が豊漁でサンマの加工が進むと共にイカの加工品も増産が続き、生産額は二十八億円となり、冷蔵能力は三万㌧を超えていました。
 昭和三十九年にはイカの珍味生産がさらに盛んとなり、加工機械に対する需要が高まり、昭和三十九年には青森県水産加工用施設整備促進条例および八戸市水産加工用機械貸与条例の制定により、加工機械類の貸与が行われました。
 昭和四十六年には加工生産高は三十五億円に達し、冷蔵能力も一気に四万七千㌧を超える増強ぶりでした。こうした状況の中で水揚げが急上昇し、昭和四十年には史上初めて二十万㌧を超え、四十二年には早くも三十万㌧、翌四十三年には四十三万㌧というまさに驚異的な伸びを見せたのであります。こうした急上昇の要因は鯖と助宗の水揚げが急増したからであります。したがって水産加工業もまた、こうした状況に対応して、発展を続けたのであります。北転船の助宗鱈を原料とするスリ身の生産、あるいは練り製品などの二次加工品、助宗鱈の魚卵によるタラ子の製造などが 急激に伸び、塩鯖や缶詰などの生産も大幅に伸びました。北転船の水揚げが本格的となった、昭和四十三年までに十七のスリ身工場が、一気に稼働を始めることが出来たのも、これまでに業界に培われて来た実力を示す以外の何物でもなかったのでありましょう。水産加工場数二百四十、従業員数約八千人、生産高二十四万七千㌧、二百三十億円、冷蔵能力九万㌧、まさに日本有数の規模を訪るべき位置に八戸の流通加工業はあったのであります。こうした実績の下にこの年水産物流通加工センター形成事業の指定を受け、四十六年度からは市川地区に加工団地の造成が始まりました。この年八戸の工業出荷額は九百五億五千万円であり、水産加工はその二十五%を占めるに至ったのであります。
九、北洋転換トロールと助宗スリ身生産
 沿岸漁民とのトラブルが多い機船底引漁船を減船し、遠洋底引き漁に切り替えるための北洋転換船は、昭和四十年に青森県に十七隻許可され、大型鉄鋼船時代を迎える様になりました。この様な漁船の大型化に伴って、主要漁獲量である助宗鱈の水揚げが飛躍的に増大することは必至で、昭和四十一年度の漁獲量は約十万㌧になりました。しかし大量水揚げによる漁獲低落を防ぐためには、従来のスケコ(魚卵加工)づくりの他、練製品の二次加工の必要性が叫ばれはじめました。これは魚卵利用後、練製品原料として県外出荷されている魚休利用を本県でも取入れようというものであります。
 そこで冷凍すり身工場を建設し、練製品の原料をつくる計画が進められましたが、冷凍すり身製法に関する特許は北海道庁が持ち権利を道冷凍魚肉協会に移管していました。このため青森県水産商工部では道庁に対し、特許使用について折衝したが道庁では色々な事情で難色を示している為、県では水産庁にもあっせんを要請、北海道側も北海道、東北北転船は助宗漁場を同じくし助宗魚価もおおむね連動している故大局的判断に立って県別の少数工場数に局限し、これを容認特許権侵害防止の措置を考慮すべきではないか等の意見も出はじめました。一方早期開放を要する東北地方の動きは、八戸地区では昭和四十二年十二月、「東北冷凍魚肉協会」が設立され、宮城県では昭和四十四年三月「宮城県冷凍魚肉協会」が設立されました。東北地方に於ける事態の推移に対し北海道特許審議委員会が全委員一致、許諾の結論を得たのは、昭和四十四年九月でした。容認工場数は青森県(八戸)十七工場、岩手県五工場、宮城県十九工場計四十一工場に及びました。