2007年6月1日金曜日

結んだ縁組百二十三、出雲の神様代理、圃田三千也夫妻


圃田三千也(はたけだ・みちや)さん。
仏教の言葉に三千世界という言い方がある。これは世の中の中心に須弥山(しゅみせん・世界の中央で海に浮かぶ大きな山で太陽や月は皆この周りを巡るという)があり、それの周りに、日・月・四天下・四王天・三十三天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天などを含んだものを一世界これを千個合せたものを千世界それを三つ合わせると三千世界、簡単に言えば宇宙で、世の中のありとあらゆるものを指すのが、この三千、それを強めて三千也という。
その名をいただいたのが、この圃田三千也氏。俗に名は体を現すというが実に巧い表現で、この三千也氏は世の中を知り尽くす人。
妙な表現だと思うだろうが、世界を知るとはどういうことか、地理を知り歴史を知る、それも世の中を知ることなれど、実際は人を知ることに尽きる。それも議員になりたくて人を知るものもいるだろう、報道をせんがために人を知る人も勿論いる。
だが、人の幸せを願い人と交わり、その人に喜びを与え続ける人がいるゾと言われたら、アンタ、本気にするかい、疑うかい?
人間てのは生まれ落ちての生活の中で人間性が決定される。氏より育ちというのがそれ。それって言ったからってキョロキョロ探すな、そこらに落ちている訳じゃない。
大体、この人の姓が変わっている田圃(たんぼ)を逆さにしたな。圃は(ほ、と読みはたけ。菜園。「田圃でんぽ・園圃えんぽ」と使う、又、農夫をも指す。畑、畠は国字といって中国から伝わった文字ではなく、日本人が作った文字。
ということは圃田さんの文字の方が畠、畑よりも伝統がある。
この人の生まれは岩手県大野村、昨今の平成大合併で種市町と合併しひろの町となった。
ここで昭和十四年に生まれた。父親は軽米の産、博労(ばくろう)をした人で、商才にたけていたんだろう。博労は現金商売、これをこつこつとやり大野村に田畑を買った。更に山林から酪農へと手を広げ、十一人の子を得た。
八人の男、三人の女兄弟の三千也氏は男の七番目。子供の頃は日が暮れるまで近所の子供と遊んでばかり、腕力もあり腕白を地で行く。親は懸命に額に汗して働くが、子供等に農作業はさせなかったという。
子供も事業をしている、つまり学業という事業をが親の心なのだろう。親の仕事を手伝わせるは、本来子供が持って生まれたものの邪魔になると思ったのだ。子は親の道具じゃない。俗に「あの子はいい子だ、この子はいい子だ」と言うが、それは親にとって都合がいいだけの話。
大人しく家で親の帰りを待つとか、聞き分けがよく買い物もしてくれるは、親が自分の都合で子供を評価しているだけ。
子供の時は子供として、伸び伸び育つのが本来の仕事なのだ。あまり早いうちに手を入れられ、ご都合主義の世の中に放り出されると悪く、そしてずる賢くなるもんだ。
その点、自分の仕事が忙しかった三千也さんの親は偉かった。貧乏人の子沢山のたとえの通り、三千也さんも上級学校へ行くのに苦労し、通信教育で盛岡第一高校を卒業、この学校に明治三十一年石川啄木が学ぶ、その同級生が金田一京助、アイヌ学の泰斗だ。
三千也さんは盛岡で親戚が書店を経営しているのをツテとして、そこで書籍の営業をする。当時は画報が出始める。印刷技術が向上し大判のカラー刷りの画で見る雑誌の登場だった。戦後間もなく誕生した世界文化社が家庭画報を発行、その他、婦人画報などを職場や家庭に営業に回る。そんな中、体調を崩し、このままでは死ぬかもしれないと悩む。すると警察官をしていた兄が、規律正しい生活をすれば、体も元にもどるからと、自衛官をすすめた。母親もそれがよかろうと言うので陸上自衛隊に入る。そのころ既に三千也さんは二十一歳、高校出たての十八歳の若者に負けるものかと、持ち前の根性が開花。入隊すると教育隊に配属になり、自衛官としての根本を十ヶ月で叩きこまれる。
この間に大型自動車、特殊車両などの運転免許証を取得する。そこを首席で卒業し普通科連隊に配属になる。そこが八戸の桔梗野。入隊から退官まで懸命に職務遂行、受けた表彰三十と五回。
入隊すれば兵舎で二段ベット生活を送る訳だが、友達の紹介で八戸十六日町の三元に勤めていた女性を知る。この人が尻内の名門小笠原家の娘。なかなか母親の承諾が得られない。
と、言うのは働き手の主人を軍隊にとられ一家の苦労は全て母親の背に押し付けられた。その苦労を娘にさせたくないという親心。そこで親戚の伯母さんに相談すると、農家は年に二度忙しい時がある。それを狙って汗を流して手伝えばいいだろうと智慧をつけられ、元気一杯で田圃の仕事を手伝ううち、母親が折れてOKが出た。
昭和四十二年のこと。三千也さんは六年間も二段ベットで生活。寂しい一人寝からようよう開放。
それから夫婦の間には三人の子供が生まれ、北海道の釧路へ転勤となる。
そこで自衛官の採用係りになる訳だが、全く知らない世界。それでも持ち前の根性でどうしたら自衛官を多く採用できるかと苦心。昨今は景気後退で自衛官になりたい人が多くなった。景気が良くなると民間企業が採用枠を増やすので、どうしてもそちらに人は流れる。二段ベットで生活なんてしたくないのが人情。ところが、最近の自衛隊もそこらへんを心得て、自宅から通うことも出来るようになったそうだ。
その自衛官募集係に配属された三千也さんは人から教えられることを拒否。自分なりに工夫をしてみる。先ずは未知なる町、釧路を散策。人口は約二十万、最高気温二十八度、最低がマイナス十五度と結構熱くて寒い。五月に雨が一番多く降る。そこに六年いた訳だが、抜群の採用成績を上げた。
さて、読者諸兄、この三千也さんがどのような工夫をしたか、先を焦って読まずに暫し考えてみなさいヨ。教えられると、ああそうかとなるが、三千也さんも必死の努力でこれをつかんだ。特別に読者諸君に開示するが、それはブラブラ町を歩いた。そこで家々の表札を眺める。ここには個人情報が書かれてある。戸主の名、次に女房、そして子供とある。
それを手帳にメモして、二三軒先の家に行き、○○さんの所に来たんですが、何処でしょうと知らぬふりして聞くと、近所のことだもの、ああ、その角を曲がればすぐですと教える。そこですかさず、お子さんのAさんは今幾つになりましたでしょうかと尋ねる。すると高校三年生だの中学生だのが判明。どこの高校に通っているかが分かれば、三千也さんは土日にかけて、その家を訪問、さらに高校へと押しかける。進路指導の先生に会い、自衛隊ですが、既に家族とも面談していますが、本人は就職先をどうしようか迷っています。先生、自衛隊は国家のために働く場です、云々かんぬんとならべる。大体、進路指導の先生は熱心に自衛隊へ行くことをすすめない。二段ベット生活よりも気楽な民間への就職をすすめるもんだ。
そこでさりげない会話から、進路指導の先生の奥さんの誕生日を聞きだす。そして、プレゼントを     持って先生の自宅を訪問し、ご主人から大変お世話になっている自衛官です、奥様、誕生日おめでとうございますとやらかす。すると、あら、いいわよから、それでは折角ですから頂戴しますに変わり、今度は三千也さんの味方になる。そこで、その高校に行くと、進路指導の先生が味方になってくれて、教師の側からの説得も加わりみるみる採用人員が月に五人程度の平均から十五人へと変身。
なに最初のうちだけ、その内息切れするよと高をくくっていた先輩がたも毎月、それをコンスタントにやるもんだから大騒ぎ。更に中央にもそれが届き、六年間で大金字塔を建てる。防衛庁長官表彰を受ける大騒ぎ。
そして又八戸に戻ってきた訳だが、そこに思わぬ仕事が三千也さんを待ち受けた。
昭和六十年のこと、八戸の陸上自衛隊のトップを司令というが、その司令から「結婚相談」をやれと命令が出た。自衛隊には独身者が多い。伴侶をみつけ健全な家庭生活をさせるのが大事だ、だから圃田、お前に命令すると来た。
ならば、わたしに結婚相談所を開設していただけますか、一生を決める大事な仕事、私も精一杯努力をさせていただきますが、まさか司令、そんな大事な話を相談所もなしに立ち話でやれとおっしゃいますか?
これはいい台詞だ。返事に困った司令は三日間待てと返事、倉庫を改装して、結婚相談所の看板を掲げめでたく初代相談所長となった。
ここで智慧を働かせる。男は沢山いる。相手の女性をどう集めるかと苦心。そして八戸の企業を回り始める。町内会もくまなく回ると、気心が知れればもう三千也さんのペースにはまる婦人部長さんたち、なにしろ三千也さん、弁舌がたくみで人のよさそうな顔つき、ここに良い娘さんがいると、情報は山。
そこで、隊員にこんな娘さんがいるけどどうだ、良い返事がくると隊員の親に会う。まだ写真は見せない。言葉だけで隊員側の了承を取り付ける。そして今度は女性側も同様に写真なしで話をつける。三千也さんが薦める人ならという所まで昼夜兼行(ちゅうやけんこう・昼も夜も休みなく道を急ぎ、または仕事をすること)で日曜土曜も返上し尽力。それが実りました。忘れもしません、昭和六十年十二月一日、野月会館で挙げたのが種市町から自衛隊にきた安藤さんと名川町のお嬢さんとの結婚式。三千也さん仲人もつとめ、それから結んだ縁が百二十三組。
出雲の縁結びの神様を現代版にしたのが、この三千也さん夫婦。自衛隊だけでなく、日曜返上で家族サービスゼロ、家族からは恨まれるが、一本気の三千也さんは家族を捨てて粉骨砕身。我が家に遅くまで男女ともに結婚希望者が押し寄せる。
離婚をしたのはタダの一組だけ。噂を聞いて青森市の女性が自衛隊の人と結婚させてくださいと何人も来たそうだ。
当然自衛隊でも大評判となり、各地の自衛隊から相談所の運営の仕方を聞きにくるが、自前でボランティアと聞くとしり込み。
実に、この三千也さんの偉大な所は銭を貰わないところに真骨頂。だが、三千也さんだけの力じゃない。奥さんが夜遅くまで押しかける青年たちの世話をしてくれたから、かくまで大勢の人々の縁結びが出来たわけだ。感謝感謝。
そんなこんながありまして三千也さんも無事定年退官し、今はのんびり暮らしていますと書きたいところだが、いまだに結婚相談を頼まれる。業者からも営業部長で結婚式を担当して欲しいと来るが全てお断り。それでも現代風な結婚式はこうやるべきの持論。それを聞きに青年淑女が集まる。
ところが退官後に健康に不安、胃を摘出、胆嚢除去と腹を三回開く大手術。八月が来ると体調を崩すことしばしば。それを気遣い奥さんが何処へ出るにも一緒、高砂の翁(おきな)と媼(おうな)のようなもの。こうした夫婦が共にいる姿も絵になるものとつくづく得心。さて、二人で縁結びした人たちがそろそろ銀婚式、めでたい日々が迎えられるのも夫婦がそろって元気なればこそ。こうした銀婚式を祝う習俗(しゅうぞく・社会のならわし。風習。風俗。また、生活様式)を八戸から日本全体に発信するのも大事な仕事。三千也さんの損得抜きの精神を我々八戸人がいただきたいもの。
さて、それでは三千也さんのお子さんたちはどうしたかというと、これは皆立派に育ったわけだが、親の背中を見て育つと言うように、自衛隊員は薄給と知り、長女は北高校から弘前大に進学し、東京で就職、職場で伴侶を見つけて今は埼玉県在住、次女は美容界に身を投じ、現今大流行のエステ技術のエキスパート、時折、新聞雑誌、テレビに話題を賑わす。
長男は昔で言えば陸軍幼年学校、これは明治二十年に設けられ十四歳から入学、ここを卒業すると陸軍士官学校に無試験で入学できた。日本陸軍を担う青年将校への登竜門。それが自衛隊にもあり少年工科学校がそれ。給料を貰いながら勉学に励む。そして今は二等陸尉、二児の父。自衛隊も国際貢献などを求められる難しい時代、それでも圃田一族は国家防衛の為に二代に渡り尽力中。
三千也さんも頼もしい次代を担う倅さんたちに囲まれ、今はお爺さんとなりましたが、どうしてどうして、これからは銀婚式の推進役として、ご自身の金婚式までは頑張ってください。