2007年9月1日土曜日

八戸自動車史 完結

八戸市がバス事業買い取りで岩淵氏から訴えられた事件を奥南新報から掲載
バスにからむ岩淵氏の訴訟
工藤前保安課長も調べらる
八戸市を相手に岩淵栄助氏が提起していた市営バスに絡んだ訴訟の路線権利確認訴訟第二回口頭弁論は二十二日午前十一時から猪瀬裁判長、熊谷、中園両判事陪席、原告側気仙、被告側大野両弁護士担当のもとに開廷、原告側申請の上杉修氏、藤波市庶務課員、被告側申請の工藤前保安課長、現警務課長、藤田市議、吉田前八戸自動車営業組合長等の証人調べに入った。
上杉氏 市に路線権利譲渡するに三万二千五百円で譲渡したが配当額は路線によってなされるため従って岩淵氏のも八戸鮫間の配当であって八戸湊間は加わっていない
藤波氏 八戸鮫間のみで八戸湊間は必要ないというので契約書に記入しなかっただけである
といずれも岩淵氏に有利な答弁をなし工藤、蒔田、吉田の三氏もそれぞれ調べ同四十分証人調べを終了、原告側では次回証人として宮崎、蒔田、吉田の三氏を申請、被告側は神田市長と小笠原八十美氏を申請したが合議の結果証人申請は却下され結審となった。
昭和九年七月二十八日付け、奥南新報
バス問題和解
三千円で自動車買い
宮城控訴院の第二審で係争中であった市営バスに絡む市内八日町岩淵栄助対被告八戸市の路線確認訴訟の調停に小笠原県議が乗り出して二十三日の晩鮫の石田屋に三者が膝を交えて折衝を重ねた結果、市が岩淵氏所有の自動車一台を三千円で購入する事、岩淵は市内における自動車営業権を全部放棄する事、訴訟費用は各自負担する事で急転直下和解の成立をみた。
県議の小笠原はバス事業で乗合馬車を糾合し、敵対する先鋒、本多を抱きこみ十和田の新聞社主に抜擢し骨抜きにする。小笠原は策士だった。
第二次世界大戦による日本経済界、産業界の疲弊は交通の面にも著しくあらわれていた。元来は戦時体制の政策によって行なわれた企業統合だったはずの陸運界も戦後しばらくの間は容易に立ち直れなかった。 やがて三年を経、四年を遇ぎる頃には、最も素早く立ち上ったのは自動車業界であったのは言をまたない。八戸市の自動車事業も再び勢いをもりかえし、みるみる戦前にまさる隆盛を示すに至る。
○統合解体はじまる
 かつての統合体は昭和二十四年から昭和二十五年にかけて陸続と解体する。先駈をなしたのはトラック業者で、まず、昭和二十二年六月、南部貨物自動車株式会社は、第一次統合当時の復元を帰して六ブロックにわけ、それぞれ営業所として発足させ、独立採算の原則をとることとなった。
 次いで昭和二十四年二月、戦時企業解体特別処置法の施行によって、六ブロックの営業所をそれぞれ一、三戸トラック株式会社二、八戸トラック株式会社三、三八五貨物自動車株式会社四、中央トラック株式会社五、漁港トラック株式社六、五戸トラック株式会社として申請したが、結局、一、二、三の三社に営業免許がおり、四、五、六の三社は従前通り南部貨物自動車株式会社として存続するに至った。
 一方、タクシー事業は昭和二十五年に至って、八戸自動車株式会社から藤金タクシーがまず分離独立し、藤金タクシー所属分を除いてそのまま存続することになった。このころ、都タクシー、大洋タクシーも発足している。なお市営バスは、昭和二十四年、営業を返還されるや、旧に復する態勢となる。
○新規業者の台頭
 戦争終了直後の混乱期を乗り切った日本の産業経済は驚くべき復興の足跡をしめした。人間と貨物の輸送は鉄道の独り舞台ではなくなり、自動車交通が大きくクローズアップされるや、道路の整備と相まって自動車事業はまたたくまに発展した。市営バスの路線は拡大され、本数もいちじるしく増加し、さらに南部鉄道バスの乗り入れをもってしても、なお利用者の増加に及ばぬ始末であった。昭和二十七年には県南バスも発足、翌々二十九年には三八五交通株式会社と発展、また十和田電鉄バスも乗り入れ、現在は、八戸市交通部、    南部鉄道株式会社、三八五交通株式会社、十和田電鉄株式会社の四社を数えている。
 タクシー業者は、ことに業者の数が増し、都タクシーが三八五タクシーに発展、前記の大洋、藤金に加えてポスト、光、文化と、昭和二十七、八年の二年間に新規業者が営業を開始し、やや乱立気味であった。基本料金を八○円に下げるなど一時的な苦境もあったが、漸時利用者の増加に伴って比較的順調な営業をなしえるようになっている。なお前述の八戸自動車株式会社は、昭和三十年に八戸タクシーと改称している。
 トラック業者は、年次ややおくればせながらも、八戸の新工業都市の青写真とともに北斗、丸元、相互、八戸港運輸、島谷部乳業、湊合同、八戸運送、八戸相互運送等、とくに昭和三十年以降、急激な増加を示している。
あとがき 上杉修
 「八戸市自動車研究会」は今度「八戸地方の自動車史」を編纂した事は非常に喜ばしい事であります。数年前から、よりより話は出て居ったが、御互に多忙の身の方々ばかりである関係と、自動車創業時代の方で不幸にも亡くなられた方も多いので、当時の話及び資料にも乏しく、編纂の主軸となった、泉山信一氏の苦労も並大抵の苦労ではなかった事と思われます。然しなんと言っても大綱が出来上った事は喜ばしい、正しいとか、完全だとは云われないが、一本の柱が出来れば、それによって附記も出来れば脱漏も補う事が出来るから八戸の自動車界のため良い事業をやって下さって非常に有難い事だと思って居ります。「ああよい事をして呉れた」と肩の荷がおりたような感じをしたのは筆者の上杉であります。「私が警視庁の甲種免許証を取って八戸に帰り、世話する人があって盛岡の夕顔瀬多賀で使用して居った、フオード自動車リムジン型(箱型)中古車を買い、自動車運輸営業願を青森県庁に出願して許可になり営業したのが八戸タクシー界の始まりで「青五号」であった。小中野浦町、藤金様の店頭を借り電話「二六番」を使用させて戴いた。一ケ年後には新車一台買う位貯った。何にせ所得税もなく自動車は一ケ年一台につき幾らと云う「営業税」を納めるだけの時代だから割に成績がよかった。自動車に来る客は一時間位は待っても呉れたし、又持たせられもした時代だから楽なものであった。其の後急に貸切自動車を出願する人が出来て、藤金様を始めとして続々許可になった、木炭や野菜を積むトラックが乗り入れて来て八戸でも許可を取る人がおり、其の後に乗り合い自動車組合が組織されて八戸鮫間が運転されたのです。順序が不同になりますが、八戸に自動車が来る前の事を考えて見ますと、何にせ、八戸と云う所は海を利用し汽船で沢山の荷物が陸上げされたが、船では日数がかかるので困った様でした。日本鉄道株式会社が鉄道を八戸へ乗り入れに地元の人が協力しなかったため明治二十四年八戸を通らずに尻内から青森へと敷かれてしまった。東京からの物資は尻内駅止りで、大八車、駄馬や二輪馬車で八戸へ運ばれ、後で四輪馬車で持込まれたが、その不便さを感じ文化に後れると云う事を、まざまざと見せつけられたのです。それで八戸町や小中野村の有志が運動して明治二十六年に尻内訳より分岐して八戸支線が湊駅(今の貨物駅)迄で延びた事になります。駅からの荷上げのため荷車や、荷馬車がたくさん入り又車大工を業とする人も出来たものです。あの店には荷車が参台もあると云うたものです。又人を乗せる人力車が沢山買われ、汽車の到着ごとに駅前に沢山並んだものでした。当時は金輪のため、ガラガラと音をたて、ゴム輪になり、空気入のタイヤーに変わり各町内の辻々に車宿があったものです。
客馬車(ガタ馬車)が長横町から左比代の馬車屋(停留場)迄で相当台数走っておった。御者がラツパを吹きながら馬の手綱を持ち、馬丁が馬の先にたって走った時代もあった。高等馬車が入って来たのは相当後の事になります。私が自動車を始めた頃は馬車馬が驚いて困った。又、馬車が二台並んで道路を塞ぎノロノロ走るものだから其の後について八戸町から小中野村迄行った事もある。今は其の人力車もガタ馬車も高等馬車も姿を消してしまった。私のハイヤー営業も古いと云うだけで良い種も蒔かず、何等意義ある事も出来ず功績も残って居りません。やはり馬車同様消えて無くなる運命の様です。私の自動車業に御手伝下さった方々は沢山あるが、現在地元に居る方では、自動車界の大先輩で浮木喜四郎氏、八戸マツダ社長二本柳栄吉氏等で、大洋タクシー社長須藤清氏は子飼の弟子であると云う位の所です。
ハイヤーの外に市内の乗合もやって居ったが、神田市長時代、細長い八戸市を縮めたい、との話で昭和七年乗合自動車の権利を八戸市に譲渡し、同時にハイヤーも廃業し昭和八年に番町に公衆浴場を開業して自動車界から足を洗った事になるが、然し種々の縁故でいまもって青森マツダ自動車株式会社監査役、藤金自動車株式会社専務取締役と云う名誉職が残って居るから未だ生きて居る事になるかもしれない。雲助(駕罷かき・運転手)が三助(湯屋)に早変りしたが今は八戸浴場組合長、亀の湯主人で業界からは達ざかってしまった。自動車史を作って戴いて、有難くて有難くて、八戸の自動車界を振り返って見る積りであったが、自分の事のみ述べて手前味噌を書いてしまった。此れで筆をおきます。