2007年12月1日土曜日

手記 我が人生に悔いなし 四

中村節子
○ 奉仕隊
文化服装学院在学中の感動の出来事
一月下旬から二月上旬に、インターハイに続いて国体のスケート大会が八戸の長根リンクで行なわれることになった。その選手団のお世話のお手伝いをお願いしたいという依頼が市から学校にあった。お手伝いの内容は、選手の宿泊所(旅館)と大会場の案内とか伝達などのお世話である。期間は三週間。
 なぜ洋裁学校に依頼が来たかというと、当時八戸には大学がなかった。高校在学中の生徒より、すでに卒業して洋裁を学んでいる学生の方が役に立ちそうだという理由だった。
従って文化服装とドレスメーカー女学院の二校から二十五名が決まった。もちろん全部女性である。全くの無料奉仕なので「奉仕隊」という名がつけられ、十二月の始めから、その準備が開始された。
先ず奉仕隊のユニフォームを作ることになった。ブルーのコール天の生地でトッパーコートを作ることになった。洋裁   学校だから作るのはお手のものだが、材料費は半分自己、半分はPTA会費から援助があった。その外に白の毛糸でマフラーとボーシを編む。もちろん材料費自己負担である。
一月に入ると何度も打ち合わせがあり、私の担当旅館は長者荘ともう一軒あったが忘れた。現在はその旅館は無い。確か北海道の高校選手が宿泊していたと記憶している。国体になったら尼崎市からの選手の担当になった。
大会の始まる一週間前から、仕立て上がったブルーのユニフォームを着てその任務についた。
その年(昭和三十六年)は暖冬で長根リンクが凍らず、選手達は練習できず肝心の大会さえ危ぶまれた。
練習には高舘のリンクが使用できると言われたが、その高舘のリンクはどこにあるのかマニアルにはない。その高舘リンクから氷を自衛隊のトラックで長根リンクに運んだ。
とにかくインターハイ開会に間にあった。
 開会式にはブルーのユニフォーム奉仕隊がずらり整列して開会式に花をそえた。ブルーがとてもきれいだったと街の人に言われた。
 大会は順調に進み国体の開会式には義宮(よしのみや・現常陸宮)様がおいでになった。この時も奉仕隊は整列したがとても緊張した。
各地から来た大会役員に「ブルーのユニフォームがとても目立つ。あっちにもこっちにも見えるがいったい何人いるの?」とか「バイト料はいくらなの?」と聞かれた。無料奉仕ですと答えると驚いていた。(昼食は頂いた)
大会は無事終了した。私達はとても良い経験を  させてもらったと思った。
三年後に東京オリンピックが開催され、コンパニオンという言葉が流行したが、私達の奉仕隊はあのコンパニオンの草分けだったのだと思っている。
○ ミシン
専攻科の教室の廊下側に三台、窓側に三台、計六台のミシンがあった。その六台のどれかに必ず「故障」の張り紙が貼ってある。
多い時には三台に貼ってあり使えるのは三台だけ。順番待ちになる。
「どうして?、洋裁学校なのに。」と不満が出る。院長先生がおっしゃった。
「学校は、わからないところ、できないところを教えてもらうところなのです。わかるところは家でミシンを掛けてきなさい。」なるほど。「一台のミシンを一人の人が使うと、ずっと長持ちします。学校では色々な人が色々なクセでミシンを使います。それによって故障になりやすいのです。」なるほど。
我が家には私が気づいた時にはすでにミシンがあった。私達の着る物は母がミシンを掛けて作ってくれた。裁縫の嫌いな私でも中学生の頃はミシンの使い方は知っていた。
そのミシンを今度は私が頻繁に使うようになった。私が生まれる前からのミシンだから、ガタガタ音がうるさい。それは我慢できるがバックができないのは不便だった。
「新しいミシンが欲しい」と頼んだ。
「嫁に行くとき古くなるからダメ」と母は言った。「えっ?」また母は矛盾したことを言ったのだ。洋裁を習えと言ったのは母ではないか。やっと説得して買ってもらった。
新しいミシンは静かに針目が進む。私専用のミシンだ。時々私の留守に母が使う。それが私にはすぐわかる。言葉では表現できないが、なんとなく「今日は母が使った」とわかるのである。
そのミシンが六年前に調子が悪くなった。
ちょうど四十年目であった。ミシン屋さんに見てもらったら「古い型なのでもう部品はありません」と言われた。やむなく新しいのに買い換えたが、四十年の長きにわたって愛用したミシンを捨てる時は、一抹の寂しさが胸をよぎった。
○ 運送会社に就職
洋裁学校を卒業して、八戸駅(現本八戸)前の運送会社に就職した。(現在会社は河原木にある)この民間企業に勤めて官(自衛隊)と民との大きな違いに戸惑いを感じた。
 イヤ、あたりまえであるものを無知なるがゆえに戸惑ったと言う方が正確かも知れない。
 一、まず電話に出たら「毎度ありがとう   ございます」私はこれを言えなかったのである。
 あたりまえの挨拶なのだが、初めてのお客にも「毎度」とは?と思ったからである。
 二、日曜日は必ず休みという考えを変えなければならないことに気がついた。普通日曜日は日直の人が出勤し、あとの人は休みなのだが、届けを  書く。しかも代休届けと書いた。何の代休かわからないけれど届けを書いた。
 三、給料日に経理の人が「ハンコ持って来て」と言う。これが給料支給の合図なのだ。
 初めの頃はわからなかったので行かなかった。「あんたは給料はいらないのか」と言われた。「給料を支給します」と言えばいいではないか。その  人は社内で唯一の大学卒といわれた人である。「あんたは言葉を知らないのかと言ってやりたかった。
○ リストラ
この会社には女性二十八歳定年という規則があ   って、先輩が退職した。その時「必ずしもやめなくてもいいんだよ、エヘヘヘ」と支配人が笑った。背筋に冷たいものを感じた。
 その後二十八歳定年の規則は削除されたが、三十五歳の時リストラの対象になった。対象者は四人。男性二人は通告のあったその日に退職した。  私は「二ヶ月後の十二月のボーナスをもらったらやめます」と言った。もう一人の私と同年の女性は「家族のためにもうしばらく働かなければならないので…」と会社に残った。
 退職して二週間後失業保険の手続きをするため職安へ行った。なんと家族のために働くと言ったはずの彼女にバッタリ出合った。
 思わず「何しに来ているの?」「失業保険の手  続きに」私の退職後、彼女は会社からイヤガラセを受けたのだ。遠くの営業所へ行けと。
 この時の失業保険はすんなりと決まった。
 運送会社には十四年間お世話になったが、楽しい思い出は一つも浮かんでこない。
 きっとリストラと共に消えさったのだ。
○ 茶道入門
会社の友達とお茶を習いに行くことにした。
 内丸にお茶の先生のお宅があるから、そこへ行こうということになった。一度も抹茶を味わったことがないし、流派など知らないが、とにかく内 丸だと会社からの帰り道だから都合がいい、ただその程度の考えで入門した。
 流派は裏千家流で、母屋の隣の離れがお稽古場であった。七畳の茶室に八畳間が続き六畳の水屋がついている。
 水曜日の夜は勤め帰りの若い人でいっぱいになった。先生はおばあちゃんで、古いお弟子さんが新入りの私達のめんどうを良く見てくれた。先 輩弟子には男性もいたし、陸海空の自衛官もいた。
 先生のご主人のことを、私達はおじいちゃんと呼んだ。おじいちゃんは時々お稽古場に来て歴史の話をして下さった。八戸南部の殿様のお話はとても興味深かった。
 お茶の稽古は楽しくて、毎週水曜日は休むことなく通った。
○ 仮縫い・本縫い
お茶のお稽古のある日のこと、男性自衛官の二人が「着物を着てみたい。ウールのアンサンブルを作ろう」ということになった。
たまたま男性先輩弟子が呉服屋さんだったので反物を持って来て、どれがいいか二人が選んだ。そして寸法も計った。
「仮縫いはいつできるんですか」と聞いた。呉服屋さんは、えっ?と言うようにして言葉につまった。そこで私が口をはさんだ。
「着物はねえ、洋服と違って仮縫いしないで、すぐ本縫いに入るんですよ」と。
このことを家に帰って母に話した。
「節子はよくほんぬいという言葉を知ってたね。」「あたりまえでしょ。洋裁やってたら仮縫いして本縫いに入ると言うんだよ。」
その時の母との会話はここまでだったけれど、しばらくしてまたこの話になった。
「あの時、学校へ入れた甲斐があったと思ったよ」と母はぽつりと言った。
私が洋裁学校へ入る前までは、全部母が縫ってくれていた。だから母は何でも知っているし、何でも縫えると思っていた。
私が学校から帰ると、私の縫った物を点検するかの様に見る。ファスナーやポケットの付け方やボタンホールのあけ方等々。
今までは見よう見真似で縫ってきたが、本式はどの様にするか縫い方を見たかったのだと母は言っていた。けれども言葉だけは気が付かなかったのだ。
その道、その道でそれなりの言葉使いがある。たった「ほんぬい」という言葉を使っただけなのに、学校へ入れた甲斐があったと思ったという。親というものは、この様なものなのだなあと思った。