このようにして北転船が二百海里問題でカムチャッカを閉め出される迄、昭和四十三年度から逐次すり身生産が増大。
昭和四十九年三万五千㌧
昭和五十二年三万四千㌧
五十三年一万㌧
五十四年六千五百㌧
五十五年四千㌧
五十六年四千㌧
五十七年二千㌧
期間は十二月から翌年四月頃迄を最盛期に、水産加工業界は助宗鱈を原料としてガラ切、すり身生産、タラ子生産に追われました。昭和五十七年以降練製品業者が自家用に北海道から助宗ガラを購入、すり身を作る状態になりました。
十、排水処理 (公害問題)
助宗すりみ生産に付随して、問題となったのは昭和四十二年八月から施行された、公害対策基本法による水質汚濁防止問題でありました。
たまたま新井田川で鮭が死んで浮上する事件があり、川ぞいにある水産加工場が流出する排水が原因だと指摘されました。水産加工場はそんなに多数あった訳ではなく、家庭排水も大きな要因でしたが、県条例で上乗せのきびしい基準が設定されました。すり身を生産をする為には大量の水を使いますので、この排水を処理するには億単位の設備投資をしなければなりません。
違反すると罰金刑が科せられますので大量の水を処理する為、加圧浮上法で処理する他ありません。業界でも色々検討の結果、八戸が全国にさきがけてやろうと言う事になり、日東化学の子会社のネスコに依頼し第一号機の設置に踏切りました。電力費、添加剤等ランニングコストもかかりますが、前向きに対処したわけです。業界でも続々と設備しましたが、浜市川に水産加工団地が造成され、夢の大橋も実現し交通が便利になった事もあり、ミール工場をはじめすり身生産、その他の水産加工場も移転しました。
そして共同汚水処理施設の事業主体は八戸市、施設の管理運営には八戸水産加工団地協同組合(組合長町田勝男氏)が当りました。資金調達は公害防止事業団で、その後脱臭装置なども設置されました。共同汚水処理施設の一日の処理能力は百㌧でした。すり身の生産は終りましたが鯖の処理、いかの処理等で汚濁された排水の処理をする必要があり、排水量も一日二百㌧余りになりましたので、よりきれいな水にする為、今は活性汚泥法で処理しています。余剰汚泥の脱水装置もつけましたので、更に一億五千万円程度設備にかかり、ランニングコストも電力費、添加剤と莫大にかかりますが、環境保全のためには必要経費と思っています。
十一、日本の多獲性魚の供給について
日本をとりまく海で漁獲され多獲される魚 はイカ、鯖、秋刀魚、鰯をあげられると思います。国民のとる蛋白質の四十%は魚で補給していると聞いていますが日本は自給自足出来ているでしょうか。イカは日本の近海だけでは供給不足で大型船をつくりニュージーランド、アルゼンチン迄出かけ漁獲しています。その他太平洋の真中迄出かけ赤いかをとり、更にペルー、コスタリカ、メキシコ等に行きアメリカオオアカイカを漁獲しています。総体的に供給が増えると価格が暴落しますし、供給不足だと暴騰します。消費者に供給する役目を負っている流通加工業者も高いいかを保管していて高いが故に販売しそこなうと、次の年獲れ過ぎて暴落すれば、その差額分目減りして赤字になります。
又漁業者も沢山獲っても半値以下に下ると採算が取れないでしょう。結局一番困るのは安定した供給を受けられぬ消費者だと思います。秋刀魚は調整組合があり、獲り過ぎると休漁する為、資源が安定し供給されています。
さて鰯と鯖ですが、今年は激減し、小さい一年魚が主体ですがこれを獲りつくすと、来年から資源はなくなるでしょう。平成八年度海洋法が批准されました。平たく言うと日本の二百海里内にいる魚は、日本だけのものではなく世界のものですよ、だから資源を大切にして安定供給出来る様にし、あまれば外国にもわけて下さいと言う様に私は理解しています。
(排他的経済水域とは、沿岸国の権利と自由通航の確保という矛盾する要請を同時に満足させるための方策として考え出されたものである。200海里もの広範な領海を設定していた国の主張を経済的主権に限定して認める代わり、自由航行のできる水域を確保したのである。排他的経済水域において全ての国は、航行、上空飛行、海底電線・海底パイプラインの敷設が出来る)
平成九年一月一日からタックが施行され漁獲規制されたと聞いていますが、過去三年間の平均の数量に規制されただけとうかがっています。現状は四、三、二年魚は殆んど獲りつくされ、卵を生めない一年魚がとれています。従って零才魚も生れておらずほんの僅かしかとれていない様です。之で果して安定的に国民に供給出来るのでしょうか。然も一年魚ではせいぜい一部缶詰に使われるだけで、あとはハマチの飼料にするか、ミールにして飼料にするだけです。国民に食料として安定供給出来るでしょうか、漁業者の方々は、価値の少ない故に安くしか売れない魚をとれば、来年以降自分達が困るという事は一番御存知の筈です。
然し獲らなければ経営が行きづまると言う切実ななやみで、泣く泣く獲っておられると思います。どうか国民の為、食料になる魚を安定供給出来る様、対策を講じて頂き度いと思います。私達流通加工業者は鯖を消費者に供給する為、ノルウェーから輸入して居ります。ノルウェーでは昔から資源を大切にして資源の状況にあわせて漁獲規制をして来ました。その為に毎年同じ組成で大きい魚、中位の魚、小さい魚が獲れて来ました。唯一度だけあやまちを起こしました。それはEUに加盟するかもしれぬと言う事で実績をつくる為、二十%位多く獲りました。国民投票でEUに加盟せぬ事に決まり、漁獲量を元の通りに減らしましたが、時すでにおそく資源にひびき、次の年から三十五%カットする事にしました。
(「鯖は世界中に「真鯖」「ゴマ鯖」「ノルウェー鯖」の三種類。ノルウェー鯖は北欧が主な産地で遠い為、鮮度が今ひとつと言われるので、生のものは出回らず冷凍が主、スーパーなどで見られるのは、「ノルウェー鯖」で背中の柄が青黒色に近く、クッキリしている。脂が豊富、惣菜向きだが大味。」)
今年も前年通り漁獲枠を減らしましたが、大きい魚が減りました。冷凍能力は漁獲量の二倍になっていますから浜値は昨年は前年の二倍になり、今年も更に高くなっています。之を輸入し消費者に供給しなければなりませんから、消費者は高い鯖を買わなければならない訳です。高すぎて販売出来ないと加工業者は、出血して売らなければなりません。之も日本国内の鯖がとれなくなった為です。以上、申述べました様に今年はタックに入れられていないイカも含めて、四大多獲性魚だけでも効果の期待できる漁獲規制をして、国民 (消費者)に安定供給出来る政策を抜本的に実施して下さる様、関係の皆様に御願い致します。
十二 武輪水産㈱経営(なりわい)の山と谷
八戸水産業界の変遷につき一通りふれて参りましたが、武輪水産㈱自体の経営につきふり返って見度いと思います。企業経営は長期計画を立て常に外的要因を考慮に入れながら、憤重な運営をしなければなりませんが、それでも常に安定した経営は至難の業だと思います。まして経験不足のまま、万全の角度から検討せずに、実行に移した場合には大きな落し穴があります。
今振り返って見れば創業当初の一を二に、二を四にと確実な運営を自己中心に続けて来た時は、比較的安定していましたが、一度経営が軌道に乗り業界と共に繁栄しよう、其為には常に自己本位ではなく、奉仕の理想を中心に行動しようと考えて実行する様になってからは、外界の影響が大きく響く様になったと思います。奉仕の考え方は今でも正しかったと考え、今後も一貫して行き度いと思いますが、外部と関係のある場合はあらゆる角度から慎重に検討する必要があると次第に考える様になりました。之も経験の積重ねがあったからと思います。
(第一の谷間)
昭和二十三年創業、たった一人で旗揚げ。
昭和三十一年四月資本金五百万円の武輪商店株式会社に組織変更、従業員四十名。
昭和三十六年資本金二千万円
昭和三十八年武輪水産に社名変更
昭和四十一年、四千九百万円に増資
原料貯蔵の冷凍冷蔵工場を建造、増設し、逐次加工場も増築し乾燥装置、いか塩辛・加工のオートベルトコンベヤー装置等設置。
昭和三十八年、珍味工場を増築し珍味加工品の生産に乗り出す。
昭和三十九年九月販売網拡張の為東京営業所を設置し、その後珍味製品の生産販売高は上昇の一途をたどり、更に珍味工場を増築。従業員五五〇名(男九五名女四五五名)。
昭和四十一年度営業報告書に珍味の売上が前年の倍増(数量約六百t金額三億七千万円)で総売上の三分の一を占め、償却後の純利益八千五百万円に達し、会社設立以最高額を計上。(創業十九年で東北一の売上高を誇る加工場にのし上がった。人間の力の偉大さを知る)
来期は珍味の五割増産を計画し、更に原料確保の為、冷凍工場(凍結三六㌧、冷蔵一、四〇〇㌧)を新設する事に決定し、二月初旬工事着工に踏切り六月末日完成の予定でした。まさに最高の山場であった訳であります。処が幸時魔多しと申しますが、昭和四十二年六月第二冷蔵工場完成直後、本社事務所内で終業後厳禁してあった会社内での飲酒をした従業員達があり、電気温沸器で薬缶に酒を入れ温めたまま退社した為、薬缶が燃え上り事務所より出火し、たちまち工場にもえ移り主力工場二棟及び隣接していた冷蔵工場二棟全焼の大惨事をひき起しました。幸い隣家にも多大の迷惑もかけず、さきいか工場も残り、又新設の冷蔵工場も利用出来ましたので、従業員全員に翌日より操業再開の旨告げました。之が第一の谷間となりました。
水産加工場焼く(デーリー東北新聞昭和四十二年七月十二日号)
消防士一人が殉職
濃霧と狭い道
消火に四時間も
昭和四十二年七月十一日早暁、八戸市鮫町下手代森、武輪水産会社=武輪武一社長(五二)=の鮮魚処理工場南西すみにある従業員詰め所から火が出て、発見が遅れたため火は天井づたいに燃え広がり、同鮮魚処理工場とむね続きの乾燥室、隣接の民家をなめつくしたうえ、鮮魚処理工場とわずかな通路をへだてた冷凍工場にも燃え移り、合計三むね、二千七百平方米を全焼した。冷凍工場には窓らしい窓がないため火は中でくすぶり続け、かけつけた十五台の消防自動車は手のほどこしようがなく消火に手間取り、鎮火したのは出火から四時間以上もたった午前七時だった。八戸署の調べによると原因は前夜、従業員詰め所の電気コンロのスイッチを切り忘れて帰宅したためとわかった。工場設備と鮮魚、製品などを合わせると損害は二億円にものぼる。この火事で冷凍工場と乾燥工場の間の通路で消火に当たっていた消防士一人が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルの下敷きになって死亡したほか、消防署員二人が十日から二週間のけがをした。
損害二億、電気コンロの不始末で
火が出たのは午前三時少し前ごろらしい。発見したのは出火場所とブロックのへい一つへだてて隣合わせている会社員高橋五郎さん(三一)で「バリ、バリッ」とガラスが割れるような音で目をさましたという。高橋さんはてっきり泥棒だと思い起きてみたところ、武輪水産の従業員詰め所が火につつまれていた。そのあとあわてて一一九番に通報したが、みるみるうちに火は工場全体に燃え広がった。また高橋さんが発見したころ、武輪水産でもお手伝いの長根洋子さん(二○)が火事に気がつき当直員を起し、消防署に連絡する一方、消防自動車が入れるように門を開けた。しかも通報を受けてかけつけた消防自動車は現場付近の狭い道路と濃い霧に前方をさえぎられ、現場に到着したときは鮮魚工場と乾燥室のあるむね全体が火につつまれていたほか、高橋さん方と通路をへだてた冷凍工場まで火が燃え移っており手のほどこしようがなかった。冷凍工場は木造モルタル造りで火は中で燃え広がり、ここの消火だけで三時間を費やすほどだった。
同冷凍工場には最近仕入れたばかりだったサケ・マス百三十五㌧五千万円をはじめ、カズノコ十三t、イカ二百tなど合わせて一億円の冷凍品がはいっていたが、この火事でほとんど売り物にならなくなり、乾燥機三台が据付けられていた工場建物と合わせて損害は二億円にのぼる。八戸署の調べによると原因は前日午後五時ごろ作業終了後、従業員二十一人で酒を飲み始めたが、その際、酒を飲まない人がいたため電気コンロでお茶を沸かし、同九時ごろ帰宅どきスイッチを切らなかったことから過熱したもの。
この火事で乾燥工場と冷凍工場の通路で消火作業をしていた八戸市是川新田、消防士上杉武男さん(四○)が冷凍工場からくずれ落ちたモルタルカベの下敷きとなり、青森労災病院に運ばれたが頭の骨を折って午前五時ごろ死亡したほか、消防士長浜田松雄さん(三九)が右足に二週間、消防士榊輝美さん(二二)が背中に十日間のけがをした。同市の消防署員の殉職は昭和三十二年の八戸警察署の火事のさいの池田豊消防司令長に次いで戦後二人目。
なおこの火事で工場が使用するアンモニアガスボンベの爆発が心配されたが、同社はこれを地下貯蔵の設備を完成していたため大事を未然に防いだ。付近には鮫小学校や民家が密集しており、一時は延焼も心配されたが、風が全く無かったのと水の便がよかったのでくい止めることができた。
売上げ東北一の水産加工会社
火事にあった武輪水産は昭和二十三年の創業で、珍味品、冷凍品などを生産するほか、鮮魚の出荷も扱い年間の売り上げ額は十億円を越え、水産加工品では東北一を誇っている。従業員は五百七十人。
焼け跡を見つめる武輪社長はすでに再建の意欲を見せ「従業員のうち半数が臨時やパートタイマーだが解雇するようなことはせず、あすからでも残った工場で操業を始める。いまへこたれてはこれまで援助してくれた人たちに申し訳ない。幸いこのほど新しい冷凍工場が完成したばかりなのでこれまで以上にがんばるつもりだ」と語っていた。
戦後二人目の犠牲
小杉消防士を二階級特進
殉職した八戸消防署消防士、小杉武男(四○)は八戸市吹上の生まれ。昭和二十三年海上消防団とん所を振り出しに鮫出張所、湊出張所を経てことし四月本署に転任したばかりだった。同僚の間では最優秀職員の表彰も受け、まじめな性格と、仕事熱心で評判がよかったという。家庭は妻ミヤさんと女だけ三人の小学生と長男の雅永ちゃん(五歳)が残され、近所の人や同僚が同情を寄せている。小杉さんは野山を歩くことが好きで休みにはよく山菜とりに出かけていたという。
殉職についてある同僚は「消防士は自分の身のことは十分気をつけて消火作業をするが、私でもあの場合、小杉さんと同じ位置で作業をしただろう」といっていた。八戸消防署では小杉さんに二階級特進の司令補とした。葬儀も消防葬として十五日午後一時から願栄寺で行なう予定である。なお消防署員の殉職は戦後二人目。
わざわいを転じて福となすたとえもありますが、焼け跡を同業者多数の応援で整理し、当時としては始めての鉄骨コンクリート三階建の建物をつくり、冷蔵工場は本社工場完成後一年後に之又三階建に改築し、跡地の一部は熱風乾燥機三基、冷風乾燥機一基収容の乾燥工場に改築、サキイカ増産に備えました。焼失した建物及び冷蔵工場内の原料及び製品に火災保険をかけて居りましたので実質的な損害はあまりなく、操業も利益のあるサキイカ中心に行いましたので、昭和四十二年度も約七千万円の利益を計上出来ました。
2008年1月1日火曜日
赤字解消のあとにくるもの 市政展望・デーリー東北新聞記者 佐藤信三
一億四千余万円の赤字に悩み、この解消のため八戸市はさる昭和三十一年度、地財再建法いわゆる地方財政再建促進特別措置法の適用を受けた。予算編成などに自治庁の了解を必要とすることなどから、ヒモ付き財政などといわれ、市議会でも革新派などの反対を押し切っての強硬手段だったが、結果的には、地財再建法の適用が効を奏した格好となり、その後の財政事情は好転の一途をたどって、計画を三年短縮し三十四年度限りで地財法から脱却することになった。この関係議案が議会の議決を得たのは三十四年九月定例会である。
しかし、一億四干余万円のぼう大な赤字がわずか四ヵ年で整理出来たということは、ひとり地財法だけの功労ではなかった。計画的な財政運営が確かに赤字整理に一役買ったことは否めないにしても、税収の大巾な増加がなかったら、自治庁のヒモ付き返上はいまなおむずかしかったのではないかと思われる。それほど同市の税収増は飛躍的なものだった。すなわち、東北電力が八戸火力発電所を建設し、日曹製鋼が八戸工場を建てるなど同市政の数年来の合言葉だった『工業誘致』がようやく結実して稼動を始め、固定資産税を含む税収入が増え、ヤリクリ算段の財政事情に、潤かつ油的役目を果したのである。考えようによっては地財法による財政再建計画の実施という主体条件が四とすれば、大工場の進出による税収の増加など外的条件が六で初めて再建団体脱却が可能だったのかも知れないのである、
ともかくこうして八戸市は四年ぶりで自主団体となった。三十五年度の市政を展望するのにこの事実を見逃がすことは出来ない。ということは、これまで再建債の償還に振り向けていた数千万円の貴重な予算を、いいかえれば、借金の返済金を市の単独事業に振替え可能となったわけで、思うような仕事を自分の裁量で進め得る情勢を切り開いたことを意味する。税金は住民に還元すべきだ、ということを政治の第一義とするなら、市政事者はまずこの事実を市民ともどもよろこんでいいはずである。まして三十五年度には市政施行三十周年記念事業も予定されている。再建団体脱却後の初年度が三十年記念とちょうど合致したことは大いに意義がある。いよいよ壮年期に入る八戸市がほんとうの意味のおとなの政治」を執行する気構えなら、いかにして税金を市民に還元しようとするのか、まずは三十五年度の予算内容を期待したい。
それにしても八戸市には、やらなければならない仕事が山積している。東北一の臨海工業都市といわれ、その事実が、自他ともに認められつつあるにしても、しょせん同市は地方の小さな田舎町に過ぎない。なるほど、火力発電所をはじめ近代的な工場群の煙突が櫛比(しっぴ・櫛くしの歯のようにほとんど隙間なく並んでいること)]している状態は、さすがに偉容だが、このかげに隠れている街の実情は余りも貪寒たるものがある。「明後日と一昨日が同居している都市」といわれたところで返す言葉ががない現実である。立派な構想が見事に青写真に描かれていても遅々として進まない都市計画事業。道路は狭くデコボコ。側溝も下水道も整備されずにハエやカがバッコし、小児マヒや赤痢の多発で不潔都市の名をほしいままにしたさきごろの実例。すし詰教室がいまだなお解消されず、文化的な施設も皆無という有様では全く「おととい都市」の名に恥じないものがある。従ってこんごの八戸市の大きな課題は、工業都市としての港湾づくりなど立地整備をまず第一にあげなければならないのはもちろんだが、これと併せ、街づくりを重点的にとり上げるべきであろう。
では、街づくりを市理事者はどう進めていくというのだろう。税収が増えたといっても同市の財政規模は約十一億円、人件費その他の消費的経費を差し引けば投資的経費はたかが知れている。しかもこのなかには港湾整備の負担金なども含まれており、純然たる街づくりに振り向けられる額はさして大きいものではない。これを効率的に用い、市民の福祉増進をはかるため、理事者はどのような方策を特っているかは、まだ明らかにされていないが、重点的な施策以外に、予算の効率的運営はとうてい考えられないと思う。しかし理想と現実にはやはり食い違いが現われそうである。と、いうのは、三十五年度予算にはまず市庁舎建設費(四~五千万円程度)を計上しなければならないし、市庁舎の建設に関連して、図書館の新築も不可欠である。市庁舎と図書館に億に近い予算を振り向ければあとはもう残された予算のワクは少ない。衛生的な街づくりが全市民からひとしく望まれたところで、この要望にこたえうる施策を三十五年度に期待してもとうていムリというもの。理事者はこうしたギャップをどう克服しようというのか判らないが、まず総花式な予算編成は絶対避けるべきであろう。年次計画で進めてもいい。ほんとうに市民の福祉が増進できるような施策を重点的にとり上げて、腰を据えた仕事をやってもらいたいものである。
工業都市の立地整備は曲りなりにも軌道に乗り始めた。一万トン埠頭は三十五年度末で接岸可能の段階に入ったし、この埠頭を含めた港湾整備の再検討が港湾協会によって進められ、さらに飛躍的な港づくりが行われようとしている。長い間の懸案だった輸送施設増強問題も、国鉄当局と市ならびに市総会振興会数度の会合でようやく最終的な計画が打ち出され、国鉄側の改良計画会議に付議された。工業用水道計画もやがて着工の運びとなろうし、八太郎第二工業港の問題も具体化の様相を帯びてきた。従って、この面でのこんごの展開は、いまのところ悲観すべき材料は皆無である。理事者が情勢の判断を誤らぬ限り、これらの整備事業は一頓座を来たすことはまず考えられないようである。まずは順風満帆の「岩徳丸」の航行といってよいのではないか。
また繰り返すようだが、一方でこのように順調に仕事が進んでいるからこそ、街づくりの遅滞は見逃せないのである。ようやく赤字団体から脱却できたからといってその反動で派手な仕事を期待するのは危険だが四年間のヒモ付き財政の惰性による「石橋を即いて、そして、なお渡らない」式の消極性もいけない。堅実な財政運営は市民のために避けるべぎでないが、堅実過ぎていたずらにカラのなかに閉じこもってはかえって大きなマイナスである。前向きの姿勢で、意欲をみなぎらせた街づくりの構想を市民のまえに明らかにし三十五年度をその足がかりの年としてもらいたいと思う。衛生センターの問題、住宅行政の積極化、道路行政の再検討、そして都市計画事業の推進等々。場当り主義の施策は現段階の八戸市では、その発展にブレーキをかけることは明らか。まず百年の大計を樹立すべきである。
岩岡市政は安定した与党勢力にささえられている。この情勢が、岩岡市政に逆に安易さを生んで、日和見主義的な事態を招じた事実も過去にはあったようである。また、与党勢力の安定化は、議会内でも微妙な影響力となって、野党側の対抗意識を多少鈍らせたのも事実である。悪くいえば「長いものに巻かれろ」式の誤まった観念が議会を支配していたことは否めない。従って、まず岩岡市長に望みたいのは。与党の勢力を念頭におかないで毅然とした『市政への熱情』を燃やしてほしいということだ。自らの考えで自らの方策を打ち出し、そして議会の支持を得るべきである。公選首長の正しい生きかたはこれ以外にはない。議会内の動きに心を配り、選挙民の人気を考えるなど右顧左弁することは、公選首長の正しい道ではなかろう。市議会もまた自らの義務を果たすに忠実であってほしい。他会派とのカケヒキのみに終始し、重要案件を一瀉千里のカケ足審議で議決してしまうようなこれまでの悪弊は、この際きれいに一掃してもらいたいもの。要は、市政という『生きもの』は、市民を忘れて、成り立たない。結局、市理事者、市議会ともども、ともかく市民の福祉を第一義として、施策を打ち出してほしい。これは北方春秋に記載されたもの。立派な論理に裏打ちされた卓見。
しかし、一億四干余万円のぼう大な赤字がわずか四ヵ年で整理出来たということは、ひとり地財法だけの功労ではなかった。計画的な財政運営が確かに赤字整理に一役買ったことは否めないにしても、税収の大巾な増加がなかったら、自治庁のヒモ付き返上はいまなおむずかしかったのではないかと思われる。それほど同市の税収増は飛躍的なものだった。すなわち、東北電力が八戸火力発電所を建設し、日曹製鋼が八戸工場を建てるなど同市政の数年来の合言葉だった『工業誘致』がようやく結実して稼動を始め、固定資産税を含む税収入が増え、ヤリクリ算段の財政事情に、潤かつ油的役目を果したのである。考えようによっては地財法による財政再建計画の実施という主体条件が四とすれば、大工場の進出による税収の増加など外的条件が六で初めて再建団体脱却が可能だったのかも知れないのである、
ともかくこうして八戸市は四年ぶりで自主団体となった。三十五年度の市政を展望するのにこの事実を見逃がすことは出来ない。ということは、これまで再建債の償還に振り向けていた数千万円の貴重な予算を、いいかえれば、借金の返済金を市の単独事業に振替え可能となったわけで、思うような仕事を自分の裁量で進め得る情勢を切り開いたことを意味する。税金は住民に還元すべきだ、ということを政治の第一義とするなら、市政事者はまずこの事実を市民ともどもよろこんでいいはずである。まして三十五年度には市政施行三十周年記念事業も予定されている。再建団体脱却後の初年度が三十年記念とちょうど合致したことは大いに意義がある。いよいよ壮年期に入る八戸市がほんとうの意味のおとなの政治」を執行する気構えなら、いかにして税金を市民に還元しようとするのか、まずは三十五年度の予算内容を期待したい。
それにしても八戸市には、やらなければならない仕事が山積している。東北一の臨海工業都市といわれ、その事実が、自他ともに認められつつあるにしても、しょせん同市は地方の小さな田舎町に過ぎない。なるほど、火力発電所をはじめ近代的な工場群の煙突が櫛比(しっぴ・櫛くしの歯のようにほとんど隙間なく並んでいること)]している状態は、さすがに偉容だが、このかげに隠れている街の実情は余りも貪寒たるものがある。「明後日と一昨日が同居している都市」といわれたところで返す言葉ががない現実である。立派な構想が見事に青写真に描かれていても遅々として進まない都市計画事業。道路は狭くデコボコ。側溝も下水道も整備されずにハエやカがバッコし、小児マヒや赤痢の多発で不潔都市の名をほしいままにしたさきごろの実例。すし詰教室がいまだなお解消されず、文化的な施設も皆無という有様では全く「おととい都市」の名に恥じないものがある。従ってこんごの八戸市の大きな課題は、工業都市としての港湾づくりなど立地整備をまず第一にあげなければならないのはもちろんだが、これと併せ、街づくりを重点的にとり上げるべきであろう。
では、街づくりを市理事者はどう進めていくというのだろう。税収が増えたといっても同市の財政規模は約十一億円、人件費その他の消費的経費を差し引けば投資的経費はたかが知れている。しかもこのなかには港湾整備の負担金なども含まれており、純然たる街づくりに振り向けられる額はさして大きいものではない。これを効率的に用い、市民の福祉増進をはかるため、理事者はどのような方策を特っているかは、まだ明らかにされていないが、重点的な施策以外に、予算の効率的運営はとうてい考えられないと思う。しかし理想と現実にはやはり食い違いが現われそうである。と、いうのは、三十五年度予算にはまず市庁舎建設費(四~五千万円程度)を計上しなければならないし、市庁舎の建設に関連して、図書館の新築も不可欠である。市庁舎と図書館に億に近い予算を振り向ければあとはもう残された予算のワクは少ない。衛生的な街づくりが全市民からひとしく望まれたところで、この要望にこたえうる施策を三十五年度に期待してもとうていムリというもの。理事者はこうしたギャップをどう克服しようというのか判らないが、まず総花式な予算編成は絶対避けるべきであろう。年次計画で進めてもいい。ほんとうに市民の福祉が増進できるような施策を重点的にとり上げて、腰を据えた仕事をやってもらいたいものである。
工業都市の立地整備は曲りなりにも軌道に乗り始めた。一万トン埠頭は三十五年度末で接岸可能の段階に入ったし、この埠頭を含めた港湾整備の再検討が港湾協会によって進められ、さらに飛躍的な港づくりが行われようとしている。長い間の懸案だった輸送施設増強問題も、国鉄当局と市ならびに市総会振興会数度の会合でようやく最終的な計画が打ち出され、国鉄側の改良計画会議に付議された。工業用水道計画もやがて着工の運びとなろうし、八太郎第二工業港の問題も具体化の様相を帯びてきた。従って、この面でのこんごの展開は、いまのところ悲観すべき材料は皆無である。理事者が情勢の判断を誤らぬ限り、これらの整備事業は一頓座を来たすことはまず考えられないようである。まずは順風満帆の「岩徳丸」の航行といってよいのではないか。
また繰り返すようだが、一方でこのように順調に仕事が進んでいるからこそ、街づくりの遅滞は見逃せないのである。ようやく赤字団体から脱却できたからといってその反動で派手な仕事を期待するのは危険だが四年間のヒモ付き財政の惰性による「石橋を即いて、そして、なお渡らない」式の消極性もいけない。堅実な財政運営は市民のために避けるべぎでないが、堅実過ぎていたずらにカラのなかに閉じこもってはかえって大きなマイナスである。前向きの姿勢で、意欲をみなぎらせた街づくりの構想を市民のまえに明らかにし三十五年度をその足がかりの年としてもらいたいと思う。衛生センターの問題、住宅行政の積極化、道路行政の再検討、そして都市計画事業の推進等々。場当り主義の施策は現段階の八戸市では、その発展にブレーキをかけることは明らか。まず百年の大計を樹立すべきである。
岩岡市政は安定した与党勢力にささえられている。この情勢が、岩岡市政に逆に安易さを生んで、日和見主義的な事態を招じた事実も過去にはあったようである。また、与党勢力の安定化は、議会内でも微妙な影響力となって、野党側の対抗意識を多少鈍らせたのも事実である。悪くいえば「長いものに巻かれろ」式の誤まった観念が議会を支配していたことは否めない。従って、まず岩岡市長に望みたいのは。与党の勢力を念頭におかないで毅然とした『市政への熱情』を燃やしてほしいということだ。自らの考えで自らの方策を打ち出し、そして議会の支持を得るべきである。公選首長の正しい生きかたはこれ以外にはない。議会内の動きに心を配り、選挙民の人気を考えるなど右顧左弁することは、公選首長の正しい道ではなかろう。市議会もまた自らの義務を果たすに忠実であってほしい。他会派とのカケヒキのみに終始し、重要案件を一瀉千里のカケ足審議で議決してしまうようなこれまでの悪弊は、この際きれいに一掃してもらいたいもの。要は、市政という『生きもの』は、市民を忘れて、成り立たない。結局、市理事者、市議会ともども、ともかく市民の福祉を第一義として、施策を打ち出してほしい。これは北方春秋に記載されたもの。立派な論理に裏打ちされた卓見。
秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 2
八中時代
水産とは別の道へ
私が八戸中学校に入学したのは大正十三年。実は、その前の年に八中を受験したんですが、落第してしまったのです。湊小からは私も含めて五人が受験したんですが、全員ダメでした。先生には「出来の悪い子供たちだ」と、こっぴどくしかられました。
当時は湊小から進学する人は、ほとんどが水産学校へ行く。私の兄やいとこたちもみんな水産学校でした。私は二人兄第ですが、二人とも水産をやることもなかろう、別な進へ進もうと考えて八中を選んだのです。
私の叔父で秋山倉吉という人がいます。八中で、元八戸市長だった夏堀悌二郎さんと同級生。倉吉は八中四年生の時に士官学校を目指して勉強していた最中に、急性肺炎で亡くなっています。
後年、夏堀さんが「君の叔父さんが生きていればなあ」とよく言っていましたが、非常に優秀な人だったそうです。祖父にとっては末っ子で、かなり期待もしてたんでしょう。
私が八中を目指して夜遅くまで勉強していると、隣の部屋で寝ている祖父が「皐二郎、夜遅くなった。寝るんだ」と声を掛ける。「ああ、ウチのジジイは倉吉叔父のこと思い出して、オレを心配してくれてるんだなあ」と。あの時の声を、しみじみ思い出します。
浜須賀から大杉平まで小一時間歩いて通学
祖父・初代熊五郎は、私が八中に入ったのを見届けるように、一年生の十二月二十九日に世を去りました。葬儀の時、素足にワラジばきで浜須賀から海安寺まで兄が位はい、私が写真を持って歩きました。足が冷たかったのを覚えています。
八中に入って驚いたのは、八戸小や長者小などから来ている生徒が大変に優秀だったこと。私の入学時の成績は全学年百五十人中八十番ぐらいでした。これは、相当頑張らないといかんなあ、と思いました。かなり本気で勉強して、一年の終わりには学年で七、八番になりました。
それから驚いたのは柔道部。体育の授業では、柔道か剣道どちらかを正課としてやらなくてはならない。私は背が低いから剣道は不向き。柔道を取ったんですが、道場に行ったらものすごいのが居る。後で聞いたら湊中校長の前田(正吉)さんのおやじさん。無敵といわれた八中柔道部でしたから、中学校という所は大変な所だと感じました。
通学は浜須賀から山越えして湊橋を渡り、小中野にあった蝦名商店の息子で今は大阪の箕面に居ます同期生の保三君と一緒に大杉平まで歩く。足腰が随分鍛えられて、四十五分ほどで浜須賀から大杉平まで歩けるようになりました。通学の時は必ず靴。ゲタを履く時は「今般、靴修理のため、何月○日~○日まで、下駄使用を許可願いたい」という届けを出さないとダメだったんです。校内では特に規定はなかったんですが、全員、厳寒の中でも素足。ヘタに何かはいたりすると「ニヤけるな」とビンタを食らう。
真冬に靴箱をずーっと見ていくと、たった一足だけ「スベ」、つまりワラグツがある。これをはいてくるのが大久保弥三郎。大変なバンカラで、小中野から素足にスベで歩いてくる。
四年終了で旧制弘高へ進み、後に仙台で振東塾というのを開く。天城山で満州国皇帝の一族愛新覚羅慧生と一緒に亡くなった大久保武道は弥三郎の息子なんです。その頃八戸には中沢直道を中心にした東天塾があり、堀野虎五郎元八戸市議会議長も参加していました。
南郡大鰐町の町長を務めた油川久栄さんも卒業は私と同じ昭和四年。弘前中学校から八戸中学にやってきた。卒業後のクラス会にもよく出て来ました。先の(平成二年三月)国体スキー競技会を成功させた今の油川和世町長は油川さんの息子さんで、さすが、わが同期の息子と思います。よくやったものです。
陸上部に入ったが胸患い運動禁止
八中一年の秋の運動会で、湊から行っている悪童連で「マラソンさ出るべ」というわけで出場した。コースは大杉平~湊橋往復。毎日、通っている道だから…というので走った。
そのうち、だんだんに周囲の人間が居なくなった。旧魚町あたりまで来たら応援していただれかが「オイ、秋山お前は四番目だぞ」。「ヨーシ」というんで頑張った。湊橋を折り返して、間もなく、もう一人を抜いて三位人賞。
早速、陸上競技部から誘いがかかりました。「秋山、すごいんじゃないか。競走部に来て、駅伝を走れ」というわけです。当時、駅伝というと青森~弘前駅伝。大釈迦の峠を越えて走る。八中は、それまで一回も優勝したことがなく、津軽勢が強かったんです。
やるしかないなと決意したのですが、二年生になって夏休みが終わったら、胸が痛み出した。診察を受けたら「乾性ろく膜炎」。一年間、運動禁止になって体育の授業も受けられなくなった。
二学期の試験なんかも休んだりしたものですから、一年生の時に七、八番までいった成績が三十六番に下がってしまいました。私のいとこがそれを聞いて「いやいや皐二郎、お前、大したもんだ。試験受けなくても三十六番だ。百五十人の中だからなあ」と変なほめ方をされました。
マラソンの思い出では、胸が痛くなる前の大正十四年の六月。この時もマラソン大会があり、ランニングシャツにパンツ姿で、グラウンドに出ていたら小中野大火。近くの生徒は「すぐ帰れ」ということで帰された。
私も母の実家が小中野でしたから、手伝いに走った。気が付いてみたらランニングにパンツひとつ、とても火事場に行く格好じゃない。火事場に行けなくて、知り合いの果物店で片付けるのを手伝って、もう一度学校へ戻って服を着て帰った。「なんと知恵の足りないやつ」と思い返すたびに冷や汗が出ました。
八中二年の終わりごろに、叔父・秀之肋の命令で、三重県の四日市から秋田まで、製品の売上代金の回収に行きました。四日市に水谷さんという家があって、そこヘシラウオの佃煮を出荷していたんです。
私の家でシラウオをアメとしょうゆで炊いた佃煮の粗製品をタルに人れて出荷していた。塩だけで煮たシラ煮も浅箱に人れて出していた。その粗製品を水谷さんのところで精製して、製品として売っていたんでしょう。その点ではわが家の加工というのは、かなり進んでいました。
この時期に、それまで手こぎ船でやっていた巻き網漁に機械力を導入しようというので、船頭二人を茨城県の大洗へ派遣して動力船による巻き網漁法を勉強させて、昭和三年に八戸では初めて動力船で巻き網を始めたんです。
野球部マネジャーに
昭和三年というのは、私にとっても忘れられない年でした。なんといっても最高の晴れ舞台、甲子園へ出場したんですから。
病気が洽って三年生になった二学期のこと。運動部のマネジャーを決める時期に柔道部から頼みにきた。私が「高等学校に行きたいから」と断ったら次に野球部がきた。「いや、ダメだ」と言ったんだが「どうしても、お前しかいない」と言う。
「オレは柔道部を断ったのだ。今さら野球部のマネジャーを引き受けるわけにはいかん」と言ったら「そっちはわれわれで話をつけるから、なんとしても」と説得されて、引き受けるハメになってしまったのです。
当時の野球部は、監督は有名な大下常吉さんだったんですが、早稲田を卒業して「わが住む所は日本広しといえども、この町しかない」というわけで、北海道・帯広市で今の農協みたいなところに勤務されていた。
時々、八中に顔を出して練習スケジュールを十日分ぐらい作って、マネジャーの私に渡して「秋山、ちゃんとやれ」と言って帰って行く。初体験 の野球で、いきなり監督業まで引き受けてしまったわけです。
本を読んで野球勉強
運動部のマネジャーというのは、予算の分捕り合戦をやる。柔道部は後に浅虫病院長になった沼畑哲三君。テニス部は南部直久君。野球部は私という顔ぶれでした。
野球部のマネジャー兼監督を引き受けたものの、私自身は野球をやった経験は無かったので、本を読んだりして一生懸命勉強しました。大下常吉さんは基本に厳しい人で、毎日二十分間はキャッチボールをきちんとやれと言う。相手の胸元にボールを返すようにと、きつく注意されました。
鍛えてくれた諸先輩
先輩で我々を鍛えてくれたのは、五年上で投手だった高島勝治さん。高島さんのころは東北大会は六県一本でした。大正十四年に奥羽大会が分かれて青森、秋田、山形の三県で甲子園出場を争うようになったのです。
高島さんは東北大会で五連投して決勝まで進んだのですが、最後は疲れ切って仙合一中に敗れた経験を持っています。現在、華道小原流の八戸支部長を務めておられる高島一華さんの長兄です。
水産とは別の道へ
私が八戸中学校に入学したのは大正十三年。実は、その前の年に八中を受験したんですが、落第してしまったのです。湊小からは私も含めて五人が受験したんですが、全員ダメでした。先生には「出来の悪い子供たちだ」と、こっぴどくしかられました。
当時は湊小から進学する人は、ほとんどが水産学校へ行く。私の兄やいとこたちもみんな水産学校でした。私は二人兄第ですが、二人とも水産をやることもなかろう、別な進へ進もうと考えて八中を選んだのです。
私の叔父で秋山倉吉という人がいます。八中で、元八戸市長だった夏堀悌二郎さんと同級生。倉吉は八中四年生の時に士官学校を目指して勉強していた最中に、急性肺炎で亡くなっています。
後年、夏堀さんが「君の叔父さんが生きていればなあ」とよく言っていましたが、非常に優秀な人だったそうです。祖父にとっては末っ子で、かなり期待もしてたんでしょう。
私が八中を目指して夜遅くまで勉強していると、隣の部屋で寝ている祖父が「皐二郎、夜遅くなった。寝るんだ」と声を掛ける。「ああ、ウチのジジイは倉吉叔父のこと思い出して、オレを心配してくれてるんだなあ」と。あの時の声を、しみじみ思い出します。
浜須賀から大杉平まで小一時間歩いて通学
祖父・初代熊五郎は、私が八中に入ったのを見届けるように、一年生の十二月二十九日に世を去りました。葬儀の時、素足にワラジばきで浜須賀から海安寺まで兄が位はい、私が写真を持って歩きました。足が冷たかったのを覚えています。
八中に入って驚いたのは、八戸小や長者小などから来ている生徒が大変に優秀だったこと。私の入学時の成績は全学年百五十人中八十番ぐらいでした。これは、相当頑張らないといかんなあ、と思いました。かなり本気で勉強して、一年の終わりには学年で七、八番になりました。
それから驚いたのは柔道部。体育の授業では、柔道か剣道どちらかを正課としてやらなくてはならない。私は背が低いから剣道は不向き。柔道を取ったんですが、道場に行ったらものすごいのが居る。後で聞いたら湊中校長の前田(正吉)さんのおやじさん。無敵といわれた八中柔道部でしたから、中学校という所は大変な所だと感じました。
通学は浜須賀から山越えして湊橋を渡り、小中野にあった蝦名商店の息子で今は大阪の箕面に居ます同期生の保三君と一緒に大杉平まで歩く。足腰が随分鍛えられて、四十五分ほどで浜須賀から大杉平まで歩けるようになりました。通学の時は必ず靴。ゲタを履く時は「今般、靴修理のため、何月○日~○日まで、下駄使用を許可願いたい」という届けを出さないとダメだったんです。校内では特に規定はなかったんですが、全員、厳寒の中でも素足。ヘタに何かはいたりすると「ニヤけるな」とビンタを食らう。
真冬に靴箱をずーっと見ていくと、たった一足だけ「スベ」、つまりワラグツがある。これをはいてくるのが大久保弥三郎。大変なバンカラで、小中野から素足にスベで歩いてくる。
四年終了で旧制弘高へ進み、後に仙台で振東塾というのを開く。天城山で満州国皇帝の一族愛新覚羅慧生と一緒に亡くなった大久保武道は弥三郎の息子なんです。その頃八戸には中沢直道を中心にした東天塾があり、堀野虎五郎元八戸市議会議長も参加していました。
南郡大鰐町の町長を務めた油川久栄さんも卒業は私と同じ昭和四年。弘前中学校から八戸中学にやってきた。卒業後のクラス会にもよく出て来ました。先の(平成二年三月)国体スキー競技会を成功させた今の油川和世町長は油川さんの息子さんで、さすが、わが同期の息子と思います。よくやったものです。
陸上部に入ったが胸患い運動禁止
八中一年の秋の運動会で、湊から行っている悪童連で「マラソンさ出るべ」というわけで出場した。コースは大杉平~湊橋往復。毎日、通っている道だから…というので走った。
そのうち、だんだんに周囲の人間が居なくなった。旧魚町あたりまで来たら応援していただれかが「オイ、秋山お前は四番目だぞ」。「ヨーシ」というんで頑張った。湊橋を折り返して、間もなく、もう一人を抜いて三位人賞。
早速、陸上競技部から誘いがかかりました。「秋山、すごいんじゃないか。競走部に来て、駅伝を走れ」というわけです。当時、駅伝というと青森~弘前駅伝。大釈迦の峠を越えて走る。八中は、それまで一回も優勝したことがなく、津軽勢が強かったんです。
やるしかないなと決意したのですが、二年生になって夏休みが終わったら、胸が痛み出した。診察を受けたら「乾性ろく膜炎」。一年間、運動禁止になって体育の授業も受けられなくなった。
二学期の試験なんかも休んだりしたものですから、一年生の時に七、八番までいった成績が三十六番に下がってしまいました。私のいとこがそれを聞いて「いやいや皐二郎、お前、大したもんだ。試験受けなくても三十六番だ。百五十人の中だからなあ」と変なほめ方をされました。
マラソンの思い出では、胸が痛くなる前の大正十四年の六月。この時もマラソン大会があり、ランニングシャツにパンツ姿で、グラウンドに出ていたら小中野大火。近くの生徒は「すぐ帰れ」ということで帰された。
私も母の実家が小中野でしたから、手伝いに走った。気が付いてみたらランニングにパンツひとつ、とても火事場に行く格好じゃない。火事場に行けなくて、知り合いの果物店で片付けるのを手伝って、もう一度学校へ戻って服を着て帰った。「なんと知恵の足りないやつ」と思い返すたびに冷や汗が出ました。
八中二年の終わりごろに、叔父・秀之肋の命令で、三重県の四日市から秋田まで、製品の売上代金の回収に行きました。四日市に水谷さんという家があって、そこヘシラウオの佃煮を出荷していたんです。
私の家でシラウオをアメとしょうゆで炊いた佃煮の粗製品をタルに人れて出荷していた。塩だけで煮たシラ煮も浅箱に人れて出していた。その粗製品を水谷さんのところで精製して、製品として売っていたんでしょう。その点ではわが家の加工というのは、かなり進んでいました。
この時期に、それまで手こぎ船でやっていた巻き網漁に機械力を導入しようというので、船頭二人を茨城県の大洗へ派遣して動力船による巻き網漁法を勉強させて、昭和三年に八戸では初めて動力船で巻き網を始めたんです。
野球部マネジャーに
昭和三年というのは、私にとっても忘れられない年でした。なんといっても最高の晴れ舞台、甲子園へ出場したんですから。
病気が洽って三年生になった二学期のこと。運動部のマネジャーを決める時期に柔道部から頼みにきた。私が「高等学校に行きたいから」と断ったら次に野球部がきた。「いや、ダメだ」と言ったんだが「どうしても、お前しかいない」と言う。
「オレは柔道部を断ったのだ。今さら野球部のマネジャーを引き受けるわけにはいかん」と言ったら「そっちはわれわれで話をつけるから、なんとしても」と説得されて、引き受けるハメになってしまったのです。
当時の野球部は、監督は有名な大下常吉さんだったんですが、早稲田を卒業して「わが住む所は日本広しといえども、この町しかない」というわけで、北海道・帯広市で今の農協みたいなところに勤務されていた。
時々、八中に顔を出して練習スケジュールを十日分ぐらい作って、マネジャーの私に渡して「秋山、ちゃんとやれ」と言って帰って行く。初体験 の野球で、いきなり監督業まで引き受けてしまったわけです。
本を読んで野球勉強
運動部のマネジャーというのは、予算の分捕り合戦をやる。柔道部は後に浅虫病院長になった沼畑哲三君。テニス部は南部直久君。野球部は私という顔ぶれでした。
野球部のマネジャー兼監督を引き受けたものの、私自身は野球をやった経験は無かったので、本を読んだりして一生懸命勉強しました。大下常吉さんは基本に厳しい人で、毎日二十分間はキャッチボールをきちんとやれと言う。相手の胸元にボールを返すようにと、きつく注意されました。
鍛えてくれた諸先輩
先輩で我々を鍛えてくれたのは、五年上で投手だった高島勝治さん。高島さんのころは東北大会は六県一本でした。大正十四年に奥羽大会が分かれて青森、秋田、山形の三県で甲子園出場を争うようになったのです。
高島さんは東北大会で五連投して決勝まで進んだのですが、最後は疲れ切って仙合一中に敗れた経験を持っています。現在、華道小原流の八戸支部長を務めておられる高島一華さんの長兄です。
手記 我が人生に悔いなし 五
中村節子
○ 新聞少年
弟が高校を卒業した。その年は舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットした年で、卒業謝恩会で高校三年生を大合唱したと言っていた。
その弟が読売新聞社の奨学生となって東京の大学へ行くことになった。いわゆる新聞配達をしながら大学へ通うのである。
奨学生は四年制大学の合格が絶対の条件であったので、弟は勉強したらしい。
それよりもなによりも心配なのが、末っ子の甘えん坊が知らない土地で新聞配達ができるのであろうかということであった。
高校生になってもネコの様に体をすりよせて母に甘える。「母さん、今日の弁当のおかずは何?」と言っていた弟に、大学合格の通知が届いて東京行は決定した。
三月の中頃、弟の出発の日は父も私も出勤したので見送ったのは母だけであった。
八戸駅(現本八戸)まで見送ると言った母に「母さんは玄関から外へ出てはダメ」と言って一人で出発したのだそうだ。
四月の上旬、父と母は大学の入学式に行って来ると言って東京に出かけた。弟が生活している新聞販売店の寮も見て安心して帰って来た。
それから父は玄関の鍵をゆるくかける様になった。その当時の鍵はサッシではなく、ネジ棒をしめる古い型の鍵であった。ガタガタとゆするとネジ棒がぬけるのではないかと思うほどゆるくしめるのである。私が気がついて鍵をしめなおす事が何度もあった。
ついに私は言った。「どうしてあんな鍵のかけ方をするの? あれだったらちょっとガタガタしただけですぐはずれるよ」
「亮(弟の名)がな、東京で新聞少年をやっているんだぞ」と父は言った。ああそうだったのか。鍵をゆるくかけると、戸の間に新聞をはさめるくらいの隙間が出来る。弟への父の愛情を感じた。しばらくして父は郵便受箱を取りつけた。
半年ぐらいすぎてから、母は弟の好物を両手にぶらさげて一人で東京に出かけた。
以下は母から聞いた話である。
駅へ迎えに出ることになっている息子は、どうしたことか待っても待ってもこない。しかたがないので一度だけ行ったことのある新聞販売店の寮をたずねていった。
そこには各地方から上京し、奨学生として新聞配達をしている息子の仲間が五人待っていた。「亮君は駅へお母さんを迎えに行きましたよ。」「どこかですれ違ったのですね。」「お母さんよくいらっしゃいました。」「お母さんお疲れでしょう。」「お母さんお茶を。」
お母さん、お母さんとまるで自分の母親に甘えるかの様にそばに寄って来る。親が恋しいのだなあと思った。肝心の息子にはまだ逢っていないけれど、持って行ったお土産をひろげた。喜んで食べ始めた。その食欲の旺盛なこと、息子の分が無くなりはしないかとハラハラした。やっと帰って来た息子の言い分は「迎えに早く行きすぎたので、待ってる間にパチンコをしたら、すっかり時間を忘れてしまった。」と。
弟は四年間がんばって大学を卒業し、読売新聞社の系列会社に就職した。団塊の世代に生まれた新聞少年は、今年定年を迎える。(現在さいたま市に在住)
○ 甲子園
運送会社に勤めて五年ほど過ぎた頃だった。突然高校の同級生が私をたずねて会社にきた。「三沢高校の野球部が甲子園に行くことになった。」「そうだよね。甲子園に行くんだよね。すごいねえ。」「それで寄付を集めることになって、僕が八戸の担当になったんだよ。」「あ、そうなの、ご苦労さん。八戸には同級生は何人いるの?」「八人いるよ。」
三沢高校夏の甲子園出場。投手は二年生の太田幸治君である。
会社で甲子園の話をすると「三沢高校なんてどうせ一回戦で負けるんだから」「負けたっていいよ。甲子園へ行くことだけでも、すごいのだから」「八高はな、準決勝まで行ったんだぞ」と八戸高校出身のAさんは言った。ところが三沢高校は一回戦は勝った。二回戦で負けた。
次の年、春の選抜大会に三沢高校が選ばれた。二度目の甲子園であるが、寄付集めは来なかった。「三沢高校なんて勝ったとしても一回戦だけだ。八高は準決勝まで行ったんだぞ」と、またも八高出身のAさんが言った。この時も一回戦は勝った。二回戦で負けた。
そして夏の甲子園は、三年生となった投手の太田幸治君をエースとする三沢高校の連続出場と決まった。この時も寄付集めは来ない。「また二回戦で負けるんだべ。八高は準決勝まで行ったんだぞ。」又々Aさんは言った。
ところが一回戦、二回戦、三回戦と勝ち進み、準々決勝、準決勝、ついに決勝まで勝ち進んだのである。その都度テレビから三沢高校校歌が流れる。それを聞くたびに感動した。
四国の松山商業高校との決勝戦の当日は、会社ではテレビを借りてきて見せてくれた。仕事に手がつかなかった。会社全員で応援した。試合は大接戦で延長十五回でも勝負はつかず、翌日再試合となった。
再試合も一所懸命応援したが、残念なことに三沢高校は負けた。しかし閉会式で準優勝旗を持って、グランドを一周する選手達を見た時は涙が出た。私は感動のあまり応援してくれた会社の人達にケーキをごちそうした。
「八高は準決勝まで行ったんだぞ」と口グセだったAさんは、この日以来二度と言わなくなった。又、寄付集めが来なかったのは、三沢市の商店街から大口の寄付があったからだと後で聞いた。又、試合のある時間はシャッターをおろし道路は一 人も歩いていなかったそうだ。
あれから四十年以上も経過しているが、甲子園が始まると、三沢高と松山商業高の決勝戦のことは、未だに語り草になっている。
○ 思わず「ハイ」
お茶を習い始めてちょうど五年、友達のY子さんと三日町でバッタリ出合った。お茶のお稽古を三ヶ月ぐらい休んでいたので、どうしたのかなと心配していたのである。
「どうしたの?体の具合でも悪いのかと思って心配してたの。」「私ね、今詩吟をやっているの。詩吟知ってる?」「知ってるよ。」「詩吟はとても難しいのよ。」と言う彼女の言葉には、その難しいのを私はやっているんだからと言うニュアンスがあった。
難しいと言ったって、この人がやっているんだから私にだって出来るよと思った。
「ね、詩吟の教場に見学に来ない?」「そうね、行ってみてもいいよ。」Y子さんと約束して土曜日の夜六時からの教場に見学に行った。それが八日町の明治薬館であった。
お店の二階が住まいになっていて、八畳間に男性三名女性三名集まっていた。
母と同年代ぐらいの女の先生は大きな声で吟ずる。そして生徒さんたちも一緒に吟ずる。
すごいなあと思った。次に生徒さん一人一人が吟ずる。稽古が終わって帰る時「来週も見学にいらっしゃいよ」と先生がおっしゃった。思わず「ハイ」と答えてしまった。
次の土曜日も見学に行った。帰る時「あんたも会にお入りなさいよ」思わず「ハイ」
いとも簡単に詩吟の会に入ることになった。
昭和四十三年二月。最上翠岳先生の教場に入門する。二十七歳の時である。
○ 長者山の女ターザン
詩吟教室で一番始めに教えて頂いたのは菅原道真作の「九月十日」である。この詩文は「去年の今夜」で始まる。「去年の今夜」「去年の今夜」と何度も繰り返して練習していると「金色夜叉」でもあるまいにと思ったこともあった。とにかく新人は「九月十日」から習うものだと聞いていたので、「どうしてですか。」と先輩に聞いてみた。「菅原道真は学問の神様でしょ」と教えてくれた。
徐々に詩吟が楽しくなってきた。稽古の帰りは吟じながら歩いた。詩文を覚えていない時は、外灯のあかりで教本を見た。
家では風呂で吟じて母にしかられた。布団をかぶって声を出してみたら苦しかった。そこで長者山に行った。我が家は長者山の麓で、旧町名は長者山下である。境内にお祭りの時の加賀流騎馬打毬をやる馬場がある。そこが絶好の場所であった。
ある時、その馬場に先客がいた。男の人が何か歌っていたので、私は遠くからそっと見ていた。そのことを先輩に話したら、「昔ね、長者山の神主さんの娘さんで音楽の先生がいてね、外でよく歌っていたんですって、それで長者山の女ターザンとあだ名が付いたの」
「えっ!」さあ大変。私も女ターザンなどと言われたら大変だ。でも毎日長者山へ行くわけでもないから、気にしないことにした。
詩吟がすごく楽しくなってきたけれど、その当時はお茶に熱中していた。何があってもお茶が第一優先であった。詩吟の行事とお茶の行事が重なった時はもちろんお茶であった。
「申しわけありませんが、お茶の方が優先ですので」とはっきり言って、詩吟の行事をことわったことが何度かあった。現在私は詩吟教室を開き、あの当時の最上先生と同じ立場にある。
「○○がありますから参加して下さい」と言った時「△△がありますので参加できません」と返事が返って来る時の悲しいこと。
私もあの時、最上先生に悲しい思いをさせたのだなあと思うのである。
○ 新聞少年
弟が高校を卒業した。その年は舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットした年で、卒業謝恩会で高校三年生を大合唱したと言っていた。
その弟が読売新聞社の奨学生となって東京の大学へ行くことになった。いわゆる新聞配達をしながら大学へ通うのである。
奨学生は四年制大学の合格が絶対の条件であったので、弟は勉強したらしい。
それよりもなによりも心配なのが、末っ子の甘えん坊が知らない土地で新聞配達ができるのであろうかということであった。
高校生になってもネコの様に体をすりよせて母に甘える。「母さん、今日の弁当のおかずは何?」と言っていた弟に、大学合格の通知が届いて東京行は決定した。
三月の中頃、弟の出発の日は父も私も出勤したので見送ったのは母だけであった。
八戸駅(現本八戸)まで見送ると言った母に「母さんは玄関から外へ出てはダメ」と言って一人で出発したのだそうだ。
四月の上旬、父と母は大学の入学式に行って来ると言って東京に出かけた。弟が生活している新聞販売店の寮も見て安心して帰って来た。
それから父は玄関の鍵をゆるくかける様になった。その当時の鍵はサッシではなく、ネジ棒をしめる古い型の鍵であった。ガタガタとゆするとネジ棒がぬけるのではないかと思うほどゆるくしめるのである。私が気がついて鍵をしめなおす事が何度もあった。
ついに私は言った。「どうしてあんな鍵のかけ方をするの? あれだったらちょっとガタガタしただけですぐはずれるよ」
「亮(弟の名)がな、東京で新聞少年をやっているんだぞ」と父は言った。ああそうだったのか。鍵をゆるくかけると、戸の間に新聞をはさめるくらいの隙間が出来る。弟への父の愛情を感じた。しばらくして父は郵便受箱を取りつけた。
半年ぐらいすぎてから、母は弟の好物を両手にぶらさげて一人で東京に出かけた。
以下は母から聞いた話である。
駅へ迎えに出ることになっている息子は、どうしたことか待っても待ってもこない。しかたがないので一度だけ行ったことのある新聞販売店の寮をたずねていった。
そこには各地方から上京し、奨学生として新聞配達をしている息子の仲間が五人待っていた。「亮君は駅へお母さんを迎えに行きましたよ。」「どこかですれ違ったのですね。」「お母さんよくいらっしゃいました。」「お母さんお疲れでしょう。」「お母さんお茶を。」
お母さん、お母さんとまるで自分の母親に甘えるかの様にそばに寄って来る。親が恋しいのだなあと思った。肝心の息子にはまだ逢っていないけれど、持って行ったお土産をひろげた。喜んで食べ始めた。その食欲の旺盛なこと、息子の分が無くなりはしないかとハラハラした。やっと帰って来た息子の言い分は「迎えに早く行きすぎたので、待ってる間にパチンコをしたら、すっかり時間を忘れてしまった。」と。
弟は四年間がんばって大学を卒業し、読売新聞社の系列会社に就職した。団塊の世代に生まれた新聞少年は、今年定年を迎える。(現在さいたま市に在住)
○ 甲子園
運送会社に勤めて五年ほど過ぎた頃だった。突然高校の同級生が私をたずねて会社にきた。「三沢高校の野球部が甲子園に行くことになった。」「そうだよね。甲子園に行くんだよね。すごいねえ。」「それで寄付を集めることになって、僕が八戸の担当になったんだよ。」「あ、そうなの、ご苦労さん。八戸には同級生は何人いるの?」「八人いるよ。」
三沢高校夏の甲子園出場。投手は二年生の太田幸治君である。
会社で甲子園の話をすると「三沢高校なんてどうせ一回戦で負けるんだから」「負けたっていいよ。甲子園へ行くことだけでも、すごいのだから」「八高はな、準決勝まで行ったんだぞ」と八戸高校出身のAさんは言った。ところが三沢高校は一回戦は勝った。二回戦で負けた。
次の年、春の選抜大会に三沢高校が選ばれた。二度目の甲子園であるが、寄付集めは来なかった。「三沢高校なんて勝ったとしても一回戦だけだ。八高は準決勝まで行ったんだぞ」と、またも八高出身のAさんが言った。この時も一回戦は勝った。二回戦で負けた。
そして夏の甲子園は、三年生となった投手の太田幸治君をエースとする三沢高校の連続出場と決まった。この時も寄付集めは来ない。「また二回戦で負けるんだべ。八高は準決勝まで行ったんだぞ。」又々Aさんは言った。
ところが一回戦、二回戦、三回戦と勝ち進み、準々決勝、準決勝、ついに決勝まで勝ち進んだのである。その都度テレビから三沢高校校歌が流れる。それを聞くたびに感動した。
四国の松山商業高校との決勝戦の当日は、会社ではテレビを借りてきて見せてくれた。仕事に手がつかなかった。会社全員で応援した。試合は大接戦で延長十五回でも勝負はつかず、翌日再試合となった。
再試合も一所懸命応援したが、残念なことに三沢高校は負けた。しかし閉会式で準優勝旗を持って、グランドを一周する選手達を見た時は涙が出た。私は感動のあまり応援してくれた会社の人達にケーキをごちそうした。
「八高は準決勝まで行ったんだぞ」と口グセだったAさんは、この日以来二度と言わなくなった。又、寄付集めが来なかったのは、三沢市の商店街から大口の寄付があったからだと後で聞いた。又、試合のある時間はシャッターをおろし道路は一 人も歩いていなかったそうだ。
あれから四十年以上も経過しているが、甲子園が始まると、三沢高と松山商業高の決勝戦のことは、未だに語り草になっている。
○ 思わず「ハイ」
お茶を習い始めてちょうど五年、友達のY子さんと三日町でバッタリ出合った。お茶のお稽古を三ヶ月ぐらい休んでいたので、どうしたのかなと心配していたのである。
「どうしたの?体の具合でも悪いのかと思って心配してたの。」「私ね、今詩吟をやっているの。詩吟知ってる?」「知ってるよ。」「詩吟はとても難しいのよ。」と言う彼女の言葉には、その難しいのを私はやっているんだからと言うニュアンスがあった。
難しいと言ったって、この人がやっているんだから私にだって出来るよと思った。
「ね、詩吟の教場に見学に来ない?」「そうね、行ってみてもいいよ。」Y子さんと約束して土曜日の夜六時からの教場に見学に行った。それが八日町の明治薬館であった。
お店の二階が住まいになっていて、八畳間に男性三名女性三名集まっていた。
母と同年代ぐらいの女の先生は大きな声で吟ずる。そして生徒さんたちも一緒に吟ずる。
すごいなあと思った。次に生徒さん一人一人が吟ずる。稽古が終わって帰る時「来週も見学にいらっしゃいよ」と先生がおっしゃった。思わず「ハイ」と答えてしまった。
次の土曜日も見学に行った。帰る時「あんたも会にお入りなさいよ」思わず「ハイ」
いとも簡単に詩吟の会に入ることになった。
昭和四十三年二月。最上翠岳先生の教場に入門する。二十七歳の時である。
○ 長者山の女ターザン
詩吟教室で一番始めに教えて頂いたのは菅原道真作の「九月十日」である。この詩文は「去年の今夜」で始まる。「去年の今夜」「去年の今夜」と何度も繰り返して練習していると「金色夜叉」でもあるまいにと思ったこともあった。とにかく新人は「九月十日」から習うものだと聞いていたので、「どうしてですか。」と先輩に聞いてみた。「菅原道真は学問の神様でしょ」と教えてくれた。
徐々に詩吟が楽しくなってきた。稽古の帰りは吟じながら歩いた。詩文を覚えていない時は、外灯のあかりで教本を見た。
家では風呂で吟じて母にしかられた。布団をかぶって声を出してみたら苦しかった。そこで長者山に行った。我が家は長者山の麓で、旧町名は長者山下である。境内にお祭りの時の加賀流騎馬打毬をやる馬場がある。そこが絶好の場所であった。
ある時、その馬場に先客がいた。男の人が何か歌っていたので、私は遠くからそっと見ていた。そのことを先輩に話したら、「昔ね、長者山の神主さんの娘さんで音楽の先生がいてね、外でよく歌っていたんですって、それで長者山の女ターザンとあだ名が付いたの」
「えっ!」さあ大変。私も女ターザンなどと言われたら大変だ。でも毎日長者山へ行くわけでもないから、気にしないことにした。
詩吟がすごく楽しくなってきたけれど、その当時はお茶に熱中していた。何があってもお茶が第一優先であった。詩吟の行事とお茶の行事が重なった時はもちろんお茶であった。
「申しわけありませんが、お茶の方が優先ですので」とはっきり言って、詩吟の行事をことわったことが何度かあった。現在私は詩吟教室を開き、あの当時の最上先生と同じ立場にある。
「○○がありますから参加して下さい」と言った時「△△がありますので参加できません」と返事が返って来る時の悲しいこと。
私もあの時、最上先生に悲しい思いをさせたのだなあと思うのである。
戦中戦後を語る 八戸市老人クラブ連合会刊 1
戦争の体験
柏崎地区 第二柏会
岩 舘 雄次郎 大正十一年生(八三才)
戦雲激しいころ、時は昭和十八年三月の春まだき百五十日の衛生兵教育召集令状の赤紙が来る。三月二十日弘前北部十六部隊に入隊すべし、そのころの若い者たちは兵隊に行かなければ男として恥ずかしい時代で、男と生まれたかいがあった。町内の同級生の福田典吉さんも召集が来た。同じく三月二十日の入隊で一緒であるという。また、長横町のナナオ家具の七尾泰博さんにも召集が来たという、病院付の衛生兵弘前陸軍病院三月二十日の入隊であるという。その日町内の人たちと親類家族で、駅前は俺たち三人を送る人で万歳と軍歌の嵐がわき、人々でいっぱいで最高の歓喜であった。汽車に乗り送ってくれる人たちと笑って手を振って八戸をあとにした。駅から離れた線路にも旗を持った人たちが手を振って何箇所にも見送ってくれた。
尻内駅からも何人かが乗る。汽車の中は召集の人でいっぱいで各駅からも少しずつ乗り、弘前駅に着くと、部隊の人たちが迎えに来ている。あまり寒くない。十六部隊まで約十五分くらい行く。営庭の広場には召集の人たちが集まっている。ここで各人の名前を呼ばれて各中隊に連れて行かれる。俺は第四中隊第一班に配属となる。古兵さんに連れられて被服庫で軍服上衣、下着、靴などをもらう。私物は家に送る支度を終えて事務室に頼む。福田さんも同中隊の三班となる。
中隊に衛生兵四人、俺は一班、山本青森の人三班、五班二人、津鰻飯詰の平山、野辺地有戸の人四戸徳蔵さん、皆良い人ばかりで気が合う。
俺の隣の古兵さんは名久井村の出身の人で、佐々木典七郎さんといって優しい親切で良く何でも教えてくれて本当に良い人だった。また、八戸市の番町の遠山さんで元青森県議会議長さんの長男、遠山見習士官に会って、八戸の話や弟さんと同級生の事などを話したら、何でも困ったことがあったら知らせてと言って、本当に遠山見習士官にはお世話になった。同郷の人の人情が身に沁みて感謝の気持ちでいっぱいだった。
ラッパ合音を覚えるまでに苦労した。軍隊で礼儀や起立、動作を早く覚えること、中隊には上等兵が週番をつける食事の飯上に、使役に各班二名の声がある時は人より先に出るようにする。また食事の後の食器も古兵さんのも一緒に洗ってあげる。洗濯や靴磨きも同じで、古兵さんたちも初年兵の時はそうして苦労したことを教えてくれた。
俺たち衛生兵は歩兵の一期の検閲が一か月位で終わり、後は衛生兵の看護教育で五月ごろから日曜日を除いて、毎日弘前陸軍病院へ四十人くらいで自習に週う。俺は中隊の衛生兵三人を医務室まで引率する。医務室から陸軍病院まで藤井が引率で三か月陸軍病院で衛生看護の検閲を受ける。初めての外出で弘前公園に仲間と行くが、出合う兵隊には皆に敬礼をしっぱなしでする。会わないようにして食事をして早く帰ってくる。次は日曜日に外出しないで面会取り次ぎに出る。面会人がご馳走をいっぱい持って来る。俺たちに入る。八月の初めに三十前後の妻子のある人が召集されてくる。八戸の人たち、町内の知っている人が二人来ている。
その人たちと八月奥羽線回りで、下関から朝鮮、釜山、京城ハルピン黒海?琿の0002部隊に転属となる。列車の途中で、人員のョメ点呼して煙?琿の部隊は夜六時ころ、夜空に満月が明るく内地で見る月より大きい。営庭に後光がさして俺たちを優しく迎えている。十分くらいで各中隊に入る。俺は連隊本部に配属となる。
中隊から患者を出さないように健康管理で隊員を注意して見ている。
九月二十日付で第一選抜で俺が一人一等兵昇進と精勤賞を頂く。もらうとは思わなかった。
秋季演習も終り、冬季演習は医務室で週番で看守をする。関東車の命令で南方の野戦病院へ転属となる。下関で夏物に着替える。貨物船が三隻に駆逐船が護衛で行くが途中で一隻が魚雷で轟沈する。俺たちの船は、グアム島に上陸する。すぐ陣地に入るが、二か月くらいは何もなく島民と仲良くする。三月に上等兵に昇進する。それからは爆弾と艦砲射撃が毎日続いて我が軍は全滅する。
ニューギニア戦線死闘の思い出
是川地区 是川第四老人クラブ 上野萬蔵
大正7年生(八七歳)
今も時析、夢にまで見る当時のフインシュハーヘンの作戦の恐ろしさというか、なにしろ息も止まりそうな思い出。
それは私が昭和十四年八月、北支戦線に出征して以来、二十二年二月に復員するまでの生涯で最も強烈かつ鮮明に残る思い出である。
当時のニューギニアの各戦線は、オーストラリアとアメリカによる連合軍をもって攻勢に転じていた。日本軍はというと敵の火力の前に、無人の野を行くに等しいほど危機に瀕していた。
この戦場の要所サッテルベルグ高地の確保も無意味なほど、敵の攻撃は熾烈化していたため、第二十師団長片桐中将は全軍総攻撃の命令を下したのであった。
「攻撃は、昭和十八年十一月二十二日午前五時をもって開始する。各隊は第一戦を突破したあと、直ちに陣地を確保すること。また斬り込み隊もこれと合流すること。」これが田代大隊に与えられた作戦計画だった。
私は四人の部下をそれぞれの部署につけ、機関銃をすえて時間を待った。だがその時間の長さはこれまでに経験したことのないほど長く感じられた。あと五分、三分、二分、一分…ついに攻撃開始の時刻になったらドカーンと友軍の大隊砲が火を噴いた。銃いて二発三発と同時に火を噴いた。
ところがどうしたことか、ものの十分足らずで友軍の射撃がピタッととだえ、ただ敵の機銃だけが時折ジャングルにこだまするだけであった。友軍の攻撃が失敗に終わったことを物語るように、オーストラリア兵が何事もなかったような顔つきで往来しているのを見て私は一瞬迷ってしまった。
結局私は一時、この場を退いて部隊に合流することを決め、四人の部下にもその旨を伝えた。その時偶然にも儘田上等兵に遭い、作戦は失敗し、大隊の八割方戦死したということを聞いた。
このようにフインシュハーヘンの作戦にしても日本車は、不利を承知で戦い続けたのである。何しろ日本軍は大隊砲1、重機2、軽機5という貧弱な火力しかなく、しかも野砲連隊砲等の援護もなかった。これに対し連合軍は、後方から無限の援護射撃、全員が自動小銃、その上火器は数倍、それに無限の補充もあった。こういう状態でも転進作戦に入ったのであった。
私達は中国戦線では、常に優位に戦闘を進めてきたのに対し、ニューギニア戦では規模の大きさと毎日四十度を越す暑さに疲労困憊、食糧難と医薬品不足のため、負傷者や病弱者はみな置き去りにされていった。連合軍は、昼夜を分かたず、海からは艦砲射撃、空からは限りない空襲、そして後方陣地からは砲撃と、何日もかけて造った我が陣地や周囲の山も忽ち裸にしてしまたのである。
この頃より日本車の食糧は完全に底をつき、農場のパパイヤの木の根を堀り、ヤシの芽を採り野菜を食べた。そのほかネズミ、トカゲ、ザリガニなど口に入るものは手当たり次第食べるようになった。そうしなければ生きていけなかったからである。
長い長い戦闘行程には、いたる所で、飢えた病人が助けを求めているのに数知れず出合った。しかし我々にも助ける余裕や話かける余裕もなく、見捨てるように部隊は進むのであった。体は弱っていても、夜には交替で歩哨に立たねばならなかった。そして夜明けとともに出発という日の繰り返しであった。
一日の任務を終えて、今日も無事生きられた喜びを噛みしめながら草の上に体を横たえる。そして故郷の父母兄弟を思うのが楽しみであった。夜中のこと、近くで手榴弾の爆発音がしたのだという。戦友に墓穴を据って貰い、最後の一服をつけ、母の名や妻子の名を呼んで、戦友に介錯して貰って命を絶ったものも数多くいた。
余りの辛さに幾度か死を決意、手榴弾の安全栓を抜き発火準備をしたこともあったが、故郷のこと、戦友達のことを思い考え直した。死ぬのはたやすいが生きるのは難しいと自爆を思いとどまったのである。それからは必ず生きて帰り、もう一度故郷の土を踏んでお米を一口食べてからでも遅くはないと生きることのみ考えた。
この長くて辛い転戦作戦中、最後まで生き抜いてこられたのは、私の上官であった梶塚中隊長のすぐれた才能とそれからくる判断力と決断、そして厳正公正な命令下達等が相まってすべての作戦行動に犠牲を最小限に食い止められたものと思う。
今こうして心静かに考えると色んな事が思い浮かぶ。ニューギニア戦線において幾度となく斬り込み隊として命をかけ、生きて帰らぬ覚悟で参戦したが、戦争の空しさ、人命の大切なことは、戦地を生き抜いてきた人開だけが知ることではないだろうか。
空襲と母
鮫地区 鮫第一寿会
江渡豊治
昭和8年生(七二才)
太平洋戦争中の昭和二十年八月九日、当時私は小学六年で、早朝アメリカ軍の戦闘機「グラマン」の空襲にあいました。その恐怖の体験を文章にしたいと思います。
体の弱かった私は、小学一年生から三年生まで、体操の時間は参加もできず、ただ見ているだけで、母はいつも心配していたようでした。四年生の夏頃から母に連れられて海藻取りや、畑の野菜作りに出かけました。母は近所の子供達と一緒に遊べるようにと、出来ることを手伝わせ、体を丈夫にしようと思っていたようでした。五年生春頃から走ることが好きになり、秋の運動会には進んで参加、母に喜んでもらえるようになりました。
六年生の夏、八月九日朝、夢心地に聞こえていたと思います。母が大きな声で起きろ起きろ早く起きるんだ、と叫んでいるような気がして目が覚めました。途端に、家の上を雷のような音をたて数知れない戦闘機がグオングオンと飛んできました。耳の鼓膜が破れるような音とバババンバババンと何か弾けるような音、家中の窓ガラスが今にも割れるのではないかと思い、私は裸のまま腰を抜かし、服を着ようにもただわなわなと体が震え、母に手をひかれ玄関を出ました。母は私の服を横抱きにして防空壕へ逃げるんだと叫んでいました。ただ、一目散に走りました。防空壕まで百メートル位、小学校入り口の草木の中に兵隊さんが掘ってくれた穴がいくつもあり、母と私と転がるようにして入り、耳をふさいで、ただ震えておりました。戦闘機からの機銃掃射の音だけが港の上空に響いていました。母は姉を仕事に出すために、いつも朝早く起きて、朝食の用意をしていました。仕事で朝早く出かけていた姉が大声で帰って来ました。海防艦稲本が飛行機に囲まれて、たくさんの弾を受けているというのです。私は、防空壕の中で耳をふさいでいるだけでした。浜の方から油の煙る匂いがし、いつのまにか飛行機の音もなくなり、大人の人達がお互いに顔を見て安心したようで、私は初めて空襲されたんだと思いました。家に帰る気力もなくただ呆然としているだけでした。
母と姉に声をかけられて家へ、母はすぐに食事の用意をしてくれ朝食を食べていなかったのに気づきました。昼だというのに薄暗い家の中、一言もしゃべることもなく食事をすませ、窓から外を見てみると煙が町全体に広がり、外が騒がしくなり何か起きたんだろうと思いました。大人の人達が口々に水兵さん達が怪我をして運ばれて来たというのです。その様子は小学校裏通りの空き地から見えており、大人の人達は口々に海防艦稲木が爆弾を受けて、沈みそうだというのです。更に油貯蔵タンクが燃えていると、またこれからも空襲があるかもしれないとの「うわさ」が広まり、近所の人達が鮫を離れ逃避しようと口々に言い始めました。行くあてもないが夕方、母姉私と近所の人たちとで誘い合い、黒い煙を空一面に見ながら歩き、白銀を過ぎて振り返り、睦奥湊を過ぎてまた振り返り、夕焼けの空に薄黒い煙がみえておりました。何時間歩いたでしょうか、東の空が明るくなって町外れの人に間いたら剣吉(現在の名川町)だということ、「鮫から歩いて来たら大変だったでしょう。どこまで行くのですか。」と聞かれ「行く当てがなかったら休んでください。」とお茶を出してくれました。そのお茶とリンゴの美味しかったこと。見ず知らずの私達に親切にしていただき、「よろしかったら一日二日休んでもいい。」と言われ、ゆっくり休むことが出来ました。
その後、鮫にいつ帰ったのか記憶がなく、学校で先生から児童疎開すると言われ、現在の新郷村西越小学校に疎開、山林と森に囲まれた静かな村で、私達児童を親切に迎えてくれました。何日か過ぎて八月十五日西越小学校で終戦日を迎えました。
子供の頃の空襲の恐怖、町村の方々の親切な温かさに触れ、今元気で生きていられる喜び、私を丈夫に育ててくれた母のおかげだと思いました。
戦地で想像に絶する苦労、戦後復興に努力、苦労の甲斐あって経済的に落ち着いた平和を見ることも無く、亡くなられた人々を心にとどめ戦争体験を子や孫に言い伝えて、平和な日本を築いていって欲しいと思います。
母と二人の防空壕
小中野地区 新地町内ひまわり会
大野セツ子 昭和5年生(七五才)
「あ、B29だ。早く逃げろ。」と母の甲高い声。
すぐ家の前にある防空壕に転がるように飛び込んだ直後、爆音が響き、爆弾投下の大音響。防空壕がビシビシ揺れ崩れ落ちるのかと思うほど恐ろしい思いをしました。自分の耳に指を入れ固まって動けません。母と二人で「神様仏様お守り下さい。」と心の中で祈り続けておりました。昭和二十年八月某日、敗戦少し前の頃です。急に静かになり、隣組の人達が皆出てきて「凄かった、恐ろしい。」と口々に話し合いました。八戸線の睦奥湊、小中野の線路があり、鉄橋の両側に爆弾が投下され大きな穴が出来ました。近所の家の近くにも爆弾が投下されたので、その家の人が怪我をしたようです。
自分の家も線路の側でしたので、母は「ここも危ないから。」と言って、諏訪神社に大きな木がたくさんあるのでそこに避難するようにと決めました。
朝早くまだ薄明かりの頃、急ぎ足で母と二人で食料と言ってもスルメ、炒り豆、小さく切った昆布など色々袋に入れ、常現寺の脇道を通って走りました。ふとお墓を見ると草が生い茂り墓が全然見えず畑みたいでした。その風景を今もはっきり覚えております。
神社の鳥居の所に来た時また爆音、すぐ爆弾投下、今は八戸セメント会社ですが、私が子供の頃は磐城セメントでした。そのセメントが目標になり爆撃、爆音、爆撃に麦畑に伏せました。撃たれると思い急に母の顔が浮かび悲しかった。大きな木の下に五人位の男の人達が小さくなって隠れて見ていました。
鳥居の脇に小さな防空壕が二ヵ所あり急いで立ち上がって、一カ所の中に入ってみると、おばあさんと赤ん坊をおぶった女の人、奥の方には男の人が三人、大きな目で睨まれましたが、母の姿が見えません。その防空壕から出ようと思い足を出したら、男の人に「今出て行ったらここに爆弾を落とされる。」と言われ、悲しくなりました。母のことが心配で、泣きだしそうになりました。三十分位の時間でしたがものすごく長く感じ、攻撃爆弾が、こんなに恐ろしいとは思ってもみませんでした。
十五才真夏の終り頃でした。また急に静かになり外に出てみると母が私の姿を見て手を握り「決して離れるな。」と言いました。母は反対側にある防空壕に逃げ込んだそうです。私は母の手を強く握って放さないことにしました。それから、何回も攻撃がありましたが、母が逃げこんだ防空壕でまず食べることにしました。干しいも、スルメ、炒り豆を食べてしのぎました。
夜は攻撃がないので外に出て涼みました。その晩蛍の群れがキラキラ舞い飛び、光が流れる小さな小川を飾ってくれました。その光景は昼の恐ろしい攻撃を一瞬忘れさせてくれました。蛍さん本当に有難う。蚊に刺されて痒くても綺麗でした。夜が明けても攻撃がなくあたり一面静かで家に帰ってみました。
八月の何日か何時頃かわかりません。天気は良い日でした。爆音も静かに飛行機が低く飛んできたと思ったら、空から白い何かがヒラヒラ降ってきました。周りの人達が拾ってみていたので自 分も一枚拾い開いてみたら日本の国が戦争に負けたような事が書かれていました。その宇は日本語でした。
後で天皇陛下のお言葉がラジオで放送されるとのこと。組長さんの家に集まり天皇陛下の言葉を初めて聞きましたが、なんでも広島に新型爆弾が投下され、広島の人達が全滅だとのことでした。その爆弾とは、原子爆弾だと組長さんから聞かされました。
それから間もなく疎開していた祖父母、妹が帰ってきました。後で父も怪我ひとつせず北海道から帰り、喜び合いました。その頃、アメリカ兵が家々を回ってくると聞き、娘の私が危ないと思ったのでしょう、母が私に素肌を見せないために足袋を履かせ押入れに隠しました。
昭和二十年高等科二年を卒業後して五ヵ月後の八月の怖くて恐ろしい太平洋戦争の終りの思い出話です。
子供、孫に書き伝えておきたいと思い、筆を取りました。今現在七十五才のおばあさんです。
柏崎地区 第二柏会
岩 舘 雄次郎 大正十一年生(八三才)
戦雲激しいころ、時は昭和十八年三月の春まだき百五十日の衛生兵教育召集令状の赤紙が来る。三月二十日弘前北部十六部隊に入隊すべし、そのころの若い者たちは兵隊に行かなければ男として恥ずかしい時代で、男と生まれたかいがあった。町内の同級生の福田典吉さんも召集が来た。同じく三月二十日の入隊で一緒であるという。また、長横町のナナオ家具の七尾泰博さんにも召集が来たという、病院付の衛生兵弘前陸軍病院三月二十日の入隊であるという。その日町内の人たちと親類家族で、駅前は俺たち三人を送る人で万歳と軍歌の嵐がわき、人々でいっぱいで最高の歓喜であった。汽車に乗り送ってくれる人たちと笑って手を振って八戸をあとにした。駅から離れた線路にも旗を持った人たちが手を振って何箇所にも見送ってくれた。
尻内駅からも何人かが乗る。汽車の中は召集の人でいっぱいで各駅からも少しずつ乗り、弘前駅に着くと、部隊の人たちが迎えに来ている。あまり寒くない。十六部隊まで約十五分くらい行く。営庭の広場には召集の人たちが集まっている。ここで各人の名前を呼ばれて各中隊に連れて行かれる。俺は第四中隊第一班に配属となる。古兵さんに連れられて被服庫で軍服上衣、下着、靴などをもらう。私物は家に送る支度を終えて事務室に頼む。福田さんも同中隊の三班となる。
中隊に衛生兵四人、俺は一班、山本青森の人三班、五班二人、津鰻飯詰の平山、野辺地有戸の人四戸徳蔵さん、皆良い人ばかりで気が合う。
俺の隣の古兵さんは名久井村の出身の人で、佐々木典七郎さんといって優しい親切で良く何でも教えてくれて本当に良い人だった。また、八戸市の番町の遠山さんで元青森県議会議長さんの長男、遠山見習士官に会って、八戸の話や弟さんと同級生の事などを話したら、何でも困ったことがあったら知らせてと言って、本当に遠山見習士官にはお世話になった。同郷の人の人情が身に沁みて感謝の気持ちでいっぱいだった。
ラッパ合音を覚えるまでに苦労した。軍隊で礼儀や起立、動作を早く覚えること、中隊には上等兵が週番をつける食事の飯上に、使役に各班二名の声がある時は人より先に出るようにする。また食事の後の食器も古兵さんのも一緒に洗ってあげる。洗濯や靴磨きも同じで、古兵さんたちも初年兵の時はそうして苦労したことを教えてくれた。
俺たち衛生兵は歩兵の一期の検閲が一か月位で終わり、後は衛生兵の看護教育で五月ごろから日曜日を除いて、毎日弘前陸軍病院へ四十人くらいで自習に週う。俺は中隊の衛生兵三人を医務室まで引率する。医務室から陸軍病院まで藤井が引率で三か月陸軍病院で衛生看護の検閲を受ける。初めての外出で弘前公園に仲間と行くが、出合う兵隊には皆に敬礼をしっぱなしでする。会わないようにして食事をして早く帰ってくる。次は日曜日に外出しないで面会取り次ぎに出る。面会人がご馳走をいっぱい持って来る。俺たちに入る。八月の初めに三十前後の妻子のある人が召集されてくる。八戸の人たち、町内の知っている人が二人来ている。
その人たちと八月奥羽線回りで、下関から朝鮮、釜山、京城ハルピン黒海?琿の0002部隊に転属となる。列車の途中で、人員のョメ点呼して煙?琿の部隊は夜六時ころ、夜空に満月が明るく内地で見る月より大きい。営庭に後光がさして俺たちを優しく迎えている。十分くらいで各中隊に入る。俺は連隊本部に配属となる。
中隊から患者を出さないように健康管理で隊員を注意して見ている。
九月二十日付で第一選抜で俺が一人一等兵昇進と精勤賞を頂く。もらうとは思わなかった。
秋季演習も終り、冬季演習は医務室で週番で看守をする。関東車の命令で南方の野戦病院へ転属となる。下関で夏物に着替える。貨物船が三隻に駆逐船が護衛で行くが途中で一隻が魚雷で轟沈する。俺たちの船は、グアム島に上陸する。すぐ陣地に入るが、二か月くらいは何もなく島民と仲良くする。三月に上等兵に昇進する。それからは爆弾と艦砲射撃が毎日続いて我が軍は全滅する。
ニューギニア戦線死闘の思い出
是川地区 是川第四老人クラブ 上野萬蔵
大正7年生(八七歳)
今も時析、夢にまで見る当時のフインシュハーヘンの作戦の恐ろしさというか、なにしろ息も止まりそうな思い出。
それは私が昭和十四年八月、北支戦線に出征して以来、二十二年二月に復員するまでの生涯で最も強烈かつ鮮明に残る思い出である。
当時のニューギニアの各戦線は、オーストラリアとアメリカによる連合軍をもって攻勢に転じていた。日本軍はというと敵の火力の前に、無人の野を行くに等しいほど危機に瀕していた。
この戦場の要所サッテルベルグ高地の確保も無意味なほど、敵の攻撃は熾烈化していたため、第二十師団長片桐中将は全軍総攻撃の命令を下したのであった。
「攻撃は、昭和十八年十一月二十二日午前五時をもって開始する。各隊は第一戦を突破したあと、直ちに陣地を確保すること。また斬り込み隊もこれと合流すること。」これが田代大隊に与えられた作戦計画だった。
私は四人の部下をそれぞれの部署につけ、機関銃をすえて時間を待った。だがその時間の長さはこれまでに経験したことのないほど長く感じられた。あと五分、三分、二分、一分…ついに攻撃開始の時刻になったらドカーンと友軍の大隊砲が火を噴いた。銃いて二発三発と同時に火を噴いた。
ところがどうしたことか、ものの十分足らずで友軍の射撃がピタッととだえ、ただ敵の機銃だけが時折ジャングルにこだまするだけであった。友軍の攻撃が失敗に終わったことを物語るように、オーストラリア兵が何事もなかったような顔つきで往来しているのを見て私は一瞬迷ってしまった。
結局私は一時、この場を退いて部隊に合流することを決め、四人の部下にもその旨を伝えた。その時偶然にも儘田上等兵に遭い、作戦は失敗し、大隊の八割方戦死したということを聞いた。
このようにフインシュハーヘンの作戦にしても日本車は、不利を承知で戦い続けたのである。何しろ日本軍は大隊砲1、重機2、軽機5という貧弱な火力しかなく、しかも野砲連隊砲等の援護もなかった。これに対し連合軍は、後方から無限の援護射撃、全員が自動小銃、その上火器は数倍、それに無限の補充もあった。こういう状態でも転進作戦に入ったのであった。
私達は中国戦線では、常に優位に戦闘を進めてきたのに対し、ニューギニア戦では規模の大きさと毎日四十度を越す暑さに疲労困憊、食糧難と医薬品不足のため、負傷者や病弱者はみな置き去りにされていった。連合軍は、昼夜を分かたず、海からは艦砲射撃、空からは限りない空襲、そして後方陣地からは砲撃と、何日もかけて造った我が陣地や周囲の山も忽ち裸にしてしまたのである。
この頃より日本車の食糧は完全に底をつき、農場のパパイヤの木の根を堀り、ヤシの芽を採り野菜を食べた。そのほかネズミ、トカゲ、ザリガニなど口に入るものは手当たり次第食べるようになった。そうしなければ生きていけなかったからである。
長い長い戦闘行程には、いたる所で、飢えた病人が助けを求めているのに数知れず出合った。しかし我々にも助ける余裕や話かける余裕もなく、見捨てるように部隊は進むのであった。体は弱っていても、夜には交替で歩哨に立たねばならなかった。そして夜明けとともに出発という日の繰り返しであった。
一日の任務を終えて、今日も無事生きられた喜びを噛みしめながら草の上に体を横たえる。そして故郷の父母兄弟を思うのが楽しみであった。夜中のこと、近くで手榴弾の爆発音がしたのだという。戦友に墓穴を据って貰い、最後の一服をつけ、母の名や妻子の名を呼んで、戦友に介錯して貰って命を絶ったものも数多くいた。
余りの辛さに幾度か死を決意、手榴弾の安全栓を抜き発火準備をしたこともあったが、故郷のこと、戦友達のことを思い考え直した。死ぬのはたやすいが生きるのは難しいと自爆を思いとどまったのである。それからは必ず生きて帰り、もう一度故郷の土を踏んでお米を一口食べてからでも遅くはないと生きることのみ考えた。
この長くて辛い転戦作戦中、最後まで生き抜いてこられたのは、私の上官であった梶塚中隊長のすぐれた才能とそれからくる判断力と決断、そして厳正公正な命令下達等が相まってすべての作戦行動に犠牲を最小限に食い止められたものと思う。
今こうして心静かに考えると色んな事が思い浮かぶ。ニューギニア戦線において幾度となく斬り込み隊として命をかけ、生きて帰らぬ覚悟で参戦したが、戦争の空しさ、人命の大切なことは、戦地を生き抜いてきた人開だけが知ることではないだろうか。
空襲と母
鮫地区 鮫第一寿会
江渡豊治
昭和8年生(七二才)
太平洋戦争中の昭和二十年八月九日、当時私は小学六年で、早朝アメリカ軍の戦闘機「グラマン」の空襲にあいました。その恐怖の体験を文章にしたいと思います。
体の弱かった私は、小学一年生から三年生まで、体操の時間は参加もできず、ただ見ているだけで、母はいつも心配していたようでした。四年生の夏頃から母に連れられて海藻取りや、畑の野菜作りに出かけました。母は近所の子供達と一緒に遊べるようにと、出来ることを手伝わせ、体を丈夫にしようと思っていたようでした。五年生春頃から走ることが好きになり、秋の運動会には進んで参加、母に喜んでもらえるようになりました。
六年生の夏、八月九日朝、夢心地に聞こえていたと思います。母が大きな声で起きろ起きろ早く起きるんだ、と叫んでいるような気がして目が覚めました。途端に、家の上を雷のような音をたて数知れない戦闘機がグオングオンと飛んできました。耳の鼓膜が破れるような音とバババンバババンと何か弾けるような音、家中の窓ガラスが今にも割れるのではないかと思い、私は裸のまま腰を抜かし、服を着ようにもただわなわなと体が震え、母に手をひかれ玄関を出ました。母は私の服を横抱きにして防空壕へ逃げるんだと叫んでいました。ただ、一目散に走りました。防空壕まで百メートル位、小学校入り口の草木の中に兵隊さんが掘ってくれた穴がいくつもあり、母と私と転がるようにして入り、耳をふさいで、ただ震えておりました。戦闘機からの機銃掃射の音だけが港の上空に響いていました。母は姉を仕事に出すために、いつも朝早く起きて、朝食の用意をしていました。仕事で朝早く出かけていた姉が大声で帰って来ました。海防艦稲本が飛行機に囲まれて、たくさんの弾を受けているというのです。私は、防空壕の中で耳をふさいでいるだけでした。浜の方から油の煙る匂いがし、いつのまにか飛行機の音もなくなり、大人の人達がお互いに顔を見て安心したようで、私は初めて空襲されたんだと思いました。家に帰る気力もなくただ呆然としているだけでした。
母と姉に声をかけられて家へ、母はすぐに食事の用意をしてくれ朝食を食べていなかったのに気づきました。昼だというのに薄暗い家の中、一言もしゃべることもなく食事をすませ、窓から外を見てみると煙が町全体に広がり、外が騒がしくなり何か起きたんだろうと思いました。大人の人達が口々に水兵さん達が怪我をして運ばれて来たというのです。その様子は小学校裏通りの空き地から見えており、大人の人達は口々に海防艦稲木が爆弾を受けて、沈みそうだというのです。更に油貯蔵タンクが燃えていると、またこれからも空襲があるかもしれないとの「うわさ」が広まり、近所の人達が鮫を離れ逃避しようと口々に言い始めました。行くあてもないが夕方、母姉私と近所の人たちとで誘い合い、黒い煙を空一面に見ながら歩き、白銀を過ぎて振り返り、睦奥湊を過ぎてまた振り返り、夕焼けの空に薄黒い煙がみえておりました。何時間歩いたでしょうか、東の空が明るくなって町外れの人に間いたら剣吉(現在の名川町)だということ、「鮫から歩いて来たら大変だったでしょう。どこまで行くのですか。」と聞かれ「行く当てがなかったら休んでください。」とお茶を出してくれました。そのお茶とリンゴの美味しかったこと。見ず知らずの私達に親切にしていただき、「よろしかったら一日二日休んでもいい。」と言われ、ゆっくり休むことが出来ました。
その後、鮫にいつ帰ったのか記憶がなく、学校で先生から児童疎開すると言われ、現在の新郷村西越小学校に疎開、山林と森に囲まれた静かな村で、私達児童を親切に迎えてくれました。何日か過ぎて八月十五日西越小学校で終戦日を迎えました。
子供の頃の空襲の恐怖、町村の方々の親切な温かさに触れ、今元気で生きていられる喜び、私を丈夫に育ててくれた母のおかげだと思いました。
戦地で想像に絶する苦労、戦後復興に努力、苦労の甲斐あって経済的に落ち着いた平和を見ることも無く、亡くなられた人々を心にとどめ戦争体験を子や孫に言い伝えて、平和な日本を築いていって欲しいと思います。
母と二人の防空壕
小中野地区 新地町内ひまわり会
大野セツ子 昭和5年生(七五才)
「あ、B29だ。早く逃げろ。」と母の甲高い声。
すぐ家の前にある防空壕に転がるように飛び込んだ直後、爆音が響き、爆弾投下の大音響。防空壕がビシビシ揺れ崩れ落ちるのかと思うほど恐ろしい思いをしました。自分の耳に指を入れ固まって動けません。母と二人で「神様仏様お守り下さい。」と心の中で祈り続けておりました。昭和二十年八月某日、敗戦少し前の頃です。急に静かになり、隣組の人達が皆出てきて「凄かった、恐ろしい。」と口々に話し合いました。八戸線の睦奥湊、小中野の線路があり、鉄橋の両側に爆弾が投下され大きな穴が出来ました。近所の家の近くにも爆弾が投下されたので、その家の人が怪我をしたようです。
自分の家も線路の側でしたので、母は「ここも危ないから。」と言って、諏訪神社に大きな木がたくさんあるのでそこに避難するようにと決めました。
朝早くまだ薄明かりの頃、急ぎ足で母と二人で食料と言ってもスルメ、炒り豆、小さく切った昆布など色々袋に入れ、常現寺の脇道を通って走りました。ふとお墓を見ると草が生い茂り墓が全然見えず畑みたいでした。その風景を今もはっきり覚えております。
神社の鳥居の所に来た時また爆音、すぐ爆弾投下、今は八戸セメント会社ですが、私が子供の頃は磐城セメントでした。そのセメントが目標になり爆撃、爆音、爆撃に麦畑に伏せました。撃たれると思い急に母の顔が浮かび悲しかった。大きな木の下に五人位の男の人達が小さくなって隠れて見ていました。
鳥居の脇に小さな防空壕が二ヵ所あり急いで立ち上がって、一カ所の中に入ってみると、おばあさんと赤ん坊をおぶった女の人、奥の方には男の人が三人、大きな目で睨まれましたが、母の姿が見えません。その防空壕から出ようと思い足を出したら、男の人に「今出て行ったらここに爆弾を落とされる。」と言われ、悲しくなりました。母のことが心配で、泣きだしそうになりました。三十分位の時間でしたがものすごく長く感じ、攻撃爆弾が、こんなに恐ろしいとは思ってもみませんでした。
十五才真夏の終り頃でした。また急に静かになり外に出てみると母が私の姿を見て手を握り「決して離れるな。」と言いました。母は反対側にある防空壕に逃げ込んだそうです。私は母の手を強く握って放さないことにしました。それから、何回も攻撃がありましたが、母が逃げこんだ防空壕でまず食べることにしました。干しいも、スルメ、炒り豆を食べてしのぎました。
夜は攻撃がないので外に出て涼みました。その晩蛍の群れがキラキラ舞い飛び、光が流れる小さな小川を飾ってくれました。その光景は昼の恐ろしい攻撃を一瞬忘れさせてくれました。蛍さん本当に有難う。蚊に刺されて痒くても綺麗でした。夜が明けても攻撃がなくあたり一面静かで家に帰ってみました。
八月の何日か何時頃かわかりません。天気は良い日でした。爆音も静かに飛行機が低く飛んできたと思ったら、空から白い何かがヒラヒラ降ってきました。周りの人達が拾ってみていたので自 分も一枚拾い開いてみたら日本の国が戦争に負けたような事が書かれていました。その宇は日本語でした。
後で天皇陛下のお言葉がラジオで放送されるとのこと。組長さんの家に集まり天皇陛下の言葉を初めて聞きましたが、なんでも広島に新型爆弾が投下され、広島の人達が全滅だとのことでした。その爆弾とは、原子爆弾だと組長さんから聞かされました。
それから間もなく疎開していた祖父母、妹が帰ってきました。後で父も怪我ひとつせず北海道から帰り、喜び合いました。その頃、アメリカ兵が家々を回ってくると聞き、娘の私が危ないと思ったのでしょう、母が私に素肌を見せないために足袋を履かせ押入れに隠しました。
昭和二十年高等科二年を卒業後して五ヵ月後の八月の怖くて恐ろしい太平洋戦争の終りの思い出話です。
子供、孫に書き伝えておきたいと思い、筆を取りました。今現在七十五才のおばあさんです。
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 7
伝統を誇る荒谷の?
平成五年度売市?組の名簿
代表者 田中博逸
親方 田中博逸 中村孝 坂本忠
北村 進 松原誠 西村日出圀
太夫
先太夫藤九郎 竹岸 昇
中太夫中畔止め 川口徳治
後太夫畔止め 中村 孝 川口義国
笛 松橋 忠
太鼓 市川 勇
売市の「えんぶり」の「のぼり」に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と記している。荒谷のえんぶりは、「えんぶり」の始祖であるといわれる所以からであろう。
荒谷のえんぶりは、五拍子である。五拍子は、敵を攻撃するのに都合がよかったのであろう。太鼓は平打の太鼓といわれ、敵陣への切り込みに使用された。
二通りの型があり、一つは、昼攻撃型で、春祈梼のふりをして敵陣に向う。もう一つは、夜攻撃型、覆面をして敵に顔を見られないようにしている。この覆面は、現在の黒い頭巾の事であろう。当時の名残りである。
帯刀して、えんぶりを舞うのも武士の名残りであろう。又、えんぶりの旗は侍が戦いの時、使用した旗印であるといい伝えられている。
① えんぶりの起源
Q ?の起源には色々の説があるようですが
A ?のはじまりはいつ頃誰が始めたのか、明 らかではありませんが、その起源を伝える伝説は2~3残されています。
「南部三郎光行」説。「藤九郎盛国」説。「源九郎義経」説などが、その代表的なものです。売市にゆかりのある「藤九郎盛国説」を話しましょう。
藤九郎守国(盛国)説
根城南部家の先祖、南部実長(南部光行の六男)が甲州波木井(はきい・山梨県身延町)に在住していた時に、?が始まったという説であります。
実長は日蓮上人を厚く敬い、法名を日円と言っていました。日蓮を佐渡から迎えて身延山を寄進し、お寺を建てて、手厚くもてなしました。
橘藤九郎守国は、実長の家来で耕作奉行として仕えていました。
建治2年(1276)の正月十五日殿様の御前で唄いながら舞いを披露しました。舞を?(えんぶり)うたはごいわい(御祝)と申しあげました。これが?のはじまりであると言っております。
実長から4代目の殿様の南部師行が八戸根城に建武元年(1334)に築城し、その一族や家来も甲州から八戸に移住してきました。守国の子孫も同行して来て、根城の荒谷村(八戸市売市)に移り住み、?を伝えた……と言うのが根城南部の?起源説であります。
この示承を受け売市の?組は、旗印に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と表示しています。
② えんぶり摺りとエンコ・エンコ
Q ?は田植え踊りと思いますがえんぶりとは 変った名前ですね。
A ?は八戸地方の農民達が豊年を祈願して踊 る田植え踊りであります。?と呼ぶのは「えぶり」という農具の名からきたもので、農民達が農具を持って踊ったのが始まりと言われております。?は田を摺る作業が踊りとなったことから踊ることを「摺る」と言っております。?の主役は太夫と呼ばれ烏帽子をかぶった舞い手達であります。
農業を守って下さる神様、つまり農神様は華麗な烏帽子に降臨され、太夫達は神の化身になると考えられています。
太夫は組によって3人或は5人ですが、売市は3人です。先頭の太夫を藤九郎、2番目を中の太夫、3番目を畔どめと呼んでいます。
太夫は烏帽子をかぶるほか、ぶっちゃき羽織 (又はぶっさき羽織)と呼ぶ直垂に似た羽織を着ています。売市の場合背中に三階菱の大きな紋と裾に波型が染められており、色は濃紺ですが、他の組では浅黄もあります。
一般の田植踊りのように華やかではなく、神事的な形が色濃く残っていて、足をふまえて、頭の烏帽子をふるさまは一幅の絵であると言えましょう。
子供のおどりエンコ・エンコ
Q 子供もカスリの着物を着て踊っていますね。A 子供も組に入って「エンコ・エンコ」という踊りを演じます。言葉の意味は不明ですが、神の来臨を告げる内容であると言われております。普通少年3人によって踊られます。
農繁期のネコの手も借りたい時に、子供達 も一役買い、幼児の子守りをするというのが踊りになったと言われています。手に持った竹の輪に天保銭を付けた「ゼニダイコ」は子供をあやす「ガラガラ」の役をします。
③ 刀に対する心構え
Q 売市の?は武家とゆかりがあると伝えられ ていますが、何か特微がありますか。
A 売市の?は「なが?」です。従って古典的で摺りは悠長で動作は優雅なのですが、摺りの節々に武者が戦にのぞんだ時の動作が、チラチラ表れます。お囃子の太鼓も早打ちで、それは敵陣への切り込みの攻撃型であると言われています。それに黒い頭巾は忍者のかぶり物と同じであると聞いております。
売市の?組は大小を帯刀しております。従って組の者に対する礼儀作法などの躾はきびしく、特に刀の扱い方は武士の心を持てと躾けられます。戦後は行列には模造刀を帯びていますが、作法は簡略にせず、方式通りに行っております。売市にとっては、刀は武士の持ち物と尊重し、?の小道具とは思っておりません。同じように、囃方の服装も他に比べて大変地味です。
④ 売市の烏帽子
Q 売市の烏帽子には特微があると聞いていま すが。
A ?では烏帽子を三揃い持っています。一昨 年作った物、昭和十四年の物、それに大正初期 の物の三種であります。一番古いものは博物館にでも寄贈しようかと話し合っております。図柄は型紙があって他の組のものと大体同じですが、昨年作ったものは努めて明るい感じに作ったので、十四年の「あめ色」のものに比べると、華かに見えるでしょう。作り方は、売市独得の方法で作っています。大きな判の日本紙を拡げて、それに布を貼り合せ、その上に上質の日本紙を何枚か貼って 固めます。乾いてから二つに折り合せますが、形を整えるのに苦心します。そのかわり丈夫で、後の方を角ばらせるのが特徴であります。よその烏帽子のように柾やダンボール紙などを芯に使えば軽くて作り易いのですが売市では使いません。それが自慢であり又特徴だと言えるでしょう。 日本紙だけで作りますから、目方が大変重くなります。烏帽子をかぶった時、紐をしっかり締めないと頭をふった時、烏帽子がふっとんでゆくと言います。今烏帽子を作る人は、2人位しかいないのではないでしょうか。作り賃は二十万円を超え ると言われています。
烏帽子の図柄
Q 烏帽子の模様はおめでたいもの、農作業な どありますが、きまりがあるのですか。
A 太夫の役柄によって一定しているようです。
先頭の藤九郎は「代かき、苗取り、田植え、稲荷様」中の太夫は「宝づくし」畔どめは「鶴・亀、エビス・大黒」が描かれているようです。
烏帽子には、上から後にかけて五色の紙の「たてがみ」風のものがありますが、そこに神が宿るといい、丁寧に扱っています。ぬいだ時は、床の間とか神棚或は台の上など、必ず高い所に安置して、お神酒をあげ、柏手を打つなど、?のシンボルとして大切に扱っています。
⑤ なが?とどうさい?
Q 売市の?は「なが?」と聞きましたが、
「どうさい?」との見分け方は。
A ?は「なが?」と「どうさい?」との二種ですが、烏帽子に長い五色のテープ状の紙のふさが付いている方が「どうさい?」です。
又歌の中に「ドーサイ」のかけ声が人ります。 ふさが無くて先頭の藤九郎の烏帽子に赤い牡 丹の花(又は卯の花)が付いているのが「なが?」です。なが?はごいわい?、又はキロキロとも呼ばれます。ただ売市には牡丹の花も卯の花も付けていません。
Q その他の違いは
A「なが?」と「どうさい?」とでは摺りが違います。「なが?」は古典的と言われていますが、 テンポが遅く動作が荘重です。神への祈りの所作をとどめていると言えます。現代調に言えばワルツ調だと言う人もあります。それに引きかえ「どうさい?」はリズミカルであり、勇壮で現代感覚でルンバ調と言えましょう。華やかですから若い人に好まれ、「なが?」から「どうさい?」に変る組もふえてきたと言うことです。最近の行列に参加している組は「なが?」7組に対して、「どうさい机」は30組とずい分差があります。
⑥ 御前えんぶり
Q 売市の?は御前?だと聞いていましたが。
A 御前?は、売市、櫛引、田面木、中居林、白銀、湊、柳町、石堂それに後から糠塚と大久保が加えられ十組ありますが、藩政時代に毎年交代で南部邸に上り、御前で?を奉仕しました。これ等の組は刀を帯びるなど格式があると言われております。
廃藩後も続けられ八幡町(今の内丸)の南 部家の屋敷で摺り、南部邸が南部会館になってから市役所の前庭で行うようになりました。
御賄所日誌
南部藩時代は、摺った時の御祝儀に、殿様から次のようなものを賜わったということです。
黒蝶足膳にて、中白米壱升、鳥目十疋、肴台にて干鰯五串、鏡もち弐面、或は黒蝶足膳で鏡餅弐枚、中白米弐升、鳥目十疋、濁酒五升、田作塩煮、浅漬大根とあり、末尾に小頭安太郎が直垂を着用して取り計らったと記されています。
増補奥南温古集
八戸藩の歴史を書いたもののうち、最も古いと思われる接待治郷の「増補奥南温古集」に、御前えんぶりについて書かれています。この時の御前えんぶりは7組があげられています。
大小帯刀については荒谷村の外は「相ならず」と仲々きびしい扱いをしているようです。
⑦ 「取締り」?組
Q 売市は?組の「取締り」と言いますが、どういう役目ですか。
A 明治維新後、えんぶりは廃止させられてい ましたが、街の要望で大沢多門はその復活に努力し、明治十四年新羅神社の豊年祭として行列を行うようになりました。これはその後の話。
河野市兵衛家文書「取締り」について次の ように書かれています。行列の先頭の陣取りの争いで喧嘩があり、売市、糠塚、中居林、類家の四組を「取締り」にして、抽せんによって先頭をきめるようにして争いを防いだという。大沢多門の知恵でしょう。取締りは?組同志の争いや神事にまつわるので礼儀を正しくする。或は若い者にあり勝ないさかいなどの仲裁をするという役目であります。取締は、各組の幟旗の上に紺地に白ヌキで取締と染ぬいた小旗をつけています。
⑧ 楽器と音頭とり
Q お囃子は笛、太鼓、手びらがねという誠に 原始的な簡単な楽器ですが、仲々にぎやかで春を呼ぶという感じで、心が浮き立ちますね。
A それに音頭とりと言う唄い手が、十数名つ いております。色紙で作った「ジャハイ」とよぶ采配をふって音頭をとって歌います。この采配は昔櫛引八幡宮から授かった五色の幣が変形したものということです。従って腰にするようなことはなく、襟元に差す習わしになっています。ジャハイのうち銀色は組頭をあらわします。えんぶりは十数種の舞いからなり、それぞれにお囃子と歌がついています。歌詞は口から口に伝えてきたので、歌っている本人にも判らない部分が多いようです。その一部を現代文で紹介すれば……
鎌倉の早乙女 五月召したるかたびら肩と裾は蓬ぎ草なかはうんずら卯の花……などいうのもあり、無骨な農民のうちにも、なかなかのロマンチストがいたようです
⑨ えんぶりあれこれ
Q ?の世間の評価はどうですか。
A 全国民謡舞踊大会、大分昔のことになりま したが、標題のような催しが昭和3年4月、東京明治神宮外苑の日本青年会館で催されました。 全国から7組の舞踊が選ばれて出演しました。青森県代表として八戸市糠塚えんぶり組が選ばれて出場、舞踊中見事第一位に入賞して、大いに賞讃されました。
国の民俗文化財に指定
?の特異な服装や歌、伝統的な構成に対して、昭和五四年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
Q ?は作り字ですか。
A ?は立派な漢字、?は水稲に八で、八戸に ちなんだ作り字ではないかと思われますが、辞典にある漢字です。醍醐天皇の昌泰(898~929)年中昌住の編んだ「新撰字鏡」の農業調度章の中に「?=江夫利」あり、その他にも見えています。 Q えんぶりの巻物が各組にあって、えんぶり 摺の大意が書いてあるそうですが。
A ?の故事来歴を書いた巻物が、古い?組に 伝えられています。八戸市博物館にも寄託されたものが保管されております。
南部家の奥州下向の歴史から説きおこし、?が侍の武装や武具に由来すること等が、記されています。文中に荒谷村(現売市)の?組が古いしきたりを伝える組で、大小を帯ぶると書かれています。荒谷村を知っている人の筆でしょうか? 売市の?組にも巻物があるそうで、みだりに見ると目がつぶれると、箱に入れて封をして保管(高崎裕允氏)しているということです。
Q 前にも?と刀が話題になりましたが、刀の 扱いについてお知らせ下さい。
A 刀は取締り組の?組だけが、腰に差すもの と言われています。ただ腰に差すだけで抜刀することはありません。
⑩ これからの?の世界
Q 後援者を失った?のこれからの行き方は。
A 昔と違って農閑期と言っても、今の農家で は遊んでいる人はありません。又?は農家の人ばかりではなく、職人でも勤人でも、?の好きな者は集ってきます。勿論みんな無報酬で奉仕です。それでも?を出すには必要経費は産み出さなければなりません。烏帽子や衣装の補修費、参加者の食事や慰労費など最低限度の経費は必要です。 今までは、豊年祭には「うちの?が来る」と言ってご馳走を作り、多額の祝儀で祝ってくれた町の地主がいたのでしたが、それが農地改革で消えてしまいました。その後は専ら「門付け」によって、一般に接するようになったわけです。?は大衆のものになったとも言えますが、それが必ずしも 全面的に歓迎されているとも言えないのが現実です。えんぶりの祝儀の戦後派らしい額(紫峰) と川柳は見ぬいています。えんぶりに女世帯の堅い門(和穂)時にはこういうつらい場面にもぶつかることもあります。?の伝統の灯を守り、国の民俗文化財として継続を図るためには、門付けされる市民の心に、どう対応すべきかの課題を、解かなければならないでしょう。
平成五年度売市?組の名簿
代表者 田中博逸
親方 田中博逸 中村孝 坂本忠
北村 進 松原誠 西村日出圀
太夫
先太夫藤九郎 竹岸 昇
中太夫中畔止め 川口徳治
後太夫畔止め 中村 孝 川口義国
笛 松橋 忠
太鼓 市川 勇
売市の「えんぶり」の「のぼり」に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と記している。荒谷のえんぶりは、「えんぶり」の始祖であるといわれる所以からであろう。
荒谷のえんぶりは、五拍子である。五拍子は、敵を攻撃するのに都合がよかったのであろう。太鼓は平打の太鼓といわれ、敵陣への切り込みに使用された。
二通りの型があり、一つは、昼攻撃型で、春祈梼のふりをして敵陣に向う。もう一つは、夜攻撃型、覆面をして敵に顔を見られないようにしている。この覆面は、現在の黒い頭巾の事であろう。当時の名残りである。
帯刀して、えんぶりを舞うのも武士の名残りであろう。又、えんぶりの旗は侍が戦いの時、使用した旗印であるといい伝えられている。
① えんぶりの起源
Q ?の起源には色々の説があるようですが
A ?のはじまりはいつ頃誰が始めたのか、明 らかではありませんが、その起源を伝える伝説は2~3残されています。
「南部三郎光行」説。「藤九郎盛国」説。「源九郎義経」説などが、その代表的なものです。売市にゆかりのある「藤九郎盛国説」を話しましょう。
藤九郎守国(盛国)説
根城南部家の先祖、南部実長(南部光行の六男)が甲州波木井(はきい・山梨県身延町)に在住していた時に、?が始まったという説であります。
実長は日蓮上人を厚く敬い、法名を日円と言っていました。日蓮を佐渡から迎えて身延山を寄進し、お寺を建てて、手厚くもてなしました。
橘藤九郎守国は、実長の家来で耕作奉行として仕えていました。
建治2年(1276)の正月十五日殿様の御前で唄いながら舞いを披露しました。舞を?(えんぶり)うたはごいわい(御祝)と申しあげました。これが?のはじまりであると言っております。
実長から4代目の殿様の南部師行が八戸根城に建武元年(1334)に築城し、その一族や家来も甲州から八戸に移住してきました。守国の子孫も同行して来て、根城の荒谷村(八戸市売市)に移り住み、?を伝えた……と言うのが根城南部の?起源説であります。
この示承を受け売市の?組は、旗印に「?元祖藤九郎盛国嫡統売市」と表示しています。
② えんぶり摺りとエンコ・エンコ
Q ?は田植え踊りと思いますがえんぶりとは 変った名前ですね。
A ?は八戸地方の農民達が豊年を祈願して踊 る田植え踊りであります。?と呼ぶのは「えぶり」という農具の名からきたもので、農民達が農具を持って踊ったのが始まりと言われております。?は田を摺る作業が踊りとなったことから踊ることを「摺る」と言っております。?の主役は太夫と呼ばれ烏帽子をかぶった舞い手達であります。
農業を守って下さる神様、つまり農神様は華麗な烏帽子に降臨され、太夫達は神の化身になると考えられています。
太夫は組によって3人或は5人ですが、売市は3人です。先頭の太夫を藤九郎、2番目を中の太夫、3番目を畔どめと呼んでいます。
太夫は烏帽子をかぶるほか、ぶっちゃき羽織 (又はぶっさき羽織)と呼ぶ直垂に似た羽織を着ています。売市の場合背中に三階菱の大きな紋と裾に波型が染められており、色は濃紺ですが、他の組では浅黄もあります。
一般の田植踊りのように華やかではなく、神事的な形が色濃く残っていて、足をふまえて、頭の烏帽子をふるさまは一幅の絵であると言えましょう。
子供のおどりエンコ・エンコ
Q 子供もカスリの着物を着て踊っていますね。A 子供も組に入って「エンコ・エンコ」という踊りを演じます。言葉の意味は不明ですが、神の来臨を告げる内容であると言われております。普通少年3人によって踊られます。
農繁期のネコの手も借りたい時に、子供達 も一役買い、幼児の子守りをするというのが踊りになったと言われています。手に持った竹の輪に天保銭を付けた「ゼニダイコ」は子供をあやす「ガラガラ」の役をします。
③ 刀に対する心構え
Q 売市の?は武家とゆかりがあると伝えられ ていますが、何か特微がありますか。
A 売市の?は「なが?」です。従って古典的で摺りは悠長で動作は優雅なのですが、摺りの節々に武者が戦にのぞんだ時の動作が、チラチラ表れます。お囃子の太鼓も早打ちで、それは敵陣への切り込みの攻撃型であると言われています。それに黒い頭巾は忍者のかぶり物と同じであると聞いております。
売市の?組は大小を帯刀しております。従って組の者に対する礼儀作法などの躾はきびしく、特に刀の扱い方は武士の心を持てと躾けられます。戦後は行列には模造刀を帯びていますが、作法は簡略にせず、方式通りに行っております。売市にとっては、刀は武士の持ち物と尊重し、?の小道具とは思っておりません。同じように、囃方の服装も他に比べて大変地味です。
④ 売市の烏帽子
Q 売市の烏帽子には特微があると聞いていま すが。
A ?では烏帽子を三揃い持っています。一昨 年作った物、昭和十四年の物、それに大正初期 の物の三種であります。一番古いものは博物館にでも寄贈しようかと話し合っております。図柄は型紙があって他の組のものと大体同じですが、昨年作ったものは努めて明るい感じに作ったので、十四年の「あめ色」のものに比べると、華かに見えるでしょう。作り方は、売市独得の方法で作っています。大きな判の日本紙を拡げて、それに布を貼り合せ、その上に上質の日本紙を何枚か貼って 固めます。乾いてから二つに折り合せますが、形を整えるのに苦心します。そのかわり丈夫で、後の方を角ばらせるのが特徴であります。よその烏帽子のように柾やダンボール紙などを芯に使えば軽くて作り易いのですが売市では使いません。それが自慢であり又特徴だと言えるでしょう。 日本紙だけで作りますから、目方が大変重くなります。烏帽子をかぶった時、紐をしっかり締めないと頭をふった時、烏帽子がふっとんでゆくと言います。今烏帽子を作る人は、2人位しかいないのではないでしょうか。作り賃は二十万円を超え ると言われています。
烏帽子の図柄
Q 烏帽子の模様はおめでたいもの、農作業な どありますが、きまりがあるのですか。
A 太夫の役柄によって一定しているようです。
先頭の藤九郎は「代かき、苗取り、田植え、稲荷様」中の太夫は「宝づくし」畔どめは「鶴・亀、エビス・大黒」が描かれているようです。
烏帽子には、上から後にかけて五色の紙の「たてがみ」風のものがありますが、そこに神が宿るといい、丁寧に扱っています。ぬいだ時は、床の間とか神棚或は台の上など、必ず高い所に安置して、お神酒をあげ、柏手を打つなど、?のシンボルとして大切に扱っています。
⑤ なが?とどうさい?
Q 売市の?は「なが?」と聞きましたが、
「どうさい?」との見分け方は。
A ?は「なが?」と「どうさい?」との二種ですが、烏帽子に長い五色のテープ状の紙のふさが付いている方が「どうさい?」です。
又歌の中に「ドーサイ」のかけ声が人ります。 ふさが無くて先頭の藤九郎の烏帽子に赤い牡 丹の花(又は卯の花)が付いているのが「なが?」です。なが?はごいわい?、又はキロキロとも呼ばれます。ただ売市には牡丹の花も卯の花も付けていません。
Q その他の違いは
A「なが?」と「どうさい?」とでは摺りが違います。「なが?」は古典的と言われていますが、 テンポが遅く動作が荘重です。神への祈りの所作をとどめていると言えます。現代調に言えばワルツ調だと言う人もあります。それに引きかえ「どうさい?」はリズミカルであり、勇壮で現代感覚でルンバ調と言えましょう。華やかですから若い人に好まれ、「なが?」から「どうさい?」に変る組もふえてきたと言うことです。最近の行列に参加している組は「なが?」7組に対して、「どうさい机」は30組とずい分差があります。
⑥ 御前えんぶり
Q 売市の?は御前?だと聞いていましたが。
A 御前?は、売市、櫛引、田面木、中居林、白銀、湊、柳町、石堂それに後から糠塚と大久保が加えられ十組ありますが、藩政時代に毎年交代で南部邸に上り、御前で?を奉仕しました。これ等の組は刀を帯びるなど格式があると言われております。
廃藩後も続けられ八幡町(今の内丸)の南 部家の屋敷で摺り、南部邸が南部会館になってから市役所の前庭で行うようになりました。
御賄所日誌
南部藩時代は、摺った時の御祝儀に、殿様から次のようなものを賜わったということです。
黒蝶足膳にて、中白米壱升、鳥目十疋、肴台にて干鰯五串、鏡もち弐面、或は黒蝶足膳で鏡餅弐枚、中白米弐升、鳥目十疋、濁酒五升、田作塩煮、浅漬大根とあり、末尾に小頭安太郎が直垂を着用して取り計らったと記されています。
増補奥南温古集
八戸藩の歴史を書いたもののうち、最も古いと思われる接待治郷の「増補奥南温古集」に、御前えんぶりについて書かれています。この時の御前えんぶりは7組があげられています。
大小帯刀については荒谷村の外は「相ならず」と仲々きびしい扱いをしているようです。
⑦ 「取締り」?組
Q 売市は?組の「取締り」と言いますが、どういう役目ですか。
A 明治維新後、えんぶりは廃止させられてい ましたが、街の要望で大沢多門はその復活に努力し、明治十四年新羅神社の豊年祭として行列を行うようになりました。これはその後の話。
河野市兵衛家文書「取締り」について次の ように書かれています。行列の先頭の陣取りの争いで喧嘩があり、売市、糠塚、中居林、類家の四組を「取締り」にして、抽せんによって先頭をきめるようにして争いを防いだという。大沢多門の知恵でしょう。取締りは?組同志の争いや神事にまつわるので礼儀を正しくする。或は若い者にあり勝ないさかいなどの仲裁をするという役目であります。取締は、各組の幟旗の上に紺地に白ヌキで取締と染ぬいた小旗をつけています。
⑧ 楽器と音頭とり
Q お囃子は笛、太鼓、手びらがねという誠に 原始的な簡単な楽器ですが、仲々にぎやかで春を呼ぶという感じで、心が浮き立ちますね。
A それに音頭とりと言う唄い手が、十数名つ いております。色紙で作った「ジャハイ」とよぶ采配をふって音頭をとって歌います。この采配は昔櫛引八幡宮から授かった五色の幣が変形したものということです。従って腰にするようなことはなく、襟元に差す習わしになっています。ジャハイのうち銀色は組頭をあらわします。えんぶりは十数種の舞いからなり、それぞれにお囃子と歌がついています。歌詞は口から口に伝えてきたので、歌っている本人にも判らない部分が多いようです。その一部を現代文で紹介すれば……
鎌倉の早乙女 五月召したるかたびら肩と裾は蓬ぎ草なかはうんずら卯の花……などいうのもあり、無骨な農民のうちにも、なかなかのロマンチストがいたようです
⑨ えんぶりあれこれ
Q ?の世間の評価はどうですか。
A 全国民謡舞踊大会、大分昔のことになりま したが、標題のような催しが昭和3年4月、東京明治神宮外苑の日本青年会館で催されました。 全国から7組の舞踊が選ばれて出演しました。青森県代表として八戸市糠塚えんぶり組が選ばれて出場、舞踊中見事第一位に入賞して、大いに賞讃されました。
国の民俗文化財に指定
?の特異な服装や歌、伝統的な構成に対して、昭和五四年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
Q ?は作り字ですか。
A ?は立派な漢字、?は水稲に八で、八戸に ちなんだ作り字ではないかと思われますが、辞典にある漢字です。醍醐天皇の昌泰(898~929)年中昌住の編んだ「新撰字鏡」の農業調度章の中に「?=江夫利」あり、その他にも見えています。 Q えんぶりの巻物が各組にあって、えんぶり 摺の大意が書いてあるそうですが。
A ?の故事来歴を書いた巻物が、古い?組に 伝えられています。八戸市博物館にも寄託されたものが保管されております。
南部家の奥州下向の歴史から説きおこし、?が侍の武装や武具に由来すること等が、記されています。文中に荒谷村(現売市)の?組が古いしきたりを伝える組で、大小を帯ぶると書かれています。荒谷村を知っている人の筆でしょうか? 売市の?組にも巻物があるそうで、みだりに見ると目がつぶれると、箱に入れて封をして保管(高崎裕允氏)しているということです。
Q 前にも?と刀が話題になりましたが、刀の 扱いについてお知らせ下さい。
A 刀は取締り組の?組だけが、腰に差すもの と言われています。ただ腰に差すだけで抜刀することはありません。
⑩ これからの?の世界
Q 後援者を失った?のこれからの行き方は。
A 昔と違って農閑期と言っても、今の農家で は遊んでいる人はありません。又?は農家の人ばかりではなく、職人でも勤人でも、?の好きな者は集ってきます。勿論みんな無報酬で奉仕です。それでも?を出すには必要経費は産み出さなければなりません。烏帽子や衣装の補修費、参加者の食事や慰労費など最低限度の経費は必要です。 今までは、豊年祭には「うちの?が来る」と言ってご馳走を作り、多額の祝儀で祝ってくれた町の地主がいたのでしたが、それが農地改革で消えてしまいました。その後は専ら「門付け」によって、一般に接するようになったわけです。?は大衆のものになったとも言えますが、それが必ずしも 全面的に歓迎されているとも言えないのが現実です。えんぶりの祝儀の戦後派らしい額(紫峰) と川柳は見ぬいています。えんぶりに女世帯の堅い門(和穂)時にはこういうつらい場面にもぶつかることもあります。?の伝統の灯を守り、国の民俗文化財として継続を図るためには、門付けされる市民の心に、どう対応すべきかの課題を、解かなければならないでしょう。
東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 2
まず本来の目的である北海道との連絡と資材輸送のための港湾を考え、次に港湾と街道沿いの町を結び産業の振興を促すことを考えたわけであろう。
また、トンネル建設の技術はまだ幼稚であったからなるべく避けようとしたのであるが、鉄橋も、利根川のようなところは川の両側にまず線路を敷き、橋はあとから完成させるという方法をとらなければならなかったし、荒川やその他の川も最初は木の仮橋であった。
勾配ももちろん避けるに越したことはない。最初川口から工事を開始したのは工事のやりやすい平地であるという理由もあったのである。
東北本線の勾配は、黒磯・郡山間、松川・白石間は四十分の一、郡山・松川間は五十分の一、松島附近と、盛岡以北は大体六十分の一であるが、奥中山附近は四十二分の一の急勾配となっている。
いずれにしても、実際の東北本線の路線が決定するまでは、住民の反対や、工事の難易などによっていろいろ変わっているが、くわしくはわからない。
なお、東北本線という名称は、国有後に定められたもので、建設当時は一定の名称はなかったから、本篇では便宜上東北本線という名称を仮に使用する。
.最初の工事は川口から 第1区線
第1区線の東京・前橋間については、十四年六月に十二日会社側から「創立願が許可になったときは政府で工事をやってもらいたい」と請願しており、これが認められ、政府の特許条約書にも鉄道局が工事をすることと明記されている。
工事局は十五年六月赤坂榎坂町に出張所を置き、日本鉄道会社線の建設と監督の事務を一切ここでやることとした。日本鉄道会社も荒川の西岸に出張所を設けた。建物は粗末な小屋で、社員は矢立と半紙を四つ折にした大福帳を腰にぶら下げて執務したものだという。
会社は十五年一月十六日第1区線の工事仕様書と予算書の指示を工部卿に申請し二月六日に交付された。これによると品川・前橋間七四マイル四○チェーンの工事費三百二十四万九百四十一円を要するとなっていた。官設線の新橋・横浜間の鉄道の品川駅を起点とし、東京市街の北端を廻って、板橋近くに出て戸田川を越え、中仙道に沿って前橋に達するものである。横浜から前橋まで鉄道で結ぶという構想である。つまり東京・青森間の鉄道というのは品川を起点とするというのが最初の計画であったわけである。
第1区線の工事は次の3区間にわかれている。しかしこれはすぐ変更された。
品川・川口 14マイル(予算 934、276円)……第一部
川口・熊谷 31マイル(予算 899、981円)……第二部
熊谷・前橋 29マイル40チェーン (1、397、784円)……第三部
品川・川口間は市街地のしかも高低の差の多い所に工事を起こすので、距離の割には高くつくわけである。そこでこの区間はあとまわしにしようということになったのである。予算副書というものには「品川或ハ新橋ヨリ延スヲ止メ、先ツ戸田川ヨリ上野近傍便宜ノ所二止メ、而シテ新橋トノ連絡ハ暫ク水運二頼ルコトトセバ里程ハ僅カニ6英里許ニ減縮シ経費従テ其半二及バス……」 とあり、工事の容易な点と経費が半分しかかからないという点で、品川・川口間をやめ、上野附近からと予定変更した。前に述べたボイル案に似たものとなったのである。実はそうしなければならない事情があった。その頃会社には資金が全くなかったということが大きな原因である。出資金の第1回払込は十五年六月であり、しかも全国に株の募集を行なっている最中であった。工事の延滞は以後の株募集に影響を与えることになるわけである。会社は十五年一月二十三日政府に対し、三十万円の借金を申し込んだ。
二月中旬許可され二十八日に大蔵省から受け取り、建設費の内金として工部省に納入した。この借金は、8分の利子をつけて翌十六年年五月二十五日元利とも完済している。
ところで会社は工事ばかりか金の出納まで鉄道局に任せきりなので、鉄道局長井上勝は会社の社長や理事委員を呼んで注意を与えた。
「工事を鉄道局に委託するのはよいが、工事費の出納まで政府がやるのはどうかと思う。会社は局外者のようでおかしい。将来第2区線をやるとき困るだろう。会社自体で出納の責任を持つようにしなければうまくいくはずはない」
会社側もこれは当然と了承し、以後会社側がやるようになった。
東京・前橋間はこうしたいきさつもあって、もっとも有効に金を使うため、工事の割合楽な川口・熊谷間から始めることになった。
しかし品川又は新橋から工事をするのでなければ、外国から輸入した資材を現場に運んだり、工事用列車を走らせることができないわけである。そこで、川口までの連絡は水運によった。横浜から隅田川・荒川を上って川口に入ったのである。
十五年六月十五日川口・熊谷間の工事が開始されたのであるが、この最初の区間を担当した技師はかつて釜石鉱山の鉄道を手がけた工部省権少技長毛利重輔である.九月一日川口で盛大な起工式が行なわれた。工部省官吏、地方官吏、沿道株主等二百余名が参列した。会社は茶菓酒食を出し、善光号という機関車に土運車数量を連結して来賓を乗せ、四五マイルほどの大場村まで運転し、工事の実況を見せた。
上野・川口間は支線
関東平野を突っ切って、工事が順調に進展すると、品川・川口間の線路をどうするか早く決めなければならなかった。 十五年七月十八日会社の株主総会で、会社側はこの問題を説明している。
「そもそも第1区線は品川を基点として板橋に出ることになっている。東京は十里四方もあるのに駅といえば品川と新橋だけである。日本橋以南の人はこの両駅を経て板橋に行くのはよいとして、神田、浅草、本所などの各区から行く者は北の方に行くのに人力車で南に向かわなければならない。これは時間と金がかかって不便である。むしろまっすぐ板橋に行ったほうがよいくらいである。貨物などはことのほか不便である。そこで上野の山下に駅をつくり、王子を経て川口に達する支線をつくれば、線路は四~五マイルで客貨とも便利であろう」
こうして別に上野から川口まで支線を敷き、更に予定通り品川・板橋・川口間の連絡線をつくることを議決し、十五年八月三日上野・川口間の新線建設について工部省に申請二十四日認可された。
十月中に測量を終わり、同下旬上野の旧下寺跡から工事を始めた。この工事の担当者は権少技長増田礼作である。この区間の主要な工事は荒川の橋梁で最初は仮橋をつくって線路を通し、十六年五月から本橋梁の工事を始めた。
荒川橋梁は十七年二月十四日完成した。延長三千三十二フィート、ワーレン形橋桁四連を架し、これを支える橋脚は五個、巾二フィート高さに十二フィートで直径十二フィートの煉瓦造井筒基礎上に立っている。将来複線とする予定で最初からそれだけの巾で作られたという。工事は鉄道局雇小川勝五郎が請負った。披は「鉄橋小川」といわれた名人である。煉瓦は高島嘉右衛門が請負い元郷村で製造した。
上野駅は永久極端駅と呼ばれ、支線どころか東北本線の大玄関となった。その場所は上野寛永寺旧下寺跡で、上野公園の東明地といわれていた所である。十五年十一月八日東京府知事にその土地二万九千坪の貸し下げを申請し、十三日許可となった。あとで会社は千坪を返したが、駅の敷地としては、当時大変広大な感じがしたといわれる。この外山下町1番地の区会議事堂跡や小学校跡の貸下げを受けている。
上野にステンショが建つということになると、上野山下町から車坂あたりまで土地の値段がぐんぐんあがり、十六年四月二十一日の郵便報知によると、地価は3倍ぐらいになり、一坪千六百円円だったのが、三千二百五十円で売れた例がでている。
上野・高崎間開業
十六年七月二十六日上野・熊谷間の工事が完了し、この日試運転が行なわれた。小松宮彰仁、北白川宮能久、伏見宮貞愛の三親王を始め、三条太政大臣、徳大寺宮内卿、参議等が臨席した。二十八日上野・熊谷間に2往復の旅客列車が運転され、ここに日本最初の私設鉄道が営業を開始した。
会社としては開業式を八月下旬か九月上旬にやる予定で、宮内郷に行幸の伺書を出し、承認も得ており、内々準備を進めていた。ところが井上鉄道局長から工部卿に対し、開業式は見合わせるべきだという意見が出された。上野・熊谷間はほんの一部分であるし、営業も本式のものでなく、車両もそろっていない。第1区線は完了していないから開業式は早計であるという理由である。
工部卿佐々木高行は吉井社長にこの意見を示して再考を促したりしているうち十七年になってしまい、高崎までの開通が間近になってきたので、開業式は断念した。
改めて上野・高崎間開業式を行なうこととしたのである。上野・高崎間は十七年五月一日開通となったが、この日開通式は行なわれなかった。ちょうど天皇が御病気のため、改めて六月二十五日上野で開かれることと決定した。
十七年六月二十五日七時十分明治天皇は、礼服の会社役員等がお迎えする中を上野駅に御到着、お召列車にお乗りになられた。皇族、大臣、参議、各国公使等がこれに同乗した。八時お召列車は上野を発車し、十時十二分熊谷に到着され、鉄道局の技師が指揮する線路敷設作業を御覧になった。 十時三十二分熊谷を発車、正午高崎にお着きになり、御昼食をおとりになった。午後三時高崎を御出発、七時上野駅に御帰着になられた。この日のため特別に準備された式場に直ちに入御された。天皇は日本鉄道会社最初の開業式に当たり、勅語を賜わった。
「日本鉄道会社員ノ協同力ヲ効セルニ因リ東京高崎間鉄道成ルヲ告ケ茲二開業ノ式ヲ挙ク都鄙便ヲ通シ遠近利二倚ル朕カ嘉尚スル所ナリ」
続いて工部郷佐々木高行、社長吉井友実、発起人総代が祝辞を述べた。
また、トンネル建設の技術はまだ幼稚であったからなるべく避けようとしたのであるが、鉄橋も、利根川のようなところは川の両側にまず線路を敷き、橋はあとから完成させるという方法をとらなければならなかったし、荒川やその他の川も最初は木の仮橋であった。
勾配ももちろん避けるに越したことはない。最初川口から工事を開始したのは工事のやりやすい平地であるという理由もあったのである。
東北本線の勾配は、黒磯・郡山間、松川・白石間は四十分の一、郡山・松川間は五十分の一、松島附近と、盛岡以北は大体六十分の一であるが、奥中山附近は四十二分の一の急勾配となっている。
いずれにしても、実際の東北本線の路線が決定するまでは、住民の反対や、工事の難易などによっていろいろ変わっているが、くわしくはわからない。
なお、東北本線という名称は、国有後に定められたもので、建設当時は一定の名称はなかったから、本篇では便宜上東北本線という名称を仮に使用する。
.最初の工事は川口から 第1区線
第1区線の東京・前橋間については、十四年六月に十二日会社側から「創立願が許可になったときは政府で工事をやってもらいたい」と請願しており、これが認められ、政府の特許条約書にも鉄道局が工事をすることと明記されている。
工事局は十五年六月赤坂榎坂町に出張所を置き、日本鉄道会社線の建設と監督の事務を一切ここでやることとした。日本鉄道会社も荒川の西岸に出張所を設けた。建物は粗末な小屋で、社員は矢立と半紙を四つ折にした大福帳を腰にぶら下げて執務したものだという。
会社は十五年一月十六日第1区線の工事仕様書と予算書の指示を工部卿に申請し二月六日に交付された。これによると品川・前橋間七四マイル四○チェーンの工事費三百二十四万九百四十一円を要するとなっていた。官設線の新橋・横浜間の鉄道の品川駅を起点とし、東京市街の北端を廻って、板橋近くに出て戸田川を越え、中仙道に沿って前橋に達するものである。横浜から前橋まで鉄道で結ぶという構想である。つまり東京・青森間の鉄道というのは品川を起点とするというのが最初の計画であったわけである。
第1区線の工事は次の3区間にわかれている。しかしこれはすぐ変更された。
品川・川口 14マイル(予算 934、276円)……第一部
川口・熊谷 31マイル(予算 899、981円)……第二部
熊谷・前橋 29マイル40チェーン (1、397、784円)……第三部
品川・川口間は市街地のしかも高低の差の多い所に工事を起こすので、距離の割には高くつくわけである。そこでこの区間はあとまわしにしようということになったのである。予算副書というものには「品川或ハ新橋ヨリ延スヲ止メ、先ツ戸田川ヨリ上野近傍便宜ノ所二止メ、而シテ新橋トノ連絡ハ暫ク水運二頼ルコトトセバ里程ハ僅カニ6英里許ニ減縮シ経費従テ其半二及バス……」 とあり、工事の容易な点と経費が半分しかかからないという点で、品川・川口間をやめ、上野附近からと予定変更した。前に述べたボイル案に似たものとなったのである。実はそうしなければならない事情があった。その頃会社には資金が全くなかったということが大きな原因である。出資金の第1回払込は十五年六月であり、しかも全国に株の募集を行なっている最中であった。工事の延滞は以後の株募集に影響を与えることになるわけである。会社は十五年一月二十三日政府に対し、三十万円の借金を申し込んだ。
二月中旬許可され二十八日に大蔵省から受け取り、建設費の内金として工部省に納入した。この借金は、8分の利子をつけて翌十六年年五月二十五日元利とも完済している。
ところで会社は工事ばかりか金の出納まで鉄道局に任せきりなので、鉄道局長井上勝は会社の社長や理事委員を呼んで注意を与えた。
「工事を鉄道局に委託するのはよいが、工事費の出納まで政府がやるのはどうかと思う。会社は局外者のようでおかしい。将来第2区線をやるとき困るだろう。会社自体で出納の責任を持つようにしなければうまくいくはずはない」
会社側もこれは当然と了承し、以後会社側がやるようになった。
東京・前橋間はこうしたいきさつもあって、もっとも有効に金を使うため、工事の割合楽な川口・熊谷間から始めることになった。
しかし品川又は新橋から工事をするのでなければ、外国から輸入した資材を現場に運んだり、工事用列車を走らせることができないわけである。そこで、川口までの連絡は水運によった。横浜から隅田川・荒川を上って川口に入ったのである。
十五年六月十五日川口・熊谷間の工事が開始されたのであるが、この最初の区間を担当した技師はかつて釜石鉱山の鉄道を手がけた工部省権少技長毛利重輔である.九月一日川口で盛大な起工式が行なわれた。工部省官吏、地方官吏、沿道株主等二百余名が参列した。会社は茶菓酒食を出し、善光号という機関車に土運車数量を連結して来賓を乗せ、四五マイルほどの大場村まで運転し、工事の実況を見せた。
上野・川口間は支線
関東平野を突っ切って、工事が順調に進展すると、品川・川口間の線路をどうするか早く決めなければならなかった。 十五年七月十八日会社の株主総会で、会社側はこの問題を説明している。
「そもそも第1区線は品川を基点として板橋に出ることになっている。東京は十里四方もあるのに駅といえば品川と新橋だけである。日本橋以南の人はこの両駅を経て板橋に行くのはよいとして、神田、浅草、本所などの各区から行く者は北の方に行くのに人力車で南に向かわなければならない。これは時間と金がかかって不便である。むしろまっすぐ板橋に行ったほうがよいくらいである。貨物などはことのほか不便である。そこで上野の山下に駅をつくり、王子を経て川口に達する支線をつくれば、線路は四~五マイルで客貨とも便利であろう」
こうして別に上野から川口まで支線を敷き、更に予定通り品川・板橋・川口間の連絡線をつくることを議決し、十五年八月三日上野・川口間の新線建設について工部省に申請二十四日認可された。
十月中に測量を終わり、同下旬上野の旧下寺跡から工事を始めた。この工事の担当者は権少技長増田礼作である。この区間の主要な工事は荒川の橋梁で最初は仮橋をつくって線路を通し、十六年五月から本橋梁の工事を始めた。
荒川橋梁は十七年二月十四日完成した。延長三千三十二フィート、ワーレン形橋桁四連を架し、これを支える橋脚は五個、巾二フィート高さに十二フィートで直径十二フィートの煉瓦造井筒基礎上に立っている。将来複線とする予定で最初からそれだけの巾で作られたという。工事は鉄道局雇小川勝五郎が請負った。披は「鉄橋小川」といわれた名人である。煉瓦は高島嘉右衛門が請負い元郷村で製造した。
上野駅は永久極端駅と呼ばれ、支線どころか東北本線の大玄関となった。その場所は上野寛永寺旧下寺跡で、上野公園の東明地といわれていた所である。十五年十一月八日東京府知事にその土地二万九千坪の貸し下げを申請し、十三日許可となった。あとで会社は千坪を返したが、駅の敷地としては、当時大変広大な感じがしたといわれる。この外山下町1番地の区会議事堂跡や小学校跡の貸下げを受けている。
上野にステンショが建つということになると、上野山下町から車坂あたりまで土地の値段がぐんぐんあがり、十六年四月二十一日の郵便報知によると、地価は3倍ぐらいになり、一坪千六百円円だったのが、三千二百五十円で売れた例がでている。
上野・高崎間開業
十六年七月二十六日上野・熊谷間の工事が完了し、この日試運転が行なわれた。小松宮彰仁、北白川宮能久、伏見宮貞愛の三親王を始め、三条太政大臣、徳大寺宮内卿、参議等が臨席した。二十八日上野・熊谷間に2往復の旅客列車が運転され、ここに日本最初の私設鉄道が営業を開始した。
会社としては開業式を八月下旬か九月上旬にやる予定で、宮内郷に行幸の伺書を出し、承認も得ており、内々準備を進めていた。ところが井上鉄道局長から工部卿に対し、開業式は見合わせるべきだという意見が出された。上野・熊谷間はほんの一部分であるし、営業も本式のものでなく、車両もそろっていない。第1区線は完了していないから開業式は早計であるという理由である。
工部卿佐々木高行は吉井社長にこの意見を示して再考を促したりしているうち十七年になってしまい、高崎までの開通が間近になってきたので、開業式は断念した。
改めて上野・高崎間開業式を行なうこととしたのである。上野・高崎間は十七年五月一日開通となったが、この日開通式は行なわれなかった。ちょうど天皇が御病気のため、改めて六月二十五日上野で開かれることと決定した。
十七年六月二十五日七時十分明治天皇は、礼服の会社役員等がお迎えする中を上野駅に御到着、お召列車にお乗りになられた。皇族、大臣、参議、各国公使等がこれに同乗した。八時お召列車は上野を発車し、十時十二分熊谷に到着され、鉄道局の技師が指揮する線路敷設作業を御覧になった。 十時三十二分熊谷を発車、正午高崎にお着きになり、御昼食をおとりになった。午後三時高崎を御出発、七時上野駅に御帰着になられた。この日のため特別に準備された式場に直ちに入御された。天皇は日本鉄道会社最初の開業式に当たり、勅語を賜わった。
「日本鉄道会社員ノ協同力ヲ効セルニ因リ東京高崎間鉄道成ルヲ告ケ茲二開業ノ式ヲ挙ク都鄙便ヲ通シ遠近利二倚ル朕カ嘉尚スル所ナリ」
続いて工部郷佐々木高行、社長吉井友実、発起人総代が祝辞を述べた。
風の旅 弐
風天弘坊
おわら風の盆を愉しむ 再考
何回かの連載で私の旅を紹介します。
風の旅と題し、風はどこへ吹くのか、行くのか分からぬものだ。風のように行程日程も順 序も前後するがご容赦願いたい。
以前に本紙で紹介をしたが再度、私的な「越中おわら風の盆」の行状となる。
此処、富山県富山市八尾町(やつおまち)は近年市町村合併で富山市になったが以前は富山県婦負郡八尾町であった。人口は二万人ほどであり日頃はとても静かな町である。毎年の九月一日から三日に(越中八尾 おわら風の盆)開催されるが外来者が多くなりすぎ八月二十日から前夜祭と称してとり行われている。地元主催のひと達が楽しむためのその前夜祭も「最近では外来者が多く騒々しくなってしまった」と主催の人達はなげく。
案内では三百年の歴史をもち叙情豊かで気品高く、綿々としてつきぬ哀調のなかに優雅さを失わぬ詩的な唄と踊りとある。
その魅力を以前に本紙で詳細を紹介したが今回はその裏側のようなところをのべてみよう。これから風の盆のすばらしい体験をしてみたいと考えている方には水を差すような行為で、いささか気がひけるが真髄を知っているのと知らぬとは雲泥の違いである。例えてみると高級な料理の味を付け合わせの刺身のツマを食ってみて分かろうか?と言うものだ。
この祭、数多くクの著書が出版され、テレビ映画が創られた。そのおかげで全国に名が売れすぎて観光客がどっと増えた。何事に於いても度が過ぎると悪くなる。此処も例に漏れず悪くなった。私が行き始めた数年前にもすでに三〇万人の来訪者が小さな町に押しかけた。町の人口の十倍以上にも膨れ上がってしまっては何もかもが身動き出来ない。今年の来訪者は五〇万人にもなったであろうか、そんな混雑であった。
五年前、町へ観光バスの乗り入れの申し込みは五千台であったが町ではとても受け入れられず千五百台に限定した。今年はそんなものではなかったようだ。大型バスだけでも三千台以上も入ったか?この町に。
風の盆の雅(みやび)を楽しもうとしても簡単には叶わぬもの。雅の裏にはどうやら落とし穴がある。
私はまだ数回のリピーターでノウハウはあまり持ってないのだが、二五回というベテランもいた。私達の楽しみ方は前夜祭からだ。本祭の三日間は観光客が(我ーもそーだ)団子?状態になっているで客が引けてしまう深夜の見物となる。
先に前夜祭は八月二十日からと述べたがそれでは十三日間どの日でも観る事ができるか?と言うと、そうはいかない。
まず雨が降ったら中止する。なぜか?
お天気は自然まかせ。風の盆は二百十日の風鎮祭、荒れぬはずはない。一週間のうち三日は雨に見舞われて当然だ。今回も外に置いた履物が流れまわるほどの豪雨があった。「お天道さまには逆らえぬ」ことだ。
踊子の衣装は男女問わずに高価だ。濡らしたら補修にウン拾万円だそうな。またお囃子の地方(じかたと呼ぶ)が抱える三味線や胡弓もそして太鼓も雨に濡らしたらまともな音色が出なくなるばかりか傷んだら修理費が目玉の飛び出すほどになるのだ。
そんな訳で小雨であっても徹底して中止となる。また、八月三〇日本祭の前日は休養の日となり町中の商店も徹底して閉店だ。踊りも囃子もスピーカーから流すメロディもパタリと止んでしまう。もし、運悪くこの日に行ったとしたら一切を諦めた方が賢明だろう。
それでも観たいときはどうするか。事前にインターネットのHPで調べるか町の商工会や富山市の観光課に聞くと分かるが、観光会館のステージなどで観賞できる日程と時刻がある。入場料は千五百円。全国のローソン系のコンビニエンスストアで購入できる。
それでは、回を重ねて通い続けた、いわゆる「通」と言われる観賞の仕方を述べてみよう。
自家用車を転がして全国から熱狂的な気違い(フアンとも言う)が集まる。長い期間の滞在はこの町の宿は満杯、利用は不可能に近い。近隣の温泉地も同じ一年前の予約でいっぱいだ。金沢市や高山市、宇奈月温泉のホテルも満員と聞く。
祭のメインとなる石畳の風情ある旧町は高い場所にあるが、私共はその下に流れる井田川の河川敷に陣取る。流れは速く石に砕け散る。その川音が子守唄、川風はまた気持ちよく、熟睡ができるのだ。
また、頭ほどの大きさの川石を累々と積み上げた町を作る断崖は他では見られない風景であり壮観そのものだ。
私は自嘲的に自分を「カワラこじき」と呼ぶ。キャンパー同志に食材や酒、肴を差し上げたり頂いたりするからだ。それがまた愉しいのである。自炊も普段は手も出さないが「男の料理」だ。女達は町に見物に、男は酒に酔っ払いながら仕度する。飯は黒焦げ、野菜は生煮「なーに牛馬になったつもり食えばいい」ひッひ―んといな鳴きながらだ。
ここの旧町には大きな食品スーパーが一軒だけあったが商売にならず昨年廃業した。コンビニでさえないので食品の入手も難しい。贅沢はできない。「ゼイタクは敵ダ」は戦時中。現代は「ゼイタクはステキだ」になってしまった。古いか?(笑)
数年前は河原でキャンプの車は二千台もあったろうか。今年はそれを締め出した。ゴミを散らかす、深夜まで騒ぎ、付近の住人に迷惑をかけたなどの苦情が寄せられた。そんな理由でほとんどの河川敷や空き地が閉鎖になってしまった。
富山県や富山市が介入し事情が複雑になってしまったようだ。合併以前は八尾町の裁量(自分の意見により裁断処置すること)で大らかに受け入れられていた。そんな心情をまともに受けたキャンピングカーで全国から駆けつけたフアンは前夜祭も楽しめずに諦めて立ち去ってしまった。最終日まで河川敷には十数台のみ。私はキャンピングカーならぬ屋根のついた貨物自動車、カタカナではボックスカーと言うのだそうな。荷台にコンパネ(ベニヤ板)を貼って寝床にしている。
軽自動車で鹿児島から来ている年配のご夫婦もおられた。もちろん車中泊。
河川敷のニワカ駐車場を管理している九十二歳の元気なお爺さんが花畑にしている所に毎回駐車をお願いしているので安心だ。数年前に知人の森田保夫氏が開拓したところである。利用料金はとらない。それぞれにお土産を差し上げて、ワンじゃなかった「ウン」と言わせる。ワン公も人間もエサには弱い。
一般の観光客は本祭の九月一日から三日までが多い。旅行会社で募集したツアーでの見物は五千人以上入る広大な町民広場の舞台で演じ踊るのを観る。特にバスツアーでは時間の制限があり二、三時間ばかりの滞在となる。たったこれだけの時間では町中での流し踊りや輪踊りは、ほとんど観れない。
町民広場の人々をみて、観光旅行会社の宣伝に惑わされ、こんなに大勢が「引き回しの刑」?に遭っているのだ。「お気の毒に」と思わずにおれない。
広大な町民広場のステージで三十分毎にくりかえされる舞台が終わると年寄りの迷子が大勢発生する。●○さーんどこでーすかー?の呼び声があっちでもこっちでもだ。幼児であればワーワーと泣き叫べば誰かが迷子の案内係へ連れてってくれるが爺さん、婆さん、うば桜、では誰も知らん顔。
こんな事もあった。会場で四人連れのおばちゃんがいきなり私の顔面にケイタイを突き出した。「これに出て話して下さい」
不審であったが今にも泣き出しそうな面持。
「そこはどこですか?」ケイタイから男性の声「町民広場です」「私は今×△○駐車場にいるのですがそこまでどのようにして行けばいいのか教えて下さい」時間によって町の中に車の乗り入れを制限している。「ああそこから3キロほど距離がありますが徒歩しかないでしょう」
四十分ほどして観光会社の腕章をつけ旗を持った若い男性の添乗員が全身汗びっしょりでよろよろとたどり着いた「有難うございました。助かりました」聞くところでは青森市の旅行会社で市内のお客を募集して来たとのこと。「集合時間までにバスの駐車場にたどり着かなくちゃ」とあたふた。「我ーも八戸せー」「えーっ何時来たのか?」「一週間前から前夜祭観てる」「へー」「ところであの高い方には何があるんだが?」と四人のおばちゃん達は指をさした。「古い町並みがある。行かれなかったですか?そっちの方が祭のメインですよ、見てらっしゃい」と添乗員よろしく説明。
「ああーもう時間がない、十時にここを出てバスで宇奈月のホテルに戻らなければ」と心はすでに風の盆ならぬ風のよう。以前には無かったこの町民広場には何百ものテント張りの食堂とお土産や。これを買わされ、食わされ、ステージの踊りを遠くから眺め地方(じかた)の囃子と歌がスピーカーから鳴り響いているがなにか空々しくどうも嘘っぽい。
さて、話しは戻る
十一町内でそれぞれの踊りの振り付けと地方の囃子も異なる。これも食べ物と同じで好き嫌いがあるのでどこそこが一番いいなどと先入観念を植えつけてはいけないのでここでは述べるのを避けよう。
地方の囃子唄のひとつを紹介しよう。
歌
越中で立山 加賀では白山
駿河の富士山 三国一だよ
囃子
唄われよ わしゃ囃す
歌
おわら踊りの 笠きてござれ
忍ぶ夜道は オワラ月明り
囃子
キタサノサ ドッコイサノサ
この(じかた)地方の囃子と唄で踊る。
踊子は涼しげな揃いの浴衣に編み笠の間からすこし顔を覗かせたその姿は実に幻想的で優美だ。「こんな雅を味わうのも今回で卒業か」としっかりと目に焼き付ける。
数年前、この町の心優しく温かい「持て成し」は何処かに消し飛んでしまったのか?
町中でおみやげ店を経営する女主人に聞いてみた。「富山市に合併になってなにが良かったですか」「なーんにもない、唯、税金が高くなっただけや」としゃがれ声が返って来た。時代の変遷と言ってしまえばそれまでだが三百年の歴史ある、「風の盆」も衰退するのか?そんな寂しい思いに駆られる。
旅は続く
おわら風の盆を愉しむ 再考
何回かの連載で私の旅を紹介します。
風の旅と題し、風はどこへ吹くのか、行くのか分からぬものだ。風のように行程日程も順 序も前後するがご容赦願いたい。
以前に本紙で紹介をしたが再度、私的な「越中おわら風の盆」の行状となる。
此処、富山県富山市八尾町(やつおまち)は近年市町村合併で富山市になったが以前は富山県婦負郡八尾町であった。人口は二万人ほどであり日頃はとても静かな町である。毎年の九月一日から三日に(越中八尾 おわら風の盆)開催されるが外来者が多くなりすぎ八月二十日から前夜祭と称してとり行われている。地元主催のひと達が楽しむためのその前夜祭も「最近では外来者が多く騒々しくなってしまった」と主催の人達はなげく。
案内では三百年の歴史をもち叙情豊かで気品高く、綿々としてつきぬ哀調のなかに優雅さを失わぬ詩的な唄と踊りとある。
その魅力を以前に本紙で詳細を紹介したが今回はその裏側のようなところをのべてみよう。これから風の盆のすばらしい体験をしてみたいと考えている方には水を差すような行為で、いささか気がひけるが真髄を知っているのと知らぬとは雲泥の違いである。例えてみると高級な料理の味を付け合わせの刺身のツマを食ってみて分かろうか?と言うものだ。
この祭、数多くクの著書が出版され、テレビ映画が創られた。そのおかげで全国に名が売れすぎて観光客がどっと増えた。何事に於いても度が過ぎると悪くなる。此処も例に漏れず悪くなった。私が行き始めた数年前にもすでに三〇万人の来訪者が小さな町に押しかけた。町の人口の十倍以上にも膨れ上がってしまっては何もかもが身動き出来ない。今年の来訪者は五〇万人にもなったであろうか、そんな混雑であった。
五年前、町へ観光バスの乗り入れの申し込みは五千台であったが町ではとても受け入れられず千五百台に限定した。今年はそんなものではなかったようだ。大型バスだけでも三千台以上も入ったか?この町に。
風の盆の雅(みやび)を楽しもうとしても簡単には叶わぬもの。雅の裏にはどうやら落とし穴がある。
私はまだ数回のリピーターでノウハウはあまり持ってないのだが、二五回というベテランもいた。私達の楽しみ方は前夜祭からだ。本祭の三日間は観光客が(我ーもそーだ)団子?状態になっているで客が引けてしまう深夜の見物となる。
先に前夜祭は八月二十日からと述べたがそれでは十三日間どの日でも観る事ができるか?と言うと、そうはいかない。
まず雨が降ったら中止する。なぜか?
お天気は自然まかせ。風の盆は二百十日の風鎮祭、荒れぬはずはない。一週間のうち三日は雨に見舞われて当然だ。今回も外に置いた履物が流れまわるほどの豪雨があった。「お天道さまには逆らえぬ」ことだ。
踊子の衣装は男女問わずに高価だ。濡らしたら補修にウン拾万円だそうな。またお囃子の地方(じかたと呼ぶ)が抱える三味線や胡弓もそして太鼓も雨に濡らしたらまともな音色が出なくなるばかりか傷んだら修理費が目玉の飛び出すほどになるのだ。
そんな訳で小雨であっても徹底して中止となる。また、八月三〇日本祭の前日は休養の日となり町中の商店も徹底して閉店だ。踊りも囃子もスピーカーから流すメロディもパタリと止んでしまう。もし、運悪くこの日に行ったとしたら一切を諦めた方が賢明だろう。
それでも観たいときはどうするか。事前にインターネットのHPで調べるか町の商工会や富山市の観光課に聞くと分かるが、観光会館のステージなどで観賞できる日程と時刻がある。入場料は千五百円。全国のローソン系のコンビニエンスストアで購入できる。
それでは、回を重ねて通い続けた、いわゆる「通」と言われる観賞の仕方を述べてみよう。
自家用車を転がして全国から熱狂的な気違い(フアンとも言う)が集まる。長い期間の滞在はこの町の宿は満杯、利用は不可能に近い。近隣の温泉地も同じ一年前の予約でいっぱいだ。金沢市や高山市、宇奈月温泉のホテルも満員と聞く。
祭のメインとなる石畳の風情ある旧町は高い場所にあるが、私共はその下に流れる井田川の河川敷に陣取る。流れは速く石に砕け散る。その川音が子守唄、川風はまた気持ちよく、熟睡ができるのだ。
また、頭ほどの大きさの川石を累々と積み上げた町を作る断崖は他では見られない風景であり壮観そのものだ。
私は自嘲的に自分を「カワラこじき」と呼ぶ。キャンパー同志に食材や酒、肴を差し上げたり頂いたりするからだ。それがまた愉しいのである。自炊も普段は手も出さないが「男の料理」だ。女達は町に見物に、男は酒に酔っ払いながら仕度する。飯は黒焦げ、野菜は生煮「なーに牛馬になったつもり食えばいい」ひッひ―んといな鳴きながらだ。
ここの旧町には大きな食品スーパーが一軒だけあったが商売にならず昨年廃業した。コンビニでさえないので食品の入手も難しい。贅沢はできない。「ゼイタクは敵ダ」は戦時中。現代は「ゼイタクはステキだ」になってしまった。古いか?(笑)
数年前は河原でキャンプの車は二千台もあったろうか。今年はそれを締め出した。ゴミを散らかす、深夜まで騒ぎ、付近の住人に迷惑をかけたなどの苦情が寄せられた。そんな理由でほとんどの河川敷や空き地が閉鎖になってしまった。
富山県や富山市が介入し事情が複雑になってしまったようだ。合併以前は八尾町の裁量(自分の意見により裁断処置すること)で大らかに受け入れられていた。そんな心情をまともに受けたキャンピングカーで全国から駆けつけたフアンは前夜祭も楽しめずに諦めて立ち去ってしまった。最終日まで河川敷には十数台のみ。私はキャンピングカーならぬ屋根のついた貨物自動車、カタカナではボックスカーと言うのだそうな。荷台にコンパネ(ベニヤ板)を貼って寝床にしている。
軽自動車で鹿児島から来ている年配のご夫婦もおられた。もちろん車中泊。
河川敷のニワカ駐車場を管理している九十二歳の元気なお爺さんが花畑にしている所に毎回駐車をお願いしているので安心だ。数年前に知人の森田保夫氏が開拓したところである。利用料金はとらない。それぞれにお土産を差し上げて、ワンじゃなかった「ウン」と言わせる。ワン公も人間もエサには弱い。
一般の観光客は本祭の九月一日から三日までが多い。旅行会社で募集したツアーでの見物は五千人以上入る広大な町民広場の舞台で演じ踊るのを観る。特にバスツアーでは時間の制限があり二、三時間ばかりの滞在となる。たったこれだけの時間では町中での流し踊りや輪踊りは、ほとんど観れない。
町民広場の人々をみて、観光旅行会社の宣伝に惑わされ、こんなに大勢が「引き回しの刑」?に遭っているのだ。「お気の毒に」と思わずにおれない。
広大な町民広場のステージで三十分毎にくりかえされる舞台が終わると年寄りの迷子が大勢発生する。●○さーんどこでーすかー?の呼び声があっちでもこっちでもだ。幼児であればワーワーと泣き叫べば誰かが迷子の案内係へ連れてってくれるが爺さん、婆さん、うば桜、では誰も知らん顔。
こんな事もあった。会場で四人連れのおばちゃんがいきなり私の顔面にケイタイを突き出した。「これに出て話して下さい」
不審であったが今にも泣き出しそうな面持。
「そこはどこですか?」ケイタイから男性の声「町民広場です」「私は今×△○駐車場にいるのですがそこまでどのようにして行けばいいのか教えて下さい」時間によって町の中に車の乗り入れを制限している。「ああそこから3キロほど距離がありますが徒歩しかないでしょう」
四十分ほどして観光会社の腕章をつけ旗を持った若い男性の添乗員が全身汗びっしょりでよろよろとたどり着いた「有難うございました。助かりました」聞くところでは青森市の旅行会社で市内のお客を募集して来たとのこと。「集合時間までにバスの駐車場にたどり着かなくちゃ」とあたふた。「我ーも八戸せー」「えーっ何時来たのか?」「一週間前から前夜祭観てる」「へー」「ところであの高い方には何があるんだが?」と四人のおばちゃん達は指をさした。「古い町並みがある。行かれなかったですか?そっちの方が祭のメインですよ、見てらっしゃい」と添乗員よろしく説明。
「ああーもう時間がない、十時にここを出てバスで宇奈月のホテルに戻らなければ」と心はすでに風の盆ならぬ風のよう。以前には無かったこの町民広場には何百ものテント張りの食堂とお土産や。これを買わされ、食わされ、ステージの踊りを遠くから眺め地方(じかた)の囃子と歌がスピーカーから鳴り響いているがなにか空々しくどうも嘘っぽい。
さて、話しは戻る
十一町内でそれぞれの踊りの振り付けと地方の囃子も異なる。これも食べ物と同じで好き嫌いがあるのでどこそこが一番いいなどと先入観念を植えつけてはいけないのでここでは述べるのを避けよう。
地方の囃子唄のひとつを紹介しよう。
歌
越中で立山 加賀では白山
駿河の富士山 三国一だよ
囃子
唄われよ わしゃ囃す
歌
おわら踊りの 笠きてござれ
忍ぶ夜道は オワラ月明り
囃子
キタサノサ ドッコイサノサ
この(じかた)地方の囃子と唄で踊る。
踊子は涼しげな揃いの浴衣に編み笠の間からすこし顔を覗かせたその姿は実に幻想的で優美だ。「こんな雅を味わうのも今回で卒業か」としっかりと目に焼き付ける。
数年前、この町の心優しく温かい「持て成し」は何処かに消し飛んでしまったのか?
町中でおみやげ店を経営する女主人に聞いてみた。「富山市に合併になってなにが良かったですか」「なーんにもない、唯、税金が高くなっただけや」としゃがれ声が返って来た。時代の変遷と言ってしまえばそれまでだが三百年の歴史ある、「風の盆」も衰退するのか?そんな寂しい思いに駆られる。
旅は続く
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 11
伝心寺時代(明治二十五年~三十三年)
一、岸沢惟安氏弟子となる
穆山師の伝心寺への退董は普通人なら隠居であり閑居の生活に入ったのでありますが、宗教界は穆山師を有閑老師にしておかなかった。退隠した穆山師は、早速静岡県榛原(はいばら)郡金谷町洞善院の江湖会結制修行の西堂(さいどう・西は賓位であるからいう) 禅宗で、他寺を隠退してきて本寺に住する長老。転じて、住職以外の上首)
様として招待され、前可睡様、眼蔵(正法眼蔵・しょうぼうげんぞう=道元が仏法の真髄を和文で説いた書。七十五巻本 現成公按(げんじょうこうあん 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゅじょう)あり。
万法(まんぼう)ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生(しょう)なく滅(めつ)なし。
仏道、もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆへに、生滅(しょうめつ)あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。
自己をはこびて万法を修証(しょうしゅう)するを迷(まよい)とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟(だいご)するは諸仏なり、悟に大迷(だいめい)なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷(ゆうめい)の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
身心(しんじん)を挙(こ)して色(しきを見取し、身心を挙して声(しょう)を聴取するに、したしく会取(かいしゅ)すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは、一方はくらし。
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。
と大変難解、これを西有穆山は生涯研究された)
大家として偉大な感化を与えたのであります。この洞善院の三ケ月の結制修行が終ると同時に内定していた島田市の伝心寺に入寺しました。この気候の温暖な島田は老師の身心を休養させるには最適の場所でありました。ところが、求道の師が次から次へと集って来て老師の身心を休養させません。その内、後の眼蔵研究継承者となった岸沢惟安師が伝心寺時代に弟子となった。岸沢氏は既に居士として眼蔵の提唱を聴き、漢学者、詩人として知名でありました。弟子として入門を許された時三十二歳でありました。禅師はこの岸沢氏の長所も短所も見抜いて、その教育と進路指導には特別の配慮を与えております。その効果があって持てる力を充分発揮出来る眼蔵家となり禅師の委嘱を能く果して師恩に報答(ほうとう・こたえ。返事)しております。又筆者は大成後の岸沢老師に京浜間に於ける眼蔵会に於て親しく謦咳に接し(けいがいにせっする・目上の方にお会いする)、西有寺単頭勤務中、心魂に徹する親訓を、西有寺報恩眼蔵会中に終生忘れることがない響きを身に受けております。有難いことです。
二、大井川の荒男を教化す
現代の教有職である宗教家、教育家は概して利巧である。何故なら「君士危うきに近寄らず」の方針で、世の謂所、荒くれ男達からはなるべく遠ざかって身の安全を保とうとしている。暴力団とか、暴走族という種類の人々は教化の対象外であろうか、筆者は少年時代に沢庵和尚とか物外和尚の底知れぬ力に、あこがれたものである。無用の否、行き過ぎた武勇伝は警戒すべきであるが、法力の伴った偉大な感化力は宗教人にあって然るべきだと思います。
穆山師は可睡時代の火渡り等に於て加持した不思議な法力を持っていたと思われる。伝心寺は島田在の旗指という所にあり、この旗指には大井川の川越し人夫達が居て、気性の荒い乱暴な連中がいた。穆山師はこの人夫達を伝心寺の門前に集めて説教し、地方一帯を柔和な気風に一変したのであります。その感化力の威力は、可睡斎の三尺坊大権現様の御加護によると見られる。島田旗指の住民達は穆山師が可睡斎の御前様であることを知っており、その穆山師は御祈祷の不思議な力を持っており、雨乞祈祷をして雨を降らせた話も伝え聞いており、旗指に姿を見せる前から穆山師の威神力に恐れをなしていたから、住民は「御前様はこわいお天狗様をお使いなさる。御隠居なされてこの地においでになられた当時はお天狗様が毎晩火に乗って飛んできて、八重橋の木のうらにとまっていた」と、且つ恐れ、且つ尊敬したので、その感化力が充分発揮されたのであります。
三、出る方は出る方、見る方は見る方
明治二十六年に穆山師七十三歳の老体で赤痢病におかされて、一日に七十四、五回も用便して苦しまれた。普通人なら青くなって沈んでいるのに、穆山師は平気で一向気にもとめないで、仏門の研究で最も難解だといわれる五位顕訣元字脚と華厳五教章とを研究してやめなかった。これを見かねた看護婦さんが、「病気に障りますから御やめ下さい」と注意すると、穆山師やめるどころか平気の平ざで、「出る方は出る方、みる方はみる方で分業だ」といって研究をやめなかった。
穆山師は、数年後に伝心寺に於て、この五位顕訣元字脚を講義せられた。その講座には後に曹洞宗大学長となった筒川方外師、丘宗潭師、秋野孝道師を始め足立巍堂師、岸沢惟安師等の御歴々が顔を連ねて、赤痢病の御利益にあずかったものである。この元字脚の研究は穆山師一代で研究が完了しなかったので、老師は岸沢惟安師に研究継続を委嘱せられ、岸沢老師は、巨刹、名藍からの請待も固辞し最後に永平寺不老閣の祝座をも辞退して(岸沢師は永平寺寺西堂職に就かれていたが、宗制改正で、西堂職の者が不老閣祝座に昇進する制度となったことを聞き、(「これは大変なことだ、先師(穆山師)の御言い付に違犯する事になるといって、速刻西堂職を辞職したのであった」元字脚の研究を完了し、先師古仏(穆山師)の真前に御報告中し上げたのであります。岸沢師は「先師が自分を守護していて下さる」と信じ切って研究三昧に入り九十一歳まで長寿を保って穆山師匠の嘱託に答えたのであります。「この師にしてこの弟子あり」と心から敬服している次第であります。このように師子ともに前人未踏の研究成果を遺している精力は何処から涌いたものでしょうか、それは座禅の力、六波羅蜜の力、等々色々ありましょうが、ここに一笑話を述べてお互の参考にしたい。
穆山師が、赤痢の大病を全治した直後の或る時語って曰く、「わしが行脚してあるいた時、大垣の全昌寺に拝宿し、翌朝出立して門を出ると何に気をとられていたか、つまずいて倒れた。すると子供らが手をたたいて「やあ坊主が娘に見とれて打ったおれた」といってはやされた。はっと思って起きあがってみると十五、六の小娘がまっ赤になって走っていたので、自分も思わずまっ赤になった。まったく女の子が来たのも知らなかったのだが、まっ赤になったところをみると何処かに色気があったのだな」と、又若い時、彦根の清涼寺の漢三和尚が「比丘尼に睾丸を洗わせて平気であった」といっているのを聞いて、『そんなことができるものかしら』と疑っていたが、今度の赤痢病中看護婦が、前も後もどこからどこまでも洗ったりふいたりしてくれたが何ともなかった。そうすると、漢三和尚が一人えらいのではない、みんな相当年をとり、修養すれば性欲も調整出来るものだ、好い試験をした、これも赤痢病の御利益である」といったそうであります。
人間の欲望の中で、色欲は本能的なもので、昔から修行人に取って重大なもので、これに対する戒律も訓戒もきびしいものがあります。又それだけに古来より名僧知識となられた方々は工夫と苦労をせられております。禅門に「婆子焼庵」の公案があり、色欲是認、色欲否定等色々議論され研究されているのでありますが、古来より恥部に関することとして、かくしたり、さけたりする傾向もありますが、生物たる人間の誰でもが固有する欲望であるから放任するわけにゆかぬと思う、穆山師の生涯で、名久井の法光寺在住時代に出て来た未亡人の「逢わぬつらさで酒を欲む」の話が表に出た最初の話でありますが、その外青年時代には性欲の問題が色色あったものと思う。穆山師は、日本で最初に木版の大蔵経を刊行した鉄眼和尚が、大蔵経木版刊行の願行を実現する為に色欲が起ってくれば、線香の火で、亀頭を焼いて鎮静せしめたのをまねて、自分もしばしば亀頭を線香の火で焼いてその勢(性)力を眼蔵研究に注入したと間いて居ります。人間は性欲の強さは濃淡様々個人差があるように聞きますが、それにも先天的のものと後天的のもの種々ありましょう。大事なことは人間として酒色におぼれぬこと、願がけしている偉人、修行人たるものは、これを調整することが大切であります。こうした意味から穆山師が正直に、色欲の経験を語って、世人出家人を指導していることは貴いことであります。性欲は男女とも死ぬまであるということを教える為に穆山師は、或る人が「禅師様、色欲というものは何歳まであるものでしょうか」と、尋問したのに対して、「これこれまでよ」と、いって火鉢の灰を手の平にのせて見せた、という御話もあります。人間は本質的には生きているうち性欲がある、それを調整して色欲に自分の生活を、自分の仕事を、自分の願行をさまたげられないようにすることが肝要と思います。
四、穆山師頓智の一証
穆山師が、英潮院住職時代に、深く帰依していた常盤屋という御老人がいた。穆山師と御老人は一杯やりながら色々歓談していたが、
常盤屋「御前様、死人というものはひどくつめたいものですな」
穆山「どうして」
常盤屋「御承知の岩本(英潮院檀頭)にかたずいていた姉が、なくなりましたから御通夜にゆき、一生の別れだと思い、足の方からもぐりこんで寝たのです、ところがそれはそれはつめたかったのですよ」
穆山「それはそのはずだ」
常盤屋「どうして」
穆山「足柄下郡(足からしも氷)だ」
常盤屋「なるほど」というわけで、さすが滑稽百出の常盤屋も二の句がつげなかった。けだし岩本の家は、足柄下郡にあるからです。
五、喜寿の祝寿会
明治三十年九月、東京駒込の吉祥寺を会場として喜寿の祝寿会を開催したのでありますが、発起人は当時の政界財界宗教界の大物が悉く名を連ねており、その数百人余で、最大の盛況ぶりであった。隠居同様の身である穆出師の人気は依然として京浜間に盛んであった。明治二十六年に穆山師は孫弟子の玉田仁齢に命じて、横浜市野毛山に万徳寺を開則せしめ可睡斎の末寺として横浜市に縁を結んだ。
一、岸沢惟安氏弟子となる
穆山師の伝心寺への退董は普通人なら隠居であり閑居の生活に入ったのでありますが、宗教界は穆山師を有閑老師にしておかなかった。退隠した穆山師は、早速静岡県榛原(はいばら)郡金谷町洞善院の江湖会結制修行の西堂(さいどう・西は賓位であるからいう) 禅宗で、他寺を隠退してきて本寺に住する長老。転じて、住職以外の上首)
様として招待され、前可睡様、眼蔵(正法眼蔵・しょうぼうげんぞう=道元が仏法の真髄を和文で説いた書。七十五巻本 現成公按(げんじょうこうあん 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゅじょう)あり。
万法(まんぼう)ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生(しょう)なく滅(めつ)なし。
仏道、もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆへに、生滅(しょうめつ)あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。
自己をはこびて万法を修証(しょうしゅう)するを迷(まよい)とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟(だいご)するは諸仏なり、悟に大迷(だいめい)なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷(ゆうめい)の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
身心(しんじん)を挙(こ)して色(しきを見取し、身心を挙して声(しょう)を聴取するに、したしく会取(かいしゅ)すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは、一方はくらし。
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。
と大変難解、これを西有穆山は生涯研究された)
大家として偉大な感化を与えたのであります。この洞善院の三ケ月の結制修行が終ると同時に内定していた島田市の伝心寺に入寺しました。この気候の温暖な島田は老師の身心を休養させるには最適の場所でありました。ところが、求道の師が次から次へと集って来て老師の身心を休養させません。その内、後の眼蔵研究継承者となった岸沢惟安師が伝心寺時代に弟子となった。岸沢氏は既に居士として眼蔵の提唱を聴き、漢学者、詩人として知名でありました。弟子として入門を許された時三十二歳でありました。禅師はこの岸沢氏の長所も短所も見抜いて、その教育と進路指導には特別の配慮を与えております。その効果があって持てる力を充分発揮出来る眼蔵家となり禅師の委嘱を能く果して師恩に報答(ほうとう・こたえ。返事)しております。又筆者は大成後の岸沢老師に京浜間に於ける眼蔵会に於て親しく謦咳に接し(けいがいにせっする・目上の方にお会いする)、西有寺単頭勤務中、心魂に徹する親訓を、西有寺報恩眼蔵会中に終生忘れることがない響きを身に受けております。有難いことです。
二、大井川の荒男を教化す
現代の教有職である宗教家、教育家は概して利巧である。何故なら「君士危うきに近寄らず」の方針で、世の謂所、荒くれ男達からはなるべく遠ざかって身の安全を保とうとしている。暴力団とか、暴走族という種類の人々は教化の対象外であろうか、筆者は少年時代に沢庵和尚とか物外和尚の底知れぬ力に、あこがれたものである。無用の否、行き過ぎた武勇伝は警戒すべきであるが、法力の伴った偉大な感化力は宗教人にあって然るべきだと思います。
穆山師は可睡時代の火渡り等に於て加持した不思議な法力を持っていたと思われる。伝心寺は島田在の旗指という所にあり、この旗指には大井川の川越し人夫達が居て、気性の荒い乱暴な連中がいた。穆山師はこの人夫達を伝心寺の門前に集めて説教し、地方一帯を柔和な気風に一変したのであります。その感化力の威力は、可睡斎の三尺坊大権現様の御加護によると見られる。島田旗指の住民達は穆山師が可睡斎の御前様であることを知っており、その穆山師は御祈祷の不思議な力を持っており、雨乞祈祷をして雨を降らせた話も伝え聞いており、旗指に姿を見せる前から穆山師の威神力に恐れをなしていたから、住民は「御前様はこわいお天狗様をお使いなさる。御隠居なされてこの地においでになられた当時はお天狗様が毎晩火に乗って飛んできて、八重橋の木のうらにとまっていた」と、且つ恐れ、且つ尊敬したので、その感化力が充分発揮されたのであります。
三、出る方は出る方、見る方は見る方
明治二十六年に穆山師七十三歳の老体で赤痢病におかされて、一日に七十四、五回も用便して苦しまれた。普通人なら青くなって沈んでいるのに、穆山師は平気で一向気にもとめないで、仏門の研究で最も難解だといわれる五位顕訣元字脚と華厳五教章とを研究してやめなかった。これを見かねた看護婦さんが、「病気に障りますから御やめ下さい」と注意すると、穆山師やめるどころか平気の平ざで、「出る方は出る方、みる方はみる方で分業だ」といって研究をやめなかった。
穆山師は、数年後に伝心寺に於て、この五位顕訣元字脚を講義せられた。その講座には後に曹洞宗大学長となった筒川方外師、丘宗潭師、秋野孝道師を始め足立巍堂師、岸沢惟安師等の御歴々が顔を連ねて、赤痢病の御利益にあずかったものである。この元字脚の研究は穆山師一代で研究が完了しなかったので、老師は岸沢惟安師に研究継続を委嘱せられ、岸沢老師は、巨刹、名藍からの請待も固辞し最後に永平寺不老閣の祝座をも辞退して(岸沢師は永平寺寺西堂職に就かれていたが、宗制改正で、西堂職の者が不老閣祝座に昇進する制度となったことを聞き、(「これは大変なことだ、先師(穆山師)の御言い付に違犯する事になるといって、速刻西堂職を辞職したのであった」元字脚の研究を完了し、先師古仏(穆山師)の真前に御報告中し上げたのであります。岸沢師は「先師が自分を守護していて下さる」と信じ切って研究三昧に入り九十一歳まで長寿を保って穆山師匠の嘱託に答えたのであります。「この師にしてこの弟子あり」と心から敬服している次第であります。このように師子ともに前人未踏の研究成果を遺している精力は何処から涌いたものでしょうか、それは座禅の力、六波羅蜜の力、等々色々ありましょうが、ここに一笑話を述べてお互の参考にしたい。
穆山師が、赤痢の大病を全治した直後の或る時語って曰く、「わしが行脚してあるいた時、大垣の全昌寺に拝宿し、翌朝出立して門を出ると何に気をとられていたか、つまずいて倒れた。すると子供らが手をたたいて「やあ坊主が娘に見とれて打ったおれた」といってはやされた。はっと思って起きあがってみると十五、六の小娘がまっ赤になって走っていたので、自分も思わずまっ赤になった。まったく女の子が来たのも知らなかったのだが、まっ赤になったところをみると何処かに色気があったのだな」と、又若い時、彦根の清涼寺の漢三和尚が「比丘尼に睾丸を洗わせて平気であった」といっているのを聞いて、『そんなことができるものかしら』と疑っていたが、今度の赤痢病中看護婦が、前も後もどこからどこまでも洗ったりふいたりしてくれたが何ともなかった。そうすると、漢三和尚が一人えらいのではない、みんな相当年をとり、修養すれば性欲も調整出来るものだ、好い試験をした、これも赤痢病の御利益である」といったそうであります。
人間の欲望の中で、色欲は本能的なもので、昔から修行人に取って重大なもので、これに対する戒律も訓戒もきびしいものがあります。又それだけに古来より名僧知識となられた方々は工夫と苦労をせられております。禅門に「婆子焼庵」の公案があり、色欲是認、色欲否定等色々議論され研究されているのでありますが、古来より恥部に関することとして、かくしたり、さけたりする傾向もありますが、生物たる人間の誰でもが固有する欲望であるから放任するわけにゆかぬと思う、穆山師の生涯で、名久井の法光寺在住時代に出て来た未亡人の「逢わぬつらさで酒を欲む」の話が表に出た最初の話でありますが、その外青年時代には性欲の問題が色色あったものと思う。穆山師は、日本で最初に木版の大蔵経を刊行した鉄眼和尚が、大蔵経木版刊行の願行を実現する為に色欲が起ってくれば、線香の火で、亀頭を焼いて鎮静せしめたのをまねて、自分もしばしば亀頭を線香の火で焼いてその勢(性)力を眼蔵研究に注入したと間いて居ります。人間は性欲の強さは濃淡様々個人差があるように聞きますが、それにも先天的のものと後天的のもの種々ありましょう。大事なことは人間として酒色におぼれぬこと、願がけしている偉人、修行人たるものは、これを調整することが大切であります。こうした意味から穆山師が正直に、色欲の経験を語って、世人出家人を指導していることは貴いことであります。性欲は男女とも死ぬまであるということを教える為に穆山師は、或る人が「禅師様、色欲というものは何歳まであるものでしょうか」と、尋問したのに対して、「これこれまでよ」と、いって火鉢の灰を手の平にのせて見せた、という御話もあります。人間は本質的には生きているうち性欲がある、それを調整して色欲に自分の生活を、自分の仕事を、自分の願行をさまたげられないようにすることが肝要と思います。
四、穆山師頓智の一証
穆山師が、英潮院住職時代に、深く帰依していた常盤屋という御老人がいた。穆山師と御老人は一杯やりながら色々歓談していたが、
常盤屋「御前様、死人というものはひどくつめたいものですな」
穆山「どうして」
常盤屋「御承知の岩本(英潮院檀頭)にかたずいていた姉が、なくなりましたから御通夜にゆき、一生の別れだと思い、足の方からもぐりこんで寝たのです、ところがそれはそれはつめたかったのですよ」
穆山「それはそのはずだ」
常盤屋「どうして」
穆山「足柄下郡(足からしも氷)だ」
常盤屋「なるほど」というわけで、さすが滑稽百出の常盤屋も二の句がつげなかった。けだし岩本の家は、足柄下郡にあるからです。
五、喜寿の祝寿会
明治三十年九月、東京駒込の吉祥寺を会場として喜寿の祝寿会を開催したのでありますが、発起人は当時の政界財界宗教界の大物が悉く名を連ねており、その数百人余で、最大の盛況ぶりであった。隠居同様の身である穆出師の人気は依然として京浜間に盛んであった。明治二十六年に穆山師は孫弟子の玉田仁齢に命じて、横浜市野毛山に万徳寺を開則せしめ可睡斎の末寺として横浜市に縁を結んだ。
東奥日報に見る明治三十六年の八戸及び八戸人
明治三十六年二月十八日
凶作の影響
凶作の影響に就いては佐間、鈴木の両視察員は先ず東北各県県会は凶作を名として県費の縮小を行いたるため行政機関は甚だしく停滞したるにより小学生父兄は中飯の不如意と授業料筆紙料等の費用を厭いて子弟を出校せしめざるより東北地方中すでに数校の閉鎖学校を見るに至れると役場における徴税の容易ならざると等に及び更に市況にありては大略本県弘前市は付近村落は割合被害少なかりし為市況に大変化なかりしと鯵ヶ沢、木造等は非常の不景気にして平年田地一反歩に担保として八十円位の貸借ありたるものが今年二十円の貸借も容易ならず又その売買は普通百二十円位なりしものが今五十円内外に下落したると各村落より北海道出稼ぎ人ぞくぞくなるも給料の減額なりしと青森市は流石港湾だけに格別の変化なきと七戸、八戸、三戸の如き市況非常に寂寥なると、盛岡市は格別の変化なく花巻は非常の不景気の和賀郡十沢、遠野、黒澤尻等は格別の不景気なく一関より宮城県に入りてやや変化なき事等の挙げ最後に「これを発するに未だ市況に大なる影響を及ぼさざるは前述の如く未だ多数の農家が食料欠乏を告げざるが為なるも来春(即ち今春)に至らば其の影響事実となりて市況に及ぶべきや疑いを容れず次に南京米、外国米は至所に輸入せられ相場は概して十三銭五厘位なり内国米は之と大差なく白米一升十四銭位にて取引せらる米穀は凶作にもかかわらず南京米あるが為に大なる騰貴を来さざれども蓄財なき農家は之を購うに由なく余穀ある者亦之を売りて利益を占むる能はざるなり」と論ぜり
八戸の養母殺害詳報
去る九日午前一時八戸町大字荒町三番戸菓子製造業戸主中村常太郎(二十六)なる者養母キク(五十九)を殺害したる末直に突然変死したる旨自ら八戸警察署に届け出たるをもって森署長は巡査を従い死体を臨検せしに形跡死状自殺にあらずしてまさしく他殺の嫌疑あるを以って帰署の上厳しく常太郎を取り調べしに自ら殺害せしに相違なき旨を自白したり今其の由来原因等を探聞するに被害者キクは八戸十三日町中村丈一郎の伯母にして亡養父栄蔵は子なき為幼少の時キクを貰い受け養育し成長の後他より婿をいれ多年連れ添い来たりしに其の婿は四五年前老死せり其の間に子なかりし為是まで養子を貰い受けたること前後七八名の多きに及びしも何れも数ヶ月もしくは一年位に立ち去り長く落ち着き居るものなし聞く所によればキクは大の淫乱嫉妬なる上頗る吝嗇にして養子と言う養子に関係付けぬはなく又養子に嫁を貰えば始終嫉妬の上小言の絶えることなきのみならず三度の食事は豚も食わぬ粗食を与えることの為何れもいたたまれずして立ち去りしものなりと言う九人目に貰い受けられしは当主常太郎にて是は八戸町大字十六日四十六番戸根城弥六郎の三男にして去る三十四年十一月入籍の末三十五年一月中下長苗代村大字日計山本仁太郎よりチエ(二十歳)というを嫁に貰い受けしに間もなく妊娠凶行当時は出産の為親許へ戻り居りたりキクは相応の財産を有し現住居の家屋敷は勿論田畑馬等の外貸し金などもあり時価にて三千余円もあるべく是までは自分の名義なりしも近頃其の幾部を常太郎に分譲したりと凶行の当夜即ち八日常太郎は実家其の他へ遊びに行き午後八九時頃帰宅せしに養母キクはこの節不景気柄他人は何れも稼業に精出してさえ糊口も出来ぬと言う騒ぎなるに独り暢気に遊び歩くとは不心得なりと言いしよりかれこれ口論を初めたる末午後十時頃両人とも室を異にし寝につきたりしに常太郎は之を含みしものか翌九日午前一時前垂れの紐にて熟睡しおりたるキクを無残にも絞殺死に至らしめたるものなりと又一説に常太郎は婿に来たりし時より養母と関係しおりたることは事実にして世間誰知らぬものなき次第なるがキクは多淫の性質とて此れに飽き足らずなおも其の上常に出入りする常太郎の実父とも関係したりとかせぬとかの噂もあるにかかわらず又そのうえ或る伯楽を業とする常番町の某とも馬を所有せる関係より通じ合いその伯楽の乞うが儘金銭を貸与し仕込ませおるを見て憤慨しこれに及びしものならんとも言う是れ噂は真に近からんか殺害の当日即ち九日午後三時青森地方裁判所三つ森予審判事守津検事には書記一名を随え出張直に警察署員並びに種市医師立ち会い臨検せられし結果死体を解剖に付されることとなり十日種市医師は自宅即ち一松堂医院にて解剖せしに正に絞殺に紛れなく且つ姦淫したる形跡もありしという死体は解剖結了後十日午前正十二時親族へ下付せられしを以て十一日午後二時菩提所なる天聖寺へ埋葬せり常太郎は十七八歳の頃八戸二十八日町の酒店美濃屋へ奉公中或る同輩の丁稚と共謀し店の銭箱より売り溜金を窃取したることが発覚し窃盗犯として処分せられたるものにて性質正しからず方なりと
八戸肥料会社の臨時総会
来る十日午後一時より十六日町天聖寺に於いて臨時総会を開く由なるが議事項目は会社を湊村へ移転し及び営業目的を変更するの件、定款三十四条三十五条を削除し併せて役員報酬旅費日当支給法変更の件等なりという尚この程重役会を開き社長の互選を行いたるに長谷川藤次郎氏当選就任せりと
八戸肥料会社
株主の請求に基づき解散の目的を以て去る十五日臨時総会を開きたるが結局長谷川藤次郎氏は一株金一円六十銭宛にて解散派の所有株式二百八十余株を買収しとにかく存続することに決定せりと
三戸郡湊小中野両村合併問題
本紙先に報道せしが尚聞く処によれば現今の状況にてはとても経済整理の見込みなきを以て両村会議員十中七八は合併を承諾したれども他は反対なるため今日迄延引せしが今回両村有志者より本県知事へ愈々両村合併を申請せんとて取り運び中なりと
凶作地僧侶の救済義捐金募集
上北郡三本木村正法寺住職駒ケ嶺定正氏は窮民の惨状を見るに忍びずとてあまねく宗門より救済義捐金募集の計画をなし過般四五の同宗僧侶と十数名の信者と協議の上先ず宗派なる曹洞宗務局と打ち合わせ方々種々協議の必要あるより有志を代表して過般上京宗務局に就いて宗徒義捐募集の計画より其の方法を述べ一大救済団を起こさんとを陳告して同意を求めたるに如何なる考えにや宗務局にては面白からぬ返答なるより駒ケ嶺氏は大いに宗門の冷淡無情にして仏徒として其の道に悖るは言うまでもなくかくの如き有様なるゆえクリスト教等の下風に置かるる醜態を現すなりとて大いに憤慨する所ありこの上は少数微弱の団体なりとは言え大いに天下の血に富む宗徒に訴えて一には窮乏に苦しむ民衆の困厄を救い一には宗門の堕落を矯正せしめんとて帰来益々救済の方法等苦考する所あり先ず手近の方法として規約を設け同宗応分の義捐を求めん
八戸より 凶作の影響にて市況は平年と甚だしき相違あるは言うまでもなき事に候えども昨今天気続きにて市内三、八、十三、十八、二十三、二十八日町等の六市日市日には随分在方の人出も多くなり市況も多少立ち回り候〇生魚は何分在方に捌けず魚商は割合に商いふるわざるを嘆じおり候これも在方不作の為に候〇藁製品は依然仲買商の倉庫に堆積の有り様にて目下の処販路を広めて輸出を急がざれば今後在方よりの荷回りを買い入れ能わざる有り様の由なるが昨今販路も漸く拡張に至るの気勢ある由に候〇小学校教科書は町方へも又在方へも平年と変わりなく売りさばけおり凶作の影響は別に学校生徒の休校者を出すまでに至らざる様子に御座候〇付近村落の農家にては慥かに日用品の購買力を滅したる傾向あり市況は如何とも思わしからぬ有様なりとて雑貨商等は殊の外コボシおれる由にて御座候
八戸呉服組合商春季運動会
この運動会は八戸町呉服木綿商三十余戸の組合より成れるものにして昨年より毎年春秋二季に各組合員を以って挙行の事に規約なり昨年も盛んに行なわれたるが本年も春季運動会を四月二十六日旧城跡なる長者山において挙行せられたり○午前八時組合三十余戸の店員五十余名は長横町なる同組合事務所へ集合するや五六の役員は何れも洋服姿にて夫々の世話指示に尽力し午前八時半を報ずるや一隊五十余名は行列を組み会旗その他数流の旗を翳して長者山に向かいて同会運動会歌を合唱しつつ行進せり、一隊の声調律然として奉公の義を唱い人の感懐を惹けるものあり長者山に達すれば幔幕万国旗等会場の装飾整いて遺憾無く会員は設けの席に暫くの休憩やがて長者山東南方旧馬場に於いて運動番組に入る吉田藤井等の同会幹部専ら運動上の指揮監督をなし泉山、西村の幹事ら又来賓その他の応接に当たり賞品係り等も手落ちなくその他十四五名の世話人もありて万事の準備行き届いて見えたり
運動番組は三十五にして 一新打球、二同、三双龍争球、四暗算、六売り上げ算、七自転車乗り用商務、九商品産地聞き取り、十商用地理、十七反物包装等 中略、午後六時運動終て賞品の授与あり無数の来観者は散々として一日の歓を尽くし家に帰る五十余名の呉服木綿組合商店の健児等隊を組み同組合事務所へ帰る疲労の状なく勇健掬うが如きものありというべし後略
八戸呉服商人大運動会余報
係員関野市十郎、藤井與惣治(賞品)泉山太三郎、西村嘉助、山田常次郎、伊藤藤兵衛、村井清八(審査)吉田三郎兵衛、永島富次郎、林市太郎(演技)内藤豊五郎、村井新八(記録)村田嘉十郎(応接)西村伝次郎(場内取締)
受賞者 暗算一等石の鉢幸蔵(能竹店)藤井銀三(西嘉店)自転車商務関野嘉七(甲文店)盲測量村井定之助 反物包及び商用地理競争工藤武雄
自転車用達高橋福次郎(泉山店)後略 読者諸兄の先祖の名あるやも。詳細は東奥日報検索のこと
八戸の博徒 八戸にて博徒渡世して有名なる二十三日町の吉田忠吉、金田文助、組町中村鉄之助の三名は日中しかも三十日の勘定なるにも拘わらず公然前記の中村方にて一六勝負の最中斉藤刑事石橋巡査の両名に踏み込まれ引致せらる
角袖の密行 (カクソデを下から読んでデカの語源)弘前市内みてはこの程出火又は放火等甚だ物騒を極めるより各町内にてはこの際大に警戒を加え夜回り等を為して怠りなきが警察にても過日より角袖巡査を派し尚火の用心のみならず密淫売の横行をも警戒する都合にて頻繁に巡回しおれるが市民は之を知らずに往々街路に小便又は放吟等する者ありとこれらを悉く違刑罪に問う不心得の者注意あれ
凶作の影響
凶作の影響に就いては佐間、鈴木の両視察員は先ず東北各県県会は凶作を名として県費の縮小を行いたるため行政機関は甚だしく停滞したるにより小学生父兄は中飯の不如意と授業料筆紙料等の費用を厭いて子弟を出校せしめざるより東北地方中すでに数校の閉鎖学校を見るに至れると役場における徴税の容易ならざると等に及び更に市況にありては大略本県弘前市は付近村落は割合被害少なかりし為市況に大変化なかりしと鯵ヶ沢、木造等は非常の不景気にして平年田地一反歩に担保として八十円位の貸借ありたるものが今年二十円の貸借も容易ならず又その売買は普通百二十円位なりしものが今五十円内外に下落したると各村落より北海道出稼ぎ人ぞくぞくなるも給料の減額なりしと青森市は流石港湾だけに格別の変化なきと七戸、八戸、三戸の如き市況非常に寂寥なると、盛岡市は格別の変化なく花巻は非常の不景気の和賀郡十沢、遠野、黒澤尻等は格別の不景気なく一関より宮城県に入りてやや変化なき事等の挙げ最後に「これを発するに未だ市況に大なる影響を及ぼさざるは前述の如く未だ多数の農家が食料欠乏を告げざるが為なるも来春(即ち今春)に至らば其の影響事実となりて市況に及ぶべきや疑いを容れず次に南京米、外国米は至所に輸入せられ相場は概して十三銭五厘位なり内国米は之と大差なく白米一升十四銭位にて取引せらる米穀は凶作にもかかわらず南京米あるが為に大なる騰貴を来さざれども蓄財なき農家は之を購うに由なく余穀ある者亦之を売りて利益を占むる能はざるなり」と論ぜり
八戸の養母殺害詳報
去る九日午前一時八戸町大字荒町三番戸菓子製造業戸主中村常太郎(二十六)なる者養母キク(五十九)を殺害したる末直に突然変死したる旨自ら八戸警察署に届け出たるをもって森署長は巡査を従い死体を臨検せしに形跡死状自殺にあらずしてまさしく他殺の嫌疑あるを以って帰署の上厳しく常太郎を取り調べしに自ら殺害せしに相違なき旨を自白したり今其の由来原因等を探聞するに被害者キクは八戸十三日町中村丈一郎の伯母にして亡養父栄蔵は子なき為幼少の時キクを貰い受け養育し成長の後他より婿をいれ多年連れ添い来たりしに其の婿は四五年前老死せり其の間に子なかりし為是まで養子を貰い受けたること前後七八名の多きに及びしも何れも数ヶ月もしくは一年位に立ち去り長く落ち着き居るものなし聞く所によればキクは大の淫乱嫉妬なる上頗る吝嗇にして養子と言う養子に関係付けぬはなく又養子に嫁を貰えば始終嫉妬の上小言の絶えることなきのみならず三度の食事は豚も食わぬ粗食を与えることの為何れもいたたまれずして立ち去りしものなりと言う九人目に貰い受けられしは当主常太郎にて是は八戸町大字十六日四十六番戸根城弥六郎の三男にして去る三十四年十一月入籍の末三十五年一月中下長苗代村大字日計山本仁太郎よりチエ(二十歳)というを嫁に貰い受けしに間もなく妊娠凶行当時は出産の為親許へ戻り居りたりキクは相応の財産を有し現住居の家屋敷は勿論田畑馬等の外貸し金などもあり時価にて三千余円もあるべく是までは自分の名義なりしも近頃其の幾部を常太郎に分譲したりと凶行の当夜即ち八日常太郎は実家其の他へ遊びに行き午後八九時頃帰宅せしに養母キクはこの節不景気柄他人は何れも稼業に精出してさえ糊口も出来ぬと言う騒ぎなるに独り暢気に遊び歩くとは不心得なりと言いしよりかれこれ口論を初めたる末午後十時頃両人とも室を異にし寝につきたりしに常太郎は之を含みしものか翌九日午前一時前垂れの紐にて熟睡しおりたるキクを無残にも絞殺死に至らしめたるものなりと又一説に常太郎は婿に来たりし時より養母と関係しおりたることは事実にして世間誰知らぬものなき次第なるがキクは多淫の性質とて此れに飽き足らずなおも其の上常に出入りする常太郎の実父とも関係したりとかせぬとかの噂もあるにかかわらず又そのうえ或る伯楽を業とする常番町の某とも馬を所有せる関係より通じ合いその伯楽の乞うが儘金銭を貸与し仕込ませおるを見て憤慨しこれに及びしものならんとも言う是れ噂は真に近からんか殺害の当日即ち九日午後三時青森地方裁判所三つ森予審判事守津検事には書記一名を随え出張直に警察署員並びに種市医師立ち会い臨検せられし結果死体を解剖に付されることとなり十日種市医師は自宅即ち一松堂医院にて解剖せしに正に絞殺に紛れなく且つ姦淫したる形跡もありしという死体は解剖結了後十日午前正十二時親族へ下付せられしを以て十一日午後二時菩提所なる天聖寺へ埋葬せり常太郎は十七八歳の頃八戸二十八日町の酒店美濃屋へ奉公中或る同輩の丁稚と共謀し店の銭箱より売り溜金を窃取したることが発覚し窃盗犯として処分せられたるものにて性質正しからず方なりと
八戸肥料会社の臨時総会
来る十日午後一時より十六日町天聖寺に於いて臨時総会を開く由なるが議事項目は会社を湊村へ移転し及び営業目的を変更するの件、定款三十四条三十五条を削除し併せて役員報酬旅費日当支給法変更の件等なりという尚この程重役会を開き社長の互選を行いたるに長谷川藤次郎氏当選就任せりと
八戸肥料会社
株主の請求に基づき解散の目的を以て去る十五日臨時総会を開きたるが結局長谷川藤次郎氏は一株金一円六十銭宛にて解散派の所有株式二百八十余株を買収しとにかく存続することに決定せりと
三戸郡湊小中野両村合併問題
本紙先に報道せしが尚聞く処によれば現今の状況にてはとても経済整理の見込みなきを以て両村会議員十中七八は合併を承諾したれども他は反対なるため今日迄延引せしが今回両村有志者より本県知事へ愈々両村合併を申請せんとて取り運び中なりと
凶作地僧侶の救済義捐金募集
上北郡三本木村正法寺住職駒ケ嶺定正氏は窮民の惨状を見るに忍びずとてあまねく宗門より救済義捐金募集の計画をなし過般四五の同宗僧侶と十数名の信者と協議の上先ず宗派なる曹洞宗務局と打ち合わせ方々種々協議の必要あるより有志を代表して過般上京宗務局に就いて宗徒義捐募集の計画より其の方法を述べ一大救済団を起こさんとを陳告して同意を求めたるに如何なる考えにや宗務局にては面白からぬ返答なるより駒ケ嶺氏は大いに宗門の冷淡無情にして仏徒として其の道に悖るは言うまでもなくかくの如き有様なるゆえクリスト教等の下風に置かるる醜態を現すなりとて大いに憤慨する所ありこの上は少数微弱の団体なりとは言え大いに天下の血に富む宗徒に訴えて一には窮乏に苦しむ民衆の困厄を救い一には宗門の堕落を矯正せしめんとて帰来益々救済の方法等苦考する所あり先ず手近の方法として規約を設け同宗応分の義捐を求めん
八戸より 凶作の影響にて市況は平年と甚だしき相違あるは言うまでもなき事に候えども昨今天気続きにて市内三、八、十三、十八、二十三、二十八日町等の六市日市日には随分在方の人出も多くなり市況も多少立ち回り候〇生魚は何分在方に捌けず魚商は割合に商いふるわざるを嘆じおり候これも在方不作の為に候〇藁製品は依然仲買商の倉庫に堆積の有り様にて目下の処販路を広めて輸出を急がざれば今後在方よりの荷回りを買い入れ能わざる有り様の由なるが昨今販路も漸く拡張に至るの気勢ある由に候〇小学校教科書は町方へも又在方へも平年と変わりなく売りさばけおり凶作の影響は別に学校生徒の休校者を出すまでに至らざる様子に御座候〇付近村落の農家にては慥かに日用品の購買力を滅したる傾向あり市況は如何とも思わしからぬ有様なりとて雑貨商等は殊の外コボシおれる由にて御座候
八戸呉服組合商春季運動会
この運動会は八戸町呉服木綿商三十余戸の組合より成れるものにして昨年より毎年春秋二季に各組合員を以って挙行の事に規約なり昨年も盛んに行なわれたるが本年も春季運動会を四月二十六日旧城跡なる長者山において挙行せられたり○午前八時組合三十余戸の店員五十余名は長横町なる同組合事務所へ集合するや五六の役員は何れも洋服姿にて夫々の世話指示に尽力し午前八時半を報ずるや一隊五十余名は行列を組み会旗その他数流の旗を翳して長者山に向かいて同会運動会歌を合唱しつつ行進せり、一隊の声調律然として奉公の義を唱い人の感懐を惹けるものあり長者山に達すれば幔幕万国旗等会場の装飾整いて遺憾無く会員は設けの席に暫くの休憩やがて長者山東南方旧馬場に於いて運動番組に入る吉田藤井等の同会幹部専ら運動上の指揮監督をなし泉山、西村の幹事ら又来賓その他の応接に当たり賞品係り等も手落ちなくその他十四五名の世話人もありて万事の準備行き届いて見えたり
運動番組は三十五にして 一新打球、二同、三双龍争球、四暗算、六売り上げ算、七自転車乗り用商務、九商品産地聞き取り、十商用地理、十七反物包装等 中略、午後六時運動終て賞品の授与あり無数の来観者は散々として一日の歓を尽くし家に帰る五十余名の呉服木綿組合商店の健児等隊を組み同組合事務所へ帰る疲労の状なく勇健掬うが如きものありというべし後略
八戸呉服商人大運動会余報
係員関野市十郎、藤井與惣治(賞品)泉山太三郎、西村嘉助、山田常次郎、伊藤藤兵衛、村井清八(審査)吉田三郎兵衛、永島富次郎、林市太郎(演技)内藤豊五郎、村井新八(記録)村田嘉十郎(応接)西村伝次郎(場内取締)
受賞者 暗算一等石の鉢幸蔵(能竹店)藤井銀三(西嘉店)自転車商務関野嘉七(甲文店)盲測量村井定之助 反物包及び商用地理競争工藤武雄
自転車用達高橋福次郎(泉山店)後略 読者諸兄の先祖の名あるやも。詳細は東奥日報検索のこと
八戸の博徒 八戸にて博徒渡世して有名なる二十三日町の吉田忠吉、金田文助、組町中村鉄之助の三名は日中しかも三十日の勘定なるにも拘わらず公然前記の中村方にて一六勝負の最中斉藤刑事石橋巡査の両名に踏み込まれ引致せらる
角袖の密行 (カクソデを下から読んでデカの語源)弘前市内みてはこの程出火又は放火等甚だ物騒を極めるより各町内にてはこの際大に警戒を加え夜回り等を為して怠りなきが警察にても過日より角袖巡査を派し尚火の用心のみならず密淫売の横行をも警戒する都合にて頻繁に巡回しおれるが市民は之を知らずに往々街路に小便又は放吟等する者ありとこれらを悉く違刑罪に問う不心得の者注意あれ
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