2007年12月1日土曜日

東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 1

東北線は新幹線となり、いよいよ青森に迫る。五年前八戸に新幹線が延伸された。県都青森に伸びれば八戸は通過駅になる。
通過駅になる前に、通過駅にしない工夫が大事。かなり難しい問題だが、不可能ではない。その辺をさぐるために過去の事跡から東北線を検証しよう。
東北線の開通はどうなっていたのか、国鉄が発刊した東北線のはなしから掲載。

 明治十四年十二月六日、日本鉄道は東京芝紅葉館(華族の集会所)で臨時株主総会を開き、理事委員を選挙した。この日選ばれた最初の理事委員(重役)は十八名である。
 吉井友実、林賢徳(旧金沢藩士。1875年士族授産を目的に東京麻布に農学舎をおこす。官設鉄道以外の会社方式による鉄道建設を林賢徳によって結成された東山社が直訴し賛同を得て、岩倉具視らが発起人となり 明治維新前の旧公家や大名を中心に日本鉄道が設立され、東北線・高崎線の建設を進めた)、大田黒惟信、大久保利和(おおくぼとしなか・貴族院議員。大久保利通の長男。明治四年のいわゆる岩倉使節団に同行、帰国後は開成学校に入学。明治十四年の日本鉄道株式会社発足に関与、その後は大蔵省主計官、貴族院議員などを務めた)池田章成(岡山藩主)、白杉敬愛、柏村信(明治十六年大倉喜八郎らと日本初の電燈会社設立)北川亥之作、伊達宗城(伊予宇和島十万石藩主)、鬼塚通理、二橋元長、長谷川敬助(初代入間・高麗郡長)、村井定吉、大矢精助(明治十八年、盛岡の士族、実業家が北上(ほくじょう)回漕株式会社を創立。初代社長、前日本鉄道株式会社理事委員の大矢精助が就任)、浦山太吉(八戸近代港湾開発の父と呼ばれる。また、東北本線開通の際、八戸を通過するように主張した一人)矢板武(辞退により横山万五郎)ほかとなっており、この中に盛岡市の豪商大矢精肋が選ばれている。このうち林、大田黒の2名は検査委員となった。理事委員の互選で元老院議官工部大輔吉井友実(鹿児島出身後に伯爵、歌人吉井勇の父)が選ばれ、吉井友実は直ちに現職を辞任する手続をとった。十五年一月正式に免官となり、二月四日社長に就任した。
 会社の事務所は第十五国立銀行内に間借りしていたが、十四年十二月十五日に京橋区木挽町5丁目5番地の新社屋に引っ越した。社員たちは鉄道建設の具体的な事務について鉄道局と打ち合わせたり、株金募集で各県と連絡したりにわかに急がしくなった。
 日本鉄道会社は、利子補給、免税、あるいは建設工事を政府が代行するなど手厚い保護政策の中で発足した、しかし、伝統的な鉄道官営の政策を特っている政府にとって、やむを得ない例外のことであったから、特許条約書にも五十年後には政府が会社を買収することができるという条件をつけ一応官営の原則を保持している。
 また、日本鉄道会社はその成立経過からも知られるように、政府の華士族授産という大きな目的に沿ったものであり、更には北海道への連絡や東北開発の意図も兼ねているという特殊性に注目しなければならない。これらは外国などの鉄道企業とは全くことなるものである。
 東北本線がようやく仙台附近に及ぼうとするころ、国内の景気も回復し、鉄道事業は紡績業とともに資本主義産業の先端を行くようになる。鉄道ブームがわきおこり明治二十五年までの間に実に五十の鉄道会社が出願され、政府当局がなんども警告を発するという状態となる。従って、政府部内には再び鉄道官営主義が強くなり、次第に私設鉄道保護の手がきびしくなってくるのは当然であった。明治二十三年の経済恐慌を経て鉄道官営の世論が一部に強くなり、翌二十四年には井上鉄道庁長官が、経済上軍事上の見地から日本の鉄道網整備計画を論じた、「鉄道政略ニ関スル議」を建言している。ちょうど、上野・青森間が完成した年である。日本鉄道会社はこのような事情を背景にして更に発展を続けていった。
 東北本線建設反対の動き
 日本鉄道会社が設立され、工事もやがて行なわれるとなると、東北地方の沿線各地はもちろん東京地方にもさまざまな波紋がおきたのは当然であろう。文明開化に浴すると説く者、鉄道ができては困るという者、鉄道をたねにひともうけしょうと企む者といろいろであったろう。
 農民のほとんどは反対したといってもよいだろう。その理由も「汽車の煙で稲が枯れる」「火の粉で火事になる」「灰で桑が枯れる」「震動で稲の花粉が落ちたり、地割れして水がなくなる」といった風説である。他国者や泥棒が汽車に乗ってくるといった閉鎖的な考え方や、旧宿場や水運業者などが商売ができなくなるといった利害関係から反対を唱える者もあった。しかしその多くは鉄道が便利であることは認めながら、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。
東北本線の建設工事
 東北本線のルート 
ひとくちに東京・青森間の鉄道といっても、どこを通すかということは、日本鉄道会社が発足する頃には大体決っていたようである。それが現在の東北本線と同じ経路であったかどうか疑問があるが、あまりはっきりしない。ただ、ここでいえるのは、すでに政府の手によって二回以上にわたって路線調査が行なわれていたから、これによったことは確かであろう。
 明治五年十一月工部省准十等出仕小野友五郎が東京・青森間を測量したときは東京の内藤新宿から板橋・川口を通り、埼玉県の岩槻(大宮の東方)を経て奥州街道沿いに北上し、青森に達している。ただ三戸・野辺地間は、国道沿い(五戸・三本木経由)と現在線筋(八戸・沼崎経由)の両方を測量しているのが注目される。
 明治9年9月建築技長アール・ビッカース・ボイルが中仙道線の測量をしたとき、東京の町の中を通るのは困難であるとし、上野附近から王子・大宮を経て調査をし、宇都宮に向かう鉄道は大宮から分岐するのが最も良いと報告している。もうひとつ、幌内鉄道建設を指導した開拓使傭ジョゼフ・クロフオードが、明治十三年十二月松本荘一郎とともに東京・青森間を測量した。青森から踏査したのであるが線路は野辺地を終点とし、青森にはあとから延ばすべきだとしている。理由は小湊附近が難工事であることと、野辺地・青森間は同じ湾内にあり、海運の便があるということに基くものである。野辺地・三戸間と一ノ関・仙台間は現在の路線を通っている。また仙台・福島間は阿武隈川沿いでありともに国道から外れている点が注目される。また、栗橋から岩槻を経て千住から小名木川に出ており、東京の起点を小名木川としている点も興味がある。
 東北本線のルートは結果から言えば、関東地方はボイル案、東北地方はクロフオード案に近いといえる。東北本線のルートを決定するに当っての基準というものは要約すれば次の三点があげられるだろう。
 一、東京と野蒜(後に塩釜に変更)、八戸の各港を結び更に青森港に連する。
 二、街道沿いの人目の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ。
 三、急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける。