2007年6月1日金曜日
第二回そばやの二階・馬場町「おきな」で各々がた討ち入りの…
そばやの二階
第一回は筆者病気入院のため欠席。今回は席亭の加藤万次郎氏が体調不良のため参加者が二名とのこと、急遽知人を動員し第二回をようよう開催。
世の中不思議な経歴、経験、体験をされたかたがたくさんおられるものだと痛感。と、言うのはこの二回目会合に、筆者がこう切り出した。
私と編集長の月館さんがFM放送を八戸でやろうとして、郵政省にかけあった。すると地元商工会議所の協力を得て欲しい、そこで商工会議所に相談に行くと、待って欲しい、そのうち勝手に自分たちでやりだした。放送で筆者がしてみたかったのは、「私の有難う」と言う番組。
これは、人生を渡ってくる途中、これを渡世というが、いろいろな人と出会い、様々な経験をする、 それが良いことでも悪いことでも、その中で、終生心に残る人の情けを感じたものは何ですか、その人に有難うを伝えられましたか? もし伝えていないなら、ここで言いましょう、あなたの有難うを、と言うのが「私の有難う」と言う番組。
ところが、こうした番組を次から次へと発想する力がないから、ビーFMは相変わらず聞く人間がいない。企画力こそ全て、時代が要求するもの、時代を超えて残さなければならないもの、そのことに気づくのが報道の指名、それを忘れて、いや、それを持たずに報道の側に居ること自体が不都合。
さて、今回の「私の有難う」はいろいろな方からいただいた。次号からは「私の有難う」のページを作ってご覧に入れますが、今回はその予告編とでも言うか、心に残る話を先ず紹介。
読者諸兄の心の中に、木村庄之助のことが残っておられるだろうか。「はちのへ今昔」が提唱し、故金入明義氏が八戸市長に伝えてくださり、その 祝賀会が今年の二月に開催されたことを。
その席上、木村庄之助の恩師、久水先生が心のこもった言葉を添えられた。温情溢れ胸にせまる教師側の教え子に対する心持を淡々と語られた。列席の人々の中には目頭を押さえる人もあった。
まさに錦上花を添える心のこもったスピーチだった。その久水先生にありがとうを伝えたいの言葉が、今回の参加者の口から飛び出した。母親に感謝する、父親にの言葉は参加者の口から次々に出たが、教師へのありがとうの言葉が出たのは、まさに主催者側の意図するところであった。
「私の家は裕福ではありませんでした。当時の八戸にはそんな人がたくさんいたのかもしれません。私はいつも姉のお古を着せられていました。母親は新しい服を買ってやりたいと、勿論思っていたことでしょう、いつだって自分のことより子 供のことに気を配ってくださる優しい母でした、でも父の稼ぎが少なく、そのわりに子沢山なので、してやりたくてもできなかったのでしょう。私もこの年になり孫と一緒に暮らすようになって、母の心が分かるようになりました。誰だって自分のことより血肉を分けたわが子がいとおしいものです、でも、したくても、してやりたくても出来ない時があるものです。
私はいつも継ぎの当たった靴下を履いていました。同級生の薬屋の娘さんは、いつもこざっぱりした服装で、私は羨ましかった。そして、その子の履いている靴下はいつも可愛らしいもので、ため息がでるほど羨ましかったんです。下駄箱があって上履きに履き替えるときが私はいつも嫌だったんです。継ぎの当たったのを見られるんではないかと、小さな胸がドキドキしたのを昨日のようにも思い出せます。
今にして思えば、あの頃は特別私の家だけが貧乏だったのではなく、多くの国民が等しく貧乏だったんですけど、幼い私は、どうして私だけがこうした惨めな気持ちにならなければいけないのだろうかと、チョッピリですけど親を恨んだこともありました。
そんな私の心持に気づいてくれたのが久水先生でした。私が靴下の破れを気にしているのを、どこかで見ていらっしゃったのでしょう。ある日、下駄箱を開けると新品の靴下が入っていたんで す。私はびっくりして、すぐ先生のところに飛んで行きました。だれかが間違って入れたのかもしれないと思ったからです。職員室の久水先生は、私の言葉を黙って笑顔で聞いていました。
そして、「ちょっと時期は早いけど、きっと、サンタクロースがくださったんだヨ」と言って私の手を握りしめました。その時、私ははっきり悟りました。先生の手は大きく、そしてなによりも暖かかったんです。ああ、久水先生こそサンタクロースだったんだと。
先生は素晴らしい人です。その時は嬉しいばかりで、家に戻って母親にそのことを誇らしげに伝えました。母親はその言葉を聞いてエプロンの裾で涙をふきました。私はなんで母が泣いたのかを理解できませんでした。
でも大人になってお勤めをして、最初のお給料で母にプレゼントをしたとき、又母は泣きました。その時、初めて私には分かったんです。私は勤めたばかりでしたから、勿論安月給です。そして学校の先生もそれほど多くない給料で生活をやりくりしていることに気づいたんです。
私は久水先生の心根に初めて気がついて、母と共に涙を流しました。でも、私の涙は母の涙とは違うんです。母の涙は娘が成人しその初めての給料からプレゼントを貰えた喜び、母として子を一人前に出来たという喜びです。
私のは人としてなかなか出来ない人情への感謝の涙でした。あの当時、戦争が終わって間もないころに私たちは生まれ、そして長ずるにしたがい、大勢の子供たちが学校に通いはじめます。先生も急遽採用になり、一学級が五十五人などという大勢の子供が、それこそびっしりと机を並べます。今は一学級は三十数名と昔から比べると、めっきり生徒の数もへりました。
あのころはいつでもどこでもおなかを空かせた子供たちがいっぱいいました。食べることすらそんなものなのですから、衣服になんてまで手が回らないものです。私は兄弟が多くて、いつもお下がりの服でした。そんな大勢の生徒を抱えながら久水先生は一人ひとりの子をしっかりと見ておられたのです。そしてご自分の給料をやりくりして私に、この私に靴下を買ってくださった。私は自分で働いて、初めてお給料を手にしたとき、心の奥にしまいこんでいた久水先生への感謝の念がじんわりと、しかし明瞭に浮かびあがってきたんです。
それだからこそ、私は母と共に涙しました。
私もいつか、人のためになれるようなことをしてみたいと心に決めたのがその時からです。
でも私には久水先生のような大きな慈愛に満ちたことはできません。でも地区の婦人会などを通してボランティア活動に汗をながしています。かならず、どこかで久水先生からいただいた人としての大事な心根を、この社会に還していきたいと願っているからです。だから私の有難うは吹上小学校時代の恩師久水英一先生へ感謝をこめて申し述べます。有難うございました」
続