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2008年12月6日土曜日

八戸市が倒産した昭和三十一年 2




各課の予算案要求額が八億四四○○万円のぼう大な金額にのぼったため一ヶ月にわたって査定を行うなど苦心惨憺といった状態にあったが最終的には二○○○万円を削減した均衡予算にした。この内容をみると歳入の主なものは合併四ヵ村(上長苗代・館・豊崎・市川)の増加と市税の自然増八三七○万円及び固定資産再評価による税の一割増である。ただし各種の増税は盛られていない。歳出では民生安定と教育に重点をおき、前年度比では教育費三六○○万円、社会労働施設費二二○○万円の各増。さらに農漁振興のため産業経済費二六○○万円の増となっているが、主な理由は合併町村経費の増で、相対的にみると財産収入は極力少なくみつもり手堅い財源とし、消費的経費を節約したあとがみられていたが、予算執行後早くも一月目には各種補助金、負担金の打ち切りを言明、大幅な変更をよぎなくさせる予算となった。財政再建が最大の目標の同市では仕方ない措置である。三○年四月選挙で変革した市議会は、岩岡市長に対して野党の立場をとっていた堀野虎五郎氏(民主クラブ)が議長、広田真澄氏(民主クラブ)が副議長に当選、与党側が野党連合に完敗して以来保守系中立の民主クラブ並に北斗クラブへ支配力が移り岩岡市政は著しく難航する状態となった。市会議員改選前の「数の横暴」に対する反発がこうした形で現れたとみるむきもある。市議会の分野を見ると与党の交正会には後村、島浦、佐々木(孫)、林崎、久保、今井、苫米地、柾谷、石橋、秋山、大久保、吉田の一二議員政和会には田名部、京谷、橋本、上村の四議員、合計一六議席に対し野党は民主クラブ鈴木(七)、広田、坂本、林(健)、堀野、鈴木(義)、長谷川、小笠原の八議員、北斗会佐々木(隆)、高橋、大橋、河村、柳原、中村、泉山七議員、新政会大島、佐々木(正)、澤田、南山四議員、共産林(徳)の合計二○議席となっており、野党連合の場合は僅か二議席が与党に勝っている。
 このような市議会分野のため重要議案審議に際しては野党側にあって「是々非々」を標榜している北斗会をはじめ純野党の新政会などはスタンドプレーが目立ち各派交渉にいつも二、三時間の時間を空費しているようであった。
 特に甚だしかったのは地財再建法適用をめぐる臨時市議会で市当局が二時間あると資料の提出が可能であるというのに、「議会の面子」から十日間も引き延ばしたことがあった。その間正副議長をとっている民主クラブは市議会開会ごとに岩岡市長と意見の調整をはかり与野党の対決を極力避けているので今のところ民主クラブは与党色が強く岩岡市政は、民主クラブの協調で難局を切り抜けている。岩岡市政がまっさきに自民党に入党したのもこのためである。従って今後の市議会は大荒れに荒れることはあるまいと見ているが、再建計画のワクの中でどのように市政をもっていくかは民主クラブに負うところ絶大である。長根リンクで一月二一日全国高校スケート大会を開催、ついで一月二七日から三日間賑やかに開かれた第十一回国体スケート競技会で始まった今年はいろいろな意味で多彩な一年であった。消防機構改革に続き四月一日には厚生、市民、土木港湾、財政、出納、庶務、産業水産八課を統廃合して財政、税務、出納、庶務、厚生、市民、土木港湾、商工水産、水産事務所の八課一事務所に改め人事異動を実施した。また田村総務部長の第二助役昇格を津島知事の反対でこれを撤回したのは市長の信念のなさを暴露していた。直接市政に影響はないが、五月一八日米軍高館基地が全面返還され、その跡に自衛隊が駐屯して基地の町「水目沢」の構想もガラリ一変したことは特筆すべきことである。三○年十二月一日に是川村を併合したのにはじまり四月一日に市川、上長苗代、館の三村を併合しさらに豊崎村を編入して人口十三万千四百七十名から一躍十四万五千六百三十一名に増大した。豊崎村の編入問題は、五戸町に合併をのぞむ豊間内部落と八戸編入を主張する七崎部落など真っ向から対立し一年余に渡って紛争を続けたが、多くの問題を残したまま三十年十月二十日八戸市編入が実現し収まった。また編入新地域の北高岩地区(旧館村)が八戸市から分かれて福地村に合併するため運動を行ったが実現せずくすぶっている。水産都市形態から農村を加えて工業都市の三つの重大要素を含む産業機構にふくれあがった同市は、さらに砂鉄を原料とする工業を振興させるために中央工場の誘致運動を行っていたが、これが効を奏し、旧馬淵川対岸の三角地帯二十万坪に東北電力の火力発電所と日曹鉱業の二大工場を建設する運びとなり、敷地譲渡の手続きも進み五月二十四日会社側、同市、県の三者が譲渡の調印を行った。
 東北電力の火力発電所は五万坪の敷地に工費百一億円の巨費を投じて、出力七・五万キロの発電機二基を建設し十五万キロの電力を生産する。機械は再熱型汽機、水素冷却装置など新型のもので、熱効率は今までの二十%程度から三十六%を確保できるもの。工事は七月着工し工事中所要労務者十万人で三十三年に完成する予定。最終計画は七・五万キロ発電機四基計三十万キロの火力発電所にする。これにより各種産業は飛躍的に振興するものと期待が寄せられている。砂鉄工業は既設の日本高周波工業、東北砂鉄、盛岡電化、旭電化、中外鉱業の各工場では三十年度の鉄景気好転で工場設備を拡充する一方、日曹製鋼では三角地帯十万坪に砂鉄精錬工場を新設することになった。施設は解放ゼ式電気炉三基、鋳鋼機一基、焼結機一基を建設し銑鉄二・八万トンを生産するが第二次計画として密閉ゼ式電気炉一基と解放ゼ式チタンスラッグ用電気炉二基を作って最終生産量銑鉄五万四千五百トン、チタンスラッグ金属用二千五百トン、チタン白二千トン、副生粗鉄五千六百トンを年間生産しようとする。
 また市民生活の文化水準を向上させるため岩岡市長が公約していた八戸ガス会社は資本金五千万円で組織することになり、六月から八戸商工会議所に設立事務所を設置して六月十五日新大橋付近の敷地で起工式をあげた。今年度中には旧八戸地区及び小中野地区千戸に家庭用ガスを供給し三十二年度には湊地区及び本枝管を利用して千戸計二千戸に供給するものであり、熊谷義雄発起人らが中心となって株を募集八月十日に会社を設立することになった。
 建設省馬淵川改修工事竣工式は六月二日関係者三百人が集まって開かれた。馬淵川改修は昭和十二年着工総工費十三億四千百十三万円を投じ海岸から三キロの人口河川をつくり河口をつけかえる難工事を完了した。この結果八戸及び三戸郡下各町村の水田二千町歩が水害から救われたほか、例年浸水にみまわれた市の工業地帯は東北有数の工業地帯に変貌し、この受益を金額に見積もると農作物だけで十七億円にのぼるものと見られている。付帯工事の新大橋架橋工事は二十九年工事費一億百八十万円で延長三百米、幅九米、橋脚十二連のゲルバー式の近代的な橋を三月に完成、市内八太郎部落民は経済的に莫大な利益となった。また八戸―高館を直結する大橋は馬淵川堤防完成で橋の高さが堤防より低くなったので工費四千五百万円で三米のカサあげ工事を行い四月に完成。馬淵川改修工事事務所の計画治水工事の大半を終了したので、十九年にわたった治水工事の輝かしいページを閉じ、事務所を岩手県二戸郡福岡町にある建設省南部国道事務所へと移した。
 三○年の市議会で与野党攻防の焦点となった市長公約の学生寮建設は、川崎市小杉陣屋一丁目に敷地四百四十五坪を買収、財団法人育英会を組織し、敷地をこれに寄付し文部省認可も見通しがついたので総坪数三一八坪鉄筋コンクリート三階建てにし七十人収容する計画である。建設費二二二七万円のうち国庫補助金二一○万円公庫借入金九四○万円のほか一○七七万円は自己資金となるため建設期成会が主体となって自己資金分を寄付で募集することになり運動を開始。
これが昭和三十一年の八戸の出来事。このほかにも事件、事故、いろいろとあるが、余り煩雑になるので省略しているが、読者のなかで、私が載っている、あるいは、これを調べてくれなどがあれば、電話45・3344、FAX45・1600まで連絡されたい。今月号の中村市長法律違反など、自分の眼で見て足で確かめる。筆者も年金暮らし、誰に遠慮も配慮もいらない。こんな気の毒な話があるなど、筆者の行動を促すような話を待つ。それも、現場百回で、確かめて記す。
 泣き寝入りしなければならないこと、長いものには巻かれろに反発する人だけ連絡乞う。

2008年12月5日金曜日

八戸市が倒産した昭和三十一年 1




八戸市が倒産した昭和三十一年 1
三橋美智也の惚れて、惚れて、惚れていながら行くおれに、旅をせかせるベルの音、つらいホームに来は来たが未練心につまづいて、落す涙の哀愁列車の文句がラジオから流れて「哀愁列車」の大ヒットをみた年。
一月十五日大坂の美空ひばりショーで、押しかけた観客が将棋倒し。死傷者十名。
四月十九日グレース・ケリーがモナコ国王と結婚。
五月九日日本登山隊ヒマラヤのマナスルに初登頂。
売春防止法成立。太陽の季節映画化。
大宅壮一「一億総白痴化」とTV番組批判。
十月二十八日大阪通天閣再建。
昭和三十年代は歌謡曲全盛、大津美子が「ここに幸あり」を当てる。結婚式などで盛んに歌われた。
嵐もふけば 雨もふる
女の道よ なぜ険し
君を頼りに 私は生きる
ここに幸あり 青い空
この大津は愛知県豊橋出身、小学校三年生で心臓に穴が開く病気。歌を歌うと健康にいいと歌を始めた。昭和二十八年、「上海帰りのリル」「お富さん」の作曲者渡久地政信の門下生になる。高校一年生の大津は、土曜日の授業が終わると上京、日曜日にレッスンを受け昭和三十年、十七才で歌手デビューし東京アンナで紅白出場。「ここに幸あり」作詞 高橋掬太郎 作曲 飯田三郎。人生経験のない大津は躊躇。作詞の高橋は「いままで(上八戸高校春の甲子園準決勝進出・八戸駅街頭)
の日本の女性はとても耐えてきた、これからは幸せになって欲しい。そんな願いを込めて作った、君の若さをぶっつけ大空に向かって歌ってくれ」との言葉でレコーディング。そして大ヒット。ところが何があるか分からないのが人生。昭和五十五年クモ膜下出血。「大津さん、早く元気になって素敵な歌を聴かせて下さい」との励ましの言葉で回復。
 人間うんと褒められるのは照れくさいが少々褒められるとその気になるもの。この大津をみていてもそれがわかる。気合で病気が治るとも言い切れないが、病は気からの言葉もある。人間一度は死ぬが、あせってあの世に行くことはない。元気で毎日、美味いもの食った奴が勝ちだ。
 三橋は連続してヒット。
りんご村から
おぼえているかい 故郷の村を
便りも途絶えて 幾年過ぎた
都へ積みだす 真っ赤なりんご
見るたび辛いよ
おいらのな おいらの胸が
前回、三橋の項で書いた筆者の文に少々思い違いあったので訂正。北海道の江差追分名人の三浦為七郎が伯父、母サツも地元の民謡歌手、5歳で初舞台。9歳で全道民謡コンクールで江差追分で大人を抑え優勝。神童としてリーガルレコードで吹き込み。鎌田連道から三味線を習い、白川軍八郎に師事。(上八戸高校甲子園準決勝進出帰郷)
戦後、歌手を目指し上京、エノケンやロッパへ弟子入りを試みるも門前払い。やむなく知人宅に身を寄せ、綱島の風呂屋でボイラーマンをしながら民謡の弟子を取り生計を立てる。 その弟子がNHKのど自慢で優勝、レコード吹込みで伴奏するが、指導のため一節歌うとディレクターの耳に留まりスカウトされ歌手の道が開ける。
エノケンもロッパも大損したもんだ。この三橋も六十五歳で死んだ。人間六十を越したら、毎日が儲けものだ。
永遠の青年と呼ばれた鶴田浩二も「好きだった」を歌う。
好きだった 好きだった 
嘘じゃなっかった 好きだった
こんな一言 あの時に
言えばよかった
胸にすがって 泣きじゃくる
肩のふるえを ぬくもりを
忘れれられずに いるのなら
鶴田浩二から、こんな言葉をかけられたら気絶する女もでたろうに。鶴田の略歴をしらべてみる。
大正十三年東京都大田区生まれ、実の父から認知されず私生児、母が再婚し小野姓を名乗る。父の仕事で大阪に移住。十四歳で高田浩吉劇団入団。十五歳で「会津の娘達」で白虎隊の役、撮影中に肺炎にかかり入院。退院後大阪此花商業に入学。十九歳関西大商科に入学、昭和十九年海軍飛行科予備生徒として横須賀海兵団入団、二十歳横須賀海軍航空隊少尉で敗戦。浜松で食料品店経営の父母のもとに復員。浜松で高田浩吉と再会し、再び劇団員となり大学卒業し、結核のため薬を飲むが副作用で左耳が難聴。このため左手を左耳にあてながら歌う独特なポーズ。二十五歳で「フランチェスカの鐘」で初主演。二十七歳平凡人気俳優一番。二十八歳興行権をめぐり暴力団に脅され大阪で怪我。三十一歳野球で東京代表として国体出場。三十三歳から不調、三十九歳の任侠映画まで鳴かず飛ばず。四十七歳『傷だらけの人生』出演、同主題歌が日本レコード大賞。六十歳NHK人間模様「シャツの店」に出演。慶応病院で肺の不調発見。入退院を繰り返し六十二歳肺ガンで死去。いい男だったねぇ。

愛ちゃんはお嫁にで鈴木三重子がキンキン声を張り上げた。
さようなら さようなら
今日かぎり 愛ちゃんは太郎の嫁になる
おいらの心を知りながら
でしゃばりおよねに手を引かれ
愛ちゃんは太郎の嫁になる
と、大した曲でもなかったがヒット。
曽根史郎が若いお巡りさん
もしもし ベンチでささやくお二人さん
早くお帰り夜が更ける
野暮な説教するんじゃないが
ここらは近頃物騒だ
話の続きは明日にしたら
そろそろ広場の灯も消える
小さな親切大きなお世話だ。
コロンビア・ローズはどうせひろった恋だもの、拾ったものは交番に届けろ。
島倉千代子は東京の人よさようなら、この歌は変な歌で、
海は夕焼け 港は小焼け
涙まじりの汽笛が響く
アンコ椿は恋の花
風も吹かぬに 泣いて散る
東京の人よ さようなら
こういうんだが、大島アンコも東京都に属してる。それなのに東京都の人が東京の人よサヨウナラか?
青木光一「早く帰ってコ」、山田真二「哀愁の街に霧が降る」三十二年は石原裕次郎が登場。
さて、八戸市内は、東奥年鑑から。
赤字財政で市政全般に行き詰まりをきたした岩岡市政は財政再建を軸に一八○度の転換をよぎなくされるなど波乱の多い三一年度となった。五月七日の臨時市議会で地方財政再建促進特別措置法適用申請を議決しついで自治庁が同月十日に八戸市を再建自治団体に指定、ここに本県では同法適用第一号となり、自治行政における政府干渉を甘受する体制となった。法適用の経緯をあげると岩岡市長はじめ八木橋助役、石橋収入役、田村総務部長ら市理事者は財政の赤字一億四千万円を穴埋めするため毎月の資金繰りに苦慮し三○年夏、すでに財政再建の方法を検討していたが、結局地方財政再建促進特別措置も止むを得ぬという結論に達していた。しかし政府融資の赤字一億余円はひも付き融資であり、政府の自治干渉も相当厳しいものであることが予想されるので岩岡市長は、発展途上の市政推進を阻害されはしないかと心配。
 一方市民の指弾を受けないだろうかという二つの理由で早急に態度を表明することが出来なかったようである。このため再建適用打ち出しの時期と市民を納得させる宣伝方法、つまり市の財政実態をいかにして市民各層に知って貰えるかが当面の問題になっていたが、一応時期は三月予算市議会以後と決め臨時市議会を四月二七日に召集したのもこうした思惑にあったようである。
 破綻寸前の苦しい財政運営を背景としながら岩岡市長は市政振興五ヵ年計画を立案して少しでも公約を実現しようと努力したが、遂に骨抜きの五ヵ年計画となり、さらに棚上げの状態となっている。財政再建計画策定は指定日(五月一○日)現在で七ヵ年解消を目標にした計画を財政課が中心となってまとめ、六月中に自治庁の計画審査を終え七月に市議会の議決を経て再建実施の第一歩を踏み出す。財政再建計画の基本方針は、赤字再建債一億円、この利子三四七一万円、合計一億七六七一万円を七ヵ年に償還する。財源としては、
① 人件費節約六五○○万円
定年制実施で五十人が退職すると一ヵ年に一五○○万円、六ヵ年で九千万円になる。このうち退職金二五○○万円を差し引いた額六五○○万円。
② 一億円に対する政府の利子補給一○○○万円
③ 特別会計への繰り出し金抑制で六三○○万円
水道、公益質屋への繰り出し金は三三年度で一応切れる。
④ 政府の公共事業補助の引き上げで節約できる額一四○○万円
⑤ 利子節約三二○○万円などとなっているが、六月現在で地方公務員法改正案が国会で継続審議となったため勧奨退職に切り替えて計画を作成したものである。三一年度当初予算は均衡予算を編成し地財再建法適用後は運営面で軌道に乗せる方針を基に作成されたものである。二九年度当初予算五億一二○○万円に比べれば一億一二○○万円ハネ上がった六億二四一○万円を三月二十四日の市議会で可決した。