2007年6月1日金曜日

デーリー東北新聞刊「町内風土記」からおよそ四十年前の売市を再現


南売市
いまは格好の住宅地
明治二十二年帝国憲法が発布され、同時に町村制度も実施され、地方自治体は建設、整備期にはいった。藩制時代から荒谷村と呼ばれていたこの地域は新町村制によって舘村と改称された。
 当時の村長は村議会が選出するしくみになっていたため村議会議員にたいする買収、贈賄工作が活発なのとあいまって八戸の奥南派と土曜会の争いが持ち込まれ、小さな村に政争が続き、乱闘国会ならぬ乱闘村会までみられたという。とくに明治も四十年代にはいって遠山景三村長時代から近藤喜衛氏のひきいる奥南派と北村益氏を頭領とする一派の主導権争いがあり、この両氏や遠山景雄氏などが交代で村長になった時期もあった。すなわち村議会のいずれの派から村長を出しても円滑にいかないため、第三者である八戸からの「輸入村長」にたよざるを得なかった。このため松原民夫氏が地元初の村長として就任したのは相当長年月を要してからのことであった。
 また、この館村にみられるような政争は周辺の是川、大館、下田の各村もその例外ではなかった。その時代の中央政界が政友会と憲政会の二大政党に分かれて争い、政権の交代が県知事や地方の警察署長交代にまでおよんでいたのだから、館村の主導権争いも当然、起こり得べくして起こった事態であったといえよう。
 またいずれも故人だが野沢清二氏、山田大太郎氏などは憲法政友会系議員として小軽米亀松氏、川口末太郎氏などが政友会系議員として活躍していたのは旧館村村政史の一ページを飾っている。なお館村役場は新組町に置かれていた。
 八戸市に編入されて売市と改称した昭和十五年ごろは四十戸の専業農家ばかりだったが、サラリーマンが増加した今日ではその数は五%にすぎない。アイスクリームといえば盛夏時だけのたべものという時代から四季を通じて愛用されるようになったが、町内の一角に近代設備を誇る明治乳業八戸工場は昭和三十二年に進出している。北奥羽経済圏内へ販路拡張をはかっていた同社は、当時飲用牛乳の生産、販売をしていた東北乳業を買収し、工場にしたものだが、現在の年間生産能力は飲用牛乳三千三百キロリットル、アイスクリーム千八百キロリットル、練乳五百六十八トン、バター六十五トン。販路は青森県下はもちろん、秋田、岩手全域から北海道南部に至るまで、その販売網はきわめて広い。酪農事業を主体とした農業構造改善事業を着々と進めているこの地域にあって、明治乳業の存在は貴重で、低所得に悩む農民の期待を集めている。
 西、南の両売市をつらぬく県道は南売市の久慈商店の付近からなだらかな坂になっている。まっ すぐで単調な道は、ややもするとドライバーの注意がにぶりがちで、しばしば交通事故が発生しているが、先年五月も母親のもとにかけ寄ろうとした幼児がわき見運転のダンプカーの下敷きとなって、即死するという痛ましい事故などがあったりしてから、町内会は交通安全協会売市支部と提携し、交通安全運勣にも積極的だ。
 小学生、中学生は隣町の根城小、中学校へ通学しているが歩道と車道の区別がない道路を通うのは危険だということで道路拡張問題が持ちあがっているが、進んで私有地を提供しようという住民も多く、市当局と具体的な交渉の段階までこぎつけている。
 サラリーマンが増加したのに伴いアパートもふえているが、三十世帯ぐらい、はいっている規模のものは六戸を越えようとしている。また電電公社の職員住宅はなかなかしょうしゃな建て物で町内の人は、モデルハウスだといっている。
 売市下久保に八戸ガス専務の滝崎清男氏が住   んでいる。氏は初めて八戸にゴルフを紹介した人で、更上関にインドア・ゴルフ楊を開いた。八戸バラ会々長、商工会議所工業部会長、総合振興会電力部会長などの要職にある。近年、医院や商店などがふえ生活面でいろいろ便利になってきている。八戸地方酷農農業協同組合がある。
 世帯数四六〇。町内会長、行政員松田久五郎氏。民生委員邨谷忠吉氏。納税貯蓄組合員本村光男氏。婦人会長北村なをさん。
 西売市
寒村から住宅地に
売市から馬淵川に架けられている大橋にかけて、藩制時代は道路両側に沿ってうっそうたる杉木立がつつみ昼なお寂しい街道であった。
 売市という地名は、かって市がたったことからつけられたという説もある。地名といえばこの辺一帯はいまでも「あらや」と呼ぶ年よりがいるように明治、大正のころまでは館村字売市の名前よりは通称「あらや」といわれていた。
                     売市など田面木以東の地域が八戸市に編入されたのは昭和十五年一月一日からだから、市制施行後十年にしてようやく「市内」となったわけである。
 四十年前は、いまの長根湯から県道までの間に九戸しか民家がなく、道路沿いの農家を含めて二十数戸という寒村であったことからすれば、現在のように八戸のベッドタウン化したのと比べて隔世の感がある。
 かって長根湯のすじ向かいには四学級という小じんまりとした売市小学校があり、そのころ沼館小学校は売市小の分校だったという。昭和五年に移転し、いまの根城小学校の前身となった。
 馬淵川を見おろして小高い丘に建つ青森県警察「馬淵寮」は、かつて南部子爵の別荘があったところ。もっともいまでも南部恭秀氏の別荘で凝った茶室が新築 され、その伝統と手入れのよく行きとどいた邸園は往時をしのばせるにじゅうぶんだ。
 よくフクロウの鴫く声が聞こえた緑カ丘の一角に市川登志美さん宅(農業)がある。ここは藩政時代に八戸藩が頒民にいろいろな布告を知らせる制札が立っていた場所だったことからいまでも市川さんは「制札さん」と呼ばれている。
 大橋は、かつて増水のたびに流失物がたまって揺れ、危険なことから戦前にコンクリート橋となったが、県内では二番目の堅固なものだった。ところが橋ゲタが低くまたまた流失物がたまるため、戦後しばらくたって改修され現在に至っている。
 南部、十和田、市営バスの三路線が通っていることと地価が比較的安いことなどからサラリーマン住宅が多くなり、二百二十世帯の約三分の二はそれである。
かつて農家ばかりであったものが工場、商店、会社づとめの人がほとんどの世帯から出るようになり、専業農家はわずか十戸にも満たない。
 大橋をはさんで河原には民家の建っていた時期もあったが、水害でやられてからは戦争中松根油をとる小屋のみであったが、原始的アブラを必要としなくなった今目はそれすらもみえない。
 道路巾が交通量に比べて狭いため事故発生を心配した町内会では交通安全協会の支部と協力して住民に注意をうながし、いまでは交通安全のモデル地区に指定されている。
 館村時代からある天満宮は村のやしろとして親しまれているが、毎月八日、二十五日の例祭日には売市地区のおばあさんたちが集まり、懇親会を開くなど重宝がられている。
 世帯敬二七〇。町内会長、行政員、納税貯蓄組合長稲葉愛さん。民生委員柏崎源一氏。