2007年6月1日金曜日
小中野小学校百年史から 2
小中野の昔を語る
出席者 月館宇右衛門 明治四十二年卒
稲葉米二郎 明治四十三年卒
夏堀正三 明治四十五年卒
佐々木哲夫 大正二年卒
大久保弥三郎 大正九年卒
山浦武夫 大正九年卒
石橋俊男 PTA会長
山内清栄 学校長
司会 木村昌平
記録 小笠原五百子
三船テル
会長 雨の中をご苦労様でした。百周年記念事業としまして記念誌を編纂することになり、その中に大先輩の方々の座談会を設けています。よろしくお願いします。
司会 出席者は病気療養中の音喜多富寿先生をのぞいてきょうお集りの方々です。他に職員の部と九十周年の時の未記載の座談会記録ものせた いと思いますので重複しないような内容にしたいと思います。
小中野町の変遷
開校当時 生徒百人 先生三人
司会 九十周年座談会の第一集を読みましたら、学校のあった折本という場所は麦畑であったとか、ホイド宿があったとありますが昔の小中野の町についてお話しください。
大久保 折本にはいつできたのでしたか?
会長 明治二十三年です。
大久保 その当時は、うちの祖父が村長をしていたようですが、学校が火鉢を欲しいと頼んだらなべかままでつくってくれたといった話があります。文献がないのではっきりとしたことはわかりませんが、祖父はたしか一代目の村長でないかと思います。二代目は和田さん、三代目は川村さんでそれから中村さん、山浦さんとなるのではないでしょうか。
大久保 小学校が折本の前、どこにあったか確認 しておく必要がありますね。
会長 初めのあたりは、だいぶ校名が変っているようです。
校長 初めは新堀に湊小学校としてできたとあります。
会長 明治九年が創立と沿革誌にのっています。でも山浦さんのところから明治八年という辞令がでているそうですが…。
山浦 明治八年十二月二十八日づけで県から辞令がでています。五等教員に命ずるとありますから開校準備委員みたいなものではありませんか。
山浦 その頃あった私塾三つを統合して学校をたてたのではないでしょうか?
夏堀 辞令がでたのは学校ができてからのはず、湊小の沿革誌を調べてみては。
会長 その当時は三つの方面から生徒が集まり百名で教員は三名とありますね。
山浦 創立のころの教員は、山浦、浪打、一戸の三氏であったようでしたが、浪打さんは修験者で もあったようですね。
大久保 明治十年頃、小中野に諏訪という神社があるのに川向うの御前神社が氏神様になったんですね。
会長 それではいつ頃諏訪神社ができたのですか。
大久保 建武の中興の頃のもの、昔から残っている神社とは、八戸とか小中野で湊は植民地であったし、町も小中野の方からの人のより集まりで湊より大きかったそうです。
大久保 昔の水産学校は下条にあったらしい。
山浦 下条にあった学校はアワジ屋さんだったらしい。
稲葉 水産学校は角万のあたりにあった。寺坂のわきの金物屋アワ忠、十王院のあたりに吉田アワ大がありました。
夏掘 小中野は変遷がはげしいということは社会増でありまた、人口増であると思います。
繁華街は北横町新堀、新堀川と湊駅
司会 その当時あった大きな建物や、中心地はどうでしたか。
大久保 まんよう亭で、これは一番大きな料亭でした。その頃そんな料理屋は五十二軒ありました。小中野は物資の集散地で繁華街は北横町、新堀でした。今の中村医院の横に新堀川があり、普代方面から木炭などを舟に積んで中田さんあたりにあった船着き場におろしそこから湊駅にもっていったもので線路の向うは家がなかったんです。湊駅の発展は、小中野の発展に大切な要素となったもので、またそれら多くの人の出入りで、花柳界は栄えました。
月宇 今の新堀の道路になっているところが新堀川でしたね。川を埋めたてて道路にしたのです。
大久保 ゴンスケやのあたり、マルキチの中田加工場の付近は船着き場でした。あそこから湊駅へ行ったのです。
山浦 林業も盛んでした。小中野の歴史を考えるに湊駅をぬきにはできませんね。
司会 湊駅の開設、新堀川が小中野町の発展のみなもとであったわけですね。
木材の集散 新井田川のイカダ流し
大久保 昔の橋は寺坂からまっすぐあった。まるたに土をかけた土橋で津波かなにかでかけかえた。また新井田川上流からイカダで井上石灰のあたりにあげていた。秋木の支店もあった。小さい頃はその木の上を飛び歩いて遊んでいたものです。木材も小中野の発展のもとに考えられます。冬は川をかね下駄で走ったものです。欄干から川へ飛び下りたこともありましたな。昔は新井田川は飲みたいぐらいきれいだった。橋の下でうなぎとりをした経験もありますよ。
会長 つい十数年前までうなぎが取れましたね。
夏場 川にそって発展したのですが物資の集散だけでなく、米穀なども江戸に出していたのでは…。
山浦 当時は学校について考えても湊には高等科がなかったから、湊の人たちはみな小中野へ集って来たものですよ。
○小中野人の気質、御家中に対する反骨精神
司会 小中野人の気質についてお話し願います。
大久保 成績も1、2、けんかをしてもI、2、クラブのキャプテンも小中野勢がしめていた。スポーツでも、学業でもよい成績をあげたのは、沢山の先輩が教育し、阿部のそば屋などで飲み食わせたり、先輩が先生であったり、学校が家なのか、家が学校であるのかというような生活から生まれたと思う。
稲葉 そのころ肩じるしというものがあって、1年は赤、2年は橙、3年は青、4年は黄でした。
夏堀 新興気風のあったことは、小中野は八戸から見ると漁師町、またご用商人の町であった。そのため八戸から見下げられていたので、絶対敗けられぬという反骨精神が原動力となった。今でもその流れはあり、小中野というとキカンボにみられる。上級学校入学も小中野はよかったものです。湊学友会はすごく優秀でそれに対抗して八戸でもつくったが小中野には及ばなかったんです。
大久保 亀徳さん、浪打亀次郎さんともにキリスト教徒です。明治末期にかけてこの道に入ったというのも小中野の気質のモーメントですよ。大正年間アメリカヘ行くのにも大低の人は、亀徳さんから指導を受けたものです。
会長 亀徳さんというのは、元立教大学総長松下正寿さんの生まれ家ですね。上番町にいく前には新丁にいましたね。
大久保 同級会を開けば芸者が何人も来る。それは同級生にあるから…そのため落第させられたものもある。
司会 高等科になるとかけもちの人があったそうですね。そして首のあたりにお白粉をつけ残したまま登校したとか。
佐々木 芸者の修練はきびしく、今はその修練に堪ええないでしょうね。
小中野出身で活躍した方、している方
枚挙にいとまなしの観
司会 小中野の出身の方で各界に活躍なされた方、現在活躍していられる人についてお話し下さい。
夏掘 三吉という同級生の芸者があったが大阪で出げいこをして十万円もらうそうだ。幾千代の養子はステンレスの工場を経営している。
会長 花柳会を話さなければ、小中野は話されないわけですね。月館さんの娘さんに有名な画家がありますね。
校長 学校にも絵があります。現在も中央画壇で大活躍ですよ。
佐々木 八戸のデパートの元祖は小中野でツキウが第一号ですよ。月館さんはかれこれ商人の道七十年です。ちょっとちがいますが漁民道場のはじまりも小中野です。修練所といって場尻にありました。
夏掘 押田吾有、毎日新聞の社長、人事官もやった神田重雄市長の弟さんです。
月舘 先代の上野学院長の石橋蔵五郎さんも。
校長 校歌の作曲家です。
夏椙 大関中五郎さんは地質学者でした。亀徳さんも船問屋で、幕末の頃にも海産物問屋をやりながらアメリカで教師をした人があるはずです。佐藤亮一、共立大学教授で慶応の講師。木村専太郎、京大出身の工学士、藤尾感之助、小樽高商を経て東北電気重役、木村直治、関西学院卒剣道の先生、東京絹糸株式会社社長で小児マヒで死亡しました。梅沢幸一は、歌人で若くして死亡されました。くめ八ねえさんは八戸小唄を吹きこんでいる。
会長 下田栄子、中央で舞踊家として活躍玉振バレーの山浦さんの姉さんも活躍している。
大火、津波等 左比代まで水びたし、
浦町は船で…
司会 災害についてお話してください。
月舘 三陸津波の明治二十九年は大きかった。今の和光旅館はホイド宿の跡ですが、そのホイド宿 の二本杉まで水が来た。そして家を二本杉につないだものです。明治四十三年にも水害があり、そのため堤防を築いた。左比代まで水があがり浦町を舟で歩いたものです。
佐々木 小島横町にいましたが家の床より二尺ぐらいあがった。堤防は昭和二年につくられました。
夏掘 小松屋のあたりは、二年位沼であったですね。堤防を築いたのは山浦市長ですね。
山浦 湊より土地が低く日の出屋のあたりまで水がたまりました。
司会 小中野やけといって大火が何回もあったそうですね。
月舘 小中野の大火は新堀からおきている。しかし幾度の災害にもめげずによくがんばってきたものです。
司会 それではこのへんで座談会を終りたい
と思います。ありがとうございました。
続