2008年4月1日火曜日

看板条例を厳格に実施し違法無法看板に罰金を課せ

八戸市内に多くの看板が立っている。これらは野放図に立てられる訳ではない。規制がかかっているのだ。それは県条例。立てる場所が全く制限される場所もある。八戸では蕪島から種差まで、それでも自分の店の看板は面積制限があるが立てられる。
この条例はかなり面倒で、自分の経営する店でも、面積に制限があり立てられない場合もある。これに違反すると警告書が発送されるが、無視する企業が多い。八戸信用金庫がそれ。
ここは自分のしてることが常に正しいと盲信している手合いが多く、市民に多大な迷惑を及ぼすことあり。最近も八戸商業卒連が主導を握り、反対勢力となる人物を叩きだした。実に八戸の八戸たる企業で、セコさもセコし憎らしきだ。
この八戸信金が立てた看板は面積違反。警告書は十九年八月四日に郵送されたが、同十一月二十二日になっても無視されつづけている。この看板の警告は許可基準不適合で立てるな、壊せということだ。
条件に合致してさえすれば許可願いを出し、許可料を支払えばすむ。ところが、この許可基準に合わないはハナからダメ。許可しないのだ。こうした看板を立てた理由は①八戸信金が頼んだ看板業者がボケで基準を知らない②八戸信金が業者に規制は無視しろ役所はボケで何も言わないと腹をくくったかだ。
業者がボケというのも無い訳ではない。しかし筆者は後者だと思うナ。彼等の思いあがった態度からそう断言するナ。それでなくては同じ看板を何枚も立てる筈がない。
警告書が出たのは八戸駅前通り支店。
是正通知が出たのはここだけではない。和の湯、さとう内科胃腸科、すみれ保育園、自民党八戸支部、小沢土木、のぞみ園、春日井内科医院、サテライト六戸、まるよし産業、らーめんだいこくどう、民主党青森県第三区総支部、ログキャビン、フリースクエアノヅキ、リミックスヘアー、新洋信販、グリーン信販、来夢の里、八戸市総合卸センター。モード由紀、八戸森林組合、エビナ不動産部、古里牧場、トマト衣料館八戸根城店、みらい塾、さんか、八戸工業大学、デイケアセンターなごむ、ヘルストン温泉ニュー朝日、鈴木自工、馬場税理士事務所、お歯科、ユニバース、松本家政婦紹介所、光星学院高校、大東建託八戸二十三日町店、デコール、陳麻飯八戸城下店、北家、スーパーみなとや、白銀不動産、森整体療術院、第三千葉幼稚園、ポートピアなんぶ、ギコー、ひばり不動産、西村産婦人科クリニック、ほくしんリフォーム、アルファ、さいがみ動物クリニック、  リミックスヘアー、21SEIKI新井田店、宝介ラーメン八戸店で改善されたのは二割程度。
広告看板はそれなりの効果がある。だからこそ野立て看板が横行。これらは美観景観を害うので排除が望ましい。
やめろと騒いでも減らないが、許可料を上げれば減る。看板監視員が八戸にいて、役所の車で走り回るが、人件費が年二百万。許可料が百六十万。逆ザヤになっているので、許可料を十倍にすれば千六百万の収入。広告効果がなければ野立て看板は一気に減る。それで市民もうるさい野立て看板を見ないですむ。
これで、一件落着かと思うとそうではない、上に掲げた野立て看板が問題となる。これは公職選挙法によるので、都市政策課の担当ではなく選管の管轄。
坂本よしひろ議員の看板はゆりの木通りの小中野に立っていた。この写真を選管に見せ、後援会連絡所とあるが、駐車場で無人だ、どうやって連絡がとれるのかとねじこんだ。
すると実体のない連絡所は公職選挙法に違反だと言う。都市政策課がこの選挙用看板は管轄外というのは他の法令で規制するものは除くという一項があるため。他の法令で実体のない連絡所、候補者本人の看板も違法となる。
 そこで家が無い所の看板を探したナ。看板にはシールが添付されなければならない。そのシールは写真参照。これが貼ってなければこれも選挙違反。違反となると失職する。それほど法令には威力があるが、存外馴れ合いで黙認。
選管は職員を指揮し路上パトロールをするという。何を頼りとしてパトロールをするかと言えば、このシールを受ける時に、場所と枚数を届けなければならない。
そこには上田善四郎後援会、平成三年二月六日、講演会長名で証票(シール)六枚、立て札及び看板の類を掲示する事務所の所在地並びに事務所ごとの立て札及び看板の枚数の記載が求められる。
上田善四郎氏の場合は、八戸市新井田横町某、新井田市子林某、新井田重地某、松舘細越某、港町柳町某(これは湊の間違いか?)長苗代某とある。番地が記載されているが個人情報のため記さない。某は黒く塗られているので「はちのへ今昔」も分からない。
こうした書類が全議員、及び候補者から提出されていたが、選管はこの点検をしていなかった。たまたま野立て看板に興味を持って調べたらこの候補者看板に眼が行った。
面白いもんだ、問題意識を持つと見えないものが見えてくる。実に世の中は知らぬことばかり。知る楽しみを満喫させるのが市役所の各課めぐりだ。あそこは知識の宝庫だ。総てのことは役人天国である役所が司っている。疑問質問が出れば情報公開に行って相談すればいい。実に奇妙なことが色々と浮き彫りになる。役人がダメなのではない、市民が無関心なのがいけない。誰も見ていないと思えば、立小便もOKと同じで、市民が常に監視していると思えば役人もまあいいかは出来なくなる。
意識革命が大事なのだ。我々の税金がどう使われるのか、疑問質問をぶつけながら、現在我々が置かれている立場を理解しよう。
「はちのへ今昔」の疑問を受け、選管は各議員、  候補者に看板の届け出に変更がないかと通知を出した。
坂本よしひろ議員のように連絡する家がない看板があった人からは訂正が出た。訂正を出さず撤去した人もあるようだ。坂本よしひろ議員は撤去して、今は立っていないのを確認。それでは誰が訂正書類を提出したかというと、八島隆、山名文世、田名部和義各議員、証票紛失届けが東野礼二、田名部和義各議員から提出された。その他からはない。
ここで市民監視部隊の出動が必要になる。一票差で落選した議員にまだチャンスあり、立て看板で公職選挙法違反を叫べば、現職が失職する可能性大。世の中は一筋縄ではいかない所が面白い。
上の写真の三浦たかひろは無人の駐車場に看板を立てている。実体のない連絡所で選挙違反。これが摘発され、罰金が科され禁固刑になれば議員資格剥奪。この男は是正通知も出さず、しらばっくれている。いいのか、こんなのが議員で。

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 終

総持寺は創立当初より開祖瑩山禅師の学徳によって、時の政府の多大な援助を受け、又その門弟に五哲乃至二十五哲等の大人物が輩出した為に曹洞宗宗団の成立と、その多大な発展をとげしめている。この事実は何人も認めざるを得ない。
 又永平寺は道元禅師の御意志により、山奥に不染汚の行を旨とした関係上、総持寺より三百三十年遅れて、慶安四年(一六五一)に初めて出世道場と定められて居り、その後順調に大本山として成長し、日本第一の修行の大本山、有難い大本山として発展し、今日に至ったのであります。環境静寂、風光絶佳にして道元禅師の只管打坐の仏法を行ずるに最適の道場であります。此の渓声是れ広長説、山色清浄身の道場をして、願わくは観光の寺、宿坊の寺、形式の寺としないよう熱望するものである。
 仏教の開祖釈尊は、カピラ国の皇位継承権を始め一切の世間的野心を捨て、最愛の妻子と別れて、専ら自己完成の為に難行苦行六ケ年間精進努力せられた。この自己完成の道を上求菩提といいます。この期間中は一切を捨て、一切から離れて専心修行しなければならない。専心修行し、自己完成したならばどうするか、己れ独り善しとして、出世間的世捨人の生活をするか、
それは釈尊の許さないところである。自己完成の後は、再び世に出て、衆生済度に献身的活動をせねばなりません。これを下化衆生といいます。この上求菩提を完成し、下化衆生の資格を得た事を証明する道場が出世道場であります。日本仏教、特に曹洞宗は、時の支配者皇室と信仰的に直結して、この証明を天皇の御綸旨によって裏づけしたものであります。出世道場で修行し、自己完成して世の師表となった僧宝は、大本山に勅請住職となり参内して御綸旨を戴いて国宝的人物となって全国的に派遣され、仏法弘通と国家安全と宝祚無窮(ほうさむきゅう・天皇の位。おおみくらい。皇位が極まりないこと)を祈ることに不惜身命に活動したものであります。これが出世道場の権威であり価値であります。前述せる如くこの制度が、今日曹洞宗に於ては、瑞世という制度となって、一ケ寺の住職になる資格を得る為には必ず両大本山の一夜住職をして来なければならぬ、但し、徳川時代までの勅請住職と明治以後の瑞世一夜住職との相異点があります。徳川時代までは一ケ寺の住職で有徳の者が勅請住職を勤めて御綸旨を戴き、京都に上って参内し、竜顔を拝したものでありますが、現在の端世一夜住職は未住職の者が住職資格を得るための一つの経歴となっております。勿論明治以後は参内は廃止となり、待遇も悪くなったが、宗教々師の素質も低下したと思われます。
 さて、大本山永平寺に於て、今日最も永平寺にふさわしい行事は何であるかを吟味すれば、それは眼蔵開催であると思います。正法眼蔵は道元禅師の暖皮肉であり生命であることは前述しました、この生命を生かす道場が永平寺本山であります。故に宗祖道元禅師は、尽未来際この寺を離れず一箇半箇の真竜打出に只管打坐せられたのである。一応基礎の出来た宇治の興聖寺道場を捨てて奥山の越前の国志比谷村に引越されたのは、世俗の紅塵を離れ、政治の干渉をさけて、ひたすらに、真実の仏法を自ら行じ、門弟に行ぜしめんが為であります。この目的と行を忘れたならば永平寺の存在価値が無くなります。永平寺に仏飯を食み、宗祖に奉勤しているものは夢々忘却してはならないことであります。
 この観点より判断して、穆山禅師が、水平寺西堂となり、雲水接化に力を入れ、眼蔵会を創立せしめるに至ったことは宗祖の慈恩に対して最適最善最上の報恩方法を示したものであります。最近の眼蔵会は人気も権威も大分落ちたように感じます。残念なことです。願わくば宗門人悉く奮起して、道心を起し、宗祖の御膝下で、現職総洗脳の懺悔修行をすべきであります。ここに声を大にして提言することは、宗門行政担当の宗務庁役職員は一致和合して、両大本山当局と歩調を合せ、永平寺に於ては、創立当時の眼蔵会の如く権威あり魅力あるものに改組せしめ、宗門有能の道心家を入所せしめ、少なくとも二年間の連続接心眼蔵会を修行せしめて師家の養成に尺力すべきであります。眼蔵家や師家の種切れせぬうちに緊急実施してもらいたい。又、総持寺に於ては最近、定期的に伝光会を開催していますが、これも単に眼蔵会に対抗する意味のものでなく、太祖様が、永光寺に如浄禅師、道元禅師の霊峰を設けて、宗門護持と発展を祈願せるを範として運営すべきものと思います。
 現時点に於ける宗門に於て、一番大事なことは、ソートービルを宗門第三の本山にしてはならぬこと、宗政家はグランドホテル経営に浮き身をやつして、宗政の正道を忘れてはならぬこと。そして、宗務当局と両本山当局が、よく水乳の和合合意の上、派閥感情の小心を捨てて両祖の心に帰り、現代の第二の五哲、二十五哲はおろか、新時代の五百羅漢を、宗門経営の大学教育機関と両大本山出世道場を通じて打出するよう配慮してもらいたい。
 故渡辺総持寺貫首猊下が発願して発足した師家養成所も今では影をひそめてしまった。これも永平寺眼蔵会、総持寺伝光会と調合して復活すべきである。駒沢大学の禅堂やソートービルの一室は地方寺院の参禅道場と何等変りないもので地域的階層的役割しか果せないものである。宗門の総合的最高の人材養成機関は、宗教の厳粛性を持ち、貴く不可侵の伝統を有する出世道場の両大本山僧堂に於て、両祖の御膝下で真剣に経営さるべきである。西有穆山禅師が、総持寺貫首となられてからも、大本山総持寺に於て、御開山が(道元禅師のこと)御開山がと大声で提唱されたのであるが、永平寺の貫首様が、永平寺に於て、太祖様が太祖様が、と大声で伝光録を提唱するような大人物が出て、そうしたことを文句をいわずに有難く拝聴するような両本山当局と雲水にならなければ、真の道元禅師の法孫とはいえない。宗祖は、禅宗とか、曹洞宗とか宗名を称うることまでいけないと訓誡せられ、宗我、法我を徹底的に排除せられた。その児孫たる我々が末法政党者流のまねをして、派閥感情に支配され、両祖の祖訓にそむき、両大本山の尊厳を損傷する如き行為は厳に慎しむべきである。
 私は、西有穆山禅師が、栄誉ある永平寺西堂職を勤めながら、敢えて、弟分の畔上禅師の後任として総持寺独住三世となられた心事を察して、穆山禅師は流石に偉いと今更の如く心服して居ります。又、当時の石川素堂監院が、烏有に帰した総持寺を復興する大事業を思って、道元禅師一辺倒の穆山老師を、英断を以て紫雲台にお迎えした愛宗の態度は偉大であって模範とすべきだと思います。
 明治三十八年二月十五日、大本山総持寺移転先も内定したので、これからの本格的移転再建の大事業は監院石川素童師の敏腕を思う存分発揮させるべきであると照鑑し、法鼓を打って、古巣の西有寺に隠退しました。
 禅師は、西有寺を安住の地とし、且つ最後の力を人材養成に尽されたのであります。
 筆者は、西有寺専門僧堂勤務時代に晩年の禅師様を乗せて、横浜市内を散歩したという人力車夫さんに、晩年の禅師様の生活模様を色々御聞きしましたが、車夫さんのいうには、禅師様は、毎日のように、西有寺の境内を一周して点検して廻ったそうであります。又岸沢老師から御聞したお話ですが、禅師は境内を雲水が掃いている掃き方を見て、ドレ、箒をかしてごらん、といって箒を取り、サッサッと軽く箒をうごかして、塵だけを掃き寄せ、こういう風に掃くものだよ、境内の地面は仏様の肌であるから傷をつけないように掃かねばなりませんよ。と親しく教えたそうであります。禅師様は、終焉の地である西有寺の境内をこよなく愛されたようであります。
 明治四十一年四月十二日、東京芝青松寺に於て米寿の祝寿会の開催が持たれました。発起人は、可睡斎往職日置黙仙師、大隈重信、釈宗演、大内青鸞、徳川義礼等政界、財界、宗教界の最高者壱百余人で、未曾有の盛況であったのであります。禅師八十八年の哀績と高徳を称讃して、代理人でなく、本人が参集したことによって、禅師の感化力の偉大さを証しております。
 明治四十三年十二月四日、禅師は、西有寺に於て、弟子達に見守られ、南無観世音菩薩を称え、弟子に起き上がることが出来なくなり、起してくれと頼み、合図があったら袈裟をかけさせろと言いつけてあった。弟子の「肩をハタとたたき」御袈裟をかけさせ、座臥し、眠るが如く遷化せられました。竜龕をとどむること三日間、あまねく法類門弟檀信徒に拝ませましたが、皆異口同音に、「禅師様は生きておられるようだ」といいました。
同年十二月八日に、西有寺に於て密葬し、同午后五時、大本山総持寺墳墓に埋骨されました。葬送の列は西有寺より大本山総持寺までつらなったといわれています。
   遺 掲
   老僧九十 言端語端
   末後の句無し 月冷やかに風塞し
禅師九十年の生涯は、真に言語端正にして、少しの邪悪無く、一言一句、一挙一動悉くが、宇宙の真理全現の聖句の連続であり、世間的の最後の一句を遺す必要もないことは、俳聖芭蕉の一句一作が遺言の句であったと同様であります。月は永遠に冷やかに、禅師の家風も永遠に厳冷で、世の明星となって現世に生きているのであります。

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 6

前号で昭和四十年代の武輪水産の置かれた位置を見たが、助子の赤字を出したあたりは、八戸の水産界は好景気の渦中にあった。
ところが、武輪水産は助子の着色の亜硝酸は体に悪いと使用を中止。問屋がこれに難色を示し、在庫の山となる。資金繰りが悪化し、金策に奔走中に労働組合が出来る騒ぎ。
踏んだり蹴ったりの様相。これは武輪氏が東北の旗頭となり、業界を健全な方向へと導こうとした結果が逆目となった。
無一物から東北一の水産加工業者となったことが、こうした業界を揚げての健康食品への舵取りをさせた。
ところが業界というのは頑迷で、簡単に東北一の加工屋の言うことに耳を傾けない。何を言っているんだぐらいのことしか考えていないのだ。
そもそも、亜硝酸塩は亜硝酸がヘム鉄に配位して鮮赤色を呈するので、ソーセージなどの食品添加物として利用された。鮮やかな色の赤に刺激されタラコはこうしたものだとの先入観が消費者にあれば、これを払拭するには多くの時間と宣伝が必要になる。
それを体に悪いから止めるでは、ナマの助子の色だけで本当に消費者は付いてくるのかの疑問が取引業者にはあったのだろう。
八戸の水産界の助子の取引量には変化がない。つまり武輪水産だけが先走った結果だった。商人は利益を挙げてこその企業。理念、理想は教育者・政治家の言うことで、商人、加工業者の目指すところではない。しかし、順風満帆であった武輪氏は健康こそ世の大命題と捉えたのだろう。
そして、この考え方は間違いなく、現今は無農薬の野菜・米を求める人々が増加。武輪氏は三十年も先を読んでいたのだ。しかし学者や預言者ならともかく、商人は時代を先読みすれば滅びる。滞貨の山となれば、血であるところの金が廻らなくなる。世の中は人・物・金の三つが廻らなくなると倒産する。
武輪氏は労働組合の人・滞貨の山の物・血の金の三つにつまずいた。しかし、武輪氏の言うことに間違いはない。時代が早すぎただけと金融関係も支援し、急場をしのぎ、赤字を三年で克服する強靭な面を見せる。しかし、払った授業料は大きかった。
 そして五十年代は難問の二百海里に直面
 武輪水産の五十年史を見ながら解説。
 昭和五十年度の営業概況にも原魚の価格は平均魚価に於て前年比いか五七%高、鯖六二%高、助宗一八%安で、いかに於ては塩辛を除き珍味製品は韓国物の安値に押されて内地物の市況は冴えず、鯖はフィレ、味淋干ともに人気なく原魚高の為採算を取る事が困難であり、代る商品として一夜干し味淋、〆鯖等の研究をなし順次軌道にのせつつあります。此様に今八戸の名産となりました〆鯖の生産を此時点で始めて居ります。助宗は魚価、数量ともに程々に推移し、生すり身、生子の販売は好調で、我社の伝統商品の一つである塩辛と共に最も高い収益をあげる事が出来ました。
 昭和五十三年度の営業概況によりますと、やや恢復の兆を見せた日本経済も円高によるデフレ効果が産業界に対し次第に圧迫の度を強め、不況から脱出を困難にして居り、消費経済全般の延びも見られない状況でありました。水産業界に於ても消費地市場の取扱高は金額、数量ともに微増に止まり、中には減額を呈したものも見られる等、近年になく沈滞ムードに支配された市況で、更に今年は二百海里漁業専管水城実施の影響が現実の姿となって現われ、北方水域に於ける底曳漁業の如きは潰滅的打撃を受け原料面に於いても非常に困難な状況に直面したのであります。当期の経過を概観致しますと、いかについては、するめいかはここ数年の傾向通りの最低の漁権高で価格は加工用として使用出来る眼界を越えて居り、これの代替品としての紫いかは十二万tと言う水揚げがあり、珍味原料やロールいかとして加工原料にクローズアップされてきました、鯖は秋口から好漁に恵まれ、鮮魚並びに、はまちの餌料として旺盛な需要があり、例年にない収益をあげました。助宗は北転船による水揚げは前年の二〇%と言う有様で一部得意先と自家練製品の原料向けに止まりました。今期決算は普通償却約五千万円、特別償却約二千万円を償却し経常利益約三千万円でした。
 (第三の谷間)
 昭和五十四年度は二百海里漁業専管水域の実施による影響は北海道、東北の漁業基地に於ては益々深刻な様相を呈して参りました。特に八戸に於きましては、北洋助宗の潰滅は業界に大きな打撃を与え我社に於てもスリ身、紅葉子、生子等の助宗関係の売上が激減し、ニュージーいかの水揚げがあったもののいか全休の水揚げが少なく、大漁のあった旋網鯖も大型の為鮮魚出荷を中心にし、加工ヘの切り換が遅れ、償却丈は満額計上したものの不本意な成績に終りました。此の為鯖対策として、第三冷蔵工場を農林漁業金融公庫と青森銀行の協調融資により着工、昭和五十五年度初めに完成、盛漁期に備え、凍結と原料の備蓄に活用すべく期待したのですが、昭和五十五年度並びに昭和五十六年度共、秋の盛漁期に於ける鯖漁は魚群の組成が大型主体であったため鮮魚出荷は大幅に延びたものの、加工用の小型、フィーレ型の水揚が少なく加工原料の確保に苦心致しました。然しフィーレ、〆鯖は二五%強の売上げ増を見、鯖関係の利益貢献度は少なからぬものがありました。
 昭和五十六年度に於けるいか関係については太平洋側に於ける近海するめいかの豊漁、ニュージーいかの過剰在庫、輸入いかの供給過多等のため魚価は暴落し、原料安によりサキイカは可成りの数量を拡売し往年の実績をいささか回復致しましたが、いか製品中の中核商品とも言う事の出来る塩辛が量、金額ともに若干減少した事は残念でした。以上の状態で昭和五十四年度より昭和五十七年度迄連続四期低調な採算に終りました事は誠に残念な事であります。此四年間の成績不良の一因として第二次エネルギー危機の影響もあります。即ち産地高の消費地安と言う市況の逆転現象、電気及び燃油等の大幅な値上げ、人件費、副資材、運賃等の高騰と言う悪条件が重なった結果とも言えます。
 昭和五十八年度は更にきびしく、漁業専管水域に対する沿岸諸国の締めつけ、海流異変による近海漁業の漁獲高の減少により魚価の高騰を招き水産加工業界の経営は困難の度を増しました。鯖につきましては鯖加工品中〆鯖は昭和五十七年度非常な好評を博し、六月には備蓄原料も底をつき得意先の需要に応ずる為、止むを得ず他社、他地方産の原料を使用して出荷を続けました。今期は前年の苦い経験に鑑み、充分な原料を確保すべく秋の盛漁期に原料魚の買付けに当たりました、処が今期の鯖は其組成が〆鯖、フィーレ等に適した型が非常に少なく、大型と小型(缶詰、はまちの餌料、魚粕原料向け)に二大分され、加うるに総水揚高が前年の三削減と言う貧漁となり魚価は高騰致しました。為に加工用原料を手当する事は困難となり、〆鯖は例年からすれば一廻りも二廻りも下のサイズを使用して加工致しましたが、販売は伸び悩み年間の販売額は前年比四割もダウンしました。鯖フィーレについても同様な事情であり、従って加工用原料として備蓄した原魚の大半はデッドストックとなり、小型鯖を使用する缶詰業界の輸出不振もあって、小型鯖を見切り販売すればKg当り四〇円から六〇円も逆鞘になると言う有様で、期末の七、八月には各月三、〇〇〇万円の赤字を出す結果となりました。(今から思いますと、五、六年魚と一年魚の混じりで中間の産卵が何等かの原因で少なかったのではないか、此時既に現在の様な乱穫の為、急速に資源の減少につながったのではないかと思われます)いかについても魚価は船凍するめいかをはじめとして、NZいか、紫いかも総じて高値に経過し、そのため主力製品たる塩辛の祖利益率も低下し、叉紫いかを原料とするいかロールは三陸筋のダンピングもあって市況は安値に支配され原価で販売しても尚赤字が出る状況でありました。
 以上のいか鯖の主力加工商品の不振が今期減益の主因となり、実に他の商品に於ても消費地市場の不況から原魚高の製品安と言う状況で、今期の加工品の平均租利益率は前期の一五%に対し、一〇%と下る結果となりました。此の為め今期は約一億三千万円の損金を出すに至りました。之が第三の谷間でした。
水産加工業者と漁業家は不即不離の関係にあり、魚がとれなくなれば加工屋も困る図式。
二百海里問題で日本は困った状況が出た。どうしてこの二百海里問題が発生したのか魚市場史から見てみる。
昭和四十年ごろから秋になると、八戸沖の日本領海近くにソ連の漁船団が出没し始めた。ソ連漁船団は昭和三十年ごろから北海道海域へ出漁していたといわれるが、次第に南下し始めていた。最初は一万㌧級の母船と二~三百㌧級の独航船二十隻程度で、サンマ棒受け網漁をしていた。鮫角から六海里辺りで操業し、陸地から肉眼でもはっきりと見ることができた。
 ところが昭和四十五年ごろになると、母船、巻き網船、トロール船、タンカーなど合わせて六十隻の大船団に膨れ上がり、八戸から三沢沖へかけてズラリと並ぶに至っては穏やかではない。しかも、日本では資源維持のためにトロール漁法を禁じている海域での操業とあっては、なおのこと漁民の気持ちが治まらない。だが操業位置が領海三海里の外であるので領海侵犯とはならない。こうした状況の中で日本漁船とのトラブルが発生し始めた。特に、八戸沖で四百隻前後のイカ釣り漁船の操業海域と重なっていることから「シー・アンカーを引っ掛けられ三十分も引きずられた」とか「イカ釣り針をもぎ取られた」という騒ぎ。中には転覆寸前まで追い詰められた船も出て「転覆事故が発生したらだれが責任を取るのか」と激高するありさま。その被害も数億円といわれ、漁業者が「緊急対策会議」を開き、ソ連大使館に厳重な抗議を申し入れた。ちょうど中国の国運参加、沖縄返還、陸上自衛隊八戸駐屯地のホーク部隊常駐問題など複雑な世界情勢の中、「漁船でカモフラージュした情報収集」といううわさも流れ、ソ連女性の水死体が発見されるとソ連側では該当者無しと突っぱねたりで、毎年秋になると漁民はソ連船団に悩まされ続けた。
 こうしたソ連漁船団と日本の沿岸漁民のトラブル防止のため、昭和五十年六月六日に「日ソ漁業操業協定」が調印され、損害賠償請求も出されたが、ほとんど実効はなかった。
 このソ連漁船団の出現は、実はソ連の厳しい食糧政策と関連があったのである。ソ連は農業生産や畜産が低迷し、その打開策として、漁業生産の強化を打ち出していた。昭和三十六年から漁業振興計画が立てられ、第二十二回共産党大会でのミハイロフ論文にはこう述べられている。「漁業に資本を投下することは農業に比べて資本を効果的に利用する方法であり、海洋を開発し、新しい漁業、魚種を求めることはわれわれの義務である」。ソ連はこうした論理で世界の海に進出して行った。多くの海域で大型船の操業によって海洋占有の実績をつくりつつ、一方では「海国ソ連」を誇示するのがその世界戦略でもあった。
 ソ連の漁船団は太平洋、大西洋、バルト海、北氷洋、インド洋と全世界にカマとツチの赤い旗をなびかせながら漁獲量を増やしていった。
 こうした動きは折から台頭しつつあった「二百海里経済専管水域」とも複雑に関連し、世界は一気に二百海里時代へと突入していくのである。八戸沖に毎年出没したソ連の漁船団は二百海里時代の到来を予告する「黒船」でもあったのだ。
二百カイリ問題の経緯
 昭和十三年、アメリカ・ルイジアナ州沖のメキシコ湾大陸棚で、海底油田の試掘が成功した。それがきっかけとなって、第二次大戦が連合国側の勝利に帰した昭和二十年、アメリカのトルーマン大統領が待ちかねていたように、水深二百㍍までの大陸棚を自国の領有とする「トルーマン宣言」を行った。これがきっかけで、海洋再編の動きが始まったのである。
 昭和二十七年、李承晩軍事ラインが引かれ、同じ年にペルー、チリ、エクアドルの三国による二百海里領有のサンチャゴ宣言がなされるなど、多くの国の複雑な動きが続いていたこうした状況を収拾し、共通のルールを作ろうというのが海洋法会議の開催であった。昭和三十三年には国連主催による第一次、次いで三十五年には第二次の海洋法会議が開催されたが、各国の利害が対立し、合意に達することはできなかった。この時点においては、議論の中心は三回海里説と十二海里説の対立であって、領海二百海里説は例外的な意見でしかなかった。
 ところが、昭和四十九年のカラカス、翌年のジュネーブでの海洋法会議までの二十余年の間に世界情勢は大きく変わっていた。かつては大国が国連を動かし、世界世論を左右していたが、アジア・アフリカ諸国が国際社会に大きな発言力を持つに至ったのである。これらの国々の多くは貧しく、近代国家として大きく立ち遅れていた。彼らは先進国の資源と富の独占を阻止するために強烈な主張を始めた。カラカスの準備会議があった昭和四十七年のアフリカ諸国ヤウンデ会議で二百海里経済専管水域が提案され、熱烈な拍手を浴びたのであった。経済専管水域(エコノミック・ゾーン、略してEZ)という耳慣れない言葉に問題の本質の変化をうかがうことができる。
 領海とは、言わば領土の延長であり、侵犯は許されない。しかし、経済専管水域では沿岸国は一定の水域内で天然資源の探査、保存、管理、開発について「主権」と「排他的管轄権」を有するというものである。したがって、海上の通常の航行までも規制するものではない。海底資源までを含めて管轄権を有するという、この二百海里(EZ)が多くの国に支持され、海洋法会議の主流を占めていったのもまた当然である。昭和五十一年のニューヨークの海洋法会議でも合意を得るには至らなかった。しかし、二百海里EZは完全に世界の大勢となっていた。海洋法会議での合意を待たずに、一方的に二百海里宣言を行う国が続出した。これは途上国だけではなかった。五十二年の年明けとともにEC、カナダ、ノルウエー、二百海里に反対していたソ連やアメリカも、二百海里EZであれば航行上の制約はなく、世界戦略上支障なしと三月になって同調した。むしろ、世界世論の反発を恐れたのである。こうして世界はなだれるようにして二百海里時代に突入した。
 世界一の水産国日本は最後まで世界世論を読み切れず、エクセプト・ワン(ただ一国のみ反対)といわれ、孤立していた。そして、事実上二百海里時代に入ってから、日本も同年四月、遅ればせながら二百海里宣言をしたのである。この時から日本漁業は苦悩と試練の中に立たされたのだった。
魚が獲れなくなる。漁業家と不足不離の水産加工業者もこの問題を避けては通れない。妙なのは難問が出ても、一度や二度はその後、巧く運ぶのが世の常。しかし、次第に事態は厳しさを増す。日本有数の加工場を持つ八戸は、この問題をどう解決するのか、人々は智慧を絞る。置かれた環境の中、解決策を求めて人々が動くが、相手は世界、簡単に結論は出ない。出口は次第に狭まり、魚は確実に減少の一途。さて、当時の人々はどうしたのか。武輪武一氏の打った手は? 次号に続く

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 7

八小の杉と語る
         福 井   清
         (昭和十一年三月卒業生) ロータリーに、幾百年の風雪に耐えて毅然と立っている古木(高野槙と言う杉の一種)がある。私はこの杉を八小の杉と名づけたい。と言うのは、明治大帝もお泊りになったと言う往時、最もモダンなあのステンドグラスのある旧校舎(旧図書館)の前庭にあったからだ。私たちは最初に今の校舎に入ることの出来た一年生でもあった。その時は、余りの面白さに新校舎の廊下で暴走して、某先生に叱られたことを思い出す。
 さて、この大樹はいつごろから植えられているのか知る由もない。しかし、少なくとも、最近世になってから、このあたりは文教、政治、治安の中心をなして来たが、そのまん中に立っているこの古木こそ、語らざる生きた歴史であろう。
 春の雨、秋の霜、幾星霜の間、この木の下を子供たちが元気に通いつづけて来たことだ。そして、その子供達の行く末の幸を暖かいまなざしで、祈っていたことであろう。今日又、校庭に遊ぶ子供たちの喜々とした笑い声を聞き、教室で鉛筆を持つ真剣なる子供たちをじっと見守っている。私は、この古木を仰ぐ時、何かしらほのぼのとしたものを感ぜずにはいられない。
ちょっと話をしてみよう。
私「母校が創立九十周年だそうで、ご感想は?」
杉「感無量だ……」私「今日を記念して 今後、貴方を八小の杉と呼びたいと思いますが:一人ぽっちで淋しいでしょう」
杉「まあね。十年ばかり前、昔から同じ校庭にあった仲よしのさいがち君が亡くなってね。今では私一人だ。二十世紀のなかばというのに、アカテコのお化け話なんか貰って気の毒なことしたよ」
私「八小の子供たちも成人すれば、八戸市民として活躍するわけですが、八戸の現状について一言……」
杉「武家時代からみると隔世の感がある。特に最近、新産業都市に指定され、前途は洋々としたものだ。私は八小の充実と市の発展を車の両輪のごときものと考え、今後とも見つづけるのが楽しみでなあ……。ただ何と言っても主体は人であるから、立派な人間がどしどし出て貰らわないことには面白くない。私の言う立派な人間とは、必ずしも形式上の社会的栄達を得た考や又富の蓄積を以って人間価値の最高度に達したつもりでいる連中ではなく世の中の色々な問題をより良いものにしようとする高い頭脳と暖かい心の持主 だ。年輩の人の中には昔の良き時代をなつかしむ傾向があるが、これから本当の良き時代をつくることだ」しみじみと古木は語る。
私「恩師故北沢義明先生をはじめ、諸先生の愛情ある薫陶を受けたにかかわらず、パッとしたこともしないまゝ既に中年になってしまい恥かしいと思っています」
杉「何を言う。北沢先生だけが亡くなられたが、他の諸先生は尚、かくしやくとして居られるではないか。幸いお前は健康だし、頑張る時ではないか。しっかりやれ」
私「いや、恐れ入りました。では御元気で」
来年も又、十年後もこうして大空を背に立ちつづけ、八小の卒業生であり、そして、八戸市民である我々を、励ましてくれている八小の杉の幸を、母校の発展と共に折りたい。
                     野々口 昌 子(旧生千葉)
    (昭和十一年三月卒業生)
 昭和十年当時の八戸尋常小学校六年生の二十七学級は生徒数六十二名の現代で云うすしずめ教室でした。授業中「先生、おしっこに……」と云い終らぬ内に失敬してしまう様な内気な男の子の居た時代だ。その頃からおっちょこちょいだった私は小使室へすっ飛んで行き、あと始末のためのお湯を貰わなくてはならない。
 当時は二人小使さんが居た。堅い大きな馬鈴薯の様な頭で眼のギョロリとしたおっかない顔の小使さんが居てくれるとほっと安心してうれしかった。あの小父さんは見かけによらず、とても優しかったから。
 小使い室から屋外の渡り廊下をつたい、職員室の前の階段をなるべく音を立てない様に上る。階段を上り切った廊下が少し広くなっているので、そこが男の子の結構な精力のはけ場で寒い冬の日の休み時間など子供達が何時もクリクリ坊主に黒い小倉服でまるでまっ黒い犬ころが幾匹もぢゃれてる様に重なり合って遊んでいたのが目にうかぶ。
 始業のベルが鳴り全部教室へ引きあげたあと猫とあだ名のある子がきまって最後に坊主頭を後から両手で撫で乍ら泣きじやくって隣りの寺井先生の教室に入るそれから先生が階段を上って来られて授業が始まるのである。私達の担任の先生は教え方のとてもお上手な(特に算術が面白かった)先生だった。でもおっかなかったな。
 読み方の時間一人の生徒が立って本を朗読している際、聞いている先生が突然大音響連発放屁をして、子供達は二尺も飛び上ってそして吹き出した。途端に先生はお尻をさすり乍らしかつめらしい顔で笑った子達を叱ったっけ。「屁をたれて何がおかしいと」……
 先生にたまに街でお目にかかる。いつも若々しくて御元気のご様子、その都度三年間訓えを受けた感謝の念とおっかなかった子供心とをミックスして感情をこめて丁寧におじぎをする。仰げば尊し我が師の恩と………。
 三十年は夢のごとく去り、あの猫君も小使さんもあの校舎も全て懐しさでいっぱい。
 
鈴木あじや(昭和十三年三月卒業生)
 家から机を持って行って学んだ寺小屋が廃止され、数多くの八戸人の母校となった八戸小学校が今お目出たい九十周年を迎えます。第一回生として祖父が入学してから母、私、子供と四代にわたって様々の思い出と共に育くまれて参りました。
 祖父の頃には鞭で教えるので子供らは余り学校が進まなかったとか。
 時が経って私共の頃は、其の様な事はなかったのですが、女の先生方は和服に紺袴。洋服の方はお隣りの組の浅香先生、船越先生方ぐらいではなかったでしょうか。生徒等にしても、着物の子も多く、しかも共布の前だれの人もあったもので、風邪でもひけば必ず和服に袴だったのでした。
 男女は南北の校舎に画然と別れ、一学年は男女二組づつ。講堂に集る時だけ一緒なので学芸会等で目立つ子しか知りません。
廊下に帽子掛があって、お弁当や襟巻がゆさゆさと掛り、昇降口には各組の下駄箱がずらりと並んでいたものです。つい最近まで、此処がよく夢に現れたのは、六年間一日の課業から開放され、楽しくおしゃべりしながら別れた所だからでしょうか。
 運動会での寺井、野田先生方の若々しい白ズボン姿。どうしていらっしゃるか当時の古山校長先生の真面目な禿げたお顔、思い出は次から次へと尽きる事を知りません。
 ついぞお目にかかった事もない若かった先生方。そして火に当りに行ってはどなられた小使さんたち。同じ思い出を持った数多くの幼かった友だち。立派に身を立て、得意の日々を送る方も多く、又、悲しくも亡くなった方々も多い事でしょう。私たちには今はもう、学舎としてよりも心の故郷となった当時の八戸小学校よ、いつまでもいつまでも私共の心の支えとなってください。
 そして九十周年記念を迎え、益々内容も、又、外観も充実して行く八戸小学校よ、明日への人造りの為に愈々栄え、発展してくださいますよう。
 
鈴木ルリ子(昭和十四年三月卒業生)
 三年生の秋に転校して来た私は、八戸がどんな処か、それが市である事も知らない程でしたから今の子供にくらべて何と無知だった事かと思います。青森から来てさえとても遠い処へ来た様な心細い気持でした。
 柏木テフ先生の担任の級は一年生からのもち上がりで、当時でも珍しく卒業までつづけて受持っていただけた事は何よりも幸いでした。皆に笑われた私の「マイネー」がまもなく「ワガネー」となった時にはもう何の不安もなしに八尋にとけこんでいたのでした。
四年生の頃転校生にSさんがいました。遅刻の常習犯でしたが、それというのも旅舘で働きながら通学しているとの事で年も多い様な気がしました。恐らく不幸な境遇の人だったのでしょう。いつも髪はぼうぼう、汚れじみた和服に虱をはわせている彼女を私たちは何かにつけ馬鹿にしいじめました。いじめられながらも教室のおそうじでは人一倍一生懸命働いていた彼女に心の中ですまないと思ってはいたのですが。
 校門の左右にあるプラタナスは卒業生にとって忘れ得ぬ木だと思いますが、私にはもう一本思い出の木があります。
 秩父宮様の御成り記念に植えられた小松の世話をするのが当時六年女子の名誉ある仕事で、国旗掲揚台の傍の白い柵にかこまれた一劃はいつも一本の草もない様清掃されていました、毎朝の国旗掲揚のたびに若々しい緑が目に映え、日ごとに成長してゆく木は私たちに誇と勇気を与えてくれました。
 私の子供が同じ学校に学ぶ様になって、思い出の中にすっかり薄れていた木が再び身近なものとなって浮かび上がりました,どんなに大きく立派な木になったかとひそかな期待をもっていた私の眼にうつったのは忘れられた存在の様に、あたりとはちぐはぐな感じで枝も少なく立っている一本の松でした。かつてのあの松とはどうしても思えません。枯れてしまったか、或いは私の知らない中に何処かへ移されてしまったのでしょうか。いずれにしても私はそこに過ぎ去った長い年月の移り変わりを見た様な気がしました。
 いろいろと楽しい事があったのにこんな事を書いた私はいささか感傷に溺れた様です。むしろプラタナスにつながる明るい思い出を書くべきだったかもしれません、

思い出の馬っこ教室
   前原義一(昭和十七年三月卒業生)
 現在、四人の父親として。いらっしゃいませの商人として、激しい商戦のまっ只中にある私にとって、よく晴れた朝に子供を連れて、三八城公園に行くほど楽しいものはありません。
なつかしい八戸小学校の校庭を横切るとき「おとうさんの勉強した教室は、あそこだったよ」子供の肩に手をやり、指さす二階は……そうです。今から二十二年前、六年生のときの馬っこ教室です。
先生の仇名が馬っこ、現在豊崎中学校長、工藤正雄先生です。乗馬ズボンのよく似合うスマートな若い先生のもとで、数々のエピソードを残して我々は卒業しました。
戦時色いっぱいの当時は、食糧増産のため校舎裏の日当りの悪い土地も利用して畑作りをやりましたが、出来た大根などどれもこれも、馬っこ先生みたいなスマートなものばかりでした。
 級長の柏本学君(日立研究所)はすごい秀才でした。スポーツ万能は泉山正二君(中央駐車場)でした。どうして自分とあまりにも違いすぎるのだろうと劣等感に悩んだものです。
 坊ちゃんコト広沢安一宜君(明治乳業本社)をリーダーに我々番町グループは団結が固く、ずいぶん悪童ぶりを発揮して、馬っこ先生を手こづらせたものです。
 小学二年の時父親が戦死しましたが、馬っこ先生に引卒されて靖国神社に参拝し代表として、NHK弘前放送局より感想を放送したあの感激は一生涯忘れられぬ事です。
 現在の校舎は私がはいっていた当時とチットモ変っていません。母からネダったわずかなお金でよく買い物をした真向いの田村商店も、なつかしい事の一つです。
 長女も今で八小学校一年生。「小学校が近くなりにけり」を実感として今朝もトンボの行きかう校庭を子供の手を引き横切るのでした。
        
クラスメート鼻の高い級友
 大友善二郎(昭和十八年三月卒業生)
 幼き頃の学び舎を去り二十有余年、省みますれば早いものです。まぶたに浮かぶ思い出は、昨日の事の様に思えてなりません。悪戯をして廊下に立だされたり、雨の降った日、プラタナスの下で喧嘩をし泥んこになったり、今更ながら腕白だった自分を省みております。
 我々の級はどこへ出ても恥ずかしくない程の人が、社会の第一線にて大活躍してますので我々も一応は鼻が高いと云うものです。
 それで主なる人をこの紙上を借りてご紹介致したいと存じます。先づ第一は、級長の永山文男君、彼は東京水産大学の教授で農学博士と云う立派な肩書を待つ学者で只今米国へその道の研究の為留学中です。副級長は、誰でもが知っている郷土の誇り「忍ぶ川」で芥川賞授賞の三浦哲郎君です。当時私と席を同じくした時が二・三度ありやはり綴方は群を抜いて居りました。
 組長クラスには、日赤の歯科医長の立花義康君、彼は剣道の選手で他校試合には気迫のこもった勝負をし我々を喜ばせてくれたものです。工藤伸夫君は勉強は勿論、優秀なスポーツマンで、クラスは当然、市内の小学校対抗には、スケート、剣道、柔道、相撲、バスケット等、彼の右に出る者なく、優勝ばかり味わって居りました。その彼が我国鉄鋼界の先端を行く日本鋼業に勤務し若手のホープとして活躍が期待されてるそうです。その他学界に実業界に教育界に皆それぞれ持味を発揮して活躍しております。当時軍国主議華やかなりし頃でしたので教育も全て戦争につながっておりました。将来の希望と云えば陸海軍大将若しくは大臣、等と誰もが答え、学者、医者、作家、社長などと云う人は全然ありませでんした。この様に時代の移り変りは激しいものだと今更ながら驚いてまります。

十五才の涙
    岩岡三夫 昭和十九年三月卒業生)
 昭和二十年のたしか八月七日か八日だったと思います。戦争も終わりに近づいて、本土は毎日B29やグラマンの空襲をうけておりました。
 その日は朝から八戸市もグラマンに襲われ、防空壕に出たりはいったりでした。町内の人たちは、ほとんど疎開してしまい数えるほどしか残っておりません食べ物のなくなったイヌやネコがうろうろしているだけでした。
 わたしは、八戸中学校の二年生でしたが、どうしても疎開する気になれず、鉄かぶとにゲートルという勇しい姿で頑張っておりました。何度目かの空襲のとき金属性の爆音が近づいたかと思うと、かなり近い所へ。「ズシン」と爆弾が落ちたような衝動がありました。しようい弾だったら消さなければならないと、すぐ防空壕を飛びだしてみると、すぐ近くからまっ黒い煙がもくもくあがっておりました。その方向がどうも学校の方らしいのですぐ屋根の一番高い所へあがってみました。(まだその辺にグラマンがおりあとで命知らずだと、父親におこられましたが。)その時は夢中でした。見ると小学校の男子の校舎、いまの市庁よりが燃えており、黒い煙から、間もなく何本も火柱があがり、みるみるうちに校舎は火煙に包まれてしまいました。わたしは校舎が焼け落ちるまでの相当長い時間屋根の上から見ておりました。そしてポロポロ落ちる涙をどうすることもできませんでした。
 その日の夕方焼け跡へ行ってみましたが、六年間学んだ教室はあとかたもありません。どの教室のどの場所にどんな落書きがあり、どこがどんなにこわれているか、知りつくすほど親しんだ校舎が無くなったということは、六年間の小学校生活にまつわるすべての想い出が失われたような気がして、たいへんセンチな気持ちで焼け跡へ立ちつくしたものでした。
 あれから十八年もたちました。今の子どもたちは、もちろんのこと、わたしたちでさえ戦争のことを想い出すことはなくなってしまいました。十五才のとき母校が焼けるのを見ながら流した涙。この涙と同じ性質の涙をもう二度と流すことはないでしょう。
 その後もこの通りに校舎が復旧したときはとてもうれしく思いました。どんなに古くなっても、いつまでもあのままであればよいと思っております。

八小の思い出 杉 本 武 男
         (昭和二十年三月卒業生) 私には八小の北側校舎半分は未だぴんとこない。六年の時は隣りが女のクラスだったが、ちょうど職員室を境にして「女の舘」の様な感じの北校舎は、卒業してからもしばらく神秘的なものだった。音楽室に行くにはみんな群をなして女生徒の中を走りぬけた。何時だったか、いたずらした級友が二・三人女の教室へつれて行かれ勉強したが、目を赤く泣きはらして来た事が記憶にある。今のように男女共学でない頃の八小の校舎は、黒光りのする奥深い城みたいな印象をうけた。
 我々の担任、馬っ子先生は剣道の達人。五年の時だったかな、ちょびひげをたてた。
 県下の優秀教員として、「雷電」?と云う爆撃機にのった話を全校生徒に話した。剣道の練習はきびしかったな、先生は背が高いので、「メン!」と一発くらうと頭の後の方に火が出て、じじんと涙がうかんで来た。だが招魂祭で小中野、長者をやぶって、ひさしぶりに剣道の優勝旗をもって帰り、作法室でキミを腹一杯たべて喜んだのも忘れられない。馬っ子先生との思い出はいっぱいである。級友では、石川、田北、村田、稲垣君などが秀才だった。でも腕力と学問が両立しないでみんなぼっちやん。今は一流大学を出て都会で活やくしている事だろう。運動では、晴山、スケートの畑中両君がずばぬけていて、隣りのクラスの板橋君などと、運動会ではトップ争いをしていた。私はハナたらしの方で、教育勅語を校長先生が読む時は苦しくて仕方がなかった。しかし、小学校の思い出は一番祝日のおごそかな式と″雲にそびゆる高千穂の″などの式歌、女の先生のハカマなどとむすびついている。戦時中とは云え幸せな良き八小時代の思い出ばかりである。

「八尋」  豊 島 弘 尚
        (昭和二十一年三月卒業生) 遠い記憶しかない。第二次大戦、戦局ますます日本にとって不利になり、私らも銃後の人間として「八紘一宇」「ほしがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」の精神で、高舘飛行場開墾に狩り出され……モッタをかつぎ、草の根をおこし、豆を植え、また校庭一ぱいで飛行機の上にかける網(飛行機の地上濠の上にかけ草をさし込んでカモフラージユする)を作る作業が毎日であった。私は級長などという管理職を奉命していたので小さい体のため人一倍のパッションとファイトを持たないとつとまるものではなかった。幸(?)にして戦局急、学童疎開ならぬ任意疎開で北郡十三村へ行ったのだが、そこもソ連艦船の毎夜の哨戒におびえていなくてはならずだった。だが八尋の学力より一カ月もおくれていたため、何もしなくてもよかったことを記憶している。
 敗戦――私は六年生だったと思う。八尋のコの字の三分の一が焼け、ガラスがトロリととけ、柱が黒くまだ灰にはなっていずー意外と太い柱でできているものだと感じ、焼け跡の破壊のニオイにハラを立てーそれからは生きるべき兵糧に悩まなくてはならなかった。そのころから絵を描き始め後に八尋で総合展やらをやったことがあり、教室に宿泊したことがある。あの広くもない校庭の一隅、プラタナスの大木を背に傷心のバイキングの様に冷たい天の川を見、その根元にエメロルドに光るサソリのあたり、黒く浮かぶ八尋の校舎をやはりいうならば「母」だと感じたことである。星の運行表の遠い空間のようである。 今私は人間について考えている。(画家)

ふ た 昔 久保田実
        (昭和二十一年三月卒業生) 二十年足らずの学校生活の中でもやはり思い出に残るものは、何と言っても小学校時代であろう。
 コの字形の校舎、校庭の築山、ブランコ鉄棒、ジャングルジム、廻転シーソーそして砂場等に思い出されてなつかしいものである。
 正面玄関左側のガラス戸棚の中には「努力の跡」と書いた諸先輩達の残して行った優勝楯やカップがぎっしり飾られて居り、ピカピカ光る講堂の脇の廊下には木製の薙刀がかけてあった。
 また二階中央の作法室という畳敷きの部屋もあったと記憶している。礼儀作法と言えば、小学校入学当時、担任の小杉先生と廊下で初対面の際に挨拶をする事も知らなかった自分を今になって恥しく思っている。
 当時の教育は、先生任せのいわゆる学校教育中心で、家庭でのそれはあまり厳格ではなかったもののようである。
 小学校時代の大半は戦争中であったので、校長以下「忠君愛国」「滅私奉公」の精神で貫かれて居り、朝礼の最初は先ず皇居遥拝をもって始められた。古山校長は小柄な方であったが、自ら校歌を高唱するなかなかの名校長であった。ある日長者山に焚きつけ燃料の杉の葉拾いに行った帰り、坂のあたりで校長先生と出会い、挨拶すると「ああ、感心々々」とおほめの言葉を頂いていい気持ちになったものである。ところがそれから暫く後で、何であったか一クラス全員が講堂に集められてシコタマしぼられた時には身の毛もよだつ思いであった。
 現在の生徒諸君は誠に明るく伸び伸びとしているが、半面先生を友だちの一人のように扱っているように思われてならない時がある。
 型にはめられたような我々の時代の教育とは違い、これも個性を伸ばすための民主教育のしからしむところであるのかもしれない。
 戦前の教育を受けた私などから見ると、まさに隔世の感がする。古いと笑われるかもしれないけれど今の生徒諸君にも「三歩さがって師の影を踏まず」といった気持ちがあっていいのではないかと思うが。

あ の 頃 橋本千鶴子
        (昭和二十三年三月卒業生) 小学校といえば今も変らない大きなプラタナスとコの字型の校舎が思い出されます。敗戦の時四年生だった私は小学校の後半をコの宇の一片を失った校舎で、今のことばを借りるならすしづめ学級の中に、色々不自由しながらそれでも楽しく送りました。
 疎開から帰り、なつかしい学校へいった時、私の胸は驚きと悲しさでいっぱいになりました。空襲で被害をうけ、校舎の片方がなく、赤く焼け曲った鉄材や黒くこげた木がたくさんころがって、戦災の恐しさを見せておりました。卒業後、校舎がもと通りに建てなおされた時、別に用事がなかったのですが、はだしでそっと誰にもみつからないように歩いたことがありました。八戸小学校の卒業生として新しい校舎を歩きながら、成長した自分をふりかえったものです。
 六年間を通じて、自分にとって残念な事が一つあります。それは大切な元日の式に遅刻したことです。昭和二十年の元日、父につれられて妹と八幡の八幡様に元朝参りに行きました。その頃はバスもなく、小学校三年と二年の私たちには八幡までの往復は相当負担だったようです朝三時に起こされ、父にはげまされながら八幡まで歩きました。雪でほの明かるい道、きゆっきゆっとなる足音も初めは軽快でしたが、次第に足どりもにぶりがちでした。あの時は、戦争に勝つようにと一心に祈ったものでした。白々と明ける頃家に帰り疲れとねむさでこたつにはいり、二人で寝入ってしまいました。九時からの新年の式に出るため、母におこされてもねむくて起きることが出来ませんでした。学校にいった時は、すでに式ははじまっておりました。大切な式に遅刻したので、先生のこわい顔を思い浮べたり、皆の前で叱られることを考えると、胸がどきどきし顔が赤くなってくるのでした。廊下でうろうろしていると、上級生が親切に式場へつれていってくれました。後で先生に理由をお話したら、担任の宮重先生は「えらかったこと」とにっこり笑って下さいました。それでも今だにただ一度の遅刻が気になって残念でなりません。年を積んでいく程、小学校の頃がなつかしく思い出されます。九十年もの歴史を持つ母校の卒業生として、大きな誇りを持っております。

放送室の猫は  及川明雄
        (昭和三十二年三月卒業生) 三、四年前の夏、八小の放送部でお世話になった先生を母校に尋ねる機会に恵まれました。私八小学校の後半三年間を放送部に籍を置いていた。住み馴れた我家に戻った気持ちで部室を覗くと、あのマスコットの。首振り猫が昔のままチョコンと座っていた。それは言い知れぬ満足感を私に与えてくれた。夕暮近く旧校舎の長い廊下を歩きながら、「伝統の香」とも言えるあの懐しい匂いの中で、私はまだ改築されていなかった前の古い放送室のことを思い出していた。旧式の機械一組に一本だけのマイク。そんな設備の中で、かたちばかりの放送劇に勢いっぱいの情熱を傾けていたあの頃。無情なまでの先生の稽古に、それでも一生懸命についていこうと頑張っていたあの頃、先輩たちの卒業で味わった寂しさと重い責任感は幼い私を成長させてくれる責重な礎となった。あのボロ放送室には数々の思い出の集約がみちみちていたのである。放送室の改築が本決まりになった時、まっ先に先生は皆を集めてこう言われた。「君たちの努力が報われたのだ」と。その時の皆の喜びが、あのマスコツトの黒猫に象徴された。
 先日、上京しているかつての部員T君と会った。彼は手に握った小箱を私に示しながら「覚えているかい」といってその蓋を取り除いた。そこにはあの黒猫とそっくりのものがニユツと顔を現わしていた。今私の机上にはそれがチョコンと座っている。
        
 故郷に小学校までの思い出しか残らなかった私にとって、八小は唯一の懐しい母校である。都市と呼ぶにはあまりに貧弱な駅に降りて間もなく、右側に鈴懸の大樹――それは秋の日の午後ひっそりと落葉を散らしながら私の再度の訪れを歓迎してくれることだろう。
 寄稿いただきました原稿は原文のままといたしました。

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」6

平成熟年も秋山皐二郎さんを始めとして、色んな人が死んだ。死なない人間一人もない。一年をふりかえると、あんなことこんなことと様々あるもんだ。そんな中、半年をこのギャラリー道で「私のありがとう」を開催させていただき誠に面白い経験をさせていただいた。
 大体、テレビを見て一日を暮らし、テレビに向かって吠えてる自分に嫌気がさす。子供を殺さなくてもよかろう、親を、亭主をと様々腹が立つ。でも、それもマスコミに踊らされている。この前、NHKが火事の家の三階から乳児を投げろと隣人が叫び、その子を抱きとめて助けたニュースを民放は流さない。
 刺激的な話ばかりを集め、心楽しい話はボツにするでは世の中間違っとる。嫌な話より楽しい話ばかりを集めることこそ大事だ。大体、人殺しの話なんてのは聞いてて楽しい訳がない。知りたい話は心温まるものだ。そして、その話は何度聞いても嬉しくなるもんだ。
ちょっと前に一杯のかけそばってのが流行ったことがある。人々はそんな人情噺に飢えているもんだ。
人情紙風船とも言われる人の情は、人とどう触れ合うかにかかるのだ。人と言っても健常者ばかりじゃなく、体が弱い、心も弱い人だっている。そんな心弱い人に、あんたはネ、今、心が風邪をひいているんだヨ、薬飲んでじっとしていると少しずつ良くなるからネと諭すのが北村道子さん。精神障害者の自立支援施設を経営される。
この人は人情家で人の話をひたすら聞く、そしてともに涙する、その後、今の心の風邪の話をされる。滲みるな、心の奥底に…。そして病んだ心にやる気が出る、出口のない道に出口を示す光明を見出す。そんな努力を十年継続される。なかなかできないことだ。その人が、「私のありがとう」の場を提供された。人を集め、自分の経験した嬉しかったこと辛かったことを喋りあおうというものだ。宗教も勉強も関係ない、今、一緒に生きていることを喜び合おうという、ただそれだけのものなのだ。
その場に彩りを添える意味で踊りがある、唄があるといった、言わば寄席。十一月二十三日(金)が今年最後の「私のありがとう」だった。次回は二十年の四月二十五日(第四金曜日)午後七時から。何故二十年まで待つかというと、筆者が旅行にでかけて四月にならにと帰ってこないからで、自分勝手な理屈。
今回は人の情に弱い男に司会を任せた。その人物は晴山さん。実に軽妙な喋りの出来る人だが、どうも話の組み立てに雑なところがあり、話をもりあげるコツが今一つ?めない。喋りの技法を教えよう、だが、教わって出来るようにならないのが、話芸、実践以外に修錬の場がない。そこで筆者の代わりに前面に出させた。突然の指名におじけをふるうでは上達は望めない。いついかなる場でも平然と全体を眺めて、そつなくこなすことが出来るかが問われる。
気配り半分目配り半分が司会のコツ。うまくまとめることが出来た。絶えず時計と睨めっこの司会業は場を読み取ることが出来なければ務まらない。面白おかしくまとめるか、格調高く納めるかは司会が選ぶ言葉による。まして、この「私のありがとう」は参加者から話を引き出さなくてはならない。そこら辺は晴山さんは実に巧みだ。軽く言葉を投げて実に明るい言葉を引き出す。誘導されて普段思うことがつい口に出る。
いつもおばあさんと一緒に来る小学生がいる。小針さんの坊やだが、おばあさん、第四金曜日だから行こうと言ったそうだ。来るとファミコンゲームに熱中。いつも下ばかり見てゲームと会話。おばあちゃんに誘われて仕方なしに来てるのかなと思うと、おばあちゃんに第四金曜日を教えた。晴山さんに、あの坊やは何で来るのかね、いつも下ばかり見てゲームをしてて、面白くもないだろう年寄りの話は? すると人情家の晴山さんが、名答、おばあちゃんと居たいんですよ。
 そうか、そうだったな、筆者も婆さんといた僅かな時間がいまだに宝物になっている。気が付かなかったなあ、孫は誰が教える訳でもないが、体の中の時計が、残り少ないおばあちゃんとの時間を伝えているのだろう。優しいなア、坊やも晴山さんも。今回の参加者は早川、木村、鈴木、加賀、富田、大久保、斉藤、清水、川村、中村、本宿、東野、坂本みちのぶさんと踊り子の八食センターで乾物販売店店主の安宗さん。
この人が「上海の花売り娘」を踊った。紅いランタン仄かにゆれる夢の上海、花売り娘、誰のかたみか可愛いい耳輪、上原げんと作曲、昭和十四年の岡晴夫の唄。この岡と上原は同じ部屋に下宿し、上野御徒町の万年筆屋で働きながら歌手を夢見た。そしてあこがれのハワイ航路で歌の星、あこがれのスターとなった。日本が海外侵攻はなやかなりし頃の異国情緒たっぷりな歌に乗せて、安宗さんが踊った。手品を加えた独特のもの、結構ファンもいて人気者、一芸に秀でた人は人生を二倍に楽しむことができるもの。
市会議員の坂本みちのぶさんが顔を出し、足の裏を揉むと体の調子を良くすることが出来ると教えた。この人は税理士で調理師で神主、おまけに治療士の資格もあるというマルチ人間。政治屋が多いなか、この人は政治家。世の中を良くしたいと、あらゆる分野に興味を持ち、どこから改善できるかと気配りをする。だから議会でも積極的に質問をする。時間を消化するための質問はしない。とことんまで食いつく。スッポンだね。教育長への質問もしつこい程。教員は生きているから、喫煙所を設けてやれ、と実に至当な問題を投げる。そして喰らい付く。だから役所には煙たい存在。本人はケロケロ、本当のことを言ってどこが悪い。真実を追究する者はこのぐらいの覚悟が必要。
このギャラリーみちの「私のありがとう」に出て、自分の仕事の宣伝も出来る。発言時間は決まっていない。喋りたいこと、伝えたいことを精一杯伝えればいい。工務店の若大将が自分の仕事に対する心構えを伝えた。好青年で好感が持てる。何事によらずひたむきな精神は好ましいものだ。商売はいい時もあれば悪いときもある。それを凌いでこその人生。なんでもかんでも上手くいけば人生の味わいを知らずにすごしてしまい、人情のなんたるかを知らずに終わる。人間は困難にぶち当たるたびに、人の情けを知るように出来ているのだ。スーパーユニバースで食品のマネキンをしている人が、お客様が試食品を食べてくれるだけでも嬉しい、どうしたら美味しくなるかを家で研究すると、人に喜んでもらう楽しみを知ると人間は一回りも二回りも大きくなるもの。
以前、「はちのへ今昔」に掲載した造船業の一族の方も参加され、実家の話が載っていたのでビックリされたと言われた。八戸は水産都市、漁業家も造船業も繁栄の道をたどられたが、今は最大漁獲量の四分の一と激減。それでも、八戸は水産と切っても切れない仲。この衰退をなんとか盛り返そうと小林市長が水揚げ岸壁を整備される。国も支援し水産都市の復活に賭ける。
国際的衛生基準の岸壁を建設し、畜産並の衛生環 境にして八戸サバの名を天下に知ろしめさんとの心意気。
人は事にあたるたび、池に小石を投げ込まれたように、広がり行くのがさざなみで、心の中にも広がります。そんなとき、どうしたらよいかと悩むもの。そんな解決できない大きな悩みも、お前だからこうした悩みを抱かせたよ、何故なら解けない悩みは与えられないもの。
悩みを抱いた人に出会ったら、話を最後まで聞いてやりなさい。そして、共に涙を流して泣いて、そして強くこう言っておやり。大丈夫だよ、かならずあんたなら出来るから、私も一緒に考える、困ったときはいつでもおいで、一緒に泣いて考えようね、と。
これが大慈大悲の心、西有穆山が崇拝した観音の力なのだ。皆が北村道子さんの慈悲の心をいただきました。有難う、そして皆様も同様に観音力が備わっています。でもそれに気づかないだけ。難しいことはさておき、又、おいでください。

手記 我が人生に悔いなし 七

中村節子
○ 吟詠寿司店
昭和四十八年、八日町の明治薬館は閉店となった。その理由については私は知らない。跡地には長崎屋のビルが建った。
 最上先生達は十八日町に仮住まいとなった。教場は八戸駅(現本八戸駅)通りの千秋寿司店と決まった。千秋寿司店は、翠風会会員の大橋さんと小形さん姉妹が経営している。
 店の二階は八畳二間続きの部屋があり、私達は店にお客が居ても大声で吟じた。下に響いた吟声がお客に受けが良いのだそうで、時々「詩吟を聞かせて下さい」と二階に上がって来るお客もいた。
 又、漢詩の詩文を半紙に四文字づつ書いたものを、カウンターの上の鴨居にのれんのようにずらりと貼りつけ、吟詠寿司屋と言われるようになった。宴会の予約があって部屋を使えない時は、駅前近くの田端さん宅とか、八戸グランドホテルの社長宅とか、会員さんのご自宅をお借りすることもあった。
 吟詠寿司屋は四~五年続いたが、大橋・小形姉妹は店を閉めて東京へ引越していった。現在店は取り壊されて跡形も無い。確か野々口整形外科医院の駐車場の近くだったと思う。その後教場は大工町の守屋さんのお宅に変わった。
○ ずうずうしい男
吟詠寿司店(千秋寿司店)に四十代男性の入門者があった。Bさんの紹介でNさんと言った。「会社が終わったあと暇なのでついつい酒を飲む、これではいけない、何かやらなければと思っている時、上徒士町で詩吟の看板を見た。行ってみようかと思っていた時に、Bさんに紹介されてこの教場に来ました。」
 上徒士町には故中山岳粋先生のお宅がある。中山先生は八戸吟道会の会長で平成三年頃に亡く  なり、同時に八戸吟道会も無くなった。
 当時は翠風会と八戸吟道会はライバルであった。「上徒士町へ行かず、よくぞこちらに来てくれました。」と最上先生は大歓迎した。
 稽古が始まった。「どうぞ一緒に声を出して下さい。」合吟のあと全員が独吟をして最後に「どうぞNさんも声を出してみて下さい。」「えっ?今日来たばかりなのに、一人でやるんですか?」思い切ってどうぞ」「とんでもない。できませんよ」「遠慮しないでどうぞ」「遠慮なんかしていません。いくらなんでもひどいですよ。初めて来たのに」「最上先生に一番近い所にすわっていた女の先輩が「どうぞ思い切ってやったほうがいいですよ」その隣の女が「そうです。せっかく来たのですから」さらに隣の若い女が「そうですよ。せっかくですから」「できません!」
 初めて来たのに何と横柄でずうずうしい人だと思った。詩吟の世界では「どうぞ声を出してみてください」と言うのが歓迎したことになり、仲間になったことを意味するのである。ところがNさんにしてみれば「初日にいきなりやってみろとはひどい。先輩達も一緒になってやれやれとは。せめて若い女が今日は初めてだから無理しなくてもと、かばってくれるかと思ったら一緒になってやれやれとは何となまいきな女だ。」と思ったのだそうだ。
 確かにもっともだと思った。次の週も、その次も教場に来たけれど、合吟だけで一人で声を出すことはなかった。
 ある日いよいよ独吟することになった。教場は「コの字」に座っていたので、皆の顔が見えると恥ずかしいと言って後ろ向きになり皆に背を向けて独吟した。ハンカチをクシャクシャにして汗をふきふき吟ずるのである。私はおかしくてたまらない。笑いをこらえるのに必死だった。
 年が明けて昭和四十九年一月。八戸グランドホテルで初吟会があった。必ず全員が独吟をするのである。発表の順番は新人からである。従ってNさんが一番であった。司会係の先輩が「Nさんが一番に独吟ですよ」と、会が始まる前にNさんに知らせた。「とんでもない。何で俺が一番にやらなければならないのですか。まん中辺にして下さいよ」「新人が先にやるんです」と言ってもイヤダとダダをこねた。ずうずうしい人だなあと思った。
 しかたがないので司会者は二番の人から始めた。私の番が終わった頃に後輩の文子さんが遅れて来た。「すみません、遅れまして。今何番の人がやってますか?次に私にやらせて下さい。」これを聞いたNさんは驚いた。すごい女がいるもんだと。すごいのではない。あたりまえのことなのである。Nさんはルールを知らなかったのである。吟を発表するときは、新人は先、先輩は後ということを誰も教えていなかったのだ。知らないときは先輩の言う通りにすればいいのに、そこがずうずうしい男なるがゆえであろう。
 このずうずうしい男が現在の夫であり、なまい  きな若い女と思われたのが私である。
 この初吟会を最後に、最上先生は後事を高弟の月舘雄岳氏に託し、鎌倉へ引越したのが四十九年の中頃であった。
翠風会から雄風会と会名が改められ、会長月舘雄岳先生の指導がスタートした。
○ 湖上結婚式
ずうずうしい男となまいきな女と、お互いに第一印象の悪かった二人が五年後に結婚することになった。
夫は十和田湖畔で生まれた。国立公園十和田湖をこよなく愛していた。今まで一つの夢を持っていたことも語った。それは、すばらしい十和田湖で湖上結婚式を企画演出してみたいということなのだ。夫には兄弟も多く甥も姪も沢山いる。湖上結婚式の企画を話すと「それはすばらしい」「それはよいことだ」「その時はオジちゃんよろしくたのみます」等々言っておきながら、いざ結婚が決まると皆に逃げられてしまった。「雨が降った  らどうするの?」というのが一番の理由であった。
絶対雨が降らないという保証はないが、かと言って雨が降ると決まったものでもない。
すばらしい企画なんだけどなあ。誰も同調してくれない。甥も姪も大方結婚してしまったしなあ…と夫になる前のずうずうしい男は嘆いた。
「自分の結婚式をやればいいじゃないの。雨が降ったって誰にも恨まれることも無いんだから」と私は言った。
「エッ?本当に本当か?許してくれるかなあ」と私の母のことを気づかった。
湖上結婚式は、遊覧船をチャーターして式はもちろんのこと披露宴も船上でという企画である。母は「映画スターでもあるまいに」と難色を示した。さらに披露宴も船上だから折り詰めのような形式になると聞いた途端、大反対と怒った。そこで式だけ船上で、披露宴は船から降りて普通にということで納得してもらった。
媒酌人は夫の叔父であるホテル十和田荘社長  にお願いして、披露宴も十和田荘と決まった。
期日は紅葉も終わり十和田湖の観光シーズンも終わる頃、いわゆる十和田湖の忙しい時期を避けて十月二十六日とした。詩吟の仲間に招待状を直接手渡したら、ウソォ、マサカと言われてしまった。
さて、いよいよ当日である。朝から晴天。八戸方面からの出席者は貸切バスで奥入瀬渓流を通った。この年は例年より紅葉が遅れ、この日は最高の美しさであったという。
私は前日から宇樽部の東湖館(夫の妹の経営)に泊まり仕度に備えた。チャーターした遊覧船は宇樽部の桟橋から出発。バスの人も地元の人も全員乗船した。十和田湖の遊覧船は双胴船だから揺れが少ない。
夫と交際のあるご寺院の和尚様が五人来て下さって、船の特別室で仏前結婚式を挙げた。美しい紅葉をながめながら船はゆっくりと進み、一時間ほどで休屋に着いた。船から降りた時、近くにいた観光客が「おめでとう」「おめでとう」と声をかけてくれた。この後、十和田荘にて披露宴となる。
昭和五十四年十月二十六日のことである。美しい紅葉とすばらしい秋晴れの十和田湖であったことを再度記す。
夫の友人で「文化通信」という雑誌を出版している人がいる。横田さんという。横田さんを結婚披露宴に招待しなかったのだが、誰かから聞いたらしく、次のような記事が文化通信に載った。
「美しい紅葉の十和田湖で湖上結婚式。こともあろうに新郎新婦共に五十過ぎの再婚同志」と。招待されなかった恨みか。夫は五十三歳再婚であるが、私は三十八歳初婚である。
○ のれん
夫の趣味は水墨画である。最も得意とするのは、十和田湖の風景と「だるま」である。その趣味を生かして「のれん」を作り結婚の記念品にしたいと考えたのである。十和田湖の画に、私の父の趣味の俳句で画賛した構図の「のれん」である。父がいつの頃から俳句を始めたのか定かではないが、三十九年間奉職した国鉄時代に、どこかの駅の俳句クラブに入ったのが始まりであったと聞いたことがある。
 そこで「のれん」のことは秘密にして「十和田湖を詠んだ句があったら貸してほしい」と頼んだ。その時は何か仕事をしていて忙しかったらしく「沢山あるけど今は出せない」と、あっさり断られてしまった。
 「私ので良かったら」と、そばに居た母が高齢者教室で詠んだ二枚の短冊を出した。その様なわけで「錦わけ白布を垂らし滝の秋」と詠んだ母の句で「のれん」ができ上がってしまった。
 結婚式披露宴の席上で「のれん」を披露したとき、「ヤッター」というような母の顔と「シマッター」というような父の顔、対照的な二人の顔を今でも思い出す。この時、「のれん」の俳句を私が朗詠したわけだが、私が父の前で詩吟をしたのは、あれが最初で最後であった。

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 4

学生時代
悩み抜き一年間浪人
 八中を卒業したのは昭和四年三月。叔父・秀之肋は、私が家へ帰ってくるものだと思って、羽織、はかまをそろえて待っていました。私は、なんとしても上の学校へ行きたいと考えていましたから、母と母の長兄の関川五郎蔵さんに口添えしてもらって秀之肋叔父に頼みました。
 叔父は「ウーン、そうか。いいだろう。ただ、事業の金を使うわけにはいかんから、別にもうけなきゃならんなあ」。そう言って大福帳を一冊、用意しました。「皐二郎学資帳」と書いて。
 大学を卒業する時に見せてもらったら総額四千八百円。昭和十年ごろの四千八百円というと二、三十トンの動力船と巻き網一カ統を出せる金額でした。ありがたいと思うと同時に身の引き締まる思いがしたものでした。
 高校は水戸高校を受験しました。理科の甲。中学時代から物理が好きで、今から思うと湯川秀樹博士のまねなどは、どだい無理な話なんてすが、その時は「どうしても」という気持ちでした。早稲田大の理工も受けましたが、両方とも落第。担任の先生に相談もしたんですが「ウン、ウン」と話を聞いてくれるだけで、どうも煮え切らない。
 悩みました。「父が生きていてくれたら」と、この時ほど痛切に感じたことはありませんでした。結局、一年間浪人して、翌年もう一度、水戸高校に挑戦しましたが、数学の試験で失敗。結果を見ることなく、そのまま、上京して中央大学の法科へ転進して入学することになったわけです。
 後年、市長になって湊中学校で生徒たちに落第した話をしました。「八中を一回、水戸高校二回と落第しました」と言ったら、中学生たちがニヤッとして「オラホの市長、落第坊主か」なんてささやき合ったりしていました。その時に言いたかったのは「一度や二度の失敗ぐらいなんだ」ということ。
 私は神田重雄さんに、よく「秋山君、男わらしというものは、一度方針を決めたら、真っしぐらに突き進むものだ」と言われました。戦争という国を挙げての大変動の中で、水産業に転じ最後は政治の世界にまで入った私は、その点では「異端児」と言われても仕方ないんですが、自由に進路を選択できる現在の中学生諸君には、失敗を恐れず信じる道を思い切り突き進め、と訴えたかったわけです。

叔父の援助を得て結局中人法科に進学
 さて、中央大学では、初めて東京へ出た私は、紺がすりの着物を着た田舎っぽでした。中央大は、もともとイギリス法の専門学校でイギリス法律学校としてスタートし、後年、東京法学院そして中央大学となりましたが、私が入学したころは、法学、経済、商学の三学部。法学部は英法二クラス、独法一クラスで、一学年全体の学生数は二百人ぐらいの小さな大学でした。
 八中の先輩では、ドイツのボン大学に留学されて帰国したばかりの浅石大和さんが、すでに有能な弁護士として活躍されており、山崎岩男さんも、東京・高円寺に弁護士の事務所を持っておられて、しばしば上京されていました。八中出身の中央大生の会合には、お二人とも、よく顔を出してくれました。
 印象に残っている先生方は「天皇機関説」で有名な美濃部達吉教授。憲法を講義されていました。私たちが最後の教え子になります。行政法は宮沢俊義教授。
 刑法では、当時の法曹界を二分した刑法論争で「客観説」の立場だった泉二新熊(もとじしんくま)教授がいました。沖縄出身の方で大審院判事でもあったのです。一方は牧野英一東大教授の「主観説」でした。

    講道館仕込みの柔道
 中央大では、比較的まじめな学生でした。同期には元法務大臣の稲葉修君、最高裁判事を務めた塚本重頼君、在学中に高等文官試験、いまの国家公務員一種職(旧上級甲職)試験に合格して日本興業銀行に入ったが、請われて、そごう百貨店に行き、社長となっている水島広雄君といった優秀な人たちがいました。
 地方行政を担当している時には、大変、助かりました。特に稲葉君とは、私が柔道部、彼が剣道部で同じ道場でけいこし、地下にあったふろは一緒という文字通りの裸の付き合いでした。
 柔道部に入ったのは、校内に道場があったから。校内でやれるのは柔道のほかには剣道、相撲、卓球しかなかった。八中の同窓生も何人かいて、先輩では工藤千代吉さんが五段。同級生では大久保弥三郎さんの弟の大久保正、それから尾形四郎といった八中柔退部出身者が誘いにくる。
 「柔道着を用意したから、秋山、お前もやれじゃ」「何、言ってんだ。八中卒業の時、オレに三級くれと言ったら、ダメだと言ったじゃないか。六級のままだぞ」としぶると「いや、八中の寝技の柔道は邪道なんだよ。お前は立ち技の本物の柔道やればいいだろう」なんて妙な説得を受けて入部しました。
 本当にやりたかったのはラクビー。足は速かったし、タックルには自信を特ってましたから。ところが、調べてみたら、練習グラウンドは郊外で遠く、実力的には弱くて、とてもダメだというのでやめました。
 柔道は、この体で大変な苦労して身に着けたものですから、左右どちらでも戦えるようになった。講道館で指導を受けて立ち技専門。初段をとるの に一年かかりましたが、予科を終わって学部に入る時には三段。終始一貫、攻める柔道で、めったに負けなくなりました。苦手な技は、身長のある人がかける大外刈り。ケンケン飛びをやられると体が浮くんです。
 三段になって柔道部の委員になったら、学費免除組に仲間入りしました。稲葉君も、もちろん学費免除。彼は旧制山形高校でトラブルを起こして中央大に来たんですが、成績は抜群でした。剣道も強かった。私の学費免除は、成績よりも柔道部委員の側面が強かったのかもしれません。

めったに負けぬがビールは一杯でダウン
 柔道部の委員というのはマネジャーみたいなもので、体育会の予算分捕り合戦をやったり、全国各地への遠征を計画したりする。私が委員になったころは、先輩たちがトラブルを起こしたらしくて、柔道部だけは禁止措置を科せられていた。
 担当教授は契約法の片山義昌教授。「理論的におかしい」と交渉に行きました。「先輩たちの起こしたトラブルの責任は、先輩たちを禁止にしたことで終わっているはずだ。お前たちもトラブルを起こせば禁止にするぞ、というのなら納得するが、先輩たちの責任をずっとわれわれに背負わせるのは納得できない」と、へ理屈を並べて。
 教授は苦笑しながら「そうか。仕方ないな」と許可してくれました。それで九州各地を巡業して歩いた。各地に先輩がいて、後輩が行くというので地元の中学生を集めておいてくれる。
 腰に手ぬぐいをはさんでおいて、汗をふきながら中学生十人ぐらいにけいこをつける。時には地元のチームと試合もやりました。終わると先輩たちが歓迎会を開いてくれて…。酒は全く飲めなかったのですが、楽しいものでした。
 初めてビールをジョッキで飲んで、前後不覚に陥る体験をしたのもこのころ。札幌一中の諸君と気が合って、一軒家を借りて一緒にいた時のこと。国鉄の柔道全国大会があって札幌鉄道局が優勝して、祝勝会に連れて行かれた。
 「なんだ、酒飲めないとは何事か」と言われ、黒ビールをジョッキでグーツと空けたら、たった一杯で意識不明。翌朝「秋山、お前を運ぶのに大変な目にあったぞ」とみんなに言われて…。

広い南部邸へ引っ越し
 東京では、友達とあちこち移り往みました。三年目に札幌一中出身の諸君と妙にウマが合って、東中野に一軒家を借りて「北青荘」という看板を掲げて、七人で一緒に暮らしました。柔道部五人、剣道部二人。中に学生結婚していたのも居て、彼らは一階。賄いのおばさんを一人頼んで…。
 ところが、その年の秋に南部子爵邸にいた福田剛三郎さんが訪ねて来た。福田さんは奈須川光宝代議士の次男坊で、鮫の石田家から石田チヨという人が嫁いでいて、親類なんです。
 南部子爵が、渋谷にあったお座敷から北沢の方へ新しい家を建てて移り、お屋敷の留守番として福田さん一家が住んでいたんです。
 「実は不用心でダメなんだ。オレが南部邸へ詰めてると、広大な屋敷に女子供しかいなくなる。秋山、お前、用心のために一緒に住んでくれ」というんです。現在、茶道をやっている福田和子さんが長女で、まだ小学校入学前。長男も中学生でした。
 早速、トラックを頼んで引っ越し。荷物は布団 袋に本と机、書棚、こうりが一つ。トラックの荷台が余って、手伝いの学生たちがいっぱい乗っての引っ越しでした。福田剛三郎さんは東京の美術学校を出て中村不折(画家で書家・新宿中村屋のロゴも書く)さんに師事。八戸で最初に油絵を描いた人としても有名です。
 なんといっても、大名屋敷ですから実に広くて居心地がいい。卒業するまでいましたが、次から次へと八中の後輩たちが集まって来て、私は寮長みたいなものでした。まいったのは福田夫人が茶道や華道、謡曲を勧めること。正座してやると窮屈で…。あのころは学生も同好会なんかがあって盛んでした。
 お屋敷では毎日、ふろを沸かす。まきの調達が面倒くさいものですから、庭の片隅にあった小屋を次々にまきにして、とうとう小屋一軒を燃やしてしまった。
 とんでもない時に福田さんが気付いて「あれっ、秋山。ここに小屋があったはずだが、どうしたんだ」「エッ!あれ実は、ふろのまきにして燃やしてしまったんですが」「なんということを」と福田さん真っ赤になって怒って…。

実家からは海の幸 せんべいやリンゴも
 今も同じでしょうが、実家からいろんなものが送られてきて、実に楽しい学生生活でした。
 後輩で市野沢出身の細越信太郎君は、必ず一升びんに詰めたハチミツを待って来ましたし、柔道部で大将を務めた鈴木君というのが山形出身。入梅前にサクランボが送られてくる。「おい、きょうは、わが下宿に集合だ。桜桃が来たから食うべし」と誘ってくれる。
 私のところは漁師でしたから中羽イワシに塩したものとか、小名浜からは「頬ざし」が来る。ある時、秋田沖へ出漁していた巻き網船から四斗だるに氷水でタイが送られてきた。何匹あったか、とにかく大変な数で、福田さんと相談した。
 「東京のと真ん中で、これだけのタイをどうしよう」というわけです。福田さんはタクシーを頼んで、南部さんなんかに配ったが、それでも余る。最後は近所の魚屋さんに頼んで「欲しい分は食べて、あとは料理して冷蔵庫に保存してくれ」。三日間ぐらい毎日タイの刺し身とウシオばっかり食べていました。
 スルメやセンベイも、ふんだんにあり、母がリンゴを送ってくれる。必ずマルメロを入れてくれました。
 神田には一個三銭のにぎりずしもありました。少し小ぶりでしたが、日本橋では一個十銭。当時、太巻きのチェリーというたばこが十銭でした。けいこ帰りに、よく食べに行きました。大将の鈴木君と古庄君、私の三人で百三十八個というのが最高記録。
 古庄君は九州男児で熊本出身。満州電業から野戦重砲の幹部候補生になり、近衛文麿さんの長男・文隆さんが部下にいたそうです。まじめでいい人間でしたが、内地で演習帰りに列車事故で亡くなりました。惜しい人でした。

放校処分が次々と
 楽しい学生生活を送っていた私でしたが、徐々に軍部の力が強まり、学内でも放校処分なんかが、かなり出るようになってきたのは、昭和七、八年ごろ。私も突然、配属将校の中佐に呼ばれました。
 「どうも共産主義思想が入り込んできていかん。ついては、君が中心になって学生を指導する団体を組織してくれんか」というんです。私は即座に断りました。どう考えても、そういう運動を一生続けることは考えられませんでしたから。
 後で、瑞穂会というのが学内に旗揚げして学生を指導しましたが…。学生運動も、激しくて随分と放校処分も出ました。
 私が大学に進んだ昭和五年の十二月、大下常吉さんに早稲田大学野球部監督の就任要請があり、六年から大下さんが監督として登場しました。本郷に住んでいて、玄関先にノートがぶら下がっている。「用事のある方は書いて下さい」というわけです。美食家で私の顔を見ると「おう、メシ食いに行こう」と随分ぜいたくなものをごちそうになりました。
 後年、私が青森五連隊で少尉だったころに、大下さんが病気で戦線から帰ってきて、衛戌(えいじゅ・駐屯地の陸軍)病院に入院していると聞いて見舞いに行った。大下さんは軍曹で、毒ガス対策班の班長で華々しく出征したんです。私も見送りました。
 病院に行ったら、まるで牢名主みたいにしてべットの上でアグラをかいて「おう、秋山、きたか」「先輩どこか悪いんですか」と尋ねたら「何も、どこも悪くないんだよ。どうもオレには軍隊が向いていない。演習とか嫌だったから、神経痛と称して出なかっただけだ。それで帰されたんだよ」。みんな居る前で平気な顔。
 「ところで、ここのメシがまずくて、ハムとかソーセージなんか、うまい物を食いたいから買ってきてくれ。食器も汚い。そろえてくれよ」。膳椀とハムなんかを届けました。
 監督時代の大下さんは、大学リーグ脱退事件(昭和七年春、神聖な大学野球を興行に利用したとして早大が学生野球連盟を脱退した)や早慶リンゴ問題(同八年秋、慶応の水原茂三塁手=後年巨人監督=に早大応援席からリンゴが投げつけられた事件)などで、随分話題を呼びました。監督は三年間やって、昭和八年の十二月に辞任しました。

三陸では大津浪 柔道満州遠征の一員に
 八年の三月三日の三陸大津波も印象深い出来事でした。ちょうど予科三年の最後の試験の最中にグラグラッと揺れて「三陸に大きな被害が出た」。それを聞いて、すぐ午後の汽車に飛び乗った。
 船が入っている小名浜にまず下車して、見に行った。船頭たちに会ったら「いや、こちらは被害はなかったぞ。網を干していたが、潮が引いたのを見て、すぐ取り込んだんだ」
 「そりゃ、よかった」というんで、汽車を乗り換えて、盛岡駅に着いたら、ちょうど秀之肋叔父とバッタリ出会った。「おお、皐二郎。お前も来たか。一緒に行こう」と山田湾へ急いだ。
 鈴木善幸さんの地元の山田町の隣の大沢村というところに秋山漁業部の出張所があって、昭和七年の秋からイワシが大漁で、干し上がり一万俵のシメ粕が捕れたそうです。二千俵ぐらいが出荷待ちで保管してあったんですが、行ってみたら一俵残らず流されてしまっていた。
 幸い人命には被害はなくて、潜水夫を頼んで海中からシメ粕を引き上げたんですが、六百俵しか上がらなかったそうです。
 大学では卒業の前年、昭和十年夏に久しぶりに関東学生柔道連盟で満州遠征をすることになり、早大、明大、中大などから十五人が選ばれた。私も四段で事務局長兼選手で選ばれて、下関からウラル丸、ウスリフ丸という三、〇〇○トンクラスの船で大運へ渡りました。
 それから十年後に敗走してさまようなどとは夢にも思わず、意気高く満州に第一歩をしるしたわけです。