2007年12月1日土曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 10

 永平寺、総持寺両出張所を合併す
 曹洞宗は江戸時代、永平寺と総持寺と二つに分かれていた。明治新政府に永平寺側は取り入り、総本山を永平寺とし、総持寺を下に組み入れようとした。
おさまらないのは総持寺側、西有穆山は総持寺側に属していた。永平寺と並立こそ当然と尽力する。明治元年永平寺の請願に端を発して以来四ケ年にわたる「永平寺総持寺、宗統理の問題」は「両本山故のごとし」の新政府の裁断で解決し、両本山は同列同格の本山であることが確認され、明治五年に至り、大蔵省の演達に基づき両本山は親睦修交の盟約を締結するに至った。
西有穆山師は、こうした両山の撹乱闘争時代より、協和盟約締結期に至る激動時代に、如何なる態度で活動していたかが興味あるものである。ここにその一齣(ひとこま)を眺めることにしよう。穆山師は、かつての参禅弁道の師匠であった現在の総持寺貫主奕堂禅師の親任を得て、総持寺監院職に就いて奕堂禅師を補佐していた。前述の如く明治政府は廃仏毀釈の政策を執って仏教を圧迫したのに加えて、永平寺は、総本山の裁許を取って曹洞宗一宗統理の方針を強行したる為に総持寺側は一つは政府に対する請願陳情等、他は永平寺側に対する交渉協議等文字通り多事多難であった。
この多忙の時に当り、永平寺は出張所を芝の青松寺に、総持寺の出張所は下谷の黒門町に設けられていた為に、毎回幾度となく、両出張所の間を徒歩で往復せねばならぬ、時間の無駄、労力の浪費まことに愚なりと感じたのであります。又反面、宗門は両山一体となり、事務局も一箇所にまとまるべきだ。と考えていたから、永平寺貫主(当時は今の貫首の文字でなく貫主の字を用いた)環渓禅師に、自分の意見を申し上げて、両山の出張所を合併して一ケ所に置くべきであることを申し上げたところ、環渓禅師は穆山師とは正法眼蔵参究等の関係から非常に親しかったこともあり、御賛成なされて合併に同意せられた。そこで、総持寺貫主奕堂禅師にも同様の意見を陳述して御許可を御願したところ、禅師は「私はよいとして、総持寺の役僚達が反対だから困る…」といって、お許しにならなかった。
それで、穆山師は、役僚一同を集めて、自分の意見と理想を述べて、役僚各位の意志を確かめたところ、
役僚一同は「私たちは賛成であります。監院様の御力で是非合併を実現して下さい」というので、穆山師「それでは、明日禅師様にもう一度合併を御願する。そして禅師様が例の如く役僚が反対であるからと仰しゃったら貴僧たちを禅師様の御前に呼び出すから、その時、御前であるからといって、臆病になってぐずぐずしてはならぬぞ」と念を押して、翌日穆山師なに食わぬ顔をして「禅師様、やはりどうしても事務多端の御一新の折柄、合併した方がよろしゅうございます」と自論を申し上げると、禅師様は相変らず「役僚達が反対だから無理せぬがよかろう」と仰っしゃるので、役僚たちを禅師様の御前に呼び寄せて、
穆山師「禅師様が合併を御希望なされるのに、何故貴僧たちが反対するのか、けしからんではないか」と、役僚一同を詰責すると、
役僚一同「そんなことはありません、私達は賛成でございます」と、異口同音に答えたので穆山師「禅師様は嘘をつきなさる」と、禅師様の顔をじっと見つめると、
禅師「勝手にせよ!」と仰しゃって、席をお起ちなされた。御二人の間柄は、前橋市龍梅院時代に、住職と副寺、師家と随身、そして、毎月の一日、十五日の小参(修行僧の問答参究)には、払子をわたして、「小参は副寺和尚に一任す」といって方丈に帰られた信じ切った間柄である。
そして、「聞くに耐へたり声外菊香の残するを、許す師が特地三寸を伸べ、虚空を喝破するもまた難からず」(奕堂禅師の穆山師を印可証明した詩)と、奕堂禅師と穆山師は師資二面裂破していて、ア、ウンの呼吸が合っている二人であるから遠慮は要らぬ、「小参は副寺和尚に任す」、「勝手にせよ」「お許しが出た、さあ移転だ、引越しだ」といって、役僚を督励して、即刻荷作りを始め、愛宕山下の青松寺に引越して合併を断行してしまった。これが動因となり、明治維新に於ける宗門一体、両山一体の行政の宗務庁の前身宗務局が、芝の愛宕山下の青松寺に開設せられるに至ったのであります。


 可睡斎時代 明治十年~二十五年
  (静岡県袋井市久能)
一、可睡斎と徳川家康
 明治十年(一八七七)穆山師五十七歳の働き盛りとなる、西郷隆盛が郷土の士族門弟同志に推されて挙兵し男の意地を立てたが敗れて城山の露と消えた。一方、東京大学が設立され、佐野常氏等が博愛社を設立し、のちの日本赤十字社の先駆となる、この年四月、穆山師は懇請されて、静岡県可睡斎住職に就任して御前様となる。
この寺は、藩政時代には、永平寺の末寺四百九十六ケ寺、総持寺の末寺二千壱百六ケ寺、計弐千七百拾弐ケ寺を配下として統轄した僧録の寺であります。この寺は山号を万松山といい、交通の便と風光に恵まれた曹洞宗東海第一の名刹であります。
 足利義満が明と国交を開いた応永八年(一四〇一)に道元禅師より七代目の法孫、恕仲禅師がお 開きになった寺で、その頃は東陽軒といっていました。十一代目の住職等膳和尚が、今川義元のもとに人質となっていた竹千代丸(後の家康)を父と共に戦乱の巷から救助して国元にかえした。その後家康は次第に出世して浜松城主となった時に、親しく等膳和尚を招待して、旧恩を謝しました。和尚は、その歓待の席上で、コクリコクリと無心に居睡りをした。家康は、二ッコリせられて、
末座「和尚我れを見ること愛児の如し、故に安心して睡る、われその親密の情を喜ぶ、和尚睡る可し」といって、それ以来「可睡和尚」と愛称せられ、後に東陽軒を改造して大伽藍となし、寺号も「可睡斎」と改めたのであります。又しばしば家康の心の散乱をなおした旧恩に報しる意味で、伊豆、駿河、遠江、三河の四ケ国の総録司という取締りの職を与え、拾万石の礼を以て待遇せられるようになり、藩政時代は拾万石以下の諸大名は可睡斎の門前を通る時には龍から降りて通ったものであり、以来歴代の住職は高僧碩徳(せきとく・徳の高い人)が相続して、東海道随一の名刹
として大しに仏法をひろめ、寺門は愈々興隆し、法灯益々輝きを増して天下の「お可睡様」といわれ、又現在でも可睡斎住職を「御前様」と敬称しています。
 この可睡斎在住十五年間は、穆山師が最もよく宗教家として御活躍なされた時代であると思います。可睡斎にゆかれてから可翁と号され、御巡教の先々で殆んど可翁で御揮毫なされて居り、可翁の御揮毫が一番多く遣っています。故郷八戸地方に現存している御揮毫は五百点程ありますが、その七割が可翁時代であります。
  珠数の感化
 穆山師が、可睡斎住職となられた当初は、廃仏殿釈の暴政の影響もあり近隣の寺院住職並びに檀信徒の風儀が願廃して無信仰状態であった。穆山師は一策を案じ、珠教を馬車に一台程買い求めて、逢う人毎に与えて、「仏教信心をなされ、幸福を与え、身を守る珠教でござる」と街頭伝道を継続せられた結果、自然に信仰心が高まり、流石に頽廃した風儀も矯正され信仰深い袋井地方となったのであります。布教教化の熱意以て範とすべきであります。
  教育の振興と道義の昂揚に尽力
 穆山師は明治十年四月に本校(後の駒沢大学)教師を嘱託せられ、同十二年静岡県第二号教導取締を命ぜられています。又明治十四年一月に、風紀廃頽を憂慮して敲唱会を組織して道義心の振起を叫び、更にこの年再び選ばれて、本山大会議議員(後の宗議会議員)に公選され、議長に推されたが固辞して教育と地方教化の巡教に力をそそがれたのであります。常に教学の不振を慨嘆せられ、自ら可睡斎に万松学校を創立して人材養成に渾身の努力をされたのであります。学徳を慕って集まれる門弟二百三十名、常に正法眼蔵を提唱し、又人心の願廃を嘆き、祖道の興隆と人心の刷新を訴えたのであります。この万松学校に修学せる門弟中より、曹洞宗大学林教頭(学長)筒井方外、大本山総特寺貫首、曹洞宗大学林学長秋野孝道、伊豆修禅寺住職駒沢大学学長兵宗潭及び小塚仏宗の各老師が輩出し、宗参寺時代の門弟中より、大学林学長となった古知知常、折居光輪の二老師を含めると、穆山門下より五人の大学学長が出ていることが、人材養成、教育に熱心であった何よりの証拠であります。