2007年6月1日金曜日

昭和犯科帳 其のニ

「鬼平犯科帳」なる時代小説は、池波正太郎の著書だが痛快である片面では人間の暮らしのなかの悲哀までを書き綴っている名作である。現代であっても、またあの時代であっても、途中の時代であっても「事実は小説よりも奇なり」と言われ人間の業の深さに自分に当てはめてみてため息が出るばかりなのだ。昭和の初期の事件簿の裏にははたしていかなる事情や謂われがあったのだろうか現代ではテレビの番組では似たものがあるが、たったこれだけの活字の数にあなたはどんなことを頭のなかに描きだすことでしょう。 

奥南新報
昭和十二年一月四日報から
荒れ狂った白魔
文明の利器を奪ふ
暗黒街と化した八戸市
東北地方としては珍しい雪の少ない八戸地方は二十九日の晝から翌三十日の朝にかけて大雪に見舞はれ積雪尺余に達してゐた處へ二日未明から三日未明にかけて猛烈な吹雪に見舞はた為電信、電話、電燈の各線は各所に於て切断され全く不通に陥った。
猶本市を中心として三本木、五戸、三戸、百石、大舘等四方に通ずる定期自動車の運行も途絶されるに到ったので之等文明の利器を白魔に奪はれた地方民は元始時代に逆転したかの如き多大の不利不便を嘗めさせられた。二日の晩の如きは全市は暗黒街と化して道行く人もなく荒れ狂ふ白魔の中を辛うじて車庫と陸奥湊驛間を運轉した市營バスのへ ッドライトが偶々猛獣の眼光の如く闇の中に輝き凄惨なものがあった。
親の欲心が棄却され
戀のご兩人に凱歌
 貞操蹂躪訴訟に判決
下る
インテリ女性の貞操蹂躪訴訟として世人の興味を惹いてゐた八高女出身の三戸郡中澤村大字市野澤村山ナヨ(假名二〇)が父貴七を法定代理人として債務者同村大字大森字嶋田豪農藤井金蔵(三四)と保證債務者同村鳩田小學校教員鳥喰興吉の兩名を相手取って去年の八月八戸支部に提起した貞操蹂躪を理由とする慰謝料五千圓請求訴訟の諸々
抑々の發端はナヨが八高女研究科に在學中の去年の春金蔵の言葉を信じて貞操を捧げた處その後金蔵は約束を履行しないので詰問に及び同年十月金蔵、ナヨの二人にナヨの母キヱと金蔵と親交の間柄である興吉とが仲にはいって四人が市内小中野町松尾旅館に於いて懇談の結果金蔵は慰謝料として五千圓を提供しようと云ふ契約を結び興吉はその契約を保證しようと云ふことになって解決をつけたのに言を左右して支拂はないと云ふのでナヨが債務者の立場に立って金蔵、興吉の兩名に支拂命令を發した。
之に對して債務者の立場に立たされた金蔵、興吉の兩名は先方が能動的に此方が受動的立場に於いて結ばれた戀愛で貞操を蹂躪されたとは此方の話だとナヨが金蔵に女性の命とも云ふべき黒髪を切って添へた血書のラヴレターを始めとして数十枚の艶書を證據品として異議を申立て兩者の争ひは法廷に展開される事になった。そこで原告側ではナヨが八高女時代下宿してゐた市内鍛冶町松井三蔵ナヨの母キヱ、市内小中野町松屋旅館の女中石田スエの四名を證人に申請、被告側ではナヨの父喜七が徑營の料理店に酌婦をしてゐた現在湯田温泉千葉舘の女中小野フミを申請した處原告側では證人の費用も出さぬ始末だったので訴訟代理人の林便辯護士は弁護を辞退するに到った。その後開廷された口頭辯論に原告側は出廷せずこの訴訟はナヨ本人の意志に依って提起されたものではなくナヨの兩親の背後には黄金魔がゐて種々策動してゐるものでナヨと金蔵の本人同志は「シネマ 見ませうかお茶のみましせうか」で睦ましい交際を續けてゐると噂され訴訟は去月二十五日結審となって一日原告の請求を棄却すると云ふ判決が柳瀬係裁判長から下された
虚榮心にかられ
万引を働く
思春期  十七歳の女中
市内 八幡町井上ツネ方女中三戸郡市川村大字在所戸主孫作四女山村ハツヨ(假名一七)は思春期の乙女特有の虚榮心にかられ奮冬十二月下旬市内三日町三萬デパートから銘仙一反とハンドバック(時價五円代)を窃取したのを手始めに去る十七日午後四時ごろ同店から婦人用手袋(時價八十五銭代)を窃取更に去る十九日午後五時ごろ同店からショル(時價六十銭代)を窃取した事が發覚八戸署に檢挙された。
無軌道教員
父の金で大盡遊び
市内 十三日町八戸アパート内八戸盲唖學校教員下斗米幸雄(二七)はさる十五日實父の金三百餘圓を持ち出して青森市に赴き旭町料理店で大盡風を吹かせ更に酌婦むを浅虫温泉に連出して旅館に夫婦氣取で投宿中を二十一日手配に依つて青森署員に取押へられ翌二十二日身柄は家人に引渡された。同人は元カフエーロンドの女給良子といい仲になってアパートに愛の巣を作った事もある
舘信組元書記
嫌疑晴れて釋放
一部の者の不純な策動の受難
組合 金二千五百圓を横領の嫌疑で東郡蟹田信用組合に勤務中檢挙され八戸署に留置取調を受けてゐた元舘村信用組合書記木村興作(二四)は取調の結果嫌疑が晴れ晴天白日の身となって二十三日午後十時ごろ釋放された。木村が横領費消の嫌疑を蒙るに到ったのは舘村の或る一部の者の不純な策動に依る受難と云はれてゐる