2007年9月1日土曜日

おいらんが常現寺に来た。高山和尚は小中野を隆盛にしたいと努力の人

江戸の昔、新開地だったところに人々が大勢入りこんだ。新都市の新構築だけに職人が必要となった。江戸の地は家康を大阪から遠ざけようと、秀吉が江戸は防備に最適とそそのかした。家康も猿から去った方が何かにつけよいと江戸を開拓した。
江戸は太田道潅が興した地、築城・兵馬の法に長じ、学問・文事を好んだ。雨宿りに百姓家に入り込み、雨具であるところの蓑(みの)を貸してくれるようにと頼むと百姓家の女房が山吹の花を盆に載せて出す。いぶかしむ道潅に、これは古歌の「七重八重、花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」で実と蓑をかけて、ありませんと断っていると家臣が教える。道潅は歌道に暗かったと、それ以後精進し、歌人と呼ばれるほどになった。当時の江戸は武蔵野の一隅でひなびたところ。ここを開拓し、駿河台をひき崩して江戸湾を埋めた。駿河は家康の領地の名だ。大名屋敷が九割、町人は残る一割に住む、住宅事情も悪く、町人は長屋住まい。男が入りこむが、女日照り。それを解消しようと女郎が出る。それも方々に居てはまずいと日本橋の近くの吉原に限った。火事で吉原が新吉原となり浅草の先に移転。地域を限ったことから廓と呼ばれる。
女は方々から寄せ集め、おらか、おらは市原の出だよう、じゃ興ざめになると、ありんす言葉を教え込む。だからここ吉原をありんす国と呼ぶ不思議な土地となる。何、早い話が男のディズニーランドだよ。
そこで女を銭出して買うんだが、女が部屋に来ない。これを振られたといって、気にもしないように、その振られたことで怒るは野暮だと、ありんす国の経営者が巷に吹聴するな。
だから、銭払って女買いに来て無様な態でも文句が言えない。「お客さん、おいらんがこなくて残念無念、でも怒っちゃ野暮ですぜ」なんてギュウ太郎っていう女郎屋のあにいに言われるてえと、仕方なしに納得する。
これは女郎屋の経営者が頭がいい。どうしたって女の数がすくない。まわしって、女を部屋から部屋に回す、女郎にも格があって、最上級がおいらん、次が格子、下級は端の方に座るから端(はした)、その端しか買えない男に、まさか端の色黒女とも言えないからおいらんが来ない、今に参りますって、おいらんおいらんと持ち上げる。
銭出す方だって、大名がおしのびでおいらんと寝に来る、そのおいらんと同じように端女を呼んでくれるんだから、気分の悪いはずもないが、女郎だってあっちの部屋、こっちの部屋じゃ体が幾つあっても足らなくなるから、どこかの部屋で寝込むナ。
それを銭も大して持たない間抜けが、いつ来るかいつ来るかと気を揉むわけだ。
ここらが落語に出てくる訳、落語家は世相のアラで飯を食いと講釈師が言うと落語家も、講釈師、見てきたような嘘を言いと切り返す。
吉原は大層隆盛だった。上図のように東京ドームより大きい。そこに女がひしめいていたんだから面白いディズニーランド。そこの仲の町をおいらんが道中をしてみせる。なんのことはないパレード。下級女郎よりたまにはこんなピカピカもいると見せびらかすだけのはなし。それが東京浅草で観光として今も見せられている。そのおいらん役が八戸出身の女性。それを常現寺の和尚が、江戸の文化を八戸市民に見せようと企む。入場料の一部を小中野の遊郭だった新むつ旅館の維持費にあてようと考えた。そして大成功、多くの客があつまった。東京からおいらん道中の役者が勢ぞろい。新むつ旅館への寄付も五十万円を超えた。高山和尚は人生の軽みを尊ぶ。僧侶が偉そうなことを言えばどうしても坊主臭さが抜けないと、あえて飄逸を尊ぶ。自身の小遣いを毎年気持ちよいぐらいに小中野発展の為に撒く。もうどうしようもなく荒廃した町を隆盛の五十年前にしたいと。秋空の高さを見て涙し、こんなに空は高かったかと、小中野の五十年前、それほど遠くになりました。