2008年5月30日金曜日

長者まつりんぐ広場、公園緑地課に移管で利便に至便


市民病院跡地の利用が中心商店街活性化の成否を握る。三日町に出る、十三日町を歩くには距離的にも好都合。糖尿病患者の多い現代には、至便よりも、少々歩く距離があることが望ましい。至便より少々不便がいい。
ここは以前は都市政策課が所管していたが、今は公園緑地課が管理。
ここは朝市で有名な片町がある。利用者のために駐車場として利用されるといいが、十時から六時までの開場。
この時間帯では朝市は利用できない。
また、この場は夕暮れ市を開催。この終了時間が八時で、これまた役に立たない。その日だけは遅くまで開けてありますが、担当課の言い分。
しかし、そんなことは利用案内板には書かれていない。
市役所に出かけると駐車場の管理は三八五交通が指定管理制度で実施。これらの対応が悪く、利  用したくない。小屋の中でテレビを見ていて、駐車券を挿入して料金清算に時間がかかる、その車の渋滞を知ってても動かない。
混んでいるから小屋から出て車をさばけと怒鳴ってやったら、臨機応変にやってるから、お前に言われたくないと言う。混んでるのが目に入らないのかと逆襲したら、こんなのは混んでいるうちに入らないと説教された。
挙句にお前は来なくていいと叫ぶ。ここは市役所の駐車場で指定管理をしている三八五交通のものではない、どこか間違っていないのかと、三八五交通本社(城下)へ行き苦情を言った。自衛隊上がりの職員だそうだ。教育が徹底しないからこうなる。指定管理を三八五が落札している。どれも似たようなものなのだろう。
指定管理は最初は三年、次回何も問題がなければ五年継続となるが、今のような事態が頻発すれば、次回は他の業者に委託されるだろう。
使い勝手が悪い、態度が横柄だなどは、どしどし担当課に申し出て改善を要求するべきなのだ。市民の税金で運用しているのだ。ビクビクおたおたすることは少しもいらない。
さて、この長者まつりんぐ広場は、大きく変わった。担当課が代わり、職員の意識も様変わりで、利用時間が大変革
十時から六時が
五時から九時
使い勝手がよくなった。朝市もたそがれ市も、更に中心商店街での買い物にも便利となった。
次なる使い方は、道の駅だ。
八戸には道の駅がなかった。南郷が町村合併で入ってきたので道の駅を持った。だが中心市街地付近にはない。ここを道の駅にできれば、三日町の交流センターも駐車場を持たないだけに好都合だ。
役所もやる気のある人材がいる。市民の利便、至便を図ってこその役人。八戸市役所もすてたもんじゃござりやせん。

2008年5月26日月曜日

昭和五十年八戸で活躍した人々2

国民年金係長 向谷地富春
職員     中村三千代
 田名部一見 高橋 良悦
工藤 吉喜 中村 有助
関川 達海 坂本 光夫
上野 迪子 松本 勝信
松村 一弘 中村 由男
平沼 京子
◎市民課長   鳥潟  勉
  同 補佐  大西 兼蔵
 副参事    鈴木喜一郎
  同     接待  久
 庶務係長(兼)鈴木喜一郎
 主査     宮崎 雅夫
  同     岩木 俊男
 調整係長   福井 政美
職員      西山 つや
 田崎 俊郎 大久保孝雄
 鈴木 統子 若松美代子
 日向  一 貝吹 彰穂
 松野 京子 野里 陽子
戸籍係長   中村賢一郎
戸籍担当職員 越後谷須美
 西舘  勲 土橋 艶子
 岩村 洋子 堺  俊雄
 上野 秀子 青田  薫
 田中 トラ
資料係長  荻ノ沢祐佐久
資料担当職員 田名部一彦
 柳谷 好治 大久保典郎
 天摩 節雄 渡辺 真子
住民記録係長 高谷 重郎
記録担当職員 川村 益三
 加藤 法子 工藤 誠一
 長畑 静枝 中居 正夫
 川口 大助 三井 幸子
 神山 典夫 河原木一郎
 小笠原美子 藤田真佐子
 清野 昌子 東舘 勝男
 庭鳥嶋竜三
窓口係長(兼)接待  久
職員     福田 八重
 横沢ヨシ子 小笠原ヤエ
 佐々木敦子 古川 精美
 鈴木実智雄 鹿島 忠昭
柴田  実 久保田良美
橋本 友行 岩谷 シメ
副島 毅  照井 憲明
 赤坂  努 宮崎 光弥
 鈴木 秀世 中里 久子
 前田 康一
電送担当職員 宮崎 雅夫
 谷地  浩 東   進
 大岡 長治 
白銀公民館  田辺  健
 同     沼山 徹也
◎保健衛生課長 橋本 健二
 同 補佐   菊地 昭二
 副参事    泉山 信男
 同補佐
兼管理係長 菊地 昭二
 主査     江渡 典弥
 同      伊藤 公隆
 同      山田 和芳
技査     沼畑  涼
 松倉 さだ 河村 笑子
公衆衛生係長
(兼)菊地 昭二
職員      中田 弘子
 下斗米淳子  白石 浪子
 中村 哲人  佐々木節子
 高橋 照子  舘合 和夫
 桜井 茂樹  馬場  広
 高橋六津子  坂本  弘
 武部 節子  種市 直子
 津村  修  大久保達男
 久慈 スガ  加藤 勝次
 沢田 喜代 
診療放射線主任技師
        北嶋 淑晃
予防係長    泉山 信男
職員      沼舘とし子
松村 和良  西  義雄
阿部  誠  松本  稔
国保係長    中村  武
職員      平城 あさ
 黒沢 リツ  吉田 節子
 川越 戈子  木村  明
 清水田テル  小笠原忠志
 金浜 昌治  
保健係長    鈴木 みよ
保健婦     山崎 トシ
 小笠原のゑ  三浦  国
 富岡 弘子  皆川 満子
 長谷川紀美  横沢 則子
 岩崎 とし  栗野ヤエ子
 川端智○子
献血係長    岩村 隆二
◎公害対策課長
(兼) 菅原 光広
 同係長    松川 芳男
副技幹兼調査指導係長
        塚村新三郎
 職員     三浦 孝一
  鎌田 康子 冷木 紀夫
  関下 里美 下館 勝博
増尾  勇 伊藤 正義
中島幸一郎 松浦 邦雄
小山田 順 
県公害センター 成田 忠義
  高橋 克雄 差波 弘信
  大野 晴治 工藤 昭則
  佐藤 尚春
◎交通安全課長 川守田弥蔵
 同補佐兼指導係長
  元木松五郎 
 同副技幹兼計画
係長     土橋 繁博
 専門員    南舘 敏男
 同      中村福太郎
 職員     畠山 俊夫
  林  良彦 岩崎 靖子
◎住宅課長   室岡  一
 同補佐    橘 政司
 主査     中村 亮一
 同      駒場 賢一
 管理係長   工藤 淳一
 職員     八並 知子
 佐藤 良輔  道合 三男
 笹本 光雄
 業務係長(兼)橘  政司
 職員     河村  勝
  馬場 英夫 中村知都勢
◎清掃課長   久保 富義
 同      藤田 四郎
 副技幹    道上友之助
 副参事    坂上  剛
主査     柾谷 トミ
管理係長   岡田 重幸
清掃係長   田名部功衛
職員     小笠原喜一
川村 宣政 田端 満也
小野寺正二 大木  弘
下舘 香織 大久保康一
夏掘 福光 大川原芳雄
馬渡 良三 浜  松男
松尾 和雄 寺沢 芳美
三浦 菊二 戸田  貢
上野 久男 高柳 政男
田中 貞雄 三浦 勝男
山道 岩吉 上野長之助
清川 信義 大久保和雄
畑中 寅蔵 関口 重信
林下十次郎 岩淵 福蔵
高橋 文吉 栗橋 政雄
羽瀬 久雄 鈴木 英雄
三浦 政衛 上村 正二
 村井 和夫  杉本 孫三
 田名部助次郎 大久保勝雄
 佐藤  栄  川口 武雄松橋 八郎  上野 昭一
 川口 信義  阿部  広
 金田一清治  市沢 隼人
 加藤 勝美  北上 寛二
 杉本  正  小笠原 寿
 竹岸 和夫  大村 次雄
 大沢 宣明  松森 繁喜
 川口  進  田端 正好
 戸田 弘明  中村 正勝
 山形 満宏  山内 芳弘
 加藤 義男  吉田 準一
 工藤 隆義  山下 正人
 杉本 光穂  佐々木幸三
 田名部幸治  三浦  繁
 小柴 和博  堺  俊昭
 高屋敷一弘  清水 勝栄
 大久保 司  風晴 俊文
 川村 宣政
第一清掃工場係長
        福島 一郎
職員      小笠原正義
 金谷 勝男  佐々木忠雄
 木村岩太郎  大久保 明
 石藤由右エ門 三浦酉之助
 久保末五郎  
第二同     道上友之助
職員      見附 清美
河原木昭治  田端 秀光
佐々木政八  扇谷 隆三
千葉和一郎  松倉 安紀
川口 正義  新谷 豊勝
清川 雅道  加藤 正志
玉懸 武忠  西沢 敏光
目時金之亟  坂本 照実
田端  徹  中村  勉
長瀬 清治  上野 小六
佐々木安夫  田名部光義
大沼 宣明  小笠原八蔵
上野 正志  武部 征宏  
 岩淵  匡  蛭子 睦夫
 下館 行男  高橋 富男
 新山 益博  川村 満雄
八戸地区環境整備組合へ派遣
職員      田中  実
 金浜 省三  馬場 栄蔵
 高橋 三直  坂本 清蔵
 小滝与志美  吉田 幹夫
 田中 義教  大舘  栄
 松田 東一  杉本  清
 久保田 進  高橋 政見
 清川 英利  砂庭平太郎
 木村 博賢  木村  博
 山田 一夫  山田  豊

福祉事務所
 所長     松橋 英夫
 副同     近田 孝雄
◎総務班長 兼 近田 孝雄 
 福祉班長   田中 光郎
 家庭児童班長 夏坂 良助
 主査     田辺  健
  掛端 善治 田村 恭子
  松橋 達男 山本 武司
  中野 秀美 田代 義人
庶務係長    大久保冨蔵
職員      前田  栄
 軽米 幸子  荒谷 智英
 中村 昭子  淡路十治郎
管理係長    鹿島  進
職員      楢舘  清
 中田 久雄  松原 好伸
◎福祉班老人福祉
課長     佐藤 義一
職員      矢代 勝康
 松原  忍  田村 一男
 小笠原昌美  
更正福祉係長
兼      田中 光郎
職員      泉山 宗治
◎保健班長兼
第一係長  簗田 哲雄
職員      大高 勝武
 松倉忠志郎  秋山 竹三
 塚原 滋雄  音喜多悦子
同第二係長   小笠原達弥
 森林 武美  上村 武男
 若松 忠孝  岩淵 浩明
 接待 良雄  関口 勝明
 木村百合子  畑中 京子同第三係長   大舘 政美
職員      上野 裕正
 鎌田 伸三  荒谷 正孝
 西  幹雄  成田 道行
 阿達 福寿

建設部
 部長兼企画室長兼企画室
高速交通対策事務局長取扱
        巻  石蔵
次長     上村 斉助
◎管理課長(兼)上村 斉助
 同 補佐   久保 喜一
 契約係長(兼)久保 喜一
 職員     岩崎 賢一 

八戸市役所続
建設部
松本 訓子  藤井 アサ
 庶務係長   山村 幸吉
 職員     中村 和雄
豊島久美子  和田 俊美
長根由太郎
◎道路港湾課長 大西 邦男
 同 補佐   林   茂
 主査     下野 美芳
道路港湾管理係
清川  勇
職員      鈴木  勤 
五日市 勉  金子 和子
松浦清吉郎  岩沢 昭治
館花  融  岩岡 利郎
角谷 育子  久保 貞二
岩岡 政三  仲道善三郎
舗装係長    原  光雄
職員      赤坂 賢一
 大久保嘉一  新坂 恒雄
 佐々木正志  中村 昭夫
 古里 哲夫  吉田 孝男
 西沢 丈志  木村 明広
改良係長    田名部晃一
職員      越後 昭雄
 下館 弘司  中川原 修
 小松 政一  中崎 久仁
榎本  徹  竹内 幸一
田中 光彦  左京 利光
維持係長    大坂 清志
職員      石村 勝昭
 高橋 忠義  石橋 常男
 小笠原正男  松田 文雄
 西館  潔 佐々木誠三郎
 笹川 保男  鳥谷  忠
 古里正一郎  馬渡 弘美
 中里 昭男  田名部治通
 松田仁太郎  中村 一郎
 川村参佐男  山本 利勝
 切無沢 清  上平  孝
 高橋 政雄  大島 元美
失業対策係長(兼)
林  茂
職員      後村 悦子
杉本 和子  大久保隆志
中村由太郎  後村多三郎
道合勇多嘉  花生 強吉
鈴木 鉄男  
◎建築課長   金谷 清治
 同 補佐   工藤 一雄
 主査     田名部悌治
 副技幹    神  正義
再開発係長   中村 邦夫
職員      越後 則子
 植木 實   川村 朝光
建築第一係長(兼)
        工藤 一雄
職員      久保田俊夫
  森内 徳雄 阿部 省三
  大原  満 林  泰正
  丸山登志治 
同第二係長(兼)神  正義
職員      中村  修
 吉田 重則  今泉 豊久
 新谷 範由  
建築指導係長  川村 武司
職員      小川 鉄也
 奈良 武行  岡沼 昌造
 上村フサ子  三浦 文宏
 三国 俊則  関川 久弥
 関川  裕  畑中 誠一
 大久保文恵  
設備係長    高畑 啓治
職員      千葉 和男
 中村 和司  中屋敷雅央
 大橋  彰  藤井 順一
 昆  一雄
◎下水道業務
課長 関口 泰与
同 補佐   福井 政美
業務係長(兼)福井 政美
副参事    藤川 敬蔵
維持管理係長 鈴木 善夫
職員     梅内 泰博
 福井 節子 五戸 雅男
 小笠原長修 三浦 良子
金浜 裕一 小泉 広明
本間 秀一 荒屋敷秀俊
小井川 明 寺沢 正男
田名部甚五郎
奥山 仁一 吉田 竜二
鈴木 嘉治 馬場 俊治
中村  修 類家 一郎
津嘉山 肇 浜 佐太郎
西山 義信 上館 信光
 徴収係長   藤川 敬蔵
 職員     加藤 保雄
  小笠原菊治 前田 澄子
◎下水道工務
課長 山田義三郎
 同 補佐   日影  広
 同 技幹   竹原 正志
 技査     二唐 徳己
 計画係長兼  日影  広
 職員     後村 安朗
  上山 博信 佐藤 勝夫
工事第一係長 成田 圭五
 職員     西館 禎昭
  杉沢 信昭 西山 幸一
  田中 昭一 高橋 善行
  升沢 正平 小笠原俊美
  薄田 久雄 田中  博

東奥日報に見る明治三十八年の八戸及び八戸人

一月五日 電報
降参申し込みに付き敵軍使と会見(二日午後一時半東京特発)
将官ステッセルの降伏に関する申し込みにつき今日午前九時水師営にて伊地知将軍と敵軍使との会見ありたる敵に悪意の条件なければ降伏を許容することならん
開城提議の伏奏と聖旨(二日午後八時五十分到着)
参謀総長は聖旨を奉じて左の電報を乃木大将に送れり
将官ステッセルより開城の提議を為し来れる件を伏奏したる所陛下には将官ステッセルが祖国のため尽くせし苦節を嘉みしたまい武士の名誉を保たしむべきを望ませらる
旅順開城規約調印済み(一月三日午前十一時十一分東京特発)
攻囲軍報告
二日午後九時四十五分開城規約本調印を終れり
旅順開城の規約(三日午後九時東京特発)
公報
旅順開城に関する本調印を終りしが総て我が委員の申込み通り決定せり其の規約は十一条からなり其の要綱は左の如し陸海軍人及び義勇兵官吏は総て俘虜とし砲台艦船兵器弾薬その他一切現在のまま我に引渡し担保として一月三日椅子山案山子山及び東南一帯の砲塁砲台を我に交付すること
一月七日
電報旅順の受領結了
(六日午後二時四十五分東京特発)
乃木軍報告
五日旅順要塞の受領を終れり捕虜将校百八十六名下士卒五千四百五十一名中帰国の宣誓をなせしもの将校八十六名あり
日本艦隊の動静
(六日午後一時三十五分東京特発)
三日日本軍艦四隻スマトラ島付近に現れる
愛児を失いて自殺
三戸郡三戸町八日町宇平二女水梨さた(二六)は昨年十二月二十四日男子を分娩し征露の記念とて露吉と名づけ可愛いがりおれり甲斐もなく同月三十一日遂に死亡せるより如何に征露の記念とはいえ露西亜の露の字をつけたるは自分が悪しかりしとそれのみを苦にし床につきたるまま不眠の状態にて呻吟しつつありし結果遂に精神に異常を呈し狂い回りおれるが 去る五日午前二時頃家内の熟睡中起き出でて出刃包丁を以って腹部に突き立て重傷を負い苦悶しおりしを家人が発見し直ちに木村医師の来診を乞いしも効なく翌午前五時遂に死亡せりと
各地の祝捷
三戸郡長苗代村 川勝隆邑氏等の発起にて去る六日午後四時より国旗行列に同村四部内よりインブリ踊り一組つつを出して各村を巡回し尻内停車場休養所に於いて祝宴会を開きたるがこの間絶えず煙火の打ち上げとなせり来会者は非常に多く盛会を極めたるが式場に於いて打ち上げたる煙火は左の如しと
祝砲三、射撃、日章旗、色別流旗、祝捷大会軍用数羽鳩、以下略
八戸町の火事 昨二十一日午前一時三戸郡八戸町六日町築館末松方裏手より発火延焼十二戸に及び同二時鎮火原因取調べ中▽後報によれば午前一時六日町築館末松魚商方小屋より出火せるが幸い当時は風なけれども真夜中のこととて町民は何れも熟眠し居りし為消防の出場遅く加えるに水不足のこととて火は忽ち横丁に延焼し見る間に全焼十棟十一戸半焼一戸焼失同二時鎮火したり原因は目下取り調べ中なるも当時状況より察するに放火されたるものならんと
● 八戸だより
既報の如く八戸地方新兵予習会は去月三十一日を以って閉会せしが未だ今年の入営期には余日もあること故本日より毎日曜日午前九時より午後三時まで八戸小学校体操場に於いて復習会を開始しおれり
▽第二高等女学校の家事裁縫室は当地近元氏の請負にて目下盛んに土工中にして来る十月までに落成の筈
▽鮫郵便局にてはこれまで電信は受信一方なりしを以って実に不便少なからざりしが昨日より配達も取り扱う事となりし故至極便利となれるが湊村の有志者は同地停車場の公衆電信のみにては不便なるを以って同村の郵便局に於いても電信事務を開設せんことを其の筋に誓願せんとて内々相談中なりと
△小中野鮫の花柳界は近年になき寂寥(せきりょう・ひっそりしている)になりしは世の不景気に由るは勿論なるが近頃査公(さこうと呼ばしめるのだろう、巡査を馬鹿にして呼んだのだろう)の淫売(いんばい・売春)探索その他の為臨検の度数多くなれるを以って遊客は査公に顔を見られんことを恐れ為に自然登楼者の減少せし理由なりと
△日露戦争以来多少各商店に競争心起こりたるようなるか過般より其の呉服店にては注文のありなしにかかわらず一日に数回自家の屋号のある箱車を小僧に挽かせて市内を巡らせ居り又泉山醤油合名会社では小僧をして時々得意先へ注文の有無を聞かさしめおりてわざわざ注文に行かざるもよきを以て頗る便利なり小田嘉、西本、加藤その他各店にても斯く競いて需要者の便を図られたきものなり
八戸青年会亡霊祭典
去る七日午後五時八戸青年会に於いて開会創立以来死去せし四十八名の亡霊祭典を神仏合式により執行せしが同会広間の床の間に祭壇を設け坂本祭主の神詞及び寺僧の読経あり次に遺族及び会員の礼拝を行い式終わりて後直会式に移り来会者各自亡霊者の懐旧談をなし散会せしは八時過ぎなりき当日来会の重なるは太田、岩山、遠山、高橋、蒔田、橋本、吉田、南部その他会員百余名頗る盛式なりき
八戸青年倶楽部総会
八日八戸町大字長横町記念会堂に於いて臨時総会を開催せり
八戸共同井の開掘(かいくつ・地面を堀る)
八戸町共同使用の目的を以て去る五日同町字六日町岩岡徳兵衛前の公路に一隅に其の筋の認許を得一カ所の共同井を開掘せり
八戸甲文商店の売り出し
八戸町甲文商店に於いて冬物類斬新奇抜の流行物夫々注文先より荷着せしを以て目下薄利にて売り出し居るか頗る盛況なりと
和泉八戸警察署長の談片
昨年四月より九月までの赤痢患者は六四名あったが本年は割合に少数で二七名の調べをもっている斯く流行病患者の減少して来たのは喜ぶべきの現象であるが気候の変化で今後如何なるかを憂い益々警戒しつつある
八戸の犯罪は重な詐欺騙取恐喝等のものが多いようだ最も予は就任日浅いから独断的観察を下すことが出来ぬが概して三百的行為の多数を占めているのは困ったことだかかる犯罪の多いのは近海の不漁の場合に原因をなしているようだ何故と言えば八戸の金融は漁不漁に大影響を及ぼしているもし不漁の場合は金融の切迫を来すから従っていかがわしき犯罪行為を構成するのだ八戸の商業界に三百の跋扈しておることを度々耳にするがつまり本年は思わしき漁がない結果であろう
統計の動静によりて良く社会現象を詳知することが出来るが八戸の銀行あたりで収出せし所謂資本と収入とを計算して見たらその辺の事情がよく解るだろう
一家五人の赤痢患者
三戸郡上長苗代字大仏八十二番地馬渡岩松の長女きつ(一六)妻まつ(四四)次女たけ(十一)家族りう(一九)孫さな(四)の五名赤痢患者として同駐在所よりの急報に接し和泉警察署長その他係官出張せり
悪少年捕らわる
三戸郡鮫村浜通り二四七番地平民漁業磯島仁太郎(一七)と言う者は去る九月二日午前十時八戸町十三日町大橋豊吉方に至り少年のめぐる悪知恵を絞り出し主人をうまく欺き十一文半長靴一足(四円七十銭)をだまし取り又九月二五日夜に乗じて三戸郡鮫村海岸より約四五十間の海面に停泊中の漁船内に入り宮崎助五郎所有の大漁旗三枚(三円)木綿風呂敷(二十銭)及び紙幣在中の箱一個を窃取し尚あきたらず其の付近に停泊中の久保岩次郎所有の漁船に乗り込み青猪の角二本(二円)紙幣在中の箱一個を窃取せりそれより窃盗の味は忘れられぬと思え九月三十日三戸郡鮫村白浜付近の〇〇と呼ぶ原野に杭繋ぎしある磯島市蔵の鹿毛牝馬一頭(二十五円)を窃取せるが遂に巡査のため捕らえられ去る四日青森検事に送られ行く末おそるべき少年なり
石の地蔵様捕らえられる
世の中に迷信家の多いのには困ったものだが亦迷信家を利用して私欲をほしいままにする者ほど憎むべきものはあるまい所は八戸町鷹匠小路に住んでいる物知り婆という三戸郡戸来村川代生まれの川口くまといういたずらものがあるこの者奇妙な石を何処から持って来たか知らぬが其の石に地蔵の扮装をさせこの地蔵様を軽く上げたものは百願たちどころに成就なると吹聴して迷信家を欺き上がった下がったと大物をやらかし所謂無免許商売を営んで居った所を巡査に発覚され違警罪に問われ科料一円二十五銭に処分との厳命の下地蔵は取り押さえの上八戸警察署に黙然とし居るはよい気味
湊水産学校缶詰製造科
来る二十日より三週間の予定を以て開設する由なる希望者は十八日迄に同校へ申し込むべしと
八戸実業学校割烹会
既報の如く愈来る十二日より毎日曜日来年三月迄の予定にて開始する希望者は申し込むべしと

2008年5月25日日曜日

我が人生に悔いなし 九

中村節子
 ○日本儀礼文化協会認定司会師
 詩吟でもお茶でもある程度年数を経ると、何かの行事のときの司会の役が廻ってくる。特に詩吟の場合は順番に会長挨拶以外の役割が廻ってくるのである。たとえば今回の吟行会の開会のことばは誰、乾杯は誰、閉会の言葉は誰、司会は誰という様に、年に一度はどれかに当たる。
 私が司会に興味を持ったのは、極端に下手な司会者と極端に上手な司会者に出合ったことがきっかけであった。それまで友人の結婚披露宴に何度か招待されているが、当時は親戚とか新郎の友人が司会を担当するのが普通であったので、上手とか下手とか気にならなかった。
 あるときYホテルでの披露宴に出席して、ものすごく下手な司会者に出合った。新郎の友人であったが、客の名前は間違える、言葉はとちる、失礼しましたの連発、拍手をどうぞの連発、新郎新婦が気の毒になるほど雰囲気は悪かった。
 一週間後に今度はGホテルの披露宴に出席した。これがまたすばらしく上手な司会者であった。司会によってこれほどまでに雰囲気が違うものかと感動した。その時の司会者はプロであったことを後で聞いた。
 この時から司会というものにすごく興味がわいてきた。結婚披露宴だけでなく、発表会や記念式典等、うまくいくも悪くいくも司会者の腕にかかっていると言っても過言ではないほど、司会は大事であることを知った。
 その後、新年会の司会や芸能発表会の司会をおそるおそるやってみた。
 その時である。冠婚葬祭の仕事をしている夫からの情報で、司会者養成講座があることを知った。会場は石川県金沢市の平安閣、初級講座は三日間(九時~十七時)であった。受講料は高いし、交通費も宿泊費もかかる。じっくり考えた末、受講することに決めた。
 昭和五十六年、壱吟会創立の頃と同時期であった。金沢市の平安閣には男女合わせて三十三名の受講者が集まった。
 講師は話力研究所の所長である。まずプロの司会者を養成する講座であること、初級講座の三日間は話し方の基礎講座であることの説明があり、一人一分間の自己紹介から始まった。聞いて驚いた。私以外はすでに司会者として活躍している人達であった。しかもそれぞれ会社に所属し出張という形で受講している。フリーは私だけであった。全員の自己紹介の後は、それに対する批評が始まった。これがまた手厳しい。たとえば「私は司会をさせて頂いております」「私は司会をやっております」の言葉づかいの違いの注意、敬語の使い方、助詞(てにをは)の強弱等々。一日目の終りには宿題が出た。テーマが与えられ一分間にまとめること。
 二日目は宿題の発表から始まった。その時のテーマは何であったか覚えていないが、一人の発表が終わるとすぐ批評、それから二人目に続く。厳しいなあと思った。午後からは表現について。一つのことを色々の言葉で色々な形に表現する。又、ガギグゲゴの鼻濁音について等々。二日目の終わりにも宿題が出た。感動したことを二分間にまとめることであった。
 三日目の午前中は感動したことの発表。午後は指名されてからテーマが与えられ、すぐ発表。持ち時間一分。「次は中村さんです。テーマはバラ」「ハイ」発表の場所まで十歩ぐらい。「バラ」歩きながらバラを考える。ひらめいた。三ヶ月ほど前、恩師の誕生日に皆でバラだけの花束を贈った。「これだ!」何とかうまくいった。講師にほめられた。
 三日間の初級講座が終わった。講師の最後の言葉は「NHKのアナウンサーの言葉を、気をつけて聞く様にして下さい」であった。
 帰路の列車の中で考えた。三日間は只々話し方であった。司会者はとか司会をする時は……等と司会と関係さりそうなことは全く出てこなかった。仕事を休んでお金をかけて、私は何のために金沢まで来たのだろう? 家に帰って夫に話した。「わざわざ行ったかいが無かった様な気がする。中級講座になったら本格的に司会の内容に入ると言ってたけれど…」講習会場の金沢の平安閣は、総合結婚式場なので、シーズンオフをねらって日程を決める。やがて中級講座の案内が届いた。同じ会場で同じく三日間、受講料も同額である。どうしようかと迷った。
「やりかけたことだから、行ってみなさい」と夫の言葉にそうかなと思い申し込みをした。
 中級講座の受講者は半分になっていた。きっと私の様に無駄だと思ったのだろう。講師は超ベテランの現役の司会者であった。司会とは…から始まり、マイクの持ち方、服装、女性のヘアスタイルは目にかぶさる様な前髪にしてはいけません。相手に目が見えるようにすること。めがねはライトで反射するのでコンタクトレンズが良い。この様な場合、あの様な場合、失敗例、成功例等々、実にこまかいところまで説明してくれた。中級講座を受講したおかげで、初級講座での話し方がいかに大事な基礎であったかがわかった。
 家に帰って、受講して良かったと夫に話した。三ヶ月ほどすぎて上級講座の案内が届いた。勿論申し込んだ。
 上級の受講者はまた減り十一人になった。結婚披露宴、芸能発表会、記念式典、告別式、その他諸々。お互いに司会者になったり客になったり、実際にやってみた。私の声はマイクにとても良く通る声だと言われた。詩吟をやっているおかげだと思う。
 上達するには経験を積むこと。他の人の司会を見たり聞いたりすること。ハプニングをすみやかに対処できて、初めてプロと言えるのである、と教えられた。
 三日間の講座を終り修了証書が手渡され、そして日本儀礼文化協会司会師として認定された。
 最後に講師より贐(はなむけ・旅立ちや門出に贈る品物・金銭または詩歌など)として、次のような言葉が贈られた。
「皆さんはこれからそれぞれの土地で、司会者として活躍していくことでしょう。経験を積んで最高の司会者を目ざして下さい。決して最低の司会者にはならないで下さい。最低とは「拍手をどうぞ」を連発する司会者です。拍手は強請するものではありません。ここで拍手が欲しいと思ったとき、自然に拍手が出るように仕向けるのがプロというものです。勉強して下さい。」
 いよいよプロとして本格的に司会業をスタートさせた。主に結婚披露宴の仕事が入ってきた。自然に拍手が出るようにするにはどうしたら良いか。あの様な場合、この様な場合と、経験を積むほどに要領がわかってきた。思った様に拍手が出たときの気分の良いこと。「うまくいった!」と心の中で叫ぶ。
 ものすごく緊張する仕事であるが、司会は楽しい。
○女の人ですか?
 Gホテルの玄関は、一目で結婚披露宴の帰りと思われる人達でにぎわい、次から次へ来るタクシーを待っていた。
やっと私の番がきて乗り込むと、
「お客さんは結婚式の方ですか」と聞かれた。「ハイそうですよ」と答えて私はハッとした。結婚披露宴に出席となれば正装、しかも女性のそれは特にはなやかである。その人達のために「至急ホテルに直行」との無線を受けたタクシーに、平服の客が乗った。「ああ、私は着替えて来たのです。早いでしょ」「ハア…やっぱり結婚式のお客さんですか。あの…お客さんには、おみやげがつかなかったのですか」なるほど、ほかの人達は大きな引出物の包みを持っている。
「私には引出物はつかないのです。司会をしたのですから」
「司会? 女の人がですか? 引出物はつかないんですか」
「ええ。私は招待客ではなく、司会をするのが仕事ですから」
「仕事ですか。女の人がねぇ」
運転手さんとは家に着くまで話をした。
 日本儀礼文化協会認定の司会師として、八戸市はもちろんのこと、青森市、十和田市、二戸市と、司会の仕事を始めて三年目、昭和五十九年頃は、まだ女の司会者は珍しかった。打ち合わせに行くと「えっ? 女の人ですか」とよく言われた。大丈夫かなあというような顔つきをする。こういう時こそ私には闘志がわくのである。
 司会には詩吟が役立つ。新婦がお色直しで中座するとき、衣装に合わせた内容の和歌を朗詠する。打掛の紋様が鶴の時とか、花の紋様とか、白無垢の時とか、私のオリジナルである。女なればこそである。
○結婚祝いの詩
「あれ? 中村さんが司会ですか?」
「そうですよ。お待ちしていました。今日もまたよろしくお願いしますよ。」
「またですかあ。中村さんに会えばこれだからなあ。わかりました。」
この様な会話を何度かわしたことだろう。
 あれは私が司会業を始めたばかりの頃であった。私の担当する結婚披露宴に、八戸水産高校校長のAさんが現れた。Aさんとは古い詩吟仲間である。数日前の披露宴の打ち合わせで、今日の来賓祝辞はAさんであることを当然私は知っていたが、Aさんは驚いた。
「えっ? 中村さんが司会?」
「そうです。私です。今日の新郎さんは教え子さんだそうですね」
「そうです。一年、二年と担任だったんです」
「そこでお願いがあるのです。お祝いの詩吟をやって下さいませんか? 結婚祝いの詩」
「えっ? 私が頼まれているのは祝辞です」
「そうです。その祝辞をのべたあとに吟じて下さればいいのです」
「だけどたのまれたわけでもないし…」
「新郎さんもご両親も、校長先生が詩吟をやっていることなど知らないわけでしょ。だからたのむとかたのまれるとかではないんです。祝辞をのべたあとに、私は趣味で詩吟をやっています。つたない吟ではありますが結婚祝いの詩を吟じて贐とさせて頂きます。と言って吟ずればいいのですから」
「それもそうだけど……」
「新郎さんの心に一生残りますよ。何のために詩吟をやっていますか。今役立てなくてどうしますか。」
「そうだな、だけど急だしな、うまくやれるかなあ」
「大丈夫。大丈夫」この様なわけでこのときAさんは祝辞のあとに結婚祝いの詩を吟じた。とても立派だった。
披露宴が終わったあと新郎のお父さんが言った。
「校長先生がうたったのは詩吟というものですか。いいもんですなあ」と。
Aさんとは、来賓祝辞と司会の関係で度々一緒になる。その度毎に詩吟をお願いした。
「またですか」と言いながら快く吟じてくれる。新郎新婦にとっても、ご両親にとっても、仕事を している私にとっても、お祝いの一吟は心に残る一コマである。
 ある結婚披露宴で余興の時間になったとき「私は詩吟をやります」と名乗り出た男性のお客さんがいた。「詩吟ですか。ちょうどよかった。すぐ次にやって下さい。何を吟じますか?」
すぐ次と言ったので男性は少しあわてたようだ。急いでポケットから本を取り出した。見ると私達と同じ教本だ。どちらの詩吟の会の方かなと思っていると、彼はページをパラパラとめくっているが中々みつからない。
「結婚祝いの詩ですか」
「うん」またパラパラとめくっている。
「六十四頁ですよ」
彼は六十四頁をめくって
「えっ?」と私の顔を見た。
「あんだ、なんで覚えているの?」
「ま、いいですから。どうぞステージへ」とうながした。
結婚祝いの詩を習いたての新人さんの様だが、中々しっかり吟じていた。しばらくして温習会があり、その彼とバッタリ会った。目をまんまるくして驚いていた。私と同じ会の会員だったのだ。

「私のありがとう」7


四月二十五日金曜日に開催されました。
次の方々がご参集くださりお話いただきました。参加者を一行で紹介します。
○犾守 レイコさん  
根城九丁目でレイコ美容室を開いております。閑静な住宅街にあり落ち着いてメークアップをうけることができます。電話44-7924
ご子息は高校英語教師、仙台を拠点にシェクスピア・カンパニーと言う30名ほどの演劇集団をもっていて各地で活躍中だそうです。
○鈴木さんご夫妻
 旦那さまは元デーリー東北新聞社勤務、奥さまは現在も洋裁のお仕事をしています。お住まいは田面木の高専の近く。
○木村さん 
モード・ユキ 洋裁師 洋服仕立資格一級保持者。日本技能コンテストで全国の3位入賞が看板。
○富岡すみ子さん 
 売市緑が丘でお酒のお店富岡酒店 電話43-4055を開かれております。
町内会長をされておられます。
○三浦 一雄さん 
インターネットで話題の健康食材ヤーコン販売しております。
○三浦 さん奥さま 
サチ美容室オーナー 
長者本店電話44-7-726 市民病院支店
電話44-1029
○清水 政夫 さん
 ㈱テクノ中央 各種塗装他 本社 新井田電話25-6789 三沢営0176-50-7231 十和田営0176-2-1334 久慈営0194-53-0059 青森営017-788-6919
○森越 さん 
トヨタ販売 部長
○掛畑 さん 
新井田地区で36年、大学生等のアパート経営。老域になり廃業を考えたが厚い要望に再開を果たし、現在継続中。リッチにもハワイに別荘を所有している。
○森園 秀一さん  
 八戸市議会員 活躍中
 奥さまはサンケン・プロジェクト木工品加工の会社を経営。
○坂本みちのぶ さん
 八戸市議会員 活躍中
ほか経理士と神官とを兼ねている。
○小針 さん    ご欠席
○石鉢 さん    ご欠席
○吉成 さん    ご欠席
○北村 進 さん (有)北進 社長 
○北村 道子さん 
特定非営利活動法人コスモス園友愛の会
 園長
○小川  真  月刊 はちのへ今昔 発行人
  約4ヶ月におよぶ 四国、九州などの乞食?旅の話と人生論?キリストからお釈迦さま四苦八苦など各種、有意義漫談を披露し大人気。
○月舘 弘勝  月刊 はちのへ今昔 編集長
 編集長の口癖。 誰でも限りのある命、天から 頂いた此の世の乗車キップには行き先も終着の場所も書いておらんと。さて、お迎えはどこまで来てるのやら、明日かも知れず、今日かも知れず。こればかりは自分の意思では決められず。ある日突然に「ハイここまで、これまで!世」
あっちに逝ったら帰って来た奴ぁ一人もいない片道キップ。たった今、言いたいことは言ってしまおうョ。やりたいことはやってしまおうョ。思いを残してあっち(彼岸)に逝っても、この世(此岸)にゃ二度とは戻れない。化けて出るにはパワーがいるわい。銭はあっちじゃパワーにならぬ。さぁてさぁて、お立会い、言いなょ書きなょ、今でなきゃ、不平、不満もあったろな。楽しいこともあるじゃろな、生きた証しに残そうよ。ありがとうの一行も馬鹿野郎の四文字も、書きます、刷ります、残ります。感謝の気持ちが残ります。

読者の広場 1


桜と○ん○
                北村 道子

 冬に主人が剪定した庭の桜が咲き始めた。
友人と花見をしよう、と声をかけた。
昔は観桜会と言った。
庭で炭火に網をかけシイタケ、ホタテを焼いた。
ワインが程良く体に回り出し四人は皆、饒舌になった。てんで(それぞれ勝手に)に自分の話を主張する。ワイワイガヤガヤ。
ご馳走をたっぷりと食べながら青年のようなる七十二歳が話しだした。
 「戦後、間もなくだが、我のガキの頃なあ、農家の人が馬車に肥樽(こえだる㊟木で出来たドラム缶状の樽)を沢山積んで、来たもんだ」「何しに?」「決まってるべな、雲古せー」大家族なので大量だ。「銭、なんぼ払うの?」「払わない」「まさかー」農家の人が良質?な畑の肥料を求めてやって来る。「雲古にランクがあるなんてー」
あるんです!伸び盛りの若者を扱う学校のはカスだったようだ。成長期の子供は栄養を全部吸収するのでか?納得。
代償は農家の方が持って来る。現場は見てないが親父から聞いた話で雲古の品質鑑定?に直接、指を突っ込んで舐めてみて酸性だかアルカリと言ったとか。「信じられなーい」
当時は、農作物の貴重な肥料であった。
 そんな訳で、当時の人は皆んなでお腹の中に回虫、サナダ虫をかかえていた。
私の主人が言うに、現代でも農業博士等は、やはり土を舐めてチッソ、りん酸、カリ、何%と言うそうだ。「ほーら同じじゃないかハハハハ」(笑)
「だから真面目に雲古は宝もの、そう、上物?は金色をしているもんな、今は水に流してしまい、もったいない」と程よく焼けたホタテをぱくりと食べて平気の平左の七十二歳。
 秋になると、我が家にはジャガイモ、大根がどっさり届いたものだ。小中野の人達は豊富な魚を食べていたので栄養価の高い雲古で農家では定評?だったそうだ。
戦前生まれの彼と、戦後生まれの私では簡単に話が噛み合わなかったが、笑いすぎて目から涙。いや、目からウロコ。はちのへの今昔の勉強になりました。
まさに、これとてベン学だがとんでもないお花見になったものだった。
食べ過ぎ飲みすぎ浮かれすぎ
最後の締めは、
「花より●ん●」とイキマスカ。
「あなた早とちりしてはいけませんョ」
花よりだんごです。
サクラも満開とても素敵な花見でした。
 



鹿児島への旅
                北村 道子
 五月の連休に知覧と桜島と篤姫の故郷を訪ねた。
知覧の特攻隊の平和祈念館は涙なくしては語れない。恋も愛も知らない若者たちのワンちゃんを抱いた少年たちは、大空のひとひらの花びらとなって散って逝った。
胸をえぐられるような思いの遺品の手紙、遺書の文章は涙で霞んだ。
爆弾を積んで片道の燃料だけの神風特別攻撃隊一〇三六名の散華。二十歳前後、十六歳もあった。彼らはいったいどんな思いで飛んで逝ったろうか。到底現代の若者たちでは理解でないでしょう。
そして「日本を守る」の精神はどこから生まれたのでしょう。
 桜島を一周したが噴火爆発の岩石がごろごろとあり、自然現象のその凄さ、恐ろしさを足の裏で感じて身震いするおもいだった。そんなとき遠くに聞くウグイスの音に心が救われた。
 篤姫の生まれた指宿や島津の殿様の考え、別荘、産業、西郷様の身を寄せた穴、洞くつに触れてみてすべてに感慨深いことであった。  



浅水川に桜を植えたい!
 北 大介(元PTA会長)
桜といえば弘前公園。お濠の周りで、水上に覆いかぶさる桜の連なりは圧巻だ。満開を見れた人は、次は、散った直後のお濠も見るべし。水辺に漂う桜の花びらが、絨毯になって鮮やかな桜色を空に向かって放っている。お濠の水は流れがないから桜絨毯ができる。
流れがある川辺の桜並木も壮観である。
静岡県河津町(かわづちょう)には、天城山系から流れる河津川で、五十年ほど前、地元の住民が河川敷で一本の苗木を見つけた。それが、八百本にまでなった。「河津桜」という新種の桜だ。早咲きで、一月下旬につぼみになり、三月上旬までに開花する。一足速くお花見観光客が訪れているとのこと。桜があれば、河川敷をきれいにしようという気持ちが湧いてくる。
八戸駅の近くには、三条小学校がある。その隣には浅水川。この川は、一級河川馬淵川の支流で、新郷村の野沢温泉近辺から注がれ、五戸町の浅水を通り、尻内で馬淵川と合流する。平成十一年十月の大洪水を機に、張田のあたりから馬淵川へ向かって、浅水川放水路が造られた。これは洪水を逃がすための大切な川。洪水がなければ、水は流れていない。草や木が生い茂るばかりだ。あんまり草木が多いと、川の流れを妨げる障壁になり、草木は根で土をしっかりつかむので、洪水のときに放水路に水を流すと、土をつかんだ草木が、土ごと流され、その結果、放水路の土がたくさん流されてしまう。川は、水が流れるところ。雑草や雑木を生え放題にしてはならない。
平成十九年十月、上長地区住民が、三条中学校校庭の本格的造成工事に挑戦し、見事に完成した。その立役者の一人は、「上長に育てられた」と言って、地域に恩を返すために参加。そして、浅水川放水路の河川敷に、一人一本の桜の苗を植えることができないかと考えている。自分で植えた苗木は、栄養をやったり、草刈をしたりと手塩にかけるから、河川敷の管理もすることになる。この植樹は、地区のご老人方が主体となって、「孫のために」行うことがポイントだ。自分のためではなく、地区を担う次代の子供達のためなら必ず成功すると確信している。桜が大きくなれば、河津町のようにたくさんの人が訪れることは間違いない。そうすれば、国も県も注目して、河川敷をもっと安全に対応してくれるはず。
かつては、浅水川に桜があった。昭和十六年五月十五日付け奥南新報には、同年五月三日に、浅水川の正法寺にある姥水門の堤防に桜見に訪れた磐城セメント八戸工場の小室工場長と、日東化学八戸工場の秋葉工場長が、地域で作った蓬もちとそばかっけを食べて、たいそう喜んだという記事がある。
「・・・上長の姥水門の堤防に桜見と洒落れた去る三日、野趣たっぷりな蓬餅や蕎麦かっけがでた。これを食べた異郷の人、小室磐城セメント八戸工場、秋葉日東化学八戸工場の両場長が口を極めてほめたたえ、石田屋などでなぜこれを出さぬだろう、こんな結構なものを出してくれるなら、旅行する人々はいかに旅情を感じ、八戸にあこがれることとなるであろう、と。」
さて、河川敷に工作物を設置する際には、国(国土交通省)の許可が必要だ。
河川法第二十四条(土地の占用の許可)
 河川区域内の土地(河川管理者以外の者がその権原に基づき管理する土地を除く。以下次条において同じ。)を占用しようとする者は、国土交通省令で定めるところにより、河川管理者の許可を受けなければならない。
そして、細かい基準が「河川敷地占用許可準則」に規定されている。その中で、許可を受けることができる者は、地方公共団体等公共性又は公益性を有する者に限定している。
また、植樹については、「河川区域内における樹木の伐採・植樹基準について」(平成十年六月十九日建設省河治発第四十四号)というのがある。この中でも植樹の実施主体は、原則として地方公共団体又はこれに準ずる団体となっている。民間団体が植樹した場合は、その樹木が地方公共団体等に引き継がれることが条件らしい。維持管理が確実だからであろう。堤防への植樹については、堤防の安定性を損なうことがあることから、堤防部分に植樹することはできないとのこと。しかし、「桜づつみモデル事業」というものがある。堤防保全対策(盛土や縁切り施設及び水抜き施設等)をした植樹事業だ。これは、国土交通省が昭和六十三年度から始めたもので、最初は、弘前市の岩木川が認定された。この事業の対象となる河川は、①河川及びその周辺の自然的・社会的・歴史的環境との関連から、良好な水辺空間の形成が求められている河川、②市町村及び地域住民の良好な水辺空間の整備及び保全についての熱意が高い河 川、③桜づつみに必要な用地が既に確保されているか、市町村等により確保されることが確実な河川、④事業実施予定区域が、河川改修事業等の区間に含まれていること(一級河川の指定区間、二級河川及び準用河川の場合)、となっている。
上長地区の住民が、浅水川に桜を植樹するには、この4つの条件をクリアするのは極めて困難だ。なにしろ河川改修計画がない。しかも、植樹用地の確保や維持管理のためには八戸市の協力も不可欠になる。柳が生え荒れ放題の浅水川放水路は、人の手で管理する植樹は許可制。しかも、堤防には植樹は許可されない。
ところで、福井県鯖江市(さばえし)にも、「浅水川」という名前がある。鯖江市は、人口六万七千人で、眼鏡フレームの製造業が多く、国内九〇%以上のシェアを誇る。市の木はつつじ、市の花は、桜だ。同市のホームページを覗いてみたら、なんと桜並木のある浅水川だった。
さあ、はたして浅水川に桜を植樹することができるだろうか?不可能を可能にする醍醐味を、また味わいたいものだ。(本稿は、三条小学校PTA新聞「みらい」第二十一号平成二十年三月十九日発行に掲載した筆者原稿を加筆修正したものである。)
売市の読者から八戸にこんな勇敢な人がいたことを伝えて欲しいと連絡があった。
時は昭和十五年五月十二日、世界は風雲急を告げ、ドイツ軍はベルギー、ルクセンブルグへ侵入、戦火は次第に拡大。日、独、伊三国同盟の日本は中国各地で戦火を交えていた。
奥南新報 五月二十五日号
売市出身、川口曹長奮戦
共産軍を殲滅す
殊勲 僅か十二名で
市内売市二九出身川口愛丞曹長の武勇伝、去る十二日午前二時頃北支京漢線臨洛○付近に千六百名内外の共産軍が襲来しその内の二百余名は駅南方の我がトーチカを攻撃し来たった。急を聞いた臨洛○駅警備隊では直ちに市内売市出身川口曹長以下八名をして之が救援に赴かせたが線路に沿って千米程南進した地点千六七百名の敵と遭遇し敵の監視兵が生意気にも誰何(すいか・誰かを訪ねる)してきたので川口曹長は直に部下を展開せしめ敵の側面から猛烈な攻撃を開始した。激戦一時間半に亘った。川口曹長は足部に貫通銃創を負い相当の重傷であったが責任感の強い曹長は部下にも知らさずなおも指揮を続け遂にこの大敵を撃退しトーチカに駆けつけた。トーチカの中には我が守備兵は僅か四名だけであったが二百の敵を引受けて少しもひるまず応戦し敵も攻めあぐんで退却したのを元気な兵士等はソレッと東南方に壊走する敵を追撃して散々に射ち破り凱歌を奏して引き揚げた。敵の遺棄死体五十余、負傷者は捕虜の言によれば百を下らず我が兵士 等のあまりの強さには敵は驚いておるとのことである。しかも重傷を負った川口曹長は救援に来た装甲列車の到着を待ってはじめて負傷したことを告げ応急手当を受けたがその責任感の強い郷土出身者の行動を激賞されている。
読者の広場は現在・過去・未来すべてに渡り掲載するので連絡ください。

美術館を考える

多誤 策
奇抜さだけの十和田市現代美術館
平成廿年四月廿六日鳴り物入りで開館した十和田市現代美術館を五月のはじめに訪ねてみた。新しい館のこけら落としだ。
新しく建てられた十和田市立現代美術館は十和田市の官庁街通りの一角、場所としては街の雑踏を避けて閑静なところなので申し分なかろう。ここの通りは以前から垢抜けしていて好もしいと思ってた場所である。駐車場は館の裏側に十台程度で、あとは広い道路の向こうにある。高齢者にはちょっと大変だ。半数は車椅子マークで健常者用は二台ほどである。(後期高齢者は来るな!か)此処でも私の臍は曲った。
建物は全体が純白で清楚感があり雪のイメージなのか?「どこかで観たゾー」金沢市の二十一世紀美術館だったかな。ああ、青森県立美術館のこけら落しに行ったときもそうだった。真っ白の部屋や通路であったが髪の毛と衣服の綿ぼこりが隅にワンさかと積もっていて気持ち悪かったのを思い出していた。十和田市現代美術館では裏口から入った。真っ白で長く、せまい湾曲した誘導路を進むと正面の入り口につながっていた。
常設展500円と企画展400円、計900円
五人分、四千五〇〇円の大枚を払い入館した。
券売機の仕組が複雑で受付の女性が懸命に説明するが難解だ。しかも一枚毎の券のデザインが異なり、また混乱する。サイズが小さく貧弱「企画展にも提示を求められるので無くしないように」と言われたが簡単なクリップなどの一考を要するものだ。
次は会場に進もうとしても入場者が無く、順路がわからない。表示が小さく迷い道に踏みこんだ感じだ。分からぬものも戸惑いも芸術と押しつけられてはたまったものではない。
白い通路と白い展示室の隅という隅に綿ボコリである。対策としては徹底した清掃しか方法は無いのであろうが、残念なことに県立の美術館とおなじ轍(てつ=同じあやまち)を踏んだようだ。
有名と言われる歴代の制作家、芸術家であっても一般人にとってはなじみの薄いものばかりで、関心を持って頂かなくては只の一回こっきりで二度と行って観ようとは思わないであろう。
やはり此処もねぶた感覚で大型、びっくりさせるだけの思考であったか。
各部屋の展示を観て。
常設展の作品は二十点あまりだが開設シートの記載説明では不充分である。「世界で活躍していて有名な芸術家だから不満は言わずに黙って観賞せよ」とは、時代劇の水戸黄門の印籠と同じではないか?
私が知るところでは地元や近郊の美術家、芸術家も数多くおられるがその作品が一点もなく、これは一体どうしたことか?若い地元の芸術家の励みになろうかと思うがもっと購入し展示して頂きたい。名が売れ作品も売れたら高価買取してやろうとの態度が私は気に入らない。
また、現代美術作品と近代美術作品との線引きはどのようにして決めているのか知りたいところだ。一般の絵画作品はもう、古代の遺物的考えまで飛躍してもいいのだろうか。
先端の電子技術を駆使しても場合によってはアートからは、ほど遠い科学技術でしかない。
キム・チャンギョムのメモリー・インザ・ミラーの映像表現にはちょっと興味を惹かれたが小さなレベルでの音声か文字で簡単な説明の挿入が欲しかった。人生の時間の経過の表現と観たが頭の回転のよろしくない私には難解であった。
どうも、すべてをどう解釈しても勝手が芸術とはメッセージのなんたるか?というところまで考えなくてはならないものか。
巨大で不気味なお婆さんの像。お腹がたっぷりと出て髪の毛までもリアルさが売り物だとか。
「おお、メタボリック・グランマー」と私は声をあげて見上げたがそばに寄ったら今にも蹴飛ばされそうな恐怖感がたまらぬ。この婆さんの無愛想で不機嫌そうな表情から推察すると、日頃の不満が多く頭の天辺にストレスによる円形脱毛症があるのではないか?と思わずニヤリとしたものだ。髪の毛の繊細さを確めるだけではなく、そんな想像を馳せ周囲を螺旋階段などにして上から観れるようにしてはどうだろうか? 作者はロン・ミュエクとあり、この作家は大理石の彫刻が得意であるが、いったい、この巨大なヒステリー婆さんの素材はなんだろうか。そんな説明がほしい。「食べ過ぎたら、こうなりまっせ!」のタイトルはいいと思うがそこまでふざけることはシャッチョコ立ちしても出来まい。
大きな都市の有名美術館に入ると何がしかの企画展も併設されていることが多い。時として外れの悔しい思いも数知れない体験しているのだがここも残念ながらそのひとつに入ってしまった。
オノ・ヨーコ の作品なるものを初めて目にしてやはり天才のものは凡才の爺では飲み込んでも消化不良であった。数多くの丼鉢に水を入れて並べても有り難がって観る。私と同年くらいの男性は「教養に触れるのは銭が掛かるもんですなー」とため息まじりであった。他には「これぁサギですなー」大きな声を張り上げていたジェントルマンがいた。周囲を見ても鳥らしき姿はなかった。ジョン・レノンの名にかりた名声と言いたかったのだろう。私もあまりにも難解で何回?観てもわからぬことと諦めたものだ。現代アートでしかも思いっきりの前衛芸術とあって、これはどこかの新興宗教に似てなくもないと変な納得の仕方でデロ(出口)に向かった。
人口の多い大都会では可能でも地方では成り立たないのが芸術の部門と私は理解している。
「莫大な費用をかければ芸術は可能」と国家も地方自治体も勘違いされて走り出されては国民、市民はとんでもない迷惑を被るのである。