穂積 義孝ほづみよしたか
明治四十(1907)~昭和五十三(1978)
デーリー東北新聞の創業者。上郷村(田子町)生まれ。早大卒後、読売新聞社に入社。昭和十四年中国上海に渡り大陸新報で健筆を振う。 十七年に帰郷、穂積建設、南部貨物、青森航空機の役員を務める。戦後二十年「民主国家の再建は言論の自由から」と同志を募りデーリー東北を創立、会長に就く。公職追放後、穂積建設、三八五貨物の役員を経て、三十年デーリー東北に復帰、副社長を歴任。(青森県人名事典・東奥日報刊)
新聞発刊への苦労
あの友、この友の多幸祈る
私は八戸市でデーリー東北新聞社を始めたのは昭和二十年の秋のことである。当時すでに佐々木正太郎さんは外人の軍隊専用のオリエンタル・ダンスホールを「三萬」の二階で始めていた。私は東京からラジオプレスの常務をしていた広塚君を連れて来て、外字新聞をまず発行するということで当時の占領軍司令官ベル代将に交渉した。広塚君は世界中のラジオを聞いて、これを日本政府に情報を出していたので、ベル代将との交渉は簡単についた。ベルさんは用紙の割り当てをすぐ申請してくれた。当時新聞が統制されて、八戸の新聞全部が東奥日報に強制的に合併されていたので、地元発行の新聞はなかった。
そこで半分を英字に、半分を日本字にし、市民にも見せたいと思ってベルさんに交渉したら 「英字新聞は必要ないから全部日本語でよい」ということになった。そこで月刊評論の成田社長に交渉し、とりあえず中央印刷を使うことになり準備を進めた。間もなく用紙割り当てが来た。さっそく同志を集めた。成田武夫君が私に「君は選挙をやるんだろう。少しでもプラスになるような陣容をつくらなくてはならないぞ。君は保守党でも革新党でもないのだから、むずかしいんだ」と言いながら成田君の自宅で、中沢村から取り寄せたそば粉で手打ちそばを作り、それを食べながら論じ合った。
最初の陣容は発起人に成田武夫、峯正太郎、木村錠之助、大津毅、田口豊州、広田豊柳、神田宏の諸氏で、株主にはこのほか平野善次郎、笹本嘉一、金野豊作、工藤忠三、佐々木正太郎、木村正逸氏らがいた。そして第一回の役員は取締役に私、神田宏、笹本嘉一、峯正太郎、木村錠之助氏、また監査役には成田武夫、大津毅の両氏が就任した。私は選挙をやるので会長となり、成田君の妹ムコである神田君に社長になってもらうことにした。その年の十二月九日に創立総会を開いた。株式は十万円であった。そのうち近藤喜一さんのお父さんの喜衛さんから私に電話があって、山の下のお宅に出かけて行くと「義孝さん、あんた、新聞を出すそうだけれど、社屋がなければ困るでしょう」と言うので「困っています」と伝えたところ 「奥南新報社の跡があるから、あんだに売る。それを使いなさい」「おじいさん、いくらですか」 「そうさなァ、八千五百円ぐらいならどうだけ」 「ようがす。お願いします」 ということになり、私はさっそく八千五百円を準備して持って行った。そしてデーリー東北の「城」が出来たのである。
近藤喜衛さんはさっそく奥南をやっていた三浦広蔵さんを呼んでその金を全部、三浦さんに渡し「この金を奥南新報にいた人達に分けてやってくれ」と言われた。おじいさんは立派な人であったと今も感心している。
それからは新聞記者をやったり、社長職をやったり、デーリーの工場に寝泊りするなどの忙しい日が続いた。正月を過ぎたある日、東京の橋本登美三郎(茨城県出身の政治家。朝日新聞記者から終戦の年に退社、戦後は自民党幹事長、建設、運輸大臣)氏から「東京に出てこい」との連絡があった。それは終戦後の総選拳を控えて日本民党(たみのとう)の旗上げであった。
彼は朝日新聞をやめて終戦後の混乱した日本の政治を立て直そうと言うのである。自由主義でも資本主義でもない。マルクス・レーニン主義の社会主義でもない、第三の哲学である共同社会民主主義をスローガンに、日本民党を結成するというのであった。私は上京して首相官邸の記者クラブに行き、読売の政治部にいた川口孝志君(元デーリー東北編集局長)を連れて築地の料理屋で開かれた結党大会に出かけた。主なる顔ぶれは小説家の石川達三、戸叶武、里子夫婦、その他文化人など四十人ぐらいであった。その時に決められたことは「各自が郷里に帰って、各県ごとに県民党を組織せよ」とのことであった。
私も八戸に帰って、旗上げの準備を始めた。三浦一雄さんと連絡をとらなくてはならない。彼は最初に出る時に「次は君を推すから」との約束があったからである。幸いに三浦さんは奥さんの実家である八戸の江渡旅館に帰っていた。私はさっそく訪ねて三階の狭い部屋で彼と会い、率直に話を切り出した。「今度いよいよ衆議院議員の選挙をやる気だから頼む」と言ったら三浦さんは 「いや穂積君、私は平和憲法の草稿をやって来たんだよ。だからあれを完成させたい。ぜひ今度は私を頼む」「あなたは書記官長をやったから戦犯だよ。どうせ追放になると思いますがね」「君だって飛行機会社をやったんだから追放だよ」と二人の話がなかなか進展しない。結局二人とも申請したら、しばらくして二人とも追放(公職追放・公共性のある職務に特定の人物が従事するのを禁止すること。日本では、戦後の民主化政策の一として、1946年1月GHQの覚書に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを約20万人追放。52年4月対日講和条約発効とともに廃止、消滅。パージ)になった。なぜ追放になったか、私は読売の政治部に調べさせたところ、翼賛壮年団の県団総務をやっていたことが理由でだめになったとのことであった。そこで、あきらめて新聞に専念することになり、さらに十万円を増資して役員をあらたにした。神田君にやめてもらい、私が社長で新聞づくりに専念した。編集局長には下斗米謹一君(現在、編集局顧問)を依頼して彼にいっさいをまかせた。
総選挙の結果はみじめであった。日本民党は全滅した。ただ一人、戸叶里子(栃木全県区(当時)から立候補し、最高点で当選。日本初の女性代議士の一人となる。以後連続11回当選)さんが当選したのがせめてもの慰めであった。
総裁の橋本登美三郎氏(現在自民党幹事長)は郷里に帰って潮来の町長になり、再起を図った。そして二度目から当選を続けている。橋本さんをはじめある者は自民党に、ある者は社会党に分かれて日本民党はなくなった。しかしその精神は今こそ必要な時ではなかろうか。彼、橋本幹事長は最近の世相に対し「自由主義でなければ社会主義だという考え方は遅れた教育のためである。人類の理想はやはり自由社会にある」と固く信じている人である。あの時、私は評論家の宮崎君(元読売論説委員)に「橋本登美三郎さんがなぜ昔からの女房と離婚して、若いアナウンサーをもらったのか」と言ったら「いや穂積さん、それは違うよ。彼は女房に捨てられたんだよ。彼が二度目に選挙に出る時奥さんがね、あんたが政治をどうしてもやるなら私は出て行きます、と言って登美さんに三下り半をたたきつけたのは奥さんの方なんだよ」との話であった。
橋本さんは日本的な政治家となったが、昔の奥さんはこれをどう評価しているであろうか。
おわりに、私はこの稿を起こすに当たって、四十年を振り返り、心のふるさとをさらけ出した訳であるが、数多くの友人や先輩のご多幸を祈り、ひとまずペンを置くことにする。