2007年6月1日金曜日
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 4
今月も引き続き吉田隆悦氏の本から
曹隆様と宗参寺
ここで少し、曹隆様と宗参寺について御話します。曹隆様は、八戸南部藩の日記に記載の通り、八戸大慈寺十五世南冥曹水師の一番弟子でありました。(筆者・吉田隆悦は曹水の五代目の法孫であります)この人は松館の大慈寺の直ぐ下の方(門前)にある現戸主大西良吉家より出家して、青雲の志を抱いて江戸に上り修行、その人格力量を認められて、浅草の永見寺十八世貫道師の法派を継承して中央の人となったのであります。現在、京浜間に永見寺法類が三百五十数人居りますが、その中、曹隆様の直系が壱百九十数人となって、中央、地方の宗門の学界、政界に一大勢力を持っています。現在の曹洞宗の宗学の最高権威である前駒沢大学総長博林咬堂博士は、曹隆様直系五代目の法孫であります。
曹隆様は、道心堅固で、内外明朗な高潔な人格者でありました。徳川幕府の政治の特色である隠偵政策の密偵が、江戸城下の全寺院の僧侶の生活内容を内偵した所、内外明朗にして清潔な人格者が、二人居たそうであります。曹隆様はその一人で、幕府から表彰されています。金英は、この高潔な人格者曹隆様に社会的、渉外的、道徳的人間形成の一大感化を受けたのであります。
曹隆様は、下谷の法清寺と浅草の永見寺の住職を経て、牛込の宗参寺の住職となっていたのであります。そして、この宗参寺は徳川家御朱印付の格式ある寺でありました。赤穂四十七士の武士道を生んだ山鹿素行先生の墓もある名刹であります。後年、金英・西有穆山師もこの寺に住職して大活躍をするのであります。
金英は二十二歳の冬に、この名刹宗参寺に於て長老の位に昇る立職の式を行なったのであります。この立職の式は、集合した修行僧の食費その他の経費三ケ月分二十五両を納めなければならないのであります。金英には、そんな大金はありません。曹隆様は、これを全部免除したばかりでなく、儀式に使用する祝衣も着物も新調して無料で授与して、立派な式典を挙げさせたのであります。この立職という式典は、僧侶として第一の出世であります。宗教界に一人前の待遇を受ける資格を得たことになります。
金英は、曹隆様の御指導により、曹隆様の弟子である浅草の本然寺第十一世泰禅様の法脉(ほうみゃく・仏教を伝える脈)を相続して、和尚の位に昇進し、第二の出世をし、社会の指導者、教化者としての完全な資格を得たのであります。そして、翌年、二十三歳で、東京都牛込の鳳林寺の第十五世の住職となり、中央に於ける指導者として、脚光を浴びるに至ったのであります。これ皆、曹隆様の金英に対する同郷の御厚誼と、その人物を見抜いての御親切な御指導の賜物であります。そして又、反面金英は、大切にされ、認められ、応援されるだけのことをしております。その一例を述べましょう。
日天托鉢して、先住の借財を整理す
曹隆様が、金英を吉祥寺に於て見知ってからは、宗参寺の檀用は勿論、鳳林寺の檀用にも時々頼んだのであります。特に鳳林寺の住職は老年であり、その上弟子がなかったので、しばしば鳳林寺の檀用を勤めたのであります。金英は檀用に行った時「今日の法事は、どちらでありますか」ときいて、誰に頼まれなくとも、施主の墓を奇麗に清掃しました。その行き届いた親切が、住職や檀信徒の心を感心させて、二十三歳の若さで、鳳林寺の住職に請われたのであります。
又吉祥寺住職愚禅和尚さんについて正法眼蔵を学んだのであるが、愚禅様が新潟県魚沼郡川井村の真宗寺に招かれて、眼蔵会を開講した時、愚禅様の荷物と自分の荷物の計十八貫の笈を背負って、徒歩で江戸から碓氷峠(うすいとうげ)を越えて随行(ずいこう・人の供となって従い行くこと)しました。その時の熱意は勿論驚嘆すべきものがありますが、愚禅様に対する親切ぶり親近の態度は師家と安居者(あんごしゃ・修行をする 者)のしきりを取った観密さであったといわれます。
ところが愚禅様は三ケ月の短時間で、九十五巻全部を素読と同様に、かけ足で提唱(ていしょう・禅宗で、教えの根本を提示して説法すること)してしまった。汗を流し、足に豆を出して、お伴して来た金英は不満の顔をして、「もっと丁寧に願います」というと、「お前一人ならどんなにも詳しくやるが大衆が相手だからな、お前だって聞かぬよりはよかろう」といわれて、師資(しし・師弟のこと)ともに笑い合ったそうであります。
かくして金英は、二十三歳(天保十四年、一八四三年)にして、法幢(ほうとう・仏教の目印の旗)師曹隆様、御本師泰禅様の御すすめもあり、鳳林寺住職及び檀信徒の懇請を容れて鳳林寺第十五代目の住職となったのであります。現在の鳳林寺は杉並区高円寺南二丁目にありますが、金英和尚が住職した当時は、牛込の宗参寺の近所にありました。金英和尚は住職するや、雨の日も風の日も、毎日、日中托鉢をして、その収入を毎日檀
徒総代の酒屋さんに届けて置きました。それが何時の間にか、一年半経った或夕刻、総代の酒屋さんが、怪しんで「どうして私の所に浄財を何時までも預けて置くんですかと」訊ねると、金英「先代住職さんが、貴殿から借りた借金を弁済する為であります。どうぞ受け取って下さい」と改めて挨拶したのであります。
総代「先代住職の借金を返す為に、毎日托鉢な さるとは感心な事です。貴僧のその心意気 に感じ入りました。これ以上の返済は要り ません」といって、借用証文を金英和尚の 前で焼いてしまいました。
このような信義を重んずる道義心は曹隆様の人格より受けた影響が多かったのであります。
住職後の参師問法工風坐禅
弘化一年(一八四四)金英和尚は二十四識の青年学僧として頭角を現わして来たが、怠堕の心や、慢心を起すことなく、一層の学究心を奮い起こして、師家仏関師や宗桓師等の門をたたいて、参禅弁道(べんどう・仏道を一心に修行すること)を怠らなかった、又吉祥寺の大拙愚禅宗匠からは進んで、願って、正法眼蔵の提唱を受けたのであります。
更に、曹隆様から生活指導や、倫理道徳面の御指導を受けて居りましたが、二十六識の時、鳳林寺の伽藍を改築した所、御本師の浅草の本然寺住職泰禅様を始めとする法類の皆さんから勧誘されて、当時としては若輩と恩われる二十七歳で法幢(仏法を宣揚する大旗)を建てて、天下の修行僧や学僧を集めて、祝国開堂の一大説法会を敢行して、大和尚の位に昇られたのであります。
今や、金英大和尚は、江戸中の新進気英の学僧、徳望(とくぼう・徳が高く、人望のあること)家として頭角を現わすに至り、周囲の人々から称讃され、自らも慢心を起す傾向が見られたのであります。
父の訃音(ふいん・訃報)に接して帰郷、母の激励を受く
嘉永二年(一八四九)金英和尚二十九歳となり、学問もあり坐禅もしている優秀な指導者として、江戸の宗教界に活躍していましたが、故郷八戸より「父死せり」の訃音に接しました。
金英和尚は、早速く帰郷して、父の仏事万端を世話し、糠塚の大慈寺の智法宣隆様や、新井田の対泉院の祖堂様等とも御目にかかり暫く、帯在していました。又、法光寺を訪ねて授業恩師金竜様の墓参りをして旧恩に深く感謝して、感うたたなるものがありました。長流寺及び法光寺は、昔日、最も感激性の強い少青年時代に通算七年間も暮した思い出深い道楊であり、対泉院は親友祖堂師が居り、大慈寺は慈恩師の法幢師である曹隆様が出家したゆかりの寺であり、修学時代も常に手紙のやりとりをしていた仲の住職であります。誰から話が出たか、問う必要のない間柄でありまして、一致して、金英大和尚を八戸に留めようという意見がまとまり、「金英さん江戸の鳳林寺をやめて、法光寺に晋住(しんじゅう・住職になる)しませんか」と、一同が熱心に勧誘したのであります。その当時までは、法光寺は、大慈寺や対泉院の法類寺であって、対泉院の住職が法類総代をしていました。だからこういう話の出るのは無理なことではないのであります。
金英和尚が、明治十四年九月二十八日に、穆山?英という名で、法光寺第三十世の住職に勧請されたが、その当時の法光寺の法類総代は対泉院住職上田租堂師であった。又筆者は、まぎれもない大慈寺十七世智法宣隆和尚の四代目の法孫でありますが、私の法系の、覚翁俊才大和尚様が、法光寺末寺の六戸の海伝寺の開山で、現在も法系相続しているし、又同じ法光寺末寺の岩手県軽米町の三光寺の開山様は、十三代前の法祖風山慶門大和尚様であるが、現在は、長流寺法類の高山光麟師が住職しているというわけで、法光、大慈、対泉の三ケ寺は、各寺の先代諸大徳様方の法愛関係を熟慮するなら、宗会議員や、所長の選挙などで対立抗争してお互にいやな感情で暮らすべきではないと反省しております。
話を正道に戻しまして、兎も角、金英和尚も故郷に錦を飾って、東北一の学力徳望を思う存分発 輝して見たいという気持になったのも無理からぬことであります。
この無理からぬこと、人情的な事には、普通の人間なら賛成する。所が金英和尚の母親なをさんは、これを聞いて、大変悲しみ、且つ怒られた、金英和尚を自分の室に呼んで
母「金英や、聞くところによると、お前は、八戸に留まる気持らしいが、汝聞かずや、古来より偉人は一生涯の勉励努力を肝要とする。十年に満たざる修行を以て、奥州第一の学僧なりと、慢心を起したのか、又、汝が、出家に際して何と誓いしや、此の地に留まって、地獄の先達となる気か!すぐさま江戸に帰って一層の修行すればよし、八戸に留まる如き解怠慢心を持つならば、親とも思うな。子とも思わぬ!」
と、きびしく訓戒したのであります。
金英和尚の心は、大波瀾を起しました。父上が亡くなった今日、母上の近くに居て孝養を尽したい。故郷の法類や友人の真情を容れて、自分の力を思う存分発揮して、地方教界の革新を計り、報恩の一端としたい。釈尊も御悟りを開かれて後、釈迦族の救済に尽力せられ、故郷に於て教化活動をせられておる。自分が母親に孝養を尽しながら故郷の人々の為に活動するのも、決して無意味でない。間違っていない……と考えて暫らく地方を中心として教化活動をしようか……。と心を動かしたのであります。
これに対して母親の心境と立場が違います。「金英は、まだまだ未熟だ。青い、加うるに、この南部地方は、酒飲みが多く、悪い風習が強い。
金英の若さでは、この悪習に敗けてしまう。出家させた以上は、地方の名刹で満足させてはいけない。日本一の好出家―親族ばかりでなく、日本人全員を極楽参りの案内をする立派な名僧知識にしなくてはならぬ。悲しみにも、親子の愛情にも負けてはならん。と、心を鬼にして大愛を堅持したのであります。金英和尚の心に母親の必死の愛情が、ジーンと伝わりました。「母上、申し訳ありませんでした。母上の仰せの通り、すぐ江戸に戻ります。御心を傷めて申しわけありません」と御詫びして、旅仕度を始めたのであります。
金英和尚の慢心と油断の心が一片の雲となって、八甲田山連峰の彼方に散り去り、太平洋の荒浪の響きが舘鼻の岩盤に飛沫を上げて、金英和尚の全身を浄めてくれました。
金英和尚は、真底から、深く、母親に御詫びして、生家を辞したのであります。母は玄関に立って「日本一の出家となり、父母を間違いなく極楽に案内出来る先達となるまでは、断じて、この敷居をまたいではなりません」と涙を流しながら、強い言葉で見送りました。
続