2007年6月1日金曜日

八戸自動車史 1


小中野の野田さんから拝借した八戸自動車史を紹介
○自動車は来たか
 はじめて自動車の姿を目のあたりにした人々のことばを、今でも時おり耳にすることがある。
 南部さんのお座敷に小林某という奉公人がいた。一九一〇年(明治四十三年)のいつのころだったか、八戸の町に自動車というものが来るそうだという話が人の耳から耳へと伝わっていた。当日の町の表通りには人々が朝から集まり出し、時ならぬ態であった。小林某は朝早くから主人に、「今日は自動車が八戸の町を通るというが、一度拝見しておきたい。お前は時折表通りに出て見張っていて、自動車が来たら知らしてくれ」
と云いつかっていた。言いつけ通り、小林某は時折表通りに出て見たが件の自動車はなかなか姿を見せない。新奇を好む人々の姿は右往左往しているばかりであった。
 ようやく昼近く、表通りの客がざわついて来た。小林某は手にしていた仕事を投げ出し、表通りに面した二階のてすりから身をのり出して街路に目を落した。街路にはおびただしい土煙りが立ちこめ、自動車の後姿がチラリと見えただけであっだ。急いでとってかえしたが、自動車の姿はもちろん見えなくなってしまった。
 「自動車が来ました」
息使いも荒く、主人の部屋へ注進に及んだ小林に、主人は
「うん、来たか」
と重い腰をあげて
「して、今、どのあたりを走っておるか」
小林某、事の次第を詳しく申しあげた。主人は残念そうに
「ほう、そんなに早いものであったか」
と想像もつかぬげな表情を浮かべていたという。
 今から五十年余り前、八戸町にはじめて自動車が走った折のエピソードである。この自動車は、当時、ライジング石油会社が、青森市浜町にあった東北タンク商会を視察のため表日本から裏日本をまわって通る予定の途次、鮫村石田屋旅館で昼食をとるため、立ち寄ったものといわれる。運転は勿論外人であったという。
この折、青森市で撮影した写真を所持している方があると開くが未見である。
 また、一説には、スタンダード石油会社がタンカーからの積みおろしに便利な港を探がしていて、最初八戸港を候補地にして、その視察にやって来たともいう。視察の結果、石油タンクの設置条件ととのわず、のち野内に建設されたものであるとの由。
 いずれにしろ、一九一〇年(明治四十三年)のこの出来ごとが、青森県に自動車が走った最初の記録ではなかろうか。
 ちなみに、日本にはじめて自動車が入ったのは一九〇〇年(明治三十三年)当時皇太子殿下であらせられた、のちの大正天皇の御成婚を祝して、サンフランシスコの在留邦人から寄贈されたものである。この自動車の試運転がお堀端で行なわれたが、スピード感覚がなかったせいか、ハンドルを切りそこねて、松の根方に衝突、以来、自動車は早いことは早いがきわめて危険な乗り物として名高くなり、かの自動車は、そのまま皇居の一隅に放置されたままだったという。
 しかし、翌一九〇一年(明治三十四年)には、松井民次郎氏が東京銀座にモーター商会を設立し、自動車の販売に着手していたようであるし、一九〇二年(明治三十五年)には東京銀座の亀屋や三越で、荷物の配達用として自動車を使用していたらしい。
 が、日本で自動車の普及にあずかつて力のあったのは、一九〇三年(明治三十六年)一月から七ケ月間、大阪天王寺公園で催された、第五回内国勧業博覧会に外国商社が自動車を出品、またその自動車を動かして見せたことなどから、前後して自動車事業を目論む人々があらわれたもののようである。
○八戸自動車株式会社のこと
 明治時代の日本は西洋文物の搬入に力を入れ、江戸時代とはうって変わった生活様式が次々にとり入れられて行った。学校制度、洋服の着用、選挙、証券取引所、そして何よりも人々の生活範囲を拡大していったのは交通の便益であった。旧来のカゴは姿を消しはじめ乗合馬車、人力車、などの台頭は目ざましいものがあったが、なかでも一八七二年(明治五年)の新橋~横浜間の鉄道開通は画期的なものであった。この鉄道の建設工事は着実にその網を広げ、東北本線は一八九一年(明治二十四年)に上野~青森間が完成、尻内駅の設置をみ、続いて一八九四年(明治二十七年)には尻内を起点とした尻内~八戸間が開通した。なお尻内~久慈間の八戸線の完成は一九二四年(大正十三年)までかかつている。
 また自転車は一九〇二年(明治三十五年)ごろ北村益氏が八戸輪友会を作り、普及につとめており、このころから人々の足ともなったであろう。
 かくて明治末年ごろの八戸の交通事情は遠隔地は鉄道で、近接地は馬車や人力車、ある者は自転車でその便をはかつていたようである。
 一九一〇年(明治四十三年)速いことは速いが危険な乗物である自動車を目のあたりにして、驚異を底じた八戸町の人々の中から翌年には早くも自動車による事業が目論まれ出したのではなかろうか。
 この一九一一年(明治四十四年)八戸には自動より一足先に電灯がともつた。これは橋本八衛門氏、北村益氏、滝沢治平氏等によって八戸水力電気株式会社の設立をみ、やがて事業をはじめたのである。これらの人々は電灯につづいて自動車の事業にも着眼していた。
 やがて、翌一九一二年(明治四十五年)千葉県木更津の某乗り合い自動車会社が事業不振のため自動車を売却することになり、これを買収することにした。ただちに八戸自動車株式会社を八戸水力電気株式会社内に設立、近藤元太郎を代表に十月一日事業開始を目途に準備をすすめた。この年の夏、明治大帝崩御、あくる七月三十一日から大正の御代と代ったため、この事業は、遂に明治年代のものとはならなかったわけである。
 準備は順調にすすみ九月中には運転手付でT型フオード二台にヴイツク一台が到着数日間の試運転の後、いよいよ十月一日を期して営業開始となった。
T型フオード二台は乗り合い用とし、八戸水力電気会社前(現在の東北電力八戸支店前)を起点に旧湊橋間、そのうちの何回かを、さらに旧湊橋から鮫まで走らせた。のちには電力会社前から鮫までの通し運転に切り換えたという。料金は旧湊橋までが十銭、鮫までが二十銭だった。
ちなみに当時の乗り合馬車の料金は八日町から小中野までの料金が五銭だったというから、まさに金持でなくては乗れぬ代物だったといわざるを得ない。
 発車時刻は決っていなかった。適宜来客の頭数が揃うと頃合いをみて走り出すのであったが、客は比較的集ったという。自動車は便利だ、早いという事実が人々をとらえたのであろうか。しかし、危険なものという恐怖感と料金の高かったのも事実であった。
 幸いなことに、他の地方で騒然と物議をかもし出した馬車組合とのもつれもなく、全く好調なすべり出しだったといわれている。
 きわめて順調に見えたこの事業も、自動車の修理に追われはじめると急速に赤字が増えはじめ三年ほど経て、遂に解散のやむなきに至っている。
 ところで、この頃、青森県にはまだ自動車取締令ができていなかったのかも知れない。一九一二年(明治四五年・大正元年)に営業申請した乗合自動車会社の一覧にその会社名が見当らなかったことを付け加えておく。
 この自動車事業は、けだし青森県内において、はじめての壮挙であったし、また全国でも数えるほどしか業者は存在していなかったことを考え合せると、まさに括目(かつもく・目をこすってよく注意して見ること)に価する事柄ではなかったろうか。
○岩淵栄助氏、八戸~久慈間に乗り合い自動車の路線免許のこと
 明治の末年から大正初期にかけては乗り合い馬車の全盛期である。自動車の便利さと速さは衆目の認めるところとしても、故障、修理、それに危険の度合もさることながら、料金の倍に及ぶ高さが人々をして、やはり乗り合い馬車に親しませたものであろう。
 しかし、一九一三年(大正二年)からは全国的に自動車事業を企てるものの数が激増しはじめ、一九一八年(大正七年)からは、急激に増加している。世情はようやく乗り合い馬車にかわって自動車時代に入るきざしをみせたのである。
 この大正の初期、久慈町に砂鉄工場建設の計画を抱いて、十五銀行の融資を背景に、松方元老の五男である松方五郎氏が頻繁に久慈にあらわれるようになった。松方氏は常盤商会を経営、久慈ニツ谷居住の砂鉄鉱山主佐々木氏と取引きしていた関係もあり、久慈産の砂鉄の良質なのに注目して、その企業化を思いたったのであろう。
 当時、八戸・久慈間は馬車にゆられて大野で一泊、翌日でなければ到着せぬ遠隔地であった。松方氏は、この不便さを解消するために、佐々木氏に呼びかけ、自動車ならば八戸久慈間は一日で行ける旨を力説し、常盤商会の斡旋で、リパブリックの幌型乗用車一台を売り渡し、自ら久慈へ乗るたびに尻内まで迎えに出てもらって利用した。自動車の速度は大野泊を不要にし、八戸・久慈間を直接結びつけるようになった。
 やがて松方氏は、たまたまの所用で訪れるだけの自分一人の利用から、さらに八戸久慈間に所用ある人々の多いのに気づき、佐々木氏に乗合事業をすすめた。たまたま松方のすすめを受けた佐々木氏は事業権の申請を岩手県に提出した。が、この路線は岩手・青森両県にまたがるものであり、青森県側からの許可も必要であるため進捗しなかった。
 青森県では岩手県からの申し入れが届くや直ちに八戸署へ連絡、久慈行の旅客を扱う旅館を糾合し急遽、岩淵栄助氏を申請権利者に、また客馬車組合取締の吉田三郎兵衛氏を中心に組合をつくらせて申請させた。かくして青森、岩手両県から、同時に八戸・久慈間路線一日一台でもって許可することになった。
一九二〇年(大正九年)のことである。
 なお一九一九年(大正八年)内務省今によって全国統一の自動車取締規則が出され、地方長官の許可を受けるようにされ、統計及び申請者もきわめて判然としているのであるが、大正九年の項には、新規業者として、岩淵栄助氏の名前は見えるが、佐々木氏の方は記されていない。