草津よいとこ、一度はおいで…の民謡に刺激され、往時の八戸芸者たちが八戸を宣伝する歌が欲しいと願い、それに神田市長が応援、法師浜直吉が作詞。その著作権を法師浜は八戸市に寄付し、その著作権料と、八戸市が拠出した一億円をもとに、運用利益を八戸市の文化事業に使おうと発足したのが、八戸公会堂なのだ。
ところが、これがとんだ食わせ物で、八戸市職員の第二就職先と変えられ、当時の主旨はいかされずに今日まで来た。もっとも、変化を嫌う市役所としても、永遠に莫大な金を補充しなければならない八戸市公会堂にいささかならず嫌気がさして、指定管理者制度になった。
第一回の指定は特段の計らいで、競争入札をさせず、八戸市公会堂という財団法人に決定された。その温情というか、体たらくというか、その指定も三年で、平成二十一年に切れる。大体、公会堂には原価意識がなく、歴代の館長は市役所退職者でタライ回し。
そのいい加減のツケが廻ってきただけで、当然の報いなのだ。八戸市が公会堂を建設した時、今と同様に石油価格が上昇し、全ての物価が急上昇した。建設資材も高騰し、公会堂は全部が建てられず中途半端。それを解消すべく飛行騒音軽減のために防衛庁が住民対策のために防音設備改善資金が潤沢にあるのを聞き込み、この金に手を伸ばした。ところが、この金は公会堂には使えず公民館なら良いとなった。何でもいいから喉から手が出るほど欲しい八戸市は、毒饅頭にも手を伸ばした。そのため一つ屋根に二つの看板、公会堂と公民館が並び、混乱の原因を作った。
本来、公民館は社会教育課の所管、八戸市公民館だけは文化課に所属。この八戸市公民館はホールを持ち五百人ほど収容できる。これはもとより公会堂は一杯にできない芸能観賞用のホール。ここの使用料収入は年間千五百万程度の実績あり。
この使用料があるから、公会堂にここを管理させ、管理費として二千五百万を毎年くれた。公会堂は渡りに船で妙な管理費をデッチ上げて、いかにも正当のように見せかけ、文化課もそれで良しとしているが、不正使用にまちがいない。その理由は幾つもある。
防衛庁から出させた金の書類が開示請求で出たので見てみよう。
上図に一億二千八百万円と記されているのが判読できようか。その交付根拠が笑う。
航空自衛隊八戸基地におけるジエット機等各種飛行機の離着陸のひんぱんな飛行訓練により生ずる爆騒音のため基地周辺に居住する住民の日常生活が著しく阻害されるため、これらの障害を緩和し地域住民福利向上をはかるため八戸基地から南西四・五キロの地点に八戸市公民館を建設するものである。
高館近くの住民のための公民館が市役所の隣、公会堂の中に建ったわけで、実に不思議な文面で、まるで和歌の入門のよう。
上の句はどうでもいいが、下の句だけは決まっている。それにつけても、金の欲しさよ。
これはこんなように使う、花の色はうつりにけりないたづらにそれにつけても、金の欲しさよ、で、小町もギャフン。八戸市役所はこれを地で行った訳だ。
公会堂建てる金なら何でもと、取った金にてあとで後悔どう
この防衛庁を騙して取ったツケが昭和五十一年からずっと跡を引いた。三十年も二つの看板を架けているが、そろそろ一本化するべき。人殺しも時効は十五年、詐欺罪にも時効があるが、防衛庁は騙されたと思っていない、騙しているのを知っていて騙されてやったのだし、一応約定通りに公民館は建った。これを契機に公民館の名称を取り去り、公会堂で一本化するべき。
それでは、いままでいくら公民館、公会堂に注ぎこんでいたか。これは全て八戸市民の血税の無駄遣いの結果なのだ。
公会堂合計四十六億四千五百万円
公民館合計六億七千六百万円
公会堂の文化事業委託料合計二億六百万円
総計五十五億二千七百万円
約六十億円が煙と消えた。
もともと市職員の退職受け皿ではあったものの、何でこうなるの?
市民から税金は絞れば絞るほど出ると思っているからだ。役所は理由と屁理屈がつけば何でもあり。防衛庁への書類を見ても八戸市役所のいい加減さが明確。元々文化事業なるものは非常に曖昧模糊として捕らえにくいので、これでいいといえばいいわけではあるが、緊急を要する事業に金をつぎ込むことが肝要だ。地方自治について知識をもたなかったが、役所の中をウロウロして次第にわかってきた。基本的には人民は金を生む道具としか考えていないが、多くの無駄を生む所が市役所であると判明。公共の福祉を大上段にかぶり、市民の生命を第一義に考える。それは税金収入の道が細くなることへの危惧でしかないのだが、これは真実。
道路舗装が八戸市は大変悪い。文化事業に金を使う前に道路工事をするべき。また、壊れる、また直すで金を消費する。これも立派な無駄だが、市民の役に立っている。
一部地域と言うなかれ、全市に広めれば、確実に全市民は恩恵を受ける。中里市長は箱物を建てた。公会堂で分かるように、箱物は建築費以外に金が意外とかかる。
役に立つ箱物ならいいが、中里市長時代は、バックリベートを要求するために無理やり建てたといまだに言われる。確かに根城の福祉センターは不用で、空き部屋ばかりだ。市民は市長の懐を肥やす道具ではない。正しく金を必要な部門に遣ってもらわなければならない。
公会堂基金は公会堂の赤字解消のために元金を食い始めた。法師浜の志を踏みにじっている。そして、このことを市役所の職員は誰一人憂う者なしの現実。
何、自分がしたわけでもなし、前任者が通って来た道を自分も通ったが、「はちのへ今昔」にいきなり脇からワッと驚かされたぐらいにしか感じていない。ここが怖い。北海道の白い恋人が賞味期限改竄で摘発、次いで伊勢の赤福、白から赤に行った。そして両方ともクロだった。これは当然罰せられるが、役所の無駄遣いは会計検査院以外にはできない。
仮に出来たとしても蛙の面になんとやらで、彼等にとっては痛くも痒くもなんともないが、先人たちが、八戸の為にと残した財産を、反省も努力もせず安易に消費してはいけない。
ここは神田市長時代に戻り、八戸のためにこの金を上手に増やすことを考えるべき。つまり八戸市が八戸小唄の全国大会を催すべき。かつて商工会議所が数年実施したが立ち消えた。
彼等には情熱も理念もない、観光客誘致、商売繁盛の神頼み的行動で実施するから長続きしない。八戸の精神昂揚、八戸の財産維持の見地から八戸小唄全国大会を実施し、先人たちの心を受継ぐことが大切だ。
これなくしては、八戸公会堂は滅びる。財団法人八戸公会堂が滅びるのは、積年あぐらをかいていたツケで、人件費の高さにあるのだ。彼等には自己保全しか頭にないから解決は出来ない。二十一年までで指定管理が切れ消滅の一途をたどる。それは役人天国の時代の凋落を意味するのだ。何でもいい、人民が気づかなければ何でもいいという時代は過ぎ去った。
しかし、市民ももっと問題意識を持つ必要がある。八戸市に八戸小唄全国大会事務局を設置させ、毎十二時に役所で吹鳴される八戸小唄を聞くたびに先人の労苦を偲び、将来の八戸の隆盛のために今、八戸の地を踏む我々が努力をすべきだと。
(掲載資料・公民館管理費は一部のみ、昭和五十二年からの分が後から提出されたため資料合計金額と差あり)
2008年3月1日土曜日
火消し魂は何処から来る?親子二代に渡り消防士の佐々木一族
武輪水産五十年史で工場が火災にあったことが判明。当時のデーリー東北新聞を調べると、その消火中殉職者が出た。
早速消防本部に出向き、殉職者を調べた。四名おられた。燃え盛る炎と戦う消防士には絶えずこうした危険が背中合わせにあるものだ。
それをものともせずに、消防の仕事に飛び込む魂はどこから来るのだろう。人々の生命財産を命をかけても守る根性はどこから生まれるのだろう。こうした謎を解くべく、八戸消防団史の殉職者の記録を見た。すると、そこに、佐々木康勝氏の記録を見つけた。
「火災現場への途上消防車が川に転落」
三戸消防署名川分署長
消防司令長 佐々木康勝
昭和五十一年一月十六日午後三時十三分、名川分署は分署から八・五キロの山間地帯にある青鹿長根バス停付近の火災に出動した。現場は名久井岳の山裾にある世帯数百六十二戸、人口六百九十九人の部落で消防力は可搬式小型ポンプ一台のみであった。このため分署長は隊員にこれを認識させ急行した。道路は未舗装の砂利道で幅員三・七メートルと狭溢、それに新雪が薄く積っていた。分署長は出動五分後「道路状況が極めて悪い後続車注意」を無線で指示してきた。消防車はスノータイヤにチェーンを装置し万全を期していたが、火災現場約四キロ手前の地点で砂利道のためチェーンが切断された。分署長は火煙が一層上るのを望見しチェーンの脱着を命じスピードを落して進行した。起伏の激しい山間道は登りでは陽をうけて砂利が露出し、下りは日陰となりアイスバーン状態になっていた。長い下り坂に差しかかり消防車はアイスバーンの新雪に乗りハンドル操作の自由を全く失い滑走して路肩から四・五メートル下の如来堂川ヘ一・五回転し転落した。後部席の隊員、機関員は脱出したが指揮者席にあった分署長は消肪車の下敷となり水中におし込められた。後続の消防隊の応援を得て救出し南部病院に搬送したが、午後四時二十五分その職に殉じた。
佐々本分署長は常に職務に精励格勤し、最短期間で消防士長、消防司令袖、警防係長と昇進し三十五才の最年少で分署長に昇進した。この間消防大学校警防科に派遣される等、将来の最高幹部として期待される人材であった。身長百八十センチ、体重八十キロの覇気溢れる偉丈夫で消防の使命感、部下の抱擁力特に厚くその殉職は誠に痛恨であった。一月二十一日執行の消防葬は八戸広域圏一市七町三村の消防関係者の外、県下の消防機関、議会議員、多数の地域住民も参列し二時間余に及んだ。この壮烈な殉職に二階級特進、勲六等瑞宝章、消防庁長官功績章、全国消防長会功労章、青森県褒章等が捧呈された。昭和十三年十二月三日生れ、県立八戸高等学校卒、昭和三十二年八月海上自衛隊八戸航空隊、昭和三十七年七月一日八戸市消防本部採用、昭和五十一年一月十六日殉職、三十七才であった。
更に詳しく見てみよう。デーリー東北新聞は次のように報道。
昭和五十一年一月十七日付け
名川分署長が殉職
火災現場に向う途中、消防車川に転落
十六日午後三時半ごろ、三戸郡名川町島谷橋野合の県道左カーブで、同町青鹿長根部落の火災現場へ向かう途中の三戸消防署名川分署の消防車が、約七・五が下の如来堂川に転落した。この事故で消防車に乗っていた八戸市石手洗京塚、同分署長司令補・佐々木康勝さん(三七)は、消防車の下敷きになり、南部町の南部病院に収容されたが、脳ザ創で同四時二十五分死亡した。また、消防車を運転していた名川町高瀬櫓長根、同分署 署員消防士四戸一保さん(二三)も腰や右ヒジに二週間のけがをした。
現場は名川町の役場から岩手県軽米町に向かって約十一㌔入った青鹿長根部落の入口で、道路の幅が三・五㍍と狭く、左側が山はだになっているうえ、左にカーブする見通しの悪い所。路肩も軟弱で、路面が凍っていたため、火災現場へ急ぐ消防車がスリップしたまま右側の如来堂川に転落、運転席側を下にして横倒しになって水深五十㌢ほどの流れにつかっていた。途中は地ハダがめくれ、川べりの木が折れて転落のシヨックの大きさを物語っており、消防車はメチャメチャ。周りには積んでいた器材などが散乱していた。消防車には、佐々木分署長をはじめ消防士四人が乗り、転落当時、同分署長は助手席に乗っていた。
なお火災は、名川町鳥谷小山、船員上城長一さん(二九)方住家の火災で、午後三時ごろ台所から出火、木造一部二階建ての同住家一棟五十平方㍍を焼き、同三時五十分消えた。三戸署の調べだと原因は、プロパンガスコンロの消し忘れらしい。
最初は火事の方だけに気をとられていた部落民も転落事故を知って現地に駆けつけ、事故の大きさにビックリ。「火災を起こしたばっかりに大変な悲劇を招いてしまった」と同情していた。現場に駆けつけた八戸広域消防本部の佐川消防長も、あまりにも大きな犠牲に「申し訳のないことをした」と肩を落としていた。
殉職した三戸消防署名川分署長佐々木康勝司令補は三戸郡名川町虎渡の出身。三十二年三月県立八戸高校を卒業後、海上目衛隊八戸航空隊に三年八ヵ月勤務。三十七年七月八戸消防本部入り、八戸署を振り出しに消防士となった。四十二年一月本部予防班へ配属され、四十四年に八月消防士長に昇任。四十六年七月、広域消防本部の発足に伴い同本部警防係長心得を経て、同年十月司令補昇任と同時に同係長。四十九年四月、三戸消防署名川分署長となった。
遺族は妻弘子さん(三四)と小学五年生を頭に一男二女。
佐々木分署長は豪放らい落な性格で、率先して仕事の範を示すなど部下の信頼が厚かった。また分署長のなかでは一番若手で、同消防本部の幹部として将来性を期待されていただけに、突然の死が惜しまれている。
「死亡」の報に沈痛な空気流れる
八戸広域消防
「十六時二十五分、佐々木分署長が南部病院で死亡」救急車からの無線連絡に、消防本部は沈痛な空気が流れた。佐川消防長は事故発生と同時に現地へ。本部で指揮をとっていた西村和男次長らは「まさか、あのがん丈な男が…」と信じられない様子。つい二年前まで机を並べていた同僚のなかには「消防という仕事柄、多少の危倹は覚悟している。だが、火事場ならともかく、事故で死ぬなんて…」と机に顔を伏せ、男泣きする職員も…
消防本部職員から殉職者を出したのは去る四十二年七月十一日、八戸市鮫町の水産加工場の火災現場で消防作業中に、小杉武男司令補(当時消防士・二階級特進)が崩れてきたモルタルの下敷きになって以来。広域消防体制になってからは初めて。
昨年七月十五日にも、今回の死亡事故現場から約一・五㌔しか離れていない名川町鳥谷妻神の県道で、火災現場へ出動中の三戸消防署のタンク車が、路肩が崩れたため約一・八㍍下の水田に転落するという事故を起こしている。幸いけが人はなかった。同本部ではこれまでも機会あるごとに、緊急出動中といえども安全運転を心がけるよう厳重に注意しており、先月初めにも路面が凍結しているためスリップ事故に注意するよう消防長名で各署に通達を出したばかり。またきょう十七日開く予定の司令補以上の幹部会議でも再確認することにしていた矢先の死亡事故だけに、幹部はショックを隠し切れないでいる。
この事件から三十一年後の平成十九年十一月の晴れた風の無い日に、旧福地村役場の裏にある消防分所を訪問した。佐々木さんの遺児、当時小学校五年生だった息子の隆一さんに逢うために。
隆一さんは救急隊に属し、日夜人々の生命を救うために尽力される。
どうして、命をかけても消防の仕事につくことを決めましたか? どうしても聞かなければならない質問をぶつけた。
即座に返ってきた言葉は、「父と同じように人の役にたつ仕事をしたかったから」
でもお父さんは、その仕事の為に命を亡くされましたよね、「ええ、でもやはり私は消防士になろうと決めました」
お母さんは賛成してくれましたか
「ええ、私がそのことを告げたとき、少し黙って考えていましたが、そうか、しっかりおやりと言ってくれました」
お父さんが亡くなって、お母さんは苦労してあなたたち兄妹たちを女で一つで育てられました、どんな仕事につかれたんですか
「母はうみねこ学園の給食を担当していました」
役所はそうした所だ。仕事に命をかけ、ひるまず命を差し出した男の家族が路頭に迷うような破目にはけしてさせない。
気の毒な母子を人垣を作り人目から守り、そして又、力強い一歩を踏み出せるように職員は励ましつづける。明日は我が身の人生なのだ。
八戸一の企業である八戸市役所には仲間の輪がしっかりと存在する。だからこそ安心して日々の業務に人は励むことができる。
この佐々木母子の場合にもそれを見て、そして血の通わない役所にも人情の春風がそよぐくことを喜ぶ。
隆一さんは父親参観日に母が来たとき、寂しい思いをしたそうだ。男親がずらりと顔を並べるなか、仕事をやりくりして母が顔を出したのだろうが、父を亡くした子供は、母親を気遣う心くばりはできない。そして、それを誰も咎められない。幼い子供も必死に耐えているのだ。妹たちも父親がいない寂しさを口に出したことはなかったそうだ。
隆一さんは工大一校に進学し、消防士になった。そして結婚し息子を二人、娘を一人授かった。息子が消防士になれば親子三代に渡ることになるが、今は野球に夢中だそうだ。
女手一つで育ててくれた母親も病を得て、今はゆっくりと積年の疲れた体を休めている。昔のことをしゃべらないので、父との馴れ初めを聞いたこともありませんが、五所川原の出身ですと教えてくれた。
人は一人では生きられない。生涯の伴侶を必死に捜し求めるもの。その杖にも柱とも心丈夫に思った世界に一人の存在の亭主が、突然、何の別れの言葉もなくこの世から消えてしまう。
人間誰しも生まれた以上、死ななければならない。これは人間の摂理・理法であるから仕方のないことではあるが、残された妻であり母である女は必死だ。
女は弱し、されど母は強しの言葉の通り、亭主を亡くした女は、髪振り乱しても励む。わが子を飢えさせてはならない、立派に育てなければならないと、我が身を律して血みどろの戦いをする。
その亭主から託された子供が、長じて同じ消防士になることを告げられたとき、どんな気持ちになっただろうかと考える。
落命した仕事に就かずとも世の中は広い、もっと違う仕事もあるだろうと、他へ仕事を求めるように勧めるか?
それとも、世の為人の為になる消防士の道をえらばせるか、難しい選択ではある。もし、又、この子も父と同じような落命も考えられる。どんなに世の中が進歩し、文明が発達したとても、火事の現場に消防士が立たなくていい日は絶対にこない。
まして六ケ所のような原子力関連の職場で一旦緩急あれば、現代消防の能力を超えるは必定。
命を的にする仕事なのだ。だが、尊い仕事なのだ。佐々木隆一さんは、ためらうことなく消防の道に飛び込んだ。そしてそれを支え、サイレンを鳴らし夜中でも雪で凍る国道をも全速力で疾駆する。救急車の遅れで助かる命を助けられないことのないようにと、細心の注意と人類愛という最大の勇気を持って全速力で走る。
我々市民は交差点で緊急車両に遭遇した時、片側に車を寄せて道を譲ろう。生命と財産を守るために我が身を忘れ、智慧と汗を流す勇気ある人々に畏敬と尊敬の念をもって車を片側に寄せて道を譲ろう。彼等こそ、人を愛し、人を守り、災害、災難から救助する使命を片時も忘れることない人々の集まりなのだ。
怪我のないように、そして怯(ひる)むことなく全力を尽くすことを心より願い、ありがとうと最後に記す。
早速消防本部に出向き、殉職者を調べた。四名おられた。燃え盛る炎と戦う消防士には絶えずこうした危険が背中合わせにあるものだ。
それをものともせずに、消防の仕事に飛び込む魂はどこから来るのだろう。人々の生命財産を命をかけても守る根性はどこから生まれるのだろう。こうした謎を解くべく、八戸消防団史の殉職者の記録を見た。すると、そこに、佐々木康勝氏の記録を見つけた。
「火災現場への途上消防車が川に転落」
三戸消防署名川分署長
消防司令長 佐々木康勝
昭和五十一年一月十六日午後三時十三分、名川分署は分署から八・五キロの山間地帯にある青鹿長根バス停付近の火災に出動した。現場は名久井岳の山裾にある世帯数百六十二戸、人口六百九十九人の部落で消防力は可搬式小型ポンプ一台のみであった。このため分署長は隊員にこれを認識させ急行した。道路は未舗装の砂利道で幅員三・七メートルと狭溢、それに新雪が薄く積っていた。分署長は出動五分後「道路状況が極めて悪い後続車注意」を無線で指示してきた。消防車はスノータイヤにチェーンを装置し万全を期していたが、火災現場約四キロ手前の地点で砂利道のためチェーンが切断された。分署長は火煙が一層上るのを望見しチェーンの脱着を命じスピードを落して進行した。起伏の激しい山間道は登りでは陽をうけて砂利が露出し、下りは日陰となりアイスバーン状態になっていた。長い下り坂に差しかかり消防車はアイスバーンの新雪に乗りハンドル操作の自由を全く失い滑走して路肩から四・五メートル下の如来堂川ヘ一・五回転し転落した。後部席の隊員、機関員は脱出したが指揮者席にあった分署長は消肪車の下敷となり水中におし込められた。後続の消防隊の応援を得て救出し南部病院に搬送したが、午後四時二十五分その職に殉じた。
佐々本分署長は常に職務に精励格勤し、最短期間で消防士長、消防司令袖、警防係長と昇進し三十五才の最年少で分署長に昇進した。この間消防大学校警防科に派遣される等、将来の最高幹部として期待される人材であった。身長百八十センチ、体重八十キロの覇気溢れる偉丈夫で消防の使命感、部下の抱擁力特に厚くその殉職は誠に痛恨であった。一月二十一日執行の消防葬は八戸広域圏一市七町三村の消防関係者の外、県下の消防機関、議会議員、多数の地域住民も参列し二時間余に及んだ。この壮烈な殉職に二階級特進、勲六等瑞宝章、消防庁長官功績章、全国消防長会功労章、青森県褒章等が捧呈された。昭和十三年十二月三日生れ、県立八戸高等学校卒、昭和三十二年八月海上自衛隊八戸航空隊、昭和三十七年七月一日八戸市消防本部採用、昭和五十一年一月十六日殉職、三十七才であった。
更に詳しく見てみよう。デーリー東北新聞は次のように報道。
昭和五十一年一月十七日付け
名川分署長が殉職
火災現場に向う途中、消防車川に転落
十六日午後三時半ごろ、三戸郡名川町島谷橋野合の県道左カーブで、同町青鹿長根部落の火災現場へ向かう途中の三戸消防署名川分署の消防車が、約七・五が下の如来堂川に転落した。この事故で消防車に乗っていた八戸市石手洗京塚、同分署長司令補・佐々木康勝さん(三七)は、消防車の下敷きになり、南部町の南部病院に収容されたが、脳ザ創で同四時二十五分死亡した。また、消防車を運転していた名川町高瀬櫓長根、同分署 署員消防士四戸一保さん(二三)も腰や右ヒジに二週間のけがをした。
現場は名川町の役場から岩手県軽米町に向かって約十一㌔入った青鹿長根部落の入口で、道路の幅が三・五㍍と狭く、左側が山はだになっているうえ、左にカーブする見通しの悪い所。路肩も軟弱で、路面が凍っていたため、火災現場へ急ぐ消防車がスリップしたまま右側の如来堂川に転落、運転席側を下にして横倒しになって水深五十㌢ほどの流れにつかっていた。途中は地ハダがめくれ、川べりの木が折れて転落のシヨックの大きさを物語っており、消防車はメチャメチャ。周りには積んでいた器材などが散乱していた。消防車には、佐々木分署長をはじめ消防士四人が乗り、転落当時、同分署長は助手席に乗っていた。
なお火災は、名川町鳥谷小山、船員上城長一さん(二九)方住家の火災で、午後三時ごろ台所から出火、木造一部二階建ての同住家一棟五十平方㍍を焼き、同三時五十分消えた。三戸署の調べだと原因は、プロパンガスコンロの消し忘れらしい。
最初は火事の方だけに気をとられていた部落民も転落事故を知って現地に駆けつけ、事故の大きさにビックリ。「火災を起こしたばっかりに大変な悲劇を招いてしまった」と同情していた。現場に駆けつけた八戸広域消防本部の佐川消防長も、あまりにも大きな犠牲に「申し訳のないことをした」と肩を落としていた。
殉職した三戸消防署名川分署長佐々木康勝司令補は三戸郡名川町虎渡の出身。三十二年三月県立八戸高校を卒業後、海上目衛隊八戸航空隊に三年八ヵ月勤務。三十七年七月八戸消防本部入り、八戸署を振り出しに消防士となった。四十二年一月本部予防班へ配属され、四十四年に八月消防士長に昇任。四十六年七月、広域消防本部の発足に伴い同本部警防係長心得を経て、同年十月司令補昇任と同時に同係長。四十九年四月、三戸消防署名川分署長となった。
遺族は妻弘子さん(三四)と小学五年生を頭に一男二女。
佐々木分署長は豪放らい落な性格で、率先して仕事の範を示すなど部下の信頼が厚かった。また分署長のなかでは一番若手で、同消防本部の幹部として将来性を期待されていただけに、突然の死が惜しまれている。
「死亡」の報に沈痛な空気流れる
八戸広域消防
「十六時二十五分、佐々木分署長が南部病院で死亡」救急車からの無線連絡に、消防本部は沈痛な空気が流れた。佐川消防長は事故発生と同時に現地へ。本部で指揮をとっていた西村和男次長らは「まさか、あのがん丈な男が…」と信じられない様子。つい二年前まで机を並べていた同僚のなかには「消防という仕事柄、多少の危倹は覚悟している。だが、火事場ならともかく、事故で死ぬなんて…」と机に顔を伏せ、男泣きする職員も…
消防本部職員から殉職者を出したのは去る四十二年七月十一日、八戸市鮫町の水産加工場の火災現場で消防作業中に、小杉武男司令補(当時消防士・二階級特進)が崩れてきたモルタルの下敷きになって以来。広域消防体制になってからは初めて。
昨年七月十五日にも、今回の死亡事故現場から約一・五㌔しか離れていない名川町鳥谷妻神の県道で、火災現場へ出動中の三戸消防署のタンク車が、路肩が崩れたため約一・八㍍下の水田に転落するという事故を起こしている。幸いけが人はなかった。同本部ではこれまでも機会あるごとに、緊急出動中といえども安全運転を心がけるよう厳重に注意しており、先月初めにも路面が凍結しているためスリップ事故に注意するよう消防長名で各署に通達を出したばかり。またきょう十七日開く予定の司令補以上の幹部会議でも再確認することにしていた矢先の死亡事故だけに、幹部はショックを隠し切れないでいる。
この事件から三十一年後の平成十九年十一月の晴れた風の無い日に、旧福地村役場の裏にある消防分所を訪問した。佐々木さんの遺児、当時小学校五年生だった息子の隆一さんに逢うために。
隆一さんは救急隊に属し、日夜人々の生命を救うために尽力される。
どうして、命をかけても消防の仕事につくことを決めましたか? どうしても聞かなければならない質問をぶつけた。
即座に返ってきた言葉は、「父と同じように人の役にたつ仕事をしたかったから」
でもお父さんは、その仕事の為に命を亡くされましたよね、「ええ、でもやはり私は消防士になろうと決めました」
お母さんは賛成してくれましたか
「ええ、私がそのことを告げたとき、少し黙って考えていましたが、そうか、しっかりおやりと言ってくれました」
お父さんが亡くなって、お母さんは苦労してあなたたち兄妹たちを女で一つで育てられました、どんな仕事につかれたんですか
「母はうみねこ学園の給食を担当していました」
役所はそうした所だ。仕事に命をかけ、ひるまず命を差し出した男の家族が路頭に迷うような破目にはけしてさせない。
気の毒な母子を人垣を作り人目から守り、そして又、力強い一歩を踏み出せるように職員は励ましつづける。明日は我が身の人生なのだ。
八戸一の企業である八戸市役所には仲間の輪がしっかりと存在する。だからこそ安心して日々の業務に人は励むことができる。
この佐々木母子の場合にもそれを見て、そして血の通わない役所にも人情の春風がそよぐくことを喜ぶ。
隆一さんは父親参観日に母が来たとき、寂しい思いをしたそうだ。男親がずらりと顔を並べるなか、仕事をやりくりして母が顔を出したのだろうが、父を亡くした子供は、母親を気遣う心くばりはできない。そして、それを誰も咎められない。幼い子供も必死に耐えているのだ。妹たちも父親がいない寂しさを口に出したことはなかったそうだ。
隆一さんは工大一校に進学し、消防士になった。そして結婚し息子を二人、娘を一人授かった。息子が消防士になれば親子三代に渡ることになるが、今は野球に夢中だそうだ。
女手一つで育ててくれた母親も病を得て、今はゆっくりと積年の疲れた体を休めている。昔のことをしゃべらないので、父との馴れ初めを聞いたこともありませんが、五所川原の出身ですと教えてくれた。
人は一人では生きられない。生涯の伴侶を必死に捜し求めるもの。その杖にも柱とも心丈夫に思った世界に一人の存在の亭主が、突然、何の別れの言葉もなくこの世から消えてしまう。
人間誰しも生まれた以上、死ななければならない。これは人間の摂理・理法であるから仕方のないことではあるが、残された妻であり母である女は必死だ。
女は弱し、されど母は強しの言葉の通り、亭主を亡くした女は、髪振り乱しても励む。わが子を飢えさせてはならない、立派に育てなければならないと、我が身を律して血みどろの戦いをする。
その亭主から託された子供が、長じて同じ消防士になることを告げられたとき、どんな気持ちになっただろうかと考える。
落命した仕事に就かずとも世の中は広い、もっと違う仕事もあるだろうと、他へ仕事を求めるように勧めるか?
それとも、世の為人の為になる消防士の道をえらばせるか、難しい選択ではある。もし、又、この子も父と同じような落命も考えられる。どんなに世の中が進歩し、文明が発達したとても、火事の現場に消防士が立たなくていい日は絶対にこない。
まして六ケ所のような原子力関連の職場で一旦緩急あれば、現代消防の能力を超えるは必定。
命を的にする仕事なのだ。だが、尊い仕事なのだ。佐々木隆一さんは、ためらうことなく消防の道に飛び込んだ。そしてそれを支え、サイレンを鳴らし夜中でも雪で凍る国道をも全速力で疾駆する。救急車の遅れで助かる命を助けられないことのないようにと、細心の注意と人類愛という最大の勇気を持って全速力で走る。
我々市民は交差点で緊急車両に遭遇した時、片側に車を寄せて道を譲ろう。生命と財産を守るために我が身を忘れ、智慧と汗を流す勇気ある人々に畏敬と尊敬の念をもって車を片側に寄せて道を譲ろう。彼等こそ、人を愛し、人を守り、災害、災難から救助する使命を片時も忘れることない人々の集まりなのだ。
怪我のないように、そして怯(ひる)むことなく全力を尽くすことを心より願い、ありがとうと最後に記す。
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 5
昭和四十三年度はイカ釣漁業、鯖まき縄漁業、大型機船底曳網(北転船)共水櫛量を増やし、水揚げ量も四三四、四九五tと四〇万tを突破し、助宗スリ身工場も十七工場に増加した年でしたから、まずまずの成績を納められました。
(第二の谷間)
昭和四十四年度以降、太平洋に於けるするめいかの水揚げが急速に減少し、魚価が暴騰してサキイカの原価も高くつきサキイカ中心の操業より、助宗スリ身生産に重点を移しました。当社も昭和四十四年十一月第二工場に二〇屯プラントの助宗スリ身工場を完成、これがフル操業の為め毎日一〇〇tから二〇〇tの助宗を買付け、スリ身生産と共に助子を生産しました。此頃業界より助子に発色材としての亜硝酸を使用した事が判れば廃業処分になる恐れがあり、損害が計り知れないから亜硝酸を使用しない事にしてはと云う問題提起がありました。これは役員会丈では決めかねる事でもあり、加工業者の全休会議を開き協議する事にした結果、亜硝酸を使わない事に決定しました,尤も自然界に取れる硝石は使用してもよいのですが即効性がないのです。そこで八戸水産加工連の会長であった私をはじめ、主な幹部が関東地方は東京で、関西地方は大阪に主要な取引市場の方々に御参集を頂き、助子に亜硝酸を使用しない事にした為、発色しないが今迄と同様に販売して頂き度いと御願いしました。処が暫らくして亜硝酸を使用しない製品が売れなくなった為、今迄通り使用し度いと云う申入れがあり、業界の困惑を考え、事情を取引先に説明し各自対処して頂く事にしました。
然し、私は当面の責任者として市場筋に公 言した手前朝令暮改しては私の信用を失墜する。一時的な損害はあっても長い信用に変えられないとの信念から遂に硝石のみの使用でとおしました,助子の在庫は増大し、運転資金面では急迫し、信用保証協会の保証で融資を依頼したり、取引先の大手筋に支払サイドの短縮や纏まった前渡金を出して貰ったり、資金の調達に奔走しました。最後には在庫の助子を成り行きで処分し、大型の赤字を初めて出しました。此問題で私は得難い教訓を種々体得しました。之が第二の谷間でした。此問題の後始末として臨時株主総会を開き決算期を三月三十一日より八月三十一日に変更する件を議決し、昭和四十五年四月一日より八月三十一日までの決算で約一億円の損失を初めて出しました。此損失は二年間で充填し、三年目より黒字決算になりましたが、一番の痛手は私が資金調達の為奔走している間に従業員の一部に労働組合結成の動きがあった事です。之が表面化し、従業員が動揺し、優秀な若手の男子、女子従業員が多数退職した事です。少数の労働組合に対し多数の従業員が従業員組合を作り全社一丸となっての行動をとる迄に暫らくかかりましたし、丁度石油危機の発生を契機に物価の爆発的な高騰と景気の厳しい落込みと言う戦後最も厳しい試練に見舞われました。加うるに世界経済の不況と相挨って不景気には強いと言われる食品業界も次第に不況の波に洗われ、水産加工業界に於ては原魚高の製品安と言う逆鞘現象が各種の商品に見られる様になりました。ベースアップ率が年同一五%乃至二〇%になり人件費の高騰のあおりを受けたのも此頃であります。
ここで武輪水産のおかれていた昭和四十年代の水産界をみてみよう。
水産界は漁労と加工に大別される。近海のみの漁労をしていた明治期に青森県は佐渡の漁師を招き八戸にイカ釣り技術を教えさせた。明治二十年代の話だ。
明治三十年代には鰹、鮪の豊漁は東奥日報により報道されている。漁業は浜揚げした魚を運搬に時間を消費すれば鮮度は落ちる。運搬技術を持たない時代は人、馬、牛に頼るいがいに方法はなく、遠方への輸送手段はない。そのため地域漁労、地域消費しかない。
日持ちのする商品となればイカをするめと加工するか、イワシを干して肥料とするいがいに手段を持たない。
昭和十二年の八戸商工案内から往時の漁業関係者を探る。
安政三年 製造 中村商店 中村栄吉 南横町
文久二年 漁業 五戸 五戸岩次郎 湊
文久二年 鮮魚 戸田魚店 六日町 戸田栄一
明治十年 小売 魚周 沼館周太郎 六日
明治十年 漁業 秋山 秋山熊五郎 浜須賀
明治十二、漁業、神田商店、神田俊雄 湊柳町
明治二二 漁業 岩五商店 岩岡義剛 鮫
明治二八 蒲鉾 槻末商店 槻舘新太郎 六日
明治四五 卸小売大山商店 大山富蔵 六日
明治三年 製造 中平魚店 中島平助 六日
明治四十 漁業 高橋商店 高橋善蔵 下條
明治三六 卸 夏市商店 夏堀市太郎 湊
明治二五 漁業 長谷川藤次郎商店 白銀
四十 卸 田名旗商店 田名部旗次郎二十三日
四五 卸 田中清三郎商店 白銀
三二 卸 沼田魚店 沼田嘉蔵 六日町
大正元 卸 関橋商店 関橋耕作 小中野
大正二 小売 福田魚店 福田真太郎 六日
大正三 小売 中梅 中島梅吉 六日町
大正三 卸 夏堀商店 夏堀源三郎 南横町
々 卸 宮市商店 宮崎市太郎 鮫
大正五 製造 吉田契造商店 湊大沢
大正五 卸 柳谷鮮魚店 柳谷歌吉 小中野
大正五 卸 久保田魚店 久保田留之助 六日
大正十 卸 武尾商店 武尾憲三郎 下條
大正十二 卸 田中商店 田中仁太郎 湊
々 卸 倉本商店 倉本象二 湊
大正十三 小売 石良商店 石橋良一 六日
大正十二 製造 大石蒲鉾 大石連治 北横町
大正十五 卸 中石商店 中島石蔵 小中野
昭和元年 漁業 吉田商店 吉田利八郎 下條
昭和二年 卸 岩村商店 岩村四方吉 湊
々 漁業 平岡春松 鮫
昭和四 卸 熊野商店 熊野福三郎 湊
々 卸 榎本海産店 榎本元吉 湊
昭和六 卸 町田商店 町田米次郎 南横町
々 卸 角田商店 栗原平蔵 新堀
昭和八 漁業 角栄海産物 角栄次郎 北横町
昭和九 卸 沢口商店 沢口由郎 湊
昭和十一 小売 佐々木魚店 佐々木惣吉 鮫
さらに水産加工品業者には
肥料 関五 関川五郎 北横町 明治二二
魚肥 金入 金入文吉 番町 明治四二
々 南部物産 高橋正志 新堀
佃煮 滝川水産加工場 滝川忠兵衛 小中野
魚肥 鳥谷部商店 鳥谷部堅吉 湊
乾物 柏商店 柏美与志 白銀
海産物 荒井商店 荒井八十八 鮫
海産加工 佐川商店 佐川幸蔵 鮫
乾魚 長谷商店 長谷春松 六日町
魚肥 石要商店 石橋要吉 十八日町
々 三新商店 富岡新太郎 十三日町
々 秋山秀之助 浜須賀
ここに武輪氏が割って入ったことになる。
戦後間もなくは政府の方針で、木造船を継ぎ足して大きくし、魚を沢山獲る工夫をなした。多くの大型漁船は徴用され、輸送船として外地で撃沈された。船も人手も不足していた。
外地からの引揚者三百万人、これらの食べる苦労から開始となった。武輪氏はまさに、この時代に旗揚げすることになった。最初は労力しかなく、骨身惜しまず働く、人が捨てるような魚屑から肥料をつくり、その爪に火を点すような苦労を重ね資本を得て、魚を買い加工に身を乗り出した。国民が食えればいい時代は直ぐに終息。
美味しいものを求めるようになる。ここに加工の技術が生かされた。
漁労をせず、加工だけにたよると、市場での買いつけが勝負になる。多くの従業員を擁する企業に伸し上がると、買い付け額も上る。
従業員の給料を確保するためには高値で購入するようになる。
ここに企業家としての悩みも出る。昭和四十四年武輪水産が大きな赤字を出した。その背景の八戸水産界はどのような悩みを抱えていたのだろうか。
それを探るべく往時のにデーリー東北新聞を見た。すると「水産八戸のカルテ」というシリーズが掲載されていた。そのなかに東北水研八戸支所が出ている。
イカ・サバ調査に力。
基礎的研究体制が必要
昭和二十五年全国八箇所に水産研究所が設けられ八戸は塩釜の支所。魚の年齢構成、成長、分布、深度別魚種別調査などで、漁船数と資源量を明確化した。北海道へ入会操業していた中型トロールを減船した。減少した若齢サバ、自然条件が響くイカなどの記載があるが、結果的にはイカ・サバの増減は判明せず。今後の研究が必要とある。
漁獲量によって漁業家は左右され、加工場も同様である。しかし、加工場に卓越した技術があれば、八戸の水揚げに頼ることなく魚は全国、全世界から集まる。
この昭和四十四年には想像もつかなかっただろうが、後年武輪水産はノルウェーからサバを全国に先駆けて実施。加工技術、新製品開発以外に企業が生き残る術はないのだ。
デーリー東北新聞の連載「カルテ」に水産加工流通の方向の記事がある。それには、ふえる冷凍、加工とあり、水揚げは昭和三十年代が十万トン、四十年代には二十万トンから三十万トン、さらに四十万トンへと急速飛躍。水揚げ量の増大は魚場が近いこと、水揚げ価格が競合港より高いこと、価格が安定していることである。水揚げの対象魚種はイカ、サバ、サンマなど回遊性多獲魚から北洋トロールのスケトウタラで、水揚げ金額では高級魚が少ないため全国では順位が落ちるが、量的には日本一である。
これらの水揚げされた魚の処理であるが、鮮魚として処理三十九%、冷凍冷蔵三十%、加工その他三十一%で、将来は加工能力の増大から鮮魚は二十%、冷凍冷蔵、加工で八十%となることが予想されている。
期待のイカ、珍味、スケソウねり製品
それでは、八戸港で生産される加工品の種類はどれだけあるだろうか。製造方法が低次から高次へと多様で生産品目も豊富だが、販売高の構成比では鮮魚がトップ。今後の期待製品は、現在成長中のイカ珍味と、完全利用が出来ていないスケソウタラ利用のねり製品の二つである。この二つの製造、生産については地元八戸の業者も意欲的で、地元の水産加工研究所を主体として研究を続け、すでにスケ子、イカの珍味においては集中生産方式によって大きな成果をあげている。
集中生産方式で原料高く買い、製品安く売る
集中生産方式とは、相当規模の実験工場で製品を試作し広く公開する。収益性が高いと予想された場合、生産工場数が急増、需要に充分こたえられる方式で、ねり製品の原料となる北転船の水揚げ魚種のスケソウは北海道よりは鮮度の面で落ちるとしても、価格面では北海道と同等に対抗できるわけで、今後の生産技術開発によっては先進地よりもよい製品を生産、優位にたてることも可能といわれる。
商品が商品を呼び産地銘柄を確立
八戸水産加工の今後の期待はねり製品、イカ珍味、冷凍食品であるが、これを食品ルートに乗せようとすると水産大手との激しい販売競争が待っている。しかし、販売ルートに乗せなくては、効果が期待できない訳で、八戸港としては卸売り市場を固めながら、一般食品問屋ルートの開発も急がなければ販売高の伸長は望めない。
この時、大いに生かしたいのは、流通面にも集中生産方式の精神の貫徹である。優秀製品を看板商品として既存ルートに取り扱いの意欲をもたせ、実績が上昇に転じたとき、すかさず集中方式によって規格化された均一商品を集中的に流通路線に乗せる。これが商品が商品を呼ぶことになり、八戸の産地銘柄が確立される。
端的に言えば原料を高く買い、加工製品をより安く売るメカニズムを無理なく定着させ、発展させて行くことが八戸水産加工流通の基本的課題である。
(第二の谷間)
昭和四十四年度以降、太平洋に於けるするめいかの水揚げが急速に減少し、魚価が暴騰してサキイカの原価も高くつきサキイカ中心の操業より、助宗スリ身生産に重点を移しました。当社も昭和四十四年十一月第二工場に二〇屯プラントの助宗スリ身工場を完成、これがフル操業の為め毎日一〇〇tから二〇〇tの助宗を買付け、スリ身生産と共に助子を生産しました。此頃業界より助子に発色材としての亜硝酸を使用した事が判れば廃業処分になる恐れがあり、損害が計り知れないから亜硝酸を使用しない事にしてはと云う問題提起がありました。これは役員会丈では決めかねる事でもあり、加工業者の全休会議を開き協議する事にした結果、亜硝酸を使わない事に決定しました,尤も自然界に取れる硝石は使用してもよいのですが即効性がないのです。そこで八戸水産加工連の会長であった私をはじめ、主な幹部が関東地方は東京で、関西地方は大阪に主要な取引市場の方々に御参集を頂き、助子に亜硝酸を使用しない事にした為、発色しないが今迄と同様に販売して頂き度いと御願いしました。処が暫らくして亜硝酸を使用しない製品が売れなくなった為、今迄通り使用し度いと云う申入れがあり、業界の困惑を考え、事情を取引先に説明し各自対処して頂く事にしました。
然し、私は当面の責任者として市場筋に公 言した手前朝令暮改しては私の信用を失墜する。一時的な損害はあっても長い信用に変えられないとの信念から遂に硝石のみの使用でとおしました,助子の在庫は増大し、運転資金面では急迫し、信用保証協会の保証で融資を依頼したり、取引先の大手筋に支払サイドの短縮や纏まった前渡金を出して貰ったり、資金の調達に奔走しました。最後には在庫の助子を成り行きで処分し、大型の赤字を初めて出しました。此問題で私は得難い教訓を種々体得しました。之が第二の谷間でした。此問題の後始末として臨時株主総会を開き決算期を三月三十一日より八月三十一日に変更する件を議決し、昭和四十五年四月一日より八月三十一日までの決算で約一億円の損失を初めて出しました。此損失は二年間で充填し、三年目より黒字決算になりましたが、一番の痛手は私が資金調達の為奔走している間に従業員の一部に労働組合結成の動きがあった事です。之が表面化し、従業員が動揺し、優秀な若手の男子、女子従業員が多数退職した事です。少数の労働組合に対し多数の従業員が従業員組合を作り全社一丸となっての行動をとる迄に暫らくかかりましたし、丁度石油危機の発生を契機に物価の爆発的な高騰と景気の厳しい落込みと言う戦後最も厳しい試練に見舞われました。加うるに世界経済の不況と相挨って不景気には強いと言われる食品業界も次第に不況の波に洗われ、水産加工業界に於ては原魚高の製品安と言う逆鞘現象が各種の商品に見られる様になりました。ベースアップ率が年同一五%乃至二〇%になり人件費の高騰のあおりを受けたのも此頃であります。
ここで武輪水産のおかれていた昭和四十年代の水産界をみてみよう。
水産界は漁労と加工に大別される。近海のみの漁労をしていた明治期に青森県は佐渡の漁師を招き八戸にイカ釣り技術を教えさせた。明治二十年代の話だ。
明治三十年代には鰹、鮪の豊漁は東奥日報により報道されている。漁業は浜揚げした魚を運搬に時間を消費すれば鮮度は落ちる。運搬技術を持たない時代は人、馬、牛に頼るいがいに方法はなく、遠方への輸送手段はない。そのため地域漁労、地域消費しかない。
日持ちのする商品となればイカをするめと加工するか、イワシを干して肥料とするいがいに手段を持たない。
昭和十二年の八戸商工案内から往時の漁業関係者を探る。
安政三年 製造 中村商店 中村栄吉 南横町
文久二年 漁業 五戸 五戸岩次郎 湊
文久二年 鮮魚 戸田魚店 六日町 戸田栄一
明治十年 小売 魚周 沼館周太郎 六日
明治十年 漁業 秋山 秋山熊五郎 浜須賀
明治十二、漁業、神田商店、神田俊雄 湊柳町
明治二二 漁業 岩五商店 岩岡義剛 鮫
明治二八 蒲鉾 槻末商店 槻舘新太郎 六日
明治四五 卸小売大山商店 大山富蔵 六日
明治三年 製造 中平魚店 中島平助 六日
明治四十 漁業 高橋商店 高橋善蔵 下條
明治三六 卸 夏市商店 夏堀市太郎 湊
明治二五 漁業 長谷川藤次郎商店 白銀
四十 卸 田名旗商店 田名部旗次郎二十三日
四五 卸 田中清三郎商店 白銀
三二 卸 沼田魚店 沼田嘉蔵 六日町
大正元 卸 関橋商店 関橋耕作 小中野
大正二 小売 福田魚店 福田真太郎 六日
大正三 小売 中梅 中島梅吉 六日町
大正三 卸 夏堀商店 夏堀源三郎 南横町
々 卸 宮市商店 宮崎市太郎 鮫
大正五 製造 吉田契造商店 湊大沢
大正五 卸 柳谷鮮魚店 柳谷歌吉 小中野
大正五 卸 久保田魚店 久保田留之助 六日
大正十 卸 武尾商店 武尾憲三郎 下條
大正十二 卸 田中商店 田中仁太郎 湊
々 卸 倉本商店 倉本象二 湊
大正十三 小売 石良商店 石橋良一 六日
大正十二 製造 大石蒲鉾 大石連治 北横町
大正十五 卸 中石商店 中島石蔵 小中野
昭和元年 漁業 吉田商店 吉田利八郎 下條
昭和二年 卸 岩村商店 岩村四方吉 湊
々 漁業 平岡春松 鮫
昭和四 卸 熊野商店 熊野福三郎 湊
々 卸 榎本海産店 榎本元吉 湊
昭和六 卸 町田商店 町田米次郎 南横町
々 卸 角田商店 栗原平蔵 新堀
昭和八 漁業 角栄海産物 角栄次郎 北横町
昭和九 卸 沢口商店 沢口由郎 湊
昭和十一 小売 佐々木魚店 佐々木惣吉 鮫
さらに水産加工品業者には
肥料 関五 関川五郎 北横町 明治二二
魚肥 金入 金入文吉 番町 明治四二
々 南部物産 高橋正志 新堀
佃煮 滝川水産加工場 滝川忠兵衛 小中野
魚肥 鳥谷部商店 鳥谷部堅吉 湊
乾物 柏商店 柏美与志 白銀
海産物 荒井商店 荒井八十八 鮫
海産加工 佐川商店 佐川幸蔵 鮫
乾魚 長谷商店 長谷春松 六日町
魚肥 石要商店 石橋要吉 十八日町
々 三新商店 富岡新太郎 十三日町
々 秋山秀之助 浜須賀
ここに武輪氏が割って入ったことになる。
戦後間もなくは政府の方針で、木造船を継ぎ足して大きくし、魚を沢山獲る工夫をなした。多くの大型漁船は徴用され、輸送船として外地で撃沈された。船も人手も不足していた。
外地からの引揚者三百万人、これらの食べる苦労から開始となった。武輪氏はまさに、この時代に旗揚げすることになった。最初は労力しかなく、骨身惜しまず働く、人が捨てるような魚屑から肥料をつくり、その爪に火を点すような苦労を重ね資本を得て、魚を買い加工に身を乗り出した。国民が食えればいい時代は直ぐに終息。
美味しいものを求めるようになる。ここに加工の技術が生かされた。
漁労をせず、加工だけにたよると、市場での買いつけが勝負になる。多くの従業員を擁する企業に伸し上がると、買い付け額も上る。
従業員の給料を確保するためには高値で購入するようになる。
ここに企業家としての悩みも出る。昭和四十四年武輪水産が大きな赤字を出した。その背景の八戸水産界はどのような悩みを抱えていたのだろうか。
それを探るべく往時のにデーリー東北新聞を見た。すると「水産八戸のカルテ」というシリーズが掲載されていた。そのなかに東北水研八戸支所が出ている。
イカ・サバ調査に力。
基礎的研究体制が必要
昭和二十五年全国八箇所に水産研究所が設けられ八戸は塩釜の支所。魚の年齢構成、成長、分布、深度別魚種別調査などで、漁船数と資源量を明確化した。北海道へ入会操業していた中型トロールを減船した。減少した若齢サバ、自然条件が響くイカなどの記載があるが、結果的にはイカ・サバの増減は判明せず。今後の研究が必要とある。
漁獲量によって漁業家は左右され、加工場も同様である。しかし、加工場に卓越した技術があれば、八戸の水揚げに頼ることなく魚は全国、全世界から集まる。
この昭和四十四年には想像もつかなかっただろうが、後年武輪水産はノルウェーからサバを全国に先駆けて実施。加工技術、新製品開発以外に企業が生き残る術はないのだ。
デーリー東北新聞の連載「カルテ」に水産加工流通の方向の記事がある。それには、ふえる冷凍、加工とあり、水揚げは昭和三十年代が十万トン、四十年代には二十万トンから三十万トン、さらに四十万トンへと急速飛躍。水揚げ量の増大は魚場が近いこと、水揚げ価格が競合港より高いこと、価格が安定していることである。水揚げの対象魚種はイカ、サバ、サンマなど回遊性多獲魚から北洋トロールのスケトウタラで、水揚げ金額では高級魚が少ないため全国では順位が落ちるが、量的には日本一である。
これらの水揚げされた魚の処理であるが、鮮魚として処理三十九%、冷凍冷蔵三十%、加工その他三十一%で、将来は加工能力の増大から鮮魚は二十%、冷凍冷蔵、加工で八十%となることが予想されている。
期待のイカ、珍味、スケソウねり製品
それでは、八戸港で生産される加工品の種類はどれだけあるだろうか。製造方法が低次から高次へと多様で生産品目も豊富だが、販売高の構成比では鮮魚がトップ。今後の期待製品は、現在成長中のイカ珍味と、完全利用が出来ていないスケソウタラ利用のねり製品の二つである。この二つの製造、生産については地元八戸の業者も意欲的で、地元の水産加工研究所を主体として研究を続け、すでにスケ子、イカの珍味においては集中生産方式によって大きな成果をあげている。
集中生産方式で原料高く買い、製品安く売る
集中生産方式とは、相当規模の実験工場で製品を試作し広く公開する。収益性が高いと予想された場合、生産工場数が急増、需要に充分こたえられる方式で、ねり製品の原料となる北転船の水揚げ魚種のスケソウは北海道よりは鮮度の面で落ちるとしても、価格面では北海道と同等に対抗できるわけで、今後の生産技術開発によっては先進地よりもよい製品を生産、優位にたてることも可能といわれる。
商品が商品を呼び産地銘柄を確立
八戸水産加工の今後の期待はねり製品、イカ珍味、冷凍食品であるが、これを食品ルートに乗せようとすると水産大手との激しい販売競争が待っている。しかし、販売ルートに乗せなくては、効果が期待できない訳で、八戸港としては卸売り市場を固めながら、一般食品問屋ルートの開発も急がなければ販売高の伸長は望めない。
この時、大いに生かしたいのは、流通面にも集中生産方式の精神の貫徹である。優秀製品を看板商品として既存ルートに取り扱いの意欲をもたせ、実績が上昇に転じたとき、すかさず集中方式によって規格化された均一商品を集中的に流通路線に乗せる。これが商品が商品を呼ぶことになり、八戸の産地銘柄が確立される。
端的に言えば原料を高く買い、加工製品をより安く売るメカニズムを無理なく定着させ、発展させて行くことが八戸水産加工流通の基本的課題である。
秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 3
それから日本医科大に進んだ室岡玄悦さん。大下常吉さんの二年後輩で、大学の勉強を早めに切り上げて、夏休み前に古い硬式ボールを袋いっぱい背負って来てくれました。当時はボール一個が一円五十銭でしたから、本当にありがたかったですよ。室岡先生は、終戦直後のあの物資不足の時期に新品の硬式ボールを八戸中学に寄付してくれた方なんです。
練習では、私は捕手もやったし、バッティング投手もやりました。自慢じゃありませんが、肩は無類に強かったし、走るのは浜で鍛えられて、野球用のスパイクをはいて百㍍十二秒でしたから。大下常吉さんに「お前、もう少し早く野球部に入っていれば、いい外野手になったのになあ。惜しいことしたもんだ」と言われました。
練習グラウンドは、今の八高のサッカー場の下の方にあって草ぼうぼう。ファウルすると、すぐボールが見えなくなる。探すのはマネジャーの仕事みたいなもので、私は一番早く見つける。暑くなるとブヨが剌すんです。ストッキングの上からも容赦なし。ヨードチンキという薬、今でもありますが、あれを塗るとなんとか防げるんですが、それでも剌されて、私は皮膚が弱いものですから、ボコッとはれて大変でした。
焼きイモで腹ごしらえ
それと、外野の奥の方に柔道場があって、ボールが飛んでいくと屋根を時々、破ったりする。ボールを返してくれなくて…。主将は小中野出身の大久保正君。「おい今度、焼きイモ買ってくるからなんとか返してくれ」と交渉したものです。
焼きイモは、大工町の横町ストアの所で、おやじさんが小さな平屋の店をやって売っていた。練習が終わって三里の道を浜須賀まで歩いて帰るんですが、腹が減ってとても歩けない。焼きイモ屋に寄って腹ごしらえをして、やっと人心地がつくんです。
後で、横町ストアの息子さんたちに、その話をして、「いやあ、君たちのおやじさんには随分と世話になったんだよ。あそこが、野球部員のたまり場みたいになっていたからなあ」と言うと「うちのおやじは、それでもうけたんじゃないんですか」。とても、そんなにもうかるわけじゃないんですが、夏場は氷をかんなでカリカリと削って、氷水を出してくれるやさしいおやじさんでした。
昭和3年の奥羽大会
当時のメンバーは、投手で四番が大下健一。常吉さんの実弟でサウスポー、速球と外角へのシュートが武器。セカンドが後に石橋スポーツ社長となった石橋政太郎、打順は五番。一番がショート橋本、二番レフト小泉、三番サード田端、六番ライト三上、七番キャッチャー田中、八番センター泉山、九番ファースト阿部という布陣でした。
大下健一君は私の二年下。年齢は同じなんです。ある時、兄の常吉さんとけんか、野球をやめるということになって練習に出てこなくなった。そこで学校の裏門で待ち構えていた。「おい、大下、待て」「あっ、監督」「ちょっとこっちへ来い。お前随分早いな」「今、家さ帰るとこです」「家さ帰って何やるんだ」と聞くと黙っている。
「どうもうわさは本当のようだな。お前野球やめるつもりか。お前がやめれば投手がいなくなる。それも困ることだが、一体、お前は野球をやめて何をやるつもりだ。勉強して東大なんかに行けるのか。おれは見込みないと思う。持って生まれた天分を生かし、野球をやってこそ人生が開けるんじゃないのか。兄さんと何かあったかしらんが、一晩じっくり考えてこい。おれは人間・大下にものをいってるんだ。野球しかお前には能はない」と言ったんです。
そしたら次の日「監督、心配かけました。私も野球しか能がないと思う。許して下さい」「よし、腹すえてやれ。なんとしても勝つべし」ということになったわけです。後日、大下君は「あの時は怖かったなあ」と言っていましたが…。
秋田師範と決勝、9対2で逆転勝ち
対外試合の交渉なんかも一手に引き受けました。また、当時の中学野球の規定は「学術優秀、品行方正でなければ出場資格はない」とされていて、落第した者は出場できなかったんですが、選手の成績を調べて、危ないなと思うと夜、先生を訪ねる。
「今の野球部のメンバーは、こうです。彼が欠けると戦えないので、なんとかよろしく」と頼んで歩いた。先生はにやにや笑いながら聞いていて、それでも何とかしてくれたものでした。
さて、昭和三年の奥羽大会は秋田で行われ、八月五日に決勝で秋田師範と当たった。大会中は縁起をかついで、○○中学対八戸中学という掲示の際には、絶対に八戸中学を下には書かないでくれと朝日新聞の秋田支局に申し入れもしました。「横書きであれば我慢する」なんてことを言ったり…。行動力というか反抗心旺盛というか。
決勝戦は一度は逆転されたものの五回、七回に大量点を奪って9―2で快勝。試合経過は、八高が七十周年の時に出版した「大杉平の七十年」に木幡清風先生が詳しく書いておられますが、大下常吉さんが、秋田師範の投手が一球ごとにベンチのサインを見て投げるのを見破り、集中打を浴びせたんです。
「秋師の斎藤投手の大きく割れるカーブに悩まされたが、大下コーチが秋師ベンチのハンカチや扇子、足を組むなどの動きが多いのに気付いた。注意していると、捕手が一球ごとにベンチを振り返る。ハンカチで額をふくとカーブ、足を組むと直球。四回以降は直球のサインが出たら打てと戦法を変え、ガンガン打ちまくり、七回には田端、大下がショート強襲。田中が左前安打。泉山がとどめの三塁打を放ち一挙5点を挙げて押し切った」
アサヒスポーツの戦評では「八戸はヒッティンブ・システムをウェイテングに変更して……。秋師投手が連日奮戦の結果、疲労困ぱいの極に達せる時、縦横に健棒を振りまくって奥羽の覇権を大正十五年に続いて再び取り戻した」と書いてあり、サイン見破りには気付かなかったようでした。
甲子園で感激の行進
あこがれの夏の甲子園大会は昭和三年八月十二日が開会式でした。その三日ぐらい前に大阪入りして、大阪朝日新聞社の大ホールで抽選会に臨みました。各校が、校歌を歌いエールの交換をやる。今は出場校も多く、やってないようですが、感激しました。
私が大学卒業後、お世話になった苫米地義三さんが、当時、日本油脂の前身である合同油脂の常務をしておられて「郷土の後輩たちに昼食をごちそうしよう」と招待してくれた。工業倶楽部のレストランに招待されて行くと、苫米地さんが「諸君、よく来た。きょうは、大阪の社長連中がふだん食べている昼食を君たちに食べてもらう。頑張ってほしい」と話された。洋食で、ハンバーグかなんかだったように思われます。スープなんかも出て、うまかった。
開会式には、私もユニホームを着て、入場行進しました。すでに内野スタンドは整備され、外野も人でびっしり。今でも目を閉じると、あの時の光景が鮮明によみがえってきます。球場の素晴らしさには「いやあ、オレたちの八戸は草野球だなあ」と実感したのを覚えています。
入場行進の写真は、アサヒグラフに載りましたが、途中で行進の列が途切れている。「なんだ? ちゃんと歩けなかったのか」と後で冷やかされましたが、紅白のリボンで飾った始球式のボールを飛行機から落とす場面で、これを見上げていた者がいて、それで列が途切れた。私は最後尾を歩いていましたから。
物珍しげに飛行機を見上げていたのは石橋政太郎だったということになっています。本人はもちろん「オレじゃない」と言っていましたが。
1回戦完封負け 大下さんに大目玉
当時の応援団は、大阪在住の県人会とか先輩たちだけでした。遠征費用も先輩たちが集めてくれる。阿部真之介さんや中島石蔵さんなんかは野球が好きで、合宿の時には、よく肉を差し入れしてくれました。「あの時の肉は本当にうまかったですよ」と後年、阿部さんにお礼を言ったら「よく覚えていたなあ」と笑っていました。
試合は大会二日目の八月十三日。京津代表の平安中学が相手。平安中は台湾の嘉義農林から転校してきた伊藤兄弟を擁して全盛期。伊藤兄は、この年の五本の指に入るといわれた好投手で、八中は、わずか4安打。十二個の三振を喫し、守備でも乱れて5―0で敗退しました。
学生野球の大御所だった飛田穂洲さんが、この試合の戦評を「素朴を賞し気概乏しさを惜む」と題して書いています。「平安は四回二点を得た。香椎(平安の二番打者)の右飛は平凡な飛球。右翼も二塁手も一塁手も捕ろうとせず線上に落ち、それをファウルとでも思ってか早く拾おうとしなかった為、二塁打となった。続く伊藤の三塁打も、実は右翼手が飛球の方向とは反対に回った為、見当を誤ったもので、投手・大下には気の毒であった。(中略)試合の内容は、はなはだ貧しく、平安は平凡に勝った」と実に手厳しい。
でも、その後に「先輩・大下に学べ」として「八戸は醇朴そのままの気持ちよいチームだが、温和し過ぎる。男らしく戦え。(八中の先輩)旧早稲田の大下常吉は、球拾い時代に、半年ばかり飛球をつかんだことがなかった。しかし彼には東北人特有の晩成力と不屈の精神と強力目醒むるばかりのファイテングがあった。評には不用だが、八戸は名誉の先輩を有していることを失念することなく、明年を約して努めねばならぬ」とぬくもりのある言葉を示しています。
敗退したら大下常吉さんが「コラ!一列に並べ」。バットの根元で、全員の頭をゴンゴンゴンとなぐり「何だ、お前らは。私立学校なんかに負けて」。平安中は、その後勝ち進み、とうとう決勝まで行ってしまった。決勝では長野の松本商業に負けましたが、それを見て大下さんは「ウン、お前らじゃ勝てない。よくやった」。一週間もたってから、やっとほめてくれました。
宝塚見て母見舞う
甲子園で平安中学に敗れて大下常吉さんにしかられた翌日、野球部長として一緒に来ていた尾形先生に申し出た。
「先生は、かつて関西におられたこともある。野球部員は私が引率して帰りますので、先生は思い出の場所を歩くなり、知人に会うなりなさって下さい」。大阪で先生と別れて、別行動をとり「さあみんなして宝塚を見に行くべ」。
あのころ、甲子園への出場校は、今と比べるとかなり少なかったんです。滞在費は、一回戦で負けても決勝戦までの分が支給されました。われわれは大会二日目で負けたものですから、お金はたっぷりある。宝塚歌劇の舞台は、やはり美しかったし、女性も本当にきれいでした。
レストランに入ると、スイカを二つ割りにしたのに水とハチミツをかけたのが出た。「おっ! これは八戸にはないものだなあ」とみんなで食べましたが、実においしかった。本場の神戸牛のスキヤキも、十分たんのうしました。いい時代でした。
母が心臓を悪くして仙台市の病院に入院していたので、私はひとり仙台で下車して見舞いに行きました。
「だれもケガしないで帰ってきたじゃ」と言うと、母は「皐二郎、野球は勝ったのか?」「いや負けた」「大阪は、ぬくくて、あったべ」「ああ、ぬくくてぬくくて、野球どころじゃなかった。オレは、これから高等学校へ行く準備するから」、そんな会話を交わしました。
十一月に入って、群馬県の桐生市で市営グラウンド開設を記念しての全国選抜野球大会に招待され遠征しました。一回戦で広島の広陵中学と対戦。当時の広陸中は、前年の甲子園で準優勝、後に明治大学に進んで東京六大学で大活躍した八十川という投手を擁していた強豪でした。
結果は八中が安打3、三振5.広陵が安打5、三振4で2対0で敗れましたが、大下健一投手は、Aクラスのチームを相手に好投しました。左投手独特の外角に鋭く切れるシュートと、内角へ肩口から入るカーブが素晴らしかった。あの時から大下君は自信を特って投げるようになったようです。
大下君は昭和五年の神宮大会で決勝に進み、平安中学を相手に7対6で敗れたものの十五奪三振を記録。早稲田大学に進み、新人戦で優勝、主将を務めました。
桐生で試合が終わった後、市の野球関係者が来て「素晴らしい試合でした。ついては桐生中学も阿部という兄弟バッテリーがいて強いので、何とか練習試合をやってもらえないか」と申し込まれました。大下常吉さんが「学校から来ているのは秋山君、お前だけだ。事情を話して許可をもらってくれよ」というので、早速、校長官舎に電話を入れた。
鈴木安言校長が「そりゃあ、いいなあ、やって来い」という答え。大下さんに「許可もらいましたよ」と伝えると「ヨシ、あとは任せろ」。桐生の役員に電話して「費用は全部、そちらで持つんだな。引き受けましょう。ところで選手も疲れてるんで、何か、うまいものを食わせたい。食堂を 紹介してくれ」。スキヤキ屋を紹介してもらって「たらふく肉を食えよ。費用は桐生市で持ってくれるそうだ」というわけで、十二人でなんと三十八人分も食べました。
帰って来て、遠征費用の整理をしてたら、選手の個人負担となっていた弁当代の計算書が出てきて、学校で当然負担する、というので八十三円五十銭が戻ってきた。みんなを集めて、またスキヤキ。とても食べきれなくて、その金と部費の残りで野球用具をそろえました。バットとユニホーム、ボールなんかを新調できました。
恵まれた野球一筋の中学時代は、本当に悔いのない青春でした。しかし、その後に大きな試練が待ち構えていようとは…。人生というものは、なかなか味のあるものです。
練習では、私は捕手もやったし、バッティング投手もやりました。自慢じゃありませんが、肩は無類に強かったし、走るのは浜で鍛えられて、野球用のスパイクをはいて百㍍十二秒でしたから。大下常吉さんに「お前、もう少し早く野球部に入っていれば、いい外野手になったのになあ。惜しいことしたもんだ」と言われました。
練習グラウンドは、今の八高のサッカー場の下の方にあって草ぼうぼう。ファウルすると、すぐボールが見えなくなる。探すのはマネジャーの仕事みたいなもので、私は一番早く見つける。暑くなるとブヨが剌すんです。ストッキングの上からも容赦なし。ヨードチンキという薬、今でもありますが、あれを塗るとなんとか防げるんですが、それでも剌されて、私は皮膚が弱いものですから、ボコッとはれて大変でした。
焼きイモで腹ごしらえ
それと、外野の奥の方に柔道場があって、ボールが飛んでいくと屋根を時々、破ったりする。ボールを返してくれなくて…。主将は小中野出身の大久保正君。「おい今度、焼きイモ買ってくるからなんとか返してくれ」と交渉したものです。
焼きイモは、大工町の横町ストアの所で、おやじさんが小さな平屋の店をやって売っていた。練習が終わって三里の道を浜須賀まで歩いて帰るんですが、腹が減ってとても歩けない。焼きイモ屋に寄って腹ごしらえをして、やっと人心地がつくんです。
後で、横町ストアの息子さんたちに、その話をして、「いやあ、君たちのおやじさんには随分と世話になったんだよ。あそこが、野球部員のたまり場みたいになっていたからなあ」と言うと「うちのおやじは、それでもうけたんじゃないんですか」。とても、そんなにもうかるわけじゃないんですが、夏場は氷をかんなでカリカリと削って、氷水を出してくれるやさしいおやじさんでした。
昭和3年の奥羽大会
当時のメンバーは、投手で四番が大下健一。常吉さんの実弟でサウスポー、速球と外角へのシュートが武器。セカンドが後に石橋スポーツ社長となった石橋政太郎、打順は五番。一番がショート橋本、二番レフト小泉、三番サード田端、六番ライト三上、七番キャッチャー田中、八番センター泉山、九番ファースト阿部という布陣でした。
大下健一君は私の二年下。年齢は同じなんです。ある時、兄の常吉さんとけんか、野球をやめるということになって練習に出てこなくなった。そこで学校の裏門で待ち構えていた。「おい、大下、待て」「あっ、監督」「ちょっとこっちへ来い。お前随分早いな」「今、家さ帰るとこです」「家さ帰って何やるんだ」と聞くと黙っている。
「どうもうわさは本当のようだな。お前野球やめるつもりか。お前がやめれば投手がいなくなる。それも困ることだが、一体、お前は野球をやめて何をやるつもりだ。勉強して東大なんかに行けるのか。おれは見込みないと思う。持って生まれた天分を生かし、野球をやってこそ人生が開けるんじゃないのか。兄さんと何かあったかしらんが、一晩じっくり考えてこい。おれは人間・大下にものをいってるんだ。野球しかお前には能はない」と言ったんです。
そしたら次の日「監督、心配かけました。私も野球しか能がないと思う。許して下さい」「よし、腹すえてやれ。なんとしても勝つべし」ということになったわけです。後日、大下君は「あの時は怖かったなあ」と言っていましたが…。
秋田師範と決勝、9対2で逆転勝ち
対外試合の交渉なんかも一手に引き受けました。また、当時の中学野球の規定は「学術優秀、品行方正でなければ出場資格はない」とされていて、落第した者は出場できなかったんですが、選手の成績を調べて、危ないなと思うと夜、先生を訪ねる。
「今の野球部のメンバーは、こうです。彼が欠けると戦えないので、なんとかよろしく」と頼んで歩いた。先生はにやにや笑いながら聞いていて、それでも何とかしてくれたものでした。
さて、昭和三年の奥羽大会は秋田で行われ、八月五日に決勝で秋田師範と当たった。大会中は縁起をかついで、○○中学対八戸中学という掲示の際には、絶対に八戸中学を下には書かないでくれと朝日新聞の秋田支局に申し入れもしました。「横書きであれば我慢する」なんてことを言ったり…。行動力というか反抗心旺盛というか。
決勝戦は一度は逆転されたものの五回、七回に大量点を奪って9―2で快勝。試合経過は、八高が七十周年の時に出版した「大杉平の七十年」に木幡清風先生が詳しく書いておられますが、大下常吉さんが、秋田師範の投手が一球ごとにベンチのサインを見て投げるのを見破り、集中打を浴びせたんです。
「秋師の斎藤投手の大きく割れるカーブに悩まされたが、大下コーチが秋師ベンチのハンカチや扇子、足を組むなどの動きが多いのに気付いた。注意していると、捕手が一球ごとにベンチを振り返る。ハンカチで額をふくとカーブ、足を組むと直球。四回以降は直球のサインが出たら打てと戦法を変え、ガンガン打ちまくり、七回には田端、大下がショート強襲。田中が左前安打。泉山がとどめの三塁打を放ち一挙5点を挙げて押し切った」
アサヒスポーツの戦評では「八戸はヒッティンブ・システムをウェイテングに変更して……。秋師投手が連日奮戦の結果、疲労困ぱいの極に達せる時、縦横に健棒を振りまくって奥羽の覇権を大正十五年に続いて再び取り戻した」と書いてあり、サイン見破りには気付かなかったようでした。
甲子園で感激の行進
あこがれの夏の甲子園大会は昭和三年八月十二日が開会式でした。その三日ぐらい前に大阪入りして、大阪朝日新聞社の大ホールで抽選会に臨みました。各校が、校歌を歌いエールの交換をやる。今は出場校も多く、やってないようですが、感激しました。
私が大学卒業後、お世話になった苫米地義三さんが、当時、日本油脂の前身である合同油脂の常務をしておられて「郷土の後輩たちに昼食をごちそうしよう」と招待してくれた。工業倶楽部のレストランに招待されて行くと、苫米地さんが「諸君、よく来た。きょうは、大阪の社長連中がふだん食べている昼食を君たちに食べてもらう。頑張ってほしい」と話された。洋食で、ハンバーグかなんかだったように思われます。スープなんかも出て、うまかった。
開会式には、私もユニホームを着て、入場行進しました。すでに内野スタンドは整備され、外野も人でびっしり。今でも目を閉じると、あの時の光景が鮮明によみがえってきます。球場の素晴らしさには「いやあ、オレたちの八戸は草野球だなあ」と実感したのを覚えています。
入場行進の写真は、アサヒグラフに載りましたが、途中で行進の列が途切れている。「なんだ? ちゃんと歩けなかったのか」と後で冷やかされましたが、紅白のリボンで飾った始球式のボールを飛行機から落とす場面で、これを見上げていた者がいて、それで列が途切れた。私は最後尾を歩いていましたから。
物珍しげに飛行機を見上げていたのは石橋政太郎だったということになっています。本人はもちろん「オレじゃない」と言っていましたが。
1回戦完封負け 大下さんに大目玉
当時の応援団は、大阪在住の県人会とか先輩たちだけでした。遠征費用も先輩たちが集めてくれる。阿部真之介さんや中島石蔵さんなんかは野球が好きで、合宿の時には、よく肉を差し入れしてくれました。「あの時の肉は本当にうまかったですよ」と後年、阿部さんにお礼を言ったら「よく覚えていたなあ」と笑っていました。
試合は大会二日目の八月十三日。京津代表の平安中学が相手。平安中は台湾の嘉義農林から転校してきた伊藤兄弟を擁して全盛期。伊藤兄は、この年の五本の指に入るといわれた好投手で、八中は、わずか4安打。十二個の三振を喫し、守備でも乱れて5―0で敗退しました。
学生野球の大御所だった飛田穂洲さんが、この試合の戦評を「素朴を賞し気概乏しさを惜む」と題して書いています。「平安は四回二点を得た。香椎(平安の二番打者)の右飛は平凡な飛球。右翼も二塁手も一塁手も捕ろうとせず線上に落ち、それをファウルとでも思ってか早く拾おうとしなかった為、二塁打となった。続く伊藤の三塁打も、実は右翼手が飛球の方向とは反対に回った為、見当を誤ったもので、投手・大下には気の毒であった。(中略)試合の内容は、はなはだ貧しく、平安は平凡に勝った」と実に手厳しい。
でも、その後に「先輩・大下に学べ」として「八戸は醇朴そのままの気持ちよいチームだが、温和し過ぎる。男らしく戦え。(八中の先輩)旧早稲田の大下常吉は、球拾い時代に、半年ばかり飛球をつかんだことがなかった。しかし彼には東北人特有の晩成力と不屈の精神と強力目醒むるばかりのファイテングがあった。評には不用だが、八戸は名誉の先輩を有していることを失念することなく、明年を約して努めねばならぬ」とぬくもりのある言葉を示しています。
敗退したら大下常吉さんが「コラ!一列に並べ」。バットの根元で、全員の頭をゴンゴンゴンとなぐり「何だ、お前らは。私立学校なんかに負けて」。平安中は、その後勝ち進み、とうとう決勝まで行ってしまった。決勝では長野の松本商業に負けましたが、それを見て大下さんは「ウン、お前らじゃ勝てない。よくやった」。一週間もたってから、やっとほめてくれました。
宝塚見て母見舞う
甲子園で平安中学に敗れて大下常吉さんにしかられた翌日、野球部長として一緒に来ていた尾形先生に申し出た。
「先生は、かつて関西におられたこともある。野球部員は私が引率して帰りますので、先生は思い出の場所を歩くなり、知人に会うなりなさって下さい」。大阪で先生と別れて、別行動をとり「さあみんなして宝塚を見に行くべ」。
あのころ、甲子園への出場校は、今と比べるとかなり少なかったんです。滞在費は、一回戦で負けても決勝戦までの分が支給されました。われわれは大会二日目で負けたものですから、お金はたっぷりある。宝塚歌劇の舞台は、やはり美しかったし、女性も本当にきれいでした。
レストランに入ると、スイカを二つ割りにしたのに水とハチミツをかけたのが出た。「おっ! これは八戸にはないものだなあ」とみんなで食べましたが、実においしかった。本場の神戸牛のスキヤキも、十分たんのうしました。いい時代でした。
母が心臓を悪くして仙台市の病院に入院していたので、私はひとり仙台で下車して見舞いに行きました。
「だれもケガしないで帰ってきたじゃ」と言うと、母は「皐二郎、野球は勝ったのか?」「いや負けた」「大阪は、ぬくくて、あったべ」「ああ、ぬくくてぬくくて、野球どころじゃなかった。オレは、これから高等学校へ行く準備するから」、そんな会話を交わしました。
十一月に入って、群馬県の桐生市で市営グラウンド開設を記念しての全国選抜野球大会に招待され遠征しました。一回戦で広島の広陵中学と対戦。当時の広陸中は、前年の甲子園で準優勝、後に明治大学に進んで東京六大学で大活躍した八十川という投手を擁していた強豪でした。
結果は八中が安打3、三振5.広陵が安打5、三振4で2対0で敗れましたが、大下健一投手は、Aクラスのチームを相手に好投しました。左投手独特の外角に鋭く切れるシュートと、内角へ肩口から入るカーブが素晴らしかった。あの時から大下君は自信を特って投げるようになったようです。
大下君は昭和五年の神宮大会で決勝に進み、平安中学を相手に7対6で敗れたものの十五奪三振を記録。早稲田大学に進み、新人戦で優勝、主将を務めました。
桐生で試合が終わった後、市の野球関係者が来て「素晴らしい試合でした。ついては桐生中学も阿部という兄弟バッテリーがいて強いので、何とか練習試合をやってもらえないか」と申し込まれました。大下常吉さんが「学校から来ているのは秋山君、お前だけだ。事情を話して許可をもらってくれよ」というので、早速、校長官舎に電話を入れた。
鈴木安言校長が「そりゃあ、いいなあ、やって来い」という答え。大下さんに「許可もらいましたよ」と伝えると「ヨシ、あとは任せろ」。桐生の役員に電話して「費用は全部、そちらで持つんだな。引き受けましょう。ところで選手も疲れてるんで、何か、うまいものを食わせたい。食堂を 紹介してくれ」。スキヤキ屋を紹介してもらって「たらふく肉を食えよ。費用は桐生市で持ってくれるそうだ」というわけで、十二人でなんと三十八人分も食べました。
帰って来て、遠征費用の整理をしてたら、選手の個人負担となっていた弁当代の計算書が出てきて、学校で当然負担する、というので八十三円五十銭が戻ってきた。みんなを集めて、またスキヤキ。とても食べきれなくて、その金と部費の残りで野球用具をそろえました。バットとユニホーム、ボールなんかを新調できました。
恵まれた野球一筋の中学時代は、本当に悔いのない青春でした。しかし、その後に大きな試練が待ち構えていようとは…。人生というものは、なかなか味のあるものです。
手記 我が人生に悔いなし 六
中村節子
○ 空の男の休日
海上自衛隊八戸航空隊の基地の中に、三沢の航空自衛隊の一部が一時的に同居していたことがある。昭和四十四年前後五~六年の期間であったと思う。
その航空自衛隊に茶道部があって、私の大先輩が指導に行っていたが、何かの都合で続けられなくなり、代わりに私が行くことになった。会社から半日休みをもらって出かけるのである。
これより一年ほど前に、岩手県軽米町に茶道部ができ、先輩姉弟子のMさんと私と二人が、先生の助手としてお供をした。
教室は毎週日曜日で三人はバスで通ったが二~三ケ月ほどで教室はMさんに任されることになり、私は助手として一緒に通った。全く新人ばかりの教室も一年ぐらいたつと、ある程度慣れてきて、助手が居なくてもいいくらい落ち着いてくる。自衛隊の茶道部の話が出たのは、ちょうどその頃であった。
航空自衛隊のお茶の稽古日は、毎週土曜日の一時から基地内の娯楽室である。先輩との引継ぎらしいこともなく、一人で基地の正門に行ったのは、昭和四十四年の春であった。
正門の警備の隊員に「茶道部の稽古に参りました」と言うと「茶道部があるのは知っているけれど、一般市民の人も習いに来てるの?」と隊員同士顔を見合わせた。
「あのォ習いに来たのではないのですが」
「エッ?あっ先生ですか。これは失礼致しました」道順を聞いて娯楽室に行って驚いた。広い娯楽室の三分の二が四十㌢ほど高くなった二十畳ぐらいの畳敷きで床の間もある。あとの三分の一にはテレビがあり椅子があり、隊員全員の娯楽室だから自由にテレビを見ている。茶道部は畳の部分を半分で充分。残りの半分には寝転んでいる隊員がいる。その様なところでお茶のお稽古である。
部員は航空と海上の自衛官(当時は女性自衛官はいない)と女性職員とで十五人ぐらい。勤務の都合で全員あつまることはまず無い。
今まで五十代の先生だったのに二十代の先生に代わった。部員にとって少し不安があったかも知れないが、私にも不安があった。稽古に行く日は予習をして出かけた。
質問が出る。その質問たるや「畳を歩く時歩幅は何㌢ですか?」「四歩で歩ける歩幅です」「おじぎをする時の角度は何度ですか?」「私がおじぎをしますから何度か見て下さい」「帛紗さばきの時の両手の高さは、畳から何㌢の高さですか?」「両手は胸の高さですから、体格によって違います。何㌢とは言えません」等々、こんな質問を前の先生にもしたのだろうか。さらに「なぜ茶碗は丸いのですか」ときた。「みんなの和が輪になって、世の中丸く納まるように丸いのです」と答えた。
我ながらうまく言ったものだと後で思った。完全にナメられた。おかげで一生懸命勉強した。本を読み疑問が出ると先生や先輩に教えてもらった。質問に答えられない時は「私もまだ習っていません。宿題にさせて下さい」とはっきり言った。
その年の秋(昭和四十四年十月二十五日)第八一航空隊開隊記念の催しがあり、基地全体を一般市民に開放することになった。
茶道部は野立てをすることになり、特別立派な道具を用意することもなく、普段の稽古道具でお茶を楽しんで頂くことにした。
記念日の当日は晴天に恵まれた。庁舎横の芝生の上にお点前は畳の上で、お茶を召し上がるお客には長椅子を用意した。
隊員はもちろんのこと一般市民も大勢お茶を楽しみ、中々の好評であった。翌日のデーリー東北新聞に「空の男の休日」という見出しに写真入りで報道された。
それから三年後、航空自衛隊は三沢へ戻ることになった。現在なら車で簡単だが、当時は車も免許もない。やむなくお断りした。
昭和四十七年十一月、市民会館でお別れ茶会をして、私の役目は終わった。
○ 三十二年ぶりの再会
その当時の航空自衛隊茶道部の部長であった小田淳治さんから、突然手紙が来たのは三年前の平成十六年八月のことである。愛知県小牧市に在住の小田さんとは、年賀状の交換はしているが、手紙は珍しかった。
「九月に三沢市で航空自衛隊の同期会があり出席します。三沢市で一泊して翌日は家内と八戸からレンタカーで岩手県普代の親戚の墓参りをして、八戸駅から新幹線で帰る予定です。もしご都合よろしければお逢いできませんか。せっかく八戸まで行くのですから」と言う内容であった。
私にも九月には旅行の予定があった。「日本詩吟学院の企画で十一日間のシルクロード旅行に出かけます。帰国するのはちょうど小田さんが八戸にいらっしゃる日です。中国からの飛行機が予定通りに成田空港に着けば、八戸駅に着くのは二時です。お逢いできます。」と直ぐ返事を出した。
「普代から三時までには戻ります。四時の新幹線で帰りますから、八戸駅の待合室で三時にお逢いしましょう。」と決まった。
運良く飛行機は予定通り飛んだ。お元気なお二人と三十二年ぶりの再会を果たした。
「お茶はずっとご無沙汰しています。スキーとゴルフ、登山をしています。家内と二人で登ります。海外の山にも挑戦しています」等々。
「私もお茶はほどほどにして詩吟に熱中しています。」と、懐かしかった。うれしかった。あっと言う間に時間がきて新幹線の改札口で見送って別れた。
お互いに健康であったから逢えた。健康に感謝。現在は絵手紙の交換をしている。
○ 心臓がドキドキ
少しづつ詩吟のことがわかってきた。一人で吟ずることを独吟。全員は合吟。一題の詩を複数の人員で交対に吟ずる連吟。吟ずる人は吟者、教室のことは教場という。
新人の私が二~三ケ月して少し慣れてきた頃に、先輩と一緒に同じ詩を指導して頂けることになった。始めは何度も合吟した後、独吟をして先生に直して頂く。その順番は先輩が先である。先輩の吟をじっくり聞き最後に私の番となる。それまでの時間を私はとても好きであった。上達の早道は続けることと、人の吟を聞き自分の耳を養うことである。
発表会等の時は、新人が先で先輩が後という順になる。「大きなねぶたはあと」である。
発表の機会は、初吟会、春秋の吟行会、文化協会のフェスティバル、納吟会等々で、昼と夜の教場が一緒になって行なう。昼教場には内丸の田端さん、八戸グランドホテル先代社長のお母さん、根辰の奥さん、クドウキチのおばあさん、千秋寿司店の大橋さんと小形さん達がいた。男性も何人かいたけど忘れた。
入門して一年の間に、教場見学にさそったY子さんは詩吟をやめた。又、新人が一人も入門してこなかったので、行事の度に独吟の順番は私が一番だった。
やっと新人が入って私の順番は二番になった。その時不思議にも心臓がドキドキした。今まで一番の時はドキドキしなかった。「どうせ新米だから」という思いがあったからだろうか。後輩ができた途端、このドキドキは何だ。「後輩に負けてたまるか」という思いが起きたのだろうか。それ以来出番を待っている間、ドキドキするようになった。ドキドキはいいことなのだ。
現在でも舞台の脇で待機している時のドキドキは何とも言えない雰囲気がある。舞台を降りたとき、結果の良し悪しにかかわらず、また舞台に立とうという意欲がわくのである。
詩吟とは、詩に込められた作者の喜びや哀しみ、感動した心を吟者がとらえ、声によって詩意を表現するものである。
詩吟はお腹の底から声を出すので、ストレス解消になる。腹筋を鍛え、姿勢を良くすることにより背筋を鍛え、老化防止にもなる。
歴史も学べるし、冠婚葬祭の席にも活用することができる。それだけではない。
先輩の元自衛官のKさんが話してくれた。自分は下北半島の貧しい漁村に生まれた。兄弟が多かったので口減らしのため、中学校を卒業して自衛隊に入隊した。試験を受けて同期入隊の仲間がど んどん昇官してゆき、自分だけが中々受からず、後輩からも追い抜かれた。悔しさと情けなさと失望とで不良青年になる寸前までいった。その時上官が山へつれて行って大きな声で、聞いたことのない歌をうたってくれた。「今のが詩吟というものだ。お前もやってみろ」と言って詩吟を教えてくれた。教わった通り大きな声で吟じてみた。思いがけず上官にほめられた。
「自分は詩吟に救われた。詩吟は非行防止にも役立つのです」とKさんが語った。
○ 鎌倉の別荘
明治薬館の二階を詩吟の教場とする翠風会は、明治薬館のご主人最上泰風氏が会長で、奥様が師範の最上翠岳先生である。
最上先生が鎌倉に別荘を買った。会員達が「別荘へ行きたい」と言い出し、ついでに鎌倉見物をしようということになった。昭和四十六年一月のことである。
別荘はとても広く男性は一階に、女性は二階に泊めて頂いた。修学旅行のようで楽しくてワイワイさわいでいると、一緒に行ったNさん(元中学校教師)に「もう八時すぎているんですよ」と叱られた。
翌日は桜井令岳先生(娘の知恵子さん)がおい出になって詩吟の勉強会を開いた。午後は別荘の近所を散歩した。散歩したのには理由がある。隣のお屋敷が原節子さんのお住まいだと聞いたので「もしかして逢えるかも?」と思ったからである。昭和初期の大女優の原節子である。私は原節子の主演映画は見たことがなく。雑誌等のグラビアかブロマイド写真等で見る程度であったが、原節子が大好きであった。
何時頃映画界を引退したのか知らないが、近年になって懐かしの名場面で「東京物語」がとりあげられたり、ワイドショーの「あの人は今」で鎌倉のお屋敷が映し出されることもあった。引退後は一度もマスコミに姿を見せることが無いことでも有名である。
最上先生の別荘の隣と言っても、窓から見える近さではない。その辺は広い庭付きの高級住宅地である。木立の奥にお屋敷があった。翌々日は鎌倉見物をして八戸に帰った。
これから約一年後に最上先生は明治薬館を閉店して鎌倉に移り住んだ。会員は代わる代わる訪問して泊めて頂いた。私も四~五回は泊めて頂いた。その度に近所を散歩したけれど、原節子の姿を見ることは一度も無かった。
○ 空の男の休日
海上自衛隊八戸航空隊の基地の中に、三沢の航空自衛隊の一部が一時的に同居していたことがある。昭和四十四年前後五~六年の期間であったと思う。
その航空自衛隊に茶道部があって、私の大先輩が指導に行っていたが、何かの都合で続けられなくなり、代わりに私が行くことになった。会社から半日休みをもらって出かけるのである。
これより一年ほど前に、岩手県軽米町に茶道部ができ、先輩姉弟子のMさんと私と二人が、先生の助手としてお供をした。
教室は毎週日曜日で三人はバスで通ったが二~三ケ月ほどで教室はMさんに任されることになり、私は助手として一緒に通った。全く新人ばかりの教室も一年ぐらいたつと、ある程度慣れてきて、助手が居なくてもいいくらい落ち着いてくる。自衛隊の茶道部の話が出たのは、ちょうどその頃であった。
航空自衛隊のお茶の稽古日は、毎週土曜日の一時から基地内の娯楽室である。先輩との引継ぎらしいこともなく、一人で基地の正門に行ったのは、昭和四十四年の春であった。
正門の警備の隊員に「茶道部の稽古に参りました」と言うと「茶道部があるのは知っているけれど、一般市民の人も習いに来てるの?」と隊員同士顔を見合わせた。
「あのォ習いに来たのではないのですが」
「エッ?あっ先生ですか。これは失礼致しました」道順を聞いて娯楽室に行って驚いた。広い娯楽室の三分の二が四十㌢ほど高くなった二十畳ぐらいの畳敷きで床の間もある。あとの三分の一にはテレビがあり椅子があり、隊員全員の娯楽室だから自由にテレビを見ている。茶道部は畳の部分を半分で充分。残りの半分には寝転んでいる隊員がいる。その様なところでお茶のお稽古である。
部員は航空と海上の自衛官(当時は女性自衛官はいない)と女性職員とで十五人ぐらい。勤務の都合で全員あつまることはまず無い。
今まで五十代の先生だったのに二十代の先生に代わった。部員にとって少し不安があったかも知れないが、私にも不安があった。稽古に行く日は予習をして出かけた。
質問が出る。その質問たるや「畳を歩く時歩幅は何㌢ですか?」「四歩で歩ける歩幅です」「おじぎをする時の角度は何度ですか?」「私がおじぎをしますから何度か見て下さい」「帛紗さばきの時の両手の高さは、畳から何㌢の高さですか?」「両手は胸の高さですから、体格によって違います。何㌢とは言えません」等々、こんな質問を前の先生にもしたのだろうか。さらに「なぜ茶碗は丸いのですか」ときた。「みんなの和が輪になって、世の中丸く納まるように丸いのです」と答えた。
我ながらうまく言ったものだと後で思った。完全にナメられた。おかげで一生懸命勉強した。本を読み疑問が出ると先生や先輩に教えてもらった。質問に答えられない時は「私もまだ習っていません。宿題にさせて下さい」とはっきり言った。
その年の秋(昭和四十四年十月二十五日)第八一航空隊開隊記念の催しがあり、基地全体を一般市民に開放することになった。
茶道部は野立てをすることになり、特別立派な道具を用意することもなく、普段の稽古道具でお茶を楽しんで頂くことにした。
記念日の当日は晴天に恵まれた。庁舎横の芝生の上にお点前は畳の上で、お茶を召し上がるお客には長椅子を用意した。
隊員はもちろんのこと一般市民も大勢お茶を楽しみ、中々の好評であった。翌日のデーリー東北新聞に「空の男の休日」という見出しに写真入りで報道された。
それから三年後、航空自衛隊は三沢へ戻ることになった。現在なら車で簡単だが、当時は車も免許もない。やむなくお断りした。
昭和四十七年十一月、市民会館でお別れ茶会をして、私の役目は終わった。
○ 三十二年ぶりの再会
その当時の航空自衛隊茶道部の部長であった小田淳治さんから、突然手紙が来たのは三年前の平成十六年八月のことである。愛知県小牧市に在住の小田さんとは、年賀状の交換はしているが、手紙は珍しかった。
「九月に三沢市で航空自衛隊の同期会があり出席します。三沢市で一泊して翌日は家内と八戸からレンタカーで岩手県普代の親戚の墓参りをして、八戸駅から新幹線で帰る予定です。もしご都合よろしければお逢いできませんか。せっかく八戸まで行くのですから」と言う内容であった。
私にも九月には旅行の予定があった。「日本詩吟学院の企画で十一日間のシルクロード旅行に出かけます。帰国するのはちょうど小田さんが八戸にいらっしゃる日です。中国からの飛行機が予定通りに成田空港に着けば、八戸駅に着くのは二時です。お逢いできます。」と直ぐ返事を出した。
「普代から三時までには戻ります。四時の新幹線で帰りますから、八戸駅の待合室で三時にお逢いしましょう。」と決まった。
運良く飛行機は予定通り飛んだ。お元気なお二人と三十二年ぶりの再会を果たした。
「お茶はずっとご無沙汰しています。スキーとゴルフ、登山をしています。家内と二人で登ります。海外の山にも挑戦しています」等々。
「私もお茶はほどほどにして詩吟に熱中しています。」と、懐かしかった。うれしかった。あっと言う間に時間がきて新幹線の改札口で見送って別れた。
お互いに健康であったから逢えた。健康に感謝。現在は絵手紙の交換をしている。
○ 心臓がドキドキ
少しづつ詩吟のことがわかってきた。一人で吟ずることを独吟。全員は合吟。一題の詩を複数の人員で交対に吟ずる連吟。吟ずる人は吟者、教室のことは教場という。
新人の私が二~三ケ月して少し慣れてきた頃に、先輩と一緒に同じ詩を指導して頂けることになった。始めは何度も合吟した後、独吟をして先生に直して頂く。その順番は先輩が先である。先輩の吟をじっくり聞き最後に私の番となる。それまでの時間を私はとても好きであった。上達の早道は続けることと、人の吟を聞き自分の耳を養うことである。
発表会等の時は、新人が先で先輩が後という順になる。「大きなねぶたはあと」である。
発表の機会は、初吟会、春秋の吟行会、文化協会のフェスティバル、納吟会等々で、昼と夜の教場が一緒になって行なう。昼教場には内丸の田端さん、八戸グランドホテル先代社長のお母さん、根辰の奥さん、クドウキチのおばあさん、千秋寿司店の大橋さんと小形さん達がいた。男性も何人かいたけど忘れた。
入門して一年の間に、教場見学にさそったY子さんは詩吟をやめた。又、新人が一人も入門してこなかったので、行事の度に独吟の順番は私が一番だった。
やっと新人が入って私の順番は二番になった。その時不思議にも心臓がドキドキした。今まで一番の時はドキドキしなかった。「どうせ新米だから」という思いがあったからだろうか。後輩ができた途端、このドキドキは何だ。「後輩に負けてたまるか」という思いが起きたのだろうか。それ以来出番を待っている間、ドキドキするようになった。ドキドキはいいことなのだ。
現在でも舞台の脇で待機している時のドキドキは何とも言えない雰囲気がある。舞台を降りたとき、結果の良し悪しにかかわらず、また舞台に立とうという意欲がわくのである。
詩吟とは、詩に込められた作者の喜びや哀しみ、感動した心を吟者がとらえ、声によって詩意を表現するものである。
詩吟はお腹の底から声を出すので、ストレス解消になる。腹筋を鍛え、姿勢を良くすることにより背筋を鍛え、老化防止にもなる。
歴史も学べるし、冠婚葬祭の席にも活用することができる。それだけではない。
先輩の元自衛官のKさんが話してくれた。自分は下北半島の貧しい漁村に生まれた。兄弟が多かったので口減らしのため、中学校を卒業して自衛隊に入隊した。試験を受けて同期入隊の仲間がど んどん昇官してゆき、自分だけが中々受からず、後輩からも追い抜かれた。悔しさと情けなさと失望とで不良青年になる寸前までいった。その時上官が山へつれて行って大きな声で、聞いたことのない歌をうたってくれた。「今のが詩吟というものだ。お前もやってみろ」と言って詩吟を教えてくれた。教わった通り大きな声で吟じてみた。思いがけず上官にほめられた。
「自分は詩吟に救われた。詩吟は非行防止にも役立つのです」とKさんが語った。
○ 鎌倉の別荘
明治薬館の二階を詩吟の教場とする翠風会は、明治薬館のご主人最上泰風氏が会長で、奥様が師範の最上翠岳先生である。
最上先生が鎌倉に別荘を買った。会員達が「別荘へ行きたい」と言い出し、ついでに鎌倉見物をしようということになった。昭和四十六年一月のことである。
別荘はとても広く男性は一階に、女性は二階に泊めて頂いた。修学旅行のようで楽しくてワイワイさわいでいると、一緒に行ったNさん(元中学校教師)に「もう八時すぎているんですよ」と叱られた。
翌日は桜井令岳先生(娘の知恵子さん)がおい出になって詩吟の勉強会を開いた。午後は別荘の近所を散歩した。散歩したのには理由がある。隣のお屋敷が原節子さんのお住まいだと聞いたので「もしかして逢えるかも?」と思ったからである。昭和初期の大女優の原節子である。私は原節子の主演映画は見たことがなく。雑誌等のグラビアかブロマイド写真等で見る程度であったが、原節子が大好きであった。
何時頃映画界を引退したのか知らないが、近年になって懐かしの名場面で「東京物語」がとりあげられたり、ワイドショーの「あの人は今」で鎌倉のお屋敷が映し出されることもあった。引退後は一度もマスコミに姿を見せることが無いことでも有名である。
最上先生の別荘の隣と言っても、窓から見える近さではない。その辺は広い庭付きの高級住宅地である。木立の奥にお屋敷があった。翌々日は鎌倉見物をして八戸に帰った。
これから約一年後に最上先生は明治薬館を閉店して鎌倉に移り住んだ。会員は代わる代わる訪問して泊めて頂いた。私も四~五回は泊めて頂いた。その度に近所を散歩したけれど、原節子の姿を見ることは一度も無かった。
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 8
十五柱の神々を祭る
うぶすなさま荒谷の天満宮
美事な桂の御神木
売市の天満宮は、長根の天満宮をすぎて香月園前の三叉路から、左側の小路を売市のバス通り(国道104号線)に向う道路添いにある。
この進を土地の人達は「てんまみち]と呼んでいた。昔は荒谷の学校とこのお宮は向いあっていた。境内はあまり広いとは言えない。間口3間半 (約12m)、奥行5間(約16.5m)の木造のお堂が、西向きに建っている。大分やつれている。
正面の欄間に掲げられている「天満宮」と書かれている額は、お堂とはつり合わず立派なものである。
朱塗りの鳥居のそばに、樹令2~3百年位と思われる桂の木が大小2本立っている。見事な御神木である。
お堂の前右側に、自然石の碑が二体並んでいる。ひとつは筆太に、「十和田山大権現」天保14年8月12日と、もう一基には、「金比羅大権現」慶応3年12月吉日の年号が刻まれている。
天満宮は、荒谷の産土神(うぶすながみ)として崇められているが、祭神は言うまでもなく菅原道真朝臣命である。そのほか態野大権現、豊受大神宮、月山、湯殿山、羽黒山、白山、子安様、稲荷神社(境内に別に小さな祠に祀られている)、農神様等々15柱が祀られているという。
このように沢山の神々が祀られたのは、明治維新の廃仏毀釈の時、お寺を追われた神々の難をかばい、お招きしたからであるということである。
天満宮のお祭り
天満宮のお祭りは、菅原道真の命日である2月25日に行なわれるところが多いが、ここではそれと異なり、旧の11月24日に行なわれている。それには次のようないわれがある。「昔各地に悪疫が流行した時、荒谷の周辺には全然病人がでなかった。産土神の御加護であると感謝の意をこめて、この日にお祭りを行うことになった」と伝えられている。
春を呼ぶ春祈祷
お正月も過ぎた1月中旬、笛や太鼓、手平鉦をお供に(歯がみ)の音も高々と春祈祷の権現様が荒谷の家々を訪れる。春の前ぶれと歓迎されている。この時いただくお札には、「天満宮熊野権現」と大書され、朱色の大きな印判がどっしりと押されている。荒谷のえんぶりの人達が熊野権現に奉仕しているのだということである。
天満宮は荒谷の産土神として祀られているので、神様のルーツをもうすこし尋ねてみたい。
天満宮の祭神菅県道真朝臣命は、学問の神様であることは有名であるが、同時に書の神様でもある。弘法大師、小野道風と共に「書の三聖」と言われるほどの腕の持主でもあった。又、梅をこよなく愛したが、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」の歌によって表現している。天満宮では、京都の北野天満宮、九州大宰府天満宮、東京の湯島天満宮、亀戸の天満宮等が有名である。
副神 熊野権現
熊野権現の本社は、和歌山県紀伊半島にある。
紀伊勝浦駅から山に向って車で20分程行くとうっそうとした原始林が見え、その中に高さ133 mの日本一の那智の滝が見える。熊野三山の一つの熊野那智大社がここにある。熊野信仰の根元は那智の滝にあり、この大瀑布を御神体として生れたものである。
熊野那智大社(那智勝浦町)
熊野速玉大社(新宮市)
熊野本宮大社(本宮町)
この三社を熊野三山、三所権現或は三熊野と言っている。
青森県の熊野信仰
青森県内の熊野信仰とのつながりは、十和田湖伝説の主、南祖坊をはじめ、岩木山の三所権現、八戸では常泉院(栄尊)、大泉院、熊野堂等修験者達は、当然熊野権現とは直接つながりがあったと思われる。
それについて川口前四郎氏は、別当とは親戚関係にあるのだがと言って、次の通り語ってくれた。「寛文5年八戸南部(三八城山)初代藩主となった直房公が、まだ盛岡に在住中昵懇にしていた士、高橋勘五郎を修験となして無量院と号せしめた。後、常泉院栄尊(本姓を野田と改める)と呼び、修験の頭領となして、神社、仏閣に於て祈祷をなさしめた。
当時、八戸地方に於ては、軽米村には修験松本院、八戸にては修験大泉院(大泉坊と称した)久慈村にては同南光院、南学院、南等院、名久井村本光院等は各地方に於ては大祈祷師であった。
常泉院は領内修験の総禄を命ぜられ、是等の修験を命令した。そして法霊、神明、長者山の三社、豊山寺、蕪島弁天、湊大祐の六ケ所は主なる祈祷所であり、そこでは常泉院の命によって、修験、神官、僧侶、別当等が祈祷をなした。
宝永6年暫らく雨が降らず干ばつの様相を呈したので6月22日領内の全修験を集め、池野堂に於て雨乞いの大祈祷をなさしめた所、同月25日に雨が降り、人民蘇生の思いをなしたことがある。
その大泉坊は熊野堂権現を兼ねていたが、上市川の池野堂より移ってきたと言われている。
大泉坊・城前坊 二洋平義雄調査
売市字長根に、大泉坊の屋敷跡という所がある。長根町内に住む、野田テルさん(80才)からの話をまとめてみると……。
大泉坊の祖先は、遠く藤原源氏の末えいで、藤原源氏が戦いに敗れて、市川村字池ノ堂部落に山伏となって隠れ住みついていた。幾百年かを経て、八戸藩の客分として招かれ、長根の天満宮の隣地に、千刈坪を配領して住むことになったとのこと。市川村から移住してきたところから、市川姓を名乗ったのだという。又大泉坊の分かれに、城前坊という者がいて、これが長根の根城家の祖先とのこと。
一説には、城前院坊の院号の前は、常就院とあり、その後常寺院と称したともある。城前院の後継者は苗字を根城氏を名乗ったところから現在は常寿院を語呂合せのように″じょうぜん″と称して根城氏の家号となっている。
よって常就院~常寿院~城常院~じょうぜんは一連の名称である。
大泉坊は学者肌で宮司職を業とし、城前坊は農業に従事する豪農だったが、元は共に山伏であり、大泉坊の墓地には市川家と根城家の墓がある。なお大泉坊市川家の家紋は、十六坊菊である。
大泉坊市川家とゆかりのあるのが長者山の常泉院であるが、長者山附近に常泉院が住んだところから、常泉下という字名が残っている。ところが大泉坊の住んだこの地域には、残念ながら大泉坊下という地名は残っていない。
大泉坊の住んだ地域は、右水門下、左水門下とよばれている。現在の長根総合グランドは、以前は、農業用貯水池、即ち長根の堤であった。堤の両側には、水門があり、現在もそのまま残されているが、左水門は余り使用されていない。今後水門の整理も考えられるので、両水門からの字名の起源が忘れられるかもしれないので、ここに改めて、両水門のあったことを記して置きたい。
産土神と鎮守様・氏神様
「うぶすながみ]或は「おぼすなさま」と言って、自分の生れた土地の神様、或は住んでいる土地の神様をそう呼んでいる。
又、同じ氏(同姓)の人達が一緒に祀る神様を氏神様(人の方を氏子)という。いろいろの違った氏の人達が、共同で祀る杜を鎮守様と呼んでいる。しかし今は、産土神も、鎮守様もあまり区別して考えていない。
長根天満宮・
はじめ、三戸永福寺の住僧が文明3年6月、 八戸天神の御神体と八幡の御神体を京都で作ったとき、長根天満宮の御神体も作り、東構あたりに祀ってあったものと思われる。寛永4年大守利直公が遠野へ移封されたとき、別当であった東善寺住僧栄尊も本宮の御神体を持ってお供したと言われている。
それからどのくらいの年月が経ったか明らか ではないが、① 長坂に禅源寺と隅の観音と並んで建てられた。② それがいつの頃か東構に移った。③ それから享保3年3月2日に火災にあって焼失し、そのまま放置されていたのを元八戸藩士津村邸跡に、弘化の頃移転した。
先に述べたように、御神体は遠野へ持っていかれたので、九州大宰府天満宮の梅の古木で御神体を作ったという。
弘化3年(1846)現在地に遷座された。
明治初年白山宮、鹿島神社、八幡宮、山神社、熊野神社の五社を合祀現在に至っている。八幡宮は根城本丸跡にあったものであるという。境内に筆塚の碑があり春秋例大祭を行っている。旧藩時代は大神宮と言った。現在は天満宮と呼んでいる。
祭日は9月25日、社総代根滅入右工門外6名。
(川口前四郎)
お祭り参加35年の花道
報いられて最優秀賞
平成4年の三社大祭に、売市の山車は栄えある最優秀賞に輝いた。前年に優秀賞を受賞していたので、2年続きの栄誉である。しかも、お祭りに参加して35年目という記念すべき年にあわせるように、見事に花が開いたわけである。山車を曳く子供達にとっては、最大の贈りものになった。子供達は大喜びで自慢しあったのは勿論であるが、お祭りの若者達も、永年に亘る苦労が報いられ、その喜びはひとしお、大きなものであった。
毎年春早くから、製作に携わり、苦労を重ねてきただけに、その甲斐があったと言うものである。祝賀会での乾杯は、本当にうまい酒であった。
ここ5年程続けて努力賞を受賞し、昨年は優秀賞を受賞した。これも指導者に人を得たということであろうし、又作る人達の技術が向上したとも言える。
平成4年10月3日、八戸グランドホテルに於て催した35年の記念式典に、宮沢文夫委員長が 「最優秀賞を受賞できたのは、皆さんのお力添えのたまもの、これからも地域に喜ばれる山車をつくっていきたい」とあいさつをのべたが、この謙虚な心が実を結んだのであろうと思われる。
山車組の功労者
この式典では、その発展に尽力した次の人達に感謝状を贈って、その功を謝した。
創始者初代委員長 故中村利雄
々 副委員長歴任 故宮沢三次郎
々 三代目委員長 故西村清一
元委員長 二代目委員長 野沢 剛
々 四代目委員長 中村倉松
々 五代目委員長 市川儀郎
々 六代目委員長 川口徳治
々 七代目委員長 中村明人
功労者八戸山車絵師 夏坂和良
々 山車人形着付功労者 広津淑子
平成3年に優秀賞を受賞した山車の題材は「白蛇伝という中国京劇であった。「白蛇伝」の舞台の両側に配した円柱を、中国風に朱や青の原色或は金色などの、おきまりの色彩をとらず、白一色に仕上げたことは、重厚さを表し、全体に深味を増して盛り上げている。正面の焦点を絞り、統一を図ってすっきりさせたならば最優秀賞に限りなく近づいたであろう」という評であった。
平成4年に最優秀賞に輝いた山車はデーリー東北の「山車ものがたり」に次のように紹介されている。
スーパー歌舞伎・京劇リューオー(龍王)
市川猿之肋の企画演出による中国三大怪奇小説「封神演義」ナタの龍退治と近松門左衛門の「国性爺合戦」を組合わせた物語を題材とした。日本の漁師・海彦と超能力を持つ中国の少年・ナタが協力し、海で悪事を働く巨大な龍王との戦いの場を表現したものであった。
優秀賞・最優秀賞に入賞したこの作品は、夏坂和良氏の指導によるものである。
附祭の事始め
昭和32年の夏の頃、屯所に土用干しに何人かの人達が集った時に、たまたま山車の話が出て隣の新組も山車を出した。我が町でもお祭りに参加しようではないかという話が出た。
今子供達はお祭りになると、よその町内の山車に参加している。自分達の町内の山車を曳く夢をかなえさせてやりたいということである。
農業をしている人は、お祭りの準備に人手を必要とする時期は、農繁期と重なり合って手伝いは不可能だ、従って実現はむずかしいというもっともな話もあったりして、仲々話は進まなかった。
しかし、実現派は熱心であった。とにかくやってみようと、中村利雄氏が代表となり宮沢三次郎、西村清一氏等を中心に準備を進め、翌年(33年)から参加することに決め、神明宮の附祭になることが決った。何もかも初めてで勝手がわからなかったが、慎重に話し合った結果題材に歌舞伎の外題のトップである「勧進帳」と決った。しかし、台車を始め人形も何も無いので、先輩格の廿六日町の附祭りから、いろいろ指導を受けた。そしてすべてのものを借りることにした。自分のものと言えば、やっと買った曳綱位のものである。肝心の山車の人形も二体ですませるという離れ技もやってのけた。
準備金も無いので、お祭りに参加しても、翌日の昼食の準備にも事欠いて、米や小豆、魚など材料を、各自が持ち寄り作るという、今では想像もつかないような苦労をしたのであった。
(市川儀郎氏談) 努力賞の山車
昭和61年売市がお祭りに参加して29年目に山車が努力賞に入賞した。題材は「雷神不動北山桜鳴神の破戒」であった。
川口徳治代表はおどり上って喜んだ。皆の苦労に報いられると言って目を真赤にして酒をついで回った。
63年から中村明人氏が代表を引継いだが、どう運が付いたものか、61年から62、63、平成元同2年と連続して努力賞を受賞した。そしてついに平成3年に優秀賞を受賞した。中村明人代表の笠ぬぎの時の挨拶の言葉も嬉しさにふるえていた。
山車の審査
お祭りの理解者で長い間、山車の審査委員長をされた故音喜多富寿先生が審査の際「山車の審査はひとり山車だけではなく、次の三点のバランスを考えなければならない]とよく言われていた。
第一は、山車の着想は、見て楽しくわかり易 いもの、飾り付けは美しいもの。
第二は、お囃子の太鼓、笛は揃って、音頭は メリハリのきいたもの。
第三は、曳子の掛声、態度に元気あり、衣装 は清潔なこと等を強調されていた。更に、①時代考証は尊重しなければならないがあまり、こだわらない。②むごたらしいもの、殺伐な場面はお祭りの山車にふさわしくない。③子供が楽しく見られるものを歓迎したいと言うのが口ぐせであった。
山車づくりは類家、塩町、市職員互助会、青年会議所がひと時代を牛耳ってきた。長横町の山車の構想も好評である。それらの山車づくりの構想によって、八戸の山車は横に拡がり、上に延び2倍にも3倍にも大きくなり、文字通り豪華で絢爛なものに発展してきた。これは、或る意味では伝統をやぶったからだと言える。
伝統にこだわっては、硬直して発展は望めないが、と言って伝統を無視しては単なるカーニバルに駄してしまう。このことは古い時代の山車の写真と今の山車とを見比べて見ればよくわかる。
お祭りはますます盛んになるであろうが、お祭りは神と共にあるということを忘れてはならない。
最近は、昔話や童話ものがすくなくなり、子供たちには淋しいお祭りになったと言われている。テーマに関係ない飾りや物が付けられ焦点がぼやけ、八戸の三社大祭らしい伝統が失なわれつつあるという不満の声もある。
お祭りは子供の夢を育てる大きな役目のあることも忘れてはならない。
売市の附祭の、今後ますます精進して二度三度の最優秀賞を獲得されることを期待したい。
うぶすなさま荒谷の天満宮
美事な桂の御神木
売市の天満宮は、長根の天満宮をすぎて香月園前の三叉路から、左側の小路を売市のバス通り(国道104号線)に向う道路添いにある。
この進を土地の人達は「てんまみち]と呼んでいた。昔は荒谷の学校とこのお宮は向いあっていた。境内はあまり広いとは言えない。間口3間半 (約12m)、奥行5間(約16.5m)の木造のお堂が、西向きに建っている。大分やつれている。
正面の欄間に掲げられている「天満宮」と書かれている額は、お堂とはつり合わず立派なものである。
朱塗りの鳥居のそばに、樹令2~3百年位と思われる桂の木が大小2本立っている。見事な御神木である。
お堂の前右側に、自然石の碑が二体並んでいる。ひとつは筆太に、「十和田山大権現」天保14年8月12日と、もう一基には、「金比羅大権現」慶応3年12月吉日の年号が刻まれている。
天満宮は、荒谷の産土神(うぶすながみ)として崇められているが、祭神は言うまでもなく菅原道真朝臣命である。そのほか態野大権現、豊受大神宮、月山、湯殿山、羽黒山、白山、子安様、稲荷神社(境内に別に小さな祠に祀られている)、農神様等々15柱が祀られているという。
このように沢山の神々が祀られたのは、明治維新の廃仏毀釈の時、お寺を追われた神々の難をかばい、お招きしたからであるということである。
天満宮のお祭り
天満宮のお祭りは、菅原道真の命日である2月25日に行なわれるところが多いが、ここではそれと異なり、旧の11月24日に行なわれている。それには次のようないわれがある。「昔各地に悪疫が流行した時、荒谷の周辺には全然病人がでなかった。産土神の御加護であると感謝の意をこめて、この日にお祭りを行うことになった」と伝えられている。
春を呼ぶ春祈祷
お正月も過ぎた1月中旬、笛や太鼓、手平鉦をお供に(歯がみ)の音も高々と春祈祷の権現様が荒谷の家々を訪れる。春の前ぶれと歓迎されている。この時いただくお札には、「天満宮熊野権現」と大書され、朱色の大きな印判がどっしりと押されている。荒谷のえんぶりの人達が熊野権現に奉仕しているのだということである。
天満宮は荒谷の産土神として祀られているので、神様のルーツをもうすこし尋ねてみたい。
天満宮の祭神菅県道真朝臣命は、学問の神様であることは有名であるが、同時に書の神様でもある。弘法大師、小野道風と共に「書の三聖」と言われるほどの腕の持主でもあった。又、梅をこよなく愛したが、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」の歌によって表現している。天満宮では、京都の北野天満宮、九州大宰府天満宮、東京の湯島天満宮、亀戸の天満宮等が有名である。
副神 熊野権現
熊野権現の本社は、和歌山県紀伊半島にある。
紀伊勝浦駅から山に向って車で20分程行くとうっそうとした原始林が見え、その中に高さ133 mの日本一の那智の滝が見える。熊野三山の一つの熊野那智大社がここにある。熊野信仰の根元は那智の滝にあり、この大瀑布を御神体として生れたものである。
熊野那智大社(那智勝浦町)
熊野速玉大社(新宮市)
熊野本宮大社(本宮町)
この三社を熊野三山、三所権現或は三熊野と言っている。
青森県の熊野信仰
青森県内の熊野信仰とのつながりは、十和田湖伝説の主、南祖坊をはじめ、岩木山の三所権現、八戸では常泉院(栄尊)、大泉院、熊野堂等修験者達は、当然熊野権現とは直接つながりがあったと思われる。
それについて川口前四郎氏は、別当とは親戚関係にあるのだがと言って、次の通り語ってくれた。「寛文5年八戸南部(三八城山)初代藩主となった直房公が、まだ盛岡に在住中昵懇にしていた士、高橋勘五郎を修験となして無量院と号せしめた。後、常泉院栄尊(本姓を野田と改める)と呼び、修験の頭領となして、神社、仏閣に於て祈祷をなさしめた。
当時、八戸地方に於ては、軽米村には修験松本院、八戸にては修験大泉院(大泉坊と称した)久慈村にては同南光院、南学院、南等院、名久井村本光院等は各地方に於ては大祈祷師であった。
常泉院は領内修験の総禄を命ぜられ、是等の修験を命令した。そして法霊、神明、長者山の三社、豊山寺、蕪島弁天、湊大祐の六ケ所は主なる祈祷所であり、そこでは常泉院の命によって、修験、神官、僧侶、別当等が祈祷をなした。
宝永6年暫らく雨が降らず干ばつの様相を呈したので6月22日領内の全修験を集め、池野堂に於て雨乞いの大祈祷をなさしめた所、同月25日に雨が降り、人民蘇生の思いをなしたことがある。
その大泉坊は熊野堂権現を兼ねていたが、上市川の池野堂より移ってきたと言われている。
大泉坊・城前坊 二洋平義雄調査
売市字長根に、大泉坊の屋敷跡という所がある。長根町内に住む、野田テルさん(80才)からの話をまとめてみると……。
大泉坊の祖先は、遠く藤原源氏の末えいで、藤原源氏が戦いに敗れて、市川村字池ノ堂部落に山伏となって隠れ住みついていた。幾百年かを経て、八戸藩の客分として招かれ、長根の天満宮の隣地に、千刈坪を配領して住むことになったとのこと。市川村から移住してきたところから、市川姓を名乗ったのだという。又大泉坊の分かれに、城前坊という者がいて、これが長根の根城家の祖先とのこと。
一説には、城前院坊の院号の前は、常就院とあり、その後常寺院と称したともある。城前院の後継者は苗字を根城氏を名乗ったところから現在は常寿院を語呂合せのように″じょうぜん″と称して根城氏の家号となっている。
よって常就院~常寿院~城常院~じょうぜんは一連の名称である。
大泉坊は学者肌で宮司職を業とし、城前坊は農業に従事する豪農だったが、元は共に山伏であり、大泉坊の墓地には市川家と根城家の墓がある。なお大泉坊市川家の家紋は、十六坊菊である。
大泉坊市川家とゆかりのあるのが長者山の常泉院であるが、長者山附近に常泉院が住んだところから、常泉下という字名が残っている。ところが大泉坊の住んだこの地域には、残念ながら大泉坊下という地名は残っていない。
大泉坊の住んだ地域は、右水門下、左水門下とよばれている。現在の長根総合グランドは、以前は、農業用貯水池、即ち長根の堤であった。堤の両側には、水門があり、現在もそのまま残されているが、左水門は余り使用されていない。今後水門の整理も考えられるので、両水門からの字名の起源が忘れられるかもしれないので、ここに改めて、両水門のあったことを記して置きたい。
産土神と鎮守様・氏神様
「うぶすながみ]或は「おぼすなさま」と言って、自分の生れた土地の神様、或は住んでいる土地の神様をそう呼んでいる。
又、同じ氏(同姓)の人達が一緒に祀る神様を氏神様(人の方を氏子)という。いろいろの違った氏の人達が、共同で祀る杜を鎮守様と呼んでいる。しかし今は、産土神も、鎮守様もあまり区別して考えていない。
長根天満宮・
はじめ、三戸永福寺の住僧が文明3年6月、 八戸天神の御神体と八幡の御神体を京都で作ったとき、長根天満宮の御神体も作り、東構あたりに祀ってあったものと思われる。寛永4年大守利直公が遠野へ移封されたとき、別当であった東善寺住僧栄尊も本宮の御神体を持ってお供したと言われている。
それからどのくらいの年月が経ったか明らか ではないが、① 長坂に禅源寺と隅の観音と並んで建てられた。② それがいつの頃か東構に移った。③ それから享保3年3月2日に火災にあって焼失し、そのまま放置されていたのを元八戸藩士津村邸跡に、弘化の頃移転した。
先に述べたように、御神体は遠野へ持っていかれたので、九州大宰府天満宮の梅の古木で御神体を作ったという。
弘化3年(1846)現在地に遷座された。
明治初年白山宮、鹿島神社、八幡宮、山神社、熊野神社の五社を合祀現在に至っている。八幡宮は根城本丸跡にあったものであるという。境内に筆塚の碑があり春秋例大祭を行っている。旧藩時代は大神宮と言った。現在は天満宮と呼んでいる。
祭日は9月25日、社総代根滅入右工門外6名。
(川口前四郎)
お祭り参加35年の花道
報いられて最優秀賞
平成4年の三社大祭に、売市の山車は栄えある最優秀賞に輝いた。前年に優秀賞を受賞していたので、2年続きの栄誉である。しかも、お祭りに参加して35年目という記念すべき年にあわせるように、見事に花が開いたわけである。山車を曳く子供達にとっては、最大の贈りものになった。子供達は大喜びで自慢しあったのは勿論であるが、お祭りの若者達も、永年に亘る苦労が報いられ、その喜びはひとしお、大きなものであった。
毎年春早くから、製作に携わり、苦労を重ねてきただけに、その甲斐があったと言うものである。祝賀会での乾杯は、本当にうまい酒であった。
ここ5年程続けて努力賞を受賞し、昨年は優秀賞を受賞した。これも指導者に人を得たということであろうし、又作る人達の技術が向上したとも言える。
平成4年10月3日、八戸グランドホテルに於て催した35年の記念式典に、宮沢文夫委員長が 「最優秀賞を受賞できたのは、皆さんのお力添えのたまもの、これからも地域に喜ばれる山車をつくっていきたい」とあいさつをのべたが、この謙虚な心が実を結んだのであろうと思われる。
山車組の功労者
この式典では、その発展に尽力した次の人達に感謝状を贈って、その功を謝した。
創始者初代委員長 故中村利雄
々 副委員長歴任 故宮沢三次郎
々 三代目委員長 故西村清一
元委員長 二代目委員長 野沢 剛
々 四代目委員長 中村倉松
々 五代目委員長 市川儀郎
々 六代目委員長 川口徳治
々 七代目委員長 中村明人
功労者八戸山車絵師 夏坂和良
々 山車人形着付功労者 広津淑子
平成3年に優秀賞を受賞した山車の題材は「白蛇伝という中国京劇であった。「白蛇伝」の舞台の両側に配した円柱を、中国風に朱や青の原色或は金色などの、おきまりの色彩をとらず、白一色に仕上げたことは、重厚さを表し、全体に深味を増して盛り上げている。正面の焦点を絞り、統一を図ってすっきりさせたならば最優秀賞に限りなく近づいたであろう」という評であった。
平成4年に最優秀賞に輝いた山車はデーリー東北の「山車ものがたり」に次のように紹介されている。
スーパー歌舞伎・京劇リューオー(龍王)
市川猿之肋の企画演出による中国三大怪奇小説「封神演義」ナタの龍退治と近松門左衛門の「国性爺合戦」を組合わせた物語を題材とした。日本の漁師・海彦と超能力を持つ中国の少年・ナタが協力し、海で悪事を働く巨大な龍王との戦いの場を表現したものであった。
優秀賞・最優秀賞に入賞したこの作品は、夏坂和良氏の指導によるものである。
附祭の事始め
昭和32年の夏の頃、屯所に土用干しに何人かの人達が集った時に、たまたま山車の話が出て隣の新組も山車を出した。我が町でもお祭りに参加しようではないかという話が出た。
今子供達はお祭りになると、よその町内の山車に参加している。自分達の町内の山車を曳く夢をかなえさせてやりたいということである。
農業をしている人は、お祭りの準備に人手を必要とする時期は、農繁期と重なり合って手伝いは不可能だ、従って実現はむずかしいというもっともな話もあったりして、仲々話は進まなかった。
しかし、実現派は熱心であった。とにかくやってみようと、中村利雄氏が代表となり宮沢三次郎、西村清一氏等を中心に準備を進め、翌年(33年)から参加することに決め、神明宮の附祭になることが決った。何もかも初めてで勝手がわからなかったが、慎重に話し合った結果題材に歌舞伎の外題のトップである「勧進帳」と決った。しかし、台車を始め人形も何も無いので、先輩格の廿六日町の附祭りから、いろいろ指導を受けた。そしてすべてのものを借りることにした。自分のものと言えば、やっと買った曳綱位のものである。肝心の山車の人形も二体ですませるという離れ技もやってのけた。
準備金も無いので、お祭りに参加しても、翌日の昼食の準備にも事欠いて、米や小豆、魚など材料を、各自が持ち寄り作るという、今では想像もつかないような苦労をしたのであった。
(市川儀郎氏談) 努力賞の山車
昭和61年売市がお祭りに参加して29年目に山車が努力賞に入賞した。題材は「雷神不動北山桜鳴神の破戒」であった。
川口徳治代表はおどり上って喜んだ。皆の苦労に報いられると言って目を真赤にして酒をついで回った。
63年から中村明人氏が代表を引継いだが、どう運が付いたものか、61年から62、63、平成元同2年と連続して努力賞を受賞した。そしてついに平成3年に優秀賞を受賞した。中村明人代表の笠ぬぎの時の挨拶の言葉も嬉しさにふるえていた。
山車の審査
お祭りの理解者で長い間、山車の審査委員長をされた故音喜多富寿先生が審査の際「山車の審査はひとり山車だけではなく、次の三点のバランスを考えなければならない]とよく言われていた。
第一は、山車の着想は、見て楽しくわかり易 いもの、飾り付けは美しいもの。
第二は、お囃子の太鼓、笛は揃って、音頭は メリハリのきいたもの。
第三は、曳子の掛声、態度に元気あり、衣装 は清潔なこと等を強調されていた。更に、①時代考証は尊重しなければならないがあまり、こだわらない。②むごたらしいもの、殺伐な場面はお祭りの山車にふさわしくない。③子供が楽しく見られるものを歓迎したいと言うのが口ぐせであった。
山車づくりは類家、塩町、市職員互助会、青年会議所がひと時代を牛耳ってきた。長横町の山車の構想も好評である。それらの山車づくりの構想によって、八戸の山車は横に拡がり、上に延び2倍にも3倍にも大きくなり、文字通り豪華で絢爛なものに発展してきた。これは、或る意味では伝統をやぶったからだと言える。
伝統にこだわっては、硬直して発展は望めないが、と言って伝統を無視しては単なるカーニバルに駄してしまう。このことは古い時代の山車の写真と今の山車とを見比べて見ればよくわかる。
お祭りはますます盛んになるであろうが、お祭りは神と共にあるということを忘れてはならない。
最近は、昔話や童話ものがすくなくなり、子供たちには淋しいお祭りになったと言われている。テーマに関係ない飾りや物が付けられ焦点がぼやけ、八戸の三社大祭らしい伝統が失なわれつつあるという不満の声もある。
お祭りは子供の夢を育てる大きな役目のあることも忘れてはならない。
売市の附祭の、今後ますます精進して二度三度の最優秀賞を獲得されることを期待したい。
昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 6
六十路会のこと
太田武美
(大正二年三月卒業生)
五十路会から六十路会になりて四年目、というのは私共は明治四十五年(十二月に大正に改元)に八戸尋常小学校を卒業したクラス会を今日まで連綿として持つ六十余才の仲間です。
尤も戦争の前後には、とぎれたこともあるが今尚廿余名の会合をやります。会場は長流寺やどこかでおよそ派手なものではないし、会長もありません。世話役の理事が数名あるだけ、物故の友の冥福を祈った後全く五十余年の昔にかえりて一杯やる。追加の会費はごきげんの頃合を見計りて座敷を托鉢?して景気のよい顔から寄附という仕組です。私共の一級あとには市長や松下総長、その他有名人がありますが私共の組は残念ながらドン栗のせいくらべです。
当時の恩師は加藤、類家、室岡、永山先生等甚だ恐縮ながらほとんどアダ名が今日追憶に偉大なる効果があるのには苦笑して居る次第です。
PTAなどの言葉は勿論ある筈もなくいたずら坊主は教室内においてすら先生のムチか棒かでやられたのですが、今日のように人権じゆうりんなどというやかましい問題もなくすべては師弟の愛敬と童心で割切って居たように思われます。
稲葉校長さんの教育勅語奉読の紫色のフクサに白手袋、そしてその手がかすかにふるえて居たことや、来賓の奈須川光宝代議士の立派なおヒゲや「赤手こ」の伝説のサイカチの木など遠い昔の想い出になりました。
茲に母校の創立九十周年の祝賀に際会する幸福と光栄を感謝してとりとめのない筆をおきます。
類 家 先 生
種 市 良 春
(大正四年三月卒業生)
明治四十一年四月、数え年七才のとき、八戸尋常小学校の一年生として入学した。一年の受持の先生は類家豊造という頭髪は短小、むしろ円満なる光頭。体躯堂々たる古武士を想わしむる先生。
私は、朔日町から六年生の兄と一諸に、始業一時間位前に登校するのが常だった。当時、現在の市庁前ロjタリーの高野槙の下に柵のような校門があり、明治天皇の行在所にもなったことのある明治建築様式の四角な八戸小学校の講堂があった。この校門と講堂とのあたりで、登校時の同じ類家先生と遭い、「種市、早いなあ」と高く叫ばれるのが今も耳にのこる。
類家先生は、体操遊戯の際には、陣太鼓を持ち出し、これを打ち鳴らしては私達の動作をかもし出さしめる。今も、三社大祭の長者山馬場にて打毬の太鼓に思いは昔に返る。
私は、一年と二年のニケ年に亘って、この先生に育てられた。そして、二年の終りの考査に、先生は、その当時の日本人としての教育根本理念であった「教育勅語」を毛筆で墨痕鮮やかに日本紙に書くことを問題としてだされた。
これができて、三年に進級、そして、副級長という白い毛糸に飾られた肩章が与えられることになった。
現在、八戸小学校校庭に街路樹の様にあるヒマラヤシーダは、昭和九年、私の植樹によるもので、私にとっては、生命ある記念となっている。
せんべいといわしの味
釜 萢 東 祐
(大正十年三月卒業生) この小学校に入学したのは、約五十年前のこと、青森から転住後、間もなくの大正四年の昔。絣の着物を着て、帯しめての登校、一文銭をもって、せんべいやあめ玉を買った想い出から始まり、薄暗い教室の中の、大きな火鉢に、あかあかと燃えている炭火を囲んでの、冬の物語りのうちに育っていった。
こうして、出張途中の快速列車で、半世紀もの昔の想い出を書こうとすれば、全く夢よりも淡い世界のことのような、そしてそれは南部せんべいの味がする。
低学年当時の想い出は、隣りにすわっていた中居松助君(八戸郵便局勤務)のこと、座席占有範囲や、持ちこんだお菓子のことでのいさかいを、ただよう雲のように想い起す。図画の手本にあったわらやねの家の模写が、どうしてもよくできなかったので、だだをこねたことも目に浮んでくる。
公衆衛生や予防保健も、十分でなかった当時であり、それに不作不況の時代で、体も弱かったせいもあって、虫歯と風邪になやまされ、欠席しがちだったようである。しかし三、四年頃から、港からたくさんとれて、安くてうまいいわしの味は、今もって忘れられない。頭も骨もみな食べる習慣がつき、健康な体になったのもそのためで、頭もついでに良くなったものと思われる。
四年生頃から、学校でローマ字を習った。英語は自学独習を志したのはよいが、単語の発音をビーオーオーケイなどと読んで止めてしまった。自動車が初めて八戸に来たといって見物に出かけたのもその頃。
五・六年生になると、上位成績の仲間入りができ、爪田亮君、晴山茂平君(八一高教頭)など、成績優秀な友だちの名前が出て来ます。担任の小向先生、隣の組担任の四戸先生の御教導の下に、よく学びよく遊んだことは今でもなつかしく強い印象に残っている。
家庭の事情で中学校に行けず、高等小学校に入り、その後で中学校・大学と進学できたのも夢のような幼心の中に育って、人間形成に大きな影響を与えて下さった小学校の先生と友だちにあったと思う。せんべいといわしの味こそ、小学校の思い出の味です。
子供四人とも八戸小学校にお世話になり、長男長女は大学卒業、二男は大学在学中、末子もすでに八高の二年生、想い出は子供たちに継がれて、母校の歴史も九十年。すべては敬意と感謝につきる。
追 憶 の 記
根 城 正一郎
(昭和三年三月卒業生) 創立九十周年にあたり学窓を巣立った頃の感慨を改めてしみじみと味わっています。八尋当時の苦しみ楽しさが懐かしく思い出されます。一番印象深く心に刻まれているのは岩手、青森二県少年野球大会に優勝したことです。毎日夕方七時過ぎまで猛練習にはげんだこと、中学校の受験準備のため教室が暗くなるまで勉強したこと、又私たちのグループが習字の時間水をこぼし下の教室で授業中の太田先生の頭をぬらして大目玉を頂戴し三時間も立たされたこと。あとでこの事件を作文にして担任の稲葉先生に出したら作文コンクールで第一位になり、講堂で朗読させられたあげく文集に出されたことなど思い出し、今更乍ら赤面の至りです 当時は野球は勿論競技、雄弁大会図画等県南第一の成績を上げ又同級の大橋君が県下学力コンクールで第一位をとるなど八尋の名声が高かったことを思い出します。
当時の男の先生の半数は和服に袴で女の先生は全部和服でした。私が五年の時父が東京土産に松坂屋から買って呉れた洋服を無理に着せられて学校に行った所、同じ日に同級の南部君も洋服姿で机についていました。友人から一日中ひやかされるので翌日から又元の着物に袴、下げカバンで通学したのをおぼえています。宿題を忘れたりやってこない場合よく余興をやらされました。えんぶりや三社大祭のはやし寅舞い太神楽等よく皆でやったものです。
今年の三社大祭で太鼓や笛を吹いている旧友を見つけた時昔を思い出し、思わず苦笑しました。校舎はコ型に建っていて中央は板で区切り男女別学だったのも今の子供たちには理解出来ないことで、野球で大活躍した同輩がハ中に進み甲子園大会に出場したのも八尋時代の練習の賜と思います。
先日私は卒業記念写真を偶然見つけて昔なつかしく眺めています。表紙に続く勅語詔書沿革を読み恩師旧友の昔の面影に接する時、六年間の母校での歩みが三十六歳月を乗り越えて浮きぼりにされ、はっきりとよみがえって来ます。今日の立派な学校内容にふれ、益々発展する母校の姿を見まして今昔の感を深くしています。
アダ名礼讃
富 岡 綾 子
(前校舎最後昭和四年卒業生) 「○○デブ、ブタおこりっぺ」とは、まるまる肥ったよくお小言をいう先生のアダ名。頭の禿げ上った先生は「止まると滑る」。やせて色が白く面長な先生は白描。御年配の束髪の先生は「ババサ」。
おでこが出っぱって四角いお顔の先生は南京豆先生。学校を出たばっかりの「五郎ちゃん」 「新ちゃん」と呼ばれる若い先生はアダ名のたぐいからは角度の違った愛称だったのかもしれない。
とに角、何時、誰が、何処で奉ったかもしれないアダ名が生徒間では通用していた。時は大正の末期から昭和のはじめにかけての旧校舎の私の小学校時代、男女七才にして席を同じうせずのことわざ通り小学校に人学した時から女生徒の組、男生徒の教室と、すっかり区分けされ、生徒の大半が和服に袴。二・三の洋服姿が人目をひいた時代の女生徒陣の間でかくも数多くのアダ名が氾濫していたのだから、お隣の男生徒陣は如何にと案じあげても考え損。男の子とおしゃべりでもしようものなら、不良という頭文字がつけられた時代。そうです、当時八戸一を誇った八戸尋常小学校といっても長い校舎のはしっこからはしっこ迄、ガランガランと腰の曲った小使さんが、ゆっくり鳴らして歩く鐘の音に授業が始まり授業が終った四十年も昔の話ですもの。こう書いてくれば、ついでにその頃の時代色豊かな絵を書き入れたいと思うのですが、女学校卒業以来、絵というものを描いた事がなく…その頃はいともじょうずなつもりで居たものですが、手が武者振いするものですから。
とんだ脱線をしましたが、もしも人間の顔が神様が他人と見分けるためにつけられたその人のシンボルであるとするならば、アダ名は人間どもが贈ったその人の代名詞ではないでしょうか。我らのありがたき恩師のありし日のお姿と共に心に残るそのアダ名。本名は思い出せなくっても、教えられた算術の法則はしどろ、もどろになり、歌った唄の文句は忘れてもいつ迄も心に残るなつかしのアダ名、先生よ、アダ名がついたからとて嘆くなかれ。アダ名こそ教え子の心に残る永遠のフイニックス。アダ名をしゃべることによって昔にかえり、なつかしの絵巻が頭の中にくりひろげられるのだから。
小学校の頃を偲んで
美濃部 洋 子
(昭和五年三月卒業生)
母校八戸小学校が、この良き秋に九十周年記念式典を挙げるときいて、九十年という年月の中のある六年間に、私の幼い生活の足跡も刻みこまれていることを、今更のようになつかしく、深い感動をもって思い起しております。今、私の胸中に八小学校六年間の年令にかえった私と友達、そして先生方、若かりし頃の今は亡き父母の面影、今はもう忘れられかけている往時の八戸町の家並み、等々が美しい絵のように、詩のように浮んで来て、涙が出そうになったり、ほほえみをおさえきれなくなったりしております。
私は大正十三年に入学し、昭和五年に卒業したのですから、その間の思い出は、大体四十年前のことになります。入学したのは古い古い校舎でした。長い大きい建物で、何時の頃からか本州とか四国とかいう呼名のついた棟々がありました。一年生の教室は、本州のまん中頃で名物の年経た大きなサイカチの木がま近く見えたあたりでした。私はその頃のメイセンの着物に友禅メリンスのひふに、えび茶の袴で入学式に参りましたが、一年生の受もちは、浅水先生、山本先生、太田先生、福士先生方で、幼い生徒たちにはただただ畏敬のまとで、又、心のすみでは、うんと甘えたい思いもかきたてられる温情のあふれた先生方でした。入学間もない五月十三日の大火で一時避難所となって休校になった学校がやっと始まった時の嬉しさは大火の恐ろしさにもまして印象に残っております。二年生は同じ先生、三年になって、今から思えば、学力向上対策とでもいわれるような級編成があったり、四年で又組変え、五・六年は同じ組で小学校仕上げの勉強にはげんだことも、ありありと思い起されます。六年の時は四国へ転出?それは上、下で四教室ある渡り廊下つづきの一棟でした。四国の住入になってからは、最高学年の誇をもって、夕闇のせまる頃まで学校に居残っては、お裁縫などにもよく励んだものでした。
四年生から始まった裁縫も大分上達していて、曲りなりにもその頃ものにすることのできた、メリンスの一つ身は、十年余り後に、私の娘の、さとの母との初対面の時の晴着に役立って、三代に渡る母と娘の忘れ得ぬ思い出になって居ります。六年生の一学期の中頃、今の校舎が落成し私たちはめいめいの机や椅子を運んで引越しをしました。ここでこの新校舎第一回の卒業生になるのだという自覚にもえて、よく学びよく遊んで過した日々はただ楽しい思い出となって浮んで参ります。木の香の新しい校舎の床は、当時の長谷川協助校長先生はじめ全校の先生も生徒も一諸になって、汗を流し糠袋などで懸命にみがきをかけましたので、今も、たまに何かの会合などで訪れますと、素足で講堂の床板をふんでみたくなるほどなつかしく感じます。昭和五年三月、六年の受持ちだった正部家先生、熊谷先生(現田中先生)、山根先生、故満江先生方に御別れを惜しんで卒業した日の感激も今日はありありと思い起こして居ります。
童の頃の思い出
木 幡 清 甫
(昭和六年三月卒業生) 何か書く様との御命令ではあるが、小学校の頃から、何分にも四〇年近くも才月は流れている。自分では青年のつもりでいても、いたずらに馬齢を加え、年令だけは、先生なら教頭、校長クラスになっているのに驚く。
私が小学校に入った年の五月に、八戸の大火があり、今の八小のところは、その頃、農事試験場といわれ、そこに天幕村が張られ、罹災者の応急収容所にあてられた。その日は夕刻近くなっても、一望の焼野原のいたるところから余燼がくすぶり、元の市役所角にあった鐘楼が、一段と淋しげに目立っていた記憶がある。
一、二年の時の担任は鈴木先生(お名前は忘れた)で、お宅は上徒士町にあり、相当御年輩だった様な気がする。
三年生の時から、今はもう姿を消した名物のサイカチの木の下で、毎年写真を撮って貰ったが、幸にも戦災を免れて、それ等は今私の手許に残っている。どれもこれも懐かしい顔だが、何割かの名前は完全に忘れてしまった。
三年は、師範を卒業したばかりの江渡孝太郎先生で、まだ制服制帽のスタイルで登校されていた。今は市内の中学校長をされている筈だが、一度もお目にかかったことがない。
四年は、黒沢精一先生。後年八中の先生をしておられた時、二・三度お会いした。
五年は、溝江浩先生で、師範卒業後何年も経っていなかった様だ。八小(当時は八尋)野球部の生みの親ではなかったろうか。旧校舎の下にあった徒弟学校の畳の部屋で、柔道も仕込まれたが、ともかく元気な先生で、ビンタをとるのが得意であった。
六年には田中勝先生。おとなしい方であったが特別の印象は残っていない。
六年生の時、市制が布かれ、私共も旗行列やら提灯行列にかり出され、間もなく現在の校舎に引越した。だから、私共は今の校舎の第一回卒業生ということになった。
それから三十幾星霜を経たわけだが、私が今でも残念に思っていることが二つある。その一は、八小学校の卒業アルバムに、先生方の名前はあっても生徒の名前が一切載っていないことである。これでは顔の記憶があっても、簡単には名前を思い出す術がない。
その二は、私共のクラスでは、選挙に打って出る人がないからというわけでもあるまいが、小学校時代のクラス会を全然やらないことである。中学のは、年に二度位集まる機会があり、お互いに親交を深め、相扶け合っている。小学校時代の学友諸君も正に働き盛り、おのがじし、それぞれの道に於いて健斗していることとは思うのだが。
想い出
和 田 喜美子
(昭和六年三月卒業生)
なつかしい母校の創立九十周年記念を迎え心からお慶び申し上げます。
私たちの小学生時代の思い出はなんといっても古い校舎から新しい校舎へ引っ越しました五年生の時のことが一番深く心に残っております。広い校庭のまん中に高く一本つっ立っているポプラの下で夜空を赤々と染める焚火を囲んで全校生徒が旧校舎にお別れの会をいたしました。合唱やら遊ぎやらいろいろな催しが行なわれました。私たち五年生の有志は白い服でユーモレスクを踊リました。そのときの踊りの振りや焚火のほてりが三十余年も過ぎた今でもつい昨日のことのように思い出されます。旧校舎は今の市役所の場所に建っていて、離れ校舎の四国やトテ学校もある長い長い端から端まで行って見たくても迷路が多くて子どもひとりではうっかり歩けなかったくらい長くて薄暗い校舎でした。その旧校舎から今の明るい近代的な新校舎まで各自が机や椅子を持って長く敷き並べた「むしろ」を渡ってエッチラオッチラ引越したことも忘れ難いことの一つです。
青々とした畳のある作法室や裁縫室、広い講堂、理科室やその他の特別教室、広い廊下、シャッターのおりる防火壁、避難用のスベリ台等、何もかも新しく立派な校舎に目を見張り名実共に八戸一の校舎のできた喜びに、きれいな校舎をよりきれいにしようと糠袋で精を出してそうじしたものでした。そのころの八尋は中々進歩的で勉強や運動その他なんでも他校より抜きん出て強く、カップや優勝旗が応接室にズラリと並んでおりました。そのころ毎年催された登校合同の「子どもの夕べ」でも流浪の民の四部合唱等、今考えても本当にやれたのかしらと思うようなものを発表してピカ一的な存在でした。その伝統ある母校に今度は子どもたちがお世話になり「おかあさんの昔話」と、笑って冷やかしていたその子どもたちも十年後の百周年記念には私たちと同じように母校をなつかしみ八小に学んだ誇りをしみじみ味うことと思っております。
太田武美
(大正二年三月卒業生)
五十路会から六十路会になりて四年目、というのは私共は明治四十五年(十二月に大正に改元)に八戸尋常小学校を卒業したクラス会を今日まで連綿として持つ六十余才の仲間です。
尤も戦争の前後には、とぎれたこともあるが今尚廿余名の会合をやります。会場は長流寺やどこかでおよそ派手なものではないし、会長もありません。世話役の理事が数名あるだけ、物故の友の冥福を祈った後全く五十余年の昔にかえりて一杯やる。追加の会費はごきげんの頃合を見計りて座敷を托鉢?して景気のよい顔から寄附という仕組です。私共の一級あとには市長や松下総長、その他有名人がありますが私共の組は残念ながらドン栗のせいくらべです。
当時の恩師は加藤、類家、室岡、永山先生等甚だ恐縮ながらほとんどアダ名が今日追憶に偉大なる効果があるのには苦笑して居る次第です。
PTAなどの言葉は勿論ある筈もなくいたずら坊主は教室内においてすら先生のムチか棒かでやられたのですが、今日のように人権じゆうりんなどというやかましい問題もなくすべては師弟の愛敬と童心で割切って居たように思われます。
稲葉校長さんの教育勅語奉読の紫色のフクサに白手袋、そしてその手がかすかにふるえて居たことや、来賓の奈須川光宝代議士の立派なおヒゲや「赤手こ」の伝説のサイカチの木など遠い昔の想い出になりました。
茲に母校の創立九十周年の祝賀に際会する幸福と光栄を感謝してとりとめのない筆をおきます。
類 家 先 生
種 市 良 春
(大正四年三月卒業生)
明治四十一年四月、数え年七才のとき、八戸尋常小学校の一年生として入学した。一年の受持の先生は類家豊造という頭髪は短小、むしろ円満なる光頭。体躯堂々たる古武士を想わしむる先生。
私は、朔日町から六年生の兄と一諸に、始業一時間位前に登校するのが常だった。当時、現在の市庁前ロjタリーの高野槙の下に柵のような校門があり、明治天皇の行在所にもなったことのある明治建築様式の四角な八戸小学校の講堂があった。この校門と講堂とのあたりで、登校時の同じ類家先生と遭い、「種市、早いなあ」と高く叫ばれるのが今も耳にのこる。
類家先生は、体操遊戯の際には、陣太鼓を持ち出し、これを打ち鳴らしては私達の動作をかもし出さしめる。今も、三社大祭の長者山馬場にて打毬の太鼓に思いは昔に返る。
私は、一年と二年のニケ年に亘って、この先生に育てられた。そして、二年の終りの考査に、先生は、その当時の日本人としての教育根本理念であった「教育勅語」を毛筆で墨痕鮮やかに日本紙に書くことを問題としてだされた。
これができて、三年に進級、そして、副級長という白い毛糸に飾られた肩章が与えられることになった。
現在、八戸小学校校庭に街路樹の様にあるヒマラヤシーダは、昭和九年、私の植樹によるもので、私にとっては、生命ある記念となっている。
せんべいといわしの味
釜 萢 東 祐
(大正十年三月卒業生) この小学校に入学したのは、約五十年前のこと、青森から転住後、間もなくの大正四年の昔。絣の着物を着て、帯しめての登校、一文銭をもって、せんべいやあめ玉を買った想い出から始まり、薄暗い教室の中の、大きな火鉢に、あかあかと燃えている炭火を囲んでの、冬の物語りのうちに育っていった。
こうして、出張途中の快速列車で、半世紀もの昔の想い出を書こうとすれば、全く夢よりも淡い世界のことのような、そしてそれは南部せんべいの味がする。
低学年当時の想い出は、隣りにすわっていた中居松助君(八戸郵便局勤務)のこと、座席占有範囲や、持ちこんだお菓子のことでのいさかいを、ただよう雲のように想い起す。図画の手本にあったわらやねの家の模写が、どうしてもよくできなかったので、だだをこねたことも目に浮んでくる。
公衆衛生や予防保健も、十分でなかった当時であり、それに不作不況の時代で、体も弱かったせいもあって、虫歯と風邪になやまされ、欠席しがちだったようである。しかし三、四年頃から、港からたくさんとれて、安くてうまいいわしの味は、今もって忘れられない。頭も骨もみな食べる習慣がつき、健康な体になったのもそのためで、頭もついでに良くなったものと思われる。
四年生頃から、学校でローマ字を習った。英語は自学独習を志したのはよいが、単語の発音をビーオーオーケイなどと読んで止めてしまった。自動車が初めて八戸に来たといって見物に出かけたのもその頃。
五・六年生になると、上位成績の仲間入りができ、爪田亮君、晴山茂平君(八一高教頭)など、成績優秀な友だちの名前が出て来ます。担任の小向先生、隣の組担任の四戸先生の御教導の下に、よく学びよく遊んだことは今でもなつかしく強い印象に残っている。
家庭の事情で中学校に行けず、高等小学校に入り、その後で中学校・大学と進学できたのも夢のような幼心の中に育って、人間形成に大きな影響を与えて下さった小学校の先生と友だちにあったと思う。せんべいといわしの味こそ、小学校の思い出の味です。
子供四人とも八戸小学校にお世話になり、長男長女は大学卒業、二男は大学在学中、末子もすでに八高の二年生、想い出は子供たちに継がれて、母校の歴史も九十年。すべては敬意と感謝につきる。
追 憶 の 記
根 城 正一郎
(昭和三年三月卒業生) 創立九十周年にあたり学窓を巣立った頃の感慨を改めてしみじみと味わっています。八尋当時の苦しみ楽しさが懐かしく思い出されます。一番印象深く心に刻まれているのは岩手、青森二県少年野球大会に優勝したことです。毎日夕方七時過ぎまで猛練習にはげんだこと、中学校の受験準備のため教室が暗くなるまで勉強したこと、又私たちのグループが習字の時間水をこぼし下の教室で授業中の太田先生の頭をぬらして大目玉を頂戴し三時間も立たされたこと。あとでこの事件を作文にして担任の稲葉先生に出したら作文コンクールで第一位になり、講堂で朗読させられたあげく文集に出されたことなど思い出し、今更乍ら赤面の至りです 当時は野球は勿論競技、雄弁大会図画等県南第一の成績を上げ又同級の大橋君が県下学力コンクールで第一位をとるなど八尋の名声が高かったことを思い出します。
当時の男の先生の半数は和服に袴で女の先生は全部和服でした。私が五年の時父が東京土産に松坂屋から買って呉れた洋服を無理に着せられて学校に行った所、同じ日に同級の南部君も洋服姿で机についていました。友人から一日中ひやかされるので翌日から又元の着物に袴、下げカバンで通学したのをおぼえています。宿題を忘れたりやってこない場合よく余興をやらされました。えんぶりや三社大祭のはやし寅舞い太神楽等よく皆でやったものです。
今年の三社大祭で太鼓や笛を吹いている旧友を見つけた時昔を思い出し、思わず苦笑しました。校舎はコ型に建っていて中央は板で区切り男女別学だったのも今の子供たちには理解出来ないことで、野球で大活躍した同輩がハ中に進み甲子園大会に出場したのも八尋時代の練習の賜と思います。
先日私は卒業記念写真を偶然見つけて昔なつかしく眺めています。表紙に続く勅語詔書沿革を読み恩師旧友の昔の面影に接する時、六年間の母校での歩みが三十六歳月を乗り越えて浮きぼりにされ、はっきりとよみがえって来ます。今日の立派な学校内容にふれ、益々発展する母校の姿を見まして今昔の感を深くしています。
アダ名礼讃
富 岡 綾 子
(前校舎最後昭和四年卒業生) 「○○デブ、ブタおこりっぺ」とは、まるまる肥ったよくお小言をいう先生のアダ名。頭の禿げ上った先生は「止まると滑る」。やせて色が白く面長な先生は白描。御年配の束髪の先生は「ババサ」。
おでこが出っぱって四角いお顔の先生は南京豆先生。学校を出たばっかりの「五郎ちゃん」 「新ちゃん」と呼ばれる若い先生はアダ名のたぐいからは角度の違った愛称だったのかもしれない。
とに角、何時、誰が、何処で奉ったかもしれないアダ名が生徒間では通用していた。時は大正の末期から昭和のはじめにかけての旧校舎の私の小学校時代、男女七才にして席を同じうせずのことわざ通り小学校に人学した時から女生徒の組、男生徒の教室と、すっかり区分けされ、生徒の大半が和服に袴。二・三の洋服姿が人目をひいた時代の女生徒陣の間でかくも数多くのアダ名が氾濫していたのだから、お隣の男生徒陣は如何にと案じあげても考え損。男の子とおしゃべりでもしようものなら、不良という頭文字がつけられた時代。そうです、当時八戸一を誇った八戸尋常小学校といっても長い校舎のはしっこからはしっこ迄、ガランガランと腰の曲った小使さんが、ゆっくり鳴らして歩く鐘の音に授業が始まり授業が終った四十年も昔の話ですもの。こう書いてくれば、ついでにその頃の時代色豊かな絵を書き入れたいと思うのですが、女学校卒業以来、絵というものを描いた事がなく…その頃はいともじょうずなつもりで居たものですが、手が武者振いするものですから。
とんだ脱線をしましたが、もしも人間の顔が神様が他人と見分けるためにつけられたその人のシンボルであるとするならば、アダ名は人間どもが贈ったその人の代名詞ではないでしょうか。我らのありがたき恩師のありし日のお姿と共に心に残るそのアダ名。本名は思い出せなくっても、教えられた算術の法則はしどろ、もどろになり、歌った唄の文句は忘れてもいつ迄も心に残るなつかしのアダ名、先生よ、アダ名がついたからとて嘆くなかれ。アダ名こそ教え子の心に残る永遠のフイニックス。アダ名をしゃべることによって昔にかえり、なつかしの絵巻が頭の中にくりひろげられるのだから。
小学校の頃を偲んで
美濃部 洋 子
(昭和五年三月卒業生)
母校八戸小学校が、この良き秋に九十周年記念式典を挙げるときいて、九十年という年月の中のある六年間に、私の幼い生活の足跡も刻みこまれていることを、今更のようになつかしく、深い感動をもって思い起しております。今、私の胸中に八小学校六年間の年令にかえった私と友達、そして先生方、若かりし頃の今は亡き父母の面影、今はもう忘れられかけている往時の八戸町の家並み、等々が美しい絵のように、詩のように浮んで来て、涙が出そうになったり、ほほえみをおさえきれなくなったりしております。
私は大正十三年に入学し、昭和五年に卒業したのですから、その間の思い出は、大体四十年前のことになります。入学したのは古い古い校舎でした。長い大きい建物で、何時の頃からか本州とか四国とかいう呼名のついた棟々がありました。一年生の教室は、本州のまん中頃で名物の年経た大きなサイカチの木がま近く見えたあたりでした。私はその頃のメイセンの着物に友禅メリンスのひふに、えび茶の袴で入学式に参りましたが、一年生の受もちは、浅水先生、山本先生、太田先生、福士先生方で、幼い生徒たちにはただただ畏敬のまとで、又、心のすみでは、うんと甘えたい思いもかきたてられる温情のあふれた先生方でした。入学間もない五月十三日の大火で一時避難所となって休校になった学校がやっと始まった時の嬉しさは大火の恐ろしさにもまして印象に残っております。二年生は同じ先生、三年になって、今から思えば、学力向上対策とでもいわれるような級編成があったり、四年で又組変え、五・六年は同じ組で小学校仕上げの勉強にはげんだことも、ありありと思い起されます。六年の時は四国へ転出?それは上、下で四教室ある渡り廊下つづきの一棟でした。四国の住入になってからは、最高学年の誇をもって、夕闇のせまる頃まで学校に居残っては、お裁縫などにもよく励んだものでした。
四年生から始まった裁縫も大分上達していて、曲りなりにもその頃ものにすることのできた、メリンスの一つ身は、十年余り後に、私の娘の、さとの母との初対面の時の晴着に役立って、三代に渡る母と娘の忘れ得ぬ思い出になって居ります。六年生の一学期の中頃、今の校舎が落成し私たちはめいめいの机や椅子を運んで引越しをしました。ここでこの新校舎第一回の卒業生になるのだという自覚にもえて、よく学びよく遊んで過した日々はただ楽しい思い出となって浮んで参ります。木の香の新しい校舎の床は、当時の長谷川協助校長先生はじめ全校の先生も生徒も一諸になって、汗を流し糠袋などで懸命にみがきをかけましたので、今も、たまに何かの会合などで訪れますと、素足で講堂の床板をふんでみたくなるほどなつかしく感じます。昭和五年三月、六年の受持ちだった正部家先生、熊谷先生(現田中先生)、山根先生、故満江先生方に御別れを惜しんで卒業した日の感激も今日はありありと思い起こして居ります。
童の頃の思い出
木 幡 清 甫
(昭和六年三月卒業生) 何か書く様との御命令ではあるが、小学校の頃から、何分にも四〇年近くも才月は流れている。自分では青年のつもりでいても、いたずらに馬齢を加え、年令だけは、先生なら教頭、校長クラスになっているのに驚く。
私が小学校に入った年の五月に、八戸の大火があり、今の八小のところは、その頃、農事試験場といわれ、そこに天幕村が張られ、罹災者の応急収容所にあてられた。その日は夕刻近くなっても、一望の焼野原のいたるところから余燼がくすぶり、元の市役所角にあった鐘楼が、一段と淋しげに目立っていた記憶がある。
一、二年の時の担任は鈴木先生(お名前は忘れた)で、お宅は上徒士町にあり、相当御年輩だった様な気がする。
三年生の時から、今はもう姿を消した名物のサイカチの木の下で、毎年写真を撮って貰ったが、幸にも戦災を免れて、それ等は今私の手許に残っている。どれもこれも懐かしい顔だが、何割かの名前は完全に忘れてしまった。
三年は、師範を卒業したばかりの江渡孝太郎先生で、まだ制服制帽のスタイルで登校されていた。今は市内の中学校長をされている筈だが、一度もお目にかかったことがない。
四年は、黒沢精一先生。後年八中の先生をしておられた時、二・三度お会いした。
五年は、溝江浩先生で、師範卒業後何年も経っていなかった様だ。八小(当時は八尋)野球部の生みの親ではなかったろうか。旧校舎の下にあった徒弟学校の畳の部屋で、柔道も仕込まれたが、ともかく元気な先生で、ビンタをとるのが得意であった。
六年には田中勝先生。おとなしい方であったが特別の印象は残っていない。
六年生の時、市制が布かれ、私共も旗行列やら提灯行列にかり出され、間もなく現在の校舎に引越した。だから、私共は今の校舎の第一回卒業生ということになった。
それから三十幾星霜を経たわけだが、私が今でも残念に思っていることが二つある。その一は、八小学校の卒業アルバムに、先生方の名前はあっても生徒の名前が一切載っていないことである。これでは顔の記憶があっても、簡単には名前を思い出す術がない。
その二は、私共のクラスでは、選挙に打って出る人がないからというわけでもあるまいが、小学校時代のクラス会を全然やらないことである。中学のは、年に二度位集まる機会があり、お互いに親交を深め、相扶け合っている。小学校時代の学友諸君も正に働き盛り、おのがじし、それぞれの道に於いて健斗していることとは思うのだが。
想い出
和 田 喜美子
(昭和六年三月卒業生)
なつかしい母校の創立九十周年記念を迎え心からお慶び申し上げます。
私たちの小学生時代の思い出はなんといっても古い校舎から新しい校舎へ引っ越しました五年生の時のことが一番深く心に残っております。広い校庭のまん中に高く一本つっ立っているポプラの下で夜空を赤々と染める焚火を囲んで全校生徒が旧校舎にお別れの会をいたしました。合唱やら遊ぎやらいろいろな催しが行なわれました。私たち五年生の有志は白い服でユーモレスクを踊リました。そのときの踊りの振りや焚火のほてりが三十余年も過ぎた今でもつい昨日のことのように思い出されます。旧校舎は今の市役所の場所に建っていて、離れ校舎の四国やトテ学校もある長い長い端から端まで行って見たくても迷路が多くて子どもひとりではうっかり歩けなかったくらい長くて薄暗い校舎でした。その旧校舎から今の明るい近代的な新校舎まで各自が机や椅子を持って長く敷き並べた「むしろ」を渡ってエッチラオッチラ引越したことも忘れ難いことの一つです。
青々とした畳のある作法室や裁縫室、広い講堂、理科室やその他の特別教室、広い廊下、シャッターのおりる防火壁、避難用のスベリ台等、何もかも新しく立派な校舎に目を見張り名実共に八戸一の校舎のできた喜びに、きれいな校舎をよりきれいにしようと糠袋で精を出してそうじしたものでした。そのころの八尋は中々進歩的で勉強や運動その他なんでも他校より抜きん出て強く、カップや優勝旗が応接室にズラリと並んでおりました。そのころ毎年催された登校合同の「子どもの夕べ」でも流浪の民の四部合唱等、今考えても本当にやれたのかしらと思うようなものを発表してピカ一的な存在でした。その伝統ある母校に今度は子どもたちがお世話になり「おかあさんの昔話」と、笑って冷やかしていたその子どもたちも十年後の百周年記念には私たちと同じように母校をなつかしみ八小に学んだ誇りをしみじみ味うことと思っております。
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 13
禅師の人物観察とその指導方針
穆山禅師は、人を視ること敏にして細、真に適確でありまして、この点も驚嘆するものがあります。かつて、可睡斎を隠退される時に、私のあとに最もよい適任者がいるといって、日置黙仙師(後の永平寺禅師)を後住とした。日置禅師は穆山禅師のお目がねにかなって、可睡斎の経営は勿論のこと、穆山禅師の退隠後の御生活に対してはいうまでもなし、喜寿、米寿の祝寿会には率先して、知恩、報恩の御世話をなさり、遂に大本山永平寺不老閣猊下となられて最高の恩返しをした仁徳者であります。又前述の如く大本山総持寺移転復興の大事業には、素童和尚の方がよい、適時に退隠して、素童禅師に思う存分の力量を発揮させたればこそ今日の総持寺があるのであります。又、岸沢惟安師には、「お前は大きい寺に住職するな、お前は、漢学に自信がありすぎて宗乗に素直に入りくい癖があるから丘(丘宗潭)のところに行け、わしの研究し尽せなかった「五位顕訣元字脚」を、お前ならやれるから研究し尺してくれ、これはな、御開山様(道元禅師のこと)が支那(中国)より伝来せる「五位顕訣」を、洞水月湛師が、四十余年間も研讃してまとめた註解書であるから容易なことではない、けれども宗門の学問の根本をなすものだから一生かかってやってくれ」、と依嘱し、岸沢師をして、永平寺の西堂職を投げ捨てしめ永平寺貫首となることを回避せしめた。これは前にもふれたが、一時、宗制で、両大本山西堂は貫首欠けたる場合、即刻次の貫首に昇進すると規定された時がある。
その特、岸沢師は水平寺西堂であった。これを聞いた岸沢師は、「これは大変なことだ、師命にそむくことになる」といって、周囲のとめるのをきかず(法類並びに近親者は穆山師匠様が慕っていた高祖様のお膝もとの不老閣貌下にしたかったでしよう)無理やり辞職したのであります。そして岸沢師でなくては出来ない仕事である「五位顕訣元字脚」の研究を完成して、柳本師穆山禅師真前に備えたのであります。ひとり宗学者ばかりでなく宗門人は勿論のこと、ひろく道を求める者への大福音であります。数え来ればこうした穆山禅師の対機視察、対機相応指導といった事は無数であります。私達、宗教界に身を置く者、教育に従事するもの、社会指導の任にある者等に対する大なる教訓として模範とすべきことと思います。
ここに浄国禅師(西有穆山)が石川禅師に如何に期待をかけ、且つ信頼して居られたかの一証を左に記して、両禅師の本面目を偲びたいと思う。
牧牛素童和尚に示す(牧牛は石川禅師の号)
手裏一鞭時変に臨む
鼻繩の緩急吾が心に在り
ただまさに放牧して芳草に飼うべし
倒臥横眠烟雨深し(原漢詩)
手の裏に秘めた一鞭の秘策を、臨機応変に活用して、本山を移転再興する重荷な時機に相立ち向っている。
牛の鼻穴に通した繩を緩めて自由にするも、しめつけて自由を奮うも自分の心中にあって自由自在である。
(牧牛は)今は、ただ、ひたすら牧野に放って、滋味豊かな飼料を十分与えて力を養なって おくべきである。(時機を待て、自乗して自力を養なっておれ)。
身をぶったをして、よく眠るに、ふさわしい静かな牧場には、烟雨が深く垂れこめて、まことによい風景ではないか。
この牧牛和尚(浄国禅師の気持をくんでこう書かせて戴きます)が、穆山禅師の芳草を食みこみ、消化して、総持寺独住四世となってから、穆山禅師の肖像画に次の如く賛しています。
維持濁住第三世
宗説般々祖風を展じ
無辺の誓願無限を度し
堂に富って端坐して円通を現ず
眠松の鶴夢を驚かして心に吟じ
寫雁清雲の真に没す(原漢詩)
と、あります。穆素二禅師肝胆相照して、大本山東本復興の大事業を成就し、お互いにいたわりあい、ほめあっている様子がうかがわれて、嬉しく感じます。
石川禅師は明治三十八年四月十六日穆山禅師の後継者として、小田原の最乗寺より晋住し、営々辛苦十六年間、本山移転再興の大事業に精魂を打ちこんだのであります。移転計画が進むにつれ、移転反対派の放った刺客が石川監院をねらった事がしばしばであったといわれます。文字通り命をかけた移転推進であったのであります。こうした空気の中で、穆山禅師は陰に陽に石川禅師を励まし、また、穆山禅師在世中は勿論、禅師の随身門弟を本山の用僧として復興事業に助力せしめたのであります。また西有寺は二世玉田住職時代になっても、西有寺掛塔僧を本山に助力させたのであります。本山移転当初は、本山安居者よりも西有寺修行僧の方が、はるかに多かったのであります。西有寺専門僧堂が大本山総持寺分僧堂として運営された時もあり、両者相互扶助の関係はまことに親密でありました。
昭和二十年五月二十九日の大東亜戦末期に於けるアメリカ空軍の横浜大空襲は、広島市原子爆弾空襲前に於ける所謂ジュータン爆撃の最大のものでありました。この空襲により西有寺専門僧堂は、新増築の講堂教室を始め本堂衆寮等全滅しました。副寺兼教授の善浪舜童師は爆風を受けて殉職し、僧堂の一切の設備も灰塵に帰したのであります。この時大本山総持寺監院は、前西有寺専門僧堂、曹洞宗第八禅林林長たりし安藤文英老師でありました。監院老師は本山の建物一部疎開等の臨戦の万全の策を講じ、本山と共に死なんと泰然として本山を守護した功あって、一箇所も焼けなかったのであります。あれだけの大きな多くの建物があり、而も軍隊が宿泊していたのに京浜間の大本山で焼けなかったのは総持寺だけという不思議な現象となったのであります。
西有寺の安居僧は非常に多く、学徒動員された者も居りましたが、在籍残留者は皆、大本山専門僧堂に安居させて戴いた次第でありました。そして西有寺専門僧堂はその年を以て閉単となったのであります。財団法人西有専修学校はその後数年間、神奈川県知事が再建を望んで、そのまま生かして置きましたが、再建の望み立たざるに依り閉校となりました。現在西有寺には、西有寺専門僧堂、同禅林、及び曹洞宗第八禅林に安居修学した者を以て組織した「西有寺会」というものがあり、毎年西有禅師の祥月命日の十二月四日に全国から西有寺に集合して報恩の読誦回向をして居ります。この集会は、西有禅師の精神を復活して西有寺専門僧堂を再建してもらいたい念願をこめてのものであります。西有寺僧堂関係者で現存する方は、講師であった榑林皓堂前駒大総長・駒大教授・永久博士、可睡斎専門僧堂後堂小川達道老師を始めとして相当人教居りますからこうした尊宿方の御指導も受けて一日も早く僧堂開単するよう祈っております。かつての西有寺僧堂には百二十名もの安居者がありました。その魅力が何であったかというと、
第一は開山禅師の穆山精神を修得すること。
第二には師家講師陣の充実。
第三には看読実習は宗門規程以上にやったこと。
であると思います。従って私は右の条件を現代化した専門僧堂を西有寺に於て再現してほしいと願っております。
今や、総持寺、西有寺とも、大伽藍の完備を見、京浜間に相並んで、最高に発展していることは有難いことであります。
穆山禅師は、人を視ること敏にして細、真に適確でありまして、この点も驚嘆するものがあります。かつて、可睡斎を隠退される時に、私のあとに最もよい適任者がいるといって、日置黙仙師(後の永平寺禅師)を後住とした。日置禅師は穆山禅師のお目がねにかなって、可睡斎の経営は勿論のこと、穆山禅師の退隠後の御生活に対してはいうまでもなし、喜寿、米寿の祝寿会には率先して、知恩、報恩の御世話をなさり、遂に大本山永平寺不老閣猊下となられて最高の恩返しをした仁徳者であります。又前述の如く大本山総持寺移転復興の大事業には、素童和尚の方がよい、適時に退隠して、素童禅師に思う存分の力量を発揮させたればこそ今日の総持寺があるのであります。又、岸沢惟安師には、「お前は大きい寺に住職するな、お前は、漢学に自信がありすぎて宗乗に素直に入りくい癖があるから丘(丘宗潭)のところに行け、わしの研究し尽せなかった「五位顕訣元字脚」を、お前ならやれるから研究し尺してくれ、これはな、御開山様(道元禅師のこと)が支那(中国)より伝来せる「五位顕訣」を、洞水月湛師が、四十余年間も研讃してまとめた註解書であるから容易なことではない、けれども宗門の学問の根本をなすものだから一生かかってやってくれ」、と依嘱し、岸沢師をして、永平寺の西堂職を投げ捨てしめ永平寺貫首となることを回避せしめた。これは前にもふれたが、一時、宗制で、両大本山西堂は貫首欠けたる場合、即刻次の貫首に昇進すると規定された時がある。
その特、岸沢師は水平寺西堂であった。これを聞いた岸沢師は、「これは大変なことだ、師命にそむくことになる」といって、周囲のとめるのをきかず(法類並びに近親者は穆山師匠様が慕っていた高祖様のお膝もとの不老閣貌下にしたかったでしよう)無理やり辞職したのであります。そして岸沢師でなくては出来ない仕事である「五位顕訣元字脚」の研究を完成して、柳本師穆山禅師真前に備えたのであります。ひとり宗学者ばかりでなく宗門人は勿論のこと、ひろく道を求める者への大福音であります。数え来ればこうした穆山禅師の対機視察、対機相応指導といった事は無数であります。私達、宗教界に身を置く者、教育に従事するもの、社会指導の任にある者等に対する大なる教訓として模範とすべきことと思います。
ここに浄国禅師(西有穆山)が石川禅師に如何に期待をかけ、且つ信頼して居られたかの一証を左に記して、両禅師の本面目を偲びたいと思う。
牧牛素童和尚に示す(牧牛は石川禅師の号)
手裏一鞭時変に臨む
鼻繩の緩急吾が心に在り
ただまさに放牧して芳草に飼うべし
倒臥横眠烟雨深し(原漢詩)
手の裏に秘めた一鞭の秘策を、臨機応変に活用して、本山を移転再興する重荷な時機に相立ち向っている。
牛の鼻穴に通した繩を緩めて自由にするも、しめつけて自由を奮うも自分の心中にあって自由自在である。
(牧牛は)今は、ただ、ひたすら牧野に放って、滋味豊かな飼料を十分与えて力を養なって おくべきである。(時機を待て、自乗して自力を養なっておれ)。
身をぶったをして、よく眠るに、ふさわしい静かな牧場には、烟雨が深く垂れこめて、まことによい風景ではないか。
この牧牛和尚(浄国禅師の気持をくんでこう書かせて戴きます)が、穆山禅師の芳草を食みこみ、消化して、総持寺独住四世となってから、穆山禅師の肖像画に次の如く賛しています。
維持濁住第三世
宗説般々祖風を展じ
無辺の誓願無限を度し
堂に富って端坐して円通を現ず
眠松の鶴夢を驚かして心に吟じ
寫雁清雲の真に没す(原漢詩)
と、あります。穆素二禅師肝胆相照して、大本山東本復興の大事業を成就し、お互いにいたわりあい、ほめあっている様子がうかがわれて、嬉しく感じます。
石川禅師は明治三十八年四月十六日穆山禅師の後継者として、小田原の最乗寺より晋住し、営々辛苦十六年間、本山移転再興の大事業に精魂を打ちこんだのであります。移転計画が進むにつれ、移転反対派の放った刺客が石川監院をねらった事がしばしばであったといわれます。文字通り命をかけた移転推進であったのであります。こうした空気の中で、穆山禅師は陰に陽に石川禅師を励まし、また、穆山禅師在世中は勿論、禅師の随身門弟を本山の用僧として復興事業に助力せしめたのであります。また西有寺は二世玉田住職時代になっても、西有寺掛塔僧を本山に助力させたのであります。本山移転当初は、本山安居者よりも西有寺修行僧の方が、はるかに多かったのであります。西有寺専門僧堂が大本山総持寺分僧堂として運営された時もあり、両者相互扶助の関係はまことに親密でありました。
昭和二十年五月二十九日の大東亜戦末期に於けるアメリカ空軍の横浜大空襲は、広島市原子爆弾空襲前に於ける所謂ジュータン爆撃の最大のものでありました。この空襲により西有寺専門僧堂は、新増築の講堂教室を始め本堂衆寮等全滅しました。副寺兼教授の善浪舜童師は爆風を受けて殉職し、僧堂の一切の設備も灰塵に帰したのであります。この時大本山総持寺監院は、前西有寺専門僧堂、曹洞宗第八禅林林長たりし安藤文英老師でありました。監院老師は本山の建物一部疎開等の臨戦の万全の策を講じ、本山と共に死なんと泰然として本山を守護した功あって、一箇所も焼けなかったのであります。あれだけの大きな多くの建物があり、而も軍隊が宿泊していたのに京浜間の大本山で焼けなかったのは総持寺だけという不思議な現象となったのであります。
西有寺の安居僧は非常に多く、学徒動員された者も居りましたが、在籍残留者は皆、大本山専門僧堂に安居させて戴いた次第でありました。そして西有寺専門僧堂はその年を以て閉単となったのであります。財団法人西有専修学校はその後数年間、神奈川県知事が再建を望んで、そのまま生かして置きましたが、再建の望み立たざるに依り閉校となりました。現在西有寺には、西有寺専門僧堂、同禅林、及び曹洞宗第八禅林に安居修学した者を以て組織した「西有寺会」というものがあり、毎年西有禅師の祥月命日の十二月四日に全国から西有寺に集合して報恩の読誦回向をして居ります。この集会は、西有禅師の精神を復活して西有寺専門僧堂を再建してもらいたい念願をこめてのものであります。西有寺僧堂関係者で現存する方は、講師であった榑林皓堂前駒大総長・駒大教授・永久博士、可睡斎専門僧堂後堂小川達道老師を始めとして相当人教居りますからこうした尊宿方の御指導も受けて一日も早く僧堂開単するよう祈っております。かつての西有寺僧堂には百二十名もの安居者がありました。その魅力が何であったかというと、
第一は開山禅師の穆山精神を修得すること。
第二には師家講師陣の充実。
第三には看読実習は宗門規程以上にやったこと。
であると思います。従って私は右の条件を現代化した専門僧堂を西有寺に於て再現してほしいと願っております。
今や、総持寺、西有寺とも、大伽藍の完備を見、京浜間に相並んで、最高に発展していることは有難いことであります。
風の旅 風天弘坊
倉敷市という町
此処は岡山県にあるのは説明するまではないだろう。
太平洋戦争で我が国の隅々まで爆撃され、焼けつくし、果ては広島と長崎に原子爆弾を二つも落とされた。それまでの戦争の歴史でもっとも残忍な戦法で敗戦させられ、日本中、廃墟となり人間も数限りなく殺された。
だが、此処、倉敷市と京都市それに奈良にはただの一発の焼夷弾も落とすことはなかったのだ。
なぜか?あのB29爆撃機から雨の如く降らせたので爆弾が尽きたからか?
そんな筈はないだろう。敵は物量で勝負をかけるアメ公だった。皆殺しのバラード(小歌)は常套手段。いくらも離れていない岡山市は爆撃で数多くの死者が出て町は廃墟となった。
この理由を関係者はこう解釈した。世界的に貴重な美術品や文化遺産に、傷をつけ焼失してはならない。倉敷の大原美術館にはそれがある。敵の軍部でもそのような論議がなされたのだろうか。空爆は一切なかった不思議さは、明確なことは誰にも答えられないが、大原美術館が倉敷市を救ったのだった。
爆撃を予想し、貴重な作品はいち早く奥深い山中に運び出してはいた。すべては無傷であった。
戦争の歴史をみればわかるが戦勝国は戦利品として領土のほか、財宝も美術品も賠償金も手にすることができた。これらも勝利したら特定の人物によって山分けの相談などがあったものかどうか。あったろうな。
大原美術館は我が国で最初に創られた西洋美術館であることは多くが知るところだ。
修学旅行や一般の観光のルートにものせられ、数ある話題にも上る。今や世界で名だたる美術館のひとつになっている。
私は、しがない、銭がない、先がない、三拍子揃った?美術愛好者の一人として多くの美術品を観てきたが、由緒あるといわれるこの美術館は、写真や短い説明の刷り物でしか目にしたことがなかった。数々のいわれも内容も当然知らぬことだった。
初めての町に車を乗り入れる時にはラッシュ時間を避けての出入りを考慮する。目も手も足も頭も、老衰状態の爺が運転する車は真っ直ぐに走らないのだから危険このうえない。事故を引き起こしたら一巻の終り、命懸け!だ。
大都会は深夜でも煌煌とした灯火で不夜城のような佇まいが定番だが、此処は「なんでこんなにも暗い町なのか?」夜遅くに倉敷の町に入り、第一の印象であった。
美観地域という看板がある処に迷い込んだが「これも何を表しているのか?」不思議な場所であった。柳の並木のある小さな川沿いに小さな古めかしい建物がぎっしりと並び、さしずめ古い時代にタイムスリップか。映画の撮影セットのような感じでもある。かなり人工的な匂いも否めないが夜が明けて改めてこれらに接して見ると、驚きと感動に変るのだった。第一印象だけで物事を決定できないことを此処でも教えられたものだ。これについては、後に述べよう。
まずは大原美術館を語らずして此処、倉敷と言う町の説明はつかぬことであろう。
美術館はどのような経緯で創られ変遷を経てきたのか簡単に説明しておきたい。
現在、格子窓と白壁の町の中に忽然と建っているギリシャ神殿風の建物。これこそが倉敷の富豪、大原家の美術館だ。
六百ヘクタールに及ぶ広大な地主であった大原家は江戸時代から米穀、綿問屋を営み明治初期に大原孝四郎が起した紡績業で多大な利を興する。
明治十三年(1880)孝四郎の三男として誕生した孫三郎は大切に育てられ、(長男、次男は早世)やがて東京専門学校(現在の早稲田大学)に進むが若気の至りで放蕩の限りを尽くし、莫大な借金が焦げ付く。父親の命で連れ戻され “謹慎処分 ”の身となる。そんな事があったが、すっかり改心して家業の紡績会社に就職。父親の後を継ぐがこの若き二代目は次々と事業を展開発展させ中国地方、四国地方随一の実業化に成長する。倉敷紡績すなわち倉紡だ。
謹慎の時代に触れた二宮 尊徳の “報徳記 ”の影響とで力を注いだ社会事業のひとつ、大原奨学会の奨学生として東京美術学校(現東京芸術大学)に学び、後に生涯の友となる、画家・児島虎次郎を三度も渡欧をうながす。外地で制作に励むかたわら、虎次郎は絵画購入に奔走する。帝展審査員として活躍し、欧州でも高い評価を得ていた虎次郎は、非売品でも作者本人を拝み倒して巨匠たちの作品を次々に買い集めた数六十一点、いずれも名品である。現代、世界の名ある芸術家達は日本になぜこれほど貴重な作品があるのか?と驚嘆する。そして「奇跡だ」とまでいわれているのだ。
元気者だったが四十七歳、脳溢血で急逝する。親友の死に遭い、孫三郎の歎きは如何ばかりであったろうか。
昭和五年十一月五日(一九三〇)孫三郎は、前年に亡くなった友、児島虎次郎を想い、遠き国から海を渡り倉敷の地に運ばれた数々の美術品を公開した。いわば虎次郎の記念館そのものだった。
自宅の向かいに開館した日本初の私立西洋美術館、 大原美術館のスタートであった。
一般公開はこれより二十日後で入館料は三十銭。(当時としては上等な昼飯代ほどか)近在から押しかけた人達で行列ができ、町中が御祭り騒ぎのようであった。最初はなんでも物見遊山(見物して歩きまわること)だが、やがて見向きもしなくなるのが定石である。これほどの「宝の山」であっても、やがては来館者が一人もない日が続く憂き目にも遭うのだ。
先号でも述べたが「もの識らず、恥しらず」を自認する私だが此の美術館もいわゆる「あぶく銭」(現代風にはバブル景気で儲けた金か?)で儲けた金を用い、価値も解らずに、高価な作品を手当り次第に買い求めたものなのだろうか、と考えていたものだ。後日、幾つかの文献を目にして、恥ずかしいことに、これは大きく違っていた。
経済は生き物、魔物だ。昨日まで富んでいたものが今日は奈落の底、大原家も富んでいてばかりではなかった。特に繊維は生活に直接関するものだから浮き沈みが大きい。大原家存亡の危機に遭ったのは数え切れないという。昭和四年にも決算赤字は三七万円、社債借入金の累計は一八〇〇万円になった。現在の金で四〇〇億円にも達した。不況の波はここにも押し寄せた。こんなときに倉紡万寿工場女子従業員六二〇人が賃上げを要求してストライキに突入した。当時ガチャ萬と言われた時代には機織り機械が一回「ガチャリ」と動けば何萬円も儲かったこともあったが経済恐慌で逆のじり貧もあったのだ。それは現代であっても同じだ。揺るぎのないと言われる巨大な会社でも簡単に崩壊する報道は日常茶飯で耳にし目にする。こんなたいへんな時期に頼りにしていた児島虎次郎が亡くなる。
大原家が三代に渡る活躍の全部は紙面に限りあるので叶わぬが、要所だけでもとりあげてみよう。
どうして?倉敷という大きくもない都市に美術館、民芸館、考古館、天文台、病院、農業研究所、東洋一と折り紙をつけられた音楽堂の市民会館など立派な施設が集中しているのか?
放蕩者と呼ばれたこともあった美術好きの孫三郎が金にあかして道楽に建てたものではないのだ。
人間、変れればこうも変る。孫三郎は高い理想に燃える偉大な先駆者に生まれ変わっていた。彼が偉大なのは実業家としてより文化研究、社会事業の分野で今日も意味ある仕事を後世に残したことであろう。キリスト教に帰依 きえ (仏や神を信仰しその力にすがること)した石井十次と明治三二年(一八九九)に会見してから良き理解者となる。手始めのひとつ、明治三九年(一九〇六)東北地方の大凶作にあたって不孝にも孤児になった子供達一二〇〇人を収容するために岡山孤児院を各所に続々と創設した。従業員の為の病院も創った。この病院は後に一般市民にも開放されている。
志ある若者のために先代が創設した奨学金制度も枠を広げ、福祉事業も数え切れないほど展開したのである。
学者には研究の助成に莫大な金を投じる反面、自分の会社経営には一厘一毛(昔の金の単位で一厘は一円の千分の一)のムダも許さないが文化、社会事業には惜しみもなく湯水のごとく資金を投じたと言う。
現代社会でもそうだが人間の心は何時でも荒んでいるもので、そんな時に何か感動を与える優しさや可憐さに出遭うと平常心に戻れるのは説明をするまでもない。
「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。「経済的に恵まれない人々、高い位の教育を受けていないひと達の目にも触れさせたい」と心底思っていたのが覗われる。
若い頃からこの美術館を観たいものだと思い続けていた私はやっとの事でそれが叶って少し興奮気味だった。暗い町中を訳もわからず走ったら大きなレンガ造りの建物があり続いて広々とした吹曝しの駐車があった。アイビースクェア駐車場と表示してあるがなんのことか?無人の駐車場でせわしくないので此処で夜明かし、野宿だ。説明では午後五時から翌朝十時までで600円。
レンガ造りの建物はホテルとレストランそれに記念館を兼ねていた。アイビー学館と呼ぶ。IVY=アイビー=植物の蔦(ツタ)の意である。
この建物は明治から、昭和初期まで紡績工場として稼動していたものだ。機械の騒音を外部に洩らし住民に迷惑をかけてはいけないと、高価なレンガ造りにしたものだった。結果は現在でも充分に用いられ採算面でも満足のいくものになった。これに蔦が這い、壁面は緑に覆われ夏の暑さを和らげたことだろう。建物の中庭は広々としている。かつてここの紡績に携わった大勢の若い女工達がこの中庭でしばしの休憩時間に仲間との会話を楽しんであろう。そのような情景が目に浮かんでくるようだ。紡績女工の労働は過酷で現代の人達では想像もつくまい。
身体を壊し早世した女達も相当な数となったでろう。そんな理由でか、会社は病院も創立する。福祉、厚生施設をいち早く確立した。
当時、我が国の企業の状況は似たり寄ったりであったが此処だけは、そんな温かみのある職場で魅力があったであろうか。
国家は西欧の列強国に支配されないようにと頑張ったのだろう。労働を特に安く得るように考えたのである。現代、お隣の国Cのようにである。
おーとっと、また悪い癖が出て話が逸れた。
町に入った翌朝、九時開館の大原美術館に向かった。昨夜迷い込んだ町並みは倉敷川沿いに古めかしく瀟洒(しょうしゃ=オシャレ)な店がそれぞれに個性を売り物にしている。倉敷川は小さな川で屋形をかけた小舟で観光客を乗せ楽しませていた。(運河か?)
観光地と言う名の地では数多くのお土産店が付きもの、呼び込みなどでうるさくお客に声を掛けるものなのだが、此処ではそのような思いは全く無かった。
大原美術館の入り口に立ったのは開館時間九時の二十分前。もう、大勢のお客人が並んでいる、外人さんも多い。これを見ただけでも世界の大原美術館だと感心するばかり。
前にも述べたが旅に出るに時には下調べをして失敗のないようにと思うものだが、私の流儀ではその場の感動が減衰しないようにと予備知識は簡単にしていると言うよりほとんどしない。そんな訳(言い訳です)で入場料金も知らぬこと。一般一〇〇〇円、六五才以上八〇〇円、私は該当する。入り口で係の女性が「誠に申し訳ございませんが生年月日をおっしゃってくださいませ」と丁寧に聞いてくる。
美術館の目的はどんなことか?
何か?
前項の言葉が思い出される。「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。すぐれた美術品の鑑賞は心の情操に良い影響をあたえる。
すなわち来客に気持ちのよい環境を与えるのが一番の目的でなければならないのだ、と考える。
また、話しが逸れて申し訳ないのだが、まあ、聞いてくれ!
印象派でも印象が悪い、何処かの都市で税務署跡につくった ビン術館では「アンタ、シニア?」「貴方、死にーゃ」早く死んでくれ・・か?・・・・それとも、もっと金くれんか?とは大きな違いだ。服装が悪い?正装でネクタイを着用して来いと言いたいか?貧乏人はこんなところに来るんじゃない。アゴをしゃくって応対した受付の女性は悪印象派であった。
大原美術館の入り口のくぐり戸は小さい。身体の大きい外人さんは頭を打たないように屈んで入った。「だけど心理やなーこのほうが抵抗なく入りやすい」個人の住いを訪ねたときの雰囲気だ。
ギリシャ神殿風の建物に入った。ここは本館、あるわ、あるわ大きいの小さいの、名作が。本館はクロード・モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」のほか若かりし頃のピカソの作品もさわやかな風を感じる。
目玉はなんと言っても十七世紀初めの作と言われるエル・グレコ(1599_1603)の「受胎告知」だ。階段を上ってすぐの右にあった。なにか無造作に壁にかけていて、ちっとも高価な雰囲気はない。次号に続く
此処は岡山県にあるのは説明するまではないだろう。
太平洋戦争で我が国の隅々まで爆撃され、焼けつくし、果ては広島と長崎に原子爆弾を二つも落とされた。それまでの戦争の歴史でもっとも残忍な戦法で敗戦させられ、日本中、廃墟となり人間も数限りなく殺された。
だが、此処、倉敷市と京都市それに奈良にはただの一発の焼夷弾も落とすことはなかったのだ。
なぜか?あのB29爆撃機から雨の如く降らせたので爆弾が尽きたからか?
そんな筈はないだろう。敵は物量で勝負をかけるアメ公だった。皆殺しのバラード(小歌)は常套手段。いくらも離れていない岡山市は爆撃で数多くの死者が出て町は廃墟となった。
この理由を関係者はこう解釈した。世界的に貴重な美術品や文化遺産に、傷をつけ焼失してはならない。倉敷の大原美術館にはそれがある。敵の軍部でもそのような論議がなされたのだろうか。空爆は一切なかった不思議さは、明確なことは誰にも答えられないが、大原美術館が倉敷市を救ったのだった。
爆撃を予想し、貴重な作品はいち早く奥深い山中に運び出してはいた。すべては無傷であった。
戦争の歴史をみればわかるが戦勝国は戦利品として領土のほか、財宝も美術品も賠償金も手にすることができた。これらも勝利したら特定の人物によって山分けの相談などがあったものかどうか。あったろうな。
大原美術館は我が国で最初に創られた西洋美術館であることは多くが知るところだ。
修学旅行や一般の観光のルートにものせられ、数ある話題にも上る。今や世界で名だたる美術館のひとつになっている。
私は、しがない、銭がない、先がない、三拍子揃った?美術愛好者の一人として多くの美術品を観てきたが、由緒あるといわれるこの美術館は、写真や短い説明の刷り物でしか目にしたことがなかった。数々のいわれも内容も当然知らぬことだった。
初めての町に車を乗り入れる時にはラッシュ時間を避けての出入りを考慮する。目も手も足も頭も、老衰状態の爺が運転する車は真っ直ぐに走らないのだから危険このうえない。事故を引き起こしたら一巻の終り、命懸け!だ。
大都会は深夜でも煌煌とした灯火で不夜城のような佇まいが定番だが、此処は「なんでこんなにも暗い町なのか?」夜遅くに倉敷の町に入り、第一の印象であった。
美観地域という看板がある処に迷い込んだが「これも何を表しているのか?」不思議な場所であった。柳の並木のある小さな川沿いに小さな古めかしい建物がぎっしりと並び、さしずめ古い時代にタイムスリップか。映画の撮影セットのような感じでもある。かなり人工的な匂いも否めないが夜が明けて改めてこれらに接して見ると、驚きと感動に変るのだった。第一印象だけで物事を決定できないことを此処でも教えられたものだ。これについては、後に述べよう。
まずは大原美術館を語らずして此処、倉敷と言う町の説明はつかぬことであろう。
美術館はどのような経緯で創られ変遷を経てきたのか簡単に説明しておきたい。
現在、格子窓と白壁の町の中に忽然と建っているギリシャ神殿風の建物。これこそが倉敷の富豪、大原家の美術館だ。
六百ヘクタールに及ぶ広大な地主であった大原家は江戸時代から米穀、綿問屋を営み明治初期に大原孝四郎が起した紡績業で多大な利を興する。
明治十三年(1880)孝四郎の三男として誕生した孫三郎は大切に育てられ、(長男、次男は早世)やがて東京専門学校(現在の早稲田大学)に進むが若気の至りで放蕩の限りを尽くし、莫大な借金が焦げ付く。父親の命で連れ戻され “謹慎処分 ”の身となる。そんな事があったが、すっかり改心して家業の紡績会社に就職。父親の後を継ぐがこの若き二代目は次々と事業を展開発展させ中国地方、四国地方随一の実業化に成長する。倉敷紡績すなわち倉紡だ。
謹慎の時代に触れた二宮 尊徳の “報徳記 ”の影響とで力を注いだ社会事業のひとつ、大原奨学会の奨学生として東京美術学校(現東京芸術大学)に学び、後に生涯の友となる、画家・児島虎次郎を三度も渡欧をうながす。外地で制作に励むかたわら、虎次郎は絵画購入に奔走する。帝展審査員として活躍し、欧州でも高い評価を得ていた虎次郎は、非売品でも作者本人を拝み倒して巨匠たちの作品を次々に買い集めた数六十一点、いずれも名品である。現代、世界の名ある芸術家達は日本になぜこれほど貴重な作品があるのか?と驚嘆する。そして「奇跡だ」とまでいわれているのだ。
元気者だったが四十七歳、脳溢血で急逝する。親友の死に遭い、孫三郎の歎きは如何ばかりであったろうか。
昭和五年十一月五日(一九三〇)孫三郎は、前年に亡くなった友、児島虎次郎を想い、遠き国から海を渡り倉敷の地に運ばれた数々の美術品を公開した。いわば虎次郎の記念館そのものだった。
自宅の向かいに開館した日本初の私立西洋美術館、 大原美術館のスタートであった。
一般公開はこれより二十日後で入館料は三十銭。(当時としては上等な昼飯代ほどか)近在から押しかけた人達で行列ができ、町中が御祭り騒ぎのようであった。最初はなんでも物見遊山(見物して歩きまわること)だが、やがて見向きもしなくなるのが定石である。これほどの「宝の山」であっても、やがては来館者が一人もない日が続く憂き目にも遭うのだ。
先号でも述べたが「もの識らず、恥しらず」を自認する私だが此の美術館もいわゆる「あぶく銭」(現代風にはバブル景気で儲けた金か?)で儲けた金を用い、価値も解らずに、高価な作品を手当り次第に買い求めたものなのだろうか、と考えていたものだ。後日、幾つかの文献を目にして、恥ずかしいことに、これは大きく違っていた。
経済は生き物、魔物だ。昨日まで富んでいたものが今日は奈落の底、大原家も富んでいてばかりではなかった。特に繊維は生活に直接関するものだから浮き沈みが大きい。大原家存亡の危機に遭ったのは数え切れないという。昭和四年にも決算赤字は三七万円、社債借入金の累計は一八〇〇万円になった。現在の金で四〇〇億円にも達した。不況の波はここにも押し寄せた。こんなときに倉紡万寿工場女子従業員六二〇人が賃上げを要求してストライキに突入した。当時ガチャ萬と言われた時代には機織り機械が一回「ガチャリ」と動けば何萬円も儲かったこともあったが経済恐慌で逆のじり貧もあったのだ。それは現代であっても同じだ。揺るぎのないと言われる巨大な会社でも簡単に崩壊する報道は日常茶飯で耳にし目にする。こんなたいへんな時期に頼りにしていた児島虎次郎が亡くなる。
大原家が三代に渡る活躍の全部は紙面に限りあるので叶わぬが、要所だけでもとりあげてみよう。
どうして?倉敷という大きくもない都市に美術館、民芸館、考古館、天文台、病院、農業研究所、東洋一と折り紙をつけられた音楽堂の市民会館など立派な施設が集中しているのか?
放蕩者と呼ばれたこともあった美術好きの孫三郎が金にあかして道楽に建てたものではないのだ。
人間、変れればこうも変る。孫三郎は高い理想に燃える偉大な先駆者に生まれ変わっていた。彼が偉大なのは実業家としてより文化研究、社会事業の分野で今日も意味ある仕事を後世に残したことであろう。キリスト教に帰依 きえ (仏や神を信仰しその力にすがること)した石井十次と明治三二年(一八九九)に会見してから良き理解者となる。手始めのひとつ、明治三九年(一九〇六)東北地方の大凶作にあたって不孝にも孤児になった子供達一二〇〇人を収容するために岡山孤児院を各所に続々と創設した。従業員の為の病院も創った。この病院は後に一般市民にも開放されている。
志ある若者のために先代が創設した奨学金制度も枠を広げ、福祉事業も数え切れないほど展開したのである。
学者には研究の助成に莫大な金を投じる反面、自分の会社経営には一厘一毛(昔の金の単位で一厘は一円の千分の一)のムダも許さないが文化、社会事業には惜しみもなく湯水のごとく資金を投じたと言う。
現代社会でもそうだが人間の心は何時でも荒んでいるもので、そんな時に何か感動を与える優しさや可憐さに出遭うと平常心に戻れるのは説明をするまでもない。
「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。「経済的に恵まれない人々、高い位の教育を受けていないひと達の目にも触れさせたい」と心底思っていたのが覗われる。
若い頃からこの美術館を観たいものだと思い続けていた私はやっとの事でそれが叶って少し興奮気味だった。暗い町中を訳もわからず走ったら大きなレンガ造りの建物があり続いて広々とした吹曝しの駐車があった。アイビースクェア駐車場と表示してあるがなんのことか?無人の駐車場でせわしくないので此処で夜明かし、野宿だ。説明では午後五時から翌朝十時までで600円。
レンガ造りの建物はホテルとレストランそれに記念館を兼ねていた。アイビー学館と呼ぶ。IVY=アイビー=植物の蔦(ツタ)の意である。
この建物は明治から、昭和初期まで紡績工場として稼動していたものだ。機械の騒音を外部に洩らし住民に迷惑をかけてはいけないと、高価なレンガ造りにしたものだった。結果は現在でも充分に用いられ採算面でも満足のいくものになった。これに蔦が這い、壁面は緑に覆われ夏の暑さを和らげたことだろう。建物の中庭は広々としている。かつてここの紡績に携わった大勢の若い女工達がこの中庭でしばしの休憩時間に仲間との会話を楽しんであろう。そのような情景が目に浮かんでくるようだ。紡績女工の労働は過酷で現代の人達では想像もつくまい。
身体を壊し早世した女達も相当な数となったでろう。そんな理由でか、会社は病院も創立する。福祉、厚生施設をいち早く確立した。
当時、我が国の企業の状況は似たり寄ったりであったが此処だけは、そんな温かみのある職場で魅力があったであろうか。
国家は西欧の列強国に支配されないようにと頑張ったのだろう。労働を特に安く得るように考えたのである。現代、お隣の国Cのようにである。
おーとっと、また悪い癖が出て話が逸れた。
町に入った翌朝、九時開館の大原美術館に向かった。昨夜迷い込んだ町並みは倉敷川沿いに古めかしく瀟洒(しょうしゃ=オシャレ)な店がそれぞれに個性を売り物にしている。倉敷川は小さな川で屋形をかけた小舟で観光客を乗せ楽しませていた。(運河か?)
観光地と言う名の地では数多くのお土産店が付きもの、呼び込みなどでうるさくお客に声を掛けるものなのだが、此処ではそのような思いは全く無かった。
大原美術館の入り口に立ったのは開館時間九時の二十分前。もう、大勢のお客人が並んでいる、外人さんも多い。これを見ただけでも世界の大原美術館だと感心するばかり。
前にも述べたが旅に出るに時には下調べをして失敗のないようにと思うものだが、私の流儀ではその場の感動が減衰しないようにと予備知識は簡単にしていると言うよりほとんどしない。そんな訳(言い訳です)で入場料金も知らぬこと。一般一〇〇〇円、六五才以上八〇〇円、私は該当する。入り口で係の女性が「誠に申し訳ございませんが生年月日をおっしゃってくださいませ」と丁寧に聞いてくる。
美術館の目的はどんなことか?
何か?
前項の言葉が思い出される。「すぐれた美術作品は、本来、人間の所産であり人々の心を歓ばせ、満たし、情操を高めるものである」と後の大原美術館長 藤田 慎一郎氏は述べている。きっと大原 孫三郎もそのように心に刻んでいたのだろう。すぐれた美術品の鑑賞は心の情操に良い影響をあたえる。
すなわち来客に気持ちのよい環境を与えるのが一番の目的でなければならないのだ、と考える。
また、話しが逸れて申し訳ないのだが、まあ、聞いてくれ!
印象派でも印象が悪い、何処かの都市で税務署跡につくった ビン術館では「アンタ、シニア?」「貴方、死にーゃ」早く死んでくれ・・か?・・・・それとも、もっと金くれんか?とは大きな違いだ。服装が悪い?正装でネクタイを着用して来いと言いたいか?貧乏人はこんなところに来るんじゃない。アゴをしゃくって応対した受付の女性は悪印象派であった。
大原美術館の入り口のくぐり戸は小さい。身体の大きい外人さんは頭を打たないように屈んで入った。「だけど心理やなーこのほうが抵抗なく入りやすい」個人の住いを訪ねたときの雰囲気だ。
ギリシャ神殿風の建物に入った。ここは本館、あるわ、あるわ大きいの小さいの、名作が。本館はクロード・モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」のほか若かりし頃のピカソの作品もさわやかな風を感じる。
目玉はなんと言っても十七世紀初めの作と言われるエル・グレコ(1599_1603)の「受胎告知」だ。階段を上ってすぐの右にあった。なにか無造作に壁にかけていて、ちっとも高価な雰囲気はない。次号に続く
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